国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from West Java 2002年9月19日刊行

阿部健一

● 原点に返ってみるか・・・

しょっちゅう海外に出ていると、なにしにいっているのか不思議に思うひとがいるらしい。調査にきまっていると言いたいけど、最近は、会議とか会議の準備とかも多い。でも、今回のインドネシアは、正真正銘の調査。

調査するには、手続きが要る。インドネシアはとくにややこしい。調査の半年ほど前に、インドネシア科学院(LIPI)に許可申請をする。どこで、なにを、何の目的で調査するのか、研究計画書がまず必要。それ以外にも、推薦状とか身元引受人からの手紙とか、健康診断書とかいろいろ書類を整えなければならない。

申請書は、LIPIと警察、内務省の3者会議で検討され、調査がインドネシアにとって「ややこい」ものでないか、申請者が過去にインドネシアの国について批判的なことを書いていないか、などが調べられる(と思う)。問題なければ、ようやく調査許可が下りて、大使館に行き今度はビザを申請。インドネシアについてからも、けっこう忙しい。まず窓口になるLIPIに行く。書類を書かされ、警察への紹介状を書いてもらう。警察では、通行許可証を手に入れる。お役所だから時間がかかる。「係りのものがいないから明日こい」といわれる。翌日行っても、同じことをいわれるので、待合室に居残り、無言のプレッシャーをかけるようにする。すると、どういうはずみか、一時間ほどで書類ができあがる。

再びLIPIに戻って、通行許可証をもらったことを報告する。そうしたら、内務省あての紹介状がもらえる。内務省では、調査にゆく「州」あてに手紙を書いてもらう。今回の場合、西ジャワ州であり、福岡正太さんと一緒だ。本当は、中カリマンタン州で調査をする予定だった。大きな開発プロジェクトが中座したままのところで、是非とも「その後」を見てみたかった。けれど、移民者と現地の人の間で、多数の死者のでる、かなり激しい抗争があったところだし、まだ外国人が調査できる保証はない。「どうだ、阿部。今回は、別のところで調査したほうがいいのでないか」と、この研究プロジェクト代表の杉島敬志さんに脅されて(「諭されて」かな)、あきらめた。プロジェクトの皆で申請するから、僕の調査地が原因で許可がおりなければ、他のメンバーに迷惑がかかる。西ジャワ州では、ずいぶん昔、1984年に調査したことがあり、その村を再訪しようと思った。

とくに目的があってのことではない。その村で調査をして、もう20年近く経つので、なんとなく行ってみようか、と思った。

目的意識の低さは行動に直結する。理由を作っては、ちんたらしているうちに、福岡さんは、さっさとお役所周りを終え、西ジャワ州の州都バンドンに行ってしまった。

僕も、ようやくバンドンへ。福岡さんは、もうバリバリ調査をはじめている。こちらはこれから、ここでお役所参り。まず州政府へ。担当の部局を探し当て、部屋に入る。皆思いっきりくつろいでいる。お役所にテレビがあり、勤務時間中でもつけっ放しなのは、もう驚かない。驚いたのは、どのくらいかかる、と聞いたら、10分でできる、といわれたから。本当かな。

担当の女性から、必要事項を記入するように、と書類を渡される。生年月日とか、住所とかはまだわかるけど、身長・体重は必要なのと思う。「宗教」の項には、「佛教」とちゃんと書いた。以前「無し」と書いて、犬猫じゃあるまいし、と、つき返されたことがある。「体型」の項ではとまどう。「太っている」よりも「腹が出ている」の方が正確だろうと率直に思うが、インドネシア語の単語が出てこない。絵でも書こうか、と思っていた矢先に、しびれを切らした担当者が、書類をとりあげ、勝手にどんどん記入し始めた。「肌の色」の項には「白」と書いたので、「黄色」だと抗議。でも、日本人は白と決まってる、と言い張られ却下。「髪のタイプ」は「チリチリ」。それじゃあパプア人だ、との抗議には、「緩めのカール」に変更。「趣味は?」との質問には「調査」と答えて、尊敬だか同情だかわからない視線をうける。尊敬じゃあなかったね。最後の「外見上の特徴」に何を書かれるか一番気になったけど、「メガネをかけている」とだけだった。

本当に10分で書類ができた。けど、調査地に行けるのはまだまだ。これから、県のお役所に行き、そこでまた紹介状をもらい、さらに郡の役所へ。そして村へ。

僕が調査した村は、西ジャワ州スカブミ県の幹線道路から狭い自動車道を10キロほど奥へ入ったところにある。谷を隔てた反対側に、村といっても20軒たらずの集落がある。山道をくだり、谷川にかかる吊橋を渡って、再び山道を上がる。

調査といっても、まだ学生だった頃、予行演習のつもりで2週間ほど滞在しただけだ。言葉もろくにできなかったはずである。それでも、当時のフィールドノートには、気恥ずかしくなる感想もあるけど、思わぬ興味深いことが記録されている。生態学を志していたころだから、森林や土地利用に関してとくに詳しい。

スハルトの開発体制の崩壊後、インドネシアでは、中央集権的な体制が、地方自治を重視したものに移行しつつある。今回のプロジェクトの目的は、この移行期にある地方の変化を、メンバーそれぞれが専門とする地域と分野で、明らかにしてゆくことである。僕の場合、土地利用あるいは景観の変化ということになるだろう。

遠望するかぎり、集落やその周りの景観に大きな変化はない。まったく変っていないように見える。違っているのは、家周りの木々が大きくなり、特徴的な赤茶色の屋根瓦が目立たなくなっていることくらいか。思っていた以上に、景観は変化していない。

経済危機で「困ったのはジャカルタの金持ちだけ。貧乏人は貧乏なままで変わりなし。キャッサバ食べて、子ども育てて、死ぬだけだよ」と茶店のおばさんは洗い物をしながら答えた。

前の調査の時とどこが変わっているか。その前の調査の印象はうすい。だいたいなぜこの村を調査地に選んだのかも覚えていない。妙に細部の記憶だけが鮮明である。泊まっていた家の小学生の男の子どもが、足が悪くて、家の中で猫とばかり遊んでいたこと。野菜が食べたいといったら、おばあちゃんが毎回すまなそうにキャッサバの葉っぱをゆでてくれたこと。だいたい僕のこと覚えてくれているだろうか。

調査村を目前になぜか躊躇している。いつまでも茶店でコーヒーを飲んでるわけにもいかない。原点に返るか、と自分に言い聞かせて腰をあげたら、谷から吹きあげる風が心地よかった。

阿部健一

◆参考サイト
外務省ホームページ:インドネシア共和国
国際協力事業団ホームページ:インドネシア共和国