国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Seoul   2006年6月15日刊行
中牧弘允

● 四半世紀ぶりのソウル

最近、ソウルを四半世紀ぶりにおとずれた。延世大学で特別講義をおこなうためだったが、ソウルの変貌ぶりには目を見張った。先回はアメリカからの帰途、飛行機の乗り継ぎ時間を利用して、ソウルの南、水原にある韓国民俗村を訪問しただけだったから、市街地はほとんど素通りだった。わたしにとってのソウルの記憶はむしろ33年前の1973年で凍結されていたといってもよい。というのも、その年、夏休みの2週間を大学院の友人とソウルにホームステイし、観光に出かけたり、キャンパス・ライフをたのしんだり、高名な民俗学者たちと会ったりしていたからである。後に大統領になった金大中氏が東京のホテルから拉致された事件がおきる直前だった。

当時のソウル市街は自動車やバスの騒音がけたたましく、夜間は戒厳令下で人通りもどことなくさびしかった。非常時訓練のサイレンもよく鳴っていた。また、同行の友人は警官に呼びとめられ長髪をとがめられた経験をかたっていた。韓国食は美味しいうえに安く、ホームステイ先の家族は親切で、すっかり韓国びいきとなっていたにもかかわらず、街のたたずまいには暑さも手伝ってか、あまり好感がもてなかった。街に出ると昼は喫茶店、夜は居酒屋によく逃げ込んだ。
ところが今回、ソウルの新名所、清渓川(チョンゲチョン)をおとずれてみて、かつてのイメージが一掃された。街に自然のうるおいがあったからである。清渓川はソウルの繁華街を東西に横切って流れている。水は清流で、両脇に散策路があり、カップル、家族連れ、観光客、それに職場を抜け出してきたようなサラリーマンをはじめ、老若男女の憩いの空間となっていた。橋の下で暑さをしのぐ人たちもいれば、そのまま川にはいる人たちもいた(参考サイト写真1、2)。水鉄砲でたわむれる大学生とおぼしき男女の青年たちにも出会った。せせらぎが聞こえ、魚影がうつろい、川風が肌にやさしかった。水草が生え、湿地もあり、カモやサギの姿も見えた。

しかし、それは復元された川だった。しばらく前まで、川には覆蓋がほどこされ、その上を高速道路がはしっていた。まさに都市化、近代化の象徴ともいえる景観だった。それを新市長の英断で、もとの川に変えてしまったのである。といっても、第二次大戦や朝鮮戦争後のバラックが両脇に立ち並ぶ汚水にまみれた川ではない。清渓川の名にふさわしく、清く澄んだ渓流に、である。水はわざわざ漢江から引いているらしい。

数年前、わたしはたまたま途中からみたテレビ番組に釘付けとなった。ソウルですすむ都市の大改造が報じられていたからである。2002年7月に就任した李明博新市長は100日目に提出した「ビジョンソウル2006」のなかで、老朽化した高速道路の撤去と清渓川の復活を宣言した。コンクリートは再処理され、鉄や小石や砂となって再利用されていた。公共交通システムの再編が計画され、ソウルの南北にあたる江南・江北の経済格差の是正が政策としてかかげられていた。漢江の南の江南が発展し、旧市街地がさびれてしまったのである。また、川の復元はヒートアップした都心の冷却に効ありとされ、何よりも市民のプライドを醸成する効果が期待されていた。同時に、それに反対する旧住民の集会も映像はとらえていた。

清渓川復元工事はは2005年10月に完成し、一般公開された。すでに1000万人がおとずれたという。実際に清渓川の遊歩道をあるいてみると、モニュメントや碑文のおおさに気づいた(参考サイト写真3、4)。さまざまな歴史がきざみこまれているのだろう。実見できなかったが、労働者の権利を主張して焼身自殺した全泰壱青年の胸像もふくまれている。また、「願いの壁」という絵馬のような趣向もみられた(参考サイト写真5、6)。そこでは子供たちが未来への願いをタイルにえがきこんでいる。川下の清渓川文化館では川の歴史と人びととのかかわりが展示されていた。復興した清渓川は過去の出来事をよみがえらせ、未来に夢を託そうとしているにちがいない。

滞在最後の晩、ミレニアムタワーとよばれる高層ビルにのぼり、空中レストランからソウルの夜景をながめた。眼下にはビルの谷間を縫うように清渓川がながれ、夕涼みをかねて散策する人びとが米粒ぐらいのおおきさでゆっくりと動いていた。これがポスト・モダンのひとつの光景であるのはたしかだった。

中牧弘允(民族文化研究部教授)

◆参考写真(2006年5月撮影)

写真1
写真1
写真2
写真2

写真3
写真3

写真4
写真4


写真5
写真5

写真6
写真6

◆参考サイト
「特集・清渓川復元事業」ソウルナビ
外務省ホームページ「各国・地域情勢 > 韓国」