国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年11月号

2005年11月号
第29巻第11号通巻第338号
2005年11月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
何のためにそこにいるの、日本人
酒井 啓子
 世界を旅して、自分が日本人だということに気づかされるエピソードはいろいろあるが、なかでも忘れがたいのが、以下の四つの例だ。
 最初に、中東研究を始めて駆け出しの頃、イラクの役所に統計資料を求めたときのことだ。情報統制厳しいフセイン体制のもとで、係のイラク人が資料を渡しながら私に言った。「で、日本は代わりに何をくれるんだ?」。一世紀にわたり西欧諸国に首も手も突っ込まれて、いいようにされてきた中東諸国にとって、「知る」こと自体が内政干渉の代名詞になっている。
 第二のエピソード。バグダード大学農学部を訪れた時、「日本には木に生えるキノコがあると聞いた。英語でいいから作り方のテキストが欲しい」と切望された。隣国ヨルダンでは農園主が、「溜池に魚を放ったら、増えた。養殖の方法を知りたい」。とりあえず日本に戻って調べたが、日本語の本しかない。
 研究対象の中東から「日本人」として何か求められても、何も返せない自分に辟易しながら、二〇年の月日を経て、ヨーロッパで開催された、とある国際学会の会議に出席した時のこと。日本人はおろか、アジアからの出席者もいないなかで、懇親会でぽつねんとしている私にアメリカ人研究者が声をかけた。「よかったわ、貴女がいてくれて。唯一のアジア人だもの、この学会を『国際』っぽくするには大助かりだわ」。
 会議には、中東出身や中東系の研究者はたくさん溢れていた。彼らは「会議をグローバルに見せるために」いるのではなくて、ともに同じ研究に携わる者として、国籍に関係なく、そこにいる。さて、この日本人はここで何をしているのだろう?
 最後のエピソードは、最近の、同じく国際会議の席上だ。日本の某団体が資金援助して開催された会議である。日本人研究者で出席しているのは、私だけ。司会者が某団体の支援に謝辞を述べる。欧米や中東出身の出席者が一斉に私を見て、拍手を送る。私は、自分が「服を着たキャッシュ・ディスペンサー」みたいに見えているのかと思うと、もぞもぞと落ち着かない。
 こういう経験を繰り返してきて、でも最後の経験ではなんとか身の処し方が見えた。会議の順番通り、私は研究発表を行ったのだが、どうも研究内容を知ってからは、彼らの目から日本人ATMの幻影が消えたみたいなのである。

さかい けいこ/東京外国語大学大学院教授。1982年東京大学教養学部卒業後、アジア経済研究所入所。在イラク日本国大使館専門調査員などを経て現職。イラク、中東を専門として現代政治を研究。日本中東学会理事。

特集 しゃべる
おしゃべりは、たぶんヒト特有のコミュニケーションのあり方。
日本の都市ではまる一日おしゃべりしない生活も可能だが、
人類学者はフィールドでいろいろなおしゃべりに出会っている。
それぞれの社会に、上手なおしゃべり、おしゃべりのルールもある。
ちょっと立ち止まって、「おしゃべり」してみませんか。


会話のダイナミズム
 近年、おしゃべりが、私たちの生活から失われつつあるとよくいわれる。電話や、直接会って話をするよりも、メールでのやりとりが好まれるし、物を買う場合も、自動販売機があれば、そちらを選ぼうとする人も少なくない。最近の喫茶店が、ゆったりとくつろぐ空間から、客の回転が速いスタンド式に変わってきたことにも、同じ背景があるという人もいる。家族内でのコミュニケーション不足については、すでにかなり前から問題視されているが、家族の外でも、いわば無用なおしゃべりはだいぶ減ってきたようだ。
 ところで、こうした傾向は、しばしば現代社会の人間関係の希薄化を示しているといわれる。だとすれば、会話とは、単なる情報やメッセージの授受だけを意味するものではない、ということになる。もちろん、話すという行為にとって、そこで何が話されているかは重要である。しかし話が、その内容だけの問題、つまり、話の内容を信号のようにやりとりするだけの行為なら、自動販売機でも事足りるだろうが、それだけでは、やはり私たちは味気ないと感じてしまう。ほとんど内容のないおしゃべりでも、おしゃべりをすること自体が楽しかったり、とにかく誰かとおしゃべりがしたくなったりするという経験をもたない人はいないだろう。
 そもそも、話という問題にかんしては、その内容のほかに、話すという行為がおこなわれている場そのものにも注目する必要がある、と指摘する研究者は多い。
 たとえば、会話には、言葉だけでなく身体全体を含めたやりとりが含まれている。私たちは、話をする際、服装や表情にも気をつかうし、ジェスチャーなど、身体も積極的に駆使している。しかも、その表情や動作は、それぞれに記号的な明確な意味があるというよりは、ただ、自分を目立たせたり、相手をひきつけたりしようとするだけという場合も少なくない。話が、単なる情報伝達ではなく、自己表現や、相手に対する影響力の行使につながっていることはいまさら指摘するまでもないだろう。その際には、政治家の演説などに典型的にみられるように、とくに身体的な技術が重要になってくる。
 そして会話は、こうした身体的なやりとりを含んでいるからこそ、即興的で、ダイナミックな性格をもっている。話の現場では、相手の身体に直接向き合うことによって、しばしばそこに予期せぬ反応を見出し、それに応じて自分の側にも思わぬ反応が引き起こされていくからである。
 とするならば、私たちは、互いのあいだにすでになんらかの関係が存在するから話をするだけでなく、話をすることによって、新たな人間関係を生み出したり、これまでの関係をさらに変化・進展させたりしているといえるだろう。話すこととは、それ自体が、人間関係そのものなのである。
 さて実際、他の社会や文化にも目を向けてみるならば、話のこの部分が非常に大きな意味をもち、それぞれの社会の秩序や構造と密接にかかわり、ときには様式化・儀礼化されているところも少なくない。話の技術、いわば演技力が、相手を操る力、すなわち権力に直結しているため、みながその演技力の切磋琢磨に余念がなかったり、おしゃべりのための空間が社会のなかに明確に設けられていたりする。
 本特集では、その一例としてパプアニューギニア、イタリア、インドでのおしゃべりの場面を取り上げるが、そこからは、人びとが、さまざまな形のおしゃべりを展開しながら、自分を表現し、社会を動かしていく様子が見えてくるだろう。
 そして、直接的な会話の場が減りつつある現代でも、こうした話の意義がまったく見失われてしまったわけではないことも付け加えておく。たとえば、メールにはしばしば絵文字や記号が使われているが、それは、メールのやりとりにもなんらかの表情を加えようとする工夫である。つまり私たちも、人間関係としてのおしゃべりの効用を手放してはいないのである。
 いまや面倒で無用なものとみなされがちなおしゃべりの意味を、ここでもう一度じっくり考え直してみる必要があるのではないだろうか。


ビッグマンの名演説 ── パプアニューギニア
紙村 徹
 パプアニューギニアの西部高地にあるエンガ州では、ほぼ毎日のようにどこかの広場で、部族の集会が開かれ、男たちのおしゃべりが延々と繰り広げられる。いったいいつ働くのだろうと心配になるくらいである。いやいや、むしろこのおしゃべりこそが、男たちのもっとも大切な仕事なのである。そんな彼らの様子を紹介してみよう。
 その日も部族の男たちは、広場に円陣を組んで座り、激しく論戦を交わしていた。円陣の外側では、女たちが三々五々集まって座り、編み物をしながら聞き耳をたてている。女たちは集会でしゃべってはいけないのである。ただあとで家に帰ったら、夫やその兄弟たちにゴチャゴチャ感想を言い立てる。そしてたいていの夫たちは、うんざりする。
 さて、つい先ごろまで何度か弓矢を射かけあった、川向こうの仇の部族とのあいだで、一応の手打ちをおこなうために、縁組み交換をすることになった。議題はこの件をめぐってである。先方からはすでに結納の手付けのブタが送られてきた。
 円陣のなかからウイアが立ち上がり、右手をふりあげて不満をぶちまける。
 「あれくらいの結納のブタで、おれの娘を奴らにわたせってのかよ!」
 ここで、とくにウイアの派閥の男たちが「カップ、カップ(そうだ、そうだ)」の合いの手を入れる。これに対してすかさず別の派閥のプリプが反論を試みる。ふたつの派閥はかなり険悪な仲になっていて、いずれ分裂するかもしれないような雲行きである。
 「なにを言ってるんだ。おれは先の合戦で兄弟三人もやられたんだ。結納の額なんぞよりも、まずは戦死者の賠償問題を先に片付けてくれなけりゃあ、(少し間をおいて)死んだ兄弟が祟るぞ!おれたちが死んでもいいってのか?」
 超リアリストであると思われたエンガ人が、意外や意外、死霊の祟(たた)りをだされると、一同がっくりとうなだれる。「どうしよう」「ああ」などというため息があちこちから漏れてくる。しかしこれも説得術のひとつであるらしく、プリプは満面の怒りと恐れの混じった表情とは裏腹に、冷静に計算して「死霊の祟り」を引き合いにだしてきたものと考えられる。
 しばらく沈黙が続いてから、どちらの派閥にも属していないケンラが、おもむろに立ち上がって茶々をいれる。
 「おい、おい、プリプよ。戦死者賠償問題なんて、そんなに早く片が付くとでも思っているのかよ。ウイアの娘なんぞ、もう奴らの槍に串刺しにされてしまったというじゃあないか。だから早めに結納を取り交わした方がよかあないか」
 ここで言っている「槍の串刺し」とは「性的関係をもつ」という意味の喩(たと)えである。しかも女から男への求愛ソングでよくつかわれる。この種の論戦では、ことに喩えがよく使われる。論戦の緊張を和らげるためかもしれない。
 とはいえ、これにはウイアが怒って息を荒げつつ立ちあがって、吼(ほ)えてみせる。
 「冗談じゃない。おれの娘に限って、そんなふしだらじゃあないわい」
 ここではさすがにウイアの派閥の男たちも苦笑する。ウイアの娘が浮気者であることはよく知られていることだからである。
 このようにいっこうに論点がまとまらない論戦が続く。何日にもわたるので、見ている方も疲れてしまう。それでも半年くらい論じ合えば、徐々におさまりがついてくるらしいのである。このあたりの勘どころがわかりにくいが、この場合はカラペの提案がもっとも説得力を発揮した。
 「たしかにウイアの言うこともわかる。プリプの言うところも、まさにそうである。しかし皆の衆よ、われら一族はいまだ弱い。先の合戦では三人も戦士をなくした。ここは我慢だ。しかも大祭宴も間近だ。われらは、これに恥をかいてはなるまいぞ。大祭宴をやりぬき、この谷じゅうに、われらの力をみせつけてやらねばならない。そのためには、なんとしてでも川向こうの奴らとのブタの繋ぎ紐を真っ直ぐにしてやらなくちゃあならないのだ」
 「ブタの繋ぎ紐を真っ直ぐにする」というのも喩えで、この場合は川向こうの村との縁組みをかためて、いつでもブタ供与の都合をつけてくれるようにしておくことを意味する。自分たちの部族がまもなく開催する大祭宴で供与するブタを、できるだけ多く確保しておくことが、まず必要だからである。
 誰もが認めるような、うならせる名演説には、男たちは日ごろの確執もかなぐり捨てて称賛の合いの手を発する。女たちは決して声を発しないが、名演説に対しては眼差しと表情で称賛をありありと示す。実は村人をうならせたのは、カラペの提案そのものだけでなく、その名演ぶりも含めてでもある。カラペこそ、その卓越した演説力ゆえに、当地で自他ともにビッグマンと認められている人物なのである。
 もちろんビッグマンのみが、特権的に演説をしまくるわけではなく、すべての男たちがきわめて押しが強く、猛烈に自己主張するし、そうしなければ男がすたると考えている。ビッグマンといえど、そこらのオッサンとなんら変わりがない。しかし、男たちの複雑な利害得失にうまく訴えつつ、日ごろの緊張感も緩和させる喩えを駆使する雄弁さ、さらにはみなの機微と情感をつかむ時機をみはからって説得する演技力たるや、さすがビッグマンとうならせるものがある。
 ここでも村人の大半の同意を取り付けたとみるや、すかさずビッグマン・カラペは、つぎのように喩えを活用して唱った。
 「(われら一族は)いまは小さな双葉
  とても小さな双葉、
 やがて幹をたて、枝葉をのばしてゆく
 大地に根をはり、枝葉をのばしてゆく
 幹と枝葉は、
 天に、天に、届くであろう
 天を、天を、衝くであろう」
 こうして最高潮に達した部族の一体感の余韻が、ビッグマンの名声をゆるぎないものにする。


街角はしゃべり場 ── イタリア
 イタリアは、広場をはじめとする戸外の空間が魅力的に整備されている国として知られている。イタリアを旅行して、広場の美しさに目を奪われた人は少なくないだろう。しかし、そこは彼らにとって、おしゃべりの場でもあることを忘れてはならない。
 彼らは、暇さえあれば戸外に出て人と会い、おしゃべりをする。たとえば男は、仕事を終えて帰宅すると、そのまま家で過ごすのではなく、広場に出て友人たちと会話を交わすのが日課だし、女は、家事の合間に、路地で近所の女たちと話に花を咲かせる。そして、仕事の合間にオフィスから抜け出て立ち話をしている人、買い物途中で話しこむ人、自動車の窓越しに話がはずんで後続車からクラクションを鳴らされている人などなど。広場をはじめとするイタリアの戸外空間とは、こうした人と人とのコミュニケーションの場として作り上げられてきたともいえるだろう。イタリアは、「世界でもっとも狭い寝室(家)をもつ代わりに、もっとも広いサロン(広場)をもつ」といわれるゆえんである。
 ところで、こうした彼らの行動は、しゃべってばかりで仕事をしないというネガティブな評価か、せいぜい、陽気なおしゃべり好きというイタリア人像で説明されるにとどまっている。彼ら自身も、おしゃべりは単なる暇つぶしにすぎないという。また、イタリアはコネ社会ゆえ、こうした会話が、情報や縁故を探す手段になっているという面もある。
 しかし、彼らのおしゃべりには、もっと積極的な意味もある。そこでは、職探しのような個人的な問題から、町おこしや育児・高齢者問題のようなコミュニティの問題まで、さまざまな課題が話し合われ、その会話をきっかけに、諸々の相互扶助や組織が生まれたりする。近年イタリアでは、ボランティア活動やNPO組織が非常に盛んになっているが、その動きは、以上のような戸外での会話の延長線上にある。イタリア人は自分勝手だと言われることが多いが、実は、互いの生活に深い配慮や関心をもっており、その配慮とは、戸外でのおしゃべりの積み重ねのなかで育まれているのである。
 また、こうしたおしゃべりは、当然、彼ら一人ひとりにとって、欠かすことのできない楽しみでもある。
 彼らもしばしば、毎日戸外に出るのは面倒だとぼやく。しかし帰宅すると、わずかな時間でも外出しようと、再度身だしなみを整えるし、いったん外に出れば、さまざまな人を相手に生き生きとおしゃべりを繰り広げはじめる。彼らが、ジェスチャーたっぷりに、相手の関心を引くよう話をしている様子は、さながら広場や路地を舞台にした俳優のようだ。そこでの会話の上手・下手が、彼・彼女の評判につながることも少なくない。つまり、彼らは戸外で、知り合いという観客たちを前にして、自分をどう見せるかという演技にいそしみながら、自分を表出する喜びを感じているのである。
 とするならば、この楽しみとは、決して電話やメールに代えられないものだろう。実際、携帯やメールが普及している今日でも、彼らは相変わらず、おしゃべりの場を求めて、毎日外出を繰り返し、街中をおしゃべりで彩っている。


女のねたみ解消法 ── 北インド
菅野 美佐子
 慎ましやかで貞節、そして慈愛に満ちた女性。インドでは一般に、こうした資質を兼ねそなえた女性がよしとされている。だが、インドの村に滞在してみると、その女性像と実際の女性たちとのギャップに困惑することもしばしばであった。
 北インドはヒンドゥーの聖地として知られる、ワーラーナスィー近郊の農村。田園風景が広がるのどかな情景とは似つかず、村人はあらっぽい性格である。話をするときも、男女ともに身振り手振りをふんだんにつかい、喧嘩と見まがうほどに大声、かつ早口である。 女性のおしゃべりにも、慎ましやかさなどほとんど感じられない。
 とりわけ、村の女性たちはうわさ話が好きである。この地域の農村では兄弟同士が同じ敷地内に居住する合同家族が多いが、その嫁たちが集まると必ずうわさ話に花が咲く。夕方、少し手が空いてくる午後四時から五時ごろ、嫁たちが台所に集まり、チャイを片手におしゃべりが始まる。夕飯の下ごしらえに取りかかりながらも、一瞬たりとも沈黙することはない。早口で大きな声が軽快に飛び交う。
 「ムンニはサリーを二五〇ルピーで買ったらしいけど、あのサリーなら二〇〇ルピーもしないよ。あたしにはサリーを買うお金すらないけどね」
 「ラクシュミの家の夕飯のサブジー(おかず)は、昨日畑でとったパパイヤかもしれないねぇ。それにしても、お裾分けもよこさないやつがあるかい? うちは今夜も貧しくトマトとジャガイモのサブジーだけだよ」
 「昨日ギータの家に職場の上司が来ていたらしいよ。男となれなれしく話すなんてねぇ。あたしには仕事すらないって言うのに」
 うわさといっても話題にのぼるのは些細な出来事である。それに対してけちをつけたり、いやみを言ってみたり。私はこの類の話にうんざりしながらも、何度も話にまざりつつ、このおしゃべりの意味について考えてみた。彼女たちは、「浪費家」、「けち」、「男性と話をする淫ら」な女性たちを非難する傍ら、自分はそのような女性ではないことを暗に主張している。それはすなわち、他者を否定することで、冒頭で述べたような「慎ましく」、「貞淑」で「気前のよい」理想的な女性を自ら演出し、女性としての自己を肯定することにつながっているのではないか。悪口ともとれるうわさ話は、サリーも、仕事も、パパイヤさえも手に入らない自分を、標的とする女性たちより優位な立場へと転換させる役割をはたしているのかもしれない。同時にねたみや不満を解消させるための手段となっているともいえる。だとしたら、これほど簡単で都合のよい方法はないだろう。
 そう考えると、村の女性たちのうわさ好きにも納得がいく。彼女たちの日常にこうしたおしゃべりが欠かせないのだということも。

未来へひらくミュージアム
博物館の内側からの挑戦 ─展示を支える─
ハンズオン、博学連携、情報化……。
そのかげで博物館の土台を支える資料の保存や管理。
安全性や環境問題にも配慮した、資料管理システムは、
展示場の虫を防ぎ、事故を予防する地道な努力の上に成り立っている。
 
日本最大級の展示場
 民博の本館展示場は、とても広く、展示資料の数も多い。したがって、来館された方のなかには、その広さや展示資料の多さに、まず感動し、そして観覧中に疲れ果てたという体験をされた方も多いのではないだろうか。展示場の大きさは約一万平方メートルあり、約一万二〇〇〇点の資料が展示されている。国内の博物館のなかでは最大級の規模である。
 このように広いスペースのなかに多くの資料を展示している民博の展示スタイルは、基本的にオープン展示とよばれるものである。この展示手法は、資料と来館者との間に、ガラスケースなどの障害物がなく、資料を近くで見ることができ、迫力のある展示が演出できる展示手法である。ただし、資料を露出して展示するということは、資料が虫に食われてしまう虫害の事故や、人と資料の接触によって資料が破損する危険性がたえずつきまとう。このような展示手法の短所をいかに克服するかは、その博物館の実力を示すひとつの指標となる。民博の場合は、私のような保存科学を専門とする教員や、実際に資料を管理する博物館スタッフがそのための努力を重ねている。

虫を管理する
 展示場の管理方法は、それぞれの博物館の事情によって千差万別であるが、民博における特徴的な管理方法のひとつに虫害対策がある。オープン展示では、資料が露出しているために資料に虫がつきやすく、かつ食害されやすい。かといって、殺虫剤や防虫剤を撒いてしまうことは、環境問題の観点や、来館者をはじめ、館内職員など人体への影響も考慮すると最小限にとどめておきたい。したがって、展示場の資料を守るためには、虫の侵入を予防する対策が必要となる。このような虫害対策として、IPMというシステムが欧米の博物館で注目され、日本の博物館においても近年、盛んに提唱されるようになってきた。
 IPMとは、Integrated Pest Management (総合的害虫管理)の略で、虫を建物に侵入させない、虫の発生する環境を作らないという考え方をとっている。具体的には、日常的に清掃をこまめにおこなうとか、資料への目配りを怠らないということが提唱されている。
 意外に簡単と思われる方も多いだろう。だが、前述した民博の展示場の広さや資料の多さを思いだしてほしい。このような大規模の博物館で、IPMの作業を実践すると、人的負担がとても大きくなってしまう。しかし、オープン展示という展示手法をとる限り、また、殺虫剤や防虫剤の使用を極力控えて虫害を予防するためには、IPMの考え方にのっとって、何らかの対策を講じなければならない。その対策として、民博がおこなっている虫害対策をいくつか紹介しよう。
 民博の虫害対策のひとつに、開館前に毎日おこなっている展示場の巡回点検がある。従来、開館に支障がないかを確認するために、動線上にごみや落下物などがないかを点検していたのだが、二〇〇四年度からは、さらに虫害の発生する危険性がある箇所を重点的に点検することにした。そのため作成されたのが、前ページのような展示場点検マップである。このマップは、虫の生息調査のデータを基に作成したもので、各地域展示場の図面に、虫害の発生しやすいポイントをマークしている。現在、毎朝の点検時には、この展示場点検マップに沿ってマークされたポイントをおもにチェックしている。同時に、マーク以外の場所でも虫害が発見された場合には、図面上に発見日や場所を記入し、次の点検からの点検項目に追加される仕組みとなっている。また、休館日には、特に虫害が発生しやすい資料について、資料の裏面のチェックをするなど、日常よりも念入りな点検をおこなうことにしている。このような活動は、毎朝、しかも限られた時間でおこなうので、スタッフの負担も大きいが、虫害の早期発見につながる活動となっている。
 もうひとつの虫害対策として、虫の生息調査がある。虫トラップという補虫キット(民博では、粘着トラップとフェロモントラップの二種類を使用)を決まったポイントに設置し、一五日後に回収し、トラップに捕獲された虫を同定し、数を記録するのである。この調査は、一九九二年以来、定期的に実施してきた。ここで得られたデータは、市販の分析プログラムを応用して、展示場や収蔵庫といった場所、季節、年度、虫の種類など、多方面からの分析が可能となっており、展示場をはじめ、民博全体の虫害対策に役立てられている。

事故を管理する
 展示場ではさまざまな事故が起こる。比較的大きなものとしては、来館者が展示ケースにぶつかってケースを割ったという事例や、資料にぶつかって転倒したという事例などが報告されている。このような事故は、不特定多数の人が来館する博物館では、当然起こり得るものとして、安全管理に取り組まなければならない。
 ちなみに、二〇〇四年度に展示場で発生した事故の総件数は一一八件で、うち資料関係が一一五件、演示具関係が三件あったが、幸いなことに、来館者の方に怪我はなかった。なお、これらの事故のうち、七七件が人による資料への接触が原因と考えられ、さらに分析を進めると動線に近い展示資料の事故が多いということが判明した。これは、オープン展示の弱点を如実に反映した数字といえるだろう。
 このような事故は、もちろん減らしていかなければならない。そのためには、展示場の点検内容や点検結果の分析を、さらに充実させていかなければならない。そこで、事故が発見された際には、事故報告書を作成している。
 事故報告書は、展示場の資料に限らず、演示具の事故や収蔵庫内で生じた資料の事故のすべてについて、作成することになっている。報告書には、事故現場や資料名、発見日、報告日、対応日、報告者のほか、事故の状況、原因、対処内容を記すとともに、現場や対応前後の写真を貼り付ける。
 なお、事故は発見され次第、現場から必ず保存担当の教員に報告し、現場と保存担当の教員、その他関連する教員や部門とともに対応策を協議し、対策を実施している。つまり、ひとつの事故が、部門を越え、横のつながりで解決されることから、きめの細かい対応が実施できるようになったのだ。このことは、将来において、民博の活動の大きな財産となるものだろう。

かけがえのない財産を未来へ
 民博における資料管理の活動は、今回紹介した展示場における虫害対策や事故管理に加え、収蔵庫に保管されている資料の保存対策など、多岐にわたっている。
 博物館の活性化が求められ、いろいろな提案がなされる最近の情勢は、博物館が危機的な状況にあることを認識させると同時に、博物館活動再生のチャンスでもある。提案の多くは、展示方法の充実、地域社会との連携、博物館のもっている情報のデータベース化などである。当然、これらの提案は博物館を活性化するためには大切なことだろう。しかしながら、博物館は資料を保存、管理するという重要な使命を担っていることも忘れてはならない。
 博物館にとってかけがえのない財産である資料を未来に引き継ぐためには、まずは資料の適切な管理体制を構築する必要がある。資料の活用と管理は、博物館にとって車の両輪の役割を果たすものであり、お互いが補完しあう関係でなければならない。ここで紹介したような、資料の管理体制を構築する民博の活動も、新しい博物館像への取り組みに欠くことができないと考えている。

表紙モノ語り
マハラジャ・インスピレーション
特別展「インド サリーの世界」出展作品 デザイン/リトゥ・セクサリア 幅120cm 長さ536cm
 デザイナーのリトゥ・セクサリア(Ritu Seksaria)は、ラージャスターン州のいわゆるマハラジャの家系に生まれ、幼少のころから屋敷にあった豪華な衣装に囲まれて育った。三〇年以上も前から婚礼衣装のデザインを手がけていた母親から手ほどきを受けた。その後ロンドンのファッション学校(London School of Fashion)で学び、本格的にデザイナーの道に入った。
 現在はムンバイを拠点にして活動を続け、ミッタル、ビルラー、キルロースカルなどのインドの実業家の家族や、ラージャスターン州ジャイプールのマハラジャ家の王女、若手女優のエシャ・デオル(かつてのスター女優ヘーマー・マーリニーの娘)などの顧客をもつ。その経歴を生かして、マハラジャやラージャスターンの衣装の伝統を現代によみがえらせた。女性用の豪華な婚礼衣装やサリー、さらにはレーンガー(スカート)とチョーリー(ブラウス)の組み合わせ、男性用のクルターやシェルワーニー、アチカン(上着)などで、大胆なモードをつぎつぎと世に送りだしている。
表紙のサリーは、薄い緑のシルク地に、金銀糸やガラスなどの刺繍がほどこされている。とくにパッルー(サリーの端の部分)は、透け感がうまく生かされており、美しさをきわだたせている。またチョーリーもサリーにあわせてデザインされており、薄手のシルク・クレープ(ちりめん)地にやはり金銀糸やガラス、スパンコールなどで華やかに装飾されている。

みんぱくインフォメーション
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万国津々浦々
元日本兵騒動とミンダナオ島「ゲリラ」
 ミンダナオ島南部ジェネラルサントス市。冷凍マグロやツナ缶の輸出を通じて日本の食卓と深いつながりをもつ都市であるが、あまりその名は知られていない。ところが今年五月、にわかにこの都市が日本全国のニュースの的となった。同市付近の山中に「元日本兵生存」との情報がもたされたからである。
 五月二六日、在マニラ日本大使館に、元日本兵二人との面会を仲介する、とある男性から連絡があった。翌日、ジェネラルサントス市のホテルに二人を連れてくるという。大使館は職員を派遣した。しかし、二日たっても、彼らは約束の場所に現れない。すると仲介者は「極秘だったはずなのに、マスコミが騒いでいる」「ゲリラが通行料二五万ドルを要求している」などといって、面会の延期を申しでた。現地周辺は「反政府ゲリラ」の勢力がおよぶ極めて危険な地域であり、捜索は不可能とされた。このような状況から外務省は「具体的な面会日程が決まらない」として、三〇日、職員の撤収を決定した。
 「元日本兵がミンダナオ島の密林地帯に生存」などと報じられても、現代の日本人には縁遠い場所のように思われる。しかしミンダナオ島には、太平洋戦争での日本軍の侵攻以前から、マニラ麻の栽培者、漁業関係者など、多くの日本人が生活してきた。元日本兵が現地の女性と結婚した話は、ミンダナオ島では珍しくない。当然、元日本兵の生存と存在の可能性があっても不思議ではない。ジェネラルサントス市を中心としたサランガニ湾沿岸部だけでも、日本人の血を引くコミュニティとして知られているものが、二つはある。調査中に「ちょっと待った!」といきなり日本語で追いかけられたこともあった。声の主は、亡くなった祖父が広島県出身だといった。元日本兵が生存しているというミンダナオ島の密林地帯でさえ、戦後の一九六〇年代後半をピークに日本への木材輸出のためにずいぶん伐採されたのであった。
 一連の報道のなかで、さまざまな「ゲリラ」が区別されず、また「ゲリラ」と元日本兵との関係性も不明なまま、その脅威や危うさが強調されていたことも気になった。
 たとえば、二人が生存している場所は「イスラム過激派ゲリラの活動拠点」にあると報道された。「同地域を勢力範囲におくモロ・イスラム解放戦線(MILF)は、アルカイダやジャマーア・イスラミヤと関係をもつ」「イスラム過激派アブサヤフや、政府と和平に合意したモロ民族解放戦線の残兵も存在する」「共産党の軍事組織・新人民軍が活発化する」など、「ゲリラが暗躍する最も危険な地域である」と解説された。
 元日本兵がこうした「ゲリラ」に保護されている、あるいは「ゲリラ」と共生して生き延びてきた、とも伝えられた。「終戦直後に山岳ゲリラに収容され、長年にわたって部隊で戦術などを教えてきた」との情報もあった。しかし、先にあげた四組織のうち、もっとも早く創設された新人民軍でさえ、戦後四半世紀が過ぎようとしていた一九六九年に結成されている。それに、MILFは、この騒動の最中、政府との和平にむけた大集会を開いていた。その集会では元日本兵のことなど、話題にならなかったという。このような状況にもかかわらず、ことさら「イスラム系ゲリラ」の脅威が伝えられた背景には、反射的にイスラム系集団を脅威とみなす「九・一一事件」以降の情況が作用してはいなかっただろうか。
 元日本兵と接点のあるゲリラといえば「抗日ゲリラ」であり、このゲリラにこそ元日本兵はいい知れぬ恐怖を味わったことだろう。
 手元に、陸軍第三〇師団(別名・豹兵団)の一連隊の軌跡をまとめた『死の転進・豹兵団輜重兵第三〇聯隊の記録』がある。生存しているとされた二人も、同じ「豹兵団」に属していた。同隊は一九四四年六月から八月にかけてミンダナオ島に上陸するが、すでに制空・制海権ともに米軍に握られていた。地上ではフィリピン人の抗日ゲリラの奇襲をうけて、ついには敗走した。むろん、フィリピン側からすれば抗日ゲリラ運動は侵略者に対する防衛行為であり、フィリピン史のなかでは、その功績が讃えられている。
 抗日ゲリラと今日ミンダナオ島で活動する武装集団とは、組織的な連続性はない。しかし、一連の報道は、抗日ゲリラを含め、さまざまな武装集団を明確に区別しないまま「ゲリラ」とし、ミンダナオ島の危険性を強調する側面として、伝えてはいなかっただろうか。抗日ゲリラは、帝国日本との関係で結成された。一方、戦後の「ゲリラ」は、木材、バナナ、パイナップル、マグロなどがミンダナオ島から日本などに輸出され、島の貧困問題が深刻化する過程で誕生している。木材伐採による環境破壊の被害を受けた山地少数民族、バナナやパイナップル農園が切り拓かれて先祖伝来の土地を失った先住民、商業漁業の発展により魚がとれなくなった零細漁民、漁港建設のために立ち退きを余儀なくされた住民など、ミンダナオ島の開発過程で取り残された人びとは多い。フィリピン政府からは「反政府勢力」として不正義の側におかれる新人民軍やMILFは、ミンダナオ島の経済開発のなかで抑圧されたこれらの人びとや少数派を擁護することを正義としている。こうしてみると「ゲリラ」という現象は、決して日本とは無関係な問題ではなさそうだ。

手習い塾
楔形文字で日本語を書く2
森 若葉
 今回は前号で扱わなかった長音、拗音、促音を含む音節と数字を楔形(くさびがた)文字で書いてみよう。
 まず長音については、「おおさか」「こおべ」のように、のばす母音を繰り返し書けばよい。拗音については、しゃ、しゅ、しょの行を除いて、楔形文字で対応する文字がないため、二文字であらわす。表1に拗音の文字の一覧をあげる。また、促音については、撥音の場合のように、母音+子音の音節文字であらわすことができるが、文字数が増え、煩雑になるため、ここでは表1の最後にあげた文字で代用することにしよう。
 次に楔形文字で数字をあらわしてみよう。古代メソポタミアでは数学が高度に発達したことが知られている。楔形文字の数の体系は六十進法に十進法を組み合わせたものである。位は一、一〇、六〇、六〇〇、三六〇〇、三六〇〇〇とあがっていく。
 表2に一から六〇まで数字をあげる。基本的に次の位にあがるまではその字形を書き並べればよい。表2の数字で五九九までの数をあらわすことができる。
 表では、一の位の文字と六〇の位の文字が同じ字形になっている。これは位や文脈などから判断されるが、時代によっては異なる字形を用いて区別する場合もある。
 これで楔形文字で日本語と数字を書けるようになったが、いかがであろうか。
 最初に楔形文字を用いたシュメール語においては、音節文字と表意文字がほぼ半々の割合で使用され、基本的に文法要素を音節文字で、名詞や動詞を表意文字であらわした。これは日本語と非常によく似た書記法であるといえる。ただし、日本語のように音節文字をかな、表意文字を漢字というように、文字によって表記が区別されるわけではない。たとえて言うなら、現代の日本語のかな部分を万葉がなで置きかえて、すべて漢字で表記したようなものである。
 前回、今回と代表的な音価の音節文字で五〇音表を作成したが、ひとつの文字は本来、複数の音価と意味をもち、音節文字としても表意文字としてもつかわれる。たとえば「か」の文字として用いた【ka】はシュメール語では、音節文字ka以外に、表意文字としてka「口」、zu2「歯」、gu3「叫び声」、dug4「言う」などの音価と意味をもつ。
 また、楔形文字はひとつの音価について多数の文字がある。たとえば、uという音価をもつ文字は一〇以上使われている。このため、アルファベットで翻字する際、右下に番号を振って同音異字を区別する。
 複雑な文字体系であるが、表意文字である漢字と音節文字であるかなを併用する日本人にとっては比較的理解しやすいシステムといえるだろう。

*「紀元前3000年紀末、シュメールのウル第三王朝期の手紙命令文を記した粘土板」の解説
「表1」「表2」「例文」は画像データの本紙P16、P17でご覧下さい。

地球を集める
絨毯を見極める
杉村 棟
シルクロードの華
 気候が温暖なわが国は中東の絨毯(じゅうたん)と無縁に思われがちだが、じつは海上貿易によって早くから中東の絨毯がはるばる運ばれていた。京都の高台寺には豊臣秀吉が着用したとされる陣羽織が所蔵されている。そして驚くことに陣羽織の素材になっているのが、一六世紀ペルシアの高価な絹の綴(つづ)れ織(おり)なのである。さらに、京都の夏の風物詩、祇園祭の山鉾を飾っている懸装品のなかに華やかなペルシア絨毯やトルコ絨毯が使われていることは意外に知られていない。筆者の絨毯への関心はここから始まったといってもいいだろう。
 本来、絨毯は西アジアや中央アジアの生活に欠かせない実用品で、上は王侯貴族から一般庶民に至るまで広く使われてきた。なかには芸術的薫り高い工芸品のレベルにまで達したものもあり、そこに織り出されているさまざまな文様は多くを語っている。つまり、多種多様な意匠にはイスラームの世界観や美意識、さらには多くの民族独自の伝統文化まで映し出されており、絨毯の世界がいかに奥深いものであるかを如実に物語っている。しかも華やかで万華鏡を思わせる千変万化の文様は、博物館資料として展示効果がひじょうに高い。ここから民博の絨毯収集はスタートして、これまでにおよそ三〇〇枚の絨毯とその関連資料が収集された。それは質、量ともに日本一といっても過言ではない。

変わりゆく遊牧社会
 トルコのエーゲ海沿岸のチャナッカレ地方に位置するアイヴァジク村やユントダー村は、かつて遊牧民が定着化した地域で、もともと絨毯製作が盛んなところである。昔から伝えられてきたデザインと天然染料を使う手織り絨毯を復活させようというプロジェクトは、トルコ政府(イスタンブルの国立マルマラ大学芸術学部)とドイツ政府の技術協力・開発事業団の援助で一九八一年に始まった。それがいまでは村の女性たちが協同組合を組織して、染料植物の栽培から製織、製品の品質管理、輸出事務まで一貫しておこなうようになった。これほどの女性の社会的進出は、他のイスラーム諸国では考えられないことだ。組合員が織った製品には、実際に織った女性の名前、ノット(結び目)数、寸法、制作年代などを明記した保証書が付けられているが、これも他に類を見ない。ちなみに筆者はこの村に泊まり込んで、絨毯製作をつぶさに観察しながら、絨毯を多数収集することができた。
 イランには、いまだに一定区間を移動して生活をしている遊牧民がいる。遊牧民というと何かロマンを感じるかも知れないが、最近ではイラン南部のカシュガーイ族の社会にも近代化の波が押し寄せ、移動にはラクダならぬトラックが使われている。彼らの生活は想像以上に豊かであるが、それは女性たちの織る絨毯が、本来の生業である牧畜からの収入に劣らず重要な収入源になっているからである。市場原理は遊牧民のテントのなかでも働いていて、国内外から訪れる絨毯業者は売れ筋の近代的な感覚のデザインの下絵をもち込んで織らせているが、この状況はかなり前から続いているようだ。イラン南部の大都市シーラーズにある遊牧民の絨毯を専門に扱う業者の倉庫に山積みになっているのはこの種の絨毯である。これに対して片隅に置かれているのは、誰からも指導を受けずに遊牧民が自発的に織った染めも図柄も昔ながらの絨毯で、見るからに粗悪品といった感をまぬかれない。

中国産イランブランド
 最近ではマーケットのグローバル化とともにさまざまな問題が噴出している。先に述べたように村の絨毯製作の成功の裡には政府のみならず村人自身の努力があったが、遊牧社会には伝統に固執する気配がもはや見られない。
 都市で織られる絨毯には、ある種のブランドがある。つまり、特定の町で良質の素材を使い、優れたデザイン感覚をもつデザイナーや腕のある職人を抱えた伝統ある工房の製品がブランド品で、評価が高く値段も高い。イランやトルコ国内でもブランドの絨毯が伝統のない所で生産されている。これは産地詐称である。誰もが伝統にこだわらなくなっているのだろうか。イランのブランド品が、伝統のない他国で、単に労賃が安いという理由だけで製作されている。その極端な例が中国産のイラン絹絨毯で、本物と判別が難しいほど精巧な出来栄えである。機械織りの工場製品ならともかく、「伝統文化」を背景として作られる手織り絨毯の場合、問題はより複雑だ。今後の収集にはこれまで以上の調査研究が欠かせず、同時に十分な経験も要求されるだろう。

生きもの博物誌(オヒョウ/カナダ)
手強い獲物は稀なごちそう
立川 陽仁
大物との格闘
 カナダとアラスカの国境を流れるナス川河口、アンソニー湾上でのこと。漁船では、オヒョウを捕るために仕掛けていた延縄(はえなわ)を、ガラガラと音をたててウィンチで巻き戻していた。左舷には三人の漁師がはりついて、それぞれの仕事を黙々とこなしている。ベテランのノーマンはじっと水中を見つめ、ジョンは餌のついたフックを黙々と取りはずしている。またカイルは、万が一大物があがったときに備えて銛(もり)を構えている。
 一〇〇個ほど用意された餌の半分が回収されたころだろうか。水面を凝視していたノーマンが突然、ウィンチを操作していた男に大声で「止めろ!」と叫んだ。ほかのクルーたちも水面をのぞきこむ。するとそこには、オヒョウとおぼしき大きな魚の白い腹が見えているではないか! 同時に「ヒュー」という歓喜の声が甲板に響きわたった。だがそれは一瞬のことで、オヒョウがかかったとわかるとかえって三人の表情はひきしまった。貴重な獲物をここで逃すわけにはいかない。またオヒョウが暴れて彼らのほうが海に投げだされたり、けがをしたりしてもいけない。なにしろ体長一・八メートルにもおよぶという大魚なのだ。ノーマンはジョンに「代われ」といい、すぐさま網でオヒョウを押さえにかかった。網で捕らえたとわかると、すぐさまジョンはノーマンの体を支えにきた。オヒョウはバシャバシャと激しく抵抗する。男たちと魚との格闘が二〇秒ほど続いた後、ドスンという大きな音ともにオヒョウが甲板に落とされた。彼らは、オヒョウを捕まえることに成功したのだ。

名人とよばれる栄誉
 彼らはカナダの太平洋沿岸に住むクワクワカワクゥという先住民だ。彼らにとって、オヒョウはサケほどではないにせよ、なじみ深い魚である。
 その晩、われわれは肉厚の淡泊な白身を堪能した。とれたてを賞味するのは漁師の特権だが、陸で待つ身内も当然分け前を頂戴できる。ノーマンらは、陸にあがるや親戚、とくに老人たちの家を訪問し、肉を配ってまわるのだ。このときばかりは夜中の訪問でさえ迷惑がられる心配はない。なぜなら、どんなに眠くてもオヒョウの肉を喜ばない人はいないからだ。受けとった人は思いがけない豪華食材を喜び、持参した漁師に称賛の言葉をかけてねぎらう。「あのノーマンがオヒョウをとるようになったとは。一人前になったものだ」と。
 現在、彼らはサケ漁を本職とし、その稼ぎでほとんどの食材を買っている。だからいまの彼らにとって、オヒョウは金を稼ぐ手段ではないし、日常的な食材でもない。けれどもクワクワカワクゥは、今も昔もオヒョウにこだわり続けている。オヒョウ漁とは、彼らが偉大なる自然界と真っ向から対峙する瞬間なのだ。だからこそ、彼らは漁民としての誇りをかけて、あえて戦いを挑む。漁法が近代化された現在でも、オヒョウの捕獲はむずかしい。だが成功した暁には、老人たちの喜ぶ顔と感謝の言葉、さらには「オヒョウとりの名人」とよばれる栄誉が待っているのだ。

オヒョウ(学名:Hippoglossus stenolepis
カレイ科。太平洋と大西洋北部の水域に生息している。北米の太平洋沿岸では、北緯40度以北にしか生息しない。日本でも東北地方以北で見られるが、数は少ない。両眼は体の右側についており、ふだんはタラや甲殻類を捕らえて食べる。成魚(生後約7年)になると、体長が1.8メートル、200キロを超えるものもいる。近年、大西洋では減少が著しいため、商業捕獲が厳しく制限されている。

見ごろ・食べごろ人類学
盗賊団がやってくる!?
渡部 森哉
タンタリカ遺跡
 二〇〇〇年八月、ペルー北部高地のカハマルカ県に位置するタンタリカ遺跡で第二次発掘調査を始めた。遺跡は辺鄙(へんぴ)なところにあり、車道から細い尾根沿いの小道を約一時間歩く。付近にまとまった集落はなく、数百メートルごとに家がぽつんぽつんと散在するだけである。ぼくら調査者四人は、ロバを一〇頭ほど借りて発掘機材、食料をはじめとする生活必需品を運び込み、遺跡のある山の麓にテントを張ってキャンプをした。最寄りの水場までは歩いて一五分ほど下らなければならず、水汲みは雇った番人に頼んだ。食事は付近に住んでいる女性に準備してもらった。
 テレビも新聞もないタンタリカ周辺では、ラジオが最大の情報源である。遺跡のある山の頂上部は標高三二〇〇メートルもあるため電波の入りは非常によい。だから遠くの町に住んでいる家族や親類が連絡をよこす際には、ラジオを使う。たとえば「A村の誰々さん、お母さんが倒れたからすぐB町に行くように」というニュースが流れる。本人は聞いていなくても、きっと誰かから本人に伝わる。みな知り合い同士だからである。

盗賊パタ・デ・ペーロ
 発掘調査が始まったら、あちこちから働きたいという人が集まってきた。みんなジャガイモや豆類作りで生計を立てている農民なので、土を掘るセンスはかなりよい。多くは片道一時間以上歩いてくる。一番遠方に住むラモンは、朝五時前に家を出るというから、徒歩で往復五時間の通勤である。月曜から金曜日は朝八時から午後四時まで、土曜は昼一二時まで働いて、週給一〇五ソーレス(約四〇〇〇円弱)。彼らにとっては魅力的な現金収入である。約一カ月間の短い期間であるが、人夫と番人、合わせて合計二五名を雇うぼくたち調査隊は、田舎では大企業といっていい。
 調査を始めてから数日後、ひょうきん者のフローレスミーロが、血相を変えてやってきた。そしていつもとは違った重い口調でぼくに言った。
 「ドクトール(博士)、盗賊団があなたたちを狙っているそうだ」と。
 折しも同じ年、タンタリカ遺跡のそばにあるチュキマンゴ村で、会計係が五、六人組の盗賊団に襲われ、現金を出すのを拒んだために射殺されるという事件が起こったばかりであった。盗まれたお金は約二〇〇〇米ドルだというが、ぼくらはそれ以上の現金をもっている。ペルーの山間部ではウシやニワトリなどの家畜をはじめ、何でもかんでも盗まれる。そして家畜の買い付け業者、村の会計係など、多額の現金をもっている人間はよく強盗に襲われる。人夫に支払う給料目当てにぼくらを盗賊団が狙うことはいかにもありそうな話であった。
 フローレスミーロは続けた。なんでも盗賊団はタンタリカから歩いて三時間下りたところのサリートレ町の連中で、その首領はパタ・デ・ペーロという(スペイン語で「イヌの足」を意味するが、同名の薬草もある)。どんなやつか聞いてみると、 「ドクトール、あなたぐらい背が高くて、横幅は二倍ある(ちなみにぼくは身長一八三センチ、体重七三キロである)。しかもめっぽう力が強いそうだ」と興奮しながら、身振り手振りを交え、見てきたかのように語った。
 そんな巨漢が子分を引き連れ、武器を携えてやってきたらひとたまりもない。こちらは丸腰である。ぼくら調査者四人はみんなびびってしまった。本当かどうか確かめるため、他の人夫やその家族にも聞いてみた。みな口をそろえて同じ噂を聞いたという。知らないのはぼくら四人だけらしい。話を聞くたび不安が募っていった。

山の噂は霧のごとし
 人間関係が狭くて濃密なアンデスの山の世界に、秘密というものは基本的に存在しない。隠し事をすればあらぬ噂を立てられるし、噂はあっという間に広まる。それにペルー人は言い訳の天才で、言ったことに対して責任をとることは、めずらしい。会話が最大の楽しみで、聞いた話はどんどん広まる。
 火のないところに噂は立たぬ、というが火を突き止めるのはとても難しい。噂には出所があるはずなのだが、誰に聞いても「みんなそう言っている」という答が返ってくるだけである。いったい本当にパタ・デ・ペーロが率いる強盗団はやってくるのか、それともがせネタか、誰かの嫌がらせか。気を回すばかりで答えは出ない。
 当時は最寄りのカタン村(徒歩で一時間)には電話はなく、緊急の場合は三時間歩いて町に下りるしかなかった。警察に頼りたくても頼れないし、恐れをなして逃げ出すのもいやである。結局カタン村の村長に相談して、二四時間番人をつけ、もし本当に盗賊団がやってきたら抵抗せずすべてを捧げることにした。そして毎週土曜日の給料の支払いは、カタン村でおこなうと伝え、現場には現金をもっていないように見せかけた。おまけにわざわざこちらの居所を知らせるため、毎晩ロケット花火を上げた。それが功を奏したのか、パタ・デ・ペーロが来る様子はいっこうにないまま、五週間にわたる発掘が終わった。
 アンデスの山の霧のごとく、いつとはなしに噂は立ちこめ、ぼくらをくらまし、そして消えてゆく。ときには噂が作り出す世界に惑わされながら、ぼくらは遺跡に眠る過去の歴史を解明しようとするのである。

特別展開催中「インド サリーの世界


次号予告・編集後記


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