国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

地域テーマ展示「台湾地域の文化:台湾原住民族の文化─ナチュラリスト鹿野忠雄の収集資料」


台湾原住民族の文化に関連する資料に焦点をあて、昭和の初期に彼らの文化に魅了されたナチュラリスト、鹿野忠雄がみずからの手で収集した資料を中心に展示しています。

鹿野は大正末期から太平洋戦争時まで台湾から東南アジアを舞台に精力的に調査をおこなった研究者です。小学生のころからはじめた昆虫採集を存分におこなうため、台北高等学校に入学し、台湾の山岳地帯を歩きまわっていました。鹿野が歩いた山岳地帯には「生蕃」もしくは「高砂族」とよばれる人びとが住んでいました。

やがて、台湾の東側にある蘭嶼という小さな島で調査をはじめます。当時、紅頭嶼とよばれていたこの島には、東南アジアと中国大陸側との動物相の関係を読み解くうえで鍵となる昆虫が生息していたからです。鹿野が調査をとおして発見したいくつかの昆虫の学名には Pachyrrhynchus insularis Kano(コウトウカタゾウムシ)のように鹿野の名前が発見者として記されています。そして鹿野の調査によって、台湾とフィリピンとのあいだで推測的に引かれていた動物相の境界は、改めて台湾島と紅頭嶼とのあいだで引きなおされ、国際的にもその業績は高く評価されました。
鹿野は紅頭嶼に滞在しながら、島の住民の大半であったヤミ(雅美)の人たちと親密な関係を築き、彼らの文化に関心をつよめていきます。鹿野がもっとも心奪われたのは、ヤミの人たちがトビウオ漁につかう大船の建造祭です。ミバライとよばれるこの祭りは、村中の人びとにべつの村から来訪した人びともくわわって、あたらしい船を海に送りだすためにおこなわれます。祭りのクライマックスには男性が大船を胴上げしながら、村から海への道を練り歩きます。鹿野は愛用していたライカのカメラでその一部始終を記録し、そのようすは半世紀を越えたいまも島に受け継がれています。
彼がフィールドワークで、なにをみつめ、それをわたしたちがどのようなかたちで知ることができるのか、彼の収集という営みの一端を紹介したいとかんがえています。【鹿野忠雄 年譜
 

展示担当/野林厚志
月刊みんぱく2003年6月号より転載