国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2005年12月号

2005年12月号
第29巻第12号通巻第339号
2005年12月1日発行
バックナンバー
 

エッセイ 世界へ≫≫世界から
宇宙を湛える日本画
千住 博
 日本画で使用する絵具は「岩絵具」といい、天然の原石を細かく均一の粒子に加工したものですが、実はこの原石が世界中から集められているということは、意外に知られていないようです。たとえば、私がよく使う色「天然群青」の原石は、中国やオーストラリア、北米産の磁鉄鉱ですが、それぞれに輝きや深みが異なるため、空に使用する群青と、森の暗い部分に使用する群青とを、その透明感や明度で使い分けたりしています。岩絵具を動物の膠(にかわ)と混ぜ、水で薄めて画面に塗った技法のことを日本画というのですが、こうして考えてみると、日本画とは岩絵具を通した地球との触れ合いであることがわかってきます。
 かつては天然の原石を砕いて身体に塗ったりすることでパワーを得たり、災いから逃れたりしていました。その化粧という行為を、人体にではなく紙や板に施しているのが日本画です。化粧品をあらわす「コスメティックス」の語源が、宇宙を意味するコスモスであることを併せて考えると、日本画は神秘的なアニミズムにも直結していることになります。「画」の前に「日本」という国名がつく、地域的に限定された名前とは裏腹に、その成り立ちには底知れない拡がりを秘めているのです。
 正倉院御物の絵柄の中には、天平人でなく、西アジアの遊牧民の姿を見ることができます。日本文化の内実とは、西から東への文化の伝播のプロセスであったことをここから教えられます。もともと日本文化は世界を立脚点としていたことになりますが、日本画の画材にも同じことが言えるわけで、日本文化の隅々にまで世界が行き渡っているという、その壮大さには常に驚かされます。これは同時に、日本文化を構成する要素が日本に留まらず、世界の中にも存在することを意味します。日本には世界があり、世界には日本があるのです。
 私のニューヨークのアトリエには世界中からアーティストが訪ねてきますが、皆、私の岩絵具に一様に目を輝かせ、それぞれの国に持ち帰って、自分の作品や手法に生かしたりしているようです。
 私が日々、岩絵具を通して地球と触れ合いながら感じるインスピレーションやイマジネーションを、岩絵具技法が確立した一一世紀の画家たちも同じように感じていたに違いありません。国境や人種を超え、時を超え、日本画は岩絵具を通して「世界へ世界から」羽ばたいているのです。日本画の中には世界がある、そして宇宙がある、いつもそう感じています。

せんじゅ ひろし/1958年東京生まれ。東京芸術大学大学院博士課程修了。日本画の伝統的な技法のうえに立ち、現代的表現を追求する。第46回ヴェネチア・ビエンナーレ展で絵画部門優秀賞を受賞。ニューヨーク在住。

特集 韓国のクリスマス ──グローバル化するコリアンとキリスト教会
いまや日本とそれほど変わりのない商戦が展開され、
家族や友人、恋人たちが
冬のイベントとして楽しむ、
韓国のクリスマス。
しかしキリスト教は、
日本以上に深く根づいており、
国内外のコリアンにとって教会は
社会活動の中心地であり、
心のよりどころでもある。
韓国の人びとにとっての教会と
クリスマスのあり方の変容を考える。

韓国社会とキリスト教
秀村 研二
 一九八四年のクリスマスは、フィールドワークをしていた韓国の東海岸にある小さな漁村で迎えた。村にはキリスト教会があったが、隣村の信者を合わせても三〇人ほどの小さな教会であり、大半の村人たちにとっては関係のないものだった。当時は田舎の小さな教会には牧師はいないことが多く、牧師の資格を得る前の伝道師が牧会をしていた。その伝道師から、クリスマスに写真を撮って欲しいと頼まれていたので、一二月二五日の夕食を終えてから教会に出かけていった。
 教会堂は子どもたちでいっぱいであった。私がお世話になっている家の小学生の娘の顔も見える。伝道師による簡単なクリスマスの説教があった後は、クリスマスにまつわる歌や踊り、そして劇が子どもたちによって次から次へとなされていく。ときどき大人の信者たちの出し物がはさまる。それはちょうど学芸会のようなものだった。子どもたちは信者の子どももそうでない子どもも数日前から練習をして本番に備えていた。当時の村の生活ではクリスマスは子どもたちにとって楽しみのひとつだった。しかし信者以外の大人たちにとってクリスマスは何の意味もなく、子どもたちもプレゼントを与えられるわけでもなかった。
 その前年のクリスマスはソウルで過ごした。一二月になると街のなかが何となくあわただしくなっていたが、デパートで現在のような華やかなクリスマス商戦をしていたような記憶はない。私は大学の先生のお宅にお世話になっていたが、家族にクリスチャンがいないためか、クリスマスだからといって特にごちそうが出た記憶もないしケーキを食べた想い出もない。しかし小さい子どもがいる家ではクリスマスケーキを買ってプレゼントを贈るのが相当以前から一般化していたようである。韓国では一二月二五日は公休日なのだが、それはキリスト教信者が多く、政治的な力も小さくないからである。また、仏教徒にも配慮されて、陰暦の四月八日も公休日となっている。つまり韓国は、キリストの誕生日と釈迦の誕生日を国の休日とする世界でもめずらしい国なのである。
 宗教統計では仏教徒が約一〇〇〇万人、プロテスタント(韓国では改新教という)が約九〇〇万人、カトリック(天主教という)が約三〇〇万人である。ほかにも新宗教などがあるが信者数はさほど多くはない。仏教が信者数の第一位とはいえプロテスタントとカトリックを合わせると韓国ではキリスト教信者の方が多い。韓国の人口が四七〇〇万人ほどだから人口の四分の一以上がキリスト教信者ということになる。特に都市部においてはクリスチャンの比率が高く、また学歴が高くなると比率も高くなる傾向が見られる。韓国にキリスト教が入ってきたのはカトリシズムが一八世紀末、プロテスタンティズムが一九世紀末であるが、ここまで信者が増えたのは一九六〇年代以降のことである。高度経済成長による産業化、都市化により農村部から都市部に集められた人びとの間に急速に広まっていった。信者数が数万人という巨大教会が存在するのも韓国のキリスト教の特徴であろう。日曜日ともなると礼拝に出かける人びとが聖書を片手に街なかを行き来し、信者を送迎するバスが走り回る光景を目にする。また、都市部に教会が集中しており、十字架を目にするのはたやすい。だからといって韓国社会がキリスト教的なもので充ちているわけではない。
 欧米のようなキリスト教が歴史的に優位を占めてきた社会では、人びとは信者であるかどうかは別として、キリスト教的な価値や儀礼のなかで生きている。しかし、韓国では信者数が多いとはいえ、社会にキリスト教的な価値が一般化しているわけではない。クリスマスは一般化しているが、イースター(復活祭)は信者以外の者にとっては何の意味もないのである。
 一般に、韓国社会というと儒教というイメージが強いかもしれない。実際、儒教は祖先祭祀を軸とした行動規範として社会に受容されている。ただ宗教的な側面はうすい。カトリック教会は祖先崇拝を伝統的な文化として認めているので問題はないが、プロテスタントの大部分の教会は祖先崇拝を偶像崇拝として認めない。そのため家族のなかに、キリスト教信者とそうでない者がいる場合には葛藤を生むことになる。特に嫁である女性が信者である場合には辛い思いをする。キリスト教信者の場合でも、父母の命日などには追悼礼拝を家族でおこなうことが多い。儒教式の位牌を祀る祭祀はおこなわないが、家族で集まって故人を偲び、食事をともにするという点ではあまり変わりはない。祖先祭祀に限らず、人びとは儒教的な価値に裏付けられた伝統的な社会規範のなかで生きており、キリスト教信者たちもその例外ではない。
 人びとが生活に豊かさを感じるようになった一九九〇年代になると、キリスト教をめぐる環境も大きく変わってきた。それまで信者数の増加という「成長」ばかりが強調されてきたプロテスタント教会は信者数の伸びが止まってしまい、一方でカトリック教会は着実に信者数を伸ばしている。その理由として、プロテスタント教会が信者数という量的な成長ばかりに目を向けてきたからだとか、カトリック教会が地道な社会活動をおこない、また祖先祭祀の許容に見られるように伝統文化に対して包容力があるからだといった説明がされる。しかし実際のところはよくわからない。
 プロテスタント教会では、新しい信者の獲得が難しくなっているなか、さまざまな模索が続けられている。信者の三分の二程度が女性であるが、夫は信者でないことが多い。この身近な存在をどうにかして教会に出席させようという試みなどもそのひとつである。キリスト教臭さを感じさせないセミナー形式の活用なども盛んにおこなわれている。
 若い人たちに合わせた礼拝形式の変化も見られる。韓国のプロテスタント教会の多くは保守的な教派であるが、礼拝にゴスペルソングを積極的に取り入れるようになってきた。それもドラムスやベース、ギターなどの伴奏をともなうものである。ある巨大教会では、新任の牧師が伝統的なやり方に戻したところ信者数が急激に減ってしまったという。
 一方では教会の淘汰も進んでいる。韓国にはケッチョク・キョフェ(開拓教会)という、ビルの一室を間借りして活動をおこなう小規模な教会がある。そこを拠点に信者数を増やし、自前の教会堂をもつことによってキリスト教会全体の成長を支えてきた。しかし、そのような教会は数を減らし、信者はますます大きな教会に集中していっている。さらに新しい傾向として、都市近郊の田園のなかに教会を設け、日曜日には家族で訪れて一日を自然のなかで過ごすという新しい形態も生まれてきている。いずれにせよ信者数が多いだけに多様性に富んでいるのが韓国のキリスト教といえよう。

在外コリアンのよりどころ
 知り合いの李さんが通う京都の韓国教会では、クリスマスイブの礼拝の後、芝居や歌を楽しむ会が催され、韓国からの留学生がたくさん集まる。こうした韓国教会は世界の各地にある。
 シドニーのチャイナタウンの近く、木曜日の夜、救世軍のビルにハングルで「歓迎します」のポスターが貼られている。シドニーのコリアンタウンを調査しに行った私は、そこで李さんと待ち合わせをしていた。李さんはシドニーの韓国教会にも知人がおり、このビルでおこなわれる「木曜讃揚集会(聖歌を歌い、説教を聞く集まり)」に参加し、それが終わったら私と夕食を食べようということだった。夕方七時に始まった集会は、九時近くに終わった。
 李さんは、私を牧師さんに紹介し、二階に案内してくれた。そこには教会の主要なメンバーと、初めてこの集まりに来た人たちが座っていた。六年前から毎週一回、こうした集会をもち始めたという牧師さんは、集まった人たち一人ひとりに自己紹介をしてもらっていた。
 韓国の専門大学で電気工学を専攻した若者がいた。昨日シドニーに来たばかりだという。街を歩いて、ここで韓国教会の集まりがあるのを知り、訪ねてきたという。牧師さんが、韓国にいたときの教会との関係を問うと、軍隊生活をしているとき、教会の牧師からチョコパイをもらっただけという。彼はこの地で英語を勉強し、仕事をしたいと思っているという。  私は、アメリカ合衆国でもコリアンアメリカンの生活を調査したが、そこでも教会が大きな役割を果たしていた。韓国人が合衆国に来てぶつかる大きな問題は、英語の習得と仕事探しだ。教会は、そのふたつを提供してくれる場であった。海外に展開する韓国人社会において、キリスト教会はそのコア・センターとしての機能を担っている。
 今年の一月八日の『中央日報』に、「海外宣教師、米国に次ぐ二位」という記事があった。海外宣教の窓口である韓国世界宣教協議会によると、現在、韓国教会の名をもって海外に派遣された宣教師は一六〇カ国におよび、一万三〇〇〇人が活動中とのこと。海外宣教の元年は一九七九年。宣教を始めて一九年目の一九九八年に五〇〇〇人を超え、爆発的な海外宣教は伝統的なキリスト教圏でも例をみない伸張という。その背景には、韓国内の牧師の飽和状態があるとはいえ、「改新教(プロテスタント)の新しい中心」という韓国教会特有の詔命意識がある。改新教が作ったキャッチフレーズの「全世界の福音化」のもと、海外派遣対象国家は汎地球的だ。キリスト教圏のみならず、中国や中央アジア、ロシアなどに存在する朝鮮半島出身者に対する働きかけも無視することはできない。
 現在、韓国の海外同胞は、世界に七〇〇万人。世界の各地にコリアンタウンが生まれている。平和を求めるキリスト教には似つかない表現ではあるが、宣教師はその先兵であり、教会はその基地となっている。

ソウルのイブ
守屋 亜記子
  「あなたにとってクリスマスのもつ意味は何?」という問いかけに、韓国人の友人らは、「家族や友達、恋人と楽しむイベント」とか「子どものための楽しいイベント」と答える。キリスト教信者が人口の約四分の一を占める韓国では、クリスマスは信者にとって宗教上重要な日であるが、一二月二五日は公休日ということもあり、信者であってもそうでなくても、イブの夜からクリスマス当日にかけて多くの人が家族や友達、恋人などと思い思いの時間を過ごす。
 一二月二四日、クリスマスイブ。午後六時をまわると、ソウル市内の地下鉄は退勤ラッシュが始まる。いつものラッシュアワーと異なるのは、網棚の上にクリスマスケーキの箱がずらりと並んでいるという点だ。クリスマスイブに残業なんて頼もうものなら、そんな上司は後々まで嫌われる。ケーキ屋を兼ねたパン屋に予約しておいたクリスマスケーキをもち帰るのは父親の役目だ。夕食は、特別なごちそうを作りはしないが、子どもの大好きなヤンニョムトンタッ(鶏のから揚げを甘辛いソースであえたもの)の出前を頼み、夕食の後は家族みんなでケーキを食べる。毎年、主婦向けの雑誌の一二月号には、クリスマスケーキの作り方が掲載されるが、日本の雑誌のように、「簡単で、おいしい手作りのクリスマスケーキ」などという言葉は躍らない。あくまでもプロ顔まけの本格的なケーキの作り方が紹介される。YWCA主催の「母と子で作る手作りケーキ教室」が開かれるといったこともあるが、一般的にはクリスマスケーキとは外で買うものであり、ケーキに関する限り、「手作り」をありがたがる風潮はない。主婦歴七年の友人は、「手作りケーキなんて、とんでもない! 材料費や手間を考えたら、買ったほうが楽だし得よ」ということで、毎年ホテルのベーカリーで買うのだそうだ。
 居間やベランダには、大きなクリスマスツリーが置かれる。ツリーの高さは、住まいの広さによって変わる。二五坪以下なら一メートルまで、二五坪以上なら、それより大きなものになる。前述の友人の場合、三五坪のアパート(日本でいうマンション)なので、一メートル七〇センチのツリーを用意し、地下街で買ったきらびやかなオーナメントを飾りつける。別の友人は、同じ坪数でも一メートル九〇センチとさらに高い。アパートが林立する韓国では、隣の棟のベランダが比較的よく見える。だから、ツリーの飾りづけも他人の眼にどう映るかまで考えなければならないから大変だ。
 家族間でのクリスマスプレゼントやクリスマスカードの交換もおこなわれる。子どもがサンタハラボヂ(サンタのおじいさん)にお願いした外国メーカーの一〇〇足限定モデルのスニーカーを、遠くの店まで車を飛ばして買いに行くなど、子どもの夢をかなえるのに両親もひと苦労である。クリスマスカードの交換は、もっぱら若い世代間でおこなわれている。年配の方々へは、年始に年賀状をだすのが一般的だからだ。
 こうした家族水入らずのクリスマスを過ごすのは、子どもが小学生のうちだけで、中学生ともなれば、友達同士連れ立って、繁華街のコーヒーショップにクリスマスケーキをもち込んでおしゃべりし、最後はノレバン(カラオケボックス)へ行って盛り上がる。恋人同士なら、まずは映画を観てから食事をするか、それともクリスマスの特別イベント満載の遊園地で過ごすかだ。だから、韓国ではイブの夜は、映画館とノレバンは超満員である。また、最近では、スキー場で過ごす人も増えつつある。一方、子どもの巣立った年配の人びとのクリスマスは、いたって静かなものである。孫が来る予定があればケーキぐらいは用意するが、そうでなければいつもと変わらぬ一日にすぎない。
 ソウルでの一般的なクリスマスの過ごし方とは、以上のようなものである。日本に比べ、キリスト教信者が多い韓国ではあるが、信者であるか否かの違いは、夕食後、教会に行って礼拝に参加するかしないかという程度にすぎない。

世界のクリスマス
ペルー
 ペルーの首都であるリマのクリスマスイブの深夜は、街が大渋滞となる。早く家族のもとに帰って祝いたい人たちが多いのであろうが、それに輪をかけて渋滞を引き起こす理由がある。代父(パドリーノ)から代子(アイハード)への贈り物配りである。
 ラテン・アメリカではカトリック信仰が盛んで、それに関連したパドリナスゴという擬制的親子関係がよくみられる。カトリックでは、実際の誕生以上に、洗礼を信仰の誕生として重視するため、実の親ではない精神的な親、いわゆる代父が洗礼式に立ち会い、以後、代子の成長にとって重要な役割を果たすのである。パドリーノには、親しい友人や親族が選ばれる。
 以前、この代子を十数人抱える人望ある親友に付き合って、イブの夜を過ごしたことがある。プレゼントの量も相当であったが、それ以上に代子の家々を回って、それらを配り歩くのに時間がかかった。各家で代父は歓待され、酒や食事がふるまわれ、すぐには立ち去ることができないからだ。結果として、プレゼントを配り終わるころには、午前零時前ということになる。家に戻り、七面鳥、チョコレート、リンゴのサラダを口にするころには、私もすっかりできあがっていた。
フィンランド
 キリスト教ルター派が大半をしめる北欧では、クリスマスが一年のうちでもっとも大事な祝日である。日本では、サンタクロースやトナカイなど、派手なイメージを抱かれているかもしれない。たしかに商店は最大のかきいれどきだが、イブの日、人びとはいたって敬虔に、そして家族だけで過ごすのが一般的である。バスや市電は早めに切りあげ、町からは人が消える。
 フィンランドでは、何日も前から大掃除や菓子づくりで盛りあがった雰囲気はイブの日、頂点を迎える。サウナでさっぱりしたあと、ロウソクのともる墓地や教会をおとずれれば、心はもう立派なにわか信者である。その日飾ったクリスマスツリーの根元には全員のプレゼントが置かれ、交換を待つばかり。夕食のメインディッシュは大きな豚肉のかたまりである。塩漬け、燻製(くんせい)、オーブンで半日かけて焼いたものなどさまざまだが、主人がおごそかにナイフをいれ家族の皿に分配する。つけあわせにニンジン、ジャガイモ、カブラなどの伝統的なグラタン類、そして自家製の甘いビールも欠かせない。突如サンタに扮した大人があらわれプレゼントを分ける。一瞬の喧騒のあと、残りのクリスマス当日と次の聖ステファンの日は親戚や友人訪問で静かに過ぎてゆく。包装紙とクリスマスツリーの山を残して。
ルーマニア
 ルーマニアのクリスマスを彩る伝統的な行事は、ビフライムとコリンダである。ビフライムというのはキリスト教の聖史劇の流れをくむ民衆劇で、東方の三博士をモチーフにしながらもさまざまな仮面装束を身にまとった村人が路上で戦いを演じる。他方、コリンダは若者が歌をうたいながら門付(かどづ)けする行事である。幼い子どもたちにも、門付けをしてお菓子などをもらう習慣がある。
 伝統的な行事とならんで、この時期の大きな楽しみは豚の屠殺(とさつ)である。春、市場で購入した子豚を1年かけて育て上げ、12月に入ると家先の庭で解体する。まずワラで起こした火で毛を焼き、それから皮をはいでいく。尻尾や耳は子どもたちのおやつとなる。傍らで猫や犬がおとなしくおこぼれを待つのがかわいい。肉はクリスマスのご馳走となり、内臓はソーセージなどの保存食になる。都会の集団住宅の谷間の広場でも解体する人がいるのには驚いた。
 こうした農村の伝統行事に対して、現在のルーマニアは外国からの影響によるものか、もみの木のクリスマスツリーを立て、それに電球やクッキーなどの飾り物をして祝うという、きわめて月並みな習慣が一般的になってきている。この時期、もみの木を違法に伐採する者があとを絶たないのもそのあらわれであろう。ルーマニアのクリスマスもまた、商業主義の波に乗って華やかに繰り広げられる冬のイベントなのである。
エチオピア
佐藤 廉也
 もしも株価のように、エチオピアに生存するヒツジの頭数を日変動グラフで追跡することができたとしたら、一瞬のうちに現存頭数が大暴落する日がある。それがエチオピアのクリスマスである。エチオピア全人口のおよそ半数を占めるエチオピア正教徒は、40日余りにおよぶ長いツォム(肉食を絶つ断食の一種)の後、クリスマス前夜から夜通し教会でおこなわれる典礼に参加し、夜が明けると各家庭でヒツジやヤギを屠(ほふ)り、ごちそうを食べて祝う。長い断食の後なのでうれしさも格別に違いない。エチオピアのクリスマスは西暦の1月7日で、ロシア正教などいわゆる東方教会系のクリスマスと同じ日付である。ただし暦はユリウス暦とは異なり1年を13カ月で区切る独自のエチオピア暦である。さらにイエスの生誕年に関する解釈の違いから、西暦より紀元は7年半ほど後ろにずれている(現在は1998年)。
 一方、南部低地の少数民族地域では高地のエチオピア正教と異なり、20世紀以降にプロテスタントに改宗した人びとが多い。むろん教義は欧米系の教会経由で異なるが、西暦1月7日にクリスマスを祝い、ヒツジやヤギを屠ることは共通している。混淆(こんこう)の一例といえるだろう。

索引
29巻1号(’05 1)から29巻12号(’05 12)まで *各タイトル初めの数字は発行年と月号です。「インフォメーション」「友の会とミュージアム・ショップからのご案内」は毎号掲載しています。
今月のフォーカス
’05 1 ロシアの石油王に託された先住民の未来 池谷和信
’05 2 古来稀なるニューミュージック 広瀬浩二郎
みんぱくの逸品
’05 2 チベット、ポン教のマンダラとタンカ 長野泰彦
人力器械図譜
’05 1 潜水舟 近藤雅樹
’05 2 懐中電灯 近藤雅樹
’05 3 穀物乾燥室 近藤雅樹
エッセイ
’05 1 バイリンガル サトウサンペイ
’05 2 土佐堀川 庄野潤三
’05 3 私の場合 内藤裕敬
’05 4 フィリピンの君が代 青木宏之
’05 5 困った時はお互い様──アジアのNGO 菅波茂
’05 6 花で伝える伝統文化 池坊由紀
’05 7 北国・あっちとこっち イッセー尾形
’05 8 冒険の鍵は足元に 山村レイコ
’05 9 真の文化外交をめざして マリ クリスティーヌ
’05 10 轟夕起子のサリー姿 松岡 環
’05 11 何のためにそこにいるの、日本人 酒井啓子
’05 12 宇宙を湛える日本画 千住 博
特集
’05 1 祈りのかたち 三尾 稔/韓 敏/金 基淑/斉藤 剛/ 芹澤知広/杉本良男
’05 2 ブリコラージュ 小山田徹×佐藤浩司/生意気(インタビュー)/野島久雄/小田 亮/はたよしこ×菅原和孝
’05 3 ゴミの輪郭 木下直之/川口幸也/五十嵐太郎/池谷和信/三尾 稔/西尾哲夫/岸上伸啓/林 勲男/新免光比呂/朝岡康二/笹原亮二
’05 4 ひろがりゆくNPO・NGO 渋沢雅英×出口正之/小川晃弘/池谷和信
’05 5 飲む──一服の愉しみ 松原正毅/小松かつ子/王 連茂
’05 6 見せる──絵空事と遊び心 笹原亮二/上島敏昭/福原敏男/真鍋昌賢
’05 7 学校がみんぱくと出会ったら 中牧弘允/森茂岳雄/中山京子/居城勝彦/佐藤優香/八代健志/今田晃一/木村慶太/田尻信壹/柴田 元
’05 8 呪う──禍を起こす術、魔を破る術 吉田憲司/スチュアート ヘンリ/清水芳見/松山利夫/寺田吉孝/中牧弘允
’05 9 暮らしのサリー 杉本良男/三尾 稔/杉本星子/松尾瑞穂/菅野美佐子/南出和余/村田晶子
’05 10 スローライフ──時と生きる 横山廣子/飯田 卓/三浦 敦
’05 11 しゃべる 宇田川妙子/紙村 徹/菅野美佐子
’05 12 韓国のクリスマス──グローバル化するコリアンとキリスト教会 秀村研二/朝倉敏夫/守屋亜記子/庄司博史/関 雄二/佐藤廉也/新免光比呂
未来へひらくミュージアム
’05 4 つながれ社会へ──知の貯蔵庫を開放する 石森秀三×八杉佳穂
’05 5 無形文化遺産の映像記録 福岡正太
’06 6 ミュージアムとITのいい関係 高田浩二
’05 8 みんなでかえる、みんなをかえるミュージアム 八木 剛
’05 10 展示の舞台裏 園田直子
’05 11 博物館の内側からの挑戦──展示を支える 日高真吾
’05 12 暗闇から創りだす──さわれば当たるミュージアム 広瀬浩二郎
表紙モノ語り
’05 4 飛行機模型 はたよしこ
’05 5 空き缶ハウス 佐藤浩司
’05 6 コートジボアールのカフェ 川口幸也
’05 7 仮面にこめられた願い 八代健志
’05 8 水族がかきたてる想像力 野林厚志
’05 9 トップ・デザイナーのサリー 杉本良男
’05 10 スワヤンブー寺院模型 南真木人
’05 11 マハラジャ・インスピレーション 杉本良男
’05 12 屏風で語る「イエスの生涯」 朝倉敏夫
万国津々浦々
’05 4 国境島という名の島 小森宏美
’05 5 あるネパール人の日本経験 南真木人
’05 6 一本の旗──アチェからのメッセージ 山本博之
’05 8 三杯酒と安昭──中国青海省その1 庄司博史
’05 9 土族民俗村の出現──中国青海省その2 庄司博史
’05 10 白馬の王子様──インドの社長令嬢の結婚式 山中由里子
’05 11 元日本兵騒動とミンダナオ島「ゲリラ」 石井正子
時論・新論・理想論
’05 5 ブリコラージュと『アポロ13』 山本泰則
’05 7 「理科ばなれ」の流れのなかで――民博のよき伝統を残そう 山本紀夫
’05 9 標本資料を守る人たち 日高真吾
人生は決まり文句で
’05 1 わたしにどんないいことを話してくれるかな? 宇田川妙子
’05 4 「ホップ、マイリ」──ウズベク流処世術の機微 帯谷知可
’05 6 六畜興旺(リューツーシンワン) 野林厚志
’05 7 イモ言葉いろいろ ピーター・J・マシウス
’05 8 パルチャ(八字) 朝倉敏夫
’05 10 神さまが知っているさ 新免光比呂
手習い塾
’05 1 ビルマ文字で日本語を書く(2) 加藤昌彦
’05 2 西夏文字で名前を書く(1) 荒川慎太郎
’05 3 西夏文字で日付を書く(2) 荒川慎太郎
’05 4 点字で読み書き(1)──指先で触れる文字 広瀬浩二郎
’05 5 点字で読み書き(2)──指先で触れる文字 広瀬浩二郎
’05 6 モンゴル文字で名前を書く(1) 藤井麻湖
’05 7 モンゴル文字で名前を書く(2) 藤井麻湖
’05 8 デーヴァナーガリー文字で名前を書く(1) 町田和彦
’05 9 デーヴァナーガリー文字で日本語を書く(2)町田和彦
’05 10 楔形文字で日本語を書く(1) 森 若葉
’05 11 楔形文字で日本語を書く(2) 森 若葉
’05 12 エジプト文字で名前を書く(1) 塚本明廣
地球を集める
’05 4 砂漠の水彩画 松山利夫
’05 5 中国収集工作的三大原則 塚田誠之
’05 6 ルーロットとの出会い 大森康宏
’05 7 ガラス絵の「顔」 三島禎子
’05 8 甘くて苦い、収集の思い出 小長谷有紀
’05 9 チュルカナスの焼きもの 藤井龍彦
’05 10 インド現代ファッション 杉本良男
’05 11 絨毯を見極める 杉村 棟
’05 12 千載一遇のチャンス 栗田靖之
生きもの博物誌
’05 1 ヒトエグサ 田村典江
’05 2 ニホンジカ 立澤史郎
’05 3 カワカマス 吉田 睦
’05 4 マルミミゾウ 林 耕次
’05 5 サトウヤシ 原田一宏
’05 6 ベンガルオオトカゲ 南真木人
’05 7 アオウミガメ 小林繁樹
’05 8 タロイモ 菊澤律子
’05 9 ミラー 石田慎一郎
’05 10 ツヅレサセコオロギ 菅 豊
’05 11 オヒョウ 立川陽仁
’05 12 タナッカー 飯國有佳子
見ごろ・食べごろ人類学
’05 1 蛍の海 竹沢尚一郎
’05 2 甘さへの欲求が島を変えた 飯田 卓
’05 3 都市イヌイットの見果てぬ夢 岸上伸啓
’05 4 ちょっと気になるラフの腰衣 西本陽一
’05 5 かわりゆく村、かわれない人…… 樫永真佐夫
’05 6 手作りトラックから見るタイ社会 森田敦郎
’05 7 ベトナムのままごと 比留間洋一
’05 8 海を越える家事労働者 石井正子
’05 9 羊肉でやせられるの? 森本利恵
’05 10 狐を狩る伝統 三枝憲太郎
’05 11 盗賊団がやってくる!? 渡部森哉
’05 12 近くて遠い、人と犬の関係 木村 自

未来へひらくミュージアム
─暗闇から創りだす─さわれば当たるミュージアム
ただ「見る」だけの「さわらない日常」から飛び出そう。
「見ない」で経験するすばらしい出会い。
「さわる」プロが考える21世紀の博物館は、
五感のもつ創造的可能性をひきだす開かれたミュージアムだ。

博物館が育む「豊かな触生活」
 「さわらぬ神に当たりなし」。などといきなり神様をもち出すのは不謹慎かもしれないが、最近のぼくのモットーは、いろいろな物にさわってみれば、きっと何か「当たり」(すばらしい出会い)を経験できるのではないかということだ。もちろん、何にでもさわれと過度に強調するつもりはないし、ぼくはセクハラおやじにもなりたくない。でも、ぼくたちの生きる現代は、街中にあふれる案内表示、インターネットやコンビニの普及などが象徴するように、静かに「見る」ことばかりが重視されている。人や物との接触を嫌う「さわらない日常」が、いつしか当たり前となってしまった。「さわらない日常」はぼくたちの自由な発想を阻害するものであり、じつは世界にさわること、さわる世界から「当たり」はやってくるはずだ、とぼくは信じている。
 というわけで、今回は「さわる博物館」の可能性、「豊かな触生活」についてあれこれ議論していきたい。二一世紀の博物館を考えるキーワードは「ユニバーサル・ミュージアム」=だれでもが楽しめる開かれた博物館。ぼくは視覚障害者をユニバーサル・ミュージアムのシンボルにしたいと思っているし、そうなりうると確信している。従来の博物館、美術館はガラスケースに囲まれた展示、視覚的に味わう展示が大半だった。その意味で視覚障害者(特に全盲者)は、博物館とはもっとも縁遠い存在、バリアに阻まれた人びとだったともいえる。そんな全盲者でも、いやそんな全盲者こそが楽しめる博物館を構想することから、開かれたミュージアム作りは始まるのだろう。
 ユニバーサル・ミュージアムの主役となる視覚障害者たちは、晴眼者以上に「豊かな触生活」から得られる「当たり」を知っている。視覚障害者は見えない(見ない)分、当然よくさわる。いうまでもなく、貴重品の保存を考慮すれば、「あらゆる展示品にさわれ」とはいかないが、彫刻作品等では材質や込み入った細工など、さわってみないとわからないことがたくさんある。ぼくがここで改めて力説しなくても、昨今あちこちでさわれる展示、ハンズオンについての模索が始まっている。子どもたちが好奇心のままに何にでもさわって新たな事実を発見するように、さわる行為には種々の意味があるはずだ。視覚障害者は、いわば「さわる」プロ。その「さわる日常」から今後の博物館作りに向けて学ぶ点は多いと思う。

「五-一=四」、それとも「五-一=六」?
 「全盲」と聞けば、まず晴眼者は自分が目をつぶった状態を想像するだろう。実際、視覚障害者のガイドヘルパー(移動介助者)養成講座などでアイマスク体験をしてもらうと、「真っ暗」「怖い」「たいへん……」という素直な感想が多い。「五-一=四」となるのが当たり前で、五感のうち四感しか使えない人びとは、「障害者」とされるのが常識である。「真っ暗」「怖い」「たいへん」というのは第一印象としては事実なのだが、そこに留まっていては「豊かな触生活」は生まれない。ぼくは「五-一=六」とする工夫、すなわち人間の五感の潜在力を引き出す知恵が「真っ暗」「怖い」「たいへん」の先にあると信じている。
 「五-一」の意味を考える素材となるエピソードをひとつご紹介しよう。本間一夫さんは幼いころに失明し、点字と出会うことで読書の喜びを知った。彼は視覚障害者の読書環境を改善するために日本点字図書館を創設し、点字の普及、盲人福祉の向上に尽力した。彼の自伝『指と耳で読む』(岩波新書)は、二〇年以上も読み続けられている名著である。本書が刊行される際、編集担当者は『闇の中の読書』というタイトル案をもっていた。しかし、その提案を受けたとき、温厚な本間さんがきっぱりと断ったという。われわれ全盲者の住む世界は「闇」などではないと。
 たしかに「闇に葬る」「闇取引」などなど、「闇」のイメージはマイナスだ。岩波の編集者としては、「闇」という言葉をあえて使って、「五-一=四」の「真っ暗」「怖い」「たいへん」な状況下で懸命に頑張る本間さんの「努力」を賞賛したかったのだろう。それに対し本間さんは、晴眼者が普段あまり使わない指(触覚)と耳(聴覚)を駆使することで、新たな読書(生き方)の可能性が開かれること、ぼく流に言うなら「五-一=六」となる逆転の発想を主張した。
 「五-一=四」と「五-一=六」のギャップは意外に大きい。「真っ暗」「怖い」「たいへん」の常識を打破し、どのようにして晴眼者と視覚障害者が「豊かな触生活」を共有できるのか。これはぼく自身のライフワークであり、ユニバーサル・ミュージアムの課題でもある。ぼくはいま、「五-一=六」を実感するための仕掛けとして、本間さんが拒絶した「闇」を使ってみたいと考えている。

楽しいかな闇鍋人生
 二〇〇五年七月三〇日、ぼくは「視覚障害者のナビゲートによるダイアローグ美術鑑賞会」なるイベント(読歩プロジェクト実行委員会主催、「こえとことばとこころの部屋」)にホスト役として参加した。暗闇のなかでアイマスクを着けた二〇人が木彫作品にさわり、その感想を対話形式で交換するという単純な企画なのだが、なにせ一寸先は闇。何が起こるかわからない。「なやみくやみ」は後にし、とりあえずぼく自身、この「闇」を「むやみやたら」とエンジョイしてみようと、イベントに加わった。
 「五-一=四」を常識とする晴眼者は、やはり暗幕で閉ざされた暗闇の会場に入っていくだけで、ある種の恐怖を感じる。お互いに声をかけあいながら「闇」のなかを恐る恐る進むのが、暗中模索(悩み悔やみ)の第一段階である。ところが着席後、ぼくがさわることの意義について語り、それぞれの方法で木彫作品にさわり始めると、「闇」の不思議な魅力に気づく。視覚を使えないのではなく、視覚を使わない世界から得られる新鮮な驚きと発見。そんな非日常的経験を単刀直入(むやみやたら)に楽しむ。この「悩み悔やみ」から「むやみやたら」への転換こそが、今回の「闇」イベントの眼目だ。
 参加者たちの「木の匂いっていいね」「声によるコミュニケーションの大切さを再認識した」「ざらざらした部分と、すべすべした部分のコントラストがおもしろい」といった言葉には、ぼくも大きくうなずいた。鑑賞会の第二部では、会場を明るくして意見交換をおこなったが、「実際の色は、さわって想像していたのとは違う」「作品の裏表の関係や質感は、さわらないとわからない」などの発言があった。一目瞭然の視覚と異なり、触覚は点から面、立体へとイメージを膨らませることによって作品を理解する。頭と手をフル活用して「闇」から「豊かな触生活」を創っていく刺激的な作業。どうやら「闇」は「見る」文化(さわらない日常)に何らかのインパクトを与えたようだ。
 さて、「五-一=六」になれば人生おもろいというのがぼくの持論だが、まだ半信半疑の方もおられるだろう。ぼく自身、果てしなく広がる「闇」の入り口で、瑣末な出来事に悩み悔やみする毎日である。そんな悩み悔やみから辿りついたのが、闇鍋精神を自覚する仕掛けとしてユニバーサル・ミュージアムを用いるアイディアだ。何が出てくるか予想できないワクワク感と、何が起こっても楽しめる図太さ。この闇鍋精神こそが、「一寸先は闇」に打ち勝つ無敵の人生論なのではなかろうか。単なる視覚障害の擬似体験(「真っ暗」「怖い」「たいへん」)というのでなく、闇鍋精神を養う目的で、あえて日常的によく使っている視覚を塞ぎ、四感で闇と向き合う。そこには、きっと「五-一=六」となる豊かな触生活があるはずだ。

「やみつき」になるような博物館とは
 本間さんが「闇」を全否定しなければならなかった時代に比べれば、今回のようなおもろい鑑賞会が開かれる現在は、いい時代なのだと思う。「闇」イベントの魅力が病みつきとなったぼくは、人びとの悩み悔やみを吹き飛ばすような企画展を計画中である。題して「触文化の可能性――『さわれる展示』から『さわる展示』へ」。これまでの民博の「常」設展は、「見て」楽しむのが「常」識で、視覚障害者はさわってもいい、手の届く物にはさわれるというスタンスだった。そんな健「常」者本位の日「常」を抜け出して、すべての来館者が「さわる」ことから五感(人間)のもつ創造的能力に気づいてほしいというのが、わが企画展の趣旨だ。
 まずは「当たり」を求め、たくさんの人がむやみやたらに来年三月から九月まで開催予定のわが企画展を訪ねてくれることを願っている。みなさんと豊かな触生活を共有できるよう、もちろん「闇」の仕掛けも用意するつもりだ。

表紙モノ語り
屏風で語る「イエスの生涯」
本館展示「朝鮮半島の文化」(標本番号H214475) 幅340cm 高さ162cm
 韓国では儒教の教えが根付いており、「孝」の証として、四代上の祖先まで、その命日には家庭で祭祀がおこなわれる。この儒教式の祭祀では、祖先にご馳走を供え、その後ろには儒教の教えを書した屏風が立てられる。
 キリスト教では、こうした祭祀を偶像崇拝であるとして認めていないが、命日には追悼礼拝をおこなうことが多い。そうしたとき、表紙の写真のような屏風が儒教式の屏風の代わりに使われることがある。
 この屏風には「イエスの生涯」が描かれており、写真にあらわされている絵は、右から「病者を治すイエス」「最後の晩餐」「祈祷するイエス」「裁かれるイエス」である。絵の下にはそれぞれ聖書の一節「マタイ四章三節」「箴言一七章一節」「ルカ二二章四四節」「ルカ二三章三・四節」がハングルで書かれている。
 キリスト教徒の家庭の多くが、こうした屏風をもっているとはいえないが、儒教社会の韓国にキリスト教が布教され、土着化する過程で創り出されたものと考えられ、韓国のキリスト教の一端を示す資料と考えられる。
 ソウルの江南にある高速バスのターミナルの向かいには「キリスト教百貨店」があり、キリスト教関連のグッズがたくさん売られている。この屏風も、そこで購入したものである。

みんぱくインフォメーション
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手習い塾
エジプト文字で名前を書く 1
塚本 明廣
 今から五〇〇〇年以上前に発明されたエジプト文字は、一五〇〇年ほど前に途絶えた。その間、エジプト人は絵文字風の象形文字を使い続ける一方で日常の使用に適した簡略な筆記体を発明し、生活のあらゆる相を記録した。現在有力な説では、エジプト文字は西アジアに伝わってセム文字を生み、それがさらに西はギリシャ文字からラテン文字へ、東はインド文字へと独自の発展の道を辿った。ところで、コプト語と名を変えたエジプト語は数世紀前まで生き延びた。いま、日常語への復興運動があるそうだ。
 神殿や墓の壁を飾るエジプト文字は、見かけは一様でも三種類の使い方が混じっており、表語文字、表音文字、限定符(=決定詞)に分類できる。今回は、そのなかの表音文字としての用法に焦点を絞って紹介しよう。どの用法であれ、納まりよく詰めて書かれる。
 表音文字的用法とは、漢字の仮借つまり当て字の用法である。文字が担う意味を無視し、発音のみを借りて語を書きあらわす方法だ。「印度」を構成する漢字一字一字のもつ意味が無視されるようなものである。表音に特化したかな、たとえば「安」から発達した「あ」は、字源となった漢字の意味とは無関係に、この音をもつどんな語に対しても使える。
 かなに比べてエジプト文字が難しいのは、文字が表音文字として使われているのか、それとも別の使い方なのか、一見してわからない点にある。万葉がなにたとえるべきかも知れない。エジプトの表音文字には、エジプト語の全子音を網羅する二四文字からなる単子音文字(エジプトのアルファベットとよばれる)のほかに、一文字で二音以上の子音を含む多子音文字があり、通常はそれらを混在させて使う。その結果、表音文字の種類だけでも二〇〇字近くになる。といっても常用文字はほぼ決まっている。多子音文字にしても単子音文字をふりがなのように補うので憶えやすい(表記例の「大阪」)。慣れればかなと同じである。あやふやな文字にであったときのふりがなや送りがなのように、心強い味方となる。
 かなが子音と母音の組み合わせであるのに対し、エジプト文字には母音の文字がなく、子音しか書き分けられない。もっとも、新王国時代には楔形文字の影響とされる母音表記の試みが見られる。したがって、日本語の名前を書く場合、母音をどう書きあらわすかが一番の問題である。アラビア文字に倣い、アは子音文字;で、イとエは区別せずyで、ウとオも区別せずwで書きあらわすこともできるが、ここでは異体字を利用して書き分けた。他にも、余った文字を母音に転用して書き分けるやり方が考えられる。そのようなわけで、別表は、類似音を強いて割りふった便宜的な方法のひとつに過ぎない。
*「表記例」「直音・撥音」「濁音・半濁音」「直拗音」「促音」「濁拗音・半濁拗音」の表は、画像データの本紙P16、P17でご覧下さい。

地球を集める
千載一遇のチャンス
皇太后のお口添え
 民博の研究者となった一九七六年以来、フィールドとしているブータンでの資料収集は、私の課題であった。しかし当時もいまもブータンは、観光以外の目的で外国人が入国することに厳しい制限を設けており、収集を目的とした入国は、簡単に許可されるとは思えなかった。
 しかし思わぬチャンスがめぐってきた。一九八一年、桑原武夫先生が中心となって、日本ブータン友好協会が発足し、親善旅行がおこなわれることになったのである。メンバーは、桑原武夫、西堀栄三郎、中尾佐助、佐々木高明、玉野井芳郎先生などのそうそうたる方々であった。私もこの旅行に参加した。この旅行団は、到着と同時にケサン・ワンチュック皇太后から、国賓の待遇を受けることになったのである。ある日皇太后主催のパーティに招かれた。その席で佐々木高明先生は、民博はブータンで資料の収集をおこないたいと述べた。皇太后は、「あなた方の希望を、政府関係者に伝えておきましょう」と返事をされた。長年の懸案であったブータンにおける収集の扉が開いた思いがした。
 ことは慎重に運ばねばならない。当時アメリカの博物館がブータンで買い付けをおこない、それを首都ティンプーからトラックで六時間ほどかかるインドとの国境の町プンツォリンまで運んだところ、内務大臣がそのトラックをもう一度ティンプーに戻して、荷物を検査するということが起こった。私はそのような事態をさけるために、まず内務省に民具の収集を願い出た。
 やがて、ブータンから返事が届いた。それは内務大臣からの短い手紙で、「ブータンでは骨董品の収集は許可されていないので、認めることはできない」という内容であった。私は皇太后からの口添えもあり、許可が下りるものと考えていたので、この返事はショックだった。内務大臣は、博物館が収集するのは、骨董品に違いないと考えたのであろう。

交渉につぐ交渉
 私は、皇太后がわれわれの希望を政府関係者に伝えられたということだったのに、どうしたことだろうと思い、ブータン側の事情を調べてみると、皇太后が口添えされたのは、通産省の大臣であることがわかった。今度は、民博は日常品の収集を希望しており、決して骨董品に興味があるわけではないということを、くわしく説明した手紙を出した。今度は、通産大臣から、「民博の希望は、皇太后を通じて聞いています。カルカッタ(現コルカタ)のブータン通商代表部と連絡をとるように」という返事が来た。
 通商代表部を訪ねたのは、一九八三年二月のことだった。そこで具体的な収集についての話し合いをおこなった。収集のやり方として、私は直接農民から購入することを申し出た。しかしブータン側は、農民からの直接の購入は認めてくれなかった。もしそれを認めると、今後、農民が古い仏像や仏画などの文化財を、直接外国人に売りつけるようになるという心配からであった。いろいろと交渉を重ねた結果、次のような提案を受けた。まず民博が購入したい民具のリストを提出する。それを通商代表部が指名した人物がブータン国内で集める。そのなかから民博が必要とするものを購入してほしいというものであった。私は、「それでは民具が使われている生活の背景を知ることができない。生活の場を調査させてほしい」と頼みこんだ。それならばブータン側で、そのような機会をつくりましょう、ということになった。
 ブータンから、民具が集まったので来てほしい、という連絡があったのは、その年の一〇月であった。私は民博「友の会」主催の旅行に同行してブータンに行くことになっていたので、その後プンツォリンに行って、ブータン側が集めてくれた収集品を検品した。収集品は、希望した衣食住に関する生活用具を中心としたものであったが、通商代表部が指名した人物は、もと僧籍にあった人なので、僧侶の用いる衣装や生活用品も数多く集められていた。それらは、もし私が個人で収集活動をしていたら、とてもこれほどまで収集できなかっただろうと思われるものであった。

生活の場で情報収集
 それから一年がたった一九八四年一一月、通商代表部から、収集した民具に関する情報を得るために、東端の町タシガンまで旅行してよいという許可が出た。一カ月半にわたって、おんぼろのジープに運転手と案内役との三人で東ブータンまで旅行したが、この旅は、私にとって忘れられない体験であった。この調査旅行で、私はブータンの民具が実際に使われているさまをつぶさに観察することができたのである。
 資料の収集は終わったが、それらの民具に関する情報は収集し続けなければならない。二〇〇〇年、JICAがおこなった博物館協力セミナーに、ブータン国立博物館の女性学芸員デキ・ヤンツォーさんが参加した。民博での研修のとき、私はデキさんにブータンの資料を見てもらった。収集した衣装のなかには、僧侶の衣装がある。チベット仏教の僧は、えんじ色のスカート状の法衣を身につけている。高僧のスカートの内側には刺繍がほどこしてあり、この文様は決して女性が見てはならないという。デキさんは、生まれて初めて僧侶のスカートのなかの刺繍を見たと話してくれた。「でもその文様のことは、決して誰にも話しません」という彼女の言葉が、今でも耳に残っている。

生きもの博物誌(タナッカー/ビルマ)
涼しくて暖かい「化粧」
飯國 有佳子
ビルマ女性の必需品
 ビルマ(ミャンマー)を訪問する人が、まっさきに連れて行かれるのはパゴダ(仏塔)だろう。門前市では、樹皮がついたままの、直径五センチ、長さ二〇センチ程度の木切れが、数珠などに混じって売られている。いったい何に使われるのか不思議に思うにちがいない。
 私は、ミャンマーの第二の都市マンダレーから六〇キロほど離れた農村に滞在していたが、タナッカーとよばれるこの木切れを見ない日はなかった。早朝、女性たちは井戸端で顔を洗うと、すぐに部屋へと入る。タナッカーの液を塗るためだ。チャウッピンとよばれる擦り石に少量の水をかけ、ぎざぎざした表面に樹皮の部分が接するように置く。そして両手で木の両端をもち、腰を入れて円を描くように擦る。三分もすると、乳白色の液とともに、さわやかな柑橘系のなかにも少し甘さのある独特の芳香が漂いはじめる。十分な量の液が取れると、まずは顔につけ、続いて首から胸元にかけて塗りこむ。そして液が乾かないうちに専用の刷毛でなでて、塗りむらをなくす。
 実際に肌に塗ってみると、最初メンソールのようなスーッとした清涼感が得られ、乾くとパックしたときのようなピンとした張りが出てくる。愛用するうちに、タナッカーが汗や皮脂を吸い取り、長時間肌をさらっとした状態に保ってくれることもわかってきた。タナッカーは、四〇度を超える暑さが続く乾期には、肌を「涼しく」し日焼けを防いでくれるが、寒い時期にも効力を発揮する。冬には、肌を乾燥と寒さから守ってくれるため、タナッカーを塗った肌はぽかぽかと暖かく感じられるのだ。ビルマの厳しい自然環境を過ごすには、なくてはならないものといえるだろう。

大切なおしゃれの手段
 タナッカーは、農村の女性たちにとって肌を守るためだけでなく、美しく粧(よそお)うための「化粧」でもある。たとえば、生後七日目ごろにおこなわれるゆりかごにのせる儀礼、パケッティンでは、生まれた子が女の子の場合、美しく育つようにとの願いを込めて、ゆりかごのなかに擦り石やタナッカーを入れる。また、出産が無事にすんだことを感謝するための儀礼でも、出産を司る女の精霊、アナウッメードーが美しく粧えるようにと、鏡と擦り石とタナッカーが供えられる。おしゃれに気をつかう妙齢の女性たちの間では、タナッカーの塗り方ひとつをとってもこだわりがあり、写真を撮るというと必ずタナッカーの塗りなおしのための時間をとらされる。結婚式など限られた機会にしかファンデーションや口紅を使用しない彼女たちにとって、タナッカーは大切な日常のおしゃれの手段なのである。
 近年、首都ヤンゴンの若い女性の間では、ファンデーションが日常的に使われるようになってきた。しかしタナッカーの「涼しさ」に対し、ファンデーションは「熱く」感じられることから、ファンデーションの下地としてタナッカーを薄く塗る女性も多い。都市では、タナッカーの液を半生状に固め、高級感のある容器に入れた新商品が多数出回るようになり、先進国もその効果に目をつけ、日本の某有名化粧品メーカーが調査に来たという噂も聞かれる。タナッカー人気は、まだまだ衰えそうにない。

タナッカー(学名:Limonia acidissima
柑橘系の樹木。根は薬としても用いられ、樹皮を擦った液は日焼けを防ぐといわれる。タナッカーは高温寡雨の気候を好み、適所で生育したもの程、擦ったときの香りが良いという。幹の太さにもよるが、商品用のタナッカーは、3mほどに育つと根本から切り倒される。下から1/3程度の幹の部分が商品となり、根に近いものほど高く取り引きされる。

見ごろ・食べごろ人類学
近くて遠い、人と犬の関係
トントンの死
 早朝、トントンが死んだ。一三年間連れ添った愛犬の死は、私が台北でお世話になった居候先の陳おばさんをひどく悲しませた。涙で目を赤く腫らし、寝巻きのまま、私の寝ている部屋までトントンの死を知らせに来た。低予算で台北市の衛生局に引き取ってもらうか、ペットショップに頼んで火葬にしてもらうか迷った一家は、結局ペットショップの火葬を選んだ。トントンの遺骸を、ダンボールに入れ、花を添えて、近所のペットショップまで送り届けた。数日後に骨壷に入った遺骨となって帰ってくるはずであった。
 ところが、陳家の人びとは、何日経っても遺骨を引き取りに行こうとしない。遺骨を放ったらかしにされたペットショップがさぞかし困るだろうと思い、早く行くよう何度か促してみたが、ぐずぐずしている。よくよく聞いてみると、近所の「宮(コン)」という民間信仰寺院にいる霊媒師、「童★(タンキー)」の託宣が原因らしい。
 童★によると、トントンの遺骨を手で運んではならないし、家に入れてもならないらしい。先日までの愛犬が、たかが童★の占いで不吉な存在になる。私は不快に感じた。
 ペットショップに放置しておくわけにもいかない。私が引き取りに行くことを申し出たが、もち帰っても家にもち込むことはできない。どうしたものかと皆で頭をひねった。マンション一階の共同郵便受けの上にでも置いておこうかという話さえでたが、さすがにそうはいかない。結局、数日後、陳家の息子が引き取りに行った。家のなかにはもち込めないので、玄関を入ってすぐのベランダの隅に置いた。このあたりはある程度融通が利くようである。

ペット専用の納骨堂へ
 その週の日曜日、台北市から車で一時間ほどの山奥にある、ペット専用の納骨堂へと遺骨を運んだ。トントンの遺骨は、陳家の誰もが手にせず、結局私が運ぶことになった。遺骨を手にすることの恐怖を、私も彼らと共有しているはずだと、おばさんは考えているように私には見えた。
 彼らはこれまでにもしばしば、童★による神明の託宣に一喜一憂していた。商売がうまくいっていない息子の名前をどう変えるべきかとか、誰某が病気だが何が原因でどうすればよいかとか。童★の言葉で、陳家のおじさんの肺病がわかり、命拾いしたこともあるらしい。何かにつけて「迷信」に左右される居候先の人びとにいらいらしていた私は、たかが童★に左右される人間じゃないということを見せたくて、進んで骨壷を手にした。
 私が遺骨を運ぶことが決まると、おばさんは事前に準備していた「紅包(ホンパオ)」とよばれる赤封筒を私に渡そうとした。紅包にはお金が包まれている。私にもたせた不浄な遺骨の代償を、金で償おうとする彼女の姿勢にも腹が立った。私は、そのとき冷静な人類学者ではなかった。「特に意味のない金なら要らない」と、突っぱねた。
 さて、われわれがトントンの遺骨を納めに向かったペットの納骨堂は、バブル期に建てられ、九〇年代後半のバブル崩壊とともに使い捨てられた別荘である。別荘跡の地下を改装して、コインロッカーのような納骨棚を並べている。遺骨は一年間の保管で、五〇〇〇元(約一万八〇〇〇円)であった。納骨棚の正面には「神卓」があり、骨壷を置いておまいりする。われわれはトントンの遺骨に「拝拝」し、それを指定された納骨棚に入れて、納骨堂を後にした。

犬は死んだら川に流し……
 後におばさんから、トントンの遺骨をめぐる一連の出来事の話をゆっくり聞いた。宮の童★神明曰く動物の霊魂は「陰」の存在であり、「陽」の世界である人間界とは相容れない。よって、「陰」であるトントンの遺骨を家のなかに入れることはできない。しかも、動物の霊魂は人間の霊魂よりも下等であるので、家にもち込むと何をしでかすかわからないのだそうだ。また、女性は元来「陰」に属すので、女性が同じく「陰」である遺骨を手にすることはできず、トントンの遺骨は「陽」に属する男性が運ぶのが望ましかった。よって、おばさんが運ぶことは好ましくなく、その場にいた男性の誰かが運ぶべきであった。
 以前は、夏の暑い日、野良犬が涼を求めて、コンビニのドアの前に寝転んでいた姿をよく目にしたが、台北市衛生局の政策により、今日台北市内ではそうした姿もめっきり見られなくなった。それに反比例するかのように、ペットの納骨堂が各地にできている。台湾では「犬は死んだら川に流し、猫は死んだら木に吊るす」と言ったものである。近所の木に猫の死体が吊るしてあり、怖い思いをしたという子どものころの記憶を語ってくれた友人もいた。しかし、放浪する犬や猫は少なくなり、死んだ犬や猫の扱い方も変わりつつある。こぎれいなペット葬産業の出現がそれを物語っていよう。近年はなかなか繁盛しているらしい。しかし一方で、わが居候先では、愛犬の死は「陰」であり、愛犬の霊魂は家族の一員の霊魂にはなり得ない。人間との間に明確な境界が引かれている。一見、ペットは家族にどこまでも近づいているように見えるが、本当のところどこまで近づいたといえるのだろうか。

* ★は「占」に「おつにょう」

企画展開催中「模型で世界旅行──いろんな国の〈私の風景〉

次号予告・編集後記

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