国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年9月号

2005年9月号
第29巻第9号通巻第336号
2005年9月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
真の文化外交をめざして
マリ クリスティーヌ
 私が生まれたのは、母が日本人、父がイタリア系アメリカ人という家庭。家の中には三つの文化が混在していました。日本で生まれた私は、その後キリスト教のドイツとアメリカ、回教のイラン、そしてまた日本とは形の違う仏教を信仰するタイという、ベースが異なる国々を移り住み、さまざまな経験をしてきました。
 たとえば回教国でのこと。ラマダンという断食苦行の時期になると、回教徒の友人は昼食をとることができません。私はそれをかわいそうに思っていたものですが、彼女たちは言うのです。「私たちはかわいそうではない。これはとても大事な行事で、むしろ喜んで実行しているのだ」と。このような経験を通して、私はごく自然に多様性を受け入れるようになったのです。
 さて現在この世界を見渡すと、政治、宗教、経済上の対立や戦争が勃発し、環境問題が深刻になっています。私たちは、どうしたら平和で住みやすい世界を創っていけるのでしょう。私たちの心の内にある、問題解決を妨げているものとは、何なのでしょう。
 それは、「自分の国が一番」という意識かもしれません。またあるいは、「知っているつもり」でおこなわれる表面的な交流の姿勢ともいえそうです。しかし私たちは実際、隣人と交流する日々の中で、考え方や価値観の違いを感じとり、必要があれば、それらの違いや好き嫌いを越え、互いを理解するために歩み寄ります。外交における妥協点の拡大も原点は同じなのです。
 1970年に開催された先の大阪万博も、海外文化と交流できる大きな機会でした。しかし珍しさが先行し、真の国際交流にまでは至りませんでした。それから三五年を経て開催された2005年日本国際博覧会「愛・地球博」で、私は広報プロデューサーを務めています。今回参加した120カ国のパビリオンは、「グローバル・ループ」とよばれる全長2・6キロの空中回廊でつながれています。各国は自国文化のエキスを各パビリオンで紹介し、一方、私たちはその一つひとつに対して、珍しさではなく尊敬の目で接することができるようになりました。まさに今こそ、真の国際交流・文化外交のスタートといえます。今日、この日本に住んでいる私たちは、大事なターニング・ポイントに立っている。そんな気がしてならないのです。

マリ クリスティーヌ/異文化コミュニケーターとして、都市計画、教育問題、人権問題等について、さまざまな活動を展開。AWC(アジアの女性と子どもネットワーク)代表。国連人間居住計画親善大使。

特集 暮らしのサリー
サリーを身につけたインド女性は美しく、優雅で魅力的である。それはあたかも女神のイメージを連想させる。 サリー。それは長い一枚の布であり、仕立てられた服ではない。しかしこの一枚の布が織りなす世界は実に奥が深い。 インドは10億を超える人口をもつ大国であり、人びとの生活スタイルも多様である。そのなかで、サリーはインドを代表する衣装としてインド全体に広まっている。またそれだけに、その素材も着方も、地域や階層などによって千差万別である。また、サリーは国境を越えて、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、さらには欧米などの在外インド人社会にも広がっている。
本特集では、9月8日から開催される特別展「インド サリーの世界」にちなみ、とくに暮らしのなかに生きているサリーについて、さまざまな角度からとらえてみたい。


サリーがいのち
 インドの女性とうちとけようとするならば、ともかくサリーの話をすればよい。わたしサリーには目がないのよ、とひざを乗りだしてくる人がほとんどだ。あまり関係がなさそうな顔をしていても、じつは衣装もちだったりする。ともかくインド女性のサリーへの関心は強い。そして、サリーは自分がインド女性である、という意識をもたせる衣装でもある。ただ、インドもグローバル化と経済自由化の波をうけてライフスタイルが大きく変わり、サリー以外のファッションも目につくようになっている。
サリー(正確にはサーリーに近い)は基本的に成人の女性が着るものである。少し前までは、未成年のための簡易型のハーフ・サリーが学校の制服にもなっていたこともある。しかし、ここ20年ほどのあいだに、若い女性のファッションはパキスタンで広く着られている、シャルワール・カミーズ(いわゆるパンジャービー・ドレス)にとってかわられた。シャルワール・カミーズは、丈の長い上衣(カミーズ)と、ゆったりしたパンツ(シャルワール)を合わせたもので、結婚前の女性に広く普及し、大学のおしゃれな学生の制服のようになった。その層がそのままもち上がって上の世代にも広まったのである。さらに外国の影響でジーンズも人気があり、カミーズの下にジーンズをあわせるファッションも見られるようになってきた。このようにインドではしだいにサリー離れがおこっているが、さりとてサリーへの関心はやむことはない。
 ところで、サリーは縫製した服ではなく、基本的に一枚の布である。幅約一・二メートル、長さ六ヤード(五・四メートル)が標準であるが、階層、地域などによってサイズにも違いがある。素材は、シルクの手織りのものが上等で、コットン、化繊のもの、機械織り、プリントものは庶民的である。化繊のサリーは洗濯をしても暑い時期にはあっというまに乾くので重宝される。とくに日本製の化繊のサリーはプリントが美しいので、インド人にも人気がある。
 同じインドでも、南インドはとくにサリーへの執着が強いようである。チェンナイ市の繁華街、ティー・ナガルでは、老舗も新興もとわず高級サリー店の出店ラッシュ、大型ビルの新築競争がつづいて、サリー離れどこ吹く風といった風情である。もちろんいわゆる街のバザールにもサリーをところせましと並べて売っている店がある。当然そこでは客と店主のあいだで熾烈(しれつ)な値切り合戦もおこなわれる。
 その一方で、高級店は低い台にサリーをおき、座って選んでもらえる、呉服屋を思わせるようなつくりにしているところや、デパート風にやや高いケースの上に並べているところもある。結婚式や祭礼のときなどに、サリーを大量に贈与する習慣があるところでは、客が押し寄せて殺気だった雰囲気になる。店のあちらこちらで、何十枚ものサリーを広げて延々と品定めがおこなわれている。しかしいったんシーズンがすぎると、安売りがはじまるので、その機会を狙って掘り出し物をさがそうとする人もある。
 基本的に一枚の長い布であるサリーは、下半身に巻きつける「ボディ」、その両端を飾る「ボーダー」、最後に肩からからだの前または後ろに垂らす「エンドピース(パッルー)」の大きく三つの部分からなる。とくに、パッルーの部分には豪華絢爛(ごうかけんらん)たるデザインが織られていたり、また有名デザイナーの作品になると、刺繍やミラーワーク、メタルワークなどを駆使して豪華さが演出されている場合も多い。
 サリーは、ブラウスとペチコートをつけた上に巻きつけて着るのが基本だが、着方もまた地方や階層によって千差万別である。ブラウスはサリーと同系色であつらえるのが普通である。サリー地にブラウス地が連続して織りこまれているものもあるが、そうでなければ、ブラウス地売り場や、街のブラウス地屋さんへいってサリーにあう色目のものを買う。その色目の多さ、えらぶ店員の眼力の見事さにはいつも感心させられる。これを仕立屋さんにもっていって採寸し、仕立ててもらう。なにごとも細かく分業になっているのが、インドのビジネスの特徴である。
 大きな行事のときに着る高級品だけでなく、サリーは普段着や労働着としてもつかわれる。女性労働者がサリー姿で建材などを運んでいる風景はめずらしいことではない。また、端の部分が固定されずに垂れているので、さっとテーブルをふいたり、洟(はな)をかんだり、お金やお菓子などをちょっと包むのに使ったり、と用途は多様である。ときには、列車のなかで、サリーをハンモックのようにして、子どもを寝かせる風景も見られる。
 サリーはインド女性の代名詞のような衣装であるが、インド全体に普及したのはそれほど古いことではない。一九世紀後半に、ムンバイのパールシー(ゾロアスター)教徒や、ノーベル賞作家タゴールの一族がサリーを広める役割をはたし、また画家ラヴィ・ヴァルマーの絵や、映画などの大衆メディアを通じてそれが人びとにアピールした結果、普及するようになった。インド独立後はサリーをナショナル・ドレスに、というキャンペーンもはられ、すっかり定着した感があったが、パキスタンで広く着られているシャルワール・カミーズへ若者から傾いていったのは興味深い現象である。
 近年は、コンピュータを駆使した斬新なデザインのサリーがあらわれてきているが、それを実現するのは伝統的な手織りの職人である。この古さと新しさが同居しているところが、インドのインドたるゆえんである。


サリーの贈り物
 インドでは、布や衣類は贈り物としても非常に重要である。ヒンドゥー女性の人生最大の儀礼とされる結婚のときも、衣類が盛大に交換される。このとき、その主役になるのはサリーである。多様性のあるインドのこと、贈与の内容には地域や階層によってさまざまな変異がある。ここでは筆者がフィールドワークをおこなっているインド西部、ラージャスターン州の都市に住む女性の例に沿って、贈り物としてのサリーの姿を具体的に見てみよう。
 ご登場願うのは、ウダイプル市に住むKさんである。大学講師の彼女はこれも大学講師である夫と幼稚園に通う娘、二歳になる息子とともに公務員住宅に暮らす。給料は一般の中間管理職よりやや安いが、共稼ぎで倹約上手な夫妻は近々郊外に家を建てる計画だ。州都ジャイプルに住む実父は州の高級公務員。インドではまずまず裕福な家庭といえるだろう。
 Kさんが公の場で初めてサリーを着たのは、大学の卒業パーティのときだった。これはラージャスターンのこの階層の女性の間ではごく普通で、もっと若い娘時代はレーンガー(スカート)とブラウス、オードニー(上半身にまとう布)姿が一般的だ。「サリー・デビュー」では彼女もご他聞にもれず、母のサリーを着た。母は娘が成長すると娘用のサリーを買いため、ひとり立ちに際してサリーを贈る。大学院の修士修了後に就職したKさんに母は21着のサリーを贈っている(1、5、7、11、21などは縁起のよい数字とされる)。
 大学講師として働きだすとすぐに花婿探しが始まった。親戚や知り合いを通じて経済環境や学歴などで釣り合いのとれる同一カーストの男性が求められ、結婚が決まったのは就職して二年後だった。結婚が決まると花嫁側、花婿側双方の親族間、また花嫁側と花婿側のあいだで膨大な量の衣類が贈ったり贈られたりする。贈り物に関係するそれぞれの家庭は、なじみの服屋でサリーや衣類を買い付け、どれを誰に贈るのかを家族で延々と相談する。
 結婚のときにKさんに贈られた衣類を書きだしてみると次のようになる。まず両親から21着のサリー(そのうち一セットはレーンガーとオードニー)、母の実家から11着のサリー(1セットはレーンガーとオードニー)、父方の親族の既婚のいとこから1人につき1着ずつのサリー、母の兄弟(Kさんの母方オジにあたる)から特別なサリー(マーマー・チュンルリー)を一着ずつ、さらに花婿側から婚約式と結婚式の計二回、サリー、レーンガーとオードニーを1着ずつ(それにアクセサリ11式も2回贈られる)。Kさんの両親は婚約式や結婚式には自らの親族にも花婿側の親族にも男性には洋風のスーツ、女性にはサリーをそれぞれ最低でも1着ずつ贈っている。
 これらの贈り物は、ほとんど「義務」といっていい。つまり、花嫁に対して今記したような関係にある人は誰でもこれらの衣類を贈ることが当然視されているのである。Kさんのように比較的裕福な一族ではない場合でも、サリーの枚数が少なかったり質が落ちたりしたとしても、親族関係がある限りサリーは必ず贈らなければならない。逆にもっと裕福でよい品を数多く贈れればそれに越したことはないが、サリーや衣類に代えてほかのものを贈るということはありえない。もちろん衣類以外の贈り物もあるが、衣類が贈られない限りは結婚の贈り物が終わったとは誰も考えないのである。逆に、親族でない者が衣類を贈るというのはどうだろうか。Kさんの家族に聞いてみると、それもありえないことだという。結婚時のサリーその他の衣類の贈与は親族同様の交際を意味する。親族には相応の相互扶助やつき合いがともなう以上、親族外の衣類の贈与のやりとりはほとんど考えられないことだというのである。
 一方、特定の親族関係にある人が「義務的」に特別な贈与をすることを期待されているという場合もある。それは花嫁の母方オジ(ヒンディー語ではマーマーという)にあたる人からのサリーである。一般に北インドの社会では「マーマー」は自分の甥や姪を物心両面で保護し援助する役割をもつ。結婚のときに「マーマー」が贈るサリーは特に品質のよい赤のサリーと決まっていて、マーマー・チュンルリーという特別な用語でよばれる。結婚式のなかでもとくに重要な儀式のときに花嫁がまとうのはこのサリーである。流行に敏感な上流階級の結婚式では多彩な色やデザインのサリーが着られるようになっているが、それでもこのルールだけは守られる。マーマー・チュンルリーはたとえ着なくとも、ほかのサリーの上からはおるのだ。このサリーは「マーマー」が姪に対してもつ義務を象徴し、省略不可能なのである。
 同様に、子どもの出産後のケガレをとり除き、母と新生児が通常の世間の生活に戻る儀式(スーラジ・プージュナー)では、新生児の母の実家から贈られる、黄色かオレンジの地に赤の縁取りがされたサリーを必ず着ることになっている。このサリーの色自体にケガレをとり除く力があると信じられていると同時に、この贈り物は実家と婚出した女性やその子との持続的な関係を象徴するという意味がこめられている。
 二児の母となり、大学講師として社会的にも活躍するKさんはいまやサリーを贈られるだけではなく、機会あるごとに贈るようになっている。たとえば息子の剃髪儀礼(誕生後1年から5年のあいだに、子の無事な成長を祈って髪をそる儀式をおこなう)のときには、夫方の親族や自分の男性親族の妻のうち自分より年少の者すべてに衣類やサリーを贈っているし、年に一度のラクシャー・バンダンという祭礼のときには夫の姉妹すべてにサリーを贈る。
 サリーは単に着るだけではなく、いろいろな願いをこめて贈る大事な財だ。Kさんの例からも明らかなように、サリーの贈与はさまざまな社会関係を確認しあい、また社会関係をつくり上げる重要な機会になっている。Kさんの成長の節目ごとにサリーは現れて大切な関係をとり結ぶ。サリーはインドの社会関係をあざやかに織りなす衣なのである。


神さまの衣装道楽―奉納されるサリー
杉本 星子
 南インドのヒンドゥー寺院の新築儀礼は、何日にもわたっておこなわれる。クライマックスは、寺院の本殿の真上にあたる屋根の上に据えられた壺に祭司が聖水を注ぎ、地上に集まった信者たちが天上から降り注ぐその聖水を浴びて神さまの御利益をいただく大灌頂(かんぢょう)儀礼(マハー・クンバービシェーハム)である。その前夜、バナナの木や美しい花々で華やかに飾られた祭壇のまえで、夜通し聖火(ホーマ)が焚かれている。祭司が聖火壇に香木を投げ込みながら、祝詞(マントラ)を唱え続ける。深夜の闇と静寂のなかで、寺院の灯りだけが煌々(こうこう)と輝き、祭司たちが経文を唱和する声だけが響く。
 夜半ごろ、燃えさかる聖火に高価なシルクのサリーが投げ込まれる。上から油(ギー)が注がれる。聖火壇のなかで、真っ赤なサリーがメラメラと炎をあげて燃えあがる。女神へのサリーの奉納である。シルクという清浄な素材で織られ、かつ縫い目がない清らかな衣服であるサリーを媒介として、人びとと神さまが結びつく瞬間である。
 どうやら美しいサリーが好きなのは、人も神さまも同じらしい。しかもインドの神さまは、けっこう衣装もちである。自然石に目を描いただけの村の女神にも、黄色のサリーが着せかけられている。村の女神はひとり者だが、村祭りは女神の結婚儀礼でもある。祭りの日、村の祭司は女神に入念にお化粧をほどこし、ふだんは金庫に大切にしまわれている宝石の首飾りをつけ、花で飾り、鮮やかな赤いサリーを着せつける。
 大寺院の祭司は、毎朝、寝室に神さまをお迎えに行き、お召し替えをさせ、食事を捧げ、輿(こし)にのせて、信者たちが待つ本殿にお連れする。日に何度かおこなわれる灌頂儀礼(クンバービシェーハム)では、聖水、ミルク、ターメリック、蜂蜜、ヨーグルトなどでご神体を清める。そのあとカーテンがひかれ、ご神体が隠される。信者たちはカーテンの前にどっかりと座り込んで、おしゃべりをしながらひたすら待つ。しばらくしてカーテンが開くと、美しい衣装を身につけ花や宝石で飾られた神さまが現れる。人びとはその神々しいお姿をひと目でも見ようと、首を伸ばし両手を合わせ高く頭上に挙げて拝みながら押し合いへし合いするのである。神さまは、ときには王さまの姿をしたり、子どもや行者の姿をして現れることもある。神さまのコスプレといったら、罰が当たるだろうか。
 神さまにお願い事をするときには、ココナツやバナナ、花、ライムの実、ビンロウなどをお供えする。大切な誓願(せいがん)をするときにはサリーを奉納する。そのせいもあってか、大きな寺院の周りには、昔からたくさんの織工が住んでいる。寺院では年に一度、奉納された大量のサリーのオークションがおこなわれる。なんといっても、神さまの御利益あるお下がりのサリーである。オークションの収益は大きな寺院収入となる。現在、タミルナードゥ州の大寺院は政府の管轄下に入っている。神さまのサリーは、どうやら州政府にも多大な御利益を与えているようである。


サリーの好みとカースト―西インド
松尾 瑞穂
 インド社会が多様な社会集団から成り立っていることはよく知られている。カースト、言語、宗教、社会階層などの差異は、その人の外見や身のこなし、話し方から容易に推測でき、人びとが日常的に身にまとうサリーにも反映されることがある。たとえば、西インド・マハーラシュトラ州のプネーを見てみよう。
 州全体では、17世紀に勃興したマラータ王国を担ったマラータが、人口でも圧倒的に多く、政治分野では支配的である。しかしプネーでは、ペシュワ(宰相)であったブラーマン(バラモン)が王家に代わり実権を握って君臨したため、サンスクリット文化が花開いた場所となった。このような歴史的背景によって、プネーでは、数あるカースト集団のなかでも、特にブラーマンとマラータとの対比がより鮮明に見受けられる。
 プネーのブラーマン女性にとっての晴れ着は何を置いてもパイタニー・サリーである。肩にかかるパッルーには、マンゴー柄とクジャク柄の二種類があり、どちらもすべて手織りで完成までに約一カ月半を要する。そのため値段もやや高めで、パッルーの柄の大きさによって3000から1万ルピー(約7500円~2万5000円)が相場である。ブラーマン女性にとっては、結婚式、息子のムンジャ(聖紐式)などのめでたい行事にこれさえ着ておけば安心、というものであるが、その分、知人の結婚式に出たら自分と同じパイタニーを着た人が何人もいてうんざりした、という経験も少なくない。
 一方、農村に住むマラータ女性の大半は、茶色や濃緑色の格子柄の生地でブラウスをつくり、どのサリーにもそれを合わせて着る。色の組み合わせを気にしないので、結果としてかなり派手になる。
 誤解を恐れずに言えば、このマラータとブラーマンの違いは、大阪人と京都人のそれに近いのではないかと思う。マラータはサリーの色も柄も、ぱっと目を引く鮮やかなものを好む。装飾品も大振りで、既婚者の印であるネックレス(マンガラ・スートラ)は胸の下まで長くたらし、金が二重になった装飾を施してあるものが多い。だから金の装飾品が欲しいときには、マラータ女性に聞けば買いなれているだろうから間違いない、などといわれる。
 ブラーマンはというと、小柄模様で明るい色のサリーを好み、マンガラ・スートラもごく細いチェーン状のものをさりげなくつける。質実剛健で教育熱心なブラーマンは、医師や弁護士などの専門職を輩出し、「きちんとしている」ということを最重視する、さながらプネー社会のピューリタンのような存在である。マラータ王国で育まれたマラーティ文化の体現者としての自負は高く、自らの話し言葉こそが「ピュア・マラーティ」であると言ってはばからない。そのような態度や生活様式はときに他集団から「チックゥ・プネーカル」(=けちなプネー人)と揶揄(やゆ)され、「お高くとまった人たち」と見なされることがある。
 逆に、マラータ女性が着ている派手なサリーや大ぶりの装飾品をみて、ブラーマン女性は「やっぱりマラータねえ。あんなに誇示しなくても」とささやく。このように、それぞれの好みや趣味もカーストの特徴と結び付けられて理解されることがある。私などは、これいいなと思うサリーがあっても、同行してくれたブラーマンの友人に「マラータっぽい」と言われて買いそびれることもある。こうなると、買い物の付き添いの人選もなかなか難しいのである。


貧困のなかのサリー―北インド
菅野 美佐子
 私がフィールドワークでインドに滞在していた2004年の4月に、北インド最大の州、ウッタル・プラデーシュの州都であるラクナウという都市で、ある痛ましい事件が起こった。その月の末におこなわれる総選挙に向けて、ある政党がキャンペーンで貧しい女性たちに無料でサリーを配ることとなった。当日、会場には総勢15000人が集まったが、スタッフがサリーを配りだすと、押し寄せた女性たちが将棋倒しとなり、22人もの命が奪われた。その多くは情報を聞きつけてやってきた、スラムなどに住む貧しい女性と子どもであった。なぜ女性たちはそれほどまでにサリーを手に入れたかったのだろうか。私が調査をしていた北インドの農村女性の暮らしから、理由を推測してみよう。
 私は、この惨事が起きたラクナウから東に250キロほど離れた、ある村に滞在していた。村の女性たちがもっているサリーの数は平均して2、3枚。村の外に出かけることができない女性たちは、自分でサリーを買えず、親族からもらったサリーを大事に着ている。毎日の沐浴のときに洗濯をするが、薄手のサリーであればあっという間に乾いてしまう。着替えの心配はないが、そのかわり裾がほころび、穴の開いたサリーを毎日着回すことになる。だから私がいつ村を訪ねようとも、彼女たちがパッラー(パッルー)で顔を覆っていようとも、おなじみのサリーのおかげでそれが誰なのかがすぐにわかる。青地に黄色の花模様のサリーはミナクシ、黄色地に赤いラインの入ったサリーはリーターという具合に。
 乾期もピークを迎えたある日、村に行くと、ミナクシが「いつきたの」と泥まみれのサリーで出迎えてくれた。家の泥壁の塗り替え作業でもしていたのだろう。サリーは膝(ひざ)までたくし上げられ、そこからのぞく脛(すね)や黒く日に焼けた細い腕、パッラーに半分覆われた顔までも泥だらけである。
 サリーというと、一枚の長い布をドレープをつくりながらきれいに体に巻き付けた優雅なイメージがある。しかし村用のサリーは短めで、ドレープをほとんどつくらない。パッラーも通常は肩の前側から後ろに垂らすが、体に巻く分の布を節約して後ろから前に垂らす。ミナクシのサリーもへその部分に折り込むプリーツなどない。くしゃっと束ねられただけで、腰で結ばれたペチコートのひもと腹のあいだに無造作に挟み込まれていた。プリーツなど気にしていたら仕事はできないのだ。
 彼女たちにとって、お祭りや結婚式は唯一サリーが手に入るチャンスである。実家の兄や夫、姑が新しいサリーを買ってくれるかもしれないからだ。しかし、それも彼らの懐(ふところ)に余裕があるときだけ。もらえないことも多い。そのときはまた古いサリーを着るしかない。
 村の外に出かけることなく一日中働いている女性たちにとっても、きれいなサリーは魅力的である。たまに村にやってくる保健ワーカーのきれいなサリーをうらやましく思うこともある。しかし、その日暮らしの彼女らにはサリーを買う余裕はない。
 選挙キャンペーンでサリーを求めて押し寄せた女性たちは、きれいなサリーで町を行き交う女性たちを横目にしつつ、いつも同じサリーを着ているにちがいない。彼女たちにとって、新しいきれいなサリーを手に入れることは、大きな喜びだったのであろう。


サリーで花嫁さんごっこ―バングラデシュ
南出 和余
 結婚や祭りの際、家に新しいサリーが届くと、それは子どもたちのごっこ遊びの格好の材料となる。女の子たちは、新しいサリーで「花嫁さんごっこ」を始める。長さが5メートル以上もあるサリーは、子どもの体には断然大きすぎて、「子どもたちがサリーを着る」というよりも、「子どもたちがサリーに巻かれている」という有様だ。それでも彼女たちは、母に贈られたサリーを自らまとい、化粧をして「花嫁さん」を演じて遊ぶ。
 普段着であるサリーが、ハレの日の「花嫁」の象徴として遊ばれるのには理由がある。バングラデシュ農村で暮らす彼女たちがサリーを日常的にまとうようになるのは、結婚後のことである。それまでは、サロワ・カミース(シャルワール・カミーズ)とよばれるワンピースの下に幅広のズボンをはいて、オールナと呼ばれる長いショールを肩からかけるのが一般的な服装だ。サロワ・カミースは10歳ごろから着るようになるが、それまではワンピースやちょうちんパンツをはいている。つまり、彼女たちの服装は、ワンピースからサロワ・カミース、そしてサリーへと変化するわけだが、ワンピースからサリーまでの道のりは、それほど遠くはない。
 14、15歳、遅くとも18歳ごろまでには大半の女性が親によって決められた結婚をするこの社会では、彼女たちはある日突然サリーを着る日を迎える。結婚式は新郎新婦双方の家においておこなわれるのが一般的で、ことに新婦側でおこなわれるお祝いは盛大である。花嫁は、結婚のための沐浴をし、新郎側から贈られる特別なサリーをまとい、化粧をして着飾る。この一連のプロセスを手伝うのは、しばしば兄嫁たちだ。
 結婚の際には、結婚式用の特別なサリーのほかにも、普段着用の数枚のサリーや、アクセサリー、化粧道具一式が贈られる。最近ではそれらはスーツケースに入れて届けられる。新郎側からスーツケースが届くと、大人も子どももいっせいに群がる。スーツケースのなかには、花嫁のためのサリーのほか、母や祖母たちへのサリーも入っている。さらに両婚家では、祝儀のサリーが親戚中に贈られる。結婚を機に多くのサリーが行き交う。そうして家に贈られてきたサリーが、子どもたちの「花嫁さんごっこ」の道具となるのだ。子どもたちは、嫁ぎゆく姉のサリー姿を目にし、そして、自分も真似事をする。
 まだ心の準備もないままに結婚する彼女たちだが、数日後に嫁ぎ先から初めての里帰りをするときには、晴れやかな顔で、しっかりとサリーをまとって帰ってくる。何度も練習してようやく自分で着られるようになり、それでもサリーでの生活に身動きのとりづらさを感じる私には、結婚を境にサロワ・カミースから平然とサリーをまとうようになる彼女たちの変身ぶりを、敬意の眼差しで見ていたが、その背景には、彼女たちの幼いころの「花嫁さんごっこ」があるのだろう。


憧れの女優ファッション―フィジー
村田 晶子
 南太平洋の島国であるフィジーには、インドからおもに契約労働者として来島した移民の子孫が暮らしている。その人口は約33万人、総人口の約40パーセントを占めている。町にはインド系の人びとが経営するサリー店や貴金属店が軒を並べ、その光景は「南太平洋の小インド」ともいえる雰囲気を醸し出している。しかし、サリー姿で町を行く女性は、少なくなりつつある。
 砂糖キビ栽培農家の娘である20歳のサロジは、町の会社に勤めている。毎朝、スカートにブラウスなどの装いで出勤し、週末に出かけるときには、ジーンズにTシャツと、西洋の若者と違わない装いを好む。彼女がサリーを着るのは、ヒンドゥー教の祭りであるディーワーリーや親族の結婚式など、年に二、三回に過ぎない。ところが、こんな彼女もサリーへの思いは依然として強く、「サリーを着る!」というときには、サリーやアクセサリー類を物色して、町中を右往左往する。彼女の思いの源のひとつは、インド映画にあるようだ。彼女の部屋には、チラシなどに掲載されていたサリー姿の女優の切り抜きが、ここかしこに何枚も貼られている。その切り抜きを見ながら、「こんなサリーが欲しい。髪型もこんな具合にして」と、話していたのを記憶している。
 インドの地を踏んだ経験もなく、インドを知る人の話を聞く機会もほとんどない。そして、マスコミでインドが取り上げられることも珍しい。そんな環境にあって、常に人びとにインドを提供しているのは映画であり、人びとにとってもっとも身近なインドは、映画で見るそれといっても過言ではない。音楽やダンスなど、映画が人びとに与える影響はさまざまであるが、やはり女性にとっては、豪華なサリーを身にまとい、華麗に登場する女優の存在が大きいようだ。女性たちは映画のなかの女優の姿に憧れを抱き、サリーを身にまとう女優こそが、彼女たちが求めるインド女性像になるのであろう。
 あるとき、女性五人で、親子の情愛を描いた話題の映画を見に行った。映画館では涙していた彼女たちであったが、その後しばらくのあいだ、彼女たちの話題の中心はストーリーではなく、女優の美しさとサリーについてであった。
 女性たちは、色や柄、生地の風合い、アクセサリーや髪型との調和、そして、着こなしなど、サリーの装いの手本を映画に求める。その結果か、サリーを着るときには力がこもり、まるで映画の一場面ともいえる光景が生まれる。
 年齢による差はあるものの、サリー離れは否めない。しかし、たとえ一年に数回であっても、重要な祭事の折には、競ってサリーで身を飾る。
 フィジーで、映画に描かれているインドを再現することは難しい。そんななかでも、再現可能なのが、サリーの装いなのかもしれない。そして、フィジーのインド系の人びとは、女性たちがサリーを身にまとい、集う光景に、インドを見るのであろう。
 契約移民時代にプランテーションで撮られた写真には、サリーを着て労働に精を出す女性の姿が見られる。しかし、移民制度が廃止されてから80年以上が経過した現在、サリーは普段着や労働着として、単に身を覆う被服というものではなくなった。そればかりか、フィジーという、今を生きる彼女らの定住の地において、サリーは「憧れのインド女性」が体現できる衣装であり、「華やかなインド」が再現できる重要な舞台装置のひとつになっているのかもしれない。

表紙モノ語り
トップ・デザイナーのサリー
特別展「インド サリーの世界」出展作品(標本番号H0228432) デザイン/リトゥ・クマール 幅116.5cm 長さ532cm
 リトゥ・クマールは、1960年代からインド・ファッション界をリードしてきたデザイナーで、その名声は世界的に広まっている。最近のインドの週刊誌『アウトルック』の特集号で、現代インドのナンバーワン・デザイナーに選ばれている。1980年代末から、インド出身のデザイナーが世界に次々と進出しはじめたが、その先駆者として、いまも第一線で活躍しているトップ・デザイナーである。
 リトゥ・クマールは、インド的なモチーフを重視し、とくにマハラジャ家のファッションやインド西部の民族衣装からインスピレーションを得て、エスニック趣味の現代ファッションを生みだしている。60年代から、ザルドジとよばれる金糸刺繍を取り入れたサリーや、ガーグラー、レーンガーとよばれるスカートなどをつくりはじめた。その後も、東西の趣味を融合したいわゆるインド・ウエスタン風のファッションを世におくりだし、次世代のデザイナーたちに決定的な影響を与えてきた。
 ここにとりあげたサリーも、薄手のクレープ地に銀糸刺繍などを配した豪華なものである。写真はその一部をクローズアップしたものだが、インドからヨーロッパにわたって世界に広まったペイズリー柄が印象的である。ペイズリーは、インドのカシミア・ショールが19世紀なかばにヨーロッパで注目され、イギリスのペイズリー村で模造品がつくられたことで世界に広まったといういきさつがある。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内


万国津々浦々
土族民俗村の出現─中国青海省[その2]
 1999年晩秋、私は土(トゥー)族のA村をふたたび訪れた。6年前調査の途中、思いがけない大歓待をうけた村である。今回は翌年に計画していた民族誌映画撮影の下準備をかねての突然の訪問であった。以前うけた村民あげてのもてなしと、土族にしては派手で明るい歌と踊りが忘れられず、まっさきに撮影候補にあげていた。
 歓待の立役者であった老人はすでに三年前亡くなっていたが、招待のきっかけをつくってくれた青年やその仲間の驚きとよろこびは相当のものであった。あっという間に集まった人びとから意外なことを耳にした。いまやこの村は互助県随一の観光村として大発展したというのだ。夏には外国人もふくめ3万人もの観光客が土族の歌や踊りの見物にやってくる。おかげで、周囲の村には及びもつかないほど潤ったという。例の青年の家の一室はこぎれいにととのえられ、テレビでみた都会の家をまねたらしく、レースつきのダブルベッドのそばには赤いプッシュホン電話が回線のひかれるのを待っていた。
 北京から空路2時間に短縮されたとはいえ、青海はチベット人やモンゴル人、おまけに珍しい土族などの住む異国情緒いっぱいのところである。省都にもっとも近いこの土族村で純朴な農民の歌や踊りにふれられるとあっては、観光業者も放ってはおかない。中国人だけではない、アメリカ人もカナダ人も、そして日本人もやってくるという。
 何より驚いたのは、それが私の功績になっていたことである。6年前私が彼らを写真にとりビデオにおさめてかえった翌年から、世界中の人びとが訪れ始めたというのだ。功労者として像を立てることさえ考えたとまじめな顔でいう。おかげで、翌年の撮影には全面協力の確約は得たものの、半信半疑のまま、秋の収穫にいそしむ村をあとにした。
 翌年夏、撮影のため互助県を訪れた私は、スタッフと真っ先にその村におもむいた。車が通れる幅に広げられたかつてのあぜ道には「小庄民俗接待村」という横断幕がかかげられ、広場に到着するやいなや、みやげ物の帯飾りなどを手にした女性や子どもたちがとびだしてくる。まもなくスピーカーから安昭(アンジョウ)の歌がながれだし、背広をきた責任者らしい男性があらわれた。西寧市の役人だったが、この村で観光客の受け入れを仕切っているらしい。差し出された名刺のうらには、受け入れ人数、歌と踊りの演目数、食事の等級ごとの値段表がある。私の旧友たちは、愛想こそよかったものの、家ごとに観光団体を受け入れはじめたいまとなっては、客をめぐるライバルどうしであった。
 結局ここではたいして撮影はしなかった。派手なだけで簡素化された衣装、日に何度とくりかえされる踊りに、もはや情熱は感じられなかった。別れぎわ、観光バスが到着した。われ先にみやげ物をもってむらがる村民と距離をたもとうとする中国人観光客。観光地では見なれた風景がそこにはあった。
 日本にもどりウェブサイトで偶然、観光で発展する土族村A村の記事をみつけた。貧しかった村が、いまでは年収の半分以上を観光から得ているという。人によっては7500人もの観光客を受け入れ純益6万元(約80万円)を得る者もいるとある。例の青年のことだ。初めて受け入れた日本人に気に入られたことがきっかけとなった、ともある。件(くだん)の話はどうやら本当だったようだ。しかし、私の像を立てる話は残念ながらいまだ聞こえてこない。

時論・新論・理想論
標本資料を守る人たち
 民博が所蔵する資料は大きく標本資料、映像音響資料、図書資料に分類される。このなかで展示場に展示され、収蔵庫に保管されている資料は標本資料であり、その数は2004年4月現在で約24万点という膨大な点数にのぼる。このような膨大な数の標本資料を収蔵し、研究資料として活用するためには、当然、これらの標本資料をつねによい状態で管理しなければならない。ここでは、民博において標本資料を守っているスタッフの活動の一部について紹介しよう。
 標本資料を管理する部門には、大きく分けて二つのグループがある。ひとつは展示場に展示されている標本資料を管理するグループ、もうひとつは収蔵庫に収蔵されている標本資料を管理するグループである。
 展示場グループの活動は毎朝、開館前の誰もいない展示場を巡回することからはじまる。この巡回は破損した標本資料がないか、展示資料を固定する演示具の不具合がないかを確認するとともに、標本資料に虫害が発生していないか、点検をおこなうためのものである。巡回の結果は、点検用の展示場マップに記入していくことになっている。なお、この点検用の展示場マップには、長年の点検で蓄積されたデータから、虫害の発生しやすい標本資料の場所がしるされており、その箇所はより入念に点検する仕組みとなっている。
 収蔵庫グループは、特別展や企画展に出展される標本資料や他機関の博物館へ貸し出す標本資料の点検をおこなう。資料の材質を分類し、それぞれの資料に生じている破損や汚損などの劣化状態を点検するのだ。また、展示場で虫害の発生した標本資料や国内の博物館に貸し出した標本資料の防虫対策もおこなわれている。防虫対策の一環として、館内で発生した虫害資料や、国内の博物館からの返却資料には、二酸化炭素を用いた殺虫処理が収蔵庫グループによってほどこされる。
 このような活動のなかで標本資料に生じたさまざまなトラブルの理由と状況が明らかにされていく。そして、ここで明らかになったトラブルはすべて保存科学を専門とする園田直子助教授や筆者に報告され、その対処方法を協議し、対応する体制となっている。
 ここで紹介したような活動は、文化財の保存科学の分野では予防保存とよばれ、日常の管理のなかで事故を未然に防ぐ、もしくは発生した事故の被害を最小限に食い止めることを目的としている。作業自体はとても地味であり、人的、時間的に手間がかかることから、他の博物館において日常業務に導入している例はなかなか見られず、民博独自のものとなっている。しかし、こうした活動によって民博の財産である標本資料は守られているのだ。つまり、この作業に従事しているスタッフこそが、まさに民博の「標本資料を守る人たち」なのである。

手習い塾
デーヴァーナーガリー文字で名前を書く 2
町田 和彦
 前回は、日本語の50音、濁音、半濁音のかな文字に相当するデーヴァナーガリー文字について説明した。これだけでもかなりの日本語は書けるが、もう一息がんばろう。今回は、まだ出てこなかった「ん」、「がっこう」、「きょうと」なども書けるようになる。
 あなたの知り合いに日本に来たばかりのインド人がいるとしよう。彼(あるいは彼女)は、日本語もかな文字もちんぷんかんぷんで、読めるのはデーヴァナーガリー文字だけ。そしてこのインド人にどうしても「新幹線の京都までの切符をください」という日本語(の発音)だけは教えてあげなければいけないという状況である。問題は「しんかんせん」、「きょうと」、「きっぷ」だ。日本語をデーヴァナーガリー文字で書くということは、かな文字をそのままデーヴァナーガリー文字で置き換えるのではなく、読めば日本語の音になるべく近くなるようにデーヴァナーガリー文字を書くことである。こういうときは、いったんかな文字の日本語をヘボン式のローマ字で書いてみよう。デーヴァナーガリー文字に直す音の連続がみえてくる。
 「しんかんせん」はshinkansen、「きょうと」はkyoto、「きっぷ」はkippuだ。これらに共通しているのは、後ろに母音が来ない子音だけのnやkやpが含まれていることである。子音だけをデーヴァナーガリー文字でどう書けばいいのだろう。前回少し説明したように、デーヴァナーガリー文字の子音字は単独では子音だけではなく、「か、が、さ」のように本来「あ」を含んでいる。
 まずnつまり「ん」の書き方だが、これは簡単で文字の上に点をつける。図1は「ん」がある場合とない場合の例をあげている。ただし、語末の「ん」は点でなく、「な行」の子音字の下に斜めの線を引く。この斜めの線は子音字に含まれている母音(デーヴァナーガリー文字の場合は「あ」)を打ち消す働きをする。
 「ん」以外の子音をあらわすには、子音字の書き順の最後を省略した形を使う。デーヴァナーガリー文字の子音字は書き順が縦棒で終わるものが多いのだが、これらは縦棒を省略する。このように子音字の書き順の最後を省略したものを半子音字とよぶ。そして半子音字と子音字が組み合わさったものを結合文字とよぶ。この結合文字は、子音字と同じ要領で、上下左右に母音記号をつけることができる。これで「きっぷ」などの促音や、「きょうと」などの拗音をデーヴァナーガリー文字で書くことができるのである。図2は、日本語でよく出てくる促音や拗(よう)音の書き方の例がでている。結合文字を構成する子音字と半子音字の形もあわせて比べてほしい。
 最後の図3は、「新幹線の京都までの切符をください」のデーヴァナーガリー文字版だ。これで、きっと駅員さんに通じるはずである。

*「図1」「図2」「図3」は画像データの本紙P17でご覧下さい。

地球を集める
チュルカナスの焼きもの
いつか調べてみたい……
 残念ながらいまはもうなくなってしまったが、かつてペルーのおもな都市、少なくとも大学をもつ都市にはストゥディウムという名の本屋があり、そこでは学術的な本を入手することができた。1985年、ペルー南部アレキパ市のストゥディウムで、「粘土が私たちをつなぐ」という本を購入した。著者はヘラシモ・ソサ(実際はルペ・カミノによる聞き書き)。この本により私は初めてチュルカナスの焼きものを知った。石を使った磨き、たたきによる成形、ネガティブ・ペインティングによる装飾。いずれも先スペイン期の土器製作技術である。なぜ中央アンデスでも北の端のピウラ地方でという疑問。いつか調べてみたいものだと思った。
 それから九年後の1994年、念願のチュルカナスの焼きものを調査する機会がやってきた。チュルカナスは、ペルーの首都のリマ市の北約1000キロメートル、エクアドルとの国境に近いピウラ市からローカルバスに乗り換えて、さらに東へ60キロメートルほど行ったところにある。前述の本の事実上の著者ルペさんが、偶然友人の人類学者の姉であることがわかり、その伝(つて)でヘラシモへの紹介状をもらってはいたが、いきなり行って「チュルカナスの焼きものについて調べたいのでよろしく」などと言ったところで、「はい、どうぞ」と応じてもらえるものであろうか。日本でも職人は気難しい人が多いというではないか。
 赤道直下に近いチュルカナスの町で、頭の上から照りつける太陽のなか、バスターミナルからモト・タクシーというバイクを改造した三輪タクシーでヘラシモの家を探す。町の中心からどんどん走り、そのうち道路の舗装もなくなって町外れに近くなってくるではないか、と思っていると、「ここだ」という。チュルカナスの焼きものの創始者の一人であるヘラシモの家か工房なのだから、大きな看板でもかかっているのではという想像は完全にはずれ、どちらかという粗末な家だった。しかし、住所をみると確かにルペの紹介状と一致する。おそるおそるドアをノックすると、なかから上半身裸の中年の男性が顔を出した。「ヘラシモさんですか」。「そうです」。ヘラシモとの最初の出会い。気さくが短パンをはいたようなヘラシモは、突然現れた私に別に驚いた風もなく、なかへ招き入れてくれた。天井は高いが薄暗い工房は、土間であるせいかほこりっぽくがらんとしていて、とてもマエストロの仕事場とは思えない。奥へ行くとオペラリオとよばれる手伝いの若者が三人、粘土をこねたり、石で器面を磨いたりしている。
 訪問の趣旨を話すと、「どうぞ、好きなように」ということで、あっけないくらい簡単にチュルカナスの焼きものの調査が始まった。調査の結果はすでに『季刊民族学』84号に書いたのでここではふれない。

さあ、困った、困った
 さて、そこからが大変。粘土をこね、形をつくり、装飾をほどこし、窯(かま)で焼くのであるから、一日やそこらで完成するものではない。チュルカナスの場合はそれに丹念な磨きと、この地方特産のマンゴの葉を使ったいぶしという工程が加わる。当然のことであるが、ひとつの作品だけをつくってゆくわけではなく、いくつかの作品を平行して制作する。というわけでチュルカナスの焼きものの全制作過程の記録をとるのに、非常に時間がかかる。おまけに寡黙なヘラシモは何もいわずに突然仕事を中断し、自転車にまたがってどこかへ行ってしまう。
 また、八ミリビデオを使って記録をとったのだが、困ったのは工房のなかに大音響のラジオ番組が四六時中流れていることであった。よその家に勝手にやってきて仕事をさせてもらっているのであるから、ラジオを消してくださいといえる道理もない。チュルカナスのたたき技法で壷を成形するときの「人間ろくろ」、つまり作品のまわりをぐるぐるまわりながら、石と板でたたいて形をつくるときの「ポン、ポン。ポン、ポン、ポン……」というリズミカルな音がうまく録音できなかった。
 このときの調査・標本収集における苦労は、チュルカナスの暑さやホテルでの蚊の襲撃もあったが、いちばん困ったのは収集品の入手であった。ヘラシモをはじめおもな焼きもの師は、主として外国からの注文を受けて制作しているため、在庫というものをもたないか、あってもきわめて少ない。ヘラシモの工房にも20前後の作品がほこりをかぶって置いてあったが、すべて注文品であるため譲ってもらうことができなかった。
 結果として、ピウラ市の二人の女性の収集家を紹介してもらい、彼女たちから購入することができたので、ヘラシモと妹のファナ、義理の弟のセグンド、その他サントディオ、マルティン、ポロ、マネノなど、チュルカナスのおもな焼きもの師の作品合計200点余りを収集することができた。
もうひとつの心配が、日本のようにエアーキャップなどの梱包材料がないペルーで、割れ物である焼きものを梱包し、リマまで運ぶことであったが、幸いこの問題も扱い慣れている彼女たちに頼み、無事リマで受け取ることができた。

生きもの博物誌(ミラー/ケニア)
噛む楽しみは広がる
石田 慎一郎
噛む嗜好品「ミラー」
 石ころだらけの坂道を下ると、若者たちの溜まり場がある。昼下がりの茹(う)だるような暑さのなか、私は、若者たちにまじってしばし疲れた身体を休める。ひとまわり挨拶の握手をして腰を下ろすと、若者の一人が、ミラーをひと束分けてくれた。緑色の葉っぱを落とし、赤みがかった瑞枝(みずえ)を口のなかに運ぶ。こうして仲間とともにミラーを噛んでいると、いま自分はメルの村にいるのだとあらためて思う。
 ミラーとは、ここケニア中央高地のメルの人びとのあいだで、噛む嗜好品として古くから愛用されてきた樹木の名前である。口に入れるのは摘みとった新鮮な枝で、それには弱い覚醒作用がある。眠気を吹き飛ばすとも、身体の疲れをとるともいわれる。わずかに苦みがあるので、メルの人びとは、ピーナッツと一緒に噛んだり、ミルクティーや炭酸飲料をすすりながら噛んだり、あるいは砂糖をなめながら噛んだりする。アイディア次第で味わい方は変わる。
 楽しみ方は多種多様だといっても、日ごろから噛んでいるのは男性だけで、女性で愛好家というのは見たことがない。女性が噛むのは、たとえば一生に一度のこんな場面だ。恋人どうしの間柄にある男女が結婚の気持ちを固める。すると、相談を受けた彼の父親が、彼女の父親のもとに一束のミラーを持参する。彼女が、自分の父親の前でそのミラーを噛むならば、結婚を望んでいるという正式な意思表明になる。ミラーにはそんな用途もある。

国内外各地へ広がる市場
 ミラーは、村人にとって、日々の生活を支える貴重な収入源でもある。村の人びとがつくる換金作物といえば、むかしはコーヒーが主流だった。けれども、1990年代になると、市場価格が低迷したコーヒーに見切りをつけて、ミラーの栽培に切り替える人が急増した。
 良質のミラーは、ケニアでは、土壌や気候の適したメルの土地でしか栽培できないといわれる。しかも、次から次へと新芽を育み、一年を通して収穫が絶えない。村人たちは、この恵みの木を大切にし、枝葉の剪定(せんてい)や防虫など日ごろの手入れを怠ることはない。
 メルの人びとがつくるミラーの買い手は、その多くがソマリだ。ソマリの人びとは、隣国ソマリアのみならずケニア国内にもいるし、なかには内戦のために難民として欧州に渡った人たちもいる。こうして、ミラーに対する需要は、国内外で各地に広がりつつある。
 かつてメルの人びとにとって、ミラーは自分たちが楽しむ分だけで十分だった。それがいまではお金になる作物になり、村のあちこちに植えられるようになった。そして、収穫量を増やすために必要以上の農薬を散布する人や、学校を欠席してまで収穫や出荷の手伝いをする子どもまで出てきて、村で大きな問題になっている。
 村の人びとは、老木から摘み取ったものの方が美味だという。ここ10年のあいだに植えられた数多くの若木とはだいぶ違うのだ。新しい時代を迎えたいま、人びとは、ミラーとの上手なつきあい方を模索している。

ミラー(学名:Catha edulis
ニシキギ科の常緑低木。イエメンをはじめアラビア語圏ではカート、エチオピアではチャット、ケニアではミラーとよばれている。摘みとった瑞枝(地域によっては新芽や若葉)を噛むことで覚醒作用を得られることから、一部の国では法律で使用が規制されている。ケニア国内最大の生産地である中央高地のニャンベネ山稜一帯では、利用の歴史が古く、19世紀末に出版された探検記にも記録が残っている。

見ごろ・食べごろ人類学
羊肉でやせられるの?
森本 利恵
ダイエット作戦
 トンガでは国をあげてダイエットに取り組んでいる。名付けて「ダイエット作戦」! トンガ政府中央計画省と日本人海外協力隊のエアロビクス隊員が、村や小学校を指導したおかげで、今やエアロビクスは小学校の運動会の出し物の定番となった。首都ヌクアロファではダイエット・コンテストもしばしば企画されている。この作戦は、エアロビの授業が必修の小学生と、見た目を気にする一部のトンガ人のあいだでは成功している。しかし、大抵の村人にとって、ちょっとそこまで歩きにでかける散歩だけが彼らの「運動」である。
 作戦の背景には、トンガ人の食生活の変化がもたらした肥満、糖尿病、高血圧症の拡大がある。もともと砂糖を意味するスカというトンガ語が、そのまま糖尿病をも意味するほど、トンガ人にとって身近な糖尿病治療のために、1990年代には、首都にある病院の一角に外国政府の援助で専門病棟が建てられた。この病棟には朝から50代から60代の男女を中心とする長い列ができる。患者たちは簡単な問診、血糖値と体重の計測のあと、薬を受けとる。なかにはこの診察に満足できず、ニュージーランドやアメリカなどに出稼ぎにでた家族を頼り、国外の病院で診察を受ける人もいる。
 肥満と糖尿病をもたらした最大の要因として指摘されているのが、輸入品の羊肉(シピ)である。トンガで売られているシピは、生後一年以上のヒツジのアバラ部位である。骨のまわりの少量の赤身を除いて大半が脂身(ガコ)である。トンガ人は鯨肉を伝統的に食べていたが、捕鯨禁止以降食べられなくなった。日本でも商業捕鯨が停止して供給量が激減した後、鯨の大和煮の缶詰が一時羊肉の缶詰に切り替わって出回ったと聞いたことがある。
 シピがトンガの人びとに好まれるのはその脂身ゆえである。シピは、骨付きのまま細切れにして焼くだけか、野菜などと炒めるか、蒸すかして食される。1960年代から、ニュージーランド産の安いシピの輸入量は急増し、イモと魚中心の食生活にシピが付け加わった。彼らの不健康な脂太りはその結果であるといわれている。

シピはちょっと高価
 トンガ人は、ブタ、ニワトリ、ウシ、ウマ、ヤギといった家畜をおもに儀礼や祭礼での食事のために飼っている。私が滞在したある島では、1896年ニュージーランド人が羊牧場経営を始めたが、ヒツジ泥棒が横行し、ついに牧場主は経営を諦め、ヒツジを置いて島を去った。その後、島の人びとによって残ったヒツジも食べ尽くされてしまった。彼らがヒツジを飼わないのは、泥棒をおそれるからか?
 通常、トンガの人びとがおかずに食べるのは、冷凍シピとコーンビーフである。いずれも輸入品であるうえ、購入には消費税が10パーセントかかる。1キロあたり3~3.5パアンガ(180~210円)もするシピは、庶民の日常の食卓にあがるほどは安価ではない。
 人びとの日々の食事は質素である。畑に行く朝は、薄めの紅茶、あるいは裏庭に生えているレモングラスの葉を煮出したお茶に、砂糖をたっぷり入れて、それに乾パン(マー・パク)を浸して食べる。夕方畑から帰ったあとは、蒸したイモに、小商店で購入した一パアンガ(約60円)の魚の缶詰めがおかずである。小麦粉を水でといて団子を煮て、砂糖を煮たカラメルをからめたものが朝食で、夕飯は乾パンと紅茶だけ、という日もある。

招き合いが巨体をつくる
 では、巨人のイメージをもつトンガ人の肉体はどこでつくられるのか。また、いつシピを食べて不健康な脂太りになっているのか。その答えは、共食・祝宴の機会の多さである。他人の家を訪問すれば必ず食事に招かれるし、伝統的なゴザ編みや樹皮布づくりの共同作業に参加したり、教会など人が集まる場ではかならず食事がつきものである。この日は、細切れにしたシピ入り野菜炒めが出された。
 トンガ人の家庭を訪問する。たちまち第一声、「おなかがすいてないかい(フェカイヤ)?」ときかれる。日本流に「今食べてきたのでおなかが一杯です」と遠慮しても、「これしかないけどお食べなさい」とその日のその家族の食事が振る舞われる。こうして何軒か回れば、満腹である。一方、訪問者をもてなして自分たちの食事がなくなった家族は、親族を訪問し、食事にあずかる。いつも誰かが誰かの胃袋を支えている。
 祝宴は日曜日ごとに村のどこかで開催されている。教会の信徒宅がもち回りでおこなっているからである。参加すれば、石蒸し(ウム)料理をはじめ子ブタの丸焼きやシピに腹一杯ありつける。残った料理は参加者に土産として手渡される。参加者がテーブルにつくとき、土産の料理をつめるビニール袋と、もち帰るときそれが外から見えないようにするための鞄をすでに持参している。忘れても主催者がビニール袋くらいはくれる。宴会の料理がなくなってしまい、参加者が手ぶらで帰る羽目にでもなろうものなら、「あそこのうちの料理は大したことなかった」と噂されるので、主催者は親戚や海外の家族に送金を頼んだり、あるいは銀行に借金をしてまで祝宴を成功させることに必死である。

食べたら寝る
 満腹になって次にすることは、ただひとつ。眠ることである。「ごちそうさま」の返事は、「寝なさい(アル モヘ)」や「横になりなさい(トコト)」である。休むことも立派な生活習慣なのである。このため、催し物や行事で食べ物が用意されている場合、プログラムの最後は必ず食べる時間にあてられ、そのあとは帰宅して休む。
 最近、日本では若い女性を中心に羊肉に含まれるLカルニチン・ダイエットが流行している。羊肉に含まれる成分Lカルニチンは、体脂肪燃焼に不可欠であるといわれ、多くのダイエット・サプリメントにLカルニチンが配合されている。したがって日本では、羊肉に「脂を食べても体内には残らない」「肉を食べると疲れがとれる」という歌い文句が並ぶ。このブームのおかげでニュージーランドの対日本向け羊肉の輸出量は前年の2倍近くになったとか。同じニュージーランド産の羊肉が、いまやトンガの日曜のウム料理と宴会料理の食材には欠かせない。ダイエットのために羊肉を食べる日本人。一方、羊肉ゆえにダイエットが社会問題となっているトンガ人。両者はあまりに対照的である。

インド サリーの世界


次号予告・編集後記


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