国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年8月号

2005年8月号
第29巻第8号通巻第335号
2005年8月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
冒険の鍵は足元に
山村レイコ
 アフリカの砂漠をバイクや車で走るラリー競技に出てから、早一八年がたちます。今から30年ほど前、フランス人のティエリー・ザビーネが「冒険の扉をあけよう」と呼びかけて始まったのが、有名なパリ・ダカールラリー。パリからセネガルのダカールまでの約一万キロを走破するものですが、すでにエジプトのラリー経験があった私は、一九八九年に意気揚々と乗り込むもあっけなく惨敗。世界一過酷なラリーのゴールを踏むことができたのは、それから八年後でした。
 最初の頃、楽々と走っている(ように見える)ヨーロッパ勢の中で、「根性」と「忍耐」の塊だった日本人参加者たちは、どこか異様な存在でした。きっと私も浮いていたに違いありません。今思えば、10カ国を20日間で移動するという状態は、言葉も文化も自然も激変する馴染みのない世界だったのでしょう。ところがヨーロッパ人にとってのアフリカ諸国は、かつての統治国が多いためか、体力的にきつくてもほとんど気分はバカンス(に見えてしまう……)。
 その「違いの本質」を知るきっかけとなったのは、報道陣として四輪でラリーを追った時でした。ゴール前日、サン・ルイの町でいつものホテル・デ・ラ・ポストに泊まった主催者や報道人たちは、まさに前夜祭ともいうべき大騒ぎを繰り広げていました。そこは飛行郵便屋さんたちや、1930年にブラジルまで南大西洋横断を成し遂げたフランスの英雄ジャン・モルモーズ(サハラ砂漠での不時着はサン・テグジュペリの小説の題材になったとか)の常宿で、天井には飛行機や航路がどーんと描かれています。ティエリーがなぞったのは、まさにそのルート。初めてそれを知った時、リタイヤしても怪我をしても「それが人生さ」と言って笑う選手たちのエスプリに触れたような気がしました。本当の強さ、孤独感、そして勇気……。
 ここ何年かの間に、世界も大きく変わりました。日本人も世界的な速さを持つようになり、優勝者も誕生。初めての参加者はうろたえるどころか「侍スピリッツ」としてその精神力を称えられるまでになりました。壁はどんどん低くなり、一九九七年に私も初完走しますが、それは、住んでいる富士山麓とアフリカの自然は同じと思い、旅するいつもの心(競わず認めあい、畏れには踊るような心で挑む)で大地を走った成果でした。冒険の鍵は足元に転がっていたような気がしてなりません。

やまむら れいこ/女性ライダーの先駆者として、バイク、車、旅関係の著述、海外ラリー参戦、講演、テレビ・ラジオ出演など、幅広く活躍。富士山麓での暮らしをつづった近著『朝霧高原~風と暮らす』など、著書多数。
http://www.fairytale.jp/

特集 呪う─禍(わざわい)を起こす術、魔を破る術
怨敵を陥れるための呪い、また、悪魔や怨霊などの祟りを祓うためのまじないなど、人間が利益を得たり、身を護るために霊的なパワーを操作するという営みは、風土や信仰の異なるさまざまな土地に存在する。日本にも破魔矢を飾るなどの風習が身近なところにある。しかし、素人が下手に呪術の真似事をすることは禁物。霊の力を操る「その道のプロ」の不可思議な技が頼られる。


呪いの思考
 本誌で「呪う」という特集を組むという。今、なぜ、「呪い」なのだろうか。確かに、陰陽師・安倍晴明をめぐる小説や映画がヒットし、インターネット上には「呪い」をめぐるページが、大量に出現している。その一方で、「呪い」など、歴史上の過去の出来事、あるいは別世界の出来事と考える読者も多いはずだ。  「呪い」とは、特別な力をもつとされる言葉や「薬」を用いて、他人に危害を加えようとする行為をいう。呪術(あるいは魔術ともいう)と同一視されがちであるが、呪術には、他者に危害を加えようとするものと、自己や他者の利福を追求しようとするものの、二つの側面が認められる。通常、「呪い」は前者の意味で用いられることが多い。その区別を明確化するため、前者の攻撃的な目的をもつものを黒呪術もしくは邪術、後者の防御的な要素の強いものを白呪術とよぶこともある。それにあわせて、その術の行使者を、それぞれ邪術師と呪術師(もしくは呪医)と区別するむきもある。ただ、立場や状況に応じて、この両者の区別はしばしば不分明なものとならざるをえない。そのため、逆に、呪術から人間関係や社会関係が浮かび上がってくる。人類学が久しく呪術に関心を注いできた理由はそこにある。
 地球上には、呪術が日常的に話題になる社会も少なくはない。私が過去二五年間にわたって通い続けてきたアフリカ、ザンビア共和国のチェワの人びとの社会も、そうした社会のひとつである。 人間の死など、重大な不幸が発生すると、チェワの人びとは、それが誰かの「呪い」のせいではないかとまず考え、その原因を特定するために霊媒や呪医のもとへ通う。常習的な「呪い」の行使者、すなわち邪術師には、さまざまな神秘的なイメージが付与されている。邪術師は、自分が呪い殺した人物の死肉を食う。邪術師は、自ら動物に変身するほか、動物や目に見えない虫を使い魔として、他人に危害を加える、などといったものである。西洋の魔術師は、ホウキに乗って飛ぶが、チェワの邪術師は、ザルに乗って空を飛ぶという。なかには、自ら飛行機やヘリコプターをつくりだすものもいるとされる。
 こうしたことを書き連ねると、あたかもチェワの人びとのあいだに、人を呪うような人物が多数いるかのように受けとめられるかもしれない。が、じつはそうではない。邪術師が人間の能力を超えるさまざまな能力をもつとされることに込められているメッセージは、まさに、邪術師は人に非ずということであり、言い換えれば、チェワの人間には、そのような人間はいないということにほかならない。だからこそ、重大な不幸の原因と告発され、「呪い」の行使を認めさせられた人物は、チェワの領域から追放されてしまうことになる。
 とはいえ、チェワの社会に「呪い」の行使が存在しないかといえば、決してそうではない。筆者が、薬草医に師事して、「薬」の知識を教わっていた時期、夫の浮気を阻止する「薬」を求めにきた女性へ、その薬草医が「薬」を処方する場に居合わせたことがある。夫の浮気を防止するという正当な目的をもつ以上、その妻に自分が「呪い」を行使するという意識はない。しかし、知らぬ間にその「薬」を使われた夫の側からすれば、それは明らかに「呪い」の行使と受け取られることになる。その点からみるかぎり、チェワの社会には、明らかに「呪い」の行使とそれに用いる「呪い」の「薬」は存在している。
 しかし、このような意味での「薬」というのは、われわれが身に着ける「お守り」ときわめて性格の近いものである。また、呪文によって他者に危害を加えようとする行為は、インターネット上の中傷や流言蜚語(りゅうげんひご)によって、他者を攻撃する行為と通じ合う。想像の世界で、邪術師が送り出すさまざまな動物の格好をした使い魔というのも、アニメのポケモンたちのイメージと奇妙にも重なり合う。
 私たちのあいだでは、不幸の原因を誰かの「呪い」のせいだと考えることはあまりない。しかし、近親者や身の回りに不幸が続くと、私たちもまた、何か特別な力がそこに働いているのかも知れないと疑いをはさみはじめるのではないだろうか。ある者は、その理由を風水に求め、またある者は死者や祖先に求める。「呪い」もまた、そうした、説明のつかない出来事に対する当座の説明、あるいは「レッテル張り」の行為のひとつにほかならない。私たちの思考と、「呪い」が日常的に話題になる社会の人びとの思考とは、それほど隔たったものではないようだ。


トゥピラック─愛らしくも恐ろしい怪物
スチュアート ヘンリ
 グリーンランドへ旅すると、イヌイト・アート店や飛行場のお土産店で必ず見かけるのが、トゥピラックの彫刻である。その愛らしくもグロテスクな姿が観光客やコレクターの心をとらえ、イヌイト・アートのモチーフのひとつとして世界的に有名になっている。しかし、トゥピラックはそもそも誰かを殺すための呪物であったことは意外と知られていない。
 トゥピラックは、動物や鳥をかたどった胴体に人間の頭をつけたものが多いが(写真右下)、アザラシなどの動物と人間を合体したものもある(写真上)。長さ五~一〇センチの伝統的なトゥピラックは人に見せるものではなく、恨んでいる相手を呪い殺すためにひそかにつくられたものであった。といっても、誰もがつくれるものではなく、依頼を受けたシャーマンが、半ば腐った動物の肉と骨を毛皮片やコケに包み、恨んでいる相手の髪の毛などをそのなかに入れてつくって、海や川に流したのであった。流す前に、腐りかけた動物の肉と骨からできたトゥピラックは依頼者の性器を吸って生命をもったとされている(写真左下)。
 そして、水に流されたトゥピラックは相手を探し出して呪い殺したのである。たとえば、呪いの対象となっていたハンターが猟に出てアザラシを仕留めたとき、解体してみたら、いろいろな種類の動物の骨があったり、内蔵が腐ったりしているのを見て、それがトゥピラックであることを知る。すると、仕留めたハンターは次第に体力が衰え、体じゅうが麻痺して寝たきりの病人になるか、死んでしまう運命をたどるのである。
 ただし、呪った相手の呪力が、つくったシャーマンのそれよりも強い場合、トゥピラックを依頼した人に送りかえして殺すこともできたので、トゥピラックを送り込むことは諸刃の剣でもあった。
 ちなみに、グリーンランド独特のものと思われがちであるトゥピラックは、かつてイヌイト社会全体にあった。古くから知られているグリーンランドのトゥピラックはとくに有名なのである。
 伝統的なトゥピラックは水に流すものだったので、本物は現存していない。文化人類学(民族学)者がグリーンランド・イヌイトを調査しはじめた一九世紀後半に、トゥピラックという言葉を知り、その姿を再現してつくってもらったものが、世界中の博物館に現在展示されているトゥピラックである。
 多くの観光客がグリーンランドを訪れるようになった一九五〇年代以降、呪いの目的に使われなくなっていたトゥピラックは、欧米人の目には愛らしい怪物(モンスター)と映り、グリーンランドの代表的なシンボルになった。現在は、名声を博する制作者がグリーンランド各地で活躍している。


「必要悪」の呪い─イスラーム世界のスィフル
清水 芳見
 イスラームの聖典クルアーン(コーラン)には、不信仰者に対するアッラーの呪い「ラゥナ」についての言及があちこちに見られる(たとえば第二章八九節)。ムスリム民衆のあいだでは、こうしたアッラーの呪いのほかに、人間が人間に呪いをかける行為「スィフル」が古くから知られていた。このことは、クルアーンの第113章4節に、ひもに結び目をつくり、それに息を吹きかけることで誰かに呪いをかけようとする老婆の存在が記されていることからもわかる。
 クルアーンの記述(第2章102節)にも示されているように、イスラームでは、災いをもたらすことを目的として人に呪いをかけることは、好ましからざることとされており、ハディース(預言者ムハンマドの言行に関する伝承)のなかでも、ムハンマドによって非難されている。しかし、人に呪いをかける行為がイスラーム世界のあちこちに存在することは、厳然たる事実である。
 たとえば、私が調査をした中東のアラブ諸国のひとつ、ヨルダンには、呪術的な物質や技術を使ってサフル(スィフルの現地訛り)という呪術的行為をおこなうサーヘルとよばれる呪術師がいる。このサーヘルのもとを訪れる人たちの相談内容は、相思相愛のカップルを仲違(なかたが)いさせたい、学業の優秀な者を試験などで失敗させたい、誰かを呪い殺したいというような類である。
 サーヘルは依頼人に、呪う相手の髪の毛、爪などの身体の一部や身につけた衣服の一部をもってくるように要求したり、呪文を唱える際に必要ということで、呪う相手の母親の名前を尋ねたりすることもある。こうして、サフルの対象となる者の情報を得たのち、サーヘルは呪文を書いた一見護符のようなものをつくり、依頼人にわたす。依頼人は、それを受け取り、サフルをかけたい相手の飲食物や便所の水差しに入れたり(一度入れてから取り出す)、それを入れておいた水を相手の家の前にまいたりするのである。
 やはり私が調査をした東南アジアのブルネイのムスリムたちのあいだでも、スィヒルあるいはイルム・ヒタムとよばれる黒呪術が知られている。スィヒルが、アラビア語のスィフルに由来する言葉であることはいうまでもない。これをかけられたために、歩くことができなくなったとか、病気になったとかいう話が、調査地の村でも聞かれた。
 ヨルダンでもブルネイでも、呪いに対しては、対抗のための呪術がおこなわれる。イスラームでは、こうした災いを取り除くための、どちらかというと良いと思われる呪術も禁じられているのだが、ムスリム民衆のなかで、そのことを知っている人は少ない。ただ、知っている人でも、その多くは、「必要悪」とでもみなしているのか、黙認しているようだ。


メルレと呪術師
 森のむらでのことだった。皆が寝静まった夜更け、異様な物音に目覚めた。落ち葉を踏み、枯れ枝を踏み折るように何かが動いている。それはまるで、入り込む隙間を探すかのように、ぼくの小さなテントをまわっている。わずかなあいだだったはずなのに、手がじっとりと汗ばんできた。
 朝を待ちかねて、長老にそのことを話した。
 「それはメルレだよ。以前、このむらで大きな葬式をした。その男の影の魂が現れたのだろう」。
 聞かないほうがよかった。その夜は耳をそばだてるばかりで、少しも眠れなかった。
 そんなことがあった数日後、四〇歳代なかばになった長老の息子が、トラックに乗ってまちからやってきた。紅茶を飲みながらしばらくくつろぐと、夕方になって隣りむらへ病人の見舞いに行くという。誘われるまま気軽にトラックに乗り込んだ。
 陽が落ちかけたむらは、重苦しい空気につつまれている。いつもは陽気に声をかけてくれる若者も、押し黙ったままである。そのうえ今夜は月がない。いやな感じ。病人は女性だった。長老の息子はうつぶせになった婦人のかたわらにたき火を用意させ、それに手をかざしている。しばらくすると、彼は婦人の胸をさすり背中を手で押し、口を付けて強く吸う。突然、婦人は何かをはき出すような、人のものとは思えない奇妙な音をたてた。
 「これで心配ない。メルレは出た」。
 そういうといかにも疲れたといったふうで、かたわらに座り込んだ。友達は呪術師だったのだ。
 死者の影の魂メルレはフクロウとともに森に住み、夜になると動きまわる。それはときに親族を訪ね、原因不明の病気をもたらす。生前に恨みを抱いていた人が襲われると、外傷ひとつなく殺されてしまう、ともいう。そんなメルレの姿を見ることができ、その力に対抗できるのは呪術師だけらしい。でもあの夜、メルレはなぜ外国人のぼくを襲おうとしたのだろう。
 これを体験したのは、オーストラリア北部アーネムランドに暮らすアボリジナル、ジナンの人びとを訪ねたときのことである。


ゴングの競演と黒魔術
 フィリピンのイスラーム教徒の結婚式では、クリンタンというゴング音楽が演奏される。演奏には誰でも参加できるため、腕に自信がある者は、結婚式があるむらに乗り込んで技を競う。私にこの音楽を教えてくれたダノンガンさんは、ガンディンガンという楽器(四つ一組のつりゴング)の名手である。目にも留まらぬ撥(ばち)さばきはいつ見てもスリリングだ。
 ある日、彼は伴奏者を従えて腕試しに行った。ところが、演奏が佳境に入ろうとしたとき、パタッと撥を落としてしまったのだ。手にまったく力が入らない。こんなことは初めてだ。伴奏をしていた太鼓奏者が騒ぎだした。きっと黒魔術(パンガリンタオ)のせいに違いないと。両チームが掴み合いのけんかになったが幸い怪我人はなかった。演奏家がボディーガードを引き連れているのは、このいう時のためである。
 相手の演奏を邪魔するには二つのやり方があるという。ひとつは、アラビア語で書かれた秘密の文言を小さな紙に書き、これを撥に仕込んでおく。自分の演奏が終わったら、さりげなく撥を楽器のもとにおいて去り、相手がその撥に触れれば、手や腕が引き攣り演奏できなくなる。もうひとつの方法は、黒魔術師だけがもっている書物の一説を暗記し、相手に吹きかけるように唱える。一目置かれる演奏家たちは、家を出る前にクルアーンの一節を唱えたり、まじないの文様(アギマッ)を描いた紙切れを身につけたりして黒魔術から身を守ろうとする。一〇年ほど前に見た音楽コンテストでは、参加者に黒魔術を使わないようによびかけていた長老の姿が印象的だった。音楽家同士の嫉妬は深く、激しいのだ。
 私はといえば、この音楽を習い始めて二五年たつが、いまだに黒魔術の心配をするなどという贅沢な悩みをもったためしがない。


ハワイの憑きもの落とし
 ハワイに日系人女性の建立した立派な寺院がある。東大寺布哇(ハワイ)別格本山と称し、奈良の東大寺で修行した尼僧、故平井辰昇による宗教的救済活動で戦後、一世を風靡(ふうび)した。平井は不動信仰を中核に、地蔵や観音、阿弥陀如来、薬師如来、さらには弘法大師や父母の郷里熊本の神仏をまつり、護摩(ごま)、加持祈祷(かじきとう)、滝行、断食など「お済度(さいど)」とよぶ多彩な宗教活動をくりひろげていた。
 そのひとつに憑(つ)きもの落としがあり、死霊、生霊、動物霊を毎週月曜日の晩に落としていた。まず霊に憑かれた人をうつ伏せに寝かせ、背中にバスタオルを当て、補助役の信者が布の袋にくるんだ百万遍(ひゃくまんべん)法要の数珠をもち、それで身体を叩いた。そのとき平井は頭や肩を押さえつけながら、口ぎたなくののしった。
 「さあさあ戻れ戻れ戻れ、こん畜生、しゃんしゃ戻れしゃんしゃ戻れ、こん畜生、根性ばかりまわしやがって」。
 そこに死霊や生霊の実名がはいることもあった。補佐役もそれに和し「戻れ戻れしゃんしゃ戻れ」と唱えた。悪態をつかないと落ちないと信じられているからである。生霊には夫や妻、あるいは信者仲間がいた。動物霊の場合、狐が憑くとキャンキャン鳴き、犬神は舌を出して四つん這いになり、蛇は跳んだりくねったりしてドアから出ていったという。
 平井はまた霊に憑かれた者を正座させ、みずからは直立し、左手を腰に当て、大声で「臨兵闘者皆陣列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」と唱え、右手で縦、横に九字(くじ)を切った。九字は陰陽師(おんみょうじ)や修験者(しゅげんじゃ)がよくもちいた呪文で、災厄をはらい、敵に勝利を得るための護身法である。

未来へひらくミュージアム
みんなでかえる、みんなをかえるミュージアム
八木 剛
いつまでも、来ると思うな、お客さん。
今どき、がんばって集客しようと思わない方がいい。
関心の深い人はごくわずかで、
その他大勢は、もっとほかに行くところがある。
来ないなら、出かけてゆこう、博物館。
いないなら、つくってみせよう、お客さん。
待つものでなく、つくるもの。
これからのキーワードは、リプロダクションである。

1000人に1人をスカウトする
 兵庫県立人と自然の博物館「ひとはく」が主催する「ユース昆虫研究室」は、昆虫を愛してやまない中学生のためのセミナーで、今年で五年目になる。年間12日開催、受講料8000円。今年度からは私立学校の生徒も参加しやすいよう、日曜開催とし、中間・期末考査の日程を考慮したスケジュールを組み、一泊二日の合宿を二回と三泊四日の強化合宿を取り入れた。東は大阪府池田市、西は兵庫県姫路市に至る広範囲の中学生が、一五名ほど毎月集まり、昆虫採集に興じ、昆虫談義に花を咲かせている。もっとも、遊んでばかりいるわけではなく、会場を提供いただいている施設には調査報告書を提出し、ポスターや標本展示も制作してもらう。
 昆虫少年は、減少しているといわれている。しかし、私の見たところ、虫好きの少年は常に一定の割合で存在している。おおむね小学校四年生までは、過半数の児童(男子は七割方)が虫好きである。五年生になると児童は少年の気配を帯びるようになり、お稽古事や中学受験のプレッシャーも加わって、虫好きの割合は半減する。そして、中学生になると、虫好きは跡形もなく消滅してしまう。アミとカゴは子どもの象徴でもあって、長ズボンを履くとともに、葬り去られるのが習いだからである。しかし、中学生になってもアミを捨てることができず、昆虫道を追求する少年が稀に存在する。これがいわゆる昆虫少年である。
 私の経験から、昆虫少年は、多めに見積もっても1000人に1人くらい、各学校に一人いるかいないかの密度である。かつては学校に生物クラブが多く存在し、準昆虫少年もあわせて収容していた。現在、生物系に限らず、文科系のクラブ活動は、音楽、演劇などの一部を除き、壊滅的状態だ。1000人に1人では、学校単位のクラブ活動は成立しえない。彼らは学校では話のわかる指導者や友人に恵まれず、二つの顔を使い分けるか、沈黙するほかないのである。そんな彼らに私は声をかける。「安心しろ。ここに来ればキミはフツーだ」。
 中学生は三年経つと高校生になる。五年もやっていると、高校生の数も増えてきた。そこで、今年度からは、「ひとはく」連携活動グループ(注1)の制度により、彼らは「テネラル」(注2)という名称のグループをつくって、活動を継続している。私が彼らに期待している役割は二つある。ひとつは、小学生対象の標本づくり教室などへの協力である。昆虫の標本づくりをていねいに指導するためには、受講者三、四人に一人の指導者が必要である。増加の一途をたどる「ひとはく」のキャラバン事業や外部からの依頼事業において、彼らの存在は不可欠のものとなりつつある。もうひとつは、そのような事業のアシストを通して、有望な小学生をユース昆虫研究室にスカウトすることである。「自分がガキのころを思い出して大事にしろ。スジのいいのはチェックしておくこと」と言っている。ちょっとくやしいが、小学生の記憶には、博物館の研究員よりも「一緒に虫とりをした高校生のお兄ちゃん」の方が強く印象に残るらしい。高校生は小学生の指導を通じて自分自身の成長を実感するし、小学生は身近な先輩の後ろ姿に憧れる。そうやって、昆虫少年のリプロダクションは回転し始めるのである。
 博物館の大きな役割は、特定の分野に強い関心をもつ者の興味を受け止め、才能を伸ばすことである。1000人に1人が生き生きと活動し、社会還元をおこなうとすれば、他の999人に大きな利益となるだろう。それゆえ博物館は存在し、そう信じて日々邁進するのである。博物館は、この「事実」をもっと強くPRすべきであると思う。

小学生は偉大だ
 そうはいっても、どこに昆虫少年がいるかがあらかじめ判明しているわけではないから、まずは1000人すべてに、博物館の存在を知らしめなければならない。その努力を怠れば肝心の一人と出会うこともできず、ただのひとりよがりに陥ってしまう。したがって、1000に一人をターゲットにするためには、1000人すべてをターゲットとしなければならない、ということになる。
 狙いは、小学校と家族である。小学生を擁する家族は、リタイヤ世代と並んで、最も活動的である。学校は、ある一定の地域に居住する同年代の児童生徒がほぼすべて含まれるため、取りこぼしがない。特に、昨今の「総合的な学習の時間」は、博物館が入り込むきっかけとして大いに活用したい。
 「総合的な学習」では、小学生がインターネットをこねくり回してレポートを書いている姿がまま見受けられる。あたかもレトルト食品をチンして配膳するかのごとくだ。それが高じて「料理なんてそんなものさ」と思われてしまえば、本格レストランは商売あがったりになる。ゆえに博物館は、そういう現場にこそ登場し、「キミらな、ほんまもんっちゅうのはやねー」と訴え続け、存在をPRしなければならない。実際、教員は素材の選定に苦慮しており、そこに素材にこだわる博物館の活躍の場がある。
 三年ほど前から、私は、ミヤマアカネという赤トンボの一種を素材に選び、学校との連携を模索してきた。 このトンボは、同定が容易であること、日中に活動し出現期が長いことなど、学校で扱う学習素材として適している。  ミヤマアカネという「タレント」を売り出すにあたり、私は、少し大げさだが「日本でいちばん美しい赤とんぼ」というキャッチコピーをつけ、新聞紙上で情報を募集したのち、「夏期教職員セミナー」で説明し、宝塚市内の小学校で「総合的な学習の時間」の素材として取り上げてもらった。昨年度は二校、今年度は三校がミヤマアカネ学習に取り組んでいる。彼ら彼女らには、「キミたちも研究員となって、私と共同研究していただきます」と鼓舞した。子どもたちは、ひんぱんに校区に出て、それまで存在に気づかなかったトンボが身近にいることを発見し、手にとり、毎日のように観察し、仮説をつくり、論文を書いた。地図を読めるようになったし、エクセルの表計算や、パワーポイントでのプレゼンテーションまで学習した。
 彼ら彼女らは自宅で体験を話す。その結果、兄弟姉妹や保護者も関心をもつだろう。せっかく関心をもった相手を放置しておくのはもったいない。そこで、学校教育から一歩外へ出てみんなでミヤマアカネを楽しもうという「みやまあかね祭」を企画した。関心をもった児童の保護者が名乗りを上げてくださり、「みやまあかね委員会」という名の「ひとはく」連携活動グループとして、イベントの企画運営にあたっている。夏休みの終わりごろには、このはじめての企画が実現しているものと思う。関東地方に転校した児童も、この日には家族で帰って来るらしい。仲間内では「何年か続けて、同窓会のような場になったらいいね」と言っている。子どもたちの輝く目は、兄弟姉妹や保護者を引きずり出すパワーをもっているのである。
 ミヤマアカネの存在は、「総合的な学習の時間」で取り組んだ児童が二年間で500人だから、そこに保護者や兄弟姉妹を加えると、すでに2000人くらいに認知されているだろう。「みやまあかね委員会」には、年々新たなメンバーが加わるはずである。学校から保護者を経て地域へ、関心者のリプロダクションが動き始めている。

人をよぶのは人
 世のなかにめずらしいものがなくなった。海外旅行は手軽になり、インターネットには情報満載、かつて昆虫少年が空想に耽った外国の巨大カブトムシもペットショップで売っている。もはやありきたりとなった博物館に多くの人が詰めかけるはずはなく、専門家の講演会も、大学が力を入れる生涯学習事業で事足りてくる。学術標本資料の整理保管という博物館の第一の役割も、置かれている状況は同じである。モノの貴重性を理解する人は、放っておいて現れるものではない。ましてや学問が細分化された現代ではなおさらである。東京ディズニーランドの一人勝ちのように、莫大な予算を動かすことが認められる一部の巨大館でなければ、昔ながらのビジネスモデルは成立しないだろう。
 ミュージアムの長所は、いろんな人との関係を自在にプロデュースでき、自身のあり方も比較的自由であることである。目玉商品も予算も乏しい「ひとはく」のような地方博物館は、原点に帰って、いい素材を発掘し、それをひっさげて地道に仲間づくりをしてゆくしかない。裏を返せば、サービスを拡大再生産するような構造をあらかじめ内包しておかないと、いずれだれもが見向きもしなくなるということになる。私が年間1000人にサービス提供するとして、10年やれば1万人だ。しかし、一緒にサービス提供する仲間が増え、それによってサービス提供力が年間二倍になるとすれば、10年間で100万人を超える相手にサービス提供できることになる。実際にはこのような数字はありえないが、原理が単純だとすると、利息と同じで、仲間づくりを少し心がけるかどうかで、年月が経てば経つほどその差は拡大し、気づいたときには大富豪になっているか、取り返しのつかないことになっているかのどちらかである。
 大富豪になるためには、当事者がリプロダクションの必要性を意識しさえすればよい。仲間づくりの過程において、多くの利用者の声が、博物館の事業内容にごく自然にフィードバックされてくるだろう。そうなれば、市民が館に要望書を提出したり、館が半ば内部対策的に「利用者の声をきかせてください」とアンケート調査をする必要もなくなり、ほんとうの意味でのみんなのための博物館が実現するように思う。傲慢、妄言かもしれないが、ときには原点に戻ってみることも必要だと思う。

注1「ひとはく」連携活動グループ
「ひとはく」と連携してさまざまな県民サービスを実施するグループ。セミナーの修了者のグループなど、現在九団体が登録。研究員がアドバイザーとなり、責任をもってグループをコーディネートする。

注2 テネラル(teneral)
昆虫類において、羽化(成虫になること)直後の表皮の硬化が不十分な状態のことをいう。高校生が自らの状態をたとえて命名したもの。

表紙モノ語り
水族がかきたてる想像力
企画展「みんぱく水族館」出展作品/チュルカナスの焼きもの(高さ45.6cm、直径28.6cm)、ティンガティンガ絵画(縦61cm、横59cm)、ほか2点
 食物連鎖の頂点に立つ人間にとって、魚や貝、エビ、カニといった水族は、自然が与えてくれる恵みとして世界中のいたるところで食されてきた。いっぽうで、それぞれの土地の人びとは、自分たちの利用している水族が、どんな色や形をし、どのような能力をもち、どのように活動しているかなどを十分に熟知してきた。人びとは水族を、衣・食・住のなかでただ利用するだけでなく、時には畏敬の念をもって、祈りや祭りの対象としてきた。このようにして精神面でも人びとを支えてきた水族とのつきあいの様子は、しばしば絵画や造形物のモチーフに使われる。古くは日本の縄文土器に、簗(やな)に頭をつっこんだサケと思われる魚の姿が描かれている。また、新しく生まれてきた芸術のなかにも水族と人間とのつきあいが大切なモチーフとなっていることも少なくない。
 表紙右側にあるものは、ペルー北部のチュルカナスという場所でつくられた土器である。チュルカナスの焼きものは、今から30年ほど前に現地の若い職人が、インカ時代あるいはそれ以前の焼きものの技術を再現したものである。
 表紙の背景になっている絵画は、タンザニアのティンガティンガ絵画とよばれるものである。ティンガティンガ絵画は1960年代に、タンザニア南部のトゥンドール地方出身の若者が描いていた動物や植物をモチーフにした絵から出発したものである。今ではアフリカのポップアートとして有名になっている。
 地域を越えて同じ時期に生まれた二つの新しい創造に、人間と魚との関係がモチーフとして使われているのは単なる偶然なのだろうか。明確な理由はすぐには見つかりそうもないが、時代や地域を越えて、水のなかに棲む生物が人間の想像力をかきたててきたことだけは確かである。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内


万国津々浦々
三杯酒と安昭─中国青海省[その1]
 その土(トゥー)族の村で突然の大歓待をうけたのは1992年夏のことだった。前日の夕方、聞き取り調査から県政府の招待所にもどると、その前日、町の公園で会った青年がいる。何度か足をはこび、村中で歓迎の用意をして待っているとつげに来てくれていた。
 中国のほぼ中央、青海省の省都から40キロたらずの互助土族自治県で言語保持の調査をはじめて二年目であった。民族委員会や県政府の役人とともにいくつか村々をまわっていたが、質問にこたえる村人たちが同席する役人に気がねしているのをいつも感じていた。そこで機会をみて、町で会った青年にかれの村へ行ってみたいともちかけたのだった。青年は徒歩で30分ほどのA村から来ていて、祖父にきいてみるとの返事だった。たいしてあてにはしていなかったので思いがけず招待されたことにおどろいた。
 翌朝はやく調査助手の秦氏と村にむかった。道路から村までのあぜ道のなかほどに、民族衣装で着飾った若者が数人待っている。娘が差し出したのは、カタ(歓迎の布)と小皿にのった三つの盃。60度はある白酒を盃三杯飲みほさねば、事の進行がストップするという土族名物の三杯酒である。村の入り口には青年の祖父という老人が村人とともに待っていた。客人をむかえる歌をうたいながら三杯酒(サンパイチュウ)をさしだす。
 それからが大変であった。同じことが門前、戸口、客間でくりかえされる。そればかりではない。家族や村びとも入れ替わり立ち替わりおとずれ、日本人というめずらしい人間に歌と酒をふるまってくれる。まさに酒攻めで、このときほど酒が飲めてよかったと思ったことはない。その間も屋内はおろか庭や塀のむこうからも人びとの視線がそそぐ。
 やがて食事と酒が一段落したころ、老人に手を引かれ外へでる。広場では村人が輪になり歌をうたいながら踊る安昭(アンジョウ)が始まっていた。婚礼や正月など祝い事にはかかせない踊りである。盆踊りのような踊りの輪にひきこまれ気がつくと400人の村民に取り囲まれていた。老人はどうやら長老格らしい。上気した顔で盛んに村民に指示をする。さそわれるまま家々をはしごしてまわる。もちろん酒つきである。
 突如若者たちが公園へ行こうという。花児(ホアル)を聞かせたいらしい。青海で盛んな歌垣の歌である。情歌や恋歌などを独唱やかけあいで歌うが、決して村内や親のまえでは歌えないという。声自慢の青年が歌いはじめ、やがて公園中あちこちでかけ歌が聞こえ始める。
 陽の落ちかけた村では、安昭の途中で酔いつぶれた老人がいつしか目を覚まし待ちわびていた。仕事からもどった共産党の幹部も加わり、若者が酒を買いに走らされる。
 夜更け、翌日の出発をひかえ、泊まっていけという誘いをことわり、後ろ髪を引かれる思いで席をたった。まっくらな夜道、村人が町までおくってくれる。何十杯の白酒をかさねたか記憶にはなかったが、頭のてっぺんまでアルコールで一杯だったことは確かだった。当初の目的の調査には程遠い結末になったが、中国でははじめて、打算のない心からの歓迎をうけたことがうれしく、すがすがしい気持ちで満ちていた。
 しかし、この村についての話はここで終らない。数年後おとずれたこの村では、もっとわたしをおどろかすことが待っていたのである。

人生は決まり文句で
パルチャ(八字)
 世は「韓流」ブームという。ことに韓国ドラマの男優に熱中するおばさまたちの姿は、日本のひとつの社会現象として、さまざまに解説されているが、その相手役の女性の生き方に自分自身を投影させているのだろうか。
 韓国ドラマに登場する女性は、そのほとんどが苦難にあうと、それは自分のパルチャのせいだという。パルチャは、占いのひとつ、四柱推命からきている。生まれた年・月・日・時の四本の柱のもとに運命を占う。この時、年・月・日・時のそれぞれを、漢字二文字の干支で表したところから、漢字では「八字」と書く。
 「パルチャがいい」といえば、ふつうには生まれついての運勢がよいことを意味する。したがって、これは男性にも使われるのだが、すばらしい人生を手に入れるというよりは、もっと身近な生活レベルの幸福について、とくに女性についていうことが多い。
 たとえば、結婚生活がうまくいかないとか、夫に早く死なれたとか、その女性の周りで不幸なことが起こると、「パルチャが強い女だね」といわれる。いかに優しくほがらかな人でも、「パルチャが強い」のは性格とは関係がないから、直すことはできない。だから「パルチャが強い」といわれるのは、女性にはいちばん嫌なことである(呉善花(オソンファ)『濃縮パック コリアンカルチャー』三交社、2003年)。
 しかし、韓国の女性は、たとえパルチャが悪くても、これを単に受け入れるということはないように思われる。苦難をうける人生であれば、それをあきらめるのではなく、きりかえてゆこうというたくましさがある。韓国のハルモニ(おばあさん)たちは、さまざまな苦労をふりかえり、「私の人生は小説になるよ」といって「身世打令(シンセタリョン)」(身の上話)を闊達に語ってくれる。
 私たちが韓国ドラマに魅せられるのは、日本人の生き方が軟弱になったといわれるなかで、こうしたたくましさ、ポジティブな生き方を求めているからかもしれない。
 かくいう私も昨年10月からNHK・BS2で放送している「宮廷女官チャングムの誓い」の日本版監修をしながら、この韓国ドラマにはまってきている。16世紀初頭、激動の時代、陰謀渦巻く朝鮮王朝の宮廷を舞台に、ひたむきに生きた女性、チャングムの物語である。(見のがした方は、ガイドブックがNHK出版からでています)
 『韓国人の心』(学生社、1982年)のなかで李御寧(イ オリョン)は、韓国文化を読み解くキーワードのひとつ「恨(ハン)」を「自分の内部に沈殿し積もる情の固まり」という。そして「恨の文化とは、虐げられ、踏みにじられながらも、美しく、穏やかな、あの望ましい世界―絶対に実現される証のなかった心の世界―をめざしていく文化なのだ」と述べている。この「恨」も、「パルチャ」のとらえ方と相通じるものがあるように思える。

手習い塾
デーヴァーナーガリー文字で名前を書く 1
町田 和彦
 アジアは文字の宝庫である。ラテン文字(ローマ字)はもちろんのこと、世界にあるほとんどの文字がアジアで使われている。一方、アジアほど多くの文字を生み出した地域も地球上類をみない。おもなものだけでも漢字、かな文字、ハングル、インド系文字、アラビア文字などがあり、文字の形も仕組みもさまざまである。今回は、アジアで生まれた文字の中でもっとも多くの子孫に恵まれたインド系文字について紹介しよう。
 日本ではあまりなじみのないインド系文字だが、漢字文化圏とほぼ同じ規模の約14億の人びとがこの文字文化圏で生活をしている。インド系文字には多くの種類があり、東南アジアのタイ文字、ビルマ文字、クメール文字、ラオ文字などや、南アジアのデーヴァナーガリー文字、ベンガル文字、グルムキー文字、タミル文字、テルグ文字、シンハラ文字、チベット文字など、バラエティに富んでいる。見た目ではどれも違ってみえるこれらの文字はすべて、古代インドで完成したブラーフミー文字に起源をさかのぼることができる。そのため、これら同じ系統に属する文字を総称してインド系文字とよんでいる。
 ここではインド系文字すべてを紹介することはとうていできないので、インドで使われているデーヴァナーガリー文字を中心に説明しよう。デーヴァナーガリー文字は、ヒンディー語、マラーティー語、ネパール語などの現代語のほか、サンスクリットやパーリ語などの古典語を表記するためにもよく使われる。現在さまざまな形をしているインド系文字だが、その基本的な仕組みや原理は、紀元前三世紀に登場した元祖ブラーフミー文字以来今日までかわっていない。そのため、デーヴァナーガリー文字の書き方・読み方を身につければ他のインド系文字にもすぐ応用できる。
 インド系文字に共通している特徴は、子音字の上下左右に一定の母音記号をつけることである。表1は、比較的よく似ているデーヴァナーガリー文字とベンガル文字の「かきくけこ」を対比したものだ。それぞれの母音記号の形や位置に注意してほしい。似ているものもあれば、違うものもある。
 じつはインド系文字では、単独の子音字は子音のみをあらわすのではなく、短い母音「あ」(デーヴァナーガリー文字の場合)を含んでいるのだが、ここではとりあえず子音をあらわすものとして理解しておこう。また、「か、き、く、け、こ」も実際には「かー、き、く、けー、こー」に近い音をあらわす。
 表2は、現代日本語のかな文字の発音にほぼ対応するデーヴァナーガリー文字を配置したものである。便宜的に、濁音(が行、ざ行、だ行、ば行)と半濁音(ぱ行)も加えてある。左の縦の行が子音字だ。子音字に母音記号が上下左右に規則的についている。このように、インド系文字はとても合理的にできている。
 インド系文字は、左から右に向かって書く。分かち書きをするかしないかは、言語によって異なる。同じデーヴァナーガリー文字でも現代語であるヒンディー語では分かち書きをし、古典語であるサンスクリットは分かち書きしない。デーヴァナーガリー文字の特徴として、ひとつの単語は各文字の上部の横線がつながる。個々の文字の書き順は、上から下に、左から右に、が基本である。
 表3は日本人の名前「鈴木」をデーヴァナーガリー文字で書いたものだ。
 ヒンディー語には母音や子音が日本語よりも多いので、実際のデーヴァナーガリー文字の母音字や子音字は表2に出したもの以外にたくさんある。デーヴァナーガリー文字全体を知りたい方、個々の字の書き順や発音を確かめたい方は、ホームページを見てほしい。
http://www3.aa.tufs.ac.jp/~kmach/hp_top_j.htm

*「表1」「表2」「表3」は「図1」「図2」「図3」に読み替え。 *「図1」「図2」「図3」は、画像データの本紙P17でご覧下さい。

地球を集める
甘くて苦い、収集の思い出
特別展「大モンゴル展」の企画開始
 展示の方法は企画によって多様にありうるけれども、準備のために十全な時間があることは、どんな企画にとっても悪いことではないだろう。1998年に実施された「大モンゴル展」の場合、およそ五年の準備期間を要した。展示の5年前に提出した企画書には、1995年、96年、97年の3カ年にわたる収集計画を記載しておいた。当時、モンゴル国は民主化の波を受けて市場経済へと急激に移行し、社会全体として混乱していたから、一度に多額の外資を持参して大量に文物を買い付けることは、現地の経済活動とりわけ文化をめぐる経済に対して致命的な破壊力をもたらすのではないかと危惧された。それゆえに、少しずつ確実に集めて蓄積するという戦略を立てたのである。
 現地の経済環境がすっかり変化してしまった現在から見ると、いかにも遠い昔の出来事のように思われる。あの当時の収集活動を思い出して、不思議な甘さといくばくかのほろ苦さをもう一度味わってみよう。

映画撮影所に舞う雪
 1年目はゲルとよばれる移動式住居を内装品とともに一式まるごと買い付けることに焦点を当てた。当初の段階での最大の難問は、3年後の展示であることの説明であった。激変する社会に生きる人びとにとって、今日の話こそが必要とされているのに、3年先のために1年後に引き取りに来るという話をするわたしは、まるで宇宙人であったに違いない。
 さいわい現地の歴史博物館の元館長であり、民博客員教員であったルハグバスレン氏の協力を得て、内装品一式のリストを作成し、事前に発注することができた。つまり、わたしは収集されたものを引き取りに行けばよいだけなのだった。
 くだんの住居一式はウランバートル市の東方にある映画撮影所の一角に集められていた。一部は映画で使われていたセットであり、一部には収集に参加してくださった方がたの持参品もあった。そうしたモノの由来をできるだけ詳しく、民博特製のカードに記録してゆく。
 「伝統的」であることを装わんがために、博物館はしばしば「古さ」を演出する、と往々にして批判されがちである。しかし、カードに記入していると、本当にモノたちには「古さ」が宿っていることも確かに了解される。何しろ、家族の思い出が詰まっていて、まさに現在を生きる人にとっての過去がそのまま手渡されてくるのだから。「ああ、それ、おれんちにあったやつ、もういまどき買おうと思っても見あたらないよなあ」。
 まだ暑い八月の野外での作業だったのに、突然、寒波に見舞われ、雪の舞うなかでの作業となった。手がかじかんでペンがもてない。革製のジャンパーと、毛糸のマフラーと手袋を借り、全身の防寒対策をして作業を続けた。思えば、突然に気象が変わるのはモンゴルの常だから、調査に出るたびにほぼ毎回、服を現地借用してきたような気がする。

許可書の入手
 ようやく整理が終わり、いよいよ国外搬出の手続きとなる。当時は古いゲル一式をもち出すにも木工業界の許可が必要であった。もちろん古い品物なので、本来なら、現代の業界とはなんら関係がないにもかかわらず、その証明書がなければ、通関の許可が下りなかった。なんとも理不尽に思われたが、理詰めで当たっても解決しそうにない。
 そんなとき、尽力してくださったのは、モンゴルの偉大な国民作家S・エルデネ氏である。彼は、普段身につけない勲章を胸にこれみよがしにつけて木工業界のオフィス前に現れた。部屋の扉はなかなか開かない。ようやく開くと、彼はまず背広の内ポケットから白い封筒を取り出し、「これが私の名刺だ」と言って事務員らしき人に手渡した。それから彼だけが招き入れられ、戻って来たときには書類にサインがしてあった。
 おそらく、彼の名刺とはモンゴル語でいうところの「緑色のもの」であったろう。何ドル札であったかを説明する代わりに、彼は言った。「馬乳酒を飲んで、タルバガンを食べていやがる」と。そう、オフィスではちょうど、行く夏を惜しんで馬乳酒を飲み、来る秋に先んじて越冬前の小太りした草原マーモットの肉に舌鼓を打っていたのである。
 一件落着してから、お世話になった人びとへのお礼を兼ねて、わたしもささやかな宴を催した。ただし、タルバガンを入手する見込みはない。わたしたちはただ酔い覚ましに子ども公園のなかを、タルバガンの像に向かってぶらぶら散歩した。
「こんな動物の像を立てるなんて世界でモンゴルだけだろう?!」とエルデネ氏はけらけら笑ってから、「ユキ、これからも困ったことがあったら言いなさい。助けてあげよう。だけど、あと5年の間にだよ」と。そして、その宣言どおり、彼は2000年5月に他界した。ご冥福を祈る。

生きもの博物誌(タロイモ/フィジー)
イモを見分ける
タロイモづくりは男の仕事
 現地調査も何度目かになったフィジーのワイレブ村。私がタロイモのことを知りたがっていると聞いて、男性たちがサンプルを家までもってきてくれることになった。
 フィジーでは伝統的に男性と女性の役割分担がはっきりしている。畑仕事は男性の仕事で、タロイモの耕作もしかり。女性は近場の畑へ出かけはしても、その日の料理に使う食材を集めるのが目的。せいぜい下草刈りくらいで、男性のようにイモの苗を植え付けたり、逆にひっこぬいて収穫したり、というような仕事はしない。加えて公の場では夫婦でも男女一緒には出歩かないという土地柄、日本から来た女性客を男性陣のなかに放りこみ何キロも離れたタロイモ畑まで歩かせるなんてとんでもない。というわけで、今回は自分の足は使わないお姫様のフィールドワークになってしまった。
 それにしても、でてくるわ、でてくるわ、次から次へともちこまれる、ぜーんぶ違う種類だというタロイモ(私には全部同じに見えるけど……)。家の前に順に並べて、葉全体、葉柄、そして全体図、と写真に収め、ノートに名前とそれぞれの特徴を言われるままに書きこむ。女性たちは男性ほどタロイモのことを知らないらしく、私のノートをのぞきこんでは「えっ、それもタロイモの名前なの」などと、感心することしきり。
 それにしても畑も見ずにタロイモ調査なんて。そこで言ってみた。「あのー、実際に生えているところを見た方がよくわかるんですけど」。ああそうか、とにっこり笑った村のおじさん、タロイモ・サンプルを花束のように束ねてもち、そのままじっと待っていてくれる。確かにそういうふうに生えるよね。でもちょっと違うんだけどなぁ。長旅の末に到着したタロイモは、こうして立てるとしなびてぐったりしているのが一段とあからさま。仕方がない、おじさんに謝意を示すために、そのままで一枚、「ハイ、チーズ」。

男女で異なるタロイモの分類
 現地調査では、いろいろなタロイモがどんな風に分類されているかを知ることも大切だ。分類の仕方にはいくつかあり、男性と女性で多少違う。女性はオーソドックスな「真タロ」、「古いタロ」、そして「新しいタロ」の三種類。農業試験場から最近導入されたものはもちろん全部、新しいタロだ。男性の方はこの分類とは別に、タロイモの形状に基づいた分類も使うという。「長いタロ」と「ヤツガシラ・タロ」。「長いタロは、親イモが大きくて長く、そのまわりにコイモがたくさんつく。ヤツガシラ・タロは、親イモの一部がどんどん分岐して太っていくんだ。形を見たら違いは明らかだよ、もちろん収穫の仕方も違うんだけどね」。
 ところが普段タロイモと馴染みのない生活をおくっている私には、言葉でいくら説明してもらっても、この分け方がよく理解できない。業を煮やした男性の一人がとうとう、さらなる見本をとりに走ってくれた。そして、ほらね、と手渡されたタロイモは確か、長いタロのはずだけど……「ちょっと待って。これって違うみたい」。
 そんなことあるものか、と言いながらあらためて運びこまれたサンプルを見た現地の男性たちもびっくり。いわれてみたら確かに形は「ヤツガシラ・タロ」だ。でも収穫の仕方は「長いタロ」だよ。
 男性側の分類がその後一部修正されることになったのかどうか、それ以来ワイレブ村にもどっていない私には残念ながらわからない。

タロイモ(学名:Colocasia esculenta
サトイモ、サトイモ科。日本の「サトイモ」と同種。太平洋の多くの地域で主要栽培植物のひとつとなっており、さまざまな変種がみられるが、近年では特に早生種などの品種改良もさかんである。原産地はインドで、マレー半島などを経て太平洋全域に広がったと考えられている。

見ごろ・食べごろ人類学
海を越える家事労働者
家族のために
 「アテ・マサン(筆者のよび名)、やっぱり妹がカレッジへ通う学費を稼ぐために、6月になったら海外へ出稼ぎに行こうと思います」。
 アミラからメールが届いたのは、今年の4月であった。アミラはフィリピン南部ミンダナオ島のジェネラルサントス市に住むイスラーム教徒の24歳の女性である。父親を亡くし、母親と妹の三人家族。高校卒業後、地域社会で保健活動を行う団体で働いていたが、ほとんど報酬がなく、家族に負い目を感じていた。
 ジェネラルサントス市周辺沿岸部のイスラーム教徒のコミュニティでは、海外へ出稼ぎに行く女性が一九九〇年ごろから増えている。その理由は、アミラのように、「家族のために」というものが多い。「商売をはじめる資金をつくるために」という人もいる。彼女たちの大多数が、同じイスラーム教徒が多く生活する中東の産油国で家事労働者として働いている。
 「ジェネラルサントス市で仕事を探そうとしたら、イスラーム教徒はテロリストだっていうのよ!」 ジュブラが悔しそうな表情を浮かべた。
 フィリピン南部では、少数派のイスラーム教徒中心の武装集団と政府軍とのあいだで武力衝突がつづいている。とりわけ、「9・11同時多発テロ事件」以降、一般のイスラーム教徒に対しても差別と偏見が強められ、彼らが地元で就職するのは、いっそう困難になった。これも彼女たちが海外へ行く理由のひとつである。

家事で体験する階層格差
 「海外では、とにかくいろんな種類の果物を食べたので、私の肌はスベスベになりました」。
 幼い子ども二人をおいて、サウジアラビアで家事労働を体験したファティマは、苦労の多かった経験のなかで、この話をするときだけは目を輝かせた。
 一般的にフィリピンから海外へ出稼ぎに行くのは最下層ではない。しかし、アミラたちが生活する地域の少数派のイスラーム教徒には、これは当てはまらない。彼女たちの日常の食事は、たいてい山盛りのごはんとおかず一品。ジェネラルサントス市から二十数キロも離れれば、電気の供給は不安定になり、水道はない。竹やココヤシの木でつくられた小さな家に生活している。おもに中東産油国へ出稼ぎに行くのは、リクルーターなどに支払う手数料が比較的に安いからでもある。それゆえに、海外での近代的な家庭における「家事労働」を通じて、階層格差を痛感することになる。
 「あっちでは、カーペットを使用しているから、掃除機を使って掃除をしました」。
 「洗濯は、洗濯機がやってくれたので、そのあいだに昼食をつくることができました」。
 「雇用主の家は、三階建てだったので、スリランカ人の家事労働者が二階と三階の掃除を、私が一階の掃除と料理を担当しました」。
 狭い家のなかと周辺を竹ボウキで掃き、ポンプで水を汲んで、洗濯物を一枚一枚手洗いする日常からは異なる体験である。どうやら、海外で家事労働を経験した女性のあいだでは、洗濯機が人気のようである。それで帰国後に洗濯機を購入してみても、電気と水の供給が十分でないので、結局あまり稼動しない。

孤独を抱きながら
 まだ私が学生だったころ、海外での寂しい想いを共有しようとネナに語りかけたが、拒絶されてしまった。
 「あなたはフィリピンで自由に動くことができるからいいけど、私たちには、そのような自由はありません」。
 憤りをこらえようと顔を強ばらせたネナの表情が忘れられない。彼女には、「家事労働者という立場の孤独」と「気楽な留学生の孤独」を軽々しく一緒にしてほしくない、という気持ちがあったのだろう。
 たとえばサウジアラビアでは、外国人家事労働者には労働法は適用されず、定期的な休日や自由な外出は認められない場合が多い。それに対して、アラブ首長国連邦やクウェートでは、比較的行動の自由が許されるようだ。そのため、巷では「オープン・シティ」であると表現され、渡航先として人気が高い。家族や友人から離れる孤独感や、雇用者の一存によって形成される人間関係が、海外での約二年間の契約を履行できるか否かの決定要因になる。雇用者から屈辱的な扱われ方をされたり、人権侵害にあう危険性もある。今日では、サウジアラビアなどの産油国に携帯メールを送信できるほど通信事情がよくなった。今このときも、たくさんの女性が、友人や家族から送られてくる暖かいメールを励みに、仕事をしていることだろう。
 この原稿を執筆している最中に、フィリピンのアミラからメールが届いた。
 「アテ・マサン、やっぱり海外に行くのをやめました」。
 出稼ぎの孤独やリスクを思いやると、正直、とてもホッとした。

みんぱく水族館


次号予告・編集後記


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