国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

コレクション展示「世界の民族服と日本の洋装100年 ─ 田中千代コレクション」


田中千代 略歴

デザイナーとして、コレクターとして
(『月刊みんぱく』2002年7月号から抜粋)

 一定年齢以上の女性には、田中千代の名前はある輝きをもって記憶されているようだ。恵まれた才能を努力で伸ばし、職業婦人の極であるデザイナーの道を究めた氏の生き方は女性自立のモデルであり、しかも洋裁啓蒙書や洋裁学校を通じて生活にも身近な存在であり続けたからだろう。

 明治末、外交官家庭に生まれた氏は、地理学者、田中薫と結婚した。1928年には、夫の英米留学に同行し、ファッション世界に魅せられ、フランス、ドイツ、アメリカで、欧・米の衣服製作法を学んだ。また、1931年には、帰国の船上で鐘紡社長夫人と知り合ったのが縁で、デザイナーの道に入った。当時の日本は、さまざまな分野へ女性が進出し、彼女たちの制服が女性の洋装化を促進した時期だった。1932年、神戸御影に開いた洋裁塾を振り出しに洋裁学校経営に乗り出した氏は教育書出版も進める。また、戦前の衣料統制と標準化するなかでも、氏は改良モンペを考案し、標準服の講習会を開くなど、衣生活に関わり続けた。

 戦後、40歳を越えた氏はデザインを学ぼうとニューヨーク大学に留学する。そこで開いた洋服地による「ニューキモノ」のショーが評判となり、1951年には国際ファッション・ショーに日本人初の出品を果たすなど、氏の名声は世界的となった。その後は、プロモデルの公募、ディオールの型紙による衣服製作、皇室の洋服デザインなど、日本の洋装界を牽引しながら国外では日本の布地を使ったショーを、国内では民俗衣装ショーをさかんに開いた。

 初の洋行以降、現地で見る衣服の多様性に目を奪われた氏は、衣服収集に力を入れ始めた。民族衣装と呼ばず、「民俗衣装」と名付ける点に「同質性を強調する民族衣装ではなく、現地の庶民が日常的に使っている衣服を装い方を含めて集めてこそ、その文化がわかる」という氏の収集方針が現れている。民俗衣装が激しく変化する現代衣生活の原点であり、それがファッションに新しいアイディアをもたらしモード変革につながる、という信念もまた、60年かけて世界65カ国で集めた氏の収集活動を支えたのだろう。

 そこで集められた民俗衣装は、風俗人形や日本の洋装史を語る資料を加え、1989年に開設された田中千代学園民俗衣装館で保管・展示されてきた。2000年の暮れ、氏の没後に残された約4000点の収集品は「田中千代コレクション」と名付けられ、民博に寄贈された。同コレクションは、世界の衣文化の多様性、及び、日本の洋装史の研究にとって貴重な資料である。これらに、民族学など様々な観点から新たな光を当てることが、氏の遺志を生かすことにつながるに違いない。
写真:香淳皇后のコートをデザインする田中千代(朝日新聞社提供)

博物館民族学研究部 久保正敏


  1906.8.9 男爵、後の外務大臣松井慶四郎の長女として東京に生まれる
1923 雙葉高等女学校卒業
1924 理学博士、経済地理学者の田中薫と結婚
1928~'31 欧米留学(チューリッヒの「流行と衣装の学校」でオットー・フォン・ハスハイエ教授に師事、ニューヨークのトラペーゲン・スクール・オブ・ファッション等に学ぶ)
1932.3 鐘淵紡績(現・鐘紡株式会社)顧問となる(後に特別顧問)
1932.5 神戸に洋裁研究グループを開設、現在の田中千代服飾専門学校(芦屋)、東京田中千代服飾専門学校(渋谷)、東京服飾造形短期大学(旧・田中千代学園短期大学、東京・町田)に発展
1934 パリでエコール・ド・ゲール・ラヴィーニュ(現・エスモード)に学ぶ
1937 パリの”芸術と技術の万国博覧会”にて金賞受賞
1940 外務省の「衣服による国際文化親善」で、南アフリカ、南北アメリカ等へ派遣される
1955 日本初の『図解服飾事典』(婦人画報社)刊行、『新・田中千代服飾事典』('69より同文書院)として現在に引き続く
1963 パリ、ボン、ローマで日本の美を紹介する作品ショーを開催
1967 ニューヨークで日本の生地による作品ショー開催
1977 勲三等瑞宝章受賞
1978 田中千代学園創立45周年記念「地球は着る-田中千代の民俗衣装とデザインの空間-」、過去45年間の収集品から世界の民俗衣装65カ国、200点のショー開催
1982 学園創立50周年記念ショー「1932~1982 50年のモードの歩み」を開催
1989 自ら集めた世界の民俗衣装を展示するため田中千代学園民俗衣装館を設立
1991 東京都名誉都民となる
1999.6.28 永眠