国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。
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特別展「渋沢敬三記念事業 屋根裏部屋の博物館 Attic Museum」|展示場案内

特別展に関するお知らせ

 
展示場案内
 
 
イントロダクション

第二次世界大戦中の日銀総裁・戦後処理を担った大蔵大臣として、破綻した日本経済の復興に尽力した渋沢敬三は、優れたリーダーシップを発揮する民俗学者でもありました。邸内に建設したアチックミューゼアムを拠点に、多くの学者を育成し、莫大な私財を捧げて学問の発展に貢献しました。
人と学問を愛し、実業家、国際親善大使、慈善家、教育者、水産史研究者などの多彩な顔を持った渋沢敬三の優れた功績とともに、渋沢家とそのゆかりの品々をご紹介します。

 
 
 
達磨・凧

アチックミューゼアムの研究活動は玩具からはじまりました。「チームワークとしての玩具研究」を合言葉に、敬三たちは役割分担して玩具を集め、成果をまとめています。それが深化するのは達磨を研究テーマに選んでから。敬三には「関東の達磨市は鎌倉街道沿いに分布しているので江戸文化以前を知る手掛りになるのではないか」という考えがあったようです。達磨研究は結局、未完に終わりましが、「郷土玩具縁喜物分布図」や「関東達磨市分布図」などを残しました。髭達磨など約100体(後の民族学博物館時代の収集品も含む)の達磨コレクションはアチックの萌芽期を知る貴重な資料です。

 
 
 
小絵馬・オシラサマ・男根と性信仰

《小絵馬》
民衆の小絵馬には古くからの信仰が伝わっています。神仏に絵馬を納める習俗は、古代の生馬献上にはじまって、馬を描いた板絵馬の奉納へとなっていきました。アチックミューゼアムでも早くから絵馬に関心を持ち収集をはじめており、なかでも、1931年に津軽で収集された絵馬は、動物の祟りを除くために巫女の指示によって奉納されるという特異な習俗をあらわした小さな板絵馬で、問題の動物を描き、柱をつけて、突き刺すように地面に立てるさまを見て、敬三は「わだかまりのない裸の心に触れたような気」がしたと語っています。

 

《オシラサマ》
日本の東北地方で信仰されている家の神「オシラサマ」。本展覧会では1955年に文化財保護法の定める重要民俗資料(現在の国指定重要民俗文化財)第1号に指定されたコレクション33体を紹介いたします。裸形の2体には慶長4(1599)年の墨書があるほか、毎年1枚布が重ねられていく習わしにより100枚以上の布が年代順に集積されているものもあるため、近世農村の繊維製品史・染色史などにおいても重要な価値があることに着目した敬三は、『大仰だが、思わず「民間の正倉院ものだ」と口走ったほどである。』と記しており、詳細な分析調査がおこなわれました。

 

《男根と性信仰》
性器に関する信仰は世界的で、時代も古くさかのぼります。日本でも、縄文時代の遺跡から男根状の石棒や、女陰を刻んだ土偶が見つかり、呪術・宗教的な用途が推定されています。民俗的にも、木・石・土の男根や女陰を祀り、縁結びや夫婦和合、子孫繁栄、豊作や商売繁盛、病気平癒、安全などを願う風習が各地にみられましたが、明治期に入ってからは蛮習として政府から禁じられて廃棄・撤去された神体や奉納物は少なくありません。
アチックミューゼアムでは「信仰・行事に関するもの」も民具の一種として分類され、多数の奉納物が収集されています。

 
 
 
筌(ウケ)

アチックミューゼアムがアシナカに続く民具の共同研究として着手したのが筌(ウケ)研究でした。
川や浅海底に仕掛けておくだけで魚類やエビ・カニ類を捕らえることができることから「技術を持たなくても誰にでも扱える漁具」として着目し、全国各地の筌(ウケ)とその付帯情報を集めました。しかし、戦争が激しくなるとともに調査が思うようには進まなくなり、報告書として研究成果が日の目を見ることなく今日に至っています。

 
 
 
きもの

きものには、特別な日に着る「晴着 」と「日常のきもの」とがあります。晴着は特別な形のものや上質な素材が多く、しかし、多くの人々の間では、新しい日常のきものが晴着でもありました。日常のきものの中には特色のある素材と形の「労働着」が多く含まれていて、布を重ねて厚く縫い合わせる、重ねた布に「刺し子」と呼ぶ縫いを加えたものなどがあり多彩です。
大切にされてきたきものたちが収集・保存されてるなかでも、今回の展示のために再調査された奄美地方の晴着は、現代では伝承が途絶えて制作不可能である絹のような光沢を持つ芭蕉布でつくられていることが新たにわかり、とくに貴重な資料となっています。

 
 
 
いろいろな民具

学術用語として現在一般的に使われている「民具」という言葉は敬三が造りました。それまで「土俗」「土俗品」という言葉はありましたが、民衆を卑下した感情が潜んでいるという思いから、敬三はこれを「民俗品」と呼び替えて、さらに〈我々の同胞が日常生活の必要から技術的に作り出した身辺卑近の道具〉と定義された「民具」へとなっていきました。
今回展示している民具は、ひと昔前までは日常的に見られたものの現在の私達の身のまわりではほとんど姿を見なくなったものが数多くあり、その消長には生活様式の変化があらわれています。

 
 
 
背負い運搬具

アシナカや筌(ウケ)と同様に、背負い運搬具もまた、アチックミューゼアム同人が好んで集めた民具でした。形態や製作方法に地域差が大きくて興味深いほか、背負い運搬について理解を深めれば、頭上運搬や肩担ぎ運搬などとも比較できました。これらの背負い運搬具コレクションは、1955年に第1号指定となったオシラサマのコレクションと同時に重要民俗資料(現在の重要有形民俗文化財)第2号に指定されています。

 
 
 
アシナカ

アシナカ(足半)とは、足裏の半分ほどの形で踵がない前結びの草履のこと。泥はねが少なく滑りにくく、古来から使われてきた機能的な履物です。アシナカ研究はアチックミューゼアムが本格的に着手した最初の共同研究であり、全国の協力者のネットワークからアシナカの標本とともに構造や名称などの情報を集めて分析しました。なかには盲目の女性旅芸人「高田瞽女」たちによる収集品も100点以上含まれています。また、当時まだ一部の医療現場でしか使われていなかったレントゲン写真で資料撮影するなど画期的な調査方法も導入されました。

 
 
 
塩篭と『塩俗問答集』

塩篭とは、日常使用する塩を入れておく容器のこと。
『塩俗問答集』とは、これら塩篭をつかった塩の貯蔵方法や塩にまつわる信仰など、日本各地の塩に関するさまざまな民間伝承を集め、敬三が多方面から考察を加えて編集した調査報告書です。その調査方法は質問票を協力者に郵送し、回答してもらうというもので、今日のアンケート調査の先駆けともいえます。

 
 
薩南十島調査

柏葉拾遺より

敬三は、ある地域、ある民具について大勢の眼と感性で接すること、そして意見交換することを重視しました。
1934年に実施された薩南十島での調査は、アチックミューゼアムが試みた最大規模の合同調査で、20名あまりに及んだ調査団には民俗学ばかりでなくさまざまな分野の研究者が参加していました。これは、のちに敬三が呼びかけて組織された「九学会連合調査」の構想が萌芽した調査として、渋沢民俗学の中で大きな意味を持っています。みんぱくが創設以来推進している共同研究も、この延長上に位置付けられるものです。

 
 
アチックミューゼアムからみんぱくへ

敬三は、昭和9(1934)年に設立された日本民族学会の理事(のちに会長)に就任し、同14(1939)年5月、保谷(西東京市)の地に学会附属の民族学博物館を開館させました。この博物館のコレクションは、アチックミューゼアムの同人たちが集めた民具を核とし、その後に海外で活動をくり広げた多くの研究者たちが集めた資料を加えて、多様化し拡大していきます。
収集活動は昭和37(1962)年まで続き、その後、資料約28,000件は国に寄贈されたのちに、敬三の遺志にしたがって同50(1975)年、国立民族学博物館に移管されました。
2階では、昭和10年代に北海道・樺太、台湾、朝鮮半島で収集された資料を展示します。この3地域は現在のみんぱくでも活発な研究が行われているフィールドであり、それら資料が今日においてどのような意味を持っているかをご紹介します。