国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Turkey 2012年7月20日刊行

山中由里子

● アレクサンドロスが見た風景―アナトリア南部編

私はアレクサンドロス大王にまつわる言説の研究をしている関係で、アレクサンドロスの足跡をちびちびと追っている。マケドニアからインドまで順を追って辿っているのではなく、特に全行程制覇しようという野心もなく、気長にめぐっているのである。大学院生の頃の旅も含めると、これまでにエジプトのアレクサンドリアやシワのオアシス、イランのペルセポリスやスーサ、イラクのバビロンなどはおさえてきた。最近では、地中海東岸にある、かつてのフェニキア都市テュロスとシドンを訪れた。現在はレバノンのスールとサイダと呼ばれているところである。

歴史家ではない私にとって、これらの土地を実際に見ることが古代の文献の解読に不可欠、というわけではないのであるが、アレクサンドロスが見た風景の中にたたずみたいという願望がどうもある。これはもう、れっきとした「歴女」の「巡礼」である。

今年の春に1週間ほど滞在したのは、トルコ南西部の地中海沿いの地域である。アレクサンドロスがここを通ったのは紀元前333年。ヘレスポント(ダルダネレス海峡)から小アジアに渡ったアレクサンドロスは、グラニコス河畔でペルシア軍と初めて戦い、勝利をおさめた後、アナトリアを南下しハリカリナッソスから海沿いの主要な港町を征するためにシデまで進んでいる。それより東側には重要な港がなかったため、北上し内陸部に向かい、ゴルディオンで、有名な「ゴルディアスの結び目」を断ち切ったとされる。

今回4月に訪れることができたのは シデとテルメッソス。シデはアンタリアから東に75キロほどのところにある。ちょっと突き出た岬の部分に町の中心があり、ヘレニズム時代、ローマ時代の遺跡が散在している。いまやドイツ・コロニーと言ってよいほど、ドイツ人の観光客が多い。店やレストランで働くトルコ人はドイツ帰りが多いらしく、英語よりもドイツ語のほうがよく通じる。岬から海岸沿いに西に延びるプロムナードは整備されていて、その片側には白い砂浜が数キロにわたって続くが、遊歩道の反対側はリゾートホテルに埋め尽くされている。砂浜は観光地化とともに人工的に開発されたものかもしれないが、地中海に沈む美しい夕日は、きっとアレクサンドロスも眺めていたことであろう。

一方、テルメッソスはアンタリアから30キロほど内陸の、トロス山脈に入ったところにある。観光パンフレットなどで、「アレクサンドロスがついに攻め落とせなかった町」と、誇らしげにうたわれている都市で、シデと違って今は人は住んでいない。アレクサンドロスは、シデなどの主な港を抑えた後、アナトリア内陸部を北上する際にここを通り、山間部と海岸部を結ぶ交易の中継地点であったこの町を攻略しようとした。しかし、町を取り巻く山々が門のように立ちふさがり、高地からの攻撃にアレクサンドロス軍は手こずったので、あきらめて先に進んだという。

山のふもとにあるゲートで入場料を払ってから、さらにくねくねと恐ろしい山道を車であがること9キロ。標高1050メートルのところにテルメッソスの遺跡がある。ヘレニズム時代、ローマ時代の建造物が残っているが、なんといっても圧巻は円形劇場であった。山面の傾斜を利用して半円形、階段状の観客席が造られており、4千から5千人は収容できたという。その観客席からの眺めに息をのんだ。まるでオリュンポスの神々が宿っていそうな高峰が舞台の後ろにそびえ、借景となっている。快晴の日には遠くに輝く海も見えたであろう。

劇場の石のベンチに座りながら、これがアレクサンドロスが眺めそこなった風景か、となんだかよくわからない優越感にひたった。

山中由里子(民族文化研究部准教授)

◆関連ウェブサイト
アレクサンドロスの遠征路
テルメッソスの写真があるサイト
アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ―(山中由里子 著)
トルコ共和国(日本外務省ホームページ)