国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年10月号

2005年10月号
第29巻第10号通巻第337号
2005年10月1日発行
バックナンバー

エッセイ 世界へ≫≫世界から
轟夕起子のサリー姿
松岡 環
 最近、「和製アジア映画」をもう一度見直す作業をしている。少々変なネーミングだが、日本以外のアジア諸国の人が主人公となっている日本映画で、特に日本人俳優が彼らに扮した作品をこういう名前でくくってみたものだ。戦後も、久慈あさみがインドネシア人女性を演じた『ブンガワンソロ』(一九五一年)や、『楊貴妃』(五五年)、『釈迦』(六一年)といった作品が作られているが、国策映画の顔を持つ戦中の「和製アジア映画」が特に興味深い。
 その中に、『成吉思汗』(四三年)や『マライの虎』(四三年)などに混じって、衣笠貞之助監督作品の『進め独立旗』(四三年)がある。日本に住むインド独立運動の活動家たちを描いたもので、インド本国からやってきた指導者ナリン王子に扮する長谷川一夫が主役である。
 長谷川一夫をはじめ、森雅之、三津田健らインド人役の男優たちは、白地の洋服姿に濃いドーランで色黒に見せ、インド人っぽさを演出している。しかしながらその姿がいささか珍妙なのに対し、轟(とどろき)夕起子扮する活動家の妻のサリー姿は、まるでベンガル絵画から抜け出した婦人のようで、インド人そのものだ。
 確かに、サリーは日本人によく似合う。私もインド旅行中はほぼ毎日サリーを着ているのだが、ある時欧米人女性からこう言われたことがあった。「日本人は髪が黒いからサリーが似合っていいわね。私たちのような金髪だと、サリーを着ても何だか間抜けに見えてしまうわ」。インド人の中にモンゴロイド系の人々がいることもあって、日本人のサリー姿はインド人にとっても違和感がないはずだ。
 とはいえ、サリーには着るコツがあるのも事実。前部に作ったプリーツを安全ピンで留め、ドレープを作って肩に流した部分もやはり安全ピンで留める。これでサリーは絶対着崩れせず、その安心感が姿勢をよくさせて、サリー姿を美しく見せる。轟夕起子のサリー姿もよく見るとピンの存在がわかり、そのせいか動きも自然でサリーの美がよく伝わる。
 アジア侵略の下心が透けて見える国策映画ではあるものの、各国の文化を伝える側面も持つ「和製アジア映画」。こういった作品が日本人の中にどんなアジア・イメージを構築したのか、また反対に、アジア映画に登場する日本人像がどのような日本イメージをアジアの人々の間に形作ったのか。その変遷も含め、日本とアジア諸国間の映画によるイメージ構築の歴史を、実際の作品にあたりながらいつか跡づけてみたいと考えている。


まつおか たまき/アジア映画研究者。1949年兵庫県生まれ。76年からインド映画の紹介を始め、現在はアジア映画全般の紹介と研究に従事。『ムトゥ 踊るマハラジャ』等の字幕も担当。

特集 スローライフ─時と生きる
生産性、効率性、合理性を追い求めるあくせくとした生活からの脱出口として提案された「スローライフ」。自分、家族、仲間、自然、これらと向き合って楽しく生きるには、時計の針が刻む時間の尺度とは違ったリズムを見つける必要があるようだ。「スローライフ」の実践とは、「スローライフ」に人びとが求めるものとは、何であろう。

「スローライフ」が展開する日本
 先日、駅前のファーストフード店に飛び込んだ。急いで食べていると、トレー・シートの文字が目に入った。「ファーストフード」。そのおいしさや安心はスローにつくられています。ついにここまで来たか、という感がした。最近、新聞や雑誌の記事、あるいはキャッチコピーに「スロー」が頻繁に登場するようになってはいたが。
 日本のスローあるいはスローライフの流行は、スローフード運動に由来するとよくいわれる。それは八六年にマクドナルド一号店がローマに出現したのを機に北イタリアの小都市から起こり、世界各地に広がっている。そういう意味では日本の「スローライフ」はグローバルな動きと連動するものと考えられる。しかし、欧米の友人たちに聞いてみると、「スローフード」は耳にするが、「スローライフ」という言葉がとくに流行しているとは思わないという。前述の、グローバルに展開するファーストフード店のキャッチコピーも日本独自のものだ。これはどういうことか。
 巷の「スローライフ」が気になり始めたのは、二〇〇一年後半に入ってからのことだ。日本の新聞・雑誌にその言葉が最初に出たのは多分、二〇〇〇年。その前年ごろから日本でもスローフードの組織的活動が目立つようになっていた。スローフード運動を日本語で紹介した人びとは当初からその運動の本質が食物のみならず、暮らし方や人びととの関係性全般に関わるものだととらえ、それをスローライフと表現した。五大全国紙と地方紙一四紙でみてみると、「スローライフ」に言及した記事は二〇〇一年に六件、二〇〇二年は二七〇件に上り、以後は増加の一途をたどっている。
 日本でのスローライフの流行にはスローフードとの繋がり以外に少なくともいくつかの日本的要因が見てとれる。なによりも日本の社会状況がある。バブルが崩壊し、見せかけの発展の空しさを通して見えてきたのは、量的増大や効率の追求とは異なる価値観、加速を続けてきた暮らし方全体への見直しだった。それが「スローフード」という時の言葉と出会い、「スローライフ」へと展開した。
 確か昔も「そんなに急いでどこへ行く」とか「ゆっくり行こうよ」がはやったことがある。しかし右肩上がりを続けていた時と今とでは状況が違う。それに言葉のイメージもある。「スローなブギにしてくれ」とか「中国行きのスロウ・ボート」など、日本語における「スロー」はちょっとセクシーだったり、バタ臭かったり、日常を少し離れた新しさがある。
 仕掛け人もいた。たとえば元朝日新聞解説委員で、現NPO法人スローライフ・ジャパン理事長の川島正英氏。二〇〇一年七月のニューズウイーク誌にアメリカ的価値観や方式に対抗するヨーロッパのスローライフの記事が掲載されたころ、筑紫哲也氏らと「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」を目指すスローライフを広めようと決意する。マスコミや地域イベントでのスローライフの流行にはそういう人びとの影響が少なからずあった。
 そういう中で静岡県掛川市の場合、きっかけは仕掛け人がつくったと言えるが、土地に内在した諸条件が絡んで非常に興味深い発展を見せている。
 二〇〇一年秋、七選目のキャッチフレーズを求めた榛村純一掛川市前市長がブレインの一人、川島氏に相談をし、選んだのが「スローライフ」。そもそも榛村市政では一期目から生涯学習が柱のひとつだった。人口一〇万未満、大都市への若者の流出が進む地方小都市の市長は、学校教育以外に、地域の歴史や文化を一生涯学び続けていける場をもつことが、自分のいる場所を肯定的に生きることに繋がると考えた。
 同市の生涯学習宣言(七九年)はいう。「人間の内面の成長・成熟(幸せ・生き甲斐)は一歩一歩、一日一日の学習・努力でしかえられない。自動車のように一足とびには達成できない…お金と学歴と単なる便利さを克服し、無上の幸せと悟りに達するために…」。スローライフはこの理念に共鳴している。
 スローライフを掲げた前市長は七選を果たし、翌年、国土交通省からやって来た新任の小松正明助役を中心に具体化が進められた。一一月をスローライフ月間とし、市や実行委員会企画のイベントのほか、市から最大で五〇万円の補助金を出すということで、市民主体のイベントを募集することになった。四〇組以上の応募に対して面接審査を実施。予算を大幅に削っても、「ではやめます」という組はなく、和菓子づくり、木造建築のもつ価値を学ぶ会など多数の市民イベントが実現した。掛川のスローライフは、衣食住、産業、移動、教育、加齢においてゆっくりし、伝統と地域の価値を再発見し、自然との調和を重んじるものだという宣言が最後に出された。
 かくしてスローライフ月間はめでたく終幕。市側は恒例化を想定せず、次年度の予算にも計上しなかった。それがその後も続いていったのは、市民有志の力によるところが大きい。その中心の一人は、現NPO法人スローライフ掛川の代表理事、井村征司氏である。市の生涯学習講座「とはなにか学舎」の卒業生で、第一回スローライフ月間では学舎の同窓生と「ぼちぼちやる会」を立ち上げ、市民主体イベントの総合案内所的サポートもおこなっていた。
 翌年夏になって井村氏らのよびかけで第二回スローライフ月間実行委員会が発足。前年の市民イベント参加者、街づくり活動に関わってきた建築家、おかみさん会メンバーらに加え、助役ら市職員も数名、個人の身分で委員となった。予算ゼロのため、市民イベントにはエントリー料三〇〇〇円を出してもらい、さらにグッズ販売などの工夫をして経費を捻出。まさに手づくりで、苦労は多かったが、参加者は前年以上に満足したという。今度は自分でも蕎麦打ちと古事記を語る会の二つでエントリーした小松助役いわく「おもしろいからやった」。
 昨年は七月にNPO法人スローライフ掛川が設立され、そこを中心にスローライフ月間を実施。また、国の全国都市再生モデル調査事業に応募し、「スローサイクリングによる地域自立・広域観光振興ソフト施策検討調査」もおこなった。掛川のスローライフは地域おこしでもあり、新しい試みが満載である。
 無論、掛川の人みんながスローライフに興味をもっているわけではないし、冷たい反応もなくはない。しかし井村氏ら中心メンバーは、ともかく自分が楽しみ、そして他の人びととのつながりの中で個性を発揮し、あくせくせず、よい加減で参加している。それは従来のムラ的共同体や会社組織内の人間関係とは少し異なる。
 企業戦士だった井村氏は定年前の五六歳のとき、友人に勧められて「とはなにか学舎」に入学した。そこではさまざまな人びとが職業や年齢、地位に関係なくグループ学習やゼミに参加していた。自分の世界が広がり、今までとは異なる関係性の体得の契機となったようだ。
 掛川の人びとから見えてくるスローライフは、速度の遅速よりも、いつのまにか種々に切り刻まれた時間枠にはめ込まれ、加速を促されていた暮らしから身を転じて、周囲の人びとや自然や事物と新しい関係を結び直し、それぞれが生き生きとするあり方を求めようとすることではないかと感じた。それが「スローライフ」の流行を超えて社会を変えていく力になっていくことに期待したい。

時計のリズム、自然のリズム
 南の島。それこそ、日本の都市住民が思い描くスローライフの象徴であろう。日本人の南島イメージの原型はミクロネシアあたりにあるのかもしれないが、ここでは、わたしがかよってきたマダガスカルの漁村をとりあげ、「スロー」ライフの実態を述べてみたい。ただし、マダガスカルほど大きい島では都市人口もそれなりに多く、日本なみのファーストライフもめずらしくない。マダガスカル島の人たちすべてがスローライフ実践者であるなどとは、ゆめゆめ考えないでいただきたい。
 さて漁村であるが、わたしはここへ来ると、たしかに時間から解放されたように感じる。白い砂浜と強い紫外線が、いかにもビーチリゾートにふさわしいというのも理由のひとつだろう。また、村には電気がひかれていないため、日本からの電話が仕事をせきたてない、ということもある。しかしなにより、解放感を与える最大の理由は、生活のリズムが時計によって刻まれないことにあろう。村の人たちは、時刻を知るために時計を見ることがほとんどない。腕時計は普及しているが、町へくりだす時のおしゃれのアイテムとして用いられるのであり、待ち合わせに使われることはまずない。
 村人たちが時刻を知るうえでは、太陽と月の位置、そして海の干満が重要である。とくに太陽の位置は、時計をもたない人に対して時刻を教えるのにも役立っている。たとえば、過去のできごとについて話し合っている人たちが事件の刻限を厳密にするときは、「太陽があのあたりに来たころ」と言いながら、空の一方向を指し示すことが普通である。「午後何時ごろに」などと補足することはあまりない。
 海に出て漁をする時刻に関しては、潮の干満から判断するほうが直接的で便利である。ふつう、漁に適した時刻は干潮か満潮の時刻であることが多いが、いずれも日によって異なるため、干満のようすを観察しながら出漁の頃合を見計らう。月夜の漁に際しては、月の位置が出漁のタイミングを判断する材料となる。潮の干満と月の動きは同調しているからである。いずれにせよ、「何時になったら漁に出る」と漁師が言う状況というのは、なかなか想像しにくい。
 時間による束縛がこの村であまり感じられないのは、太陽の位置や海の干満によって示される時刻が時計ほど厳密でないからだろう。時計が示す厳密な時刻を気にするのは、一部の村人のみである。数年前、村から二キロメートルほど離れた場所に、イタリア人とマダガスカル人の夫婦がホテルを開いた。このホテルに従業員として雇用された数人の村人は、毎日午前六時の出勤を厳密に守っている。わたしがたまに早起きして海辺に立っていると、「今何時か」と尋ねて、海岸沿いを足早に去っていく。もっとも、彼らとて、時計を身につけるほど時刻に忠実なわけではないのだが。
 ここまで読んだ読者は、時計に縁のない暮らしが悠長なものだという印象をもたれただろう。しかし、話はまだ半分しか終わっていない。わたしの印象では、時計のない暮らしはむしろ、意外な面であわただしい。
 そのことは、たとえば旅立ちの際に実感できる。遠方の親戚を訪問する日取りや、遠くの漁場に出漁する日取りなど、村人たちは直前まで決めない。ところが行こうと思い立つと、さっさと海に出る仕度を始めて、二~三時間後にはもう出立している。ある時など、インタビューをしようと思っていた相手があまりに突然に村を出てしまったため、調査予定がこなせなかったこともある。
 村人の旅立ちがかくもあわただしいのは、彼らの主な交通手段が帆走カヌーであることによる。旅立ちは風向き次第だ。予定を決めていても、風向きが悪ければ旅立つことはないし、予定より早くよい風が吹くと、旅立ちも早まることが多い。彼らは時計に拘束されないかわり、自然のリズムに敏感で、おとずれたチャンスを逃さないように行動する。
 別の例をあげるなら、大潮の夕方、海から帰ってくつろいでいた漁師たちがあわてて海へ駆け出し、漁網を広げて魚を捕ることがある。大潮のこの時刻には、小魚の群れが岸近くを通りかかるのが見えやすく、群れが来れば漁師たちはそれを逃さないからである。「明日捕ればいい」というのは陸に住む人の考えであって、漁師の考えでは、逃した群れにふたたび遭遇できるとはかぎらない。好機は逃さずつかまえる、食事の時間であろうとかまわず働く、それが当地の漁師の流儀である。
 自然のリズムに合わせて暮らすことは、スローライフがめざす理想のひとつのかたちであろう。しかし、自然は時計と違って気まぐれだから、合わせる人間も悠長なばかりでなく、急ぐべきときに急いでいる。とはいえ、自然のリズムが悪いとか、スローライフ運動が矛盾していると言いたいわけではない。ここで述べたような暮らしがあることもふまえたうえで、われわれが思い描くスローライフ像を豊かにしていこうではないか。

ブレスの森の一日
三浦 敦
 「いや、ワインのおいしさっていうのはね、どういう食事をするかによって決まるんだよ。ワインというのは食事に合わせて選ぶもので、それ自体でいいの悪いのっていうようなものじゃないんだよ」と、街の朝市にワインを売りに来ていたジョルジュさん。彼が売るのは安いワイン。だけどどれも、彼が一軒一軒農家をめぐり、試飲をしながら買い付けたもの。「今度うちにおいでよ、お昼を一緒に食べようよ」。日差しが強くなる、夏の初めの水曜日。
 というわけで次の週の水曜日、お昼前の一一時半、フランス東部のブレス地方にあるジョルジュさんの家を訪ねることに。ソーヌ川の沖積平野で標高の低いブレス地方(標高約二〇〇メートル)はジュラ山脈の西麓にあり、コナラを主体とした森がひろがり、下草が繁茂して草いきれがする地域。あちこちに沼が点在し、森のなかにときどき現れるのは、赤煉瓦の壁と黒い柱、白いレースのカーテンののぞく窓からなる小さな民家、民家。
 そんな森のなかに、トレーラーハウスを改造して一人で住むジョルジュさん。家の前に木のテーブルを出してきて、まずはお決まりの食前酒から。乾杯! 木々から漏れる日差しも優しく、ああ今日は気持ちがいい。「朝市っていうのはね、もちろん安いっていうのもあるけどね、みんなおしゃべりをしたくてくるもんなのさ。みんなはそこで家族の話をしていくんだ」。ふーん、そうなんだ、どうりであちこちに朝市が立つはずだ。そんな話をしながらジョルジュさん、とっておきの赤ワインの栓を抜き、もってきたのはささっとつくった前菜のサラダ。「俺は昔はフランス軍にいて、モロッコで情報操作や心理操作をしていたんだ」。へえ、こんなところにそんな人が住んでいるのか。「ま、やばいことはしなかったけどね」。ふーん。「今は、ジュラの各地の朝市でワインを売って、その合間にブルゴーニュに買い付けに行くんだよ。でも朝市は週に四日しか行かないし、それも午前中だけだからね。午後はこうして家で本を読んだりのんびり過ごしているのさ」。あー、なんて幸せな生活。といいながら、二本目のワインとメインディッシュの鶏の丸焼きにマスタード。
 フランスでは昼食がとても大事。でも農民たちにとって美食的というのは、まず第一に量があること、そして時間をかけること。ある子どもの初聖体拝領の昼食会に招かれたときは大変だった。一二時半ごろにまず食前酒とオードブルから始まり、それからシャンパンを開けて前菜二品(このときすでにお腹いっぱい)、ワインを飲みながらメインディッシュの肉料理二品(冷たい肉と暖かい肉)とアントルメ、それからさらにデザートが二品。食べ終わったころにはもう四時半過ぎ。それからコーヒーと食後酒を飲みながら世間話をし、音楽がかかれば手に手を取ってダンスが始まる。そうこうしているうちに日も暮れるけれど、なんと、八時ごろには「さあ夕食だ」と言って、スープに前菜のサラダと、簡単なメインディッシュ。なんという大食漢!コーヒーが終わるころにはもう一〇時半、お腹がはち切れそうになる宴会の一日。もちろん、こんなことがいつもあるわけではないけれど、ワインを飲んで食事をしながらわいわいとやるのがみんなの楽しみ。ジュラ出身のユートピア社会主義思想家フーリエは、理想的な未来社会では人は一日に五食とるようになると言ったけれど、そんなこと言われなくても、ジュラの農民は今でもすでに一日に五食をとっている。ユートピアンたち。
 フランスは今では失業率も高く、特に若い人は就職できる保証はない。それはジュラでも同じこと。けれどもこうしたのんびり時間をつぶしてまであくせく働くなんて、馬鹿げているとも思っている。必要な分は働くけれど、それ以上は家族と過ごす時間がとても大事。資本主義を批判してジュラに生まれた社会主義の思想も、実はそんな農民たちの生活から生まれたもの。食べ物だって時間が大事。このブレス地方の有名な鶏も、畑に放し飼いにされて時間をかけて育てられ、母から娘へと受け継がれ、世代を超えた家族の時間が込められる。
 二本目のワインの酔いが心地よく体の隅々にわたるころ、ようやくデザートに。あれ、もう二時半か。コーヒーも終わるとジョルジュさん、「じゃ、僕はちょっと昼寝をするね」と、パンツ一枚になって自分の部屋へ。酔っぱらった私は、車を運転するわけにもいかないので、木陰でやっぱり、うとうとうと。むんとする草の香りのなか、こうして今日も一日が過ぎていく……。

未来へひらくミュージアム
展示の舞台裏
民博で開催中の「インド サリーの世界」展、
色とりどりのサリーが、私たちの目を奪う。
独特の風合いと装飾をダメージから守り、
サリーをより美しく展示するために、
舞台裏ではたくさんの工夫が積み重ねられた。
資料にやさしいシワとり
 今回の展示資料には、金糸、ミラー、コイン、刺繍のように凹凸があるだけでなく、折れたり切れたりしやすい装飾がほどこされているものが多い。これらの資料には、インドでの購入当初からの折り目に加え、輸送時あるいは保管時のシワがついていた。衣類のシワをとるには、家庭ではアイロンをあてるが、博物館の資料では、シワひとつをとるにしても、資料に安全な方法を考える。むやみに高温のスチームアイロンをあてて、布の織目、凹凸のある装飾の独特の風合いをつぶしてしまうことはできない。資料にもっとも負担を与えない方法から始め、様子をみながら次の方法へ移ろう。シワを無理して完全にとるのではなく、気にならない程度になればいいと考え、カタログ用の写真撮影に間に合わせた。
 シワをとる作業をおこなったのは開幕五カ月前である。サリーなどの平らな布は平置きにして、縫製されている衣装はマネキンに着付けるといったように、それぞれに一番無理のない状態に置いて、自然にとれるシワは時間をかけてとっていった。
 しかし、六ヤード(約五メートル四〇センチ)もの長いサリーを端から端まで平置きするのは、現実的には不可能である。そこで、パッルーを中心に平置きすることにした。パッルーとは、サリーを着用したとき、端に垂らす部分にあたり、豪華な装飾がほどこされている。収蔵庫の一角には大きな台紙をいくつも置いた移動棚を並べ、その上にサリーを平置きしていた。
 すでに立体縫製されている衣装は、なかに人の体が入ってはじめて形になる。それぞれの衣装に合わせてマネキンの胴体に薄葉紙と綿を巻き、衣装を支える人体を再現した。肩から胸にかけて綿枕をつめたり、折りたたんだ和紙を挟んだりして徐々に形を整えていくと、衣装はきれいな流れを取り戻していった。このように衣装をマネキンに着せるだけでも、軽いシワはほとんど目立たなくなった。
 シワが深くついた資料は平置きにするだけでなく、様子を見ながら部分的に重しをのせていった。効果がない場合、ごく軽く湿り気を与える手段をとったものもある。まず布の端の目立たない部分で染料の耐水性を確認してから、大判の濾紙(ろし)を、手でふれて湿っているか湿っていないかという程度に濡らす。その濾紙を資料の下に置き、布に湿り気を与えた後、軽く重しをのせることでシワをとっていく。山繭のシルクで織られたごく薄いサリーは、このようにしてシワをとった例である。
 マネキンに着せただけでは、シワのとれない衣装もあった。たとえば虹色の薄手のドレスは、もともと布全体が縦方向に細かくシワ加工がされているが、横断するように、折りジワがついてしまっている。縦のシワはとらずに、横のシワをとらなければならない。最終的には、ぜんそくや花粉症などの吸入治療に用いられる超音波式ネブライザで精製水を噴霧させることにした。ドレスをマネキンに着せて形を整えた後、風量を調整しながら霧化した精製水をあて、布を軽く縦方向に引く。湿らすといっても、手で触れても濡れているのが感じられない程度だが、横ジワはきれいにとれていった。

布を傷めず巻いて収納
 装飾の多い資料は、取り扱うときに布と装飾部分がふれあい、布に傷みが生じるおそれがある。資料を安全に調査、撮影、保管できるように収納・保管方法にも工夫をしている。
 サリーなどの長い布は紙管に巻いているが、布の厚み、装飾の有無や位置関係、表布と裏布のちがいなどに応じて、紙管の直径や巻き取り方を変えている。この微妙な作業をおこなってくれたのは、当時の研究機関研究員の増田久美氏である。
 布地に厚みと凹凸があり、容易に折れたり切れたりする装飾が広範囲にほどこされているものは、装飾部分が重ならないように注意しながら、直径の大きい紙管に巻いている。これは、巻く回数を最小限に抑えるためである。同時に、不織布をあいだに挟むことで、凹凸を緩和している。表と裏の両面に装飾があるものは、巻き取るときにシワがでやすいので、とくに慎重にあつかう。
 薄い布地でも、部分的に装飾がほどこしてあるものは、一枚の布に厚みの差が大きくでるので、直径の大きい紙管を使用した。ただし、重量はたいしてないので、薄くて軽い紙管で対応できる。薄い布地の場合には、不織布をあてることでよけいなシワがつきやすくなったため、使用は避けた。
 布地の厚みが均一なものは、比較的直径の小さい紙管に巻いている。布地の厚みによっては巻き取るときに不織布をあて、布どうしが重なり、圧迫されるのを緩和している。
 いずれの場合も、資料が紙管や不織布に直接接触しないよう、フィルムで保護している。資料を巻き終わった紙管は、左右に台を置いた上に浮かせるように収蔵し、巻き取った資料の下部が床でつぶされないようにしている。現実的には収蔵スペースの問題があり、紙管に巻きつけたのは、脆弱なサリー、とくに装飾が多いサリーに限っている。そのほかのサリーは平置きにしているが、よけいな折り目がつかないように、折りの輪の部分には内側から薄い和紙を丸めたものを挟んでいる。

特別展の舞台裏
 このような作業は、今回の特別展に限ったことではない。毎回いろいろな問題が発生するが、そのたびに保存科学を専門とする研究者が臨機応変に対応し、解決策を見いだしていかなければならない。そして、実務スタッフがそれを実践に移していく。
 前回の特別展「きのうよりワクワクしてきた。」では、新しい試みがいくつもあった。そのうちのひとつが、博物館の収蔵資料、リサイクルセンターで見つけてきた資料、建築資材など、経歴の異なる資料を同じ空間に展示することだった。民博で扱っている民族学資料は虫害を受けやすいため、防虫対策にはとくに気をつかっている。民族学資料は、もともと長期にわたる使用を想定していないし、美術工芸品とは異なり、精製された材料というよりも、入手しやすいものでつくられていることが多い。使用痕も重要な学術情報となるため、そのまま残していることも虫害にあいやすい要因になっている。「きのうよりワクワクしてきた。」では、民博の収蔵資料あるいは他館からの借用資料以外は、すべて何らかの殺虫処理をおこなってから展示場に出した。一般資料には二酸化炭素処理、建築資材には加温処理をおこない、前者は二週間、後者は三日間のサイクルでフル稼働し、開幕に間に合わせた。
 昨秋の特別展「アラビアンナイト大博覧会」では、フランス国立図書館から借用した貴重図書の展示環境整備が大きな課題だった。温度二〇度+-二度、湿度五〇パーセント+-五パーセントに保つという厳しい借用条件は、日本の夏では実現不可能である。展示場の空調をこの条件にあわせると、外の環境と極端な差が生じるので、観覧者には寒すぎて、不快な思いをさせてしまう。そこで、本館の日高助手や外部協力者とともに、既存の展示ケースを改造し、そのケース内だけで温度と湿度の制御をおこなうことにした。この可搬型空気循環式恒温恒湿システムは、民博から出願した四件目の特許になった。貴重図書に直接、空調の空気があたらないように、展示ケース内にアクリルケースを置き、そのなかに借用資料を入れた。展示ケースおよびアクリルケース内には外部から温度と湿度をモニタリングできるデータロガーを配置し、毎朝チェックした。さらに安全を期すために、別の一室の空調を借用条件の環境に整備し、いつでも資料を避難させることができる空間を確保した。展示ケースだけでなく別室の環境整備のために、毎日、内部のスタッフが温度と湿度のモニタリング、除湿器の水取りを続けた。その甲斐あって、貴重図書をいれたアクリルケース内の環境は、会期中、借用条件内に維持することができた。
 舞台裏の仕事は、観覧者の目には直接届かないが、博物館にとっては生命線といえる。今日も、民博のどこかで、スタッフが協力しあって、展示を楽しんでもらえるよう活躍しているのである。

表紙モノ語り
スワヤンブー寺院模型
企画展「模型で世界旅行」出展作品 製作/マンダキニ・シュレスタ、盛口正昭(2002年) 幅19.5cm 奥行28.3cm 高さ19cm
 カトマンズに暮らす人びとが信仰してやまないスワヤンブー寺院。それが三〇〇分の一に縮小した模型になって、わたしの両手の平の上にのる。神仏にたいして申し訳ない気もするが、こうして見ると、何と端正で美しい寺院だろう。模型には「モンキー・テンプル」の愛称どおり、サルまでいる。
 ネパールの寺といえば、儀礼に使う水、赤い粉、花びら、精製バター、ところによっては供犠した動物の血や、群がる鳩の糞でじめじめしていて、どうしても足もとやズボンの裾を気にしながらうつむき加減に歩いてしまう。頭を上げれば今度は、みやげ物を売りこむ人や日本語で話しかけてくる人などに付きまとわれる。それはそれで旅のリアリティだし醍醐味でもあるが、思えばこんなにじっくり「スワヤンブー」を見るのは、初めてのような気がする。
 スワヤンブーは正確にはストゥーパ(ブッダの遺骨を納めた仏塔)ではなく、チャイティヤ(礼拝対象としての祠堂)であり、向かって右の塔がプラタッププル寺、左のそれがアナンタプル寺である。建立の年代は明らかでないが、一一世紀の史料にはその存在が記されている。カトマンズ盆地が湖だったころ、文殊菩薩がその一角を刀で断ち切り、湖水が流れ出た大地に最初に現れたのが、スワヤンブー(自ら生じた)神仏なのだと。もっともヒンドゥー教徒のなかには、これをシヴァ神の創造力の象徴であるリンガ(男性性器)として祀る人もいるようだ。多様な神仏が「マンダラ」をなすといわれるカトマンズ盆地にあって、ひときわ高くてめだつスワヤンブーは、より聖性をおびた空間なのだ。神の目で、とは畏れ多くていえないが、鳥になったつもりでご覧いただきたい。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

万国津々浦々
白馬の王子様──インドの社長令嬢の結婚式
 もう、一五年ほど前のことになる。インドの企業の社長令嬢の結婚式に招待されたことがある。父がとある日本企業のデリー支店におり、その社長と取引があったために、このような千載一遇の機会に恵まれたのだ。当時大学院に入りたてで、インドを研究対象としようとしていたわけではないが、極彩色の国インドの魅力に惹きつけられ「私も行く」と飛行機に乗り、インドに飛んだ。
 結婚式の式典がおこなわれたのは中部マディヤ・プラデーシュ州のインドールという都市。そこにその企業家の工場と邸宅があった。
 インドの結婚式は、庶民でも借金をしてまで派手におこなうらしいが、お金もちの披露宴は半端ではない。外国から招待された客の旅費、滞在費はすべて花嫁の父がもってくれたらしい(私の飛行機代はさすがにうちの親が出してくれたが)。一週間おこなわれたさまざまな行事のたびに、ゼロがならぶ数字が招待客の間でささやかれていた。たとえば、到着日の夕方に案内された学校の校庭には、「町の人一万人」に食事をふるまうための巨大バンケットが用意されていた。校庭一帯に張り巡らされたテントではいくつもの大きな鍋が湯気をたてている。それだけで充分に圧倒されたが、VIP客にはもっといい晩餐が用意されているということで、花嫁の豪邸の庭につくられた祝宴用テントに連れていかれた。生花や壁掛けでにぎやかに装飾された仮設ホールでの食事のメニューは、申し分なく豪華であった。しかもステージが設けられており、民族舞踊だの、皿回しだのの余興ありだ。「このテントだけで、円にしても何千万もかかったらしいわよ」とまた噂される。
 滞在中はとにかくプログラム満載で、花嫁家族が信者であるジャイナ教の寺院や、花嫁の父の工場の見学なども日程に含まれていた。しかし私にとってハイライトだったのは、なんといっても花婿の登場である。
 最初のご登場は、ジャスミンの花で飾られたオープンカーに乗って、花婿のお披露目の場へ。横に座った妹さんだかいとこだかが、花びらを降りかけている。ムガール朝絵画の王子の肖像を思わせるような、鼻筋のとおった凛々しい褐色の横顔。「あ、すてき……」。この世のものとは思えない、美しい男性の出現に言葉を失ってしまった。
 さらに、婚礼の儀式の晩、花婿はなんと白馬に乗ってやってきた。羽のついた赤いターバンはきりりとした顔立ちをいっそう引き立て、すらりとした体にまとった白いチュニックは清麗かつ高貴な空気をかもしだしている。花嫁もチャーミングな女性だが、目は花婿にすっかり釘付けである。
 豪邸のサロンに設置された花の天蓋の中に聖火が焚かれ、僧侶が契りの儀式を厳粛に執りおこなっている間にようやくあきらめのついた私は、宝石箱をひっくりかえしたような色とりどりのサリー姿の女性たちに気を惹かれ始めた。こんな花婿さんは無理でも、こんな花嫁ドレスは着たい……。
 この時はおおいに掻き立てられた「白馬の王子様」と「理想の花嫁ドレス」幻想も、いつしか心の宝石箱にしまわれた。特別展「インド サリーの世界」を機にそっと取り出してみた思い出話である。

人生は決まり文句で
神さまが知っているさ
 ルーマニアで日本人旅行客をバスで案内したときの話。
 旅も最後にさしかかり、首都ブカレストに帰る日の夕方、食事に間に合うためには七時までにホテルに着かなくてはならなくなった。心配するガイドに運転手がいった。
 「大丈夫だ、七時までには着いてみせる。賭けてもいい」
 その言葉どおり、バスは六時五五分にホテルに着いた。
 運転手が言った。
 「どうだ。約束どおりだっただろう。さて、誰が賭け金を払ってくれるんだい?」
 ガイドと添乗員と私が顔を見合わせたとき、ふと私の口から次の言葉が出た。
  "Dumnezeu stie !" (強いて訳せば、「神さまが知っているさ」)
 運転手とガイドは爆笑して、賭け金の話は雲散霧消した。ガイドは笑いながらいう。
 「あなたは、ルーマニア人のことを本当によく知ってますね」
 Dumnezeu stie(ドゥムネゼウ・シュティエ)とは、翻訳すると、英語ではGod knows !、仏語でDieu le sait !、日本語では、「神は知り給う」ということになろうか。訳してしまえば、キリスト教圏でよく耳にするフレーズである。とりわけおもしろくもなんともない。だが、ルーマニア人と話しているときに、この言葉が出るとルーマニア語らしい含みに気づく。
 この言葉の背景をちょっと探ってみると、ルーマニア人の独特な性格とその歴史、さらに特有のキリスト教によって織りなされたルーマニア的なるものが関っているようだ。
 ルーマニア人は、明るい性格でものごとにこだわらず、出来事の結果を苦にして悩まない反面、諦めやすく大まかな性格だといわれる。これが単なる偏見から生まれた印象だといいきれないのは、近代ルーマニア文化史を彩るバラード論争すらルーマニア人の性格を対象としていたからだ。このバラードは、ミオリッツァとよばれる。心優しい羊飼いに嫉妬した仲間たちが殺害計画を企てる。たくらみを知った子羊が狙われていることを告げるが、羊飼いは従容として死を受け入れるという内容だ。論争は、主人公が示す運命に対する死をかけた受動的な態度を、ルーマニア民族の典型的な態度か否かを重要なテーマとしたのである。
 その論争が現実味をもって人びとを動かしたのは、ハプスブルグ帝国やオスマン帝国など他民族の帝国に支配されたルーマニアの長い歴史のせいであるだろうし、ルーマニア人の精神形成に大きな影響を与えたキリスト教の性格にもよるだろう。
 このキリスト教は、カトリックやプロテスタントとならぶ東方正教という宗派に属するルーマニア正教である。その信仰のかたちは、懐疑的、合理的というよりも、信仰する人たちの従順で情緒的な性格を強く示している。さらに罪に対する強迫的なこだわりもみうけられないようだ。(世界的な宗教学者ミルチャ・エリアーデは、これを南東ヨーロッパに特有の「宇宙的キリスト教」とよんだ。)
 つまり、この三つの事柄の結びつきが示しているのは、物事に執着せず、自分の責任にも拘泥せず、おおらかに神を信じて、物事の結果から距離をとる態度である。
 思わず口をついて出てきた言葉をことさらに説明するのも野暮な話だが、Dumnezeu stie(神さまが知っているさ)という言葉のおかしさは、ルーマニア的なるものから出てくるというのは、私の勝手な思いこみだろうか。

手習い塾
楔形文字で日本語を書く1
森 若葉
 楔形(くさびがた)文字は、古代メソポタミアで発明された世界で最古の文字である。紀元前四〇〇〇年紀後半から紀元後一世紀まで三〇〇〇年以上の間、古代オリエント世界で用いられた。
 シュメール語、アッカド語(バビロニア語、アッシリア語)、ヒッタイト語、フリ語など多様な言語がこの楔形文字で記された。
 楔形文字は粘土板に葦の棒(スティルス)で押しつけるように記される。文字を構成する画が楔の形にみえることから楔形文字と名付けられた。
 楔形文字の書体は表1のように移り変わってきた。文字は紀元前三〇〇〇年紀後半に九〇度回転し、以降、書字方向は左から右への横書きに定着する。
 ここではもっともよく知られる書体である新アッシリア時代(紀元前七〇〇年ごろ)の文字を使って、日本語を書いてみることにしよう。日本語の五〇音表を楔形文字であらわすと表2のようになる。
 楔形文字で日本語を表記する際の問題点をあげておく。まず、第一にシュメール語やアッカド語の母音はa、i、u、eの四母音であるため、oの系列はすべてuの系列で代用しなければならない。また、子音によってはi段とe段の区別がないものがあり、その場合、i段とe段は同じ文字となる。や行の「ゆ」と「よ」については相当する楔形文字がないため、「い」と「う」、「い」と「お」のそれぞれ二文字であらわしている。
 また、撥音「ん」については、単独であらわすことができないため、先行する母音を繰り返して、子音+母音の音節文字で表記する。わ行の「を」は、「お」で代用する。
 長音、拗音、促音を含む音節以外は、これで表記できることになる。次号ではこれら長音、拗音、促音を含む音節の表記と数字をとりあげる。
*「表1」「表2」「例1」「例2」「例3」は画像データの本紙P16、P17でご覧下さい。

地球を集める
インド現代ファッション
広大なサリーの世界
現在開催されている特別展「インド サリーの世界」には、おもに国立民族学博物館所蔵の資料が展示されている。これらの資料の大部分は二〇〇二年から二〇〇四年度の海外収集で集められたものである。
 民博にはそれまで七〇点ほどのサリーが収蔵されていた。インド各地の、さまざまな技法をつかったサリーが収集されていたが、インドは広大な世界であるので、サリーの世界にもまた厖大なヴァリエーションがある。着方から、素材、技法まで地域による差、階層差、それに時代による流行などあって、そのヴァリエーションは無限にあるといってよい。こうした広大なサリーの世界を網羅するような収集は現実的でないが、せめて代表的な例をより広く集めたいというのが、今回の収集の出発点であった。
 しかし、収集の計画を進めるあいだに、伝統的なサリー店を通じて製作、販売されているサリーだけでなく、インド出身のデザイナーによる作品も収集の対象とすることにした。これらのデザイナーは、サリーだけでなく、その他のインド的な衣装や、ウエスタン・スタイルの衣装、あるいは東西の融合したインド・ウエスタンなどの衣装を数多く作り出しており、それがまた、世界的に注目されているからである。こうして、サリーについては、伝統的なものだけでなく現代的なものを、さらには、サリーだけでなく、代表的なデザイナーの作品も収集し、インドの現代ファッションの広がりをうかがえるようなコレクションをつくりたいと考えたのである。

両替に悩まされ
 民博のコレクションでは、インド南部の資料が比較的少なかったので、すでに交流のあったチェンナイ(マドラス)のサリー店を中心に収集をおこなうこととして、ほかにムンバイ(ボンベイ)、コルカタ(カルカッタ)、オリッサ州などで、地域の特徴的なサリーを収集することにした。くわえて、デリー、ムンバイ、コルカタ、バンガロールなどのブティックやスタジオで、有名デザイナーの作品を収集する計画を立てた。デザイナー作品の入手先は、出発に先立って、ウェブ・ページなどから拾ってリスト・アップしていった。そのさい、Fashion Indiaなど、デザイナーとブティックの情報が集約されているページが役立った。ただし、デザイナーの作品は、サリーのようにまとまった数を一度に購入するということができない困難が予想された。じっさいデザイナー作品の収集には大いに難渋したものである。
最初に訪れたのは、ニューデリー郊外の高級住宅地、ハウス・カースにあるトップ・デザイナー、リトゥ・クマールのブティックであった。リトゥ・クマールは、インドでもっとも早くから世界的な名声を得たデザイナーだけに、大きな期待をもって出かけたものである。店内で目にした作品は期待に背かず、インド的な華やかさのなかに上品な趣味があらわれていて、かなりの数を購入した。だが、ここで第一の困難に遭遇することになった。
国立民族学博物館の収集は基本的に現金払いで、日本円を米ドルのトラベラーズ・チェックに両替し、さらにそれを現地通貨にするというややこしい手続きをとるのが普通である。インドの通貨ルピーは、現在二・六円ほどの交換レートである。おもに使われている紙幣には、一〇ルピー、二〇ルピー、五〇ルピー、一〇〇ルピー、五〇〇ルピー、一〇〇〇ルピーとあるが、高額紙幣の信頼性が薄いことから、多額の両替でも、信頼できる両替商ほど一〇〇ルピー紙幣を好む。そのため、高額の買い物をすると、カバン一杯にもなろうとする札束をもらうことになる。そのうえ、両替のときには数を一枚一枚確かめなければならない。衆人環視のなかでそれを実行するのは想像を絶するつらさであった。

対面関係の重要さ
 しかも、ウェブで集めた情報はあまり役に立たないという困難もあった。インドの大都市はここ二、三年、変化のスピードが加速し、郊外にどんどん新しい巨大なショッピング・モールなどが出現してきている。ファッションをふくめたライフスタイルには、日々恐ろしい勢いで変化の波がおそっている。わずか一、二カ月ほど前の情報も、すぐに古くなってしまっていたのである。そのため、とくにデザイナーの作品を手に入れるのが困難を極めた。事前にチェックしてあったブティックなどに連絡しても、住所を移していて行く先がわからないこともあった。
 それだけでなく、インドではなにごとをおこなうにも、メールや電話では事がすまず、じっさいその場所に行って顔を合わせることが不可欠になる。そこで収集の趣旨を説明し、納得してもらった上でないと、十分な対応をしてもらえない。インドはいまIT産業で世界の注目を集めているが、情報化がどれだけ進もうと、最終的には対面関係の重要さはかわっていない。インドに限らず、情報化やグローバル化が進めば進むほど、かえって顔を合わせて話す重要さは増してくるのかもしれない。

生きもの博物誌(コオロギ/中国)
昆虫番付
菅 豊
一攫千金を夢みて
 コオロギ相撲は、中国の秋の風物詩。それは、二匹のオスを、狭い楕円形のリングに入れ、片方が逃げるまで闘わせる格闘技である。体重〇・数グラムの小さな身体にもかかわらず、その闘いぶりは体重一トンの闘牛に勝るとも劣らない。迫力満点である。
 一九九八年。優秀なコオロギ戦士を輩出することで有名な山東省の小さな街で、私は王さん(仮名)と出会った。トウモロコシ畑のど真ん中にあるこの街は、八月も末になるとコオロギ市が立ち、それを売買する人びとでごったがえす。コオロギハンターたちは、一攫千金を夢みて広大な畑のなかへ分け入る。秋口のハンティングだけで、山東省の農民の平均年収を超す稼ぎを得ることもあるという。王さんは、はるばる遠く離れた上海からコオロギを買い求めに来たコオロギのバイヤーであり、かつプロのコオロギ賭博師であった。仕事柄、相当警戒心が強い王さんであるが、私が外国人であることに幾分気を許し、自分たちの営みについていろいろと教えてくれた。
 どういうコオロギがよいのか、強いのか、彼はよどみなく話すが、語られる内容は至って感覚的で曖昧な表現。私は、戦士としてのコオロギの優劣判断のコツや知識を学ぼうとしたが、一筋縄ではいかない。いや、むしろ話を聞いているうちに、彼の言っていることに根拠があるのか、さらに、彼が本当にコオロギのよしあしを見分けることができるのかどうか、だんだんと疑わしくなってきた。そこで、ある実験を試みることにした。
 無理を言って彼に選んでもらったコオロギと、いろんなコオロギを闘わせてみる実験である。コオロギハンターが採集したコオロギと、素人である私と私の調査助手がこれぞと見込んで採集したコオロギ、さらにコオロギ市で私たちが目をつけて購入したコオロギ。それらと、財産、いやことによっては命までもコオロギに賭けている王さんが選抜したコオロギとの闘いである。

コオロギ賭博師の眼力
 泊まっていた旅館の一室で、助手と私は月餅の容れ物でつくった仮設リングで、コオロギたちを闘わせた。トーナメントで、勝者同士と敗者同士を闘わせ順位を決める。一見、総当たり戦の方がよさそうだが、実はコオロギは、負け癖がつくことが昆虫社会学で明らかになっている。負けると立ち直るのに時間がかかり、負けた直後には普通ならば歯牙(しが)にもかけないような相手に負けてしまうことがある。そのため、慎重に相手を識別しながら、闘いを進めていった。
 表に示した結果をご覧いただければわかるように、王さんが選んだものが最も強く、次いでコオロギハンターが採取したもの、および知識のない素人の私たちが購入したもの、最後に私たちが直接採集したものの順位になった。
 疑って申し訳なかったが、コオロギ賭博師・王さんは本当に強いコオロギを見極めることができる人だったのである。そして、やはり素人(私と助手)が、容易に判断できるものではなかったのである。後日、コオロギの体重を量ってみると、勝敗と体重とに強い相関関係があることがわかった。つまり、王さんは見ばえと戦いぶりの良い大型のコオロギ、すなわち高い値段がつく体重の重いものを視覚的に選択していたのであった。しかし、コオロギの体重差は、わずか〇・〇五グラムほどしかない。それを、彼は一瞥(いちべつ)で見極めたのである。私は、このとき、コオロギ市にたむろするちょっといかがわしげな男たちが、実は、奥深い経験知を身につけた慧眼(けいがん)のもち主であることを思い知らされたのであった。

ツヅレサセコオロギ(学名:Velarifictorus micado
中国でコオロギ相撲に使うコオロギは、普通はツヅレサセコオロギ「闘蟋」である。これ以外にも、エンマコオロギの仲間「油葫蘆」や、ミツカドコオロギの仲間 「棺材頭」が生息しているが、闘コオロギには用いられないので、商品価値はない。中国普通話(共通語)では「蟋蟀(シーシュアイ)」とよばれるが、上海の人びとは一般に「財吉(ゼッチェ)」、北京や天津などの北の人びとは「★★(チュイチュイ)」という方言でよぶ。よび名ばかりではなく、闘わせる方法なども、地方ごとに異なっている。
* ★印は虫へんに「曲」

表 採集状況と闘いの順位、および体重の相関

戦いの順位 採集状況 体重(g) 体重の順位
王さんが市場で購入したコオロギ 0.219
コオロギハンターAが草原で採集したコオロギ 0.145
調査助手が市場で購入したコオロギ 0.139
私が市場で購入したコオロギ 0.155
コオロギハンターBが草原で採集したコオロギ 0.130
私が草原で採集したコオロギ 0.123
調査助手が草原で採集したコオロギ 0.116

* 順位と体重の相関を調べたところ、昆虫学者Alexanderが指摘するように、コオロギの強さと体重は強い相関があった(Spearmanの順位相関係数は0.8829、Kendallのタウは0.7807であり、2つの変数が独立である確率はそれぞれ0.0085、0.0151)

見ごろ・食べごろ人類学
狐を狩る伝統
三枝 憲太郎
自由と生活のために!
 夏の終わりのある夕暮れ、人びとは村はずれにある牧草地を目指していた。狭く曲がりくねった田舎道。ぼくも友人を隣にのせて、収穫したジャガイモを満載したトラックが前からこないことを祈りながら、車を走らせていた。九〇年代半ばの牛乳価格の急落以来、この辺りでも牧草地をジャガイモ畑に変えたところがいくつかある。それでもまだイギリスの農業はひどい不況の中におかれている。
 この日、イングランド中西部にある調査地に戻ったのは、友人たちのメールに促されたからだった。「ロンドンでのカントリーサイド・マーチに参加することになったから帰ってこいよ」。カントリーサイド・マーチとは、狐狩り禁止を牽制するためにロンドンで開かれることになっている大規模なデモのことである。ぼくの調査地での集まりは、このデモを一週間後に控えた前夜祭だ。
 会場となる牧草地の真ん中には、廃材や枯れ木がうずたかく積み上げられていて、そのまわりではバーベキューをほおばったり、ビールをすすったりしながら、家族連れが楽しそうに談笑している。近くのプレップ・スクールの生徒たちが追いかけっこしたり、犬がじゃれあったりしているのを見ていると、とても抗議集会にはみえない。「ウェストミンスターの連中が君のカントリーサイドを押さえつけようとするのを許すな!」「自由と生活のために!」と書かれた鮮やかな赤と緑の横断幕がなければ、どちらかといえば村の夏祭りの風情だ。

貴族はどこだ?
 狐狩りといえば、日本でもイギリスでも一般に貴族の娯楽という印象がある。階級を意識せずに暮らすことのできないイギリスにおいて、狐狩りが目の敵にされていた理由のひとつには、世襲によって再生産されていく特権階級に向けられた根強い反感がある。狐狩りをめぐる議論が感情的なものになりがちだったのは、それが階級闘争の一環として認識されていたためである。ピンク・コートとよばれる赤いジャケットに白い乗馬用ズボンと黒いブーツという出で立ちは、いかにも貴族を思い起こさせる。
 でも実際には、その装束の人物が貴族である可能性はあまり高くない。狐狩りをおこなう集団のことをハントとよぶが、この近くでハントの世話役(マスター)をしているリチャードの職業は、エアコンの修理屋である。マスターはハントを代表する名誉職で、狩りの際には集団を先導する。いつか、ボロボロのランド・ローバーでぼくを案内してくれたとき、彼は訥々(とつとつ)とした調子で語ってくれた。
 「俺たちは結構大変な思いをして馬を維持してるんだ。でも、こうやって休みの日に外へでてくるのが唯一の楽しみなんだ。子どものころからずっとハントを追いかけてきたしね」
リチャードのような人びとは決して少なくない。しかし、確かに馬を維持していくには金がかかる。騎乗してハントに参加している人の多くがある程度の資産をもった人びとであることは否定できない。集まりの晩に見た真新しいレンジ・ローバーやBMWがそれを証明している。彼らの多くは、地主や自作農や実業家だ。

巨大なかがり火
 あたりが薄やみに包まれ始めたころ、みんなは牧草地の中央に集まりだす。二〇〇人を超す人びとが見守る中、巨大なかがり火がともされる。歓声の中に狩猟用のラッパが高らかに鳴り響く。こうした光景がイギリス全土の各地で繰り広げられているはずだ。
 荷車で代用した即席のステージの上に、いつもの青い作業用オーバーオールを着たキースがいる。三代に渡って小作農家を営んでいるキースを知らない者はこの土地にはいないだろう。一五で学校を出てすぐに父親の農場で働き始めたキースは、自分自身狩りに出たことはない。その彼が、ここで狐狩りを擁護する演説をうっているのは、それが彼にとって貴族のスポーツなどではなく、自らが生まれ育ちそして働き続けているこの場所でずっとおこなわれてきた「伝統的な」行為だからだ。「外部」の人間たちの趣味や好き嫌いで、それが多数決的に禁じられてしまうことに対して、彼は納得ができないのである。
 今日集まったほとんどの人たちも、キース同様狩りの経験はないはずだ。実際に狐狩りをおこなっているのはほんの一握りの人びとにしかすぎない。にもかかわらず、それが禁じられることに対して、これだけの人びとが反意を表明している。狐狩りがカントリーサイドとよばれる特別な空間と密接に関係してきたためだ。イギリスにおけるカントリーサイドは単なる田園空間ではない。少なくとも人びとの想像力の中では、カントリーサイドは独自の秩序をもって自立した世界としてイメージされている。狐狩り禁止への反対を通じて、さまざまな人びとがそれぞれの立場から表明するカントリーサイドへの強い思い。それがこの夜、全国で燃え上がった巨大なかがり火であった。
 集会から二年半経った二〇〇五年二月、狐狩りは違法となった。

公開講演会「家族のデザイン

次号予告・編集後記

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