国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

コレクション展示「世界の民族服と日本の洋装100年 ─ 田中千代コレクション」


日本の洋装100年


 田中千代コレクションのなかには、明治以降の、日本の洋装の発展を物語る衣服が多くあります。そのなかでも、企業の女子社員の制服を収集の対象としたことは、大きな意味をもっています。女性の日常洋装のうけいれのリーダー格だったのは、職業婦人だったからです。1960年代には日常的な和服は消滅し、わが国の衣生活はほぼ欧米に同化してしまいました。洋装をうけいれた江戸末期から、1960年代までの約100年間は、日本の洋装の発展にとって、思索と試練の時でした。
 
大阪樟蔭女子大学 高橋晴子


鹿鳴館スタイル

明治初期の欧化主義のシンボルは、鹿鳴館での舞踏会であった。鹿鳴館は明治16年(1883年)に開館し、わずか5年ほどの短い期間だったが、欧米風の文明開化の華やかな舞台となった。この時代の欧米のファッションはバッスルスタイルであったので、わが国の上流階級の女性たちもその姿を模倣した。
 
 
職業婦人の制服

大正中期以後になると、デパートの売場嬢やエレベータガール、そしてバスガールの洋装が大都会の風物詩となり、とてもモダンであり、憧れの姿でもあった。写真は、大丸エレベーター係の制服。
 
 
アッパッパ
昭和の初め、下町の夏の風俗として、買いものや銭湯通いなどにずん胴な家庭着すがたの女性が見られるようになった。簡単な仕立てのもので、木綿のゆかたを改造したものもあった。洋服の専門家の眉をひそめさせはしたものの、洋服の大衆化のためには重要なステップになった。
 
 
女性の標準服

第二次世界大戦の時期、国民生活の統制がつよめられたなか、昭和15年(1940年)に男子の国民服が制定された。そして昭和17年(1942年)には、女性の標準服が制定される。ある程度成功を見た男子の国民服とは違って、女性の標準服は、結局模索に終わった。人と違うおしゃれを楽しみたい女性に、きまりきったものを押しつけることは無理だったのだろう。そんななかで定着したのは、標準服の活動着としての、袂を切った和服と、もんぺの組み合わせであった。
 
 
改良服

和服を改良し、洋服の要素を取り入れた改良服。改良服は各時代に存在するが、残念ながら長続きしたものはなかった。その大きな理由は、どっちつかずのデザインへの違和感だったのだろう。しかし見方を変えれば、ほとんど綿入れがなくなったこと、重ねをしなくなったこと、あまり縫い込みをしなくなったことなど、洋服の考え方にそった和装の重要な改良は、たしかに進行したといえる。写真は、大阪大丸考案の婦人改良服。
 
 
ニューキモノ

田中千代デザインの上下にわかれた二部式のニューキモノ。1950年、ニューヨークで発表するためにデザインされたもので、素材の使いかたに、どちらかといえば外国人向けを意識した新鮮な感覚がみられる。その後、日常着というよりも、感覚のあそびを重視した、きわめて大胆なデザインのものが、日本の若手デザイナーや、外国人の手によって生みだされるようになる。