国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年1月号

2006年1月号
第30巻第1号通巻第340号
2006年1月1日発行
バックナンバー
 

エッセイ 世界へ≫≫世界から
遅れて学ぶ日本史
南木 佳士
 自分の性格がどのような仕事に適しているのか。高校生のころ、常にこのことばかりを考えていた。いろんな職に就いている未来の姿を想像してみるのだが、どれもしっくりこない。
 文科系の科目は好きだったが、日本史は人名の読みと、複雑な姻戚関係がどうしても頭に入ってこなかったのであきらめ、世界史を勉強した。ある日、世界史の授業中にふとした想いが浮かび、静かな教室の中で思わず声をあげてしまいそうになった。教科書に登場する偉人、英雄、悪人たちはすべて死んでしまっているのだ。
 彼、彼女たちの遺した華麗な業績や冷酷な悪行の記述よりも、どんな人間もみな等しく死んでしまうのだ、との行間の根源的な事実の方がはるかに鋭く胸を射た。ならば、人の生死に直接携わる仕事に就こうと決めて医者になった。
 そうやって他者の死に向き合う暮らしを営んでいたら、こんな大事を内に抱えたままではとうてい生き延びられそうもなかったから、自己開示の手段として小説を書きだした。
 もう二〇年以上も前、戦乱のカンボジアからタイに逃げてくる難民の救援医療のためにタイの僻地に出かけた。難民収容所の病棟で、医療助手として手伝ってくれたカンボジアの若者たちはとても冷静に日本という国を見ていた。
 「日本が経済的に発展したのは寒い冬があるからだと思う。冬に備えて家を頑丈に作り、衣類を買い込み、食料も保存しなくちゃならない。国民は勤勉にならざるを得なかったはずだ。でも、カンボジアは雨季と乾季しかなくてTシャツと短パンとゴムぞうりがあれば暮らせるし、果物も米もいつでもとれるから、がんばる必要がないんだ。日本が戦争や地震で大変なことになったら、こんどはカンボジアに来るといいよ。きっと日本より住みやすいと思うよ」
 いまでもときどき、暑すぎる室内から逃れて、病棟の前の外灯の下で語り合った難民の医療助手たちの顔を思い出す。あのとき、自分が生まれ育った国の成り立ちに関して語れる言葉を持たないのがなんとも情けなかった。
 医者になって四半世紀が過ぎたころから、死は他者にだけ降りかかるのではなく、自分のすぐそばに寄り添っているものだとの明確な認識が生まれた。ならば、自分が生きて死んでゆくこの国とはいったいいかなる処なのか。
 五〇歳をすぎてようやく日本史の勉強を始めている。そもそも日本という国名がいつから用いられるようになったのか。そのあたりを論じる書物を読んでいると、家の前の見慣れた田園風景すら微妙に様相を変えて身に迫ってくる。

なぎ けいし/作家・医師。「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞。信州の地から、人の生老病死を核に据えた小説やエッセイを発表し続けている。

特集 いぬ・犬・イヌ ── 縄文犬からロボット犬へ
人とイヌのかかわりの歴史は、人間が野生をいかに実用的に、
ときに呪術的にコントロールしてきたかを示す指標でもある。
オオカミが絶滅し、ロボット犬が誕生する日本。
人びとはイヌとこれからどうつきあってゆくのか。

生きものと道具のあいだで
 「犬は人につき、猫は家につく」という言葉に代表されるように、イヌは古くから人間にとってもっとも身近な動物であった。世界の各地では、それぞれの土地の生活にあったイヌが飼われ、人間の目的にあったイヌが作りだされてきた。番犬、狩猟犬、牧羊犬、護羊犬、家畜追犬、救助犬、軍用犬、警察犬、食用犬、介助犬、盲導犬、聴導犬、愛玩犬、コンパニオン・ドッグ、医療実験用犬等々、古今東西、イヌが人間に尽くしてきたことについては枚挙にいとまがない。
 イヌに限らず、人間が動物を飼うのは何かしらの目的があるからである。他の家畜動物の大半は、食肉の獲得や乳製品の利用、毛や毛皮の利用等、飼育される目的がはっきりしている場合が多い。これに対して、人間はイヌが本来もっていた特徴のうち、自分たちにとって都合のいい部分を選択的にとりいれた繁殖を繰り返してきた。その結果、見た目にずいぶん違うイヌの品種が数多く作られてきた。最近では生身のイヌを改良するのに飽き足らず、ロボット犬なるものが改良を重ねられ、商品化されている。
 人間が利用するものは、広い意味でとらえれば、道具とよぶことができる。すなわち、イヌとは人間にとって道具のような側面をもった動物ともいえるだろう。道具は役に立っているうちは、そばにおいてもらえるが、役に立たなくなったら、たいてい捨てられてしまう。生命ある道具という考え方が適切かどうかということについては意見が分かれるであろう。しかしながら、生きとし生けるものの運命を握っているという重みを人間は少なくとも感じとる必要はなかろうか。イヌが生きものとして人間とともに生きていくのか、それとも道具としてその役割を全うし続けるのか。人間の生命(いのち)に対する考え方の根っこが、じつは、古くからの「友人」であるイヌとのつきあい方に見え隠れしているように思われる。
 今年はイヌの年。生命あるものとどうともに生きていくかということを、人間とイヌとのあいだに築かれた古く、深い関係を手がかりに考えてみてはどうだろうか。

旧知の友 ─遺跡から出てくるイヌ
小宮 孟
 私たちの食生活になじみ深いウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタといった家畜動物のもっとも古い骨は、約八〇〇〇~九〇〇〇年前の西アジアの新石器時代遺跡から出土する。しかし、イヌの骨は、さらに古い中石器時代~旧石器時代末の西アジアやヨーロッパの遺跡(約一万二〇〇〇~一万五〇〇〇年前)から出土する。更新世末期(約一万年前)の人類とオオカミは、ともにリーダーを中心として、集団で大型草食獣を狩るという行動があったと考えられている。ライバルだったオオカミの群れを家畜化して、狩りの手足として確保するために、イヌが生まれたと理解されている。これが事実であれば、人類にとっても重要な画期になったと思われる。残念ながら、遺跡に残された証拠からその起源地や年代を特定するのは困難だ。原始のイヌは祖先種であるオオカミとの形態やサイズ差が小さいと見込まれるためである。
 日本最古のイヌの骨は、神奈川県にある縄文早期の遺跡から出土した約八五〇〇年前の下顎骨破片である。私たちが縄文犬とよぶこのイヌは、柴犬級の中小型犬を主体とする集団で、当時の日本の在来オオカミに比べて身体や歯牙のサイズが明らかに小さい。このような事実から、縄文犬は縄文人が列島内で家畜化したものでなく、大陸からの外来犬と考えられている。
 縄文犬の出土例は縄文早期・前期には少ないが、中期(約五〇〇〇年前)以降に急増し、しばしば埋葬状態で発見される。死者と一緒に埋葬されたと思われるものや、四肢に骨折治癒痕のある個体もまれに出土することから、縄文人はイヌを家族に準じて扱い、生前の事故などでイヌが歩行困難になった後も手厚く保護したと解釈される。
 縄文犬は側頭筋や咬筋付着部が発達し、四肢も頑丈であることから、小型でも噛む力が強く、動きも敏捷(びんしょう)だったようだ。しかし、切歯(せっし)と小臼歯を生前に欠損している場合が多く、写真に示す約四〇〇〇年前の個体では左右の第一・第二小臼歯、左第一切歯の計五本を生前に失っている。右犬歯の長さが写真の日本犬より短くみえるのは、生前に破折した犬歯をその後も使い続けたため、破折面が犬歯の先端部のような形に研(と)がれたことによる。イヌは前歯部を使って噛みつくので、この部分の損傷が激しいことは、噛みついたものを長時間強い力で引き合うことが多かったことを物語る。優秀な猟犬は追いつめた獲物の耳や後肢の腱などに噛みついて動きを止め、猟師が至近距離から銃撃するまで放さない。縄文犬の主要な用途が猟用で、獰猛(どうもう)なイノシシとの格闘をかいくぐっていたとすれば、生前の激しい歯牙の消耗や四肢の骨折などは説明可能である。
 貝塚出土のイノシシは復元体重一〇〇キロを超す個体もめずらしくない。鋭い牙の反撃をうけて死亡する縄文犬も少なくなかったと推定されるが、遺跡出土の埋葬犬が猟で死んだとは限らない。というのは、古代エジプトや古代中国ではイヌを冥界と現世を結ぶ聖なる動物とみなしていたからだ。日本でも猟でイヌが死ぬと、猟師たちは祟り神の霊を畏(おそ)れて猟場近くの山で特別の葬送儀礼をおこなうので、死体は集落にもちこまれなかった。縄文人のあいだに、このような信仰が伝わっていた可能性は皆無とはいえない。遺跡には古代犬の謎がまだ多く残されている。

イヌをめぐる迎春呪術
吉野 裕子
 今年は十二支の戌(いぬ)年なので、昨年から街にはイヌにちなんだ商品などが目についた。十二支とは、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥のことで、本来、植物の栄枯盛衰を指した。十二支に獣が配当されるのは、後漢の王充(おうじゅう)撰『論衡(ろんこう)』にはじまる。一番目「子」がネズミ、二番目「丑」がウシと続き、一一番目「戌(じゅつ)」がイヌとなるが、その由来は不明である。
 五行説では、この世界は木火土金水(もくかどごんすい)という五つの元素的要素である「気」からなっている。そして、木は火を生み、火は土を生むような「相生(そうしょう)」の関係と、金は木に剋(か)ち、木は土に剋つといった「相剋(そうこく)」の関係によって世界は変化するという。
 一年の構造表にみられるように、申酉戌の三支は金気方局(きんきほうきょく)を形成して、寅卯辰の春の木気に相対する。木気は、「金剋木(きんこくもく)」の法則によって、金気に力を奪われる。一年を支配する年の神は、一二年で太陽のまわりを一周する木星であるため、新春を無事に迎えるには、木気を扶(たす)け、金気をくじかねばならない。というわけで古代中国では、旧一二月、城門に金畜のイヌを磔(はりつけ)にして、これを最高の迎春呪術とした。
 何事も中国に倣ってきた日本だが、都を城壁で取り囲む風習などないので、「イヌの磔」の実行は到底不可能だった。そこで私どもの祖先は考えた。金気に属するものは何もイヌに限らない。金気は本来、天とか太陽の象徴なので、色は白、形は円、性状は堅、固いのが本性。それならば白く丸く固い餅を金気の代表として、正月に食べてしまえば、このうえない金気剋殺(こくさつ)の迎春呪術になるのではないかと。あるいは、丸い餅を重ねて鏡餅とし、「鏡開き」と称して、十二支のうち一一番目にあたるイヌに類して、正月一一日にこれを特に粉々に砕き、残さず食べてしまえばよいと。さらに金気三支のなかの「酉」はトリなので、害鳥を追い払う豊年行事「鳥追い」をし、「羽根突き」をすれば、「イヌの磔」の代わりになるであろうと。
 この呪術思考は「迎太歳(げいたいさい)」という祭りにまでおよぶ。太歳とは木星の神霊化を指すが、この太歳の在泊方位は「太歳方(たいさいほう)」といって、年の顔となり、年間を通しての大吉方となる。来年は「戌」の方角、西北西に太歳が在泊するので、戌年というわけ。この太歳を迎える祭りが、伊勢湾頭の神島で大晦日に斎行される「ゲーターサイ」である。陰陽五行が忘れられて久しいので、謎の奇祭として有名である。年の神の太歳は木気なので、ゲーターサイの主要目的は金気剋殺。そのため大晦日の一夜を徹して固いグミの枝を押し曲げて巨大な輪を作り、これに白紙を巻き、白く丸く固い金気象徴物「日輪」とし、元旦の早朝、浜辺に担ぎだして小一時間、竹槍で激しく突き上げる。
 金気を徹底的に剋殺するこの行為は、外観はまったく異なるが、原理は「イヌの磔」に等しい。しかも戌年の場合、年神の在泊方位にかかわるイヌを磔にすれば、貴重な太歳方を冒(おか)すことにもなりかねない。イヌに頼ることなく、金気の代替物を種々案じだして、迎春呪術とし、天地間の順当な運行への参画をはかってきた日本人の知恵を思う。

*五気の相剋図、五行配当表、十二支による一年の構造図は、画像データの本紙P05でご覧下さい。

オオカミは消え、タヌキは残った
高見 一利
 オオカミは現在ペットとして世界中で飼育されているイヌの原種とされている。ジャーマン・シェパードそっくりで、大きくて力強く、それでいて親しみやすい姿のためか、絵本でおなじみの動物であるためか、とにかく動物園でも人気者である。
 今の日本人で、野生のオオカミを見たことがある人はほとんどいないだろう。しかし、日本にも昔オオカミがいた。本州、四国、九州にはニホンオオカミが、北海道にはエゾオオカミが棲んでいた。残念ながら、どちらも絶滅し、今では見ることができないといわれている。それらのオオカミは、大陸に棲んでいるタイリクオオカミとは別種、あるいは別亜種とされているが、詳しいことはわからない。剥製(はくせい)や全身骨格などの標本もわずか数体ずつが残っているにすぎず、遺伝的な調査もままならない状況である。最後のニホンオオカミは、一九〇五年に奈良県で捕獲された個体だといわれている。エゾオオカミが絶滅したのも一九〇〇年ごろのようである。どちらも昔は神として崇(あが)められたらしい。シカを中心とする大型草食動物を捕食するため、その力強さが畏れられると同時に農作にとっての害獣を狩る行為が歓迎されたのだろう。オオカミは日本の生態系の頂点に立っていた動物である。そのことを考えると、崇められていたことも当然であるように思える。
 今ではもう見ることができないはずのニホンオオカミが、二〇〇〇年夏に九州の山中で目撃され、写真が撮影された。これが本当にニホンオオカミであるのかという議論が戦わされたが、結局のところ定かではない。目撃情報はこの件に留まらず、一〇〇年前に絶滅してしまったとされるニホンオオカミが未だに生存しているという説も根強い。
 昔の生態系を再現するためにオオカミを日本に復活させる計画が、真剣に検討されていると聞く。外来のオオカミを野に放つという計画らしいが、野生動物は人間のコントロールが必ずしもおよぶ存在ではない。計画の是非について一概に言い切ってしまうことはできないが、慎重に検討すべき内容であることに間違いはない。
 オオカミは見られなくなったが、日本には今でも野生のイヌの仲間が棲んでいる。キツネとタヌキである。どちらもほぼ全国的に分布しており、今のところは絶滅が心配されるような動物ではない。キツネもタヌキも、哺乳動物のなかではウサギなどと並んでもっとも身近な動物である。人を化かす動物として昔話でもおなじみであり、人里近くに出没することも多い。特にタヌキは、都心部で見かけることもある。いずれも雑食で、小動物を狩ることもあるが、民家の残飯をあさったり、野生動物との触れあいを求める人間に餌づけされたりする。このような姿に、「かわいい」あるいは「迷惑だ」といったように見くだすことはあっても、オオカミのように畏敬の念を感じさせる発言を聞くことは、ほとんどない。
 力強くもなく、敬われることもなく、何でも食べるずうずうしい動物が、結果として生き残り、人間のまわりで新たな生活の場を開拓しつつある……。こんなキツネやタヌキのことを思うと、私も十分に生き残っていけそうだと勇気を与えられる。

人とイヌをつなぐモノ
 おびただしい数のイヌの歯でできた、パプアニューギニアなどの首飾りや額飾りは、婚資として用いられた。ハワイなどで見られる、やはり、イヌの歯で作ったすねあても儀礼のときに身につける大切なものである。日本でも、イヌの犬歯を用いた首飾りが、縄文時代遺跡などから出土する例もある。首輪は文字どおり、イヌと人とを「つなぐ」モノで、最近のペットショップではデザインや色もじつにバラエティに富んだものがところ狭しと並んでいる。一方で、西アジア等で使われる牧畜犬の鉄製の首輪には、鋭い鉄の突起が放射状についている。イヌは、家畜に襲いかかる敵に横向きで体当たりするとき、この突起を相手に向かってぶつけていく。また、最近ではイヌの散歩に首輪でなく胴輪を使う人が増えているようだが、犬橇(ぞり)に不可欠なのが軽くて丈夫な胴輪。探検家植村直己もイヌに胴輪をつけて犬橇を走らせていた。博物館のなかにはイヌと人のいろいろなモノ語りがある。

世界の「新年おめでとう」
 年の変わり目である正月は一年の周期を刻み、また人の成長を測るうえで重要な目安である。したがって、新しい年に希望を託し、お互いに幸運を願い合うという習慣は比較的広くみられる現象といえる。
 しかし一年のどの時期に年の節目をおくかということになると簡単ではない。太陽暦の一月一日を祝うのは現在の日本や欧米では当たり前のようになっているが、中国や朝鮮半島、ベトナムでは、太陰太陽暦に基づく、いわゆる旧正月が依然根強く守られている。いずれの正月も、寒く暗い冬から草木の芽吹く春への変わり目を正月とする点で共通しているが、地域や文化、宗教によっては異なる場合も多い。イランでは春分、タイやネパールでは太陽暦四月一三日が新年とされる。
 もっとも伝統的に明確な一年の周期の概念や暦がなく、正月もないケース、暦はあっても年の節目として別の祝日(クリスマスなど)が重要な地域もめずらしくない。インドでも秋の収穫の時期に盛大な年越しの儀礼がおこなわれる。とはいえ世界的に太陽暦と欧米文化が普及するなかで、その影響の強い地域では一月一日を祝日とし、やや直訳的な「よい新年を」の訳語が新年のあいさつとして広がりつつあることも事実である。
〔ヨーロッパ〕
ウェールズ語 Blwyddin newydd dda ブルイジン・ネウィズ・ザア
バスク語 Urte berri on! ウルテ・ベッリ・オン
オランダ語 Gelukkig nieuwjaar ヘルッキヒ・ニューヤール
エストニア語 Hääd uut aastat ハート・ウーット・アースタット
ポーランド語 Szczesliwego nowego roku シュテンシリウェゴ・ノウェゴ・ロク
ハンガリー語 Boldog új évet ボルドグ・ウーイ・エーヴェト
〔ロシア・中央アジア〕
ロシア語 ス・ノーヴム・ゴーダム
カザフ語 ジャナ・ジリニズ・クッティ・ボルスン
ウズベク語 Yangi yilingiz bilan ヤンギ・イリンギス・ビラン
モンゴル語 シネ・ジリーン・バヤルン・メンドゥ・フルゲイェ
タタール語 ヤンガ・イリンギズ・コトゥリ・ブルスン
モルドビン語 シュム・ブラ・オド・イエ
〔アジア〕
トルコ語 Yeni yiliniz kutlu olsun イェニ・ユルヌズ・クゥトゥル・オルスン
アラビア語 クッル・アーム・ワアントゥム・ビハイル
ペルシア語 サーレ・ノウ・ムバーラク
ネパール語 ナヤ・バルサコ・ハールディック・スバカーマナー
チベット語 ロサー・タシテレ
中国語(北京) 恭賀新禧 コンヘシンシー
ベトナム語 チュック・ムン・ナム・モイ
黒タイ キン・チエン・ピー・マウ・ハオ・ハン・ノー
インドネシア語 Selamat tahun baru スラマッ・タフン・バル
朝鮮・韓国語 セヘ・ポンマニ・パドゥシップシオ
〔アフリカ〕
ウォロフ語(セネガル) Dewenati デウェナティ
フルベ語(セネガル) Alla yoma ruumu et jam アッラ・ヨマ・ルーム・エト・ジャム
ハウサ語(ナイジェリア)Barka da sabuwar shekara バルカ・ダ・サブワル・シェカラ
スワヒリ語(ザイール) Mwaka mwena ムワカ・ムウェナ
〔オーストラリア・太平洋〕
マオリ語 Kia pai te tau hou e heke mai nei
キア・パイ・テ・タウ・ホウ・エ・ヘケ・マイ・ネイ
サモア語 Ia manuia le tausaga fou イア・マヌイア・レ・タウサンガ・フォウ
ワルリピリ語(オーストラリア) Nyuntunpa ngurrju nyayirni yapa ニュントゥンパ・ングッリュ・ニャイルニ・ヤパ
〔アメリカ〕
イヌピアック語(アラスカ) Paglaun ukiutchiaq バクラウン・ウキゥトチャク
イヌイット語(ハドソン湾) Akraarumi nutaami quviasutsiarit
アクラールミ・ヌターミ・クッヴィアスツィアリット
ナバホ語 Hozhi naghai ボジ・ナガイ
ケチュア語(ペルー) Musoq watapi sumaq kawsay kachun ムソック・ワタピ・スマック・カウサイ・カチュン
*できるだけ発音(読み方)に近いルビをふっていますが、カタカナでは表現できない音も多数あることをご了承ください。
*誌面表中に特殊文字を使用しているものは、読み方(カタカナ)のみ記載しています。文字は画像データの本紙P08でご覧下さい。

ネパール ── 一年の計はダサインにあり
 ネパールではヴィクラム・サムバット(V.S.)という太陽太陰暦が用いられる。それによれば西暦二〇〇六年一月一日は、V.S.二〇六二年九月一七日にあたり、平日にすぎない。他方で、西暦の四月中旬からはじまる新年(バイサーク月一日)も祭日ではなく、特にお祝いをせず、「新年おめでとう」と言う習慣もない。むしろ、日本の新年に近いのは一〇月のヒンドゥー教の大祭ダサインであろう。女神ドゥルガーが悪魔を退治し、この世に平和を取り戻したという神話に基づき、人びとはこの女神に供犠獣を捧げ、新たな生命力、ひいては知力、(王にとっての)統治力や、自動車、機械などの活力を授かる。その象徴が、身につける吉祥の印ティカと大麦の苗ジャマラである。休みが約一週間続くダサイン前には、帰省する人で長距離バスは混雑し、街も衣服を新調し、ごちそうを用意する買い物客でごった返す。「ダサインおめでとう」というカードを送る習慣や、ダサイン手当てというボーナスも見られる。やはり、ここでは一年の計はダサインにあるようだ。
 ちなみに、航空機の運行やホテルの予約は西暦が用いられるので、ご安心を。

セネガル ── 一年の罪を許しあう
 ムスリムの多いセネガルではイスラームの教えに則って、ふたつの祭りを祝う。イスラーム暦の第一二月の一〇日からおこなうタバスキーの祭り(犠牲祭)では、信仰の証に息子イスマイルを犠牲にしようとした父アブラハムの物語を記念して、ヒツジやヤギなどを屠(ほふ)り、人びとはそれを食する。新年ではないが、ウォロフの人びとは「デウェナティ」(来年まで無事に生きられますように)、「フェッケール・デウェン」(そうでありますように)と互いに祈願する。またイスラーム暦第九月の断食月が明けた第一〇月の一日目はコリテの祭り(断食明けの祭り)となり、人びとは正装で礼拝に出かけ、貧者に喜捨をおこなう。会った人とは、「バアール・マ・アック」(私を許してください)、「バアール・ナアー・ラ」(あなたを許しましょう)、「ヤラ・ナンヌ・ヤラ・ボオーレエー・バアール」(神の許しのもとに)と罪を許し合う。
 イスラーム暦の新年を祝う習慣はないが、近年では商業主義にのったクリスマスや太陽暦の年末年始、あるいは誕生日などにも、来年までの無事を願うあいさつを交わすことが一般的になりつつある。

ベトナム ── テトとセン・ムアン
 ベトナムでは陰暦元旦にテト祝いをおこなう。テトと聞くと、ベトナム戦争で米軍撤退への転機となった「テト攻勢」(一九六八年)を思い出す人もいるかもしれない。その戦争が終わって三一年。今は、親族や知人同士が訪ね合い、バインチュンとよばれる正月ちまきを食べ、祖先に実りを感謝する平和なテトを楽しんでいる。しかし、路上では酔っぱらい運転に要注意!
 ベトナムには、テト以外の日に正月を祝う民族もいる。たとえば北部山間部の水稲耕作民黒タイも、かつて黒タイ暦七月一四日(陰暦一月一四日)ごろに正月祝いをおこなっていた。しかし世帯単位でささやかな祈祷をおこなうだけで、むしろ、盆地単位のセン・ムアンという「くにの精霊」を祀る祭礼が最大の年中行事であった。その日は水牛の肉を分け合い、人びとは玉入れその他の遊びに興じ、もちろん泥酔を楽しむ人もいた。一九五〇年代から社会主義化が進んで、祭礼のパトロンであった領主や司祭がいなくなり、今ではテトが定着している。

未来へひらくミュージアム
みんぱくミュージアムパートナーズ ─脱皮する博物館ボランティア─
石川 梨絵
2004年9月に発足した「みんぱくミュージアムパートナーズ」。
博物館のパートナーとして、自主的に活動を提案し実施することをめざす。
夢の企画を実現すべく、2コマ進んで1コマ戻る試行錯誤の連続を
特製「自主企画実現双六」で紹介する。
博物館で何かをやってみたい
 お客さんとして博物館を訪れることに飽き足らず、もっと積極的に博物館にかかわっていきたいと思い、それを実践している人たちがいる。全国の博物館で展示場の案内や展示物の解説、体験型展示の補助、資料の整理などの活動に携わるボランティアである。最近では開館前からボランティアを募集する博物館もめずらしくない。昨年一〇月に開館した九州国立博物館では、約二九〇名のボランティアスタッフが数カ月に及ぶ事前研修に励み、開館に備えていたという。
 民博では一九九八年の特別展「大モンゴル展」の際に初めてボランティアを募集した。民族衣装の試着や遊びのコーナーでのボランティアの活動が好評を博し、その後の特別展にもたくさんの方にボランティアとして協力をいただいた。二〇〇四年には、大学共同利用機関の法人化を機にボランティア活動を見直し、館から依頼された仕事をする「民博ボランティア」ではなく、より積極的に博物館活動に参加する「市民パートナー」へとボランティアの位置づけを転換した。博物館で何かをやってみたいと思う人が、より主体的に活動に取り組むことのできる場として、民博を開いていこうとしているからである。最初のパートナー募集には一五〇名あまりの賛同者を得、二〇〇四年九月より「みんぱくミュージアムパートナーズ(MMP)」が新たなスタートを切った。
 MMPのメンバーには、民博友の会会員や、民博ボランティア時代から活動していた人に加えて、新しくパートナーとして名のりをあげた人も少なくない。参加した動機は、大好きな民博のことをほかの人にももっと知ってもらいたい、人と触れ合うのが楽しい、なんらかの形で社会と交流をもちたい、民族学や関連諸分野の学問に興味がある、異文化理解を通した人権教育に携わりたい、自律的な組織としての市民活動の立ち上げに参加したいなど、さまざまである。
 こうして集まったメンバーの最初の活動の場となったのが、二〇〇四年秋の特別展「アラビアンナイト大博覧会」である。私が民博情報企画課社会連携グループのスタッフとして、MMP担当になったのも、このときからであった。民博から協力を依頼した展示場での補助的な活動のほかに、MMPの自主企画として、アラビアンナイトの物語を素材にした塗り絵の作成や、アラビア文字の体験ワークショップ、紙芝居の上演、触って楽しむハンズオン・ワゴンの製作などを実施し、来館者に好評を得た。これらの企画はMMP内部、また民博とMMPのあいだで話し合いを繰り返し、長い時間を費やして実現していったのである。

自分たちの企画を実現させる
 博物館や美術館を訪れて、いろいろなワークショップやイベントに参加したことがある人は少なくないだろう。こうした活動は、ボランティアが支えていることが多いが、それを知っている人は意外と少ないようだ。また、ボランティアが、現場で実施のサポートをしているだけなのか、自分たちで企画を立てるところから始めているのかは、外からではなかなかわかりにくい。しかし、そこに博物館におけるボランティア活動の位置づけ、それに応じたボランティアコーディネートのあり方、そして社会との連携に対する博物館の姿勢が反映されているのではないだろうか。
 民博とMMPは、その協働のしくみを両者の話し合いにより、作ってきている。民博がMMPに対し、展示場での案内や体験コーナーのサポートといった活動を提案する場合は、準備や管理運営を民博が担当し、MMPは現場でのサポートをおもな活動としている。MMPが提案した企画については、必要に応じて民博が助言をおこない、MMPが試行錯誤を重ねながら、企画から運営まで自主的に取り組んでいる。このMMPの自主企画はどのようにしてできあがるのだろうか。
 「自主企画実現双六『つくってワクワク僕のわたしのブリコラージュ』ができるまで」は、二〇〇五年春の特別展「きのうよりワクワクしてきた。」において、二人のMMPメンバーが中心となって、自主企画ワークショップを実現させるまでのプロセスを双六にしたものである。一つひとつのコマは、このワークショップの準備の過程で出合ったさまざまな課題や面倒な手続き、思わぬハプニング等をあらわしている。では、この双六にそって、楽しい博物館イベントの舞台裏がどうなっているのかをお見せしたい。

『ふりだし』
 この双六のスタートは民博側が開いた特別展の説明会である。展示の趣旨や計画の説明を受けたMMPは、自分たちに何ができるかを考えた。
 最初の課題は、意見のとりまとめだった。MMPはいくつかの目的の異なる活動グループに分かれている。年齢も性別も背景も多様な人びとが集まってひとつの活動を一緒におこなうという市民活動ならではのおもしろさが、逆に難しさとなって彼らの前にあらわれた。自分たちで一から準備をしてワークショップをやってみたいという人、現場で来館者と交流することが楽しいという人、手伝いはしたいけれど取りまとめるのは遠慮したいという人など、さまざまな人がいた。アイデアはいくつか出てくるものの、手を挙げてとりまとめようという人が出てこない。そうしているうちに特別展は開幕し、企画は立ち消えになるかと思われた。しかし、この特別展で何かをやってみたいという思いをもった二人が中心となって周囲に声をかけ、企画が進められることとなった。

『一回休み』
 ワークショップの趣旨は、特別展でアーティストたちが表現した「ブリコラージュ=身のまわりのもので作る世界」を見て刺激を受けた来館者が、自らブリコラージュ・アーティストとなって作品作りをするというものである。内容は大人も子どもも参加できる簡単な工作とし、雑誌のページを切り抜いたり、紙コップ、ヒモ、ボタンなど身のまわりにある物を自由に組み合わせてオブジェやハガキを作る。そして希望者の作品は会場に展示され、ハガキは特別展終了後に本人に届けられるという企画だった。
 モノ作りが好きな二人が中心となったことで、きっと楽しいワークショップになるだろうと思っていた矢先、二人から運営に関する相談を受けた。グループで話し合ううちに「毎日参加体験できるコーナーにしたい」という意見が出て、どうしようか迷っているということであった。MMPが自主企画を実施する際には、できる限り自律的におこなうことが基本である。ワークショップを毎日開催するためには、メンバーのスケジュール調整や活動内容の周知徹底、物品の管理、活動状況の報告と把握等をMMPメンバー自身でおこなえることが条件となる。また、メンバーが内容を十分に理解せず活動し、ワークショップの趣旨が来館者にきちんと伝わらないという事態は避けたい。それよりは積極的にかかわれる人が、質の高いワークショップを来館者に提供するほうがよいのではないか。これらのことを考えた結果、彼らは「やりたいと思う者がやりたいことを責任もってやる」一日だけのワークショップをおこなうという結論を下した。

『二コマすすむ』
 企画内容がまとまったら、MMP理事会と民博の両者から承認を得なければならない。審議のポイントは大きく分けると、活動が民博の目的と合ったものであること、運営管理に無理がないかということのふたつである。この企画審議は民博がMMPに協力を依頼する際にもおこなわれ、やはり両者によって承認されることが必要となる。自主的な活動だからといって勝手にやっていいと思う人はいないだろうが、手続きが面倒だと思う人はいるだろう。しかしこれは民博とMMPの協働のしくみとして、欠かすことのできないステップである。このワークショップ企画については、MMP理事会と民博の双方から、趣旨も適当であり、実現可能性にも問題がないと判断され、実施が決定した。
 ここまでくれば後はやるべきことをやるだけ。ワークショップの準備にどれだけの時間と労力をかけるかは、モノ作りに対する二人のこだわりにかかっていた。そして迎えた当日。特別展示場一階のメインの広場が会場となったため、多くの来館者の目にとまり、ワークショップは一日中にぎわった。参加は随時受けつけ、MMPが簡単にやり方を説明した後は各自が作品作りに没頭。気に入ったものができたらタイトルをつけ、MMPが作品と作者の写真を撮り、できあがったブリコラージュ・アートは次々と展示され、新たな参加者をひきつけていた。会場に残されていた参加者からのメッセージには「今日は、正解も不正解もないモノ作りの世界に浸ることができ、いやされました。みんなの作品も見ることができて、自分の作品も見てもらえて、すっきりしました」とあった。参加者が一日だけのブリコラージュ・アーティストとなって楽しんでくれた。企画は成功したといえるだろう。

『あがり』はどこに
 無事、ワークショップが実施できたことには大きな達成感があった。しかし、これで双六は『あがり』なのだろうか。当日、ワークショップが終了し片づけを終えたころ、残ったメンバーが口々に感想を言いはじめたため、当初予定にはなかった反省会をその場でおこなうことになった。準備の大変さ、当日の不安、みんなの協力、来館者への態度はあれでよかったのか、次回の課題など、興奮冷めやらぬ口調でそれぞれが感じたことを語った。ワークショップをやりっぱなしにせず、次の企画に今回の反省を活かしていこうというメンバーの気持ちが伝わってきた。
 中心となった二人は後の報告書に、「自分が思い描いていることをみんなに伝えること、意見をとりまとめることの難しさ。(目的意識を)共有して企画を実現させることの大切さ、大変さなど、『学び』が多かった」と書いている。あの反省会の時間が自然発生的にできたのは、彼らが民博での活動に手ごたえを感じ、次のステップへと進もうとしていることのあらわれでもある。博物館で市民が自主企画を実現させるまでのプロセスは、決して簡単ではない。しかし、自らの手で企画を練り上げていくことで得られる達成感は、ほかでは得られないものがある。博物館は、何かをやってみたいという市民の思いを、どう受けとめ、どう支援していくことができるのか。こちらも二コマ進んで一コマ戻る、試行錯誤の連続である。

表紙モノ語り
むかしむかしのイヌの話
年末年始展示イベント「いぬ」出展作品/十二支土鈴(標本番号H142413、高さ11cm 幅5.1cm 奥行7.4cm/下左)、他7点
 戌は一と戉(ほこ)から成り、作物を刃物で刈り取り、束ね締めること、つまり収穫をあらわす象形文字である。新春早々、縁起がいい。縁起がいいのは安産・豊穣・繁栄の象徴とされる動物のイヌも同じ。花咲爺さんの愛犬は、裏の畑でここ掘れワンワン!正直者のお爺さんに宝物を発見させる。
 むかしばなしの「花咲爺」は、もとは各地にいろんな口伝えがあったのだが、教科書にのせられたり、小学唱歌にされたりした結果、「桃太郎」と同じく今日のわたしたちが知っている以外の筋だてが忘れられてしまった。むかしむかしのイヌの名前が「ポチ」であるはずがない。そういえば、富山地方に伝えられていたおはなしの語りだしは「桃太郎」とそっくりだった。川で洗濯をしていたお婆さんが、流れてきた大きな桃を拾って帰り、臼のなかに入れておいた。柴刈りから戻ったお爺さんが臼のなかをのぞいてみると、桃ではなくかわいい子犬が入っていた……。美しい香箱に入って流れてきた、海神から授かったなどというところもあった。灰を撒いたら花が咲くのではなく、雁を捕まえてめでたしめでたしという結末もあった。「雁捕爺」というそうだ。
 イヌは、人類がもっとも早く使役するようになった動物だと考えられている。そして、世界中で飼われている。ヨーロッパ人と接触するまでイヌという生きものを知らなかったのは、アンダマン諸島民と、一九世紀に絶滅させられたタスマニア島民だけだったという。
 表紙の写真は、今年の干支にちなむ土鈴の数々(津村重一コレクション)。社寺で授かるものが中心である。上の三点は、誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市・左)、祐徳稲荷神社(鹿島市・中)、法輪寺(京都市・右)から授与される戌年の土鈴。三つめは、達磨(だるま)をのせている。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

時論・新論・理想論
笑いのマジック・ナンバー
 マジック点灯云々の季節は終わったが、世界にはほかにもさまざまなマジック・ナンバーがある。越年前後に注目される「十干十二支」も、基本的な数を組み合わせて古代中国で生まれた。十干は「陰陽五行説」、すなわち二と五の組み合わせからきており、十二支は一年の月を数える十二進法が起源で、メソポタミア発祥の黄道十二宮に似ている。
 陰陽など二元論の「二」は、生物の形にも関係ありそうだ。生物進化を振り返ると、海中を浮遊していた単細胞生物は球対称だが、海底に固着した植物は上下の区別ができて円錐対称となり、動くので前後の区別ができた動物には左右対称性のみが残ったらしい。いずれにしろ、上下・前後・左右・雌雄など、二元論の起源のひとつは生物にちがいない。同様に「五」は、指の数に起源をもつ、数の数え方と同根か。
 哲学や宗教世界で、むかしから語られてきたのが「四」や「五」だ。世界を構成する基本要素に関し、古代ギリシアでは、土・水・火・空気の「四元説」、次いで、天体を構成する完全元素アイテール(後世のエーテル)を加えた「五元説」が唱えられた。古代インドでも、万物は地・水・火・風から成るとする「四大(しだい)説」が唱えられ、仏教ではこれに「空」を加えた「五大」、さらに「識」を加えた「六大」へと展開する。密教における五輪塔は五大の具象形だが、こうした要素論は今でもロマンをかき立てるのか、リュック・ベッソン監督は四大に「愛」を加えるべしと『フィフス・エレメント』を発表した。「四」といえば、キトラ古墳で見つかった四神獣(青龍・朱雀・白虎・玄武)の四神思想は風水思想につながるほか、相撲場四隅の房の色(青・赤・白・黒)にあらわされるなど、方角や形にかかわるものも多く、また五行にも結びつく。
 かように、四(四大文明、四天王、四季など)や五(五穀、五感、五臓など)は、人間の感性に合うのか身近なのに対し、「三」は三位一体、三権分立、御三家など、相互に関係する要素の組をあらわす際によく登場する。
 というところまでがじつは長い枕で、お正月らしく、笑いのマジック・ナンバーを語りたいのが本題である。故桂枝雀ファンの筆者が気づくのは、ほぼ同じ会話の繰り返しで笑いを取るパターン。たとえば上方落語「口入れ屋」冒頭、番頭が奉公志願の娘たちに向かって小言を三度繰り返す場面。
 「あんた最前(さいぜん)から豆食べんのはかまへんで。けど、皮を散らかさんようにな……(別の娘に)猫のヒゲを抜いたらあかんがな。ネズミを捕らんようになるよってに……(もう一人に)あんたなあ、着物の前を揃えて座んなはれ。なんや白いもんがチラチラしたら気が散って帳面つけがでけへんがな」
 このほかにも、「高津(こうづ)の富」で気楽な男がくじ引き前に賞金の使途をのろけまじりで述べたてる場面、「宿屋仇」で騒がしい連中の隣部屋に案内された侍が番頭に文句を言う場面、「住吉駕籠(かご)」で酔漢が駕籠屋をからかう場面など、会話を変化させながら三度繰り返すパターンが多い。繰り返しの二度目では「おや、さっきと同じ?」と聴衆は訝(いぶか)るが、三度目にはドッと笑いがくる。四度になるとくど過ぎて逆効果。そういえば『我が輩は猫である』の最終章、寒月がヴァイオリンを買う顛末(てんまつ)のうち干し柿を食う段を三度語るのも、落語好きの漱石ゆえか。
 そんなわけで、石の上にも三年、三度目の正直、仏の顔も三度まで、三日坊主、など、反復や持続の終結にかかわる三に引きつけて、「くどさ一歩手前の三が、繰り返しによる笑いのマジック・ナンバーだ」という新論を唱えたい。正月お笑い番組でご確認のうえ、読者諸賢の賛同をいただければ幸いだが。

万国津々浦々
船に住む ─ 中国広東省珠江デルタ
長沼 さやか
 「南船北馬」という言葉をご存じだろうか。中国の交通手段は、北方では馬、南方では船が用いられるという意味である。移動という共通点によって並べられた両者であるが、活動の場はそれぞれ異なっている。たとえば船は、馬では走行できない水上を移動することができるだけでなく、屋根をかければ住まいにもなりうる。
 中国南部には、広大な流域面積をほこる大河・珠江(ジュージャン)が流れている。珠江には、いくつかの大きな支流があり、それらはさらに大小の水路に枝分かれしている。地図を見ると、まるで網の目のようだ。中国南部ではこうした水路を利用した水上交通が、古くから発達してきた。
 珠江の河水が運んだ土砂が堆積してできたのが、珠江デルタであり、その大部分を有するのが、広東(カントン)省である。この土地はたいへん肥沃であるが、古くは海水による塩害に悩まされ、農業には適さないとされてきた。そのうえ、雨の多い季節にはしばしば洪水がおこり、田畑や家が流されることも多かった。このような厳しい自然環境が、移動可能な船を住居にする、という発想を生み出したであろうことは、想像にかたくない。こうした船に住む人びとのほとんどが、低所得者であった。
 小船に、一家五、六人が暮らすこともめずらしくなかった。漁業、渡船、水運、その他の労働など、貧しい彼らの職業はさまざまだ。陸に住む人びとは、懸命に食いぶちをかせぐ彼らを、ときに「蛋家(タンカ)」とよび、さげすんだ。そのため差別の意味を含まない「水上居民」という名が、現在では一般的に用いられる。珠江デルタの河口付近には、こうした元水上居民の人びとが住む村が点在している。
 とある漁村に暮らすファおじさんの祖先も、かつて漁をしながら各地を転々としていた水上居民だった。陸に家はもっていなかった。漁民は船に乗っている時間がほとんどだから、家は必要なかったのだという。一九三〇年代に日中戦争が勃発、日本軍が広東の中心部を占領すると、戦禍をさけて珠江の下流へと移動した。そうしてゆくうちに、河口に近い現在の村にたどり着いた。やがて戦争が終わり、新しい国家ができると、それを機会に村に定住した。しかし、立派な家を建てた今でも、やはり出漁中は船に寝泊まりする。現役の漁師ファおじさん夫婦もひとたび出漁すれば、一カ月は村に帰れない。その間、船は乗り物、作業場、住まいの三つの役割を兼ねる。川は風呂場になり、トイレになり、洗濯場になる。漁船には生活に必要なコンロやナベ、毛布などがそろっており、通りかかった川辺の市場で買った米や野菜、売り物にならない雑魚が、船のうえの食卓にのぼる。
 ファおじさんに「どうして昔、船に住んでいたのか」と聞いた。彼は困った顔で笑いながら「漁をするのに便利だったから」と答えた。一風変わった暮らしをしていたせいで、ときに「水上の民族」などともてはやされた彼らだが、船での生活を選んだ理由は、意外にもシンプルで合理的だ。「でもやっぱり家に住める今の暮らしはいいよ」ともいう。
 かつて船は、水路の発達した地方において、陸上を走ることよりもずっと便利な乗りものだった。しかし自動車が普及し道路が整備されたいま、珠江デルタにおいて、船に住むことはもはや合理的な生活様式ではなくなってしまったのかもしれない。

手習い塾
エジプト文字で名前を書く 2
塚本 明廣
 今回は、エジプト文字の真髄とされる表語文字と限定符について説明しよう。
 表語文字は、文字で書きあらわされた事物、厳密にいうと、それに対応する語をあらわす用法である。規格化・様式化が進んだ現在の漢字ではわかりにくくなっているが、象形文字の段階の「目」「馬」「鳥」「魚」の例を思い浮かべてほしい。
 限定符は、漢字の偏や冠と同じ働きをする。それ自身は発音されず、語の意味を暗示するだけである。その意味では、品詞を連想させる「決定詞」よりも、表記にかかわる符号であることを示す「限定符」の方が用語としてはよさそうだ。限定符は語末にくることが多いので、単語の切れ目を示すこともその重要な働きのひとつである。ただし人称接尾辞は限定符より後にくる。
 エジプト人がこれらの用字法を人名・地名の表記に用いた例は少なく、文字種も限られているが、それに縛られる必要はないだろう。エジプト語では正書法が確立されず、エジプト人は語のさまざまな表記を楽しんでいたようである。外来語であっても、普通名詞には限定符が自由に使われている。外来文化を改造し、仕立て直して、伝統文化が新たな活力源を得てきたことは、異文化交流の歴史に明らかである。文字の歴史もその一例にすぎない。
 日本語を書きあらわす場合、かなではわからない同音漢字の違いを書き分けたり、漢字書きに備わる視覚情報を伝える手段として、表語文字や限定符が利用できそうだ。さまざまな活動に従事する人物像や生活用具の類は、名刺の肩書き代わりに利用できるかもしれない。用例を参考にしてほしい。
 最後に、筆記体の書き方を紹介しておこう。伝統的に神官書体・民衆書体(デモティック)とよばれてきた書体である。楷書・行書・草書に分ける漢字の三分法に倣えば、それぞれに、聖刻書体・神官書体・民衆書体を当てることができる。
 聖刻書体が右からも左からも、そして縦横に書かれたのに対し、筆記体とりわけ民衆書体は、ふつう右から左に横書きされる。現在では時代・地域・内容に従って細分されており、神官書体と民衆書体との境界を字形でスパッと区切ることはできない。神官書体が、横書きの場合はとくに、一字ずつ分けて一筆か二筆で書くのに対し、民衆書体は数文字を続けて書く傾向が強く、しかも字形が紛らわしい、というのが大まかな書体の違いである。決まり文句の多い定型文書を記したことと無縁ではないと思われる。その一方で、民衆書体は口語を反映した新しい綴りが増えている。
 これらの書体を用いて名前を書くとき、神官書体は聖刻書体を一字一字置きかえるだけですむ。しかし民衆書体は続け字がもち味なので、どう続け、どう崩すかが難しい問題である。例示したとおり、同じ単語でもさまざまな崩し方があるのだ。
 なお用例は、筆記体に合わせ、右から左に書かれている。読み書きする方向にともなって、聖刻書体の鳥や蛇など、文字の向きも逆になる。また「な」や「と」などの文字が、前回五〇音図に示した文字と異なり、子音が上に、母音が下に置かれているが、配置も自由である点に注意。

[参考]
塚本明廣「エジプト文字」『言語学大辞典別巻世界文字辞典』(三省堂)
読者の幅広い関心にこたえる入門書として、加藤一朗『象形文字入門』(中公新書)
標準的な字形の聖刻書体を網羅した表が、下のサイトで見られる。
http://www.arcomnet.net.au/~vincent/signlist.htm
神官書体については、次のサイトが役に立つ。
http://home.prcn.org/sfryer/Hieratic

*「3書体による単子音表音文字一覧表いわゆる「エジプトのアルファベット」」「3書体による同一人名と固有名詞の表記例」は、画像データの本紙P19でご覧下さい。

生きもの博物誌(ザトウクジラ/ベクウェイ島)
モバイル時代の鯨捕り
浜口 尚
捕鯨法は変わらないが…
 手投げ銛(もり)を打ち込まれ、銛綱一本でつながっているボートを勢いよく引っ張っていたザトウクジラが急に方向転換し、ボートに向かって来たときの話を聞いたことがある。怖さのあまり、鯨捕り全員、血の気が引いてしまった。その直後、ザトウクジラの背中でボートが跳ね上げられ、全員が海の中へ。ビニール袋に入れていた無線機のスイッチを入れ、救援を依頼して事なきを得た。そんな話である。
 カリブ海の小島、ベクウェイ島でのザトウクジラ捕鯨を追い始めて一五年になる。その間に捕獲されたザトウクジラはちょうど一五頭。平均すれば年間一頭の捕獲という慎ましい捕鯨である。米国の帆船式捕鯨船に積み込まれていた捕鯨ボートを模して建造された八メートル強のボートに六人が乗り組み、手漕ぎ・帆推進でクジラを追跡、手投げ銛を打ち込み、最終的にはヤスで仕留めるという捕鯨法は百数十年間変化していない。唯一変わったのが高台の見張りから鯨捕りたちへの連絡法である。かつては手鏡を太陽に反射させてクジラ発見の合図が発せられたが、その後は無線機となった。

携帯電話で美味を追う
 二〇〇二年、ベクウェイ島にも携帯電話会社が入ってきた。しかも三社がほぼ同時期にである。競争があるから料金は高くはない。鯨捕りたちも相次いで携帯電話をもつようになった。最近ではクジラ発見の第一報が見張りから携帯電話で鯨捕りたちのリーダーである銛手に入る。その後、銛手から他の鯨捕りたちに携帯電話で連絡が流れる手順となっている。もちろん、鯨捕りたちは追跡方向の確認やボートの転覆に備えて、洋上にも携帯電話を持参する。万が一に備えて厚目の防水ケースに入れてある。
 ザトウクジラの捕獲は年に一度あるかないかの出来事であるから、クジラを捕らえると島民は競って肉や脂皮などを買い求め、クジラ料理を賞味する。そのことによって、彼らは捕鯨の島の住民であることを実感するのである。時が経っても変わらないのが、島民の捕鯨への情熱とザトウクジラ料理のおいしさである。
 筆者も現地で二度、ザトウクジラ料理を味わったことがある。初めて食べたときは、おいしさのあまり山盛りの一皿を平らげてしまった。そういえば、二度目にザトウクジラを食べてから七年が経つ。二〇〇六年の漁期には、筆者の携帯電話に捕獲成功の連絡が入ることを願っている。通知を受けてから現地に出かけて行っても、食べる量は十分にあるはずであるから。

ザトウクジラ(学名:Megaptera novaeangliae
ナガスクジラ科。極地から熱帯までのほぼ全海域に生息している。成熟個体の体長は12~14メートル、体重は30~40トン。ベクウェイ島民が捕獲対象としている北大西洋系統のザトウクジラの生息数は1万600頭以上と推定されている。同島民によるザトウクジラ捕鯨は国際捕鯨取締条約において先住民生存捕鯨として5年間に20頭を超えない捕獲が容認されている。

見ごろ・食べごろ人類学
断食をして天国に行こう
居候も断食
 ボルネオ島北部のコタキナバル市(マレーシア・サバ州)にあるブルネイ人家庭に居候していたときのことだ。ブルネイ人はすべてムスリム(イスラーム教徒)なので、年に一度、断食月がある。居候を始めたときから、断食月がきたら私も一緒に断食するという心積もりをしていた。
 断食月には日の出から日没までのあいだは飲まず食わずとなるが、飲食だけの話ではない。そのほかにも、ふだんなら金曜日以外は家でおこなっている夕方の礼拝を毎日モスクでおこなうし、宗教的な行事も増える。私はムスリムではないので断食する義務はないし、モスクでの礼拝には参加できないので単なる絶食にしかならないとは思ったが、せっかくの経験だからと絶食の部分だけでも断食に参加することにした。断食には、全世界のムスリムが同時に飢えを経験することで、連帯感を増す意味があるという説明を聞いたことがあったので、全世界のムスリムとの連帯感はともかく、一緒に断食を経験することで居候先に家族の一員として受け入れてもらえるかもしれないという期待があった。
 断食月の初日。夜明け前の朝四時に起こされて、四時半ごろに家族全員で食事をとった。メニューはふだんの夕食と同じで、ご飯に焼き魚と野菜炒めとスープという普通の食事だった。この時点で、家族は私が断食に加わると思っていなかったらしい。朝食の後、部屋に戻って朝までもう一眠りしているあいだに、ママ(お母さん)がコーヒーとビスケットを載せたお盆をこっそり私の部屋に差し入れてくれた。せっかくだけれど好意だけいただくことにして、お盆はそのまま台所に戻した。こうして私の断食が始まった。

家族みんなで空腹感?!
 非ムスリムも多く住むコタキナバルでは、断食月でも食堂や喫茶店が普通に開いており、日中から人目につくところで食事をしている非ムスリムもたくさんいた。空腹なのはそれほどつらくなかったが、なかなか慣れずに苦しんだのはむしろ昼間ずっと眠いことだった。
 断食月になると、近所の商店街の駐車場には食べ物の屋台がたくさん並び、仕事の帰りに買い物する人でごった返していた。バパ(お父さん)や私がそれぞれ帰りがけに屋台で食べ物を買って帰ったので、絶食の禁が解ける日暮れ後の食卓にはさまざまなものが並んだ。ピンク色の甘いシロップ、甘いコーヒーという二種類の飲み物とナツメが、私の居候先での日暮れ後の食事に欠かせない品だった。そのほかにはフライドチキンや焼きそばや菓子や果物など、もらったり買ったりして、その日に手に入った食べ物は何でも食卓に並んだ。
 私がムスリムでもないのに断食に参加したことは、家族にはどうにも理解しにくいようだった。みんなが食べていないのに自分だけ食べるのは気がひけるという説明では納得してもらえなかった。というより、家族みんなで空腹感を共有するのかと思っていたら、そんなことは全然なかったのだ。私の妹分にあたるバパの娘たちは、断食月が始まって数日経つと、体調が悪いとかこれから一年間かけて分割払いで返すとか理由をつけて断食をやめてしまい、まだ日が高いうちから家のなかで麺をゆでて食べるようになった。三人いる妹たちは次々と断食をやめて、ついに断食しているのは、バパとママと私の三人だけになってしまった。

勤めを果たして
 ママは断食に参加した私を見て、「異教徒がイスラーム教に入ると、それまでの罪が全部帳消しになるから得なんだよ」と改宗を誘った。それはママにとっても望ましいことだったようだ。「異教徒をイスラーム教に入れると、入れた人の徳がひとつ上がるんだよ」と教えてくれたママは、若くして亡くなった息子のために徳を積むんだといって、断食月が終わった後も一人で何日か断食を続けていた。
 バパの方は、私を積極的にムスリムにするつもりはないようで、「イスラーム教に入ったら毎日ちゃんと礼拝しなければいけなくなるんだ」と言うだけだった。ムスリムでもないのに断食の真似事をしている私に腹を立てているのかと思ったが、どうやら別の方向に腹を立てていたらしい。「ムスリムなのに礼拝の勤めを果たさない連中を見ると、それが家族でも腹が立つんだ。でも、最後の審判のときには、たとえ家族でも助けあえないとクルアン(コーラン)に書いてあるから放っておくしかない」と言うバパは、自分自身に言い聞かせるように「私はちゃんと義務を果たしているから天国に行けるんだ」とつけ加えた。
 天国とはどんなところなのかバパに尋ねてみた。「天国には食べ物がたくさんあるし、仕事をしなくてもいい。それに何よりも、天国では毎日の礼拝をしなくてもいいんだ」と待ち遠しそうな様子で語るバパを見て、この家ではまわりと違うことを理由に仲間外れにされることはなさそうだと少し安心した。

年末年始展示イベント「いぬ」

次号予告・編集後記

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