国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

コレクション展示「世界の民族服と日本の洋装100年 ─ 田中千代コレクション」


インドネシアのブラウス、クバヤ

『月刊みんぱく』2002年8月号・表紙写真の説明から転載

 表紙写真(右の写真)の赤いブラウスは、田中千代が1973年にインドネシア、バリ島で収集したもので、現地ではクバヤと呼ばれる。彼女にとって、1938年夏に夫田中薫とでかけた約1ヶ月半の調査旅行が、最初のインドネシア(当時の蘭領東インド)訪問となる。千代夫妻よりも2年先に同地を旅した民族芸術の蒐集家宮武辰夫は、バリ島において「半裸の女達は素足で惜し気も無く若い乳房を灼熱に吸わせて、頭上豊かに果物や水壺を運んでいる」姿に感動し、「大の男が乳房群に潰されさうになる」と旅行記に記している。当時の男性旅行家が半裸の身体に魅せられたのにたいし、千代は身体を覆うもののほうに惹かれた。この旅行がきっかけとなり、夫妻による民族衣装収集の世界旅行がはじまる。

 今日のインドネシアにおいて、下半身にバティックの布を巻きつけ、上半身にクバヤを着るスタイルは、日本人にとっての着物のようなものといえるだろう。正装用にクバヤを仕立てる場合、コルセットをつけた上で、バスト、ウエスト、丈から、二の腕の太さまでも細かく採寸される。クバヤには、裁断・縫製することで、平面の布を身体の凹凸にそわせる西欧的な布づくりの発想がみてとれる。

 17世紀以降、ジャワ島の商業拠点が発展した、多様な民族のあつまる都市空間からクバヤは生まれた。ヨーロッパ人と現地女性との混血児や中国系の女性たち、19世紀中ごろ以降は植民地にやってきたオランダ人婦人たちが、下肢に布を巻きクバヤを着るスタイルを好み、同時にクバヤを洗練させていった。おなじスタイルは現地人女性のあいだにもひろく普及していき、インドネシア独立以後は、国家によって女性用のナショナル・コスチュームとして位置づけられ、公式行事での着用が奨励されるようになった。
 千代自身が、西洋と日本の文化の橋渡しに苦心したからこそ、クバヤをはじめ世界のブラウスから、異文化混交がもたらす創造のゆたかさを読みとっていたのではないだろうか。
 
東京大学東洋文化研究所非常勤講師・民博外来研究員 田口理恵


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