国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Bosnia and Herzegovina  2006年1月19日刊行
新免光比呂

● 祝日はだれのものか

昨年になるが、初めてサラエボに足をふみいれた。サラエボといえば、すぐに連想されるのはオーストリア皇太子暗殺と冬季オリンピックだろう。サラエボは戦争と平和の記憶がまじりあう都市であり、前者は第一次世界大戦の引き金として、後者は開かれた社会主義国家における平和の祭典として歴史に名がとどめられている。そして残念なことに、ボスニア内戦が加えられた。

今回の訪問は、科研「マルチカレンダー文化の研究」の計画に基づき、クロアチア人、セルビア人、ボスニア人の三民族を中心とした多民族が共住する地域で、民族文化と関連してカレンダーがどのように使用されているか調査することを目的としていた。

初めてのサラエボに対する印象は、月並みである。EUの援助(もちろん日本も加わっているが)による復興著しく、ここで内戦があり、スナイパー通りという市民が狙撃され死んでいった場所があり、樹木という樹木が冬の寒さをしのぐために薪となり、あらゆる窓は銃弾によってガラス窓が吹き飛ばされていたなどということは想像もできない。ただ街の郊外には、かつてオリンピックが開かれ、内戦中は果てしなく墓標の並ぶ墓地とされ、現在は悲劇の記念碑となったスタジアムがある。

多民族共住のシンボルであり、それゆえマルチカレンダーの研究にとって重要なサラエボの旧市街には、モスク、カトリック教会、セルビア正教会、シナゴーグなど4つの宗教の聖所が存在する。そして、すべてカレンダーが異なっている。イスラームはいうまでもなくヘジラ暦だし、カトリック教会はグレゴリウス暦、セルビア正教会はユリウス暦、ユダヤ教はユダヤ暦である。4つの異なるカレンダーが存在する街とは、いかなるものだろうか。

街で、博物館で、教会でカレンダーを集め、話を聞いて歩いてみた。そこで浮かび上がった問題のひとつが、新国家ボスニア連邦の祝日の制定の難しさである。 その難しさは、宗教ごとに異なる祭日が存在することよりも、歴史的事件の評価に関連して各民族の記念日が異なっているのが原因のようだ。ボスニアの歴史的な出来事といえば、ユーゴ連邦からの独立、デイトン合意、さらにさかのぼればユーゴ連邦の成立、その他もろもろであるが、民族間の対立のため異なる評価をされる。そこで特定の日を全体の祝日にしようというのが、どだい無理な話である。

歴史認識は、旧東欧のいずこでも大きな問題となっている。どの民族もじぶんたちに都合のいい解釈を事実とみなす傾向がある。しかし、歴史認識とならんで、具体的な祝日の制定も政治的困難に直面しているのが多民族共存国家ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国のかかえる現実なのである。

新免光比呂(民族文化研究部助教授)

◆参考サイト
科研「マルチカレンダー文化の研究」
『民博通信』 2005 No.109 特集:マルチな暦を生きる―カレンダーにみる在日外国人のくらし
外務省ホームページ(各国地域情勢:ボスニア・ヘルツェゴビナ)