国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Vietnam  2006年7月13日刊行
樫永真佐夫

● 東南アジア最大のダム建設の周辺?ベトナム

中国長江に三峡ダムという世界最大級の巨大ダムが放水を開始した。あたかも国際社会の注目がそちらに集まっているすきを狙うかのように、ベトナム政府は、完成すれば東南アジア最大となるソンダーダムの建設を2002年以来、着々と進めている。ダム完成時に水没する面積は275平方キロメートルといわれ、盆地での灌漑水稲耕作を主生業とするターイをはじめ、住民約10万人が移住を余儀なくされる。

わたしは、これまで西北地方に130万人以上居住しているターイの一村落で、生活と民俗に関する調査を実施してきた。ハノイから400キロメートル、ラオス国境まで100キロメートルほどのところに位置する調査村などは、ダー川水系でないため、ダム建設による水没の憂き目とは無縁である。しかし、この村でも、各地での建築や建設ラッシュゆえに若者の出稼ぎが増えるなど、ダム建設の影を感じないわけにいられない。ダム建設の地域社会への影響に関する話を書いてみよう。

ダム建設が始まった2002年よりも数年前から、西北地方全域の国道の道路拡張工事が始まった。ハノイからディエンビエンフーに至る国道6号線という西北地方最大の幹線道路でさえ、それまで道路は舗装されていても、車2台がすれ違うのがやっとの道幅。バイクや自動車が谷底へ転落する事故がたえなかった。ダム建設の大型車両を通行させるため、山肌を削り、崖を削って、急ピッチで道幅は拡張された。

ハノイからダム建設地へは、ディエンビエンフー手前のソンラーまでの300キロメートルを国道6号線で行き、さらに、そこから右に折れて30キロメートルあまりである。2002年頃までソンラーにたどり着くだけでも、バイクでどんなに急いでも11時間ほどかかったのが、今では6時間半である。また、ソンラーからダー川までの30キロメートルも、1999年当時には、バイクで行きかけて、あまりの道の悪さに1時間ばかり走ってから引き返した覚えがある。しかし、今年の5月に行ってみると、広い二車線道路が開通していて、なんと40分でたどり着いてしまった。寂しくなるほどのあっけなさ。しかし寂しい思いがしたのは、自分の経験がもはや古びてしまったからだけではない。道路脇にむき出した地肌、ほそい谷間を埋める黄色い土砂は、荒々しい開発の爪痕として目に映ったし、かつて鬱蒼としていた森が姿を消して、萱野や畑となった急斜面をなめらかに滑っていく風をこの身体に受けたからだ。

ベトナムのような発展途上国では、道路の拡幅だけでも土地の人びとの生活への影響は非常に大きい。ハノイからソンラーに行く途中にある国道沿いのターイの村が思い出される。その村は右手の斜面に沿って築かれていて、左手には幅10メートルあまりの渓流がせせらぎ、吊り橋が架かっていた。大型トレーラーがすれ違えるように道幅を拡張するため、2002年頃にまず右手の斜面が削られた。すると、それまで木々の向こうに奥ゆかしく透けて見える程度であった木造の高床式家屋群が、今は、崖ぎりぎりのところに危なっかしくしがみつき、敗残したような姿をさらしていた。削られた赤茶けた土砂は、道路をまたぎ、川の側に積まれていた。その土砂によって、20キロメートル以上に渡り、幅5メートルものいびつに平らな赤い帯が、国道に隣接してくねくねと続く景観ができあがっていた。さらに、川も紺青色から、瀬も淵も茶色い濁流に変わってしまっていた。

こうして、この地域の風物詩であった、伝統的な竹製の生け簀を使った養魚はもはや見られなくなった。今年5月、崖の上の村がどうなっているか注意しながら、わたしはバイクを運転していたが、行きも帰りも村にも吊り橋にも気がつかなかった。村はなくなったらしい。その村の経済生活がどういうものであったか、わたしは詳しく知らない。しかし、ターイが土地を捨てるのは、よほどの資源の変化、経済生活の変化などを抜きには考えにくい。ダム建設は、100キロメートル以上離れた地域の人々の生活も景観をも、あきらかに変えているのである。

樫永真佐夫(民族社会研究部助手)

◆参考サイト
特定非営利活動法人メコン・ウォッチ
樫永真佐夫「ハノイの異邦人」30.経済発展の光と翳
外務省ホームページ「各国・地域情勢 > ベトナム」