国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年7月号

2005年7月号
第29巻第7号通巻第334号
2005年7月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
北国・あっちとこっち
イッセー尾形
昨年、ロシアで、約一月半に渡り映画の撮影をしてきた。ロシア人スタッフは男性、女性、若い子も年配の人もいて、大きな家族のようだ。
監督の隣にいる大きなロシアおじさんは、でっぷりとしたお腹を突き出して座っている。立ち上がればこれまた見上げる程でかく、絵本の『大きなかぶ』に出てくるおじさんそのものだ。彼は長年、ソクーロフ監督とチームを組む照明監督である。いつも気難しい顔でカウチに腰を掛けている。「サーシャ!サーシャ!」と彼は大声で照明の若いチーフをしょっちゅう探している。眉間に皺(しわ)をよせ、彼はライトの位置についてヒソヒソ声で指示を出すが、サーシャは意に介せずニヤニヤと聞いている。ロシアの大男が難しい顔をしているだけで、なんだか近づくのが恐くなる。ロシア語だから聞き取れなくて当然なのだが、彼に限らずロシアの人々は内緒話しをしているように話す人達のような気がしてくる。
ある撮影の日、いつものようにカウチに座っていた彼の所へ、ヘアメイク担当の彼の奥さんがしゃがみ込み、彼の腕を優しく摩(さす)りながら、耳元に口を寄せて話をしている。彼は相変わらず無表情で彼女の話を聞いているが大きなため息をついている。僕らに気付いた彼女は「さっき監督とライトの位置で意見が合わずに落ち込んでるのよ」と笑っていた。彼女はまったくね、しょうがないでしょと言わんばかりに両手を広げ僕らにウインクして見せた。
東北の公演先でお世話になった蕎麦(そば)屋のご夫婦を思い出した。山の中の小さなお店で旦那さんは黙々と蕎麦を打っていた。僕らのスタッフが「観に来て下さい」と公演の招待を申し出た時、奥さんが「あら、まあ!お父さん!」と飛び跳ね、手招きするも、奥の板場からちらっとこちらを見て機嫌が悪そうに会釈をするだけの旦那さんだった。「必ず伺いますからね」と奥さんは笑顔で僕らを見送ってくれたが、ご迷惑な申し出だったのかもしれない、と思っていた。ところが、翌日、ご夫婦揃って観に来てくれていた。それも、公演後のロビーでは「いやーイッセーさん、すごいですなあ!寄せてもらってありがとさんでした」と興奮気味にしゃべる旦那さんの姿にびっくりしたものだった。
ロシアの大きな旦那さんも試行錯誤の上、作り上げたシーンを無事撮り終わると、「ハラショー!ハラショー!」と頬を紅潮させながら大声で近づいて来たと思ったら、満面の笑顔で僕の肩を抱き締め、なかなか放してくれなかった。
いっせーおがた/福岡生まれ。1971年、演劇活動を始める。80年 「バーテンによる12の素描」を演じ、現在の一人芝居の基となる。92年に地方公演、93に年海外公演をスタート。2004年6月、スペインの「バルセロナ・アート・フォーラム」に招待され参加。
特集 学校がみんぱくと出会ったら
博学連携がようやく軌道にのりはじめている。どういうわけか民博と学校はずっと近くて遠い仲だった。それが共同研究(国立民族学博物館を活用した異文化理解教育のプログラム開発)をすすめ、共同作業に取り組むなかで、新しい連携の形が生まれてきた。その成果は、授業づくりに生かされ、児童・生徒の作品に結晶化されたのである。七月二八日(木)~九月五日(月)開催の企画展「学校がみんぱくと出会ったら──博学連携の学びと子どもたちの作品展」に先がけ、そのエッセンスを小・中・高に分けて紹介する。

博学連携の学びをつくる
森茂 岳雄
2002年度からの新学習指導要領による「総合的学習の時間」と「完全学校週五日制」の実施によって、これまで学校(教室)に閉じこめられがちであった学びの場を「ひろげ」、「つなげ」ていくメディアとしての博物館の意義と可能性が認識され、全国で学校と博物館の連携がさまざまな形で進められてきている。このような教育改革の動きのなかで、新しい学びのメディアとしての、また学びの素材を提供するデータ・バンクとしての国立民族学博物館の役割は大きくなってきている。
児童・生徒にとって、民博は異文化理解の宝庫であり、学びのワンダーランドである。ワクワク、ドキドキする学びを期待している彼らにとって、民博の展示(モノ)やビデオテークは、知的好奇心と探究心を刺激し、自ら学ぶ意欲や主体的に問題を発見し解決する力の育成を促す異空間でもある。また、展示資料にさわりながら学習できる「ものの広場」(機器の老朽化のため平成17年1月より閉鎖中)は、異文化に対する実感をともなった認識を深める空間でもある。
研究博物館としての民博は、資料の収集、保存、展示、研究といった従来の活動に加え、近年、特別展示と連携したワークショップの開催、子どものためのワークブックや学校団体利用のためのガイドの作成、学校と連携した学習プログラムの開発と実践など、教育活動にも積極的に取り組んできている。また、直接民博を訪れて活動できない学校・学級のために貸出用学習キット「みんぱっく」の開発と運用もおこなっている。
本特集では、これまでの民博の教育活動のなかから学校との連携によるいくつかの授業実践例を紹介し、博学連携の学びの意義と可能性を示したい。今日、博物館は従来のように人びとを啓蒙するための知識を提供する「神殿」ではなく、学習、実験、討論、ワークショップの場、つまり「フォーラムとしての博物館」という考え方が主流になりつつある。
本特集を通して民博との出会いの楽しさを実感して、新しい学びの創造の場として民博の可能性を再発見していただければ幸いである。みなさんも、ともに博学連携の学びをつくってみませんか。
民博の遠隔利用
砂で描く一瞬
中山 京子
先住民の「砂絵」をヒントに 子どもたちが真っ白な画用紙の上に息をひそめながら砂を落としていく。その視線は指先と目の前の画用紙に集中している。何を描くのか、何が描かれるのか、その答えを知っているのは子どもの感性と指先である。
小学校の図画工作の教材に「砂絵」がある。この「砂絵」の製作活動に、民博の常設展示、展示ガイドブックなどを活用し、先住民が描いた砂絵を取り上げることにより、学習活動がより豊かなものになるよう試みた。
人は身近なものを用いて表現してきた。「砂絵」は、現代に受け継がれている継承文化のひとつである。オーストラリア中央砂漠地域では、足跡や痕跡をもとにしたシンボリズムが発達し、儀礼の際、土地に根づく精霊の神話世界を表す砂絵が地面に描かれた。現代では、キャンバスにアクリル絵の具で描く芸術に変化している。常設展示場には、シンボリズムの解説とともに現代の作品が展示されている。また、ホームページから「砂絵」で検索できる所蔵作品もある。
アメリカ先住民のナバホも砂絵を描いてきた。しかし、儀式のなかで地面に描かれた砂絵は消される。類似した文様が研究用に再現されたり、敷物などの文様として織り込まれたりすることはあっても、本物が写真に撮られることはない。儀礼が終わると素早く消し去ることは、チベット仏教の砂曼陀羅と共通する。
テーマは「自然」そして「生きる」 このような「砂絵」がもつ特徴にもとづいて、授業では、砂絵を「残さず消す」こと、従来の制作活動と同様に作品として「残す」こととの双方を取り入れた。作品が完成したその時の美しさや思い入れを一瞬の芸術としてとらえる。これは音楽表現に似ている。録音記録としての音は物理的に残せるが、その空間に現れた瞬間の音そのものは消えゆく。砂を思うようにまき、描かれてくる絵とその場で対話する造形活動をじっくり味わうことができるのが砂絵という教材である。一方で、気に入ったものができれば作品として残したいという子どもの欲求も当然である。残すために、木工用ボンドやカーペット固定用両面テープを使用して、砂絵の作品を固定した。
「自然」「生きる」をテーマに、画用紙にさらさらと砂をまき、完成した作品を見つめた後、名残惜しそうに消す子ども。画用紙に木工用ボンドを落とし、その上から砂をまき、乾燥を待つ子ども。画用紙に両面テープを隙間なく貼り、その上から砂をまき、砂を固定していく子ども。どの子もその眼差しは真剣である。
民博の遠隔利用
教室に来た「みんぱっく」
居城 勝彦
留学生との交流 毎年12月になると、東京学芸大学で学んでいる留学生たちが学校にやってくる。昨年はイタリア出身の学生だった。そして、今年は四人も来てくれた。それぞれ韓国、中国、香港、ドイツ出身だ。子どもたちは四つのグループに分かれ、それぞれの国について調べ、クラスとしての歓迎の仕方を考え始めた。インターネット、メディアルーム(図書室)の本、旅行会社のパンフレット、ガイドブックをあたった。
待ちに待った交流の日、調べたことを会話の糸口に一日が始まった。初めて会う人たちに物怖(ものお)じせず話しかける子どもたち。子どもたちにちょっと戸惑いながら笑顔で接してくれる留学生。短い時間だが、中味のつまった交流となり、時はあっという間に過ぎた。
その交流をもとに、留学生の出身国について一人ひとりが新聞にまとめた。さらに、グループの仲間の新聞を読み合った。自分の知らなかった情報、偶然みんなが調べていた情報。それらをもとに、ポスターセッションをおこなうことにした。
「みんぱっく」を楽しんだ子どもたち ここで韓国グループは、民博が開発し学習キット「みんぱっく・ソウルスタイル」に出会った。ドキドキしながら開けたスーツケースで、まずとびついたのは伝統衣装。ほかのグループの子どもたちも着始めた。そこから「みんぱっく」のなかに引き込まれていく子どもたち。文字や写真だけでなく実物が子どもたちに語りかけてくる。「これってなんだろう」「こんな使い方をするのかな」をそのものを使って試してみる、トピックシートで確かめてみる、わかったことをグループの友だちに教える。そういった過程のなかで、子どもたちのもつ情報はどんどんと増えていった。ポスターにまとめるときも、「ここは実物を見せながら説明しよう」「衣装の着方を実演しよう」とアイデアがどんどん出てくる。
携帯用の箸(はし)セットは自分たちも使っているが、韓国では金属製のスプーンと箸が一緒に入った「スジョセット」となる。ガイドブックなら隅っこにあるようなおまけ情報でも、子どもたちにとっては自分たちの生活との比較から、とても重要な情報となる。そのことを仲間に知らせる。そして聞いている人たちの反応が返ってくる。しかもそこで使っているのは、手にとって確かめられる本物なのである。まさに、民族学博物館が教室にやってきたのだ。子どもたちは教室に居ながらにして、博物館を使い、仲間と学びを深めていった。
ポスターセッション終了後、クラス全員で「みんぱっく」を楽しんだ。「これって日本にもあるよね」「ふとんが軽くてツルツルしている」「どうしてこんな重い帽子がクルクル回るの」「今度は違う衣装を着てみよう」……。子どもたちの学びあいは、まだまだ続く。
仮面をつくろう
学びを拓く協働作業
佐藤 優香
願いをこめた仮面をつくろう 二年前から始まった共同研究会「国立民族学博物館を活用した異文化理解教育プログラムの開発」では、小・中学校や高等学校の教師、博物館や大学に所属する研究者など、専門や立場の異なるメンバーで、博物館を活用した新しい学びについて議論を重ねている。この研究会の取り組みのひとつとして、筆者は同じく共同研究会のメンバーである茨木市立葦原小学校の八代健志教諭と授業づくりをおこなう機会を得た。同小学校で以前よりなされていた図工科の「仮面づくり」に、博物館見学を取り入れ、新しい授業として子どもたちに学んでもらおうというものである。民博に展示されている仮面を鑑賞し、さまざまな地域に暮らす人びとがそれぞれの意味をもって仮面をつくり、仮面を使っていることを感じてもらいたい、それらを踏まえた上で自分の仮面をつくってもらいたい、と考えた。
夏前から相談を重ねてきたこの授業は、「願いをこめた仮面をつくろう」と題され、秋の博物館見学からスタートした。展示場に入る前に、実物資料の仮面およそ10点を手にとってじっくり見ながら、それぞれの仮面がもつ意味を考えた。続いて展示場では、子どもたち一人ひとりが好きな仮面を選んでその仮面にはどのような意味があるのか、つくり手や使い手のことを慮(おもんばか)り、そこにこめられた願いを想像しながら鑑賞をおこなった。仮面を観ることと仮面をつくることをつなぐためにも、展示されている仮面とこれからつくる自分の仮面をつなぐためにも、「つくり手や使い手を慮る」というプロセスを大切にしたいと考えた。博物館での鑑賞を経て、子どもたちは自分の願いは何かを考え、その願いをかなえるための仮面という、意味をもった作品づくりをおこなった。子どもたちから寄せられたコメントに「どんなものにでも気持ちを表せることがわかった」との感想があった。博物館が、観ることとつくることの意味を考えさせてくれる場になっていたのだ。また、仮面には願いがこもっているということがわかったということや、それぞれの願いは違うのだということが異口同音に記されていた。子どもたちは仮面の鑑賞と制作を通して、モノにはそれぞれに意味がこめられていることや、それらが多様であることを理解したのだろう。この視点は、これから彼らが異文化を理解していくうえでひとつの手がかりとなってくれるにちがいない。
学びを拓いていく楽しさと難しさ この授業は、およそ20時間におよび、小学校中学年の図工科としてはかなり多くの時間を割いた取り組みとなった。子どもたちが費やした時間以上に、八代先生と筆者の打ち合わせにも多くの時間を要した。子どもたちの経験を少しでも豊かで実り多いものにしたいという思いや、作品づくりを通して子どもたち一人ひとりの経験を、自分なりに構成して学びにつなげていきたいという共通する考えのもとに協働していたが、学校と博物館というふたつの異なる立場から学びを拓いていく過程の楽しさと難しさは相当に大きなものだった。教科を越えてさまざまな経験を授業に盛り込みたいという筆者の欲張りなプラン、それに対して時間の制約や評価という課題を抱える学校の事情。教科でくくれない経験をどのように位置づけていくのか、また作品だけでなく制作過程で子どもたちが考えたことを評価にどう反映させていくことができるのか。
博物館がもっているリソースを活用することで学びの可能性は大きく拡がるが、そのためには博物館と学校でゆっくりと時間をかけてプランを練ること、「学び」について語り合うことが必要になってくる。それは、博物館での活動と学校での活動をつなぐため、また博物館のモノと自分のコトをつなぐためには、「しかけ」が必要だからである。そして、博物館利用によって拡がりをみせた一人ひとりの学びを、学校のもつ枠組みのなかで活かしていけるような柔軟性も大切な要素であるだろう。博物館は子どもたちにとって異文化との出会いの場だ。子どもたちの博物館経験が楽しいものとなることを願いながら、学校も博物館も協働している。それもまた、異文化理解のプロセスなのである。
仮面をつくろう
一人ひとりの願いをこめて
八代 健志
お互いが180度違うことに驚き 教師としては、博物館のもつ圧倒的な情報を、小学生にそのまま「高いところから低いところへ、水を流し込むように」無制限に与えてしまうと、子どもたちは溺れたようになって、何もできなくなってしまうのではないか、という危惧を抱いていた。そうならないためには、「相手の文化を、自分の尺度だけで判断してしまう危険」を感じながらも、児童たちが自分なりに受け入れ、理解することができるように、情報を調整する必要があった。
一般に教師は、個々の児童を見ながらも、全体がどう動くのかを考えている。また、目標意識を非常に強くもち、そこへの到達については十分すぎるほどに自らに成否を問い、児童に対する態度が「コノ子ヲ、私コソガ、ナントカ指導シナキャ」という責任感に凝り固まっているようなところがある。
それに対して、今回の実践で協働した博物館教育を専門とする佐藤優香氏は、児童を一人ひとりよく見て、個々の変化について深く追求してくれた。つまり、到達すべき点について語る前に、学びのプロセスは一〇〇人いれば一〇〇通りすべて違うものであるという前提に立ち、まず個々の学びのプロセスにおいて楽しさや喜びなどをたっぷり味わえるように配慮された。また、すべての児童が同じゴールに到達することへのこだわりも低いように、私には感じられた。
この違いは、所属する施設・機関や業務の目的等が違うのだから、当然といえば当然だった。しかし、授業実施前後の打ち合わせや、実際の授業場面で、あるいは児童の見方でも、お互いが180度違うことに驚きながら進めていった。こうした実感・体験こそが両者にとって大きな財産となった。いかなる民族の文化に対しても平等に接し、互いに相違点を認め合い、共通点を探り合う努力が必要であるという「文化相対主義」は、異文化理解の態度として重要である。しかし、いわば「教育施設相対主義」も大切だったのだ。
ホンモノに出会えた成果 一緒に取り組んだ、四年生担任教師三名からの声を次に示す。
「仮面に願いをこめたからこそ、作品にあのような多様性が生まれた」。
「長い期間をかけたが、その間、児童の誰もが嫌がらず大変集中して取り組めた。自分なりの願いをこめたところにその大きな理由があると思う」。
「民博に行ってみて世界のさまざまな仮面を見て、ユニークな願いやデザインを自由に発想できた」。
「教室でおこなわれた学期末懇談のおりに、保護者が室内後方黒板にある我が子の作品をピタリと言い当てた。どこに掲出してあるか、どのような仮面であるかなど、家で子どもがよく話していたからだった」。
「佐藤先生を子どもたちは心待ちにしていた。佐藤先生の『いいところ探し』はとてもやさしい気持ちにしてくださる。担任の私たちは、あんなふうにばかりはなれないなぁ」。
これら学級担任の声は、民博に行ってホンモノに出会えたこと、また博物館と学校との立場の違いが、よい方向に児童に作用したことを示している。
「ミニ博物館」をつくろう
博物館を感性で学ぶ
今田 晃一
発信側の模倣体験学習 平成15年12月に学習指導要領の一部が改正となり、総則において「博物館等の社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携」を進めることが示された。学校教育のさまざまな場において、博学連携が期待されているのである。充実した連携のためには、それぞれの学びのよさを生かした学習の場を創造していくことが大切である。まずは学校側(教員および学習者)が博物館独自の学びについて正しく理解することが、博学連携にとって緊要性のある課題である。
博物館に限らず、学習者が学校以外の情報メディアを理解するには、情報の発信者の立場を擬似的に体験することがもっとも有効である。たとえば、ニュース番組は何らかの意図をもって構成されたものであるというメディアリテラシーの概念(批判的思考力)を学ばせるには、実際にニュース番組をつくるという学習を通して、情報の発信者の立場を実感させるという発想である。筆者はこれらの授業を「発信側の模倣体験学習」と名づけ、さまざまな実践をおこなってきた。そこで博物館の学びを実感するために、学習者が博物館をつくるという視点から学習プログラムを開発した。
博物館独自の学び 博物館は、モノを媒体とした教育機関であり、モノとそれが使われている状況に思いを馳せることが学びの基本とされている。学習という視点から見ると、展示資料であるモノは実物という教育メディアの一種である。そのため学校側ではひとつのモノからできるだけ多くの知識としての情報を得ようとし、博物館を調べ学習の場として利用する。必然的に展示資料の解説ラベルに対してより詳しい内容を求める傾向になる。しかし、博物館は必ずしも調べ学習に適する場ではない。博物館の教育の目的は、最終的にはモノが発するメッセージを受け取り、感じとる力を育成することをめざしているともいえよう。そのため解説ラベルの記述は最低限の記述量となる。博物館独自の学びへの学校側の認識は、まだまだ低いと言わざるを得ないのが現状である。
学習プログラムの開発
これからの博物館を利用した教育においては、ハンズ・オン、つまり触れたり、体験できたりする参加型の展示方法をいかに活用するかが重要になってくる。国立民族学博物館のハンズ・オン「ものの広場」は、国際理解につながるさまざまな国・地域のモノ(主に日用品)40種100点が自由に触れられる状態で展示されていた。それを見本とし、模倣する「発信側の模倣体験学習」の構想図を上に示した。学習プログラムの開発と実践については次頁をご覧いただきたい。
従来、答えのない学習スタイルは、学校にはなかなかなじまなかった。それが、感性を活用する博物館式学習スタイルと出会って変わりつつある。そして学習者の学びについての意識もまた、変容しはじめた手応えを感じている。
*ハンズ・オン「ものの広場」を活用した学習プログラム構想図は画像データのP08でご覧下さい。
「ミニ博物館」をつくろう
見せる側の苦労を体験
木村 慶太
本物の資料を自分たちで 博物館学習においても、「発信側の模倣体験学習」は非常に有効であるという観点から、平成16年10月19日、本校文化祭において「ミニ博物館」づくりを実践した。
展示資料は、国際理解につながるような諸外国の民芸品や生活用品を中心としたものとした。また生徒たちが自文化と異文化を比較できるように、日本国内の民芸品なども合わせて展示することとした。なお、展示資料は以下の四つの方法で収集した。
(一)生徒たちが自らの手で製作する。
(二)インターネットを通じて購入する。
(三)生徒の家庭からもち寄る。
(四)国立民族学博物館から借りる。このようにして、100余点の展示資料を用意できた。
まずは会場づくりから 「ミニ博物館」づくりは、会場づくりから始まる。単に展示資料が分類整理されていることや解説がわかりやすいだけではなく、来館者にとって居心地のよい空間であるように心がけたのである。清潔であること、照明が適切であること、また展示台の位置は来館者の視線を考慮した。このような視点は、教員が指導していないにもかかわらず、生徒たち自身が実践のなかで身につけていった。作業のなかではじめて「より気持ちよくよりわかりやすく」ということを考え、見せる側の苦労を感じることができた。それは、非常によい体験学習となったし、手づくり博物館成功の喜びをより大きいものとすることになった。
「ミニ博物館」開館 文化祭当日開館された「ミニ博物館」には、生徒と文化祭に訪れた保護者と教職員のほとんどすべてが来館し、熱心に観覧してくれた。来館者は、展示資料一つひとつを手に取り、解説ラベルを読み、マルチメディア解説に見入っていた。生徒たちも当番を決めて解説者となり、来館者に一所懸命説明した。いかにも誇らしげな表情で。生徒たちが、今回の博物館に自信をもつことができた理由は、次の三点である。
(一)博物館そのものがすべて手づくりであること。
(二)展示資料がすべて本物でありレプリカではないこと。
(三)ハンズ・オンという展示方法をとり、来館者がそれに満足していること。
 実践の後、生徒たちは今回の成功の喜びとともに、さらに工夫され改善された博物館に驚嘆している来年度の来館者の姿を見つめていた。
民博で学ぶ世界史
展示場は教材の宝庫
田尻 信壹
高校の現行の学習指導要領では、「博物館などの施設や地域の文化遺産についての関心を高め、文化財保護の重要性について理解させる」(日本史B)など、博物館の積極的な活用が提起されている。
民博のなかで、筆者が授業で活用したい展示品をピックアップしてみよう。オセアニア展示場の入り口に置かれている枝編み海図は、生徒にとってインパクトのある資料である。世界史の授業が開始されてまもない四月にこれを生徒に見せ、「海で生活する人びとにとってとても大切なもの。何だと思うか」と尋ねる。これを導入にして、オセアニア展示場の精巧な擬餌鉤(ぎじばり)やさまざまな漁具を観察させることで、人類は農耕・牧畜以外にも、海洋などさまざまな環境に適応して優れた文化を育んできたことを生徒に気づかせたい。文化・文明の形成期の学習は、とかく抽象的な語句や概念で説明されがちである。そのことが生徒の世界史嫌い、世界史離れをもたらしている。世界史学習のオリエンテーションを兼ねるこの時期に、生徒の興味や好奇心を刺激する魅力的な教材を提供し、その心をしっかりとつかむ必要がある。枝編み海図などの展示品は、そんなニーズに応えることができるコンテンツといえる。
今日の世界史学習では、17~18世紀の大西洋世界は、近代世界の構造を理解する上で重要な地域となっている。カリブ海域に成立したアフリカ系奴隷労働にもとづく砂糖プランテーションは、大西洋世界の構造を象徴的に示すものである。砂糖プランテーションは農園と作業場(工場)がドッキングした施設で、近代的工場制度の原型ともいわれる。しかし、その実態を具体的に説明するための有効な教材は少ない。これでは、生徒が砂糖プランテーションについて学ぶことは難しい。アメリカ展示場のサトウキビの圧搾機は、生徒にプランテーションの過酷な労働の実態を伝えてくれる貴重な資料である。生徒は、この機械から奴隷たちが騒音と高温多湿の作業場で、昼も夜も過酷で危険な労働を強制された姿を想像することができるだろう。
また、ビデオテークには、ゴレ島(セネガル)を取り上げた番組(『ゴレ島 奴隷の島から文化の島へ』)がある。この島には奴隷集積のための砦跡が保存されており、ユネスコ世界遺産に登録されている。この番組から、生徒は、17~18世紀の西アフリカとカリブ海域の関係を理解することが可能となるだろう。 博物館を積極的に活用したいと考えている筆者にとって、民博の展示品やビデオテークは、地歴科、とりわけ世界史にとって教材の宝庫である。
民博で学ぶ世界史
旅支度は民博で
柴田 元
学校の学習活動に民博を活用できないだろうか。2001年に開催された全米日系人博物館の巡回展『弁当からミックスプレートへ―多文化社会ハワイの日系アメリカ人―』と特別展『ラッコとガラス玉―北太平洋の先住民交易―』にボランティア・スタッフとして参加して以来、考え続けてきたことである。
二〇〇二年以降も時勢を視野に入れたメッセージ性豊かな特別展が続き、たいへん好評を博した。『ソウルスタイル』『マンダラ展』『世界大風呂敷展』『西アフリカおはなし村』『アイヌからのメッセージ』『多みんぞくニホン―在日外国人のくらし―』『アラビアンナイト大博覧会』という、生徒の異文化学習や教員の教材研究に大いに役立つテーマ展示が切れ目なく開催されたのだった。
いうまでもなく、常設展示も学習素材の宝庫である。展示場に足を踏み入れると、文字どおり、宝の山に分け入ったような感覚に襲われる。問題は教員がいかに関心をもって展示物に接するかであろう。その気になれば、すぐ手が届くところに貴重な宝の数々が眠っているのだ。
かくいう私も、勤務校のハワイ修学旅行の実施、当該学年の世界史Aの授業担当という偶然に恵まれなければ、民博活用はいまだ机上のものに過ぎなかったかも知れない。おまけに二年生の必修世界史Aは、一九世紀末の「国民国家・帝国主義の成立」あたりから入る。アメリカによるハワイ併合の過程も学習する。修学旅行向けの事前学習を通常の授業の流れに自然に乗せることができた。
2001年春、常設のオセアニア展示が模様替えされ「先住民の文化運動」のコーナーがあらたに設けられた。ハワイ先住民、マオリ、アボリジニの主権回復や文化復興の運動に関する展示が企画された。ハワイ先住民のコーナーには、経済的自立を図るため設立された「ハレ・クーアイ」とよばれる生活協同組合の建物の実物が再現されている。店内には先住民のさまざまなメッセージがこもった商品が並べられている。
昨年の夏、当該学年の希望生徒を民博へ引率した。「ハレ・クーアイ」とオセアニア展示場を使ってワークショップをおこない、ワークシートを完成したり、ポリネシアについてのビデオテークを鑑賞したりした。二学期には、ハワイ先住民の歴史と主権回復運動を扱った「多民族社会ハワイの『光』と『影』」と題する自前の教材を作成し、旅行出発前に特別授業をおこなった。
2004年度の府立高校の修学旅行の行き先は、海外では東南アジア、オセアニア、東アジアが多く、国内では沖縄、北海道が多い。民博活用を事前学習のなかに組み込んでみてはどうだろう。また民博を活用した教員のあいだで、成果や情報、意見などを交換する場をつくることも一案である。まずは民博へ足を運んでみることをおすすめしたい。

表紙モノ語り
仮面にこめられた願い
企画展「学校がみんぱくと出会ったら」出展作品/茨木市立葦原小学校4年生 作 縦/25cm~50cm 横/23cm~40cm
八代 健志
儀礼、神事、芸能でもちいられたり、それ自体信仰の対象となったり、人びとはさまざまな思いをこめて仮面をつくってきた。民族学的な解釈はともかく、民博に展示されている数々の仮面にこめられた「思い」は、見学した子どもたちの心にも強い喚起力をもった。そこで図工科の学習として、自分の願いをこめた仮面をつくることになった。表紙の面は、世界の仮面にインスピレーションを得て、子どもたちが製作した作品の一部である。
どんな願いがこめられているのか。中央右の面にこめられた願いは、「強くなれますように」。作者の男の子は、悪者をやっつけるような強さのイメージをテレビアニメの『タイガーマスク』に託して、自発的にインターネットで情報収集し、製作した。
左下の女性の顔の面は、民博で見た韓国の面の影響を強く受けている。面にこめた願いは「きょうだい仲よくケンカをしない」。製作したのは、日ごろおとなしいが、しっかり者で家族思いの女の子である。
左上の作品などは、一見しただけでは何を表しているのか、わからない方も多いだろう。これは「風船を自分ひとりでふくらませられるように」という願いにからめて、風船と自分のおなかの形を模したものだ。作者である男の子の自立への願いが感じられる。
ほかの面にも「お金持ちになれますように」「運動神経抜群になれますように」「長生きできますように」など、四年生120名それぞれの願いがこめられている。これらの願いには「等身大の今の自分」が反映され、作品のどれをとっても、その子なりの自分らしさが精一杯、表現されている。一つひとつの仮面が、個々の生命のきらめきに輝いて見えるのは、教え子に対する私の欲目だけではないだろう。保護者からも好評をよんだこの実践の成果を一人でも多くの人にご覧いただきたい。
みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内
人生は決まり文句で
イモ言葉いろいろ
ぼくは長年サトイモを調査してきた植物学者である。隣の芝生は青く見えてくることもあるが、ぼくはこのぬるぬるしてえぐいイモの研究に身を捧げてきた。サトイモについて、世界中でいろんなことが言われている。必ずしもいいことばかりではない。祖国ニュージーランドのある料理研究家は、サトイモの味は壁紙を貼るのりのようだと書いている。しかし各国の人びとは、それぞれお得意の育て方や調理の仕方を心得ているのだ。そのニュージーランドの料理研究家は無知なだけだったんだろう。
サトイモを求めて三千里。ぼくは世界の各地でサトイモの調査をしてきた。サトイモにかける情熱を地元の人びとにわかってもらうのはひと苦労だ。聞き取りをしようにも、たいがい無視される。
キプロス島では、ついにキレたぼくはこう叫ぶ、「アンタは完全にサトイモの葉だ!」。そう言いながらも「サトイモの葉に水をかけるようなものかもしれない」と考えてしまう。聞く耳をもたないものになにを言っても、サトイモの葉が水をよくはじくように、浸透しないのだ。叫び続けてのどが渇いたぼくは水をがぶがぶと飲む。するとキプロスの農民は言うのだ。「サトイモみたいに水を飲むやつだな」。「そんなにサトイモが好きなら、カルパシに行きな。繁盛するよ」。
確かにキプロスのカルパシは水に恵まれ、サトイモがよく育つところ。だがぼくの次なる目的地はエジプトだ。カイロの旧市街の市場を歩くと、あちこちでサトイモが売られているのを目にする。
「こんなにたくさんのサトイモが砂漠に育つのか?!奇跡だ!」と驚いていると、「なに言ってんだよ」と八百屋のおばちゃん。「奇跡でもなんでもないさ。砂漠で育つわけがないじゃないか。ナイル河沿いでできるんだよ、デルタ地方からカイロの川上にかけてね。古いことわざがあるんだよ。すべては天の恵みだが、サトイモだけは手入れと水やりがいるってね」。
ナイルには確かに水が十分ある。
ミャンマーも水には事欠かない。東南アジアのど真ん中、モンスーンが山岳地帯にどっと雨を降らす。野生のサトイモの調査のために森に入るつもりで行くが、すでに首都ヤンゴンのいたるところに、サトイモが生えているのに目を奪われる。湿地のサトイモの茂みを探索していてヒルが足に吸い付いてこようとも、滝のそばに生えるサトイモを見るためにツルツルすべる岩に登ろうとも、長年してきたことなのでちっとも危ないと思ったことはない。地元の同僚の、「サトイモの葉に水がつかないように、近づく危険が去りますように!」という声なんか聞こえさえしない。
じつは、危険をおかして遠くへ出かけずともサトイモを観察できるよう、京都桂川沿いの小さな畑でサトイモを育てようとしているのだが、どうもうまくいかない。肥料や水をやりすぎたり、逆に足りなかったりと、何をやってもうまくいかない。温暖化のせいだと八つ当たりする始末。
畑の仲間たちはことごとく頭を横にふって呆れ顔で言う。
「芋頭(いもがしら)で足をついたな(うかつなことをした)」。
「芋の煮えたもご存じない」。
地主にいたっては、あいつと付き合うのは、「すりこぎで芋をもる(不可能なことをする)ようなもんですよ」と言う。
ほっといてくれ。芋助とよばれようが、芋頭でも頭(かしら)は頭だ。ぼくの飽くなきイモ探求は続く。
(翻訳 山中由里子)
時論 新論 理想論
「理科ばなれ」の流れのなかで──民博のよき伝統を残そう
近年、日本の子どもたちの「理科ばなれ」や「科学ばなれ」が心配されている。たしかに、わたしが高校や大学時代に愛読していた科学や自然に関する雑誌はあいついで姿を消し、青少年むけの科学雑誌は現在ほとんどなくなっている。また、わたしの子どものころにくらべると、昆虫少年や植物少年もめっきりへったようである。
しかし、「理科ばなれ」や「科学ばなれ」は子どもの世界だけのことなのであろうか。たとえば、民博でも「理科ばなれ」がすすんでいるのではないだろうか。その例をあげてみよう。かつて民博の研究部スタッフのなかには動物学や植物学、薬学、農学などの生物学系の出身者がわたしをふくめて何人もいたが、今ではほとんどいなくなった。それを反映してか、民博研究部の一角を占めていた実験室も縮小されたり、姿を消したものさえある。
いっぽう、研究の世界では自然科学と人文科学との統合、いわゆる「文理融合」の必要性が叫ばれている。最近の研究は分野を問わず、どんどん専門化、細分化しており、このような動向に対して反省の声があちこちで上がったからであろう。その後、さまざまな研究分野で総合化の重要性が認識された結果、民博が基盤機関のひとつになっている総合研究大学院大学(総研大)も生まれた。総研大は、既存の学問分野の枠を超えた学際領域の研究の発展をめざして設立されたのである。
このような動向を先取りしていたのが創設時の民博ではなかったか。先述した生物学系の民族学者たちが学際的・総合的な視点で研究を推進していたからである。このような視点を反映して、かれらが実施したシンポジウムや共同研究、さらに出版物は、民族学(文化人類学)だけを専門とする研究者たちとは、ひと味もふた味も違うものであった。そして、学際的・総合的な研究こそが民博の大きな特色のひとつであったはずである。その特色がいまや消え去ろうとしているのである。
そんな流れのなかで、わたしはなんとか民博の特色をまもりたいと考え、実践してきたつもりである。ネパール・ヒマラヤで植物学や畜産学などの自然科学者たちとチームを組んで三年間調査をしたのもその例である。また、今春まで四年間にわたりアンデスで実施した調査でも自然地理学者や遺伝学者とともにフィールドワークをおこなった。もちろん、これらの自然科学系の研究者と民族学者のあいだには調査方法などで大きな違いがあり、とまどうことも少なくなかったが、それ以上に得るところが大きく、学際的な視野も大きく広がった。
昨年、民博は創設されて30周年をむかえた。現在、創設時代のことを知る研究者は少なくなり、さまざまな民博の伝統が失われようとしている。そのなかで、わたしは「文理融合」の民博の伝統の火だけは消したくないとかんがえている。もし、その火が消えれば、研究の面での民博らしさまでも失われてしまうのだから。
手習い塾
モンゴル文字で名前を書く 2
藤井 麻湖
先月号では日本語の50音をモンゴル文字に一対一対応させる表を示したが、「ん」の語中形と「あ」の語中形は同じ「★」で示されることに気づき、不安を感じた方もおられよう。たとえば、「しんいち」を書く場合(図1―1)、三番目の文字nはaとして考え、すなわち「しあいち」と読めるのではないかと。さらに注意深い読者なら、図1のsinやsiaの部分はワンセットで日本語の「しゃ」に対応させた形と同一であるので、「しゃいち」とも読めるのではないかとも思うだろう。
しかしこの場合においては、モンゴル語の正書法では、iaの連鎖や、母音の三連続はないのでsiaichiすなわち「しあいち」はありえない。また、モンゴル語で「しゃ」の音はsiaの連鎖で書かれないので、shaichiすなわち「しゃいち」と読まれる心配もない。とはいえ、「しんいち」と読まれにくいのも事実である。なぜなら、モンゴル文字の正書法でiの語中形が「★」と書かれる場合、直前の文字が子音であることが多いからである。直前が母音の場合、例外を除いてyという子音を挟み、sinichiではなくsinyichiと書くと(図1―2)、モンゴル人も正しく読んでくれるだろう。同様に、「えいいち」という名前も、図2のようにeiichiではなく、eyiyichiと書くのがよい。
「ん」と「あ」の語末形にしても、同じ形「★」であるので、こちらはどうかというと、「あ」や「しゃ」などで終わる姓名では(あまりない事例だと思うが)、場合によってはaやsiaではなく、nやsinと発音されてしまうことが起こる。なぜなら、モンゴル語の正書法では、語末でnと読まれる場合、直前は母音であり、また、語末でaと読まれる場合、直前は子音になるからである。
また、たとえば「前田」という姓は図3のように書けるが、ここで「★」の文字は、wという子音の語中形とも同一なので、mawdaすなわち「まうだ」とも読める。これはモンゴル語にはaeという音や綴りが存在しないためである。このように、読みがモンゴル語の慣習に影響されるものもあるのは、やむをえないこととあきらめるしかない。

ところで、たいていの語頭形と語中形は同形でよいが、「が」や「ご」のほか、「じゃ」「じゅ」「じょ」の語中形は、図・のように異なる。また、語末形についても同図を参照してほしい。
最後に、実際に内蒙古人にモンゴル文字で日本人の名前を書いてもらうと、別の書き方をされる場合もあることを付け加えておきたい。というのも、モンゴル語の母音はじつは次頁の表のように七母音あり、日本語より二母音多い。ところが、文字のほうは五つしかないので、oとu、öとüは、それぞれ同じ文字であらわしている。これに従うと「う」と「お」を区別できないが、文字が余ることを利用して、「う」には、語頭形と語中形にだけöとüの文字を用い、語末形を「お」と区別させるために、★の最後の止めの部分を少し左側に★と湾曲させる例がある。本稿では、この例に倣ったのである。 「う」と「お」の書き方だけでなく、他の「かな」についても、確立した変換法はないので、必ずしも体系的方法によらず、近似的な音をとりあえずモンゴル文字で移しかえているのが現状である。ただし「え」に関しては、外国語だけに用いる「★」であらわすことがかなり慣用化されているようである。
それゆえ、先月号の「義経」は図5―1だけではなく、図5―2と書くこともできる。しかし、後者は「よしつね」とも読めるが、「よしつぉね」とも読めることになる。とくにこの場合、モンゴル語のまた別の規則「母音調和」の法則により、「よしつね」ではなく、「よしつぉね」と読まれる可能性が高いことを付け加えておこう。
* 「図1-1」「図1-2」「図2」「図3」「図4」「図5-1」「図5-2」
  「表:モンゴル語の七母音」は、画像データの本紙P17でご覧下さい。
* ★印はモンゴル文字、画像データの本紙P16でご覧下さい。
地球を集める
ガラス絵の「顔」
創られたガラス絵市場 常設展示場のテーマ展示「セネガルの街角」には、およそ200枚のガラス絵が展示されている。一枚一枚選び出し、値段を交渉して購入したものである。一枚が数百円のものから、30万円相当のものまでさまざまなものが一緒にならんでいる。それらをあえて区別しないのは、ガラス絵が生活の楽しみとして人びとに受け入れられていたという経緯を意識したためである。
ものにはいろんな「顔」がある。たとえば食器ひとつをとっても、生活の道具としての器から、うるおいや楽しみをもたらす生活文化のひとつとしての器、そして道具としての用途を失った装飾品や骨董品、さらにその希少価値ゆえに売買されるもの、などさまざまである。ガラス絵の背景にもこのような変遷がきざまれている。
民博でガラス絵を収集することになったきっかけのひとつは、あるフランス人収集家からもちかけられた、ガラス絵のアンティークを買い取ってくれないかという話だった。D氏はセネガル滞在中にガラス絵を買い集め、欧米各国で数々の展覧会を開催した。このようなフランス人は彼ひとりではない。セネガルを植民地としていたフランスは、セネガル独立後も国家建設のアシスタントという名目で多くのフランス人をセネガルに派遣していた。そのようなフランス人のなかに、セネガル人の家庭で埃まみれになっていたガラス絵をもらいうけたり、新しい作家を援助したりする収集家が現れた。彼らは掘り出し物を発掘したことによって自ら美術市場を創り出し、そのなかで収集品の価値を高めていった。
D氏と購入価格を交渉する過程で、いみじくも彼が口にした「これほど古く、めずらしい作品を値切るなんてとんでもない。欲しければ100パーセント、そうでなければゼロにしてくれ」という強気の言葉は、そのことを如実に示している。価格を値切ることは作品の価値を認めないということであり、そのような鑑賞能力のない相手に買ってもらう必要はないというわけである。
私個人は美術市場の論理に支配されたくはかったが、どれほど値切っても、あるいは無関心を装っても、博物館がガラス絵を購入するという事実そのものが、「裸の王様」に太鼓判を押すようなものであることにかわりはなかった。ガラス絵に美術的あるいは商品的価値がないといっているのではない。ものの価値が紙一重で虚構のものとなる美術市場という世界が、博物館の出現によってにわかに現実味を増してしまうのである。
「いくら出す?」で始まる交渉 はたしてガラス絵は美術品なのか、工芸品なのか、それとも単なる土産物なのか、あるいはストリート・アートという流行にのるものなのか、そのことを問うことにあまり意味はないように思う。どの分類にもこれといった基準など存在しないからである。
さて、ダカールの路上では民博の展示場で再現しているように、塀にびっしりガラス絵がならべられているところがある。この場所は数軒の店によって共同で運営されている。新鋭の作家が直接出品している場合もあるし、仲買人が雑多なものを集めてならべていることもある。ここでは値段は交渉次第で決まる。美術品であろうと、工芸品であろうと、土産物であろうと、そのときの客と商人の懐具合が商品の価値を決定する最大要因となる。商人はその日、どのくらい儲けたいか、客はどのくらいお金を出す気があるかが問題なのである。買い物のあらゆる場で交わされる会話は、「いくら出す?」で始まる。ここでいくら値切ろうとも、商品の価値を侮辱することにはならない。ここは美術市場ではなく、商品市場なのである。
お気に入りの一枚に価値あり 路上を通りかかったフランス人が、ガラス絵を選んでいる私に「まるで略奪だわね。日本人の買い漁(あさ)り!」と叫んでいった。私がセネガルで購入したガラス絵は300枚以上にのぼるが、その場でフランス人が見たのはごく一部にすぎない。まさしく「買い漁り」というべき収集をしたのは指摘されるまでもないが、それがより卑(いや)しめられた行為のように見られるのは、ガラス絵が単なる商品ではなく文化や芸術であるという認識があり、金に置き換えられないものを金の力で奪い取ると思われるからであろう。そしてますます値段がつりあがり、セネガルの人びとには簡単に手に入らない贅沢品になってしまう。もっとも、人びとの楽しみであった生活の文化を、美術市場に流通させていったのはフランス人である。
ガラス絵には定番のモティーフが多く、有名無名の作家がそれぞれまったく同じようなものを制作することがある。価格はピンからキリまである。独特な作風をもった作家もいる。時流に乗った作家もいるし、そうではない作家もいる。これらすべてをあえて一堂にならべることによって、博物館と美術市場の相反する関係から少しは自由になることができる。外から与えられた価値に左右されることによってガラス絵の「顔」が変わってきたことを意識しながら、お気に入りの一枚を見つけてもらえたらと願っている。

生きもの博物誌(アオウミガメ/ミクロネシア連邦)
美味なるかな、カメの甲羅焼き
豪快に下ごしらえ タマッグさんの家の波止場付近がにぎやかになった。カメを意味するウェルという現地語に混じって、「カメサン、カメサン」とか「オッパイ、オッパイ」ともとれる言葉も聞こえてくる。駆けつけてみると、砂地にウミガメが裏返しにされて四肢をばたつかせている。タマッグさんが町からの帰りに見つけて、捕まえたのだという。背甲の長さは7、80センチメートルほどあろうか、なかなか大きい。アオウミガメだろう。
ここはミクロネシアのヤップ島。住民の主食は田畑で栽培するタロイモやヤムイモなどのイモ類と、海で獲る魚である。かつて男性は魚獲りに熱中した。しかし人口減少から集団漁は姿を消し、今や家族単位で小魚を数匹獲れば十分といった具合である。自然保護の観点からみれば結構なことではあるが、これが毎日続くと、たまには違う味も食べてみたくなる。そんな時のウミガメだった。ヤップの人たちにとっても大好物である。
カメ料理は予想もしない展開で始まった。仰向けのまま頭を岩にのせ、まず斧の背で首を打ちつけて息の根をとめる。そして包丁で首を切り開き、あいたのど元から手を突っ込んで腸を引き出し始めたのである。なんとも楽しげな顔をしながらシルメッドさんは解体を進める。手を二の腕まで差し込んで、なかで何やら動かしている。腸は何メートルも出たようだ。レモンを三個ほど半割にして、のど元から体内に入れる。調味料なのだという。そしてココヤシの葉の芯を糸に傷口を縫い上げる。この間、ほかの一人は腸を海水でよく洗って内容物を取り出し、ボールに入れてレモン汁をかけて下ごしらえする。これはアルミ鍋で煮て食べる。
砂浜のごちそう 一人がヤシの実の殻をスコップ代わりにして砂を掘り始める。長軸80センチメートルほどの楕円形である。
まさか!
すると想像通りに、シルメッドさんがカメを仰向けのまま穴に入れ、納まりを調整し始めた。カメはもうピクリともしない。タマッグさんが火をおこし、カメの腹にヤシの繊維が燃料として置かれ、火が移された。カメの甲羅(こうら)が、いわばそのまま鍋となり、おなかの上でたき火が始まったのである。驚いたことにカメはまだ生きていて、四肢を動かす。するとおもむろに両肢をヤシ繊維で縛り上げてしまった。なんともユニークな調理方法である。  小一時間もしただろうか。たき火は燃え落ち、おなかは灰だらけとなった。これをヤシの葉でていねいに払い、穴から取り出す。腹の甲は簡単にはがれ、なかからすっかり煮えた肉が現れる。肉塊を取り出し、背甲に付いている肉もこそげおとし、底にたまっている血や肉汁もしっかり汲み取ってボールに入れる。
前肢を支える胸の筋肉はとくに大きく、しまっている。適当な固さがあって、味は淡白で鶏肉のようでもある。魚とは違って、またおいしい。肉をほおばる皆の顔も輝いている。この胸筋を取り上げたとき、日本語が上手なワーヤンさんが私を見てうれしそうに叫んだ。
「コバヤシさん。オッパイ、オッパイ!」
オッパイはやはり日本語であったのだ。
アオウミガメ(学名:Chelonia mydas カメ目ウミガメ科。甲長70~150cm、体重は65~300kgに達する。世界の熱帯から亜熱帯の海域に分布する。成体は緑がかった茶色か黒で、マングローブの根や葉、海草を食べる。肉はウミガメのなかではもっともおいしいとされ、オセアニア各地では重要なタンパク源となっている。産卵のため砂浜に向かう習性をもつが、遠く1000kmも離れた海岸まで泳ぐこともある。多産で、1回に100個以上の卵を産む。絶滅が危惧され、保護対策がとられている。
見ごろ・食べごろ人類学
ベトナムのままごと
比留間 洋一
売り買いのままごと うだるように蒸し暑い2000年6月の午前。サム婆さんは出かけて、家の入り口では三歳の孫一人が白いチョークで階段に落書きをしている。門の内側の木陰では、隣家にすむ一二歳の男の子トーが、いつものサッカーのユニホーム姿で、茣蓙(ござ)のうえに、くつろいだ様子で腰をおろし、一歳の姪の遊び相手になっている。
ここは田んぼと灌漑(かんがい)水路がしきつめられたデルタのなかに立地している、約400戸からなるハノイ近郊の農村。現在ではテレビもバイクも、一家に一台ほどは普及している。近年、どこの村でも二、三階建ての白亜欧風の新しい家が目立つようになってきたが、この村はまだ10軒に1軒くらい。ほとんどが、煉瓦の壁にモルタル塗りで瓦葺(かわらぶ)きの平屋である。
この日、わたしははじめて「チョーイドーハン」をトーから知った。チョーイドーハンとは商品を売り買いするままごと遊びのことである。
「これはクックタン。ダインゾーができるんだ」と言って、トーはサム婆さんの生け垣の細かな葉を選ってもぎとり、また大小の葉がついた別種類の草の茎を折る。クックタンとはヒヒラギギクという和名をもつキク科の草、ダインゾーとは、ひりひりと熱くなる物質を体に擦り込んで風邪を治す民間療法のことである。薬草売りのつもりである。
今度は、ハイビスカスの赤い蕾(つぼみ)と、生け垣付近に転がるレンガを拾ってきた。手早く、草花と煉瓦を配置していく。まるで使い慣れた台所で料理をするかのようであろうか。
レンガの上で一枚の葉を小刀で細くきざむと、それを木の葉のお皿にのせた。
「ご飯だよ」とトー。
「おもしろいねえ」とわたし。

次は真っ赤なハイビスカスの蕾を薄く切って「ご飯」にのせる。「トウガラシ」だという。
「あとは箸だ」と、すぐ近くに生えている竹の小枝を適当な長さにして、その先をレンガにこすりつけてきれいにする。そして、ご飯と箸をわたしたち夫婦に差し出しながら、「買いなよ」「いくらで買うかね?」と商人風に声をかける。
ベトナム商店よろしく値段交渉も必要である。「お金」にする葉は、大きい順に2000ドン、1000、200というように決まっている。重さを天秤で量るそぶりもする。ほかに、肉としてトウガンの黄色い花、空心菜は池に生えている実物を利用した。
チョーイドーハンの赤、黄、緑のあざやかな色合いに心を奪われた。
村じゅう、商品だらけ 感興をそそられて、後日、村で何人かに聞いてみた。どの草花を何に見立てるかはだいたい一致しているらしいことがわかってきた。小学高学年の女の子が、訳知り顔で教えてくれた。
──クックタン、ホテイアオイ、ザウゴ(和名アマメシバ)が葉野菜。子どもたちがその蜜を吸うハイビスカスは、トウガラシ。トウガンの花は鶏卵。ニョニョイ(キク科のタカサブロウ)の葉は調味料。バラ科のガンの葉がお金。黄色がかった糸くずを拾ってきて春雨と見立てたり、ホテイアオイを薄く切って大きなフランスパンをつくったりもする。

一九歳の女性は次のように教えてくれた。
──ハイビスカスに似た紫色の野生の花がズオック。ズオックとは、ブタの干し肉をさいた、ご飯にかけるふりかけである。トウガンの花が卵焼き。池のホテイアオイは、葉を切り落とし、茎をブタ肉に見立てる。ホテイアオイはブタの餌になるので、これをブタに見立てるのではないかと思う。ハイビスカスは水に一、二時間つけておくと、色素が抜けて薄ピンクになる。これを脂身に見立てて、薄くスライス。やはりガンの葉はお金。葉が大きいほど高額である。だから大きな葉を好んで探しに行った。ご飯はない。市場にご飯を売る人などいないからだという。レンガを拾ってきて家も建てる。レンガをちょっと積んだだけの小さなものである。
自然景観と子どもの遊び ベトナム民俗学は、子どもの遊びについて数多く収集してきた。その集大成が、800頁にもおよぶ大著『ベト人の子どもの童謡と遊び』(ベトナム民間文化研究院、1996年)。これに紹介されている106種もの遊びのなかに、なぜかチョーイドーハンはない。しかし、わたしはこれは子どもたちにとってかなりあたりまえの遊び、との印象を抱いている。
子どもたちの遊びの代表的なものとして、ほかに次のようなものがある。竹ひごを使った手づくりの凧揚げ、村の井戸での魚釣り、草をオンドリに見立てたチョイ(闘い)とよばれる闘鶏ごっこ、池でのタニシとり、タットカーという伝統的な漁法による魚捕り、田んぼでのネズミ捕り、パチンコでの鳥撃ち、懐中電灯で照らし手づかみする夜のカエル捕りなどである。
村の中央に集会所があり、その前には広場と池、また水路が縦横に張り巡らされ、生け垣が家々を区切っている。こうした自然景観と、子どもたちの遊びの豊かさは深い結びつきをもっている。まさに、村の生物の多様性が、子どもの遊び文化の多様性とも対応しているのである。
このことを、わたしはとりわけトーから多く教えられた。学校ではうだつがあがらないようであったが、近所で遊んだり、田んぼで水牛追っているときのトーには活気がみなぎっていた。彼の家にはバイクもなく貧しかったが、家族は感性豊かであった。
あれから五年。村から届く手紙には、その外観は大きくドイモイ(様変わり)した、とある。おそらく都市化が進み、生け垣はコンクリートにかわり、水路や池も埋め立てられ、高層の新宅が立て込んでいるのだろう。遊びを通してトーが内面化してきた村世界の多彩さを、はたして今の少年少女たちはどれほど受け継いでいるのだろうか。子どもたちにとって村が遊びの宝庫であり続けてほしいと願っている。
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