国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年6月号

2005年6月号
第29巻第6号通巻第333号
2005年6月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
花で伝える伝統文化
池坊 由紀
そのシンプルな生花(しょうか)の前になぜか大勢の人が集まっていた。台湾でのデモンストレーションが終わった時のことだ。デモンストレーションでは通常、一時間から一時間半の中で一〇作程度、大中小さまざまないけばなをいけ、披露する。内容も古典的なものから、現代的なものなど多彩だ。その時もいろいろいけたのだが、この一種類の花材しか使っていない、しかも本数も決して多くない生花がこれほど人気だとは、意外だった。  海外でいけばなのデモンストレーションをする場合は、いろいろなことに気を遣う。まず使う草木の種類が日本ほどは、多く手に入らない。花屋さんはまさしく花屋さんであって、いけばなにとって重要な枝や葉には不足する。いけばなの美意識は、花と共に葉を見て美を感じるところから始まっている。緑という、どんな色にも合う、どんな形にも合う万能の存在があってこそ、はじめて花が生かされ、また共に用いることによってそこに美しい対比が出来、世界が深まるのだ。従って、花屋さんに葉がないなら野山に分け入って採ってきたりもする。  また海外の方に親しみを抱いてもらえるような工夫も必要だ。日本の花を持ってきて日本からの器を使っていけるだけでは、ショーとして楽しく印象的であっても、では自分たちがやってみようという意欲には結びつきにくい。むしろその行く先々にある花で、時には器などもそこの特産の焼き物や漆製品等を活用していく。その国の民族性、宗教性や生活環境を尊重しながら無理のない方法でいけばなならではの美意識や哲学を理解してもらう。が時としてその思いが強くなりすぎて反省することもある。盛り沢山のフラワーアレンジメントに雰囲気の近いいけばな作品が好まれるだろうと勝手に推察しいけたことがあった。が実際は、古典的な作品が好まれた。表面的なことだけを似せても繕ったことはすぐに見抜かれてしまう。  各々の国が各々の自然環境の中で育んできた文化や伝統があり、それを誇りにしているように、日本人は日本の文化や伝統をゆがめることなく伝えていかなくてはいけないのだろう。相手を理解しようと努め、心を寄り添わせることと、中途半端に表面的に相手に迎合することは、全く異なるのだ。私たち日本人がいかに正しく澄んだ心で日本を捉えられているか、そしてその像をどのような形で海外に発信出来ているのか、一枝一枝挿すたびごとに問われているような気がしてならない。

*池坊いけばなには、立花(りっか)、生花(しょうか)、自由花(じゆうか)の様式があり、生花は草木の出生を重んじ、三つの枝で構成する。
いけのぼう ゆき/華道家元池坊次期家元。伝統文化発信についてのワーキングへの参加や講演など、いけばなの心をとおして多彩な活動をおこなっている。
特集 見せる──絵空事と遊び心
つくり物の世界と本物の世界の区別がつかないほど、
技術が発達してきた現代の娯楽産業。
しかし、空とぶ絨毯(じゅうたん)をつるす糸が見えてしまっていたころの映画に
いまだに魅せられるのは、単に懐旧の念だけで
説明できることではないかもしれない。
現実とのずれを見せる芸、虚構であることを知りつつ楽しむ余裕。
そんな騙(だま)し・騙(だま)されのゲームは、
遊び心を共有することによって成立する。
絵空事との付き合い方について考える。

目眩(めくら)まされ、騙(かた)られる快感 
子どものころ、興味津々だったものがある。ひとつは怪獣映画。長い休みの前に学校で配られる割引券を毎回きちんと消費するのがわが家の常だった。もうひとつは見世物小屋。近所の薬師堂の縁日には必ず見世物小屋が出た。毎年親に連れられて出かけたが、実際になかに入ったのは、少し大きくなって一人で行くようになってからだった。このふたつ、ぼくのなかでは実はつながっていた。
怪獣映画といっても今のようにCGなんて使わない。流行のギャグを真似たり膝で四足歩行をしたり、いかにもなかに人が入っているのがわかる代物だった。見世物にしても映画会社が作った現代のお化け屋敷にはほど遠い。キッチュな看板を掲げた薄暗い小屋のなかで、人がごそごそ動いているといった具合だった。
ぼくは当然ながら、いずれもまったくの本物とは思っていなかった。かといって、子どもだましの嘘と醒めていたわけではない。毎回出かけていっては映画館や小屋のなかでめくるめく時を過ごし、見た後は充実感に満たされていた。確かにぼくは、そこで演じられる怪獣や異形の人びとが登場する虚構の世界に夢中になり、それとの遭遇を楽しんでいた。
こうしたぼくの嗜好は、せっせと獅子舞見物に出かけている今もあまり変わっていない気がする。各地では実にさまざまな獅子を目にした。猫のようにじゃれる獅子、振袖姿で男に恋い焦がれる獅子、碁盤上で逆立ちする獅子。さまざまに趣向を凝らした獅子に出逢うとつい見入ってしまう。どれも人が演じていることは百も承知だが、演者たちは思いも寄らない身体の用い方でこの世ならざる聖獣を出現させる。それがぼくの目と心を奪ってしまう。
改めて考えてみると、こうした事態は見物という行為には大なり小なり付き物なのに気づく。芸能しかり、見世物しかり、祭りのパレードしかり。さらにそれは、視覚に限らず聴覚、即ち話芸や物売りなどの言葉の世界にも及んでいる。ぼくらはそこで見せられ、騙られたことを、どこかで絵空事と了解しつつもつい魅せられてしまう。なぜそれを享受するのか。そこでは、平素馴染みの身体や物品や言葉をあえて用い方を変えることで、日常とは異なる世界が出現する。その変化(へんげ)の鮮やかさにぼくらの普段の意識や感覚のありようが揺るがされ、世知辛い現実から一瞬自由になる浮遊感や開放感を感じるからかも知れない。目眩まされ、騙られる快感とでもいおうか。
しかし、絵空事だからといって侮(あなど)るなかれ。この種の快感に人は陶酔し、時として規則や秩序に統御された現実世界の否定へと駆り立てられる。古今東西を問わず、時の権力が芸能に神経をとがらせ、ことあるごとに抑圧してきたのは、見物のこうした性向とたぶん無関係ではない。
肝心なのは、あくまで絵空事は絵空事として遊び楽しむこと。それは昨今話題の仮想現実(ヴァーチャルリァリティ)にも通じるような気がする。

不思議の幻術──「放下(ほうか)」に惚(ほう)ける
上島 敏昭
考えてみれば、手品というのはヘンな芸能だ。手品師は騙しのプロで、客はそれを承知で騙されて大喜びする。また、そこには必ず種があるのに、手品師はけっしてネタバラシなどしない。なんとも客をコケにした芸能だ。そんな手品のどこに、私たちは魅力を感じるのだろう。
もっとも、ネタバラシは厳禁というのは、あくまでも建前、実際には、昔からたくさんの手品の種本が発行されてきた。その代表的な一冊に『放下筌(ほうかせん)』がある。放下とは、手品の、当時の呼称である。しかし、中世以来の芸能ジャンルとしての放下は、もっと広義で、毬や棒、刀などを投げる、現在のジャグリングを中心に、手品ばかりか歌までも含むものだった。いくつもの玉を投げ分けたり、トリックで目を眩ませたり、節おもしろく歌ったりして、人間業とは思えない不思議を現出する芸能、それが放下だった。
富山県の民謡「こきりこ」の源流も放下で、『七十一番職人歌合』に描かれた「はうか」は、こきりこを打ち鳴らしている。腰にさした柄杓(ひしゃく)は布施や投げ銭を受け取るため、また、七夕飾りのような笹を背負っているのも特徴である。能の「隅田川」や「三井寺」では、狂女が笹を持って登場する。これを狂い笹といい、狂気のシンボルとされる。
(きょう)は芸能と縁が深い。細川涼一は『逸脱の日本中世』で「芸能者そのものが狂者と見られ」、「村を離れて流浪し、場所柄をわきまえず道にあくがれ出て歌舞するものを『狂』と見るのが、中世日本の狂気観であった」と書く。つまり、広義のマジシャン=放下師は、生活不適格者として社会から締め出された存在であった。
そしてひとたび彼らが社会の内に入ると、危険な存在として恐れられ、排除された。たとえば、泡坂妻夫『大江戸奇術考』では、キリシタンの残党として磔刑(たっけい)にされた市橋庄助と島田清庵、それに奇怪な幻術を用いたとして死刑に処せられた生田中務らの名前を挙げている。また、井原西鶴の最後の作品『西鶴織留(さいかくおりどめ)』に「我が朝の果心居士 これらが技術の法は乱のもとひ」と記された伝説のマジシャン・果心居士には、信長や秀吉と対決したとの伝承があり、いくつもの小説に題材を提供してきた。
なぜ彼らが、世の中を乱すと断定され、権力者の怒りにふれたのか。それはいうまでもなく、権力のからくりが手品の手口そのものだからだ。つまりこの社会は、権力者が主宰するマジックショーであり、そこでは権力者こそが手品師。ネタバラシなどされたら、その途端に現実はひっくり返ってしまう。これでは手品師は権力者の目を逃れ、社会を離れて流浪するしかあるまい。
私たちが手品に楽しさを覚えるのは、社会から落ちこぼれた手品師に身をまかせることで、私たちを呪縛する社会の常識から精神を解き放ち、権力や現実原則から自由になった桃源郷に、しばしのあいだ遊ぶことができるからなのだ。

祭礼つくり物──熊本城下の雨乞い
福原 敏男
都市祭礼の楽しみのひとつは、そぞろ歩きしながら、町々が出した趣向を凝らしたつくり物を見較べることにあろう。街の鎮守に奉納され、見物者の目を喜ばせるために美しく飾り立てられたつくり物。都市では複数集団が対抗するため、つくり物の趣向競争はエスカレートし、その華やかさは村まつりとは全く別種のものとなる。見物者をあっといわせるつくり物を毎年つくり替えては展示し、または行列し、終わったら流し、焼きすてるところもある。その根底には、「風流」(ふりゅう)という一回性、流行性、意外性の美意識が流れている。
一見危機に瀕する儀礼と考えられる真剣な雨乞いにおいてさえ、祭礼つくり物の世界が横溢する事例は数多い。たとえば、江戸時代の熊本城下では雨乞いの練物(つくり物、仮装、囃子の行列)が毎年のようにおこなわれた。旱魃(かんばつ)の恐れがあると各地から雨乞いに因んだつくり物を出し、春日の横手村(現熊本市横手)を先頭に行列をつらねて熊本城下を練り歩いた。同村では雨乞い祈願の際、縄を巻き付けた梵鐘(ぼんしょう)をいったん池に沈めて引揚げるところから、雨乞い行事自体を「鐘巻(かねまき)」とよぶ。肥後の地誌『肥後国誌』によると、旱魃の年、横手村手永と田崎村では女面の蛇身が鐘にまといついたつくり物を出して囃した。権道村からは夥しい仮装の山伏を出して横手の鐘ヶ淵まで練り、田崎村の農夫が蛇の止(とど)めを刺す所作をし、鐘とともに淵に沈めると験(ききめ)があり雨が降った、とも伝えられる。天保年間の『名所・名物東肥名寄』によると、この雨乞いに各地より出される比丘尼、坊主、唐辛子、山伏、大名行列などのつくり物が有名であり、1780年までに58回も「鐘巻」が出たという。この行事を描いた『肥後村々雨乞行列彩色画』全一七巻(熊本大学五校記念館蔵)や『鐘巻雨乞全略図』(国立歴史民俗博物館蔵)は実に興味深い。後者は1814年夏の「雨乞行列之図」を1873年7月に久陲堂が再板行したものであるが、その代表的な出し物(括弧内)を記す。
横手村の猩々(しょうじょう)は中国伝来の酒好きの霊獣で能や歌舞伎舞踊を媒介にして、祭礼風流に好んで採り入れられた。御寺領村(験者が数珠をもって鐘を念じる)、田崎村と椎田村(雷神)、久末村と阿弥陀寺村(竜王)、荒尾村(竜神)、今村(竜神珠取り)、十三村(宝珠と団扇)、二本木村(鐘巻)は、竜にまつわる雨乞いイメージのつくり物である。権藤村(屋台の天狗人形と大法螺貝)と苅草村(天狗面)は山伏と験力に関するつくり物、戸坂村(忠臣蔵猟師の勘平)、田崎村(小野道風)、嶋村(大大根と頼光の鬼退治)、土川原村(相合傘)、池端村(蟹)、上白石村(蓑亀)は芝居、文芸、瑞兆のつくり物であろう。最後の正保村(大名行列)も近世の都市祭礼にはお馴染みの風流である。現実の大名行列の直の写し、または歌舞伎の奴振(やっこぶ)りなどのフィルターを通して祭礼行列になったものなどさまざまなケースがある。
なかでも、とりわけ異様なのは濱口村(神主と巫女の乱交)である。同じ濱口村の出し物(精力が雨を呼ぶ趣向)でも『肥後村々雨乞行列彩色画』と『鐘巻雨乞全略図』は、出た年によって違いがあるのか、絵師によって表現が異なるのか、図のように異なる。毎年恒例の祭礼におけるつくり物ならば藩による風俗の検閲もできようが、臨時の祝祭では規制が行き届かなかったのであろう。祝祭につきものの「日常の逆転」(聖職者の堕落)が現状(旱魃)打破を呼び込むという連想を喚起するものであろうか、まるで目眩ましにあったようである。

寛容な客──ニセ者の芸能史にむけて
真鍋 昌賢
寄席に客をいかに引き込むのか。いや、もっと正確に言うならば、通りすがりの者をいかに客に変えるのか。ビラ、ポスター、看板、幟(のぼり)、さらには新聞広告などによる呼びかけは、小屋の外で繰り広げられるかけひきのための「パフォーマンス」だ。ときにその呼びかけは、興行の内実からかけはなれた宣伝となる場合もあるだろう。たとえば、顔を知られていないのをいいことに、有名演者と酷似した名前を掲示して客を誘い込むというやり口がある。  作家・正岡容(いるる)は、浪曲のインチキ興行に出くわしたことを短いエッセイに書いている。昭和10年、沼袋付近の新開地にある「汚い寄席」での出来事である。出演者は「九州が生んだ名人米若」や「関西の大御所木村重友」であった。ただし出身地は小さな「割り注」としてこっそり挿入されていた。本物の米若は新潟県出身であり、重友は神奈川県出身である。つまりこの興行は、当時の有名演者である寿々木米若や木村重友の名を騙(かた)るニセ者の仕業だった。三分の一の客はニセ者と知った上で入場しており、あとの三分の二はレコードやトーキーでおなじみの重友や米若が聴ける、見られると信じていたのだという。さてニセ者の口演はというと、なんと本物そっくりであった。特にニセ重友の節回しは、本物の全盛期を彷彿とさせるものだったという。正岡は本物であると信じ切っている客たちが多いと記しているのだが、むしろ注目したいのは、ニセ者であると気づいている客が少なからずいたことである。気づいている客がいるのならば、野次がとんで場が混乱してもよさそうなものだ。しかしニセ者の実力は、インチキ臭さに気づいていた客の寛容さをひきだすのに充分であった。ニセ者とおとなしく聴き入る客とのあいだには、いわば「共犯関係」が成立していたのである。
有名浪曲師のニセ者が、かつては田舎を中心に「活躍」していた。こっそり営業する彼らの人数を、はっきりとつかむことはできないのだが、どうやら一人や二人ではなかったようである。浪曲界の番付のなかには、本名や写真を入れて、騙されないようにとの注意書きをわざわざ記したものもあった。また昭和10年代のファン雑誌のひとつを開くと、ニセ者の芸名がならべられて注意が呼びかけられている。鼈甲斎虎丸ならぬ亀甲斎虎丸、東家楽燕ならぬ東家薬燕、春野百合子ならぬ春日野百合子などなど。酷似する名前のバリエーションが多いのは、吉田奈良丸である。奈良九、関東奈良丸、奈良一丸などが営業していたという。有名浪曲師の名前を騙る者はあとを絶たなかった。
正岡の経験は、メディアの受容史的な関心から読み解かれるべき出来事である。ニセ浪曲師の「悪徳商法」は、レコードの普及がなければ成立しえなかった。レコードは声を複製することにより、全国的な有名演者をつくりだし、さらには繰り返し聴いて物まねをする聴衆をつくりだした。つまりレコード・ラジオが十分に普及し、なおかつテレビが普及していないという条件のもとで、浪曲師のニセ者はこっそりと、しかし闊達(かったつ)に活躍できたのだ。ウソとマコトの境界線上に身をゆだねるニセ者たちは、世の中が共有するメディア環境、さらには複製をめぐる思想のあり方にその命運を握られている。言説に残りにくいニセ者の実践史も、確かに日本芸能史の一部であるといえるだろう。

未来へひらくミュージアム
ミュージアムとITのいい関係
高田 浩二
ミュージアムで命のこもった実物の魅力にふれ、
圧倒された経験を思い出そう。
しかし、ミュージアムはあまりに遠い。
いや、ちょっと待てよ、ITを活用してみよう。
ほら、ミュージアムがすぐそこまで来ている!
博物館は一生に一度行く?  かつて、「動物園は一生に三度、博物館は一度行く」と言われた。つまり、動物園では、初回は幼児の時に保護者に連れられ、次は小学校の遠足、そして自分の子どもを連れて行く時である。では博物館は?というと、「小学校の遠足で一回行っただけ」というのだ。しかも、「遠足博物館」という言葉さえあるようだ。一生に一度は、ちょっと極端なたとえだろうが、はたして、博物館はこれほどまでに、印象が薄く魅力に欠ける施設だったのだろうか。  また一般に、「博物館とはどんな施設か?」と問いかけると、多くの人は「歴史的な作品や学術資料を観覧する場所」と回答するが、そのなかに「学びの場」や「教育の場」という言葉はなかなか得ることができない。  これらの原因は、一般の方の博物館への意識が低いからではない。博物館側に、入館者に提供するものは何か、その提供手段はマンネリ化していないか、体質や運営システムが古くなっていないか、などの自己検証と改革への努力が、不足していたことが最大の要因ではないか。これらを打破していくには、多方面のチャンネルとつながる情報ネットワークをもち、多くの情報をさらに多くの手段で、積極的かつ攻撃的に発信する施設として博物館を変革していかなければならない。
博物館の情報力
 私は博物館を「学術的資料を収集・展示し、その情報を発信する施設」と考えている。博物館がおこなう情報発信は、人に「感動」と「知的理解」を与えることを目的とし、「教育」の役割を担っている。博物館は「教育の機能をもった施設」であり、博物館の職員は「教育にも貢献できる人材」と位置づけられよう。  博物館の情報伝達の役割は、館の利用者に対してだけでなく、展示されている資料に対する責任を果たすことでもある。これは特に、海の中道海洋生態科学館のような水族館の場合は、命をもった生物に対する礼として重要である。飼育環境に置かれた生物の使命は、その姿や形を観察してもらうだけでなく、能力や生態、生息環境などの情報を、多くの人びとに伝えることにある。同様のことが、その他の博物館に対してもいえよう。貴重な学術資料には、どれにも命が宿っているように見える。博物館は、命をもった学術資料のためにも、「情報伝達の責任」を全うする姿勢と「情報発信環境の整備」に努める必要がある。
博物館における解説や情報発信には、実物展示と同等の意識をもって対応することが望まれる。特に、博物館が4000以上あるとされている我が国では、展示資料の種類や数、貴重さだけで館の独自性を出すことは難しい。今後は、多様な情報発信の手段を持つことが館の特色になり、その「情報力」で館の資質が評価される時代になるだろう。
これまで、博物館の外部への情報発信として、機関紙の配布などがあった。また、館内においては解説板が中心であり、これらは、情報量や広報の範囲、効果などの面で十分ではないのが実情であった。今日、博物館の情報を必要としているのは来館者だけではない。これからは、学校、家庭、福祉施設、社会教育施設など、積極的に外部へと発信したい。その発信の方法として、近年の情報技術(IT)の発達により、テキスト、写真、動画などを、WebやCD-ROMによって提供したり、高速の通信回線を活用して、映像と音声による遠隔授業を実施することもおこなわれるようになった。また情報を一方的に流すのではなく、Eメール、Web会議室、メーリングリスト、掲示板などの機能を使っての交流も可能である。このように、IT機器やインターネットは、コミュニケーションの道具としても情報発信に大きく寄与し、市民からの信頼を得るようになった。
近未来の学習シーン 一方、学校の教育現場でも情報化は急ピッチで進んでいる。2002年3月には全国の学校にインターネットが整備された。また2005年度までには各教室に二台のコンピュータと高速回線が整備されることになっており、教育現場でのIT環境の充実には目を見張るものがある。また2004年4月から新教育課程がスタートしたが、このなかでも情報教育をひとつの大きな教育目標として位置づけ、子どもたちの情報活用能力の向上を図るための、教材や教育プログラムの開発が進んでいる。このように学校では、インフラとしての情報化が進んでいるが、教育の現場は、何からどう始めたらいいのか、どこと情報交流したらいいのかなど、実践の部分ではまだ模索の状態である。このようななか、博物館のもっている専門的な情報を学校へ提供できる環境を整えることで、博物館が学校教育に寄与できるチャンスが増加している。
文部科学省は、平成14年度から始めた「総合的な学習の時間」に、博物館の活用を推奨するようになった。博物館には、地域の歴史や暮らし、産業、自然等についての調査、研究資料がたくさん蓄積され、専門的な知識や技術をもった職員が配属されるなど、地域教材の開発という点で大きな魅力がある。この点で見ても、博物館は「総合的な学習の時間」に役立つ社会教育施設のひとつといえる。
一方で、学校にも博物館にも、子どもたちの教育には、「実物に触れる」ことを一義として、実物教育こそが教育の基本であるとする考え方が根強い。確かに、実物の持つ魅力は大きく、そこから得られる感動や教育的な効果にも手応えを感じる。しかし、実物に触れる学習の機会は、すべての生徒に平等に与えることができるであろうか。身近に、実物や博物館がない子どもたちは実物教育のチャンスすら与えられない。さらに、破損、消耗などのリスクを背負っている博物館の実物資料は、何万人もの子どもたちに、同じように提供することは不可能である。もはや、実物教育には限界があるといっていいだろう。
そこで、そのような、実物教育の弱点を補うのが、情報教育と考えてはどうだろうか。特にIT技術を活用した情報発信や交流は、すばやく、平等に、繰り返し、消耗なく資料の活用が可能である。さらに、実物を見たり、さわったりするだけではわかりにくい事象や、特別な映像や他の資料との比較を効果的に提示できる。しかもそこに学芸員が、テレビ電話などで登場して、個別に質問に答えたりしてくれれば、情報教育が学校にとって、なくてはならない存在となることは間違いないだろう。しかも、ユビキタスと呼ばれる時代の到来で、子どもたちは、いつどこにいても、簡単に情報ネットワークに入っていける環境が整備されつつある。情報教育はそんな、近未来の学習シーンを提供することができるのである。

デジタル教材による学校教育との連携
海の中道海洋生態科学館では、一般社会や学校の情報化にあわせて、さまざまなIT機器やインターネット環境、WebやCD-ROMなどのデジタル教材を開発し、特に、学校教育との連携を積極的に推進してきた。以下に、その実施例を紹介する。

テレビ電話による遠隔授業
2000年よりISDNの電話回線を使い、テレビ電話システムによって、博物館と学校を映像と音声で結んで交流する遠隔授業を実施した。また、遠隔授業をおこなうために、機材整備や講習会、授業の案内をするWebサイトの制作・公開、各博物館の教育プログラムや学習素材を収録したCD-ROM教材の作成・配布、指導案やワークシートをひとつにパッケージしたプログラム集「学習パッケージ」の作成とWebサイトでの公開、遠隔授業で活用する実物資料を梱包した「ディスカバリーボックス」の制作などをおこなった。 また近年は、新しい通信環境として、テレビ電話機能のある携帯電話を使って、より簡易で機能的な遠隔授業へと発展させている。

携帯情報端末(PDA)を使った学習
児童一人に一台のPDAを配布し、新聞作成のための取材手帳として、学芸員の指導のもとで、施設や展示生物の情報を、PDAの中に、館内に設置した無線LAN経由で入手したり、各自が文字入力したりする活動をおこなった。本学習では、小学校五年生以上を対象に、おもに「総合的な学習の時間」で10時間以上の授業として組み立てた。授業の全体構成は、(1)PDAの入力法の指導、(2)新聞制作の意義や目的を学ぶ動機付け学習、(3)新聞の機能や役割、新聞記者の仕事を学ぶ出張講話、(4)水族館でのPDA活用、(5)教室での編集作業とした。

「みんなで探検、水族館動物園」
2003年度に、福岡市内の三つの動物園・水族館(福岡市動物園、海の中道動物の森、海の中道海洋生態科学館)が連携しておこなったプログラムである。この事業では、各施設で働く、飼育技師、学芸員、獣医師をモデルにし、この職員による学校への出張授業、来館(園)時の案内をおこない、さらにインタビュー形式で、仕事への情熱、生き物への思い、生命観などを語ってもらった動画をWebで公開し、生徒たちがその動画をパソコンで閲覧するなど、いろんな場所や方法で、職員に何度も出会うきっかけをつくり、人をとおして、生き物の命や自然環境を守ることの大切さを学んだ。これにより、水族館・動物園にある資料だけでなく、そこで働く人や仕事も、学習素材にすることが可能であることが確認された。

「博物館の建築とデザインから学ぶ社会教育」
文部科学省の2004年度「社会教育活性化二一世紀プラン」において、九州産業大学美術館、九州国立博物館、および、福岡市内の二つの高等学校と連携し、博物館の建築やデザインから、博物館の機能や役割を学ぶという学習プログラムを構築し、一年間にわたる長期的な学習をおこなった。博多工業高校建築科では河川ミュージアムの設計プランを、九州高校デザイン科では、海の中道海洋生態科学館の展示演出改造プランの提案をおこなった。これらの学習において、生徒、教員、博物館職員がパソコンのなかで共有できる作業掲示板を設け、学習の進捗の確認や意見交換、振り返り学習などに活用した。また、全国の博物館の建築やデザインに関するWebのデータベースを作成し、一般への公開だけでなく、高等学校での学習でも活用した。

情報を生かす人のネットワーク
博物館の情報化とは、展示や解説を充実させるだけでなく、情報の教材化によって学校教育や生涯教育に貢献することでもある。また、蓄積されている資料をデータ化して共有することにより、博物館同士で有効活用できるメリットも大きい。情報のネットワーク化は、博物館や教育の世界に大きな変革をもたらす。このためには、人や組織のネットワーク作りも欠かせない。人のネットワークとは、情報を活用する学校や一般市民と博物館の人と人とを結びつけることである。情報のネットワークと人のネットワークの両輪がうまく運営されてこそ、真の意味でのネットワークが構築され、両者が活性化し発展するであろう。

表紙モノ語り
コートジボアールのカフェ
企画展示「アフリカのストリートアート展」出展作品 幅/410cm 奥行/230cm 高さ/260cm
コートジボアール第一の都市アビジャンは、西アフリカの経済、文化の一大中心である。はじめてこの街を訪れる者は、プラトー(高台)と呼ばれる都心一帯のあまりのモダンなたたずまいに面食らうに違いない。モダンというよりも、前衛的といったほうがふさわしい奇抜なデザインのビルが建ち並び、その間をハイウェイが縫うように走る様は、さながら手塚治虫描くところの未来都市だ。ためしにビルのひとつに入ってみると、空調のきいたカフェで、洒落たスーツに身を包んだ地元のビジネスマンが、ハイネケンを片手に談笑していたりする。
プラトーがアビジャンのよそ行きの姿だとしたら、ラグーンを挟んで対岸に位置するトレシビルはさしずめ普段着のアビジャンだ。そこには、何でも売っている、活気に満ち溢れた大きな市場があり、多種多様なレストランや安宿もある。碁盤の目状に張り巡らされた路地では、屋台が軒を並べ、物売りたちが大声で客を呼び込んでいる。もちろんヤミの両替屋や売春婦など、怪しげな手合いにも事欠かない。走り抜けるクルマの排気ガスとけたたましいクラクションは、おなじみアフリカの都市の効果音だ。
そうした庶民の生活の臭いが濃厚にたちこめるこの地区の憩いの場のひとつが、たとえば表紙の写真にあるカフェである。一見粗末なベニヤ板造りだが、なかにはガスコンロもあって、簡単な料理ならOKだ。壁に貼られたメニューによれば、牛ステーキとレヴァーは800セーファー(約160円)、ケチャップで炒めただけのスパゲッティ、それにオムレツが300セーファー(約60円)、飲み物は紅茶が150セーファー(約30円)と値段はいずれも手ごろ。ビールは地場銘柄が売れ筋だ。
夜のとばりが降りるころ、スーツではなく、Tシャツにサンダル履きの人びとが三々五々集まってきては、ここで一日の疲れを癒していく。ちなみに、店の名前の「Le Silex」とはフランス語で火打ち石の意。2003年まで実際にトレシビルの一隅で営業をしていたカフェである。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内


万国津々浦々
一本の旗──アチェからのメッセージ
津波から一カ月半が経ったインドネシアのアチェ州を訪れた。スマトラ島の北西端にあるウレレー海岸では、津波ですべての建物が流された跡に旗が一本立てられていた。
かつてアチェは、世界各地の人や物が出入りすることで栄える土地だった。しかし、およそ100年前にこの地域に国境と領域支配の概念がもちこまれて以来、アチェは世界との自由な交流が断たれ、かつてアチェを特徴づけていた外部社会とのつながりという「アチェらしさ」が発揮できない状態が続いてきた。今回、未曾有(みぞう)の被害を出した津波にわずかなりとも救いを見出すとしたら、世界中の人びとの関心をアチェに向けさせ、アチェの人びとを再び世界とつなぐ契機を与えたことだといえるだろうか。
州都バンダアチェを歩いていて、尋ね人の貼り紙をよく見かけた。多くは顔写真入りの白黒コピーの簡単なものだ。あちこちに貼られていたが、市場のように地元の人びとが集まる場所より、災害対策本部や空港で目立った。これらはいずれも外国人が集まる場所だ。世界の人びととつながりたくても発信する手段をもたない人びとは、外国人が集まる場所に自分のもっている情報を貼り出すことで世界に発信しているということなのだろう。
写真のコピーをとって貼り紙が出せるのは、肉親や友人の写真が手元にあり、コピー代が払える幸運な人びとだ。では、それができない人はどうすればよいのか。
ウレレー海岸は、津波の被害が大きく、バンダアチェに来た人びとがまず訪れる場所のひとつだ。そこに旗を立てるのも、訪れる人びとを通じて世界になにか伝えたいという気持ちのあらわれなのだろう。旗を見てなにを読みとるかは人それぞれだろうが、わたしには、ここに生きている人がいるのだというメッセージが感じられた。想像を絶する規模の津波に遭いながらもなお生き延びているのだという人間の生命力そのものだ。被災地から世界全体に向けた「希望を失うな」という呼びかけだといっても過言ではあるまい。
なにもかも失った人びとが、それでも自らの存在をうったえたいと思い、瓦礫(がれき)のなかで見つけたのが旗だったのだ。その旗がインドネシアの国旗なのか、それとも別の旗なのかというのは野暮な質問だろう。アチェの人びとは、自分たちのもてるものを最大に利用して、外の世界と通じるという「アチェらしさ」を取り戻そうとし、それによって被災を乗り越えようとしている。
今月26日で津波から6カ月を迎える。その後、何度か大きな地震が起こったが、最近テレビや新聞でアチェの様子を見聞きすることはあまりなくなった。外部世界とのつながりを求めてアチェから発信されているメッセージは、わたしたちにうまく届いているだろうか。

人生は決まり文句で
六畜興旺(リューツーシンワン)
新年への希望をこめて
中国や台湾では新年の開始は旧暦にもとづく旧正月にしたがうのが一般的である。旧正月の新年は春節とよばれ、2005年は2月9日であった。春節の前は日本の暮れのように新年を迎える準備に忙しくなるのが中国や台湾の慣わしである。
新年を迎える準備のひとつに春聯(しゅんれん)の取替えがある。中国の一般的な家庭では、門や玄関の扉の左右と上部の三カ所に、対聯(といれん)とよばれる紅色の細長い紙が貼られている。対聯にはおめでたい言葉が書かれ、その家の人びとの思いや願い、そのときの家族の状態があらわされる。道行く人びとは対聯を見ることによってその家で結婚した人がいたとか、昔ならば、科挙の試験に誰かが合格したとかいうことを知ることができた。対聯のなかでも新年にあらたに貼られるものを春聯とよぶ。最近では都心のスーパーやデパート、村の定期市で印刷された春聯や対聯が売られている。春節が近くなると赤地に金字で印刷された春聯が店先にぶら下げられる光景も珍しくなくなってきた。とはいうものの、まだまだ春聯を自分の手で書く人は多い。多くの場合、一家の主が春節を前にして、次の年への希望をこめて墨筆で成句や自ら考えた文言を紅色の紙にしたためていくのである。

幸せは六つの家畜とともに
新年を前にして、一家の主はあらたな春聯を精魂こめて書き上げる。その片手間に時々書いてしまうものに家畜小屋の扉に貼り付ける門紙がある。これは毎年、貼りかえるほどのものでもなく、いたって地味な感じで家畜の住まいに貼り付けられている。とはいうものの、人間と動物との関係を研究テーマにしている筆者にとってはとても気になるのである。
この門紙には多くの場合、「六畜興旺(リューツーシンワン)」という決まり文句が書かれる。六つの家畜が元気に育ちますようにという意味である。中国では代表的な家畜のことを「六畜」と表現し、その言葉の由来はかなり古くまで遡るとされている。「六畜興旺」という言葉のほかにも同じような決まり文句として、「六畜成群(リューツーチョンチュン)」や「大武興旺(ダイウシンワン)」という言葉もよく見かける。前者は家畜が群れをなすぐらいたくさん育ちますようにという思いが込められている。後者は牛小屋に書かれていることが多い。家畜のなかでももっとも大きな牛は大武と表現され、立派に育つようにという意味の言葉が門紙に書かれているのである。
一般的に六畜とは豚、牛、羊(山羊)、犬、馬、鶏である。しかしながら、実際に家畜を育てている人たちに「六畜はなに?」とたずねると、兎がはいっていたり、アヒルを含めたりと、身近な動物が六畜に仲間入りすることも少なくない。広大な中国では、それぞれの地域で身近に養われる家畜も異なっている。それぞれの生活のなかで大切に育てられる動物たちのことを人びとは自分たちの六畜と考え、家族の幸福と繁栄を春聯で願い、家畜もともに豊かに暮らせることを「六畜興旺」という言葉で願うのである。

手習い塾
モンゴル文字で名前を書く 1
藤井 麻湖
現在、モンゴル文字は主として中国の内蒙古自治区で用いられている。モンゴル国やその他のモンゴル人の居住する地域では、特別な出版物を除いて通常キリル文字が使われている。
チンギス・ハーンは、ナイマン部を滅ぼしたときに捕らえたウイグル人宰相タタトンガに命じ、モンゴルの諸王にウイグル文字でモンゴル語を書くことを教えさせた。これがモンゴル文字の始まりである。この文字は縦書きで、左から右に向かって書かれる。
モンゴル文字は子音と母音を区別する文字なので、日本語のひとつひとつの文字をモンゴル語で書く場合、ヘボン式ローマ字表記のように、子音と母音を組み合わせて表記する。だから、単純に考えると、日本語を表記する場合、基本になる五母音と子音の字形をマスターすればいいということになる。だが、モンゴル文字の場合、ヘボン式ローマ字表記よりも、やや複雑である。というのも、モンゴル文字の母音やいくつかの子音は語の最初、中間、末尾のどこに位置するかによって字体が変化するからである。それぞれの字体を語頭形、語中形、語末形とよんでいる。基本になる五母音の字体を示すと図2になる。「あ」の語末形が二種類あるが、これは直前の文字により書き分けられる。
子音のほうは、一部を除いて語中の位置によって変化しない。日本語では子音だけを発音することはないので、子音と母音を一緒にした「モンゴル文字による五〇音図例」を図1に挙げておく。ただし、紙幅の都合により語頭形のみを記した。また、日本語でもモンゴル語でも「ん」で始まる単語がないので、図1では「ん」の語中形を示しておく。注意が必要なのは、たとえば「かきくけこ」が語頭にきても、モンゴル文字では、子音に接続する母音の形は語頭形ではなく、語中形になることである。
それでは以上を踏まえて、「石田」という姓をモンゴル文字で書いてみよう(図3-1)。最初の母音「い」は語頭形なので、★。「し」は語中形なので図1にはないが、じつは語中形は語頭形と同じことが多く、この「し」の場合も語頭形と同じく、★とつなげて書く。最後の「だ」は語末形であるから、これは図1の語頭形の★ではなく、子音dの形★に図2の「あ」の語末形★を接合させた★ を書く。
同じように、図1と図2をみながら「源義経」を書いてみよう(図3-2)。義経といえば、室町時代ころから各種の伝説がつくられてきたが、なかでも有名なのは義経=チンギス・ハーン説である。これは小矢部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』(1924年)により流布したものと考えられる。歴史家によると、これの元本は、イギリスのケンブリッジ大学に留学していた末松謙澄(1879年)という後の逓信大臣・内大臣が、日本人への差別的な待遇に反発し、イギリス人を装い匿名で書いた論文という。ヨーロッパと対峙するためには、義経ではなく、チンギス・ハーンが必要だったというわけである。

*「図1」「図2」「図3-1」「図3-2」は、画像データの本紙P17でご覧下さい。
*★印はモンゴル文字、画像データの本紙P16でご覧下さい。

地球を集める
ルーロットとの出会い
マドマゼル ボラトン
今年2005年3月23日、フランスのベリー地方に流れるクルーズ川沿いの小さな町サンゴッティエにある薬屋の女主人、ボラトン婦人が他界した。このマドマゼルこそ、移動民ジプシーのひとつの部族マヌーシュを生涯に渡って支援してきた人物であった。また彼女は民博のヨーロッパ展示場の農機具やブドウの蒸留釜、家庭用品や衣装などの収集にも尽力をしてくれた。享年九〇歳であった。
彼女はマヌーシュの家族手当や保険手続き、養育費の申請そして家族全体の移動証明書などの手続きをはじめ、国に対してマヌーシュの移動規制緩和の要請などの支援をしていた。なかでも家馬車ルーロットの生活者に対しては、その厳しい生活条件を楽にするための援助と支援を惜しまなかった。事故や事件に巻き込まれたマヌーシュの法的措置に対して的確に対処するのもボラトン婦人であった。
彼女に初めて会ったのは1978年の初夏であった。パリからオルレアンを通って南に下り、ショパンを愛したジョルジュ・サンドの生まれ育ったノアンの街をたずねてから昼過ぎに薬屋の門をたたいた。するとなにやら取り込み中の様子。人の出入りも忙しく、やがて医者らしき男が黒カバンをもって二階にあがった。聞けばボラトン婦人の母親が危篤状態とのこと。門のところで初めて彼女と挨拶を交わしたが、すぐに店をあずかるマヌーシュのジョセフを紹介された。
ボラトン婦人が移動生活するマヌーシュに関心をもったのは、なぜだろう。ジョセフによると、小さな町の定住者の薬屋という店を留守にできない自身の境遇と、地方の名士の家系にありながら、身分を越えた人間関係を育みたいという思いからだった。さらに、フランス中部には、ルーロットの生活者はベリー地方よりもロワール河沿いに多いと、デュビル家を教えてくれた。

馬糞を手がかりに追跡
一九世紀の終わりごろに、イギリスでワゴンタイプの馬車が使われ始めた。それが海を渡ってフランスのブリュターニュ地方に伝わった家式の馬車ルーロットである。ルーロットで生活するマヌーシュに初めて出会ったのは、夏も過ぎて秋に入ってからであった。接触までには多くの時間がかかった。
早朝からマヌーシュが停留していたと思われる焚き火の燃えかすが残された場所をかわきりに追跡を始めたが、白い霧に阻まれ、路上に残された馬糞が手がかりの徐行運転では時間が過ぎるばかりであった。彼らの移動態勢もリズムも心得ずに調査に出た自分に憤慨した。
考えてみれば時速10キロメートルほどで進むルーロットは、エンジン付きの車が移動する道から脇に入りこみ、地図にも記載されていない私道を進んでいた。しかも車で走る地図上の道程よりも、はるかに短い道を行く彼らは予想以上に前進しており簡単には見出せなかった。
パリから220キロメートルほど南西にある、ロワール河沿いの街、モントリシャー近郊の濃い霧に包まれた小道で、前進してくる数台のルーロットに遭遇した。
初めて会うルーロットのもち主であるマヌーシュの男は、立派な口ひげと白いシャツの上にチョッキを着て、馬の手綱を引いていた。馬のうしろに一二平方メートルほどの床面積のあるルーロットのなかから妻と四人の子どもたちが予期せぬ東洋からの来訪者を見つめていた。
観音開きの扉の陰には、左右に小作りの戸棚があり、その左奥にダルマ式のストーブが置かれている。一番奥には高さ70センチメートルほどのセミダブルベッドが横にしつらえてあり、富の象徴である豪華な花模様の羽根布団がうずたかく積まれていた。ベッドの下は、若い娘たちが寝るところである。装飾に使われる布地は、色彩豊かで遠い祖先の出生地であるインドの雰囲気をかもしだしている。床下には、車軸との間に柳の枝束がおかれ、籠作りの素材となる。ひとしきり話を聞いて、レイナー家の家系であるルーロットと別れた。
こののち彼らが信仰する福音派の大会にて、デュビル一家の大ルーロット集団に出会った。その長老ディディ翁は、風貌と人格ともにマヌーシュの人生を映像で語るにふさわしい人物であった。ディディについての民族誌映画は、『私の人生・ジプシー マヌーシュ』として1977年に完成した。
のちの調査の結果、ルーロットの生活時間にしめる割合が明確に決められていることが判明した。ルーロットは一日のうち睡眠時間以外は、洋服の着替え、雨宿り、ちょっとした休憩に使用されるだけである。冬でも食事は外で個人単位になされている。

そして民博へ
ルーロットは本来、もち主が死亡すると焼却するものだが、ボラトン婦人はこうしたルーロットを三台、知人の保管倉庫にもっていたのである。そのうちの一台を民博が購入した。ベリー地方を移動しているマヌーシュのロバン家のものであった。扉の両側に彫刻された馬の頭は、彼らの移動手段である馬への敬意を象徴している。
ボラトン婦人も『私の人生・ジプシー マヌーシュ』のなかに登場している。彼女のジプシーとの交流についてのさわやかな語り口の部分は、定住型のフランス人にとって印象深いものであった。1977年の民博開館以来ルーロットはヨーロッパ展示場では異色な大型展示物であった。しかし二一世紀に入って新しい展示構想が実施されて、この大型展示物は引退して倉庫に収められた。
同じようにマヌーシュの人生を記録した映画は、ボラトン婦人が他界して二日目の3月25日に、日本の国立近代美術館のフィルムライブラリーにて上映されたのち、その微笑とともに、国の保管収蔵庫に収められることとなった。

生きもの博物誌
マガール民族楽器のいのち
カイジャリの響き
深夜、浅い眠りから覚めると、「タッ・タラー、タッ・タラー」という乾いた太鼓の音が遠くから聞こえてくる。今日もどこかの村で歌垣をやっているなと思いつつ、私はまたうつらうつらと眠りにつく。
ここは、ネパールのマガールという人びとが暮らす山村である。このあたりでは、未婚の女性たちが隣村の男性を招いて、歌い、踊り、飲み明かす歌垣がしばしば催される。そこでは、マガール語でゴホロと呼ばれるベンガルオオトカゲの皮を張った片面太鼓、カイジャリが用いられる。遠くの村から歌声までは聞こえてこない。だが、カイジャリの音は谷や尾根を越えて寝静まった村むらにとどく。
カイジャリの演奏はマガール人男性のたしなみのひとつであり、未婚の男性はほぼ全員、自分の太鼓をもつ。彼らは手の平と指を使い分けてそれを叩くことで、さまざまな音を生みだす。冒頭の「タッ・タラー、タッ・タラー」もそうだが、ほかにも「トゥク・ドゥナ・ドゥーン」といったように、人びとは音の違いとリズムを口真似で覚え、伝えてきた。カイジャリ独特のこうした乾いた、はじけるような音は、ベンガルオオトカゲの皮でなければ出ないといわれている。マガールの人びとはこの音色を愛してやまない。だから、ネパールの他の地域で見られる、ヤギの皮を張った片面太鼓(ダンフー)にはまったく関心を示さない。

トカゲと人びとの来し方行く末
カイジャリにはベンガルオオトカゲの胴部分の皮が使われる。そのため、捕まえるときには皮を傷つけないように鉄砲を使わない。また、それだけを探しにわざわざ狩猟に出かけることはない。偶然見つけたら、遮二無二(しゃにむに)追いかけて尻尾を捕まえ、棒で頭部を殴って捕獲するのだ。私が一九八七年に譲ってもらったカイジャリは、膜面の直径が二七センチメートルある。つまり、それは胴回りが30センチメートルくらいのベンガルオオトカゲから作られていることになる。黒い斑点がある美しい皮は、115本の木の釘で、ろくろ挽きで作った木製の太鼓の胴にピーンと張られている。
もっとも、最近の若者が使うカイジャリは、明らかに直径が小さくなってきている。それは近年、ベンガルオオトカゲの生息数が減少し、大型のものが少なくなってきたためであろう。そもそも私は、いまだかつて森でこの動物に出くわしたことがないのだ。それでも、細々と生息していることは間違いない。捕獲された瀕死の状態のそれや、軒下に干された皮をごくまれに見かけるからである。
この地域のマガール人男性をマガール人足らしめてきた、カイジャリ演奏という伝統と、そのためにだけ捕獲されてきたベンガルオオトカゲ。はたしてどちらが先に、変化ないし絶滅してしまうのであろう。ベンガルオオトカゲの行く末は、月明かりのもと歌垣に興ずる男女の情景や、その響きを子守唄のように聞いて育つマガール人の子どもたちの将来に大きくかかわっているのである。

ベンガルオオトカゲ(学名:Varanus bengalensis bengalensis Daudin 1802)
オオトカゲ科オオトカゲ属のひとつの種。同じ属にはコモドオオトカゲなど31種がある。ベンガルを冠するがその生息域はイランから東南アジアの大陸・島嶼部に広がる。体長は約1~1.5メートルに達し、体重は2~3キログラムになる。主にカブトムシ、カタツムリ、アリなどの昆虫を食べる。ワシントン条約の付属書・に載っており、今すでに絶滅する危険性がある生き物として、商業のための輸出入が禁止されている。

見ごろ・食べごろ人類学
手作りトラックから見るタイ社会
森田 敦郎
トラックを手作り?!
タイで生活しているといろいろと驚かされる。辛い食事や仏教など、タイならではの「カルチャーショック」は、もう日本でもおなじみだろう。だが、住んでみてぼくがなによりも驚いたのは、タイの村には、トラックを手作りしている人たちがいることだった。東北タイのコラート県とその周辺の農村には、スクラップ部品を集めて「イタン」と呼ばれる小型トラックを手作りしている人が数多い。
タイの技術や機械に関心をもつ人は少ない。そもそも発展途上国の技術に注目すること自体、きわめてめずらしい。だが、この手作りトラック、これまでまじめな研究ではあまり触れられることがなかったが、タイ社会を考えるうえでは貴重かつ格好の手がかりなのだ。イタンとそれを作った人たちを追いかけてみると、タイにおける職業のあり方とライフスタイル、人とモノの関係が見えてくる。
イタンを作っている人たちは、たいてい農業のかたわら軒先で小さな修理工場を開いている職人である。彼らのなかには都市の工場でしばらく働いたあと、村に帰ってきた人も多い。タイの地方都市や幹線道路沿いには、いたるところに小さな修理工場や鉄工所がある。路肩に店を開いたいわば「修理の屋台」といった最小のものから、長屋の一角に店を開いた家電の修理工場まで。町には零細な修理業者があふれており、なにかが壊れても直してくれる人を探すのには苦労しない。そのため、タイでは50年前のトラックや古い家電など驚くほど古い機械が直されながら使われ続けている。
さらに驚くことに、こうした修理工のなかには学校で技術を学んだ人はほとんどいない。彼らはたいてい小学校か中学校を卒業した後、街角の工場に徒弟として預けられて、実地で仕事を学んできた。いわば徒弟上がりである。
こうした職人たちを追いかけていくと、タイの農村生活の思いがけない一面を目にすることになる。戦後の経済成長と80年代からの工業化を受けて、農村にはバイク、家電、農業機械、自動車、農用エンジン、カラオケセットなどさまざまな機械類がもち込まれてきた。これらのなかには、現地で生産されたものもあれば日本などから輸入された中古品(主に家電、自動車、トラクタなど)もある。

機械が機械であるために
機械がありちゃんと動いているということの背景には、実はきわめて多様な物事が関係している。機械が機械であり続けるためには、新陳代謝が必要だ。自動車や農業機械には燃料や機械オイルが必要なだけでなく、常に消耗していく部品の代わりになる補修部品が必要になる。つまり、こうした部品や燃料を供給するネットワークが必要なのだ。これが切れてしまえば、機械は機械であることをやめてスクラップに変わる。
日本ではこのネットワークはメーカーや販売店が提供している。だが、町から遠く離れたタイの農村にまで及ばない。都市部でさえ、企業によるアフターサービスが広範囲に届き始めたのは比較的最近のことなのだ。
タイの職人と彼らの驚くべき修理技術は、このような機械たちを「生かし続ける」ために発達してきた。町から離れた村の、手に入る部品も限られた状況のなかで、彼らはスクラップを利用したり、機械自体に改造を加えたりしながら、機械が動き続けるように工夫を重ね続けてきた。
そうしたなか、手先が器用な人や機械好きの人たちが、農業のかたわらに修理工場を営むようになってきた。彼らは都市部の中華系の労働者や企業家と結びつきながら、次第にタイ独特の職人集団を形成するようになった。先ほど触れた徒弟制度がこうした職人集団の結束の柱である。

転用も改造も自在の心地よさ
イタンは、タイの職人たちのこうした歴史を反映した機械である。タイでは、正規の修理部品が手に入りにくいこともあって、スクラップから取り外したジャンク部品を大量に修理に使う。タイではこのためにわざわざ日本から大量のスクラップを輸入しており、今ではたいがいのところで簡単に入手できる。こうしたスクラップ部品から生まれてきたのがイタンなのだ。
誰がイタンを最初に発明したかは今ではわからない。イタンはどれもこれも基本的には同じデザインで、鉄骨で作ったフレームに中古部品で組み立てたトランスミッションやサスペンションを取り付けて、エンジンは取り外し可能な農業用のエンジンを使う。価格が安く、農用ディーゼルエンジンを使うため燃費がよく、さらにエンジンを取り外して、ポンプや発電機などに転用できるので、農民たちには根強い人気を誇っている。
おもに中古部品から組み立てられるイタンの工程は、修理工であれば、普段の修理作業で慣れ親しんでいるものである。そのうえ、現在では電話一本でイタン用の中古部品セットをバンコクから村まで送ってくれる業者までいる。そのため、イタン作りはコラートやその周辺の農村で広くおこなわれている。
人類学の醍醐味は、異文化に身をおいて人間の多様なあり方を発見することにある。多くの人びとはこうした発見を求めて、呪術や不思議な儀礼や神話の世界を探索してきた。だが、街角の修理工場のような身近なところにも驚きの発見はあるし、トラックや工業のような「近代的」なものですら、場所が変われば形は大きく違う。日本では大工場でしか作られることのないトラックが、タイの農家の軒先で作られる背景には、地理的に隔絶しつつも、出稼ぎや商品の流通で都市と結び付けられた農村のあり方、そこで生まれてきた職人たち、そして廃品の輸出入でつなげられた日本との関係など、今のタイの社会を特徴付ける多くの要因が隠されているのだ。
ぼくたちは身近なところでまだまだ新しい発見の驚きを経験できそうである。
人間文化研究機構第2回 公開講演会・シンポジウム「歩く人文学──人文学と社会の新しい関係」

次号予告・編集後記


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