国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年4月号

2005年4月号
第29巻第4号通巻第331号
2005年4月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
フィリピンの君が代
青木宏之
もう一七年も前のことであるが……。私は五〇歳を過ぎ、身体のあちこちに故障が目立ち始めたので武道の最前線から引退することにした。武道をやっているとどうしても無視できないものに「気」という問題がある。後ろからそっと忍び足で近づいて来る敵の「殺気」を察知して対応しなければならないし、殺気をすっかり消しているあいての気配さえ読みとらなければならない。しかしそんな気のことを研究しているうちに「気と健康」、即ち病気治療ということにたどり着いてしまった。

そこで前々から気になっていた韓国とフィリピンの心霊治療なるものに目を付け、早速フィリピンを訪れた。一〇〇人を超える心霊治療師にあった後、気功療法とも言うべき治療をする神父にあった。しかし彼は子どもの時に散々見聞きしていた日本兵の悪逆無道ぶりを覚えていて、日本人の私の身体を診るのに大きな抵抗があったようである。そうした話は各地の古老からも聞かされていた。

私は治療師たちを訪ねるときいつも段ボール箱に衣類などを詰めて手みやげに持って行っていたが、ある時この神父に今度何を持ってこようかと聞いた。すると彼は「衣類もお金も有り難いが今フィリピンで一番欲しいものは教育である」と答えた。これには私は少々ショックであった。そこで勉強をしたいのに貧困のため中学高校へ行けない子たちを進学させてやる運動をし始めたのである。私たちの父、祖父たちが残した負の遺産に対する私のささやかな戦後賠償のつもりもあった。はじめこの神父の教会の貧しい会員の子どもたち一二人を選び月謝、文房具、バス代、制服代、少々のおやつ代などを支援することにした。日本円にしたらそう多額ではないが子どもたちは次第に増えていった。子どもたちの家を訪ねるとその貧困ぶりには想像を絶するものがあった。

それから一一年も過ぎ、今では受給生は三〇〇人を超え、大学生も一〇人になった。前回奨学金授与式のさい、この神父が整列している学生たちの前で何か言うと、全員が起立し右手を胸に当てた。ああフィリピン国歌斉唱だなと分かった。私も右手を胸に当てて敬意を表した。そしてタクトが振り下ろされるや彼らはなんと「君が代」を歌い始めたのである。私はもう本当にショックだった。後で学生たちに何処で君が代を習ったのか聞くと、神父から習ったという。私の胸の中には熱くたぎるものがあった。そして五八年前この地につれてこられ戦死していった兄を偲びつつ、ここまで来るのに一〇年かかったなあ、と感無量であった。

あおきひろゆき/1936年横浜市生まれ。空手をとおして、総合的な人間開発のための体技「新体道」を創始。新体道協会会長、国際新体道連盟(ISF)会長、書家としても活躍中。

特集 ひろがりゆくNPO・NGO
1995年。日本では阪神・淡路大震災に100万人を超えるボランティアたちが結集し、「ボランティア元年」と言われた。そしてそれが1998年のNPO法(特定非営利活動促進法)の成立につながった。また世界では、1990年5月に始まったジョンズ・ホプキンス大学非営利セクター国際比較プロジェクトを契機に、それまでボランティア団体や第三セクター、地縁・血縁集団など、いくつもの名前で呼ばれていたNPO(非営利組織)・NGO(非政府組織)が、NPOセクターという概念でひとつにくくられた。

一方、文化人類学者たちが、あちこちで国際協力や環境保全のための活動に携わるNPO・NGOと遭遇し、彼らの異文化に対する無理解に疑問を感じる場面もふえてきた。そのため、人類学者が自らNPOを立ち上げ、研究対象である異文化社会の援助に向かうケースも少なくない。

今や、さまざまな社会的課題を解決する鍵になりつつあるNPO・NGOは、学問としても研究の対象になり始めている。今回の特集では、いくつかの角度からNPO・NGOのひろがりに光をあてた。

「NPO」と呼ばれるまで 
対談 渋沢雅英×出口正之
栄一、敬三、雅英と続く渋沢家は、日本で有数のフィランソロピスト(慈善事業家)の家系である。
民博が敬三のつくったアチック・ミューゼアムの収蔵物を継承していることを知る人は多いが、敬三の長男である渋沢雅英氏が日本のNPOの草分け的な存在であることを知る人はそれほど多くないかもしれない。
出口正之教授(文化資源研究センター)が、渋沢雅英氏に話を聞いた。

ゲスト●渋沢雅英
渋沢栄一の曾孫。渋沢敬三の長男。1925年ロンドン生まれ。東京大学卒業。貿易会社ロンドン支店勤務後、退社してNPOの仕事に専念。東京女学館前理事長。財団法人渋沢栄一記念財団理事長。著書に『父・渋沢敬三』実業之日本社など。
ホスト●出口正之
文化資源研究センター。国際NPO・NGO学会会長。

民博と同じ四つの顔をもっていたアチック・ミューゼアム
出口 民博は博物館、研究所、大学共同利用施設、大学院教育の四つの顔をもっています。この四つの顔をもつ民博のおもしろさを出すことが『月刊みんぱく』の役割だと聞いたときに、真っ先に渋沢さんのお話を伺わねば、と思った次第です。

渋沢 それはまたどうしてなんでしょうか。

出口 民博のコレクションの淵源のひとつが、渋沢敬三のアチック・ミューゼアムであることはよく知られています。また、アチック・ミューゼアムは研究機能や、今でいう「共同利用」の機能をもっていました。アチック・ミューゼアムと民博の関係については二〇〇一年春の『季刊民族学』九六号に特集があります。また教育という点でも、渋沢栄一は商法講習所を作って、これが後の一橋大学になりましたから、民博の四つの顔は、すべて渋沢家ももっていたわけです。

渋沢 そんなことになるわけですか(笑)。

出口 さらに、近代のNPOのルーツを探れば、渋沢家にたどり着きます。渋沢栄一を出発点としているといっても過言ではなく、NPOという言葉こそ使われていませんが、ご葬儀の時には勅使が来て、NPO活動のことにも触れていますね。アチック(屋根裏)という名称も、いかにも草の根的な感じがして今でいうNPO的です。

渋沢 そうですね。

出口 民博の四つの機能を考えた場合、渋沢敬三にそのルーツを見つけることができますが、NPO活動というと、私は渋沢栄一と雅英さんに連なるものを感じています。渋沢栄一は、東京養育院を設立し、亡くなるまで院長を務め続けました。養育院付属の老人病研究所は、今では一流の高齢者施設として国際的にも高く評価されています。女子教育奨励会ならびに東京女学館の創立にも参画した。これらはすべてNPOです。日本の近代NPOには多かれ少なかれ、渋沢栄一の影があった。それを継承したのは、敬三さんというより雅英さんではないかなと。そこで、雅英さんが、企業のエリート社員からロンドンに赴任した直後、三一歳で無謀にも(笑)、NPOの世界に入られた経緯をお話しください。

世界に対して責務を感じていた人たちとの出会い
渋沢 当時はNPO・NGOという言葉もなかったですから、そこへ飛び込んだという意識はありませんでした。たしかに、非営利・非政府といえば、そうですね。私は、「第二次世界大戦後、日本はどうなるのだろうか」とずっと思っており、会社はそれなりにおもしろかったのですが、自分はこんなことのために生まれてきたのか、企業人としての人生だけでは退屈ではないか、とずっと感じていました。そんなとき、ロンドンで(※1)MRA(モラル・リアーマメント)の活動に出会ったのです。彼らは「世界を何とかしよう」という国際的な発想をもっていて、ちょっとしたディナーを催しても、一〇カ国ぐらいの人が集まって、一九五〇年代の英国でもそれは珍しいことでした。こうした大きな発想に「すごいことだ」と思いました。私は金持ちの家に生まれましたが、当時は破産しておりましたので、妻子を養わないといけない。ある意味ではああいう家庭に生まれて甘かったのかもしれませんけど、心を揺り動かされたことは間違いないですね。彼らは、世界に対して責務を感じているのです。それは新鮮な発見でした。
MRAは、給料をくれませんでしたが、アメリカにつれていってトレーニングをさせてくれました。そこから世界に出て優秀な人にいっぱい出会いました。彼らは世界の見方が断然大きいのです。これはかなわんと思いましたね。

「知的水準」とは、こういうことかと思った
出口 今の若者がNPO・NGOに入って感じるのと同じですね(笑)。それにしても、NPOの世界に身を投じようとする雅英さんの行動に対して、強く反対する敬三さんを雅英さんの奥さんが、説得するところが『父・渋沢敬三』に生き生きと描かれていますね。

渋沢 私にとってもドラマチックでした。MRAで世界を回った後、大いに山っ気を出して、MRA国際会議場として小田原アジアセンターを作って、それを運営するだけで大変な仕事でしたし、どうせするならばおもしろいことをやろうと。今ではそれほど珍しいことではありませんが、日本人が外国人と一緒に泊まりがけで英語のLiving in Intensive(宿泊研修)というプログラムを企画するのだけれど、次々と予想しなかった新しい展開が……。

出口 池田勇人など、当時の政財界のそうそうたる人が設立に関わっていますね。

渋沢 そういう人を引っ張りこむだけの力はありました。アジアセンターで剰余金が出ると、東南アジアとの交流に使い始めたわけです。一九七一年にタイで大丸百貨店が進出したときに、排日運動がおこりました。米国や欧州の人も呼んで、世界の中で日本とタイのことを考えようと、セミナーを開催したのです。そこで山本正さん(日本国際交流センター理事長)に出会った。彼は国際会議の天才ですから、会議の方は彼に任せておけばよいと思うようになりました。彼についていけば、世界のいろんな人に会えて、議論ができるわけですから。
そうこうしているうちに、外務省が英国のチャタムハウスへいけというので、四年いました。ここは、すごかったですね。ロナルド・ドーアなど世界一流の学者が、月一回手弁当でやってきて、私のペーパー(論文)を読んで議論してくれるんです。「知的水準」というのは、こういうものかと思いました。NGOの最たるものだ、と。安いチーズと安いワインが出てね……。ああいうのを見ると、日本の学者は甘ったれていると思います。

出口 耳がいたい(笑)。

渋沢 チャタムハウスには大きな講堂があって、一般の方が来られる。なかなかいい質問がでますね。

英国のロイヤル・ソサエティも実はNPO
出口 有名なロイヤル・ソサエティは、日本語では「王立協会」という誤訳がまかり通っていますが、あれは「王認協会」とでも訳すべきNPOなんですよ。そこでのマイケル・ファラデーの講演録は、『ろうそくの科学』という文庫本で日本人にも親しまれています。そこにも、一般の方からの科学史に残る質問が載っています。

渋沢 チャタムもロイヤルですね。

出口 そう、日本では王立国際問題研究所といわれて、それでNGOなんです。だからNGOはわかりにくい(笑)。

渋沢 MRAの活動でロックフェラー財団と出会って驚いたのは、ひとつの大学にたいして一八年間もずっと支援していることでした。MRAにとっては小さな活動ですが、イースト・ウエスト・セミナーという名前で、スマトラの学生に大学進学のための奨学金をだしていたのです。

出口 雅英さんは渋沢栄一が設立した東京女学館の理事長もされていましたね。

渋沢 渋沢栄一も発起人の一人でしたが、設立者というほどではありませんでした。チャタムハウスの後、州立のアラスカ大学で教えていたときに、東京女学館の理事長を頼まれて、そろそろ日本に帰るころかな、と思っていましたから……。

出口 私が驚いたのは、「女子の教育を振興し、将来吾邦(わがくに)の男女をして人生当然享有すべきの福利を完受せしめ、兼ねて社会の秩序国家の進歩に裨益(ひえき)あらん事」を願って、渋沢栄一がつくった女子教育奨励会を、現代のNPO法人として雅英さんが二〇〇一年に復活なさったことです。

渋沢 東京女学館で戦前の日本女性のことを研究している人がいるのですが、日本の女性に対する扱いはひどいんですよ。少しは知っていましたが、記録を見ると、とにかくまったく人権がない。栄一は「何とかしないと」と思ったわけですが、現在もそれほど女性の状況が変わったわけではありません。私の娘はコロンビア大学で教えていますが、日本に帰ってこない。居場所がないのですよ、日本では。日本の女性が米国でPh.D(博士号)をとると、その八割は帰ってこない。頭脳流出の最たるものです。

出口 民博には頭脳流出をさせないようにする責任もありますね。

渋沢 米国の大学ではたいてい女性問題研究所のようなものがあります。木全ミツさん(元国連公使)が中心になって、女子教育奨励会を復活させようとするのを私もお手伝いしました。

出口 この明治のときの女子教育奨励会の会員リストを見ると、すごいですね。

渋沢 実業界、皇族、外国人、学者、軍人、旧大名家、閣僚、官僚、薩摩もいる。西南戦争からわずか八年後です。奨励会は、日本でいうNPOという言葉がぴったりしますね。

出口 そのNPOを二一世紀に雅英さんが復活させた。これは渋沢家の歴史を考える上でも興味深いことだと思っています。NPO活動のミーム(文化遺伝子)は渋沢栄一から、敬三を飛ばして、雅英さんに受け継がれているのではないか、と。

渋沢栄一にとっての儒教とNPOの関係の研究
出口 今後の活動についてはいかがですか。

渋沢 渋沢敬三は、実業史博物館を作りたいという夢をもっていました。実業史そのものはまだ学問としての実績をもっていませんが、膨大な資料が国文学研究資料館にあります。

出口 民博と国文学研究資料館は法人化に当たって、同じ人間文化研究機構という法人になっています。

渋沢 そうなんですか。昨年、同館の収蔵品を使って米国ミズーリ大学で「日米実業史競(くらべ)」という展示会をおこないました。また渋沢栄一記念財団では、渋沢栄一にとっての儒教の意味を研究すべきだと思っています。中国と日本とでNPO・NGOをどう考えたのか、慈善というものをどうとらえるのか。

出口 それもNPO研究ですね。雅英さんのお話を伺ってみると、アメリカの州立大学で教えておられた三年半を除けば、この五〇年間、ずっとNPOの世界に身をおいてこられたことになるわけですね。

渋沢 そういう意識はまったくありませんでしたが……。確かに言われてみればそうですね。私は、NPO・NGOという言葉との出会いで、民博が一層おもしろいものになることを願っています。そうすると、敬三も大変喜ぶでしょう。

出口 私は、敬三さんより雅英さんに喜んでもらいたいのです(笑)。民博の館蔵品のなかで、NPOに関連するものを見つけるのもおもしろそうですね。今日は本当にありがとうございました。

※MRA(モラル・リアーマメント)◇「軍備の再武装ではなく道義と精神の再武装を」とフランク・ブックマン博士が1938年に提唱。ロンドンにてMoral Re-Armament として発足。現在も国際NGOとして活動している。
オレンジの部分は、サラモン=アンハイアーの『非営利セクターの定義』に基づいて、NPO・NGOと言える組織である。

市民社会論への新しいアプローチ
小川晃弘
なぜ今、NPOを研究するのか
日本のNPOをテーマにした博士論文のフィールドワークで、多くのNPO関係者に出会った。その際、政治学や経済学、社会学などによるNPO研究は、最近、書店でも目に付くようになったが、文化人類学によるものはあまり聞かないと、よく不思議がられた。

そういう私も、当初、政治学から始めたNPO研究だったが、大学院のコースワークの途中で、専攻を文化人類学に変えた経緯がある。従来の社会科学が論じてきたように、西欧社会を念頭において規範的なモデルを提示したり、スローガンとしてのシビル・ソサエティ(市民社会)を探るのではなく、草の根の人びとが自由に組織する運動に注目して、もっと柔軟に、ダイナミックな社会プロセスとしてシビル・ソサエティをとらえてみたい。たとえば、日本社会で、阪神・淡路大震災後に注目を集めるようになったNPOというシビル・ソサエティで、人びとが、実際に何を体験し、実践し、感じているのか。現在進行形の事象に対して、鋭い分析力を発揮する民族誌的フィールドワークをおこなう文化人類学は、これまでのシビル・ソサエティ研究に、新たな視点を加える可能性があるのではないかと考えたからだった。

といっても、文化人類学者にとって、NPOを研究テーマとすることは、そんなに新奇なことではない。そもそも、「シビル・ソサエティ」などという言葉を使わなくても、コミュニティやインフォーマルグループ、ネットワークなど、NPO研究における重要な調査項目は、文化人類学がこれまで得意としてきた分野であり、すでに膨大な民族誌が蓄積されている。NPO研究にとっては、非常に貴重な資料だ。

さらに、文化人類学とNPO、この二つはとても相性がいい。両者とも「現場での実践」が共通のテーマとしてあるからだ。文化人類学は、元来、人びとの具体的な実践に注目するフィールドワークのなかで、研究者自らが現場にどう関わっていくかを、ほかの社会科学に比べ、最も厳しく問い正してきた学問である。

実際、約二年間にわたる東京・下町の社会教育NPOでのフィールドワークの現場において、物静かな、ただ眺めているだけの研究者であることは許されなかった。絶えず混乱する現場で、私自身がこのNPOという社会運動体とどう関わるのか、何を実践するのかが、絶えず問われる毎日であった。そこには、単に調査票を配ったり、質問項目をあらかじめ準備しておこなうインタビューからは、決してわからない草の根の人びとの日常があった。さらに、自らのフィールドワークのなかで編み出された実践的な知を、現場の仲間たちにどう提供し、共有するのか。そうした現場への知のフィードバックが、私自身に課された大きな課題であり、また私自身がNPO研究を続ける大きな意味にもなっていった。

ハーバード大の新しいシビル・ソサエティ研究
現在、私が籍を置くハーバード大学は、米国におけるシビル・ソサエティ研究の一大拠点であるが、今、ここで新しい動きが始まっている。これまでの研究は主として政治学者がリードし、日本のケースについては、スーザン・ファー政治学部教授をはじめ、フランク・シュワルツ前日米関係プログラムアソシエイトディレクター(現ニュージャージー州モントクレア州立大学特別学長補佐)、ロバート・ペカネンワシントン大助教授らを輩出してきた。

しかし、この研究に、文化人類学者が加わろうとしている。この五月、日本社会をフィールドとする文化人類学者によって、シビル・ソサエティへの新しいアプローチを探ろうと、ひとつのプロジェクトがスタートする。ハーバード大学アジアセンターからの研究助成金を受けて、同大学人類学部社会人類学科長のテオドル・ベスター教授らによって主催されるもので、英国オックスフォード大学のロジャー・グッドマン教授やボストン大学のメリー・ホワイト教授など、欧米で日本社会の文化人類学的研究をリードする研究者の参加が予定されている。日本人人類学者として、私も参加する。

文化人類学によるシビル・ソサエティ研究は、まだまだ始まったばかり。しかし、その動きは確かなもので、今後、大きな展開が予想される注目の研究テーマなのだ。

人類学者がNGOと出会うとき 
NGOと人類学者
一九九一年五月、私はケニア北東部のタナ川沿いの砂道で、日本人らしき人の乗った車とすれ違い、思わずブレーキを踏んだ。そこは、ソマリアとの国境に近く避難民が多いだけではなく、ソマリと隣接民族との紛争によって治安の悪いところであった。まさか日本人がいるとは思わなかった。 

彼らは、ミコノの会という日本のNGOで、ソマリ遊牧民が多いその地域で小学校建設などをしている人たちであった。私は、ちょうど遊牧キャンプのフィールドを探していて、このあとミコノの会が学校を建設した村に関心をもつことになる。しかし当初、遊牧民は移動することが望ましいと勝手に決めつけていたので、定住化や近代化を促進させようとするNGOのやり方には疑問をもっていた。NGOの人もまた、私があまり町をみずにブッシュへばかり行っているのを不思議に思っているようであった。

その後、彼らはソマリの文化を理解しないと何もうまくいかないと言うようになり、私もまた学校に行くことを望む遊牧民に出会い、考え方が変わってきた。文化人類学者とNGOは、決して対立するものではなく協力しあえるものである。私たちのケースで言えば、昨年、「遊牧民に学校を。ケニア北東州ガリッサで活動する日本のNGO」という映像作品を製作して、近く民博のビデオテークで公開することになっている。

NGOとのつきあい方
一方、ボツワナの自然保護区をめぐるカラハリ先住民、政府、NGOの関係はより複雑である。政府は、動物保護を優先して保護区の外に住民の移動をすすめるが、それに抵抗している住民も少なくない。この衝突のなか、先住民側に立って支援してきたのが、イグギア(本部はコペンハーゲン)とサバイバルインターナショナル(本部はロンドン)という二つの国際NGOである。イグギアは、現地の住民にGIS(地理情報システム)の使い方を教えて、地名から土地の歴史を復元している。サバイバルインターナショナルは、移住に歯止めをかけるためにロンドンや東京などの街頭での署名運動をおこない、ブラジルのヤノマミ地域で成功をおさめた戦略をボツワナの事例に適用している。

私は、これら二つの国際NGOの人たちと現地調査の際に会っている。しかし彼らの活動に共感する一方で、現地のニーズの多様性を理解しようとしない彼らの姿勢には、批判的立場をとってきた。現時点では、ミコノの会のような協調関係をつくることは難しいのだ。

現在、私たちは、ますますNGOの人と出会う機会が増えている。人類学者は、辺境といわれる世界のすみずみにまでフィールドを展開してきたが、近年では、NGOの活動も戦場などにまで及びますます活発になっている。NGOといかにつきあうのかを考えることも、研究をすすめるうえでは不可欠な時代である。

未来へひらくミュージアム
編集長インタビュー
石森秀三文化資源研究センター長 つながれ社会へ─知の貯蔵庫を開放する 
法人化を機に誕生した文化資源研究センター。
民博のモノ・情報・人を文化資源として社会にひらき人びとの知性や感性を刺激することをめざす。
進行中のプロジェクトや今後の構想についてセンター長、石森秀三教授に聞いた。

「文化資源」は文化のもと
まず、文化資源研究センター設立の経緯からお話しいただけますか。

石森 民博は大学共同利用機関ですが、博物館をもつ大変ユニークな研究機関でもあります。数年前に法人化が現実のものとしてせまってきたとき、新たな民博のあり方を多角的に検討しました。そのなかで博物館部門の未来像も検討課題としてあがり、民博のもつ文化資源の活用を中心にした新しい組織をつくるべきだ、との結論に達しました。

文化財や文化遺産などは本誌読者もよくご存知でしょうが、文化資源というのはあまり耳慣れない言葉かもしれませんね。

石森 文化財、文化遺産というと、しかるべき専門家が保存・管理し、一般の人たちは手を触れてはいけないもの、まれに鑑賞するものといったイメージをおもちでしょう。しかし文化資源は、新しい文化を生みだすもとになるモノや情報であり、資源として広く社会で活用されるべきものです。

世界に誇りうる民博の研究資料を一般の方々にも利用していただこうという試みですね。

石森 できるだけ多くの人びとに五感をとおして研究資料に接してもらい、さまざまな民族の暮らしを知り、多種多様な文化に思いをめぐらしていただく。文化資源とは、人びとのもつ創造的エネルギーを刺激するものです。もっと民博の文化資源に触れやすい環境を整備し、積極的に人びとの知性や感性を刺激していこうと考えています。

文化資源とは人びとのイマジネーションを触発するものですね。

石森 デザインや文学、音楽など芸術の素材として、あるいは多様な人間存在の象徴として重要です。また子どもたちの想像(創造)力を培うものでもあり、未来をひらくパワーを秘めた資源といえます。

民博は可能性の宝庫です。ただ、この取り組みには、研究者の意識改革が不可欠ですね。調査研究に没頭するばかりでなく、社会のニーズに敏感になり、外部とのコミュニケーション力をつけていかねばなりません。これが世界的な流れなんでしょうね。

石森 すでに欧米の博物館では、リソース(資源)の開放は当たり前です。「ここに来たらおもしろい!」「すごいことを発見した!」などと感動をよぶ仕掛づくりをたやさず、五感にうったえる博物館でありたいものです。博物館は知の貯蔵庫、感動の貯蔵庫ですから、民博の研究者も意識を切りかえ、研究資料や研究成果をどんどん社会へ還元していくべきです。

民博の文化資源をアウトプットする
民博の創設は一九七四年六月。満三〇年を迎え、この間にさまざまな研究資源を蓄積してきました。

石森 標本資料約二五万五〇〇〇点、映像・音響資料約七万点、文献図書資料が六〇万冊を超えています。その他の資料や情報もふくめて、これら膨大な研究資源を社会に還元する体制をつくっていきます。

三〇年の歳月をかけてインプットしてきたものをこれからはアウトプットもしていこう、ということですね。では具体的に、どのような形で活動し、目標を達成していこうとお考えですか。
石森 ひとつは法人化後の民博の社会的なミッション(使命)にかかわっています。昨年四月より大学共同利用機関法人・人間文化研究機構の一員となりました。もちろん従来も民博の文化資源を研究者に供してきましたが、もっと効率的な大学共同利用に適うシステムを整えるべく再構築をはかっています。

研究機関のネットワーク化をおこない相互利用を促進するものですね。

石森 そのために標本資料をはじめ、研究データの整理、保存、公開の強化に努めています。たとえば、民博には保存科学の専門家がおり、大型民族資料の加温による殺虫処理システムを開発しました。これは、民博最初の特許申請になりました。保存技術についても研究はどんどん進展しています。

それから、情報の公開も大きな仕事になるのではないでしょうか。

石森 研究成果にもとづいた各種のデータベースがありますが、今まではじゅうぶんにそれらの情報公開ができていませんでした。これからは、より多くの方々にデータベースを利用していただく仕事を進めていきます。

また博物館部門として、展示の創意工夫も重点課題になっていますね。

石森 民博は約七〇名の専任の研究者を擁し、多岐にわたる研究をおこなっています。運営資金の大半は国費、つまり税金ですから、われわれの得た成果を国民に開示する義務があります。いかにわかりやすく研究成果を提供していくかという意味において、展示手法の研究開発も重要です。一九七七年一一月に一般公開した常設展示を例にとると、マイナーチェンジの積み重ねで、大きな変化のないままでした。

その結果、残念ながら、民博の展示が来館者の多くに魅力のないものとなってきました。

石森 七七年にオープンした年の入館者数は約六〇万人もありましたが、平成一六年度の入館者数は約一六万人と落ち込みがはなはだしい。民博の展示が国民にどのようにとらえられてきたのか、入館者数が物語っているといえます。もちろん、展示だけが入館者減少の原因ではないでしょうが……。

展示について、どのような改善策を講じておられますか。

石森 文化資源という切り口で研究資料をとらえ直してみると、さまざまな試みが可能になります。昨年の七月には「みんぱく動物園」という企画展示を開催しました。

動物をテーマした展示。トラ、ゾウ、ウシ、ラクダなど、世界各地の人びとは動物との共存をはかるなかで、それぞれのとらえ方をしてきました。その見方の違いがユニークな動物像を生みだしています。

石森 親子で夏休みのひとときを楽しんでもらえたと思います。民博は研究の対象として、さまざまな動物に関する資料を有しており、それらを活用して「みんぱく動物園」というコンセプトでファミリーに向けて提示する、という試みでした。かつてなかった試みですが、携帯電話を活用した情報提供やゲームを取り入れたワークショップもおこない、楽しめる展示手法開発の手ごたえを得ました。こういった形で、文化資源の展示をとおして、研究成果を広く社会に還元していく努力を始めています。

民博のそういった努力の中核的な役割を文化資源研究センターが担っていくということになりますね。

社会や学校との連携を強化していきたい
石森 法人化にともなって、従来以上に社会にひらかれた研究機関、博物館にならなくてはいけない。つまり、社会連携が重要になります。

難しいことですが、実現していきたいですね。

石森 研究者同士の連携は、大学共同利用機関という形でじゅうぶん役割を果たしています。ところが、一般に向けてとなると、必ずしも十全な社会連携を果たしてきたとはいえません。このセンターには社会連携の研究を専門におこなっている教授がいます。社会との連携、コラボレーション(協働)をどうはかっていくのか、という研究とともに、具体的な実践もおこなっていきたいと考えています。

昨年の九月からスタートした「みんぱくミュージアムパートナーズ」制度も社会連携の一環ですね。

石森 これまではボランティアというかたちで、特別展のときなどにさまざまなご協力をお願いしてきました。法人化後はたんなるボランティアではなく、ミュージアムパートナーズと位置づけて公募をおこない、その結果、約一五〇名の応募がありました。

ありがたいことに民博大ファンの方たちがいらっしゃいますから、その人たちに民博のパートナーになっていただいたわけですね。

石森 パートナーズの方々には社会と民博の橋わたし役として、主体的に新しい活動を提案し、実施していただきたいと期待しています。

小中高など、学校と博物館の「博学連携」についてもこのセンターで扱っておられるのですね。

石森 はい、すでにこの文化資源研究センターを中心にいろんな試みが始まっています。とくにセンターの客員である高田浩二教授によって、博学連携のさまざまなプロジェクトが進められています。これなども法人化以前にはなかった新しい動きです。すでにお話しした「みんぱく動物園」というのも高田教授にご指導いただいたもので、子どもたちが民博にくることによっていろんなことを学べる学習プログラムの開発をおこなっています。

これは民博にきていただくという試みですが、民博のほうから外へでていくという企画もあるのでしょうか。

石森 従来から、「みんぱっく」というスーツケース一個分ぐらいの入れ物にいろんな資料を詰めて学校にお貸しする学習キットがあります。また現在、「みんぱく動物園」を外部で展示する試みを検討しています。私どもと福井大学、福井県立若狭歴史民俗資料館の三者が協力して、「みんぱく動物園」を福井にもっていこうという企画です。これは、標本資料をもっていくだけではなくて、学習プログラムもパッケージさせる予定で、三者で共同開発しています。
昨年実施した「みんぱく動物園」には日本全国の動物園関係者がこられて、ご好評をいただきました。関係者がこれからの課題としていたことを、民博がいち早く学習プログラム化して提供してくれたので、今後いろんな形でコラボレーションができれば……との希望を表明していただいております。

動物園も利用者の視点で変わっていかなければならない時代ですからね。

石森 今年の夏は「みんぱく水族館」という企画展示をおこなう予定です。

プロジェクトをとおしたメッセージ
研究者というのはどうしても組織になじみにくい傾向がありますが、昨年の改組は、民博の研究者の力を有機的に組織化しようという試みですね。

石森 これまで博物館部門の活動は委員会方式で運営されてきました。ただ、委員会というのはともすれば無責任になりがちなので、当センターができてからは、専門家が責任をもって五つの分野(資料管理、調査・収集、情報化、展示、社会連携)を推進していく形になりました。

われわれ研究者は、何かしたいときにプロジェクト化を考えますが、そういうときに文化資源研究センターの門を叩くと、ご協力いただけるのですか。

石森 平成一六年四月からは、文化資源プロジェクトという方式をとっており、民博の専任教員や客員教員であればだれでも企画提案をして、認められれば文化資源プロジェクトを立ち上げることができます。五つの分野について、平成一六年度は六〇数件のプロジェクトが実施され、それぞれの提案者がプロジェクトリーダーとなって進めています。当センターの専門家がサポートしますので、より有効な成果が期待できるようになってきました。

文化資源プロジェクト方式をとることで何が変わるのでしょう。

石森 最初のところでもお話しましたが、従来だと、たとえば外国で標本資料や映像の収集・取材をする場合、ともすればそのことだけで終わっていました。しかし、文化資源プロジェクトになってからは、自分の研究のためだけに資料を集めるのではなく、つねにそれらをいかなる形で社会還元していくかという視点が大切になっています。

そういう視点はこれからますます重要になってくるでしょうね。

石森 従来は単年度でプロジェクトが終わりがちだったのですが、現在進行中の六〇数件のプロジェクトのうち約六割は複数年のプロジェクトです。社会還元を視野に入れたプロジェクトが増えています。そういう意味で、これからは民博もより社会とつながりの深い研究機関になっていくのではないかと期待しています。

読者のみなさんにもどんどん民博に来ていただいて、さらに社会にひらかれた博物館になるよう応援していただきたいと思います。今日はありがとうございました。

 編集長 八杉佳穂教授
 文化資源研究センター長 石森秀三教授

表紙モノ語り
飛行機模型 (特別展「きのうよりワクワクしてきた。」 出展作品/上里浩也 作 長さ/40cm)
はたよしこ
金箔を張り込んだ実物そっくりの金閣寺のミニチュアを作るなど、世の中には自分の愛してやまない物を、自らの手で再構築することに執拗なエネルギーを注ぐ人がいる。この飛行機の作者、上里浩也さんもその思いは同じなのだろう。

彼の作品は私にとって衝撃的な魅力を持つ。それはこの作品の材料が単なる薄っぺらい紙とセロテープだけで作られているからだ。

いまどき大きなホームセンターなどに行けば、あらゆる便利な材料が揃っているというのに、彼は紙とセロテープという、このはかないほどヤワな素材で、世界中の飛行機をもう一〇年以上も作り続けている。複雑な流線型の機体の中には、やはり紙が幾重にも折り畳まれてぎっしり充填されており、ズシリとした手ごたえすらある。この制作方法は彼の独自の考案によるものだ。

上里さんには自閉症という先天的な脳の障害がある。この障害は他の人とのコミュニケーションが大変困難であり、常に不安な嵐の中に一人立っているような状態、と形容される。彼は少年の頃から父親と飛行機を見に行くのが大好きで、いつの頃からか身辺にある紙を使って作り始めたという。彼にとって、その時間は自分で決めた自分の方法で、自分を確認できる大切な時間でもあるのだろう。その方法が合理的かどうかは、彼にはほとんど意味がない。彼にとって大切なのは「自分の決めた方法」に忠実だということなのだ。

人は障害を持つことで、深い海の底を泳いで、忘れられていた知恵を汲み上げてくるのだろうか。私たちは豊かで溢れるほどの物の洪水におぼれ、水面に浮いているのが精一杯になっているような気がする。

上里浩也さんの飛行機は鋼にも勝る強さで、光っているように私には見える。

はた よしこ
 絵本作家/ボーダレス・アートギャラリー NO-MA ディレクター

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

万国津々浦々
国境島という名の島
エストニアにピーリッサーレという島がある。ピールは日本語で「国境」、サールは「島」、合わせて「国境島」という名の島だ。エストニアとロシアの間の国境線の一部は、ペイプシ湖というヨーロッパで五番目に大きい湖の真ん中を通っている。その湖に浮かぶピーリッサーレ島の面積は約八平方キロメートル。島民数は約一〇〇人で、平均六四歳。島民は主に、タマネギ栽培と漁業で生計を立てている。

この島を訪れてみようと思ったのは、ニュースで見た島に一軒しかないという雑貨屋兼食料品店が、いかにもソ連時代そのままの雰囲気を残していたからである。しかし、ピーリッサーレ島を訪れるのは、そう容易なことではない。唯一の交通手段は定期船だが、どうやら夏の間しか運航していないらしい。それも、毎日ではない。結局、二〇〇四年五月のとある日曜日、渡島がようやく実現した。タルト市で乗船し、エストニアの母なる川、エマヨキ川を下る約一時間の船旅であった。

早速、船着場にあった地図をたよりに、ニュースで見た例の店を目指した。実は、先のニュースではこの店が倒産の危機に瀕しており、島民が善後策を協議していると伝えられていた。ソ連時代そのままの無愛想な店員に、恐る恐る写真をとっていいかたずねた。返事を期待していたわけではない。要は怒られなければいいのだ。止められなかったので、店内の様子を写真におさめた。最後に、日本の黒砂糖菓子に似た味のする、昔ながらのお菓子を買って店を出た。

学校や教会はその地域の歴史を雄弁に物語ってくれる。たった一校しかない学校は随分前に廃校になったらしい。教会も、二つあるうちのひとつは使われていない様子だ。その使われていない方の教会を見ていると、向かいの家から人が出てきて、ロシア語で話しかけられた。こちらが怪しいロシア語にエストニア語を交えながら応えると、エストニア語は話せないが、理解はできるらしい。その人は、コフトラ・ヤルヴェという、これまたロシア語話者の多い都市で働いており、その日は島に一人で住む母親に会いに帰って来ているという。その母親がでてきてこういった。昔はもう少しエストニア語を知っていた。でももう忘れてしまった、と。実はこの島の島民は、一七世紀に宗教迫害を逃れてロシアからやってきた古儀式派(ロシア正教分離派)の人たちを祖先にもつ。そうした来歴から、島民の大半はロシア語話者である。とはいえ、両大戦間期の国家建設期にはここでもエストニア語教育がおこなわれていたのであるが、年寄りばかりになってしまった現在、島にはそうした言語政策は及んでいない。別れ際、息子の方が自家製の魚の干物をくれ、来月の島の祭りに来たら楽しいのに、と名残を惜しんでくれた。

食料を手に入れたので、郵便局の敷地内にあったベンチで先程の菓子と塩辛い干物を交互に食べていると、近くの小屋からでてきた国境警備隊員にパスポートの提示を求められた。その隊員は名前と旅券番号を控え、「問題を起こさないように」とだけ言い残して去っていった。どうやらこの島には二名の国境警備隊員が常駐しているらしい。おもしろいことに、西のバルト海に浮かぶ、ラトビアにほど近いキヒヌ島の監視塔は鉄条網でしっかり囲われていたが、ピーリッサーレ島の監視塔には柵も何もない。あれでは、誰でも登れてしまうだろう。大国ロシアとの国境を守っているとは思えない、のんびりした風情であった。

人生は決まり文句で
「ホップ、マイリ」─ウズベク流処世術の機微
さまざまな場面に登場する「ホップ、マイリ」
ウズベク人とウズベキスタンをこよなく愛し、ソ連解体後いろいろな困難がありながらも長年暮らしたウズベキスタンをどうしても去ることのできないロシア人の女友達が言う。「まったくウズベク人の『ホップ、マイリ』ときたら!厄介なこと、この上ないわね」。

「ホップ」と「マイリ」は別々の単語で、「ホップ、マイリ」というフレーズで使われることもあれば、それぞれ別個に使われることもある。文法的には「ホップ」は間投詞、「マイリ」は形容詞だが、それぞれよく似た意味をもっていて、基本的には同意・了解・受諾などを表す。訳は文脈によるので実は難しいのだが、「わかりました」「いいよ」「OK」などというのが最も一般的なところだろう。

しかし、いったん現実の会話の世界となると、この「ホップ、マイリ」あるいは「ホップ」と「マイリ」は実にさまざまな場面で登場し、さまざまなニュアンスを帯びることになる。いくつか例をあげてみよう。誰かが依頼や命令をしているとき、しばしば聞き手は話の合間に「ホップ、……ホップ」とあいづちをうつ。「いいですね、必ずですよ」というような念押しの場合には今度は話し手のほうが疑問を表す「ミ」をつけて、尻上がりのイントネーションで「ホップミ?」または「マイリミ?」と言う。電話を切る直前に「では、失礼します」「じゃ、またね」という感じで「ホップ」または「ホップ、マイリ」。バザールで買い手に値切りに値切られた売り手が最後に発する「マイリ」は、「しょうがない、まけとくか」ということである。私の目撃した一場面では、父親にたばこを買いに行って来いと言われた少女が、一瞬いやそうな表情を見せたが「ホップ」と言って、お店へ走って行った。

「ホップ、マイリ」の行間が読めるようになったら……
そして「厄介なこと、この上ない」のはなぜかというと、同意・了解・受諾といっても当然喜んでする場合としぶしぶする場合があって、年長者や客人に対して決して逆らわないことを美徳として対人関係を維持しようとするウズベク人の「ホップ、マイリ」が、極端な場合、実現不可能なことに対しても「ホップ、マイリ」と言っていたり、実は婉曲な拒否であったりしたことに、ずっと後になって気づくこともあるからである。それでことを荒立てれば、彼らはやはり対人関係を損ねないよう、長い説明をして自分に非のないことを訴え、最後には結局また「ホップ、マイリ」にいきつく。

くだんの女友達はこの「ホップ、マイリ」に何回も痛い目にあわされてきたというわけだ。しかし彼女いわく、「東洋じゃ、ものごとはしごく繊細って言うでしょ。それがわからなければここでは生きていけないし、だからこそ、ここで生きていくのがおもしろいのよ」。いうなれば、「ホップ、マイリ」の行間が読めるようになってきたら、ウズベク流処世術の機微が少しはわかってきたということだ。私にはその道はまだまだ遠そうだけれど。

手習い塾
点字で読み書き 指先で触れる文字
全盲の僕が点字を使って大学受験したのは二〇年近く前のこと。そのころは、普通の参考書やテキストを点字にしてくれる点訳ボランティアのお世話になった。今でも僕は、各地のボランティアが点訳した本を研究のために利用している。普通の文字を特殊な文字に変換する作業、視覚障害者(マイノリティ)に対する情報保障の手段が点訳だといえよう。

ここ数年、僕が関わっている豊中市のある点字サークルでは毎年、点字によるカレンダーを作って全国の希望者に無料配布している。パソコン、点字プリンターを使えば点訳、複製は容易だが、あえて昔ながらの点字器、タイプライターで一文字ずつ点字を打つことにこだわっている。点訳サークルが、点字「を」勉強することを主目的にしているとすれば、点字サークルのテーマは、点字「で」勉強することかもしれない。ボツボツした点字「で」ぼつぼつと自分の名前を書き、ぼつぼつと読み返す。それは視覚障害者の文化、文字に対する盲人の勃々(ぼつぼつ)たる思いを知ることなのだ。

自身も全盲だったフランス人ルイ・ブライユ(Louis Braille、一八〇九?五二)は、フランスの軍隊で使われていた「夜の文字」という暗号にヒントを得て点字を考案した。当時の盲学校には教材などほとんどなく、生徒たちは自己表現、情報伝達の手段である文字をもっていなかった。六点の組み合わせによりアルファベット、数字、記号を表現する点字は、視覚障害者が簡便に読み書きできる触覚文字として圧倒的な支持を集めた。一八二五年、ブライユは点字の配列表をほぼ完成し、この表が世界各地に普及した。日本点字は一八九〇年、東京盲唖学校の石川倉次(一八五九?一九四四)により翻案され、多少の表記法の変更を経て現在に至っている。

僕は点訳サークル、点字サークルに集う晴眼者に接しながら、視覚障害者用の特殊な文字として案出された点字の意味、そして多様な文字(生き方)の可能性について考える。点字は多数者が用いる普通の文字とは異なるため、効率的なコミュニケーションには適していない(便利さのみを追求する現代社会のある種の「いやし」として、点字を学ぶ晴眼者がぼつぼつ増えてほしいものだ)。一方、点字はその特殊性ゆえに異文化(視覚に対する触覚、目に対する手)を意識するひとつのきっかけともなりうる(ボツボツを手打ちし、触読すれば、脳が刺激されボケ防止になるかも!?)。

さあ、まずはあなたも駅の券売機、街中のポスト、公共施設のエレベーターなど身近にある点字表記を「解読」してみよう! 次回は実際に点字器に向かって、ぼつボツ点字を書く方法をご説明したい。

 * 本紙P17「点字を読んでみよう(凸面配列)」は、画像データでご覧下さい。

地球を集める
砂漠の水彩画
画家をさがして
オーストラリア大陸のほぼ中央、砂漠の真ん中にできた都市、アリス・スプリングズ。街区を二分する乾季のトッド河には、アボリジナルの姿がちらほら見える。その乾ききった砂だらけの河を、僕は町はずれから上流に向かって歩きだした。アボリジナルの水彩画家をさがすためである。アボリジナルと出会うたびに、だれかれとなく画家を知らないかとたずねる。うさんくさそうに見られ、素っ気ない返事がかえるだけで、いくらたっても手がかりがつかめない。

許可証がないまま、翌日は思いきって、街区のはずれにあるアボリジナル居住区へいってみる。そこには、砂漠の各地からさまざまな目的でこの町にでてきた、一時的な滞在者がいるはずである。入り口には「立ち入り禁止」の看板がある。それを無視して足を踏み入れると、まもなくして数人の男女にとりかこまれた。「何しに来た」 「タバコをくれ」「ビールを買ってこい」。僕がまきおこしたわけのわからない大騒ぎが一段落すると、デヴィッドと名のる男が絵を描いてやるという。「画家か」ときくと、「ハーマンス・バーグ派だ」とこたえる。

ハーマンス・バーグ派とは、アレンテ(アランダ)の男性、アルバート・ナマチラの流れをくむ水彩画とその作家たちをいう。一九三〇年代、ルーテル教会派が運営するハーマンス・バーグ・ミッション(伝道所を中心にした集落)に住んでいたナマチラは、ここを写生旅行の拠点にしていたイギリス人画家、レックス・バタビーの案内役をつとめていた。何回か砂漠を案内し、この集落で開かれたバタビーの展覧会を見たあとの一九三六年のことだった。ナマチラは、描くべき対象の選択や構図の取り方、色や筆使いなどの制作技法をほとんど教えられなかったにもかかわらず、バタビーの道具を借りて、一枚の作品「すり鉢状の土地」を描きあげた。

ナマチラが見よう見まねで作品を完成できたのには、つぎのような背景があったと思われる。砂漠地域などで意図的に伝統的な生活をするアボリジナルは、新しい技術を観察にもとづいて獲得してきた。ナマチラは案内を重ねるうちに、水彩画の技法を習得したのだろう。

写生はしない
その後ナマチラは、砂漠の風景を題材にした多くの作品を制作した。それらは師のバタビーよりも高く評価され、そのひとつを「アボリジナルが制作した作品」としては初めて南オーストラリア美術館が購入するところとなった。こうして彼は、「アボリジナル水彩画家」の地位を確立する。ナマチラはその技法を、多くの親族に教えた。教えられた人は、同じことを彼らの親族に伝えていった。ハーマンス・バーグ派はこうして形成された。

デヴィッドもその一人だという。彼はケヴィンという男性を紹介すると、二人がそれぞれ描いてやろうといってくれる。「ではお願いします」。そう頼むと、「絵の具と画用紙、筆がいる」という。この言葉に面食らった僕は、思わず心のなかでつぶやいた。「こいつら本物か。画家がなんで仕事の道具をもってないんだ」。しかし、二日がかりで探しだした相手である。「嘘も文化のうち」と思いなおして、指定された注文の品をそろえてでなおした。

「俺のカントリー(祖先からの本来の土地)、アレンテの土地を描いてやろう」。アリス・スプリングズは、確かにアレンテの土地にできた町である。二人は新品の道具一式をかかえて屋外に出ると、空きびんに水を入れ、缶をナイフで切り裂いてパレットをつくり、その場に座りこんだ。彼らは画用紙に鉛筆で縁取りをし上半分ほどを水色に塗ると、いきなりガムの木(ユーカリの一種)らしきものを描きはじめた。おどろいた僕は、「写生はしないのか」と叫んでしまった。ハーマンス・バーグ派の作品はすべてが写生だと思っていたし、またそうも解説されていたからだ。「頭のなかにある」。それが二人のこたえだった。

ツーリスト・アート?
二時間ほどで完成した二枚の水彩画は、確かにハーマンス・バーグ派の特徴をそなえている。地平線が高いところにおかれ、手前の樹木は非対称をなし、画面のはしも中央と同じ重さで描かれている。さらに作品には、ヨーロッパ人がもたらした家屋も家畜も、アボリジナル自身でさえも登場しない。デヴィッドたちは、まぎれもないハーマンス・バーグ派の画家だった。彼らが描いたのは、創世の時代に精霊が創りあげた風景であり、幾世代にもわたり人びとが生きてきた土地であった。二人の画家もまた、そこに暮らしている。

砂漠の水彩画は、いまなお「ツーリスト・アート」としてしか専門家は評価しない。しかし、それらの作品は、砂漠にひろがるアボリジナルの世界を、人びとに紹介しつづけている。

生きもの博物誌
ゾウの肉に集まる人びと
林 耕次
緊張みなぎる狩猟
集落から一〇キロメートルほど離れた森の奥では、灌木や草が倒され、明らかに巨大な動物が通過したあとの獣道が続いていた。地面には、直径二〇センチメートルほどの丸い足跡がいくつもしるされている。周囲がかすかに獣くさいことに加え、足跡の様子や水たまりの濁った状態から、マルミミゾウがその先にいることがわかる。追跡をおこなっていた男たちの顔には緊張がみなぎり、二人の狩猟者は手にした銃に弾を込めはじめた。

私は、アフリカの熱帯雨林に位置するカメルーン南東部で、定住生活を送りながら季節に応じて狩猟採集をおこなうバカ・ピグミーの人びとと、乾季のキャンプ生活を共にしていた。彼らは食用のためにゾウを狩る。

狩猟者は上着を脱いで、それぞれの銃筒部分に一メートル弱の槍を差し込むと追跡を再開した。やがて、バイと呼ばれる見晴らしのよい湿地に出ると、前方一〇〇メートルほど先に数頭のゾウの群れを確認した。私は皆に促されて、近くの樹上に待避する。狩猟者は、ゾウに気付かれないよう五?一〇メートルまで接近するために、風下から草木に身を潜めつつ、細心の注意を払いながら近づいていった。やがて、銃声と共にゾウの雄叫びが響いたが、このときの狩猟は失敗に終わった。発砲の勢いで槍を飛ばしたものの、跳ね返されてあえなく逃げられてしまったのだ。

あますことなく分配
別の機会を得て、私はゾウを仕留めたあとのキャンプに同行した。ゾウ狩り成功の知らせを受けた人びとは、興奮混じりで移動の準備を始めた。翌朝、ゾウを倒した現場に到着すると、すでに狩猟に携わっていた男が数名がかりで解体をおこなっていた。分厚い皮を剥いだり太い骨を砕くのには斧が使われ、肉の切り出しには鋭利な槍の刃先を取り外して、ナイフ代わりに扱っている。

切り出した肉は、灌木を組んだ専用の乾燥棚に運ばれて下から燻(いぶ)される。この肉を手製の臼と杵で丹念についた後に、ゾウの脂肪で炒めて塩とトウガラシで味を付けた「モサブ」は、まさにゾウ肉ならではの調理法といえよう。生の肉から調理したものに比べて、こちらは肉の繊維がじゅうぶんにほぐされたこともあり柔らかい。また、燻されたことで香ばしくなり食べやすい。

燻すことで保存性を高めた肉の一部は集落に持ち帰り、それぞれの集落以外の人びとにも分配される。バカの人びとにとってマルミミゾウの狩猟は、多量の肉が一度に手に入り、広範囲に肉の分配が可能という点でも重要視されているのである。

一九七〇年代末から八〇年代にかけては、アフリカゾウにとって受難の時代であった。熱帯雨林のマルミミゾウも、象牙を目的とした大規模な密猟によってその数は半減したといわれている。カメルーンを含むアフリカ各国では、ゾウ狩猟に対する規制が厳しくなり、密猟や象牙取引の取り締まりが強化された。密猟者のなかには禁固刑を命ぜられるものもいるという。慣習的な要素を併せ持つゾウ狩猟は依然としておこなわれているが、当事者であるバカの人びとにとっては、従来の狩猟を継続することが困難になりつつある。

マルミミゾウ(学名:Loxodonta cyclotis)
別名シンリンゾウとも呼ばれ、アフリカ中央部から西部の森林地帯に生息する。個体数は、1987年時点で推定375,000頭という報告がある。アフリカゾウのなかでもサハラ以南に生息するサバンナ性の個体群(学名:Loxodonta africana)に比べて小型で耳が丸く、象牙は湾曲せず直線的に下に伸びているのが特徴。体型の違うアフリカゾウの亜種とされていたが、遺伝子がかなり異なることから、近年、両者は別の種としてとらえるべきであるとの見解がある。

見ごろ・食べごろ人類学
ちょっと気になるラフの腰衣
西本陽一
市のお目当て
私の住んでいた北タイの山地民ラフの村の近くには、火曜日に定期市がやってくる。曜日ごとに各町を回っている巡回定期市だ。市では、平地民の北タイ人だけでなく、いろいろな山地民の言葉や衣装が行き交っている。バイクを持っていた私は、よくラフのおばさんたちの足として使われていた。彼女たちのお目当てのひとつはテドゥである。市でラフの女たちは、時間をかけてテドゥを選んでいる。

「テドゥ」というのは、長方形の布の二辺を縫い合わせて筒状にした腰衣(巻きスカート)のことだ。安物から高級品までテドゥの値段はさまざまだが、定期市では、プリント・バティックのプリントがずれたりした不完全なものもあり、三枚一〇〇バーツ(約三〇〇円)とか四枚一〇〇バーツといった大安値である。目的や用途ごとに何枚ものテドゥを探す女性もいる。このテドゥは、よそ者にはなにかと気になる存在だ。

工場製のシャツやパンツが安く手に入る現在でも、村ではけっこうテドゥを見かける。村のラフの女性はだいたいパンツや洋服のスカートよりもテドゥを着ている。若い人でも結構そうだ。いろいろな色、いろいろな柄のテドゥを着る。普段はぼろのテドゥを着ていても、何かの時にはきれいなテドゥ、大事にしまってあるテドゥを出して着る。正月祭の踊りの輪では、ラフの伝統柄のテドゥが並んで、晴れやかな雰囲気を盛りあげる。テドゥは大事なおしゃれの道具でもある。

テドゥを着る時には、その筒の中に入り込み、腰のところの布の余分な部分をたくし込んで固定する。人びとは、姿勢を変える時などに、テドゥを直す。ベルトもしないのに、ほどけることはほとんどなく、けっこう楽に動いているように見える。テドゥを着て農作業だってやるのだから大したものである。お金をたくし込んで、ポケットのように使うこともある。考えてみれば、ラフの女の足の脛から上は、ほとんどいつもテドゥにくるまれている。

テドゥを着ている女は、その下が見えないように、普段から気をつけている。昔の人はテドゥの下に下着なんかつけなかったし、今でも年配の人にはそういう人が多い。しゃがむときには、両足の間にあるテドゥの端を手で押さえながら足を曲げる。いかにも大変そうだが、彼女らにとっては無意識の身体感覚なのだろう。

女たちは水浴びするときにも、テドゥを着けたままだ。おばさんたちならトップレスなどお構いなしだが、腰に巻かれたテドゥがはずされることはない。テドゥの下で石鹸を体に塗って流して水浴びを終え、そのまま新しいテドゥを頭から降ろして着ける。古い濡れたテドゥは足下に落とし、その場ですすいで、叩いて、絞って洗濯してしまう。

下着でもあり、おしゃれ着でも…
女物のテドゥが男の頭の近くや上にあるのはとんでもないこととされる。日本でも下着を人の頭の近くなんかに干しておけば、失礼になる。テドゥは半分下着なのだろうか。ただ、ラフでは、女ならともかく、男の頭の近くに女のテドゥがあるなんて、という調子だった。男尊女卑といえば、そうなのかもしれない。

若い人にはいないけれど、年配のラフの女性が、ふと突然立ち止まったかと思うと、テドゥの裾をひざのちょっと上まであげて、立ったまま、微妙に前にかがむことがある。次に聞こえてくるのは「ジャー」という滝のような音。この微妙な前かがみは、テドゥをぬらさずに立小便をする技なのだ。「あれには面喰うよねー」。思いがけず同じ体験をした日本人の友人も、私と同じ感想を吐いた。

私がクリスチャンの村に住んでいたときのホストファミリーのお母さん(四〇歳代)は、テドゥの下に下着のパンツをはいていた。これだと立小便は出来ない。家の外に出ていって用を足すときには、テドゥをほどいて、しゃがみこんでいた。しゃがみこんだ体の周りにかかげたテドゥが、円筒形の覆いとなり、体を隠す。お母さんは用を足すと立ち上がって再びテドゥを巻く。

トイレがある家でも、小の方は外でやることが多い。自然の中でやる小便には開放感がある。夜に小便に出たら夜空には満天の星が、と誰かが書いていたのを思い出す。山の村に長く住んで屋外で小便する自由に慣れてしまうと町に戻ったときつらい。小便ごときのために、狭苦しく湿った閉塞空間に入らなければならないと、みじめなようなみすぼらしいような気持ちになる。

ラフの女性にとって、テドゥは下着でもありおしゃれ着でもある。汚れともなり美しさともなる。テドゥがなにかと気にかかる存在である訳は、そのあたりにあるのだろう。

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