国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Paris  2004年6月18日刊行
山中由里子

● パリのアラビアンナイト国際会議

シャルル・ド・ゴール空港の新ターミナルの屋根が崩壊した数日後、頭上をたびたび見上げつつ、壁のきしむ音に耳をすましつつ、足早に空港を脱出し、パリ入りした。5月25-29日に開かれた国際会議「共有される千夜一夜物語」に参加・発表するためであった。5月は、パリが最も美しい季節。学会を途中でさぼって、カフェでビールでも飲んで、路上ミュージシャンの演奏でも愉しんでいたかったところなのだが、結局5日間、朝から夕まで、どっぷりとアラビアンナイトの世界につかってしまった。

今年はアントワーヌ・ガランというフランスの東洋学者によって、初めてアラビアンナイトがアラビア語から翻訳されヨーロッパに紹介されてから、ちょうど300年目になる。この会議は、今年をアラビアンナイト翻訳記念年に認定したユネスコの後援のもと、東洋言語文化学校(INALCO)の主催で開かれた。フランス・ドイツ・オランダ・イタリア・イギリス・アメリカなどの欧米諸国から、またモロッコ、テュニジア、エジプト、レバノンなどの中東地域からのアラビアンナイト研究者が一堂に会した。「極東」からの参加者は、東京外国語大学AA研の小田淳一氏、民博の西尾哲夫氏、パリで就学中の森千香子氏、そして私の日本人4人で、民博を発信地とした日本におけるアラビアンナイト研究の活発さを世界にアピールする絶好の機会であった。

毎日会場が違っていたので、パリの様々な研究機関の個性を味わうことができた。初日はINALCOのサロンの一つで行われた。主催機関でありながら、建物の中に会場への案内の張り紙一つ出ていないという秘密主義(?)ぶりには、みな当惑していた。私が発表した2日目は、ソルボンヌ大学の、通常博士論文の公開審査などが行われる、学究的気分にひたれる広間が会場であった。3日目は、カルチエ・ラタンの雰囲気とはまた違う、16区のサンジャー=ド・ポリニヤック財団(会議の協賛団体)の豪奢な邸宅が提供された。そこでのレセプション・ランチの前菜はフォア・グラ、主菜はオマールえび!さらには財団の会長とそのご友人の侯爵夫人と同じテーブルを囲むという光栄まで有した。デザートの後は、ダイニングルームの扉が外へ開け放たれ、陽光降り注ぐ中庭でのコーヒー・タイム。これほど優雅な昼食を体験できる学会は、私の研究者人生を通じてめったにないだろうと、「やっぱり来てよかった」と実感した。

4日目はコレージュ・ド・フランスの改修されて間もないモダンな地下の講堂。5日目は、パリ市街の東の果てにある新しい国立図書館の東棟の小講堂。ミッテラン元大統領の最後のモニュメントであるが、設立当時より使い勝手が最悪であるとの不評をかっている。最上階の小部屋での立食ランチの後エレベーターを降りると、我々も見事に迷ってしまった。怪人が出そうな地下の通路をぐるぐると巡った末にようやく会場に戻ることができた。

この最終日の最後に、漫画家のモンキー・パンチ氏とおおすみ正秋監督が、民博でこの秋から開かれる特別展「アラビアンナイト大博覧会」での上映のために制作している3次元アニメの予告編を、プレゼンテーションする時間を設けてもらった。5日間続いたアラビアンナイトに関するまじめな議論に疲れきっていた参加者には心地よい、お楽しみのひと時を提供することができたのではないかと思う。

閉会日の夜は、セーヌ河岸に浮かぶ屋形船(ペニッシュ)で、対岸に聳えるノートルダム寺院を眺めながらの、なかなか粋なディナーが開かれた。ここでもまた、アラビアンナイト研究者が崇め尊敬する法王的存在であるムフシン・マフディ教授夫妻のお隣に座る光栄を得た。現存する最古のアラビアンナイト写本の校定本をつくるという偉業を20年ほど前に成し遂げた方だが、世界中から集まった後学の徒が浴びせかける質問の数々に、「私のアラビアンナイト研究は、遠―い過去のことです・・・」と、超然と答えられていた。

山中由里子(民族文化研究部)

◆参考サイト
特別展「アラビアンナイト大博覧会」
アントワーヌ・ガラン(「アラジン輪舞曲」より)