国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年3月号

2006年3月号
第30巻第3号通巻第342号
2006年3月1日発行
バックナンバー

エッセイ 世界へ≫≫世界から
日本人として、地球人として
宮本 亜門
  二九歳ではじめて演出をした。オフ・ブロードウェイのようなスタイルが話題となり、私は新しいタイプの演出家と呼ばれるようになった。それから数年後、「違いがわかる男」として演出家を生業としていたとき、ロンドンのパブで観劇の帰り、友人とビールで乾杯していたら、隣にいたイギリスの若者が絡んできた。
 彼は突然、中国人なのかと聞く。私は日本人だと答えると「日本人は中国の隣人だろ。今、天安門で何が起こっているか知らないで飲んでいるのか!」とつっかかってきた。もちろん学生たちが広場を占領しているのは知っていたし、関心もあった。しかしその夜、戦車が天安門広場に突入していたとは知らなかった。すぐに家に帰り、テレビの画面から流れる情景を見ながら、日本は中国の隣国であり、暗闇のなか、隣人たちの流血騒ぎが起こっているという事実を刻んだ。わかっていると思っていたのに、いつの間にか私にとっての隣人はニューヨーカーであり、イギリス人になっていた。世界中で演出をと、若いときから飛び回って勉強し、ブロードウェイやウエストエンドの劇場街のことは熟知していたが、もっとも近いアジアのこと、沖縄のことさえまったく知らなかった、というか興味が湧かなかったのだ。それから私は、アジアのミュージカルと題して、天安門事件を題材に舞台を作った。それはあまりに無知な自分への戒めでもあった。作曲をお願いしたのがシンガポール人のディック・リー氏。彼と打ち合わせをするためにシンガポールに行ったとき、「亜門は、日本軍がここで何をしたか知っているの? お互い国を越えて創作する以上、歴史を知っておいてほしいんだ」と言われた。
 昨年ブロードウェイで『太平洋序曲』を上演した際も、アジアンアメリカンの俳優たちと仕事をして感じた。彼らもアジアとアメリカの狭間に生き、それぞれが異なる歴史のなかで自分たちのアイデンティティを探しているのだ。私にも日本で生まれた理由があるはずだ、パスポートひとつで世界を知ることができる。世界には人の数だけ生き方があり、人の数だけ文化がある。個を尊重し、地球がひとつであることを私は今、日本人として、そして地球人として体験させてもらっている。


みやもと あもん/1958年生まれ。演出家。オリジナルミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で文化庁芸術祭賞を受賞。オンブロードウェイにて上演の『太平洋序曲』はトニー賞4部門にノミネートされる。ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ等を手がけ、また空間演出、講演などを通して活躍の場を広げている。
http://www.puerta-ds.com/amon/

特集 博物館で総合学習
「総合的な学習の時間」が
小・中学校に本格導入されてから4年が過ぎようとしている。
民博でも、学習キット「みんぱっく」(=写真、詳細は7ページ)の利用や展示見学を織り込んだ
教育プログラムの開発がおこなわれている。
民博がもつ研究資源は、授業に活かすことができるのか。
鍵は先生と民博、そして市民ボランティアの連携にある。

民博の資源を教育に活かすために
「みんぱっく」で深める文化の理解
 民博は、世界中から集められたたくさんのモノをもっている。さまざまな社会で実際に使われていたモノは、多くのことを私たちに語りかけている。もし、これらのモノに自由に触れることができたなら、見ただけではわからないいろいろな発見をすることができるだろう。色や形、手ざわりやにおい、重さ、使い心地……そこには、文字で学ぶ知識を補うものがある。
 スーツケースにつめられた貸し出し用の学習キット「みんぱっく」は、民博が集めた世界中のモノを教室に届けようと開発された。地域やテーマにそって、モノやモノについての情報を記したカード、本やビデオといった関連資料などがパックされている。子どもたちは、実際にモノを手にとって使ってみたり、身につけてみたりしながら、それを作り出した人びとをめぐって想像力を働かせ、五感を通してふくらませた具体的なイメージによって文化の理解を深めていくことができる。

民博の資源を活かした教育プログラム
 この「みんぱっく」の開発や改良には、たくさんの学校の先生の意見が生かされてきた。さらに現在、民博は先生と共同で、「みんぱっく」の利用や展示の見学を核としながら民博の資源を活かした教育プログラムの開発に取り組みはじめている。
 民族学・文化人類学の研究所としての民博がもつ資源は、展示だけにはとどまらない。展示されていないモノ、図書や映像音響資料などの資料、資料に関連する大量の情報、さまざまな分野の研究者、多くの人脈や関連機関とのネットワークなど、有形無形の資源を民博はもっている。第一線の研究資源をいかに学校教育に活かしていくか、これは研究を社会に位置づけるという民博の課題であるとともに、学びの場を多様化させ、校外で総合学習を進める先生たちの課題でもある。

子どもと展示の仲立ち
 一方、学校による博物館利用において一番望まれているのは、博物館スタッフによる解説や指導だろう。現実には、子どもたちと展示の仲立ちをする十分なスタッフをもてない博物館が多いなか、市民ボランティアがその役を担うケースも増えている。専任の教育スタッフをもたない民博においては、一昨年発足したみんぱくミュージアムパートナーズ(MMP)が、展示場での教育活動の実験に積極的に取り組み始めている。
 博物館を子どもにとって魅力的な学習の場とすることができるかどうかは、先生と博物館スタッフ、そして市民ボランティアがどれだけ真剣に協力しあうかにかかっている。民博を舞台にして進められている教育プログラム開発の試みについて紹介する。

体を通して学ぶ子どもたち ── みんぱくミュージアムパートナーズとともに
今井 ユミ
「聴く」から「演奏してみる」へ
 「始作(シージャク)(さあ、始めましょう)」
 指導者の掛け声で、それぞれの楽器がリズムを刻みながら響き合い、心地よい音楽になる。四人の子どもたちは、今、楽器を手にしてそれぞれのパートのリズムを順に教えてもらったばかり。それが、指導者の小さな鉦(かね)(ケンガリ)に合わせて一心に楽器を打ち鳴らし見事に合奏していく。予想通り、子どもたちは抵抗なく演奏を楽しんでいた。異なる文化の音楽を、聴くだけではなく実際に演奏すること。これは、このプログラムでもっともこだわったスタイルだった。

「総合的な学習の時間」を民博で
 民博の社会連携スタッフからみんぱくミュージアムパートナーズ(MMP)とともに授業を作らないかと提案を受けたのは、願ってもないタイムリーなことだった。
 私の勤務する京都市立伏見南浜小学校は、毎年、六年生が民博に行っている。人権をテーマに、ともに生きることを目指した学習に取り組むなかで、朝鮮文化の理解のため、民博常設展の「朝鮮半島の文化」展示を見学に行くというものだった。資料の豊富さと学校の取り組みの継続性から、民博を利用するのは当然の流れだった。しかし、今回に関しては、躊躇する特別な事情があった。この六年生は、昨年、民博の特別展「アラビアンナイト大博覧会」に行き、衣装を試着したり文字を教えてもらったりとたくさんの体験をした。もちろん、常設展も見ている。例年のようにただ見学するだけでは、子どもたちの満足感は得られない。私は、明確な方針を決められないまま、「総合的な学習の時間」の「共に生きる──在日朝鮮韓国の友だちと共に」の準備を進めていたのだ。
 「アラビアンナイト大博覧会」で、子どもたちに体験プログラムの指導をしてくれたのも当時発足間もなかったMMPのメンバーだった。民博の展示を活用した学習プログラムの開発に取り組みはじめたMMPの協力の下で、授業を工夫することができそうだった。
 伏見南浜小学校は京都朝鮮第一初級学校と一六年に及ぶ交流があり、向こうの子どもたちを招いて、楽器の演奏や踊りなどを全校児童に見せてもらったり、学校紹介をしてもらったりしている。例年、六年生は、学校訪問をして向こうの六年生に学校案内をしてもらい、一緒に遊んでくる。今年度は、昨年の民博での活動を踏まえ、グループごとの交流会でハングルを教えてもらったり、最後には、一緒にチェギチャギで遊んだりしてすっかり親しくなって帰ってきた。友だちになった人のことをもっと知りたいという思いを相手の文化を知ることへと高めることが、民博での学びへと結びついていく。

民博にやってきた
 民博でのプログラムは、全員に向けての三〇分のオリエンテーションに続き、一三、四人からなる六つのグループに分かれて二〇分間ずつのプログラム六つを体験し、最後に二〇分間のまとめをおこなうという構成だった。六つのグループが六つの場所を二〇分ずつ回るというのは、シンプルで子どもたちにも伝えやすかった。
 MMPからはじめに提案されたもののうち、ビデオ上映については、直接体験を重視したいという点からはずしておこうと考えた。それに、民博のビデオは、そもそも小学生向きにはできていない。
 一方、伏見南浜小学校では、読み聞かせの研究をしている元教員が、年に二回ボランティアで全学年に読み聞かせをしたり、教員が月ごとに回りもちで学校テレビ放送を使って絵本などの読み聞かせをしている。そこで、MMPのメンバーで読み聞かせの活動を続けておられる方にお願いした。
 まずオリエンテーションで、プロジェクターを使って、絵本「ソリちゃんのチュソク」を読んでもらった。これは、現代韓国の都会に暮らす子どもが田舎へ行き、昔ながらの行事に触れるという内容である。子どもは展示物を見ても昔ながらのものか新しいものか区別がつかないことが多いので、理解に役立つのではないかと思った。
 続けて、楽器の演奏を全員で聴いた後、子どもたちはグループごとに分かれていった。六つのプログラムのひとつに、酒幕(家。旅人の憩いの場。実物大複製。入ることができる)のなかでオンドルにあたりながらの読み聞かせがあった。そこでは、日本の昔話に似通ったものや朝鮮独特の感じがするものをお願いした。似通った文化、また、異なる文化への思いをもたせたかった。
 語り手がチマチョゴリを着て読み聞かせ、オンドルに当たるには立て膝のほうが暖かいという実用性を伝えるのもすばらしいプランだった。立て膝や、ご飯茶碗を手にもたないといった作法の違いはその国の文化であって、日本の価値観でははかれないということも、同時にきちんと伝えておきたかった。

小学生は結構やる!
 体験という点では、楽器があるならば見たり聞いたりするだけでなく、ぜひ演奏させたかった。チャンゴなどの打楽器で四小節程度のものならば、リズム打ちを音楽の授業で楽しんでいる子どもたちであり、簡単なリズムをパートに分かれて打つことはきっと楽しいに違いない。二〇分の時間ではとても無理といわれていたが、冒頭の場面のように子どもたちは苦もなく楽器演奏をやり遂げた。指導担当の方が、二時間以上にわたって次々と代わる子どもたちに丁寧な指導をしてくださったことも大きかった。
 衣装の試着プログラムでは、着付けをする人数に限りがあり、二〇分で全員は無理ということだったが、子ども同士で着せ合うことで衣装の数さえ確保できれば、かなりの人数が試着できる。小学校の六年生は、着ることも着せることも喜ぶという、自立した年ごろである。MMPの心配をよそに、本番では女子用五着と男子用四着の衣装を次々と着たり着せたりしていく。衣装を着けた姿を互いにカメラで写し合う時間も十分取れた。
 酒幕の外では、置いてあったチェギチャギでしっかり楽しんでいた。すぐに遊べたのは、一度、初級学校でやっていたからだ。しかも、前回と比べてキンキラの飾りがあるほうがやりやすいとまで気がついている。
 酒幕での読み聞かせを待つ間、外観のスケッチをしたり、家のなかの様子をみたりしていた子どもたちが促されて家のなかに入っていき、床の暖かさに「ああ気持ちいい」と床にごろごろと寝転んでしまう場面もあった。

理解は今できなくとも
 「みんぱっく」を使ったプログラムでは、ソウルの小学校に通う男女の子どものもち物などが並べられた。男女のリュックの似通った点に子どもたちの関心がいったが、このあたりの関心のもち方は、大人の思惑を超えていて、狙いと外れてしまうこともあり、物集めの難しさを感じた。それでも、給食に使う長い金属製の箸やスプーンには文化の違いを感じ取っていた。
 民博の展示物の利用については、限定した提示が必要に思う。確かに民博の物のもつ圧倒的な力は、説明がなくても見るものに強く訴えてくる。しかし、子どもによって受け取りかたに大きな差が生まれるからである。また、展示場のなかで、ひとつは全員が立ち止まり、じっと見て感じるものが欲しい。支配層である両班(ヤンバン)の屏風や、村境に立てられる像のチャンスンに向き合ったことは記憶に残ることになるだろう。知的な理解は、不十分でも、後で意味がわかってくることもある。
 今回のプログラムは、子どもに説明するというものはほとんどない。けれど、豊富な民博の財産を使って、MMPの多大な労力に支えられて、楽しみながら体を通して感じたり考えたりしたものは心に残る。ばらばらになった学習の断片がいつか子どもたちのなかでひとつにつながり、より豊かな在日朝鮮韓国の友だちとともに生きることにつながっていくことを願っている。

進化し続ける「みんぱっく」
高市 亜紀
子どもたちの興味を喚起
 民博の貸出教材である「みんぱっく」の運用を開始して現在四年目に入った。当初から大変好評で、年間一四〇件ほどの利用がある。利用者の約半数が小学校で、総合学習、国際理解教育、人権学習、民博への校外学習のためといった目的で、事前学習・事後学習、学習発表会などに利用されている。それらの学習のなかで、「みんぱっく」は、子どもたちの興味を喚起したり、実際にモノに触れる体験で知識を補うものとして位置づけられているようだ。
 「みんぱっく」の利用者には使用した感想をアンケートで答えていただいている。利用者の生の声は、今後の改善や、新パック作成の指針として貴重な資料となっている。実際に先生が子どもたちと利用して初めて気がつくことなど、博物館で日々「みんぱっく」の管理者として触れている者が思いもつかないこともアンケートは教えてくれる。総合学習の現場において、「みんぱっく」は更なる改良を求められていることを実感する。また同時に肯定的な評価もたくさんいただき、さらに充実させたいと思う力にもなっている。

アンケートから見る「みんぱっく」の役割
 アンケートから利用者の声を少しご紹介しよう。
 「同じ『調べる』という活動でも、インターネットを使った活動と、実物を使った活動では子どもたちの反応がちがう。実際に触ってみることで多くのことを発見し、多くのことを感じることができたように思う」
 「本物には、はかりしれない存在感と説得力がある。パックの中身を見せたときの子どもたちの反応や目の輝きは忘れられない」
 「得た知識を定着させるのにとても有効である」
また、児童が「みんぱっく」を利用した感想を思い思いに書いてくれることもある。
 「インターネットや本では見ることしかできないけれど、実物は生地の薄さやぶ厚さがわかるので、調べるのがとてもはかどった」
 「お札に書いてあることや小銭の形、裏に描いてある絵などの違いを調べるのが楽しかった。ああいう勉強ならもう一度やりたいと思った」
 「調べて考えるよりも『みんぱっく』から出てきたモノで勉強した方がわかりやすかった」
 子どもたちがモノから得ることは、モノについての情報やその地域についての知識だけではない。やはり体感でしか得られない何かがそこにある。たとえば、パックのなかのモノを通して異文化と出会ったとき、それを実際の生活に使っている人たちに思いを馳せ、世界にはいろんな生活を送っている人がいるのだと気づくことであったり、自分の日常に再度目を向けることであったり……それは十人十色であっていいものだ。

これからの「みんぱっく」
 昨年の夏、利用を考えている方などへ参考になるよう、活用事例を紹介する「Let'sみんぱっく」というページを当館のウェブサイト内に開設した。実際に学校を訪問して、授業に参加させていただき、授業の様子を全体の流れがわかるように写真入りで紹介している。いろいろな利用法を共有できればというスタッフの思いと、利用者の声から実現した「みんぱっく」の新たな展開である。これは担当者にとっても非常に大切なことである。パックの利用現場を見ていると、さまざまな課題が鮮明に浮かび上がってくる。パック内の情報の充実、視聴覚教材の充実、パックの種類の充実等、アンケートにもよく書かれていることだが、実際に目の当たりにすると課題の具体的な姿と、それに対する解決策の糸口が少しずつ見えてくる。
 利用者の声をすべて実現することは難しいが、できる限り形のあるものにしていきたい。これからも、もっと学びの楽しさを感じることができるよう、「みんぱっく」は進化を続けていく。

8種類の「みんぱっく」
パック名:極北を生きる …カナダ・イヌイットのアノラックとダッフルコート
パックの中身:トナカイやアザラシの毛皮でできたアノラックやブーツ、布製のダッフルコート。
パック名:アンデスの玉手箱 …ペルー南高地の祭りと生活
パックの中身:ティンタ村の人たちの日常着と祭礼衣装、たくさんの楽器。
パック名:ジャワ文化をまとう …サルンとカイン
パックの中身:インドネシア・ジャワ島の人たちの衣装や装身具、衣装に施されているバティックとよばれる、ろうけつ染めの道具など。
パック名:イスラム教とアラブ世界のくらし
パックの中身:衣装のほか、イスラム教にかかわる祭具や日用品。
パック名:ブータンの学校生活
パックの中身:子どもの日常着や学校で使っている教科書やノート、弁当箱。オプションとして弦楽器「ダムニョン」も用意。
パック名:ソウルスタイル …子どもの一日
パックの中身:ソウルの子どもたちが使っている学用品や衣装。オプションで楽器パックと布団パックを用意。
パック名:インドのサリーとクルター
パックの中身:インドの民族衣装のサリーとクルターのほか、装身具など。
パック名:ブリコラージュ
パックの中身:ブリキ缶バック、タイヤのサンダルなど、ブリコラージュなものたちや特別展の作家の作品と制作風景紹介など。
*写真は画像データのP02をご参照下さい。教育機関、各種団体等に貸し出しをおこなっています。まずはご連絡ください。 
*申し込み・問い合わせ先/「みんぱっく」担当係 TEL:06-6876-2151(代表)
*ホームページ/http://www.minpaku.ac.jp/museum/kids/minpack/

フィールドワーカーになってみよう ── 協働プロジェクト実践の現場から
触れて学びを深める
 「これフサフサや。何でできてるんやろ」
 「うわっ、この服、臭うわー」
 九月のある日、豊中市立泉丘小学校では、民博の学習キット「みんぱっく」と五年一組の子どもたちとの出会いが始まっていた。彼らが手に取っているのは、「極北を生きる──カナダ・イヌイットのアノラックとダッフルコート」パック。アノラックの放つ強烈な臭いに対する子どもたちの反応を確認して、担任の中野義澄教諭が筆者に説明を促す。異臭の正体は、アノラックの素材であるカリブーの毛皮であること、零下三〇度くらいになる極北の地では、その臭いがほとんどしないことを伝えると、教室中から驚きの声が上がる。
 子どもたちに話した内容は、「みんぱっく」に入っているモノ情報カードに記載されている。「みんぱっく」は、単に民族資料の体験にとどまらず、このように解説情報や映像資料を教師が授業の展開に合わせて子どもたちに提示することで、学びを深めていけるように工夫されている。

学校と進める協働プロジェクト
 民博では、昨年度から民博の文化資源を学校現場で効果的に活用できるような学習プログラムの開発と試行に関するプロジェクトを立ち上げた。プロジェクトでは、ひとつの授業のいろいろな過程で「みんぱっく」の利用や民博への見学などを取り入れた授業プログラム作りを、民博と協力校との協働でおこなっている。プロジェクトリーダーは、海の中道海洋生態科学館の館長で、教育プログラムを館の看板メニューに育てた実績をもつ高田浩二客員教授である。筆者は当時、情報企画係の博学連携スタッフとして、高田氏のアドバイスをもらいながら、協力校とのプログラムおよびワークシートの開発と試行に関わる機会を得た。
 プロジェクト発足当時からプログラムの開発と実践を協力して進めてきたのが、冒頭の泉丘小学校の中野先生である。今年度は、昨年度と同じく五年生の二学期の「総合的な学習の時間」を使って、国際理解をテーマに、プログラムの開発と試行をおこなってきた。
 六月から始まったプログラムの打ち合わせで、中野先生からは、民博の展示場での取り組みを授業全体の中心的な活動に位置づけたいということ、そして子どもたちに民博で働く人と出会う機会を設けたいという希望があった。話し合いを重ねていくうちに、展示場での活動を授業全体の文脈のなかでどのように位置づけ、そこに向けて、子どもたちの学びへの意欲や期待をいかに盛り上げていけるかがポイントになるという点で一致した。そして研究者との出会いをきっかけに、子どもたち自らが民族学研究者になり、「みんぱっく」を使った下調べを経て、異文化のモノにあふれる展示場でフィールドワークをおこない、その成果を発表するという流れができあがった。図にもあるように、「みんぱっく」の利用以降の活動の流れは、研究者の仕事のプロセスと一致するように組み立てた。

民族学者と出会い、民族学者になってみる
 プログラムは、家にある外国からやってきたモノを調べるという夏休みの課題から始まった。子どもたちは、普段から見慣れたモノと向き合い、その新たな一面を発見し、使う人びとの思いや記憶がモノに刻まれていることに気づくことができた。続く「民博教員の出張授業」では、台湾や中国で、イノシシやブタと人との関係に関する調査研究を続けている野林厚志助教授が、教室を訪ね、民族学や民博のこと、そして研究者になったきっかけなどについて子どもたちに語った。また、調査にもっていくリュックサックから、計測用の機器から下着までを次々と取り出し、たとえば「夜中に屋外にあるトイレに行くときには、このヘッドランプが必需品」といった具合に、使う場面や用途を紹介していった。フィールドワークでは、調査結果をスケッチとメモで記録する。子どもたちは、夏休みの課題でおこなったこととの共通点に気づくことになった。
 野林氏の研究の進め方やフィールドワークについての語りが、子どもたちの「調査」へのイメージを具体化させた。それは、「みんぱっく」を使っておこなった下調べでの彼らの意欲的な姿を見れば明らかだ。イヌイットのブーツを入念にスケッチし、サイズをはかって記録する男の子。ダッフルコートの袖口からのぞく美しいフェルトの模様や、腰部にほどこされた不思議な出っ張りを発見して、うれしそうに筆者に教えてくれた女の子。みんな自分で発見した情報を記録しようと夢中になっていた。調査の準備の段階では、下調べで生まれたモノやその地域に対する各自の興味や関心を、展示ガイドや民博のウェブページを見ながらふくらませて、展示場でのフィールドワークの対象となるモノを決めていった。
 一〇月一四日、泉丘小学校の一二七人の民族学研究者たちは、入念な準備を経て民博を訪れた。これまでの活動を研究者の仕事と重ね合わせて振り返り、今日のフィールドワークの意味を確認したあと、各自のフィールドに足を踏み入れていった。展示場では、用意したフィールドノートを使ったモノの観察と記録をおこなったほか、ビデオテークで実際にモノが使われている光景を確認したり、学習コーナーで関連図書を調べたりした。
 フィールドワークを終えた子どもたちは、調査で発見したことや、疑問に思ったことを図書室やインターネットを使って探求していった。そして最後に、学習発表会「世界の文化を知ろう-民族学者になって調べてみました」で、保護者と六年生に対して成果を披露した。クラスごとに「世界の楽器」「モンゴルの家」「韓国の遊びと衣服」「世界一周旅行」というテーマで調べたことを発表し、フィールドワークの成果も壁に掲示して紹介した。

研究の営み、学びの営み
 発表後に記された子どもたちのコメントには、活動のなかで生まれたさまざまな思いがつまっていた。「世界にはいろいろなものがある」「(身の回りのモノと)似ている物もあったけどぜんぜんちがう物もあった」とは、世界の人びとが使うモノの多様性への驚きと同時に、自分たちの暮らしとの比較から得た言葉だろう。彼らの視点は、モノの多様性にとどまらず「それぞれの地方にそれぞれの生活があった」というように、そこに生きる人びとの暮らしにも向けられていた。研究プロセスを経験的に学ぶというコンセプトからは、「調べるときは、メモが大切」だと実感してくれたし、モノの観察と記録を通した異文化との対話の経験を「(フィールドワークを)またやりたい」という言葉で記してくれた。そして「モノから疑問がわいた」という一言を残してくれた子どもは、研究者のまなざしを少なからず体得してくれたにちがいない。中野先生をはじめとする先生方も、子どもたちが自分で対象を決めて調査を意欲的におこなっている点を評価していた。
 この授業プログラム作りを通じて筆者は、博物館は研究の成果はもちろん、成果を生むまでの研究者のまなざしや思考、そして課題と向き合う彼らの姿勢そのものも学びの素材として成立するだろうと実感している。三月一六日から始まる特別展「みんぱくキッズワールド」でも、民博の研究者の部屋が再現されることになっている。そこでは、研究の際に用いる道具や資料を実際に手に取って確認してみることで、研究者が味わう発見の喜びや葛藤も経験できるだろう。学校関係者向けには、「みんぱっく」の展示コーナーや民博利用に関する相談窓口も開設する。本展は子どもをめぐる文化が、世界各地でどのように育まれてきたかを、さまざまな民族資料を通して紹介する、体験的要素にあふれた展示である。
 今回、授業プロセスとの対応を試みた民族学研究者の営みは、「成果の発表」という段階を終えたからといって完結するわけではない。その営みは、発表後のさまざまな反響から新たな問題を発見し、次の調査に向けた準備をはじめるという循環運動を続けて深められていくのだ。子どもたちにも、異文化との出会いをきっかけに生まれた新たな興味関心、そして解決し得なかった疑問を探求していくという、学びの営みを持続していってもらいたいと願っている。

*授業のプロセス図は画像データの本紙P09でご覧下さい。

表紙モノ語り
お化けの金太
特別展「みんぱくキッズワールド」出展作品/お化けの金太(標本番号H12085、 高さ16cm 幅5cm 奥行7cm)
 お化けの金太は、熊本県熊本市に伝えられている郷土玩具で、「お化けの金太郎」、「目返り金太」、「舌出し金太郎」ともよばれる首人形である。金太の首の下から出ている紐を引っ張ると、練り物の赤い顔に黒の烏帽子をかぶった笑顔の金太の目玉がくるくる回り、赤い舌をちょろちょろだす仕掛けになっている。違う表情をだすために、金太の目玉は二種類が描かれているわけだが、目玉の間隔が広いため、紐をきちんと引っ張らないと表紙のような白目になり、まさに「お化け」みたいになる。このようなおどろおどろしさも、この玩具のもっているおもしろさだ。
 「お化けの金太」もそうだが、郷土玩具は日本各地の風土や伝承を題材として作られたものや、親が仕事の合間に木や土、紙などの身近な材料を使って、子どものために作った玩具が起源となる。江戸時代にこれらの玩具は、社寺の縁日や門前市などで売られ、参詣者らの土産物として全国に広まり、玩具の主流となっていった。明治時代になると、西洋諸国との交流が進み、ブリキやセルロイドで作られた西洋の玩具が国内に大量に輸入された。そして、これらの玩具は、たちまち全国を席巻し、それまで不動の人気を誇っていた郷土玩具を押しのけていったのである。
 現在、郷土玩具は国内外の旅行者のお土産品として人気を博している。これは、郷土玩具が日本の伝統的な玩具であり、その素朴なたたずまいに魅了される人が多いからであろう。しかしながら、他の伝統技術と同様に、製作者の後継者不足という問題を抱えているものも多く、若手の後継者の育成が望まれているのである。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

退職にあたって
3月末で野村教授、泉助手が、民博を定年退職します。 民博での思い出、今後の抱負などを綴っていただきました。
結末なき終わり
 三月末で民博を去ることになります。長年勤務してきて申し訳ない気もしますが、正直、なんの感慨もないのです。しかし、感慨というものにこだわると、三年前、ちょうど六〇歳をすぎたころ、おどろいたことがあります。還暦です。本卦にかえるのだそうです。自分の父親にはみんなで赤い頭巾をかぶらせ、赤いちゃんちゃんこを着せたのをおぼえています。しかし、わたしはまわりのだれからもなにもいわれず、気がついたら六〇歳をすぎていました(満年齢ですが)。それで、何年もご無沙汰している敬愛するある先生におもいきって電話してみました。「ぼくも六〇歳になりました。なにか心境の変化でもおこるのではないかとおもっていたんですが、なんにもおこらないのです。そんなものでしょうか」と唐突な質問をすると、先生は電話口で爆笑された。その先生は八〇歳になられたということでしたが、年齢の風景も年齢によってかわってくると話しておられた。加齢はだれにとってもその都度、初体験だとよくいわれますが、そのことをおっしゃっていたのか。もしかして赤頭巾をかぶせられたわたしの父親もなにも感じるものはなかったのだろうか、とおもいました。
 じつは、このところわたしが研究テーマとしている現代社会におけるエイジングの変容を本格的に考えるようになったのは、そのときの自分のシラケきった還暦体験がきっかけになったとおもいます。
 もっとも、その少し前にも頼まれ仕事でエイジングにかかわる発表をしたことがあります。二〇〇〇年八月にフィンランドでひらかれた「ヨーロッパ日本研究者協会大会」に招待された際、せっかくだからオリジナルな報告をと、「ガングロ」など日本の十代のファッションとボディメイキングについて研究しました。その翌年には東京銀座資生堂の「サクセスフルエイジング講座」のホスト役をつとめる機会をあたえられ、老いについて勉強しました(一連のトークは『老いのデザイン』野村雅一編著、求龍堂、にまとめています)。
 しかし、エイジングの問題もふくめ、以前から続けてきた人間の身体表現の研究にちょっと新発見があったかなとおもったのは、二〇〇〇年春の企画公演「みんぱくミュージアム劇場──からだは表現する」をとりしきったときです。民博の特別展示館に円形劇場をつくって、世界のトップ・パフォーマーを招いて身体表現の可能性について考えようという、博物館には無謀な企画でした。それは、前からあった別の計画が頓挫した挙句、世紀の変わり目になにもないのは淋しいということで御鉢がまわってきたと記憶していますが、依頼されてから公演開催までまる一年もない状況で、わたしにとってもまさに一世一代の大芝居になりました。その成果について、まとまった形では未発表のままなのが気になっています。
 といっていると、全然好きでない自己満足の思い出話になりそうなので、いっきに結論(?)の感慨にもどります。
 エイジングについて考えるうちに、定年退職というのはたんに勤務先の決まりであって、自分の人生計画とは別である、とおもうようになりました。研究室の書籍や資料は引っ越しても、当分このまま研究生活をつづけるつもりです。人それぞれですが、わたしにとっては定年は引っ越し。とりあえず、そう考えています。

京都大学大学院文学研究科博士課程中退。京都大学人文科学研究所助手、南山大学文学部人類学科専任講師を経て、1978年に民博着任。総合研究大学院大学文化科学研究科教授。身ぶりやしぐさを含む人間の多様なコミュニケーションを世界規模で研究する。また、イタリア、ギリシャなど南ヨーロッパの民俗文化を研究。著書に『しぐさの人間学』(河出書房新社)『老いのデザイン』(求龍堂)『身ぶりとしぐさの人類学』(中央公論新書)『ボディーランゲージを読む──身ぶり空間の文化』(平凡社ライブラリー)など。

忘れえぬ人びと
 在籍した三〇年間で特に思い出深いのは、民博一〇周年記念イベント「みんぱくこんぴゅうとぴあ──世界の文字・音楽・仮面」のメンバーに加わったことです。仮面を担当した私は、マルチウィンドウ・システムを標本検索に適用するため、コンピュータに入力した画像や情報から仮面を選び出す作業を受けもちました。
 仮面は儀礼や舞踏・祭でよく用いられます。世界の仮面には、人、獣、爬虫類、虫をかたどったものや、それらを組み合わせたものが見られます。神聖、邪悪など、特別な意味や性格を象徴した仮面もあります。イベントで使用される仮面標本の画像をよびだす属性を一枚ずつカード化する作業では、各地域を専門とする多くの研究者にご協力いただきました。
 インドの古典叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の登場人物の仮面については、サンスクリット古典祭祀儀礼の専門家、井狩彌介先生、永ノ尾真吾先生。二つの叙事詩がインドネシアに伝わったあとの物語については、故吉田集而先生と吉本忍先生。南インドからスリランカの、疾病を退散させる厄病神の仮面については、田中雅一先生。新大陸では、イロクオイ族の神様によばれて柱の陰に隠れた際、鼻が曲がってしまった鼻曲がり男の面、メキシコ先住民の二重の神聖性をあらわす老人の面、神殿などの水口に置かれたというジャガーの仮面などについて、中南米を専門とする黒田悦子先生と八杉佳穂先生。アフリカのカメルーンやナイジェリア連邦共和国で多く見られる祖霊の仮面については端信行先生。民博を去った方や故人も多いが、ともにプロジェクトのメンバーとして立ち働いた仲間たち、そしてお世話になった皆様の面差しは今もなお忘れがたいものです。
 フィールド調査で印象に残っているのは、カナダ西部アルバータ州西南部の平原先住民の雄ブラックフットのリーダー、ジョー・クロウ・シュウ氏のことです。ロッキー山脈の東側フットヒルの一角にあるセンター内の青少年教育室には、彼の生涯にわたるすべての所蔵品が収められていました。私が訪れた一九九八年当時、文化担当であるお嬢さんのルイザさんに、お父様の一番大切なものを尋ねると、一隅に飾られたバッファローのローハイド(鞣(なめ)していない生皮)のアンベロプ「パーフレッシュ」を指し示されました。アンベロプとは、日常品や書類、乾燥肉と加工抽出された脂肪とベリーを発酵させた保存食品「ペミカン」や、場合によっては水もいれることができ、馬での運搬も可能な革製の風呂敷です。通常は、部族や家族ごとの意匠が施されているのですが、それは平原先住民の代表的なモチーフ「熊の爪(またはファイブ・コーナーズ)」も、ジグザグ模様の雷(稲妻)紋も何もない、無地の品でした。儀式の用具でもなく、それらを容れる器「ナトワ」でもなく、鷲などの鳥の羽のついた頭飾りでもなく、身近なアンベロプを選ばれたのは、彼の実直な性格をよくあらわしているように思えました。白人と一度も戦わずにブラックフット内の三トライブ(部族)間を調整し、率いてきた氏は、実在そのものがシンボルたりえた例といえるかもしれません。そして、それこそが未来の青少年たちに託したかった彼の想いだったのではないでしょうか。

東京大学大学院社会科学研究科修士課程修了、東北大学大学院教育学研究科博士課程中退後、東北大学教育学部助手を経て、1975年に民博着任。専門は、日本およびフランス農村社会に於ける家族生活の比較文化的研究。論文等「視覚的思考をめぐる覚え書――構造主義の交換論的視点から」(『国立民族学博物館研究報告』)「『構造』認識の『認識構造』序説――レヴィ・ストロース『交換論』の認識地平をめぐる若干の考察」(『社会学年報』)など。2005年には国際シンポジウム「発酵食品と感覚受容」を主催。

手習い塾
エチオピア文字で名前を書く 2
柘植 洋一
 今回は、まず図に示した拗音の系列の書き方を見ていこう。シャ行、チャ行、ニャ行、ジャ行は対応するエチオピア文字がある。これらはそれぞれ基本的にサ行、タ行、ナ行、ダ行の文字に頭に横線を一本引いた字形となっていることに注意されたい。キャ、ギャ、ミャ、リャ、ヒャ、ビャ、ピャ行については、イ段の文字とヤ、ユ、ヨの組み合わせで表記することになる。キャ=キ+ヤ、キュ=キ+ユ、キョ=キ+ヨという具合だ。
 詰まる音「ッ」については、アムハラ語でも詰まるか詰まらないかは大事な発音上の特徴としてあるが、カナと違ってそのための特別な手段をもっていない。したがって羽田(ハタ)さんと八田(ハッタ)さんは文字で書くと同じハータになってしまうので、八田さんは羽田さんでないことを書いた文字を見せて、はっきり発音して違いを強調する必要がある。
 次に、延ばす音について見てみよう。日本語ではオジサンとオジーサンのように母音の長短の使い分けは重要だが、アムハラ語ではそうではない。したがって文字上でその違いは反映されない。たとえば小阪(コサカ)さんと高坂(コーサカ)さんは、エチオピア文字で書くと、どちらも同じコ-サ-カになってしまう。ただ、どうしてもはっきりさせたければ、高坂はコ-オ-サ-カというように書くと、きちんと読んでもらえる(例2)。
 以上のことを総合すれば、東京はト-キ-ヨ、京都はキ-ヨ-ト、北海道はホ-カ-イ-ド、と書けばよいことがわかる(例3)。こうして字形をしっかり覚えれば、どんな日本語の単語や文もエチオピア文字で書き表すことができる。ただ、もし日本語文を書く場合は、「を」は普通の「オ」で、「~は」は「ワ」と、発音通りに書く必要がある。
 では、例4をみてみよう。カラテ(=空手)はそのままアムハラ語で使われ、実際、エチオピアで出版された代表的なアムハラ語辞書にもこの語形で載せられている。ただし、日本語からの借用語とは書かれていない。エチオピアを歩いていて日本人だと見ると、「カラテができるか?」とよく聞かれるが、これはブルース・リーの映画を通じての現象で、彼を日本人と勘違いしている人も結構多いようである。
 次に、本当の(?)日本人、それも女性でおそらくもっとも有名なのは、「おしん」ではないだろうか。テレビの普及率はまだまだだが、数年前にエチオピア国営テレビで放映されて大変な人気を博した。
 ヒロシマ、ナガサキは、学校教育を受けた人には東京と並んで、日本を代表する地名として知られている。
 宣伝ではないが、ソニー、トヨタは優れた日本製品を代表するブランドとして、誰もがあこがれる名前である。
 最後にジャパンはもちろん日本語ではないが、残念ながらニホン、ニッポンといってもエチオピア人には通じないので、これぐらいは覚えておく必要がある。たとえ言葉ができなくとも、エチオピア文字を書いて見せただけでエチオピア人は目を丸くして驚くに違いない。そこから新しいコミュニケーションが生まれるかもしれない。
*エチオピア暦を記したカレンダー、拗音の書き表し方、例1、例2、例3、例4は画像データの本紙P17でご覧下さい。
*「手習い塾」は今回で終わります。

地球を集める
チベット、ポン教のマンダラとタンカ
「ポン教」とは修験道のようなもの
 チベットと聞くと、「ラマ教」とひらめく人がいる。本館の展示にもその言葉は用いられているから、一応ポピュラーな名前と言えるだろうが、ラマ教という宗教はない。この用語は、モンゴルに布教に来ていたカトリックの宣教師団がそこにおこなわれていた宗教を指して名づけたものである。それがたまたまチベット大乗仏教だったので、それ以後、チベット仏教全般をもラマ教と言い慣わすようになった。ラマ教と名づけた理由は、「ラ」(生命の根源の意)を託する師を大事にすることによるが、その理屈でゆけば、どの宗教もラマ教になってしまう。
 チベット大乗仏教は七世紀にヤルルン家がチベットにはじめて統一王朝を立てたとき、統一のイデオロギーとして公的にインドから導入された。聖徳太子による仏教導入の事績とよく似ている。チベットにはそれ以前からポン教という宗教があったのだが、統一王朝がまずしなければならなかった仕事は、ポン教とそれにつながる世俗勢力の力を削ぐことであった。ポン教自体、チベットにもとからあったものではないらしく、伝承によれば、西方から移入された。また、統一政権が目の敵にしたほどには組織化されていなかったが、民間信仰やシャマニズム等の土着的要素と密接な関連を保ちながら、特に葬送儀礼において独自の体系を築きあげていたようだ。仏教側からの迫害は、七世紀以降二〇世紀にいたるまで断続的に続き、ポン教集団は(中央チベットから見れば)辺境の地に追いやられた。中国青海省、四川省、雲南省、甘粛省、およびヒマラヤ南麓などであるが、少数集団ながら、現在でも強固にその伝統を保っている。一方、チベット仏教はポン教から多くを学び、多くを借用した。チベット仏教の哲学・儀礼の随所にポン教からの影響が認められる。
 日本における宗教事情との対比から、ポン教を日本の古い神道にたとえる人がいるが、私はチベットの仏教もポン教も、日本でいえば、修験道だと思う。ポン教のほうがやや原初的な修験道といえるかもしれない。修験道が日本の狩猟採集文化を背景とする基層文化を色濃く反映しているのと同様、ポン教はチベット仏教よりは古い精神基層を保存していると考える。ただ、日本にはポン教研究の基盤そのものがない。世界的に見ても、研究は仏教に比べ、はるかに遅れている。そのような状況を改善するため、一九九五年度以降ポン教文化研究に注力してきた。
 私はチベット・ビルマ歴史言語学を専攻しており、ポン教徒達が話していたとされるシャンシュン語(九世紀には死語となった)の再構成に興味があったのだが、その関係でポン教文化全般を扱うことになったのである。研究基盤整備として、シャンシュン語再構成に有用な未記述言語の調査研究、ならびに、ポン教関係の典籍と図像資料の収集をおこなうこととした。ポン教には宗派がなく、仏教におけるダライ・ラマのような存在もない。したがって、典籍にせよ、図像資料にせよ、何がオーソドックスかがわからない。一一世紀以降仏教の動きに刺激されて、多くの典籍類が書かれ、編纂されたが、それが仏教でいうカンギュル(経部)やテンギュル(論部)のような体系をなすに至らなかったらしい。

五台のパソコンをもちこんで目録作成
 一五世紀になって典籍類の体系化がおこなわれ、カ(仏教の経部に相当)やカテン(論部)にまとめられたが、「カ」はともかく、「カテン」は下位分類に一貫性がなく、付属する目次にも信頼性がなかった。したがって、われわれの仕事はまず経典プロパー以外の文献がつめこまれているカテンの目録を整備し、何がどこにあるのかを特定することから始まった。一九九七年春、五台のラップトップコンピュータをネパール、カトマンズのティテンノルブ寺にもちこみ、目録の作成を目指した。厄介だったのは、コンピュータのネパールへのもち込みだった。当時、コンピュータは輸入すると三〇〇パーセント課税対象となる物品だったからだ。科研の分担者が一台ずつ抱えて、どうにか無事税関をすり抜けたときはほっとした。
 次なる難関は、何ゆえに「目録」を作らねばならないのかをポン教学僧に理解してもらうことだった。彼らの勉強方法に由来する知識力と記憶力は抜群で、すべての経典は彼らの脳のなかに「リニアに」納まっているから、別に目録など必要としない。中途半端に西欧の論理によって仕事をしているわれわれのほうがおかしいのである。
 この調子だと、コンピュータの操作を教える段になったらどうなることかと心配していたが、杞憂だった。もちろん、コンピュータ用語をチベット語で表現するのは至難の業である。チベット人学者、サムテン・カルメイさん(二〇〇三年度外国人客員教授)にとってさえ。だが、アシスタントが英語で(チベット人学僧は英語はまったくわからない)説明しつつ、入力方法を実地に示すと、三〇分後には彼らは自分たちで直接入力し始めた。驚くべき好奇心と理解力である。
 こうしてできたカテン目録をもとに収集すべき図像資料の選定が始まった。極めて迂遠な手順だったが、これが逆に幸いした。仏教の場合は、テンギュルのなかに図像同定の文献があるのではなく、種々の文献類から抽出された図像に関する儀軌(規則)と解釈が別に編纂されている。サキャ派の『ギュデー・クントゥー』はその典型である。ポン教の場合はこれがなかったため、われわれの手で儀軌を論部文献群から抜き出し、学僧の説明を受けつつ、体系を再構成することができたのである。

ポン教の体系を示しうる世界唯一の資料
 マンダラやタンカそのものに美術的価値を認める立場もあるが、民族学に従事する者にとっては、ポン教徒の宇宙観をシステムとして理解することが第一であり、その作業を文献整理の段階からおこなえたのはラッキーというべきであろう。マンダラとは神々のパンテオンを真上から見た二次元図像であり、多くは幾何学的絵柄をなす。これに具体的な神格を落とし込んだものがタンカ(いわゆる仏画)である。また、マンダラとタンカの本来の用途は、僧が瞑想するとき、瞑想の順序やゴールを間違えないように横においておく「参考図」であって、大変実践的なものである。この点、マンダラを仏像がわりに尊崇の対象とする日本とはずいぶん異なる。
 マンダラとタンカそのものは、ティテンノルブ寺をネパールに再建したテンジン・ナムタク座主の出身地、中央チベット北部のキュンポ地方にいる絵師に依頼した。伝統的な書き方と技術を保っているからである。サムテン・カルメイ氏、立川武蔵民博名誉教授と筆者が科研の調査などを利用して、数回にわたり、できた図像と儀軌を突き合わせる作業を繰り返し、二〇〇四年度にやっとすべての図像が揃った。
 民博のポン教図像資料はこのようにして収集された新しいもので、古美術としての価値はないが、体系を示しうる世界で唯一の資料である。この成果は『国立民族学博物館調査報告』の一二号および六〇号として公刊されている。

生きもの博物誌(ヒツジ/ネパール)
羊飼いの受難
森林保全と放牧料
 「ここで放牧してはならない。ヒツジは森林の若芽を食べるし、村のウシやヤギの草まで食べてしまう。どうしてもここで放牧するのなら、お金を払ってもらう」
 一九九八年三月、東ネパールのナギ村でのことだった。
 そう詰め寄られたのは、ルムジャタール村の羊飼いである。彼らは三〇〇頭から五〇〇頭のヒツジを連れて、ヒマラヤ山脈の高山から低地まで季節的に移動する。彼らに自分たちだけの放牧地はない。羊飼いはゆく先々の村で放牧料を支払い、ヒツジを放牧する。
 男はナギ村のサムダイの役員と名のった。サムダイとは、ネパール政府が森林保全を目的に、各地で導入した森林利用者組織である。政府は住民に国有林の管理を任せ、森林の保護育成を試みた。これに伴い、ナギ村のサムダイは、村にくる羊飼いから放牧料を徴収しはじめた。彼らが要求した放牧料はよその村と較べて、とてつもなく高いものだった。
 「ヒマラヤから平原まで、われわれは四つの郡で放牧している。四つの郡にいくつ村がある?たった一日放牧するだけなのに、何がお金だ!」
 彼らは自分たちの立場を訴えた。しかし、男は規則を盾に一歩も譲らなかった。
 「これは私たちが作った規則なのだ。郡の認可も受けている」
 結局、羊飼いは男の条件をしぶしぶと飲んだ。草の少ない場所を連日移動したため、ヒツジもかなり弱っていた。

どこへ行っても「金、金、金」
 翌日、今度は隣村の男たちが放牧料を徴収しにきた。羊飼いは「あなたたちは郡の認可を受けているのか? 認可がなければ、お金を取る権利はない」と反論した。すると、男たちは黙り込んでしまい、お金も取らずに帰っていった。それでも羊飼いは自らが用いた戦術の効力をまだ疑っていた。「きっとまたお金を取りにやって来るだろう」と。そこで、彼らはもう一日放牧する予定を切り上げ、翌朝早くナギ村を発ったのである。
 「どこへ行っても、金、金、金だ。これじゃ、おちおち放牧できない」。羊飼いはいった。
 移動する羊飼いにとって、サムダイの導入は新たな受難のはじまりだった。自分たちだけの放牧地をもたず、移動する先々の村で放牧せざるを得ない以上、羊飼いは住民との関係を調整しなければならない。こうしたなかで、彼らは黙って相手に従ったのではない。羊飼いは、規則を盾に、規則以外の話に耳を貸さないサムダイに対し、規則を用いて切り返した。かくして彼らは暫定的ではあるにせよ、森林政策が変化するなかでも、放牧を継続しているのである。その後、ネパールでは治安が悪化した。西ネパールで蜂起したマオイスト(極左ゲリラ)と、その鎮圧をめざす政府との武力闘争は全国展開し、この地域にも拡大した。移動する羊飼いの受難は、まだまだ続きそうである。

ヒツジ(学名:Ovis aries
ネパールで飼養されるヒツジの多くはバルワール(Baruwal)とよばれる在来種で、山地での移動や森林での放牧など、改良品種では耐えられない環境でも放牧できる。羊毛は粗く太いが、洗うと縮む性質を持ち、フェルトの織物に加工される。老齢やケガで「歩けなくなったヒツジ」は生きたまま仲買人に売られ、肉として都市の市場に送られる。

見ごろ・食べごろ人類学
死を願う人
疾(と)く死なばや
 数年前に北タイの山地で出会ったアカの老人が忘れられない。八〇歳を超えたその老人が阿片常用者であることは、青ざめた顔色とやせこけた体つきから隠しようもなかった。老人は、長年の喫煙の習慣ゆえか肺が悪く、ある日、隣家に住み込んでいたわたしのところに薬を所望に来た。
 「弟よ。胸がゼーゼーと鳴ってとても苦しい。なにか薬を分けてくれ。そうしないとわたしは死んでしまうよ」
 わたしは、あまりに具合の悪そうな様子になんとかしてあげたかったが、あいにくその症状に効きそうな薬は持ち合わせていなかった。ところがそれ以来、老人はほぼ毎日、日課のようにわたしのところを訪れるのだった。
 「弟よ。今日もわたしは具合が悪いよ。おまえの薬でどうにかしてくれ。でないと死んでしまう」。しかし、わたしに頼んでもどうにもならないことを悟ってか、老人の言葉は月日を経るごとに、「どうにかしてくれ」から「どうにか早く死にたい」という独り語りに変わっていった。
 「あぁ、苦しい。こうなったら早く死にたいよ」
 「わたしはもう生きていたくない。早く死んでしまいたい」
 そして村人たちも、「あの人自身も、われわれみんなも、あの人がもうすぐ死ぬのはわかっているんだ。その準備もしているよ。だからおまえもあの人の独り語りにつきあうのはほどほどにな」と淡々と言うのだった。結局、この老人はそれから一年ほど生き延びた。死の直前にも、わたしのところにやっとのことで歩いてくるなりぺたりと座りこみ、同じ言葉を述べたものである。

老いを生きる
 老人がいよいよ衰弱し、今日か明日かという状態に至ったときのことを思い出す。老人は、かつて村長をつとめたことがあり、さらにアカの儀礼や宗教について卓越した知識をもっていたので、アカの社会で一目置かれていた。そこで近隣遠方かかわりなく親類縁者や知人がいる村に使いが出されて死の予兆が伝えられた。村の内外から老人の家に集まってきた大勢の縁者らは、当の老人に対する最後の「精力をつけさせる儀礼」の様子を静かに見守った。そして死の当日。一族を今日まで支えたひとりの偉大な人物の死は、集まった者たちに大きな悲しみをもたらした。
 老人が亡くなるまでのあいだに、わたしは死をめぐるたくさんのことがらを老人から教えられた。死は肉体がなくなるというひとつの通過点に過ぎない。死はほんのひとときの状態なのだ。死のあとには、冥界で祖霊としての長い「人生」がはじまるのだから。
 老人は、恐ろしがることも嘆くこともなかった。死が確実に自分に訪れると悟ってからはそれを受け入れたし、死を待ち焦がれてさえいた。祖霊になり、子孫を見守り、子孫から手厚くまつられることに喜びを見出していた。
 冥界に行くためには、老いることが必要な過程である。しかし、ただ老いればいいというわけではない。「よく老いる」ことが冥界への道を開く。夫婦仲よく暮らし、子孫を残すこと。今日まで生き延びることを可能ならしめた実践と知恵を、子孫から参照されること。要は一人ひとりの生き方なのだ。だからアカの社会では、よく老いることを実現しながら死を受け入れて生きている老人に慈しみと尊敬の目がごく自然に向けられる。

魂の役目
 冥界に行きついた魂は、折にふれて家にあらわれる。子孫が憂いなく暮らしているか、見るためである。そのとき子孫は、祖先に献上する食べ物や飲み物を用意することに腐心する。粗相があれば、祖先からそっぽを向かれてしまい、安寧な暮らしが保証されなくなるからだ。日々の暮らしのなかで、祖先に見守られているということが子孫に計り知れない安心感を与える。死は、残された者たちにとっては悲しいできごとだが、その悲しみは日々を生き抜く力に遠からず転化されていくのである。
 ところが最近では、老いも死も安心して迎えられなくなりつつある。老いて死のうにも、それを受け入れる子孫がすでにいないこともあるからである。たとえばここ数年、タイで社会問題になっている覚醒剤にからんで、多くの若い世代が命を落としたり刑務所に入ったりした。農業をいくら続けてもたいした現金は稼げない。ならばと、違法だがうまくいけば巨額の現金を稼げる覚醒剤の売買に手を染める者、現実逃避や快楽のために服用して中毒になる者があとを絶たない。また、仕事や学業などのために都市へ出て行った若年層も戻ってきそうにない。残っているのは老人ばかりという村は多い。
 冥界に行きついた老人はいつまで子孫を見守りつづけられるのだろうか。

バックナンバー
 
定期購読についてのお問い合わせは、ミュージアムショップまで。
本誌の内容についてのお問い合わせは、国立民族学博物館広報企画室企画連携係【TEL:06-6878-8210(平日9時~17時)】まで。