月刊みんぱく 2006年4月号
2006年4月1日発行
アモックも増えているように思える。これからも増えていくのではないだろうか。マレー語のAmogは、「決死の戦士Amucoに由来する言葉であり、シュテハン・ツヴァイク(オーストリアの作家)の『アモック』や、サマセット・モーム(イギリスの作家)の『雨』などの短編小説によって知っている方もおられるであろう。
アモックは狭い村落共同体の生活のなかで、何らかの侮蔑を受けたと感じた者が、抑うつ状態となって村落の外の茂みに数日間うずくまり、その後に突然、武器をもって村人を無差別に襲うのである。殺されずに取り抑えられると、「なにか変な気分になった、なにが起こったのか分からない」と健忘を訴える。村人は体面を傷つけられたとき、このような狂気の型を選びえることを見聞きしており、彼(彼女)はその知識に基づいて興奮する。それ故に「文化結合精神病」とされてきた。精神医学的症状診断では、人格解離を伴う急性反応精神病ということになる。
ところが近年の日本やアメリカ、西欧諸国で、アモック的無差別殺人事件がときどき報道される。一九九九年九月、JR下関駅に、三五歳の男がレンタカーで突っ込み、さらに包丁で通行人に切りつけ、三人を殺害し、一二人を傷害した。大阪池田市における小学校乱入事件もアモック的だった。犯人はさまざまな精神病であったり、または正常であったりするが、殺人プロセスはアモック現象である。自分は社会から弾かれていると敏感に感じ、どうせつまらない敗者の人生なら終わりにしよう、自分が死ぬのなら、この社会も無くなればよい、と考える。情報化によって、彼が対象とする社会は共同体ではなくなり、不公平な情報社会全体となっている。しかも差別抑圧と絶望と大衆への復讐は、情報化によって学習されている。文化人類学者と精神病理学者が共同研究すべき領域だろう。
のだ まさあき/1944年高知県生まれ。北海道大学医学部精神病理学専攻卒業。関西学院大学教授。精神科医、評論家、ノンフィクション作家。専攻は、比較文化精神医学、文化人類学。医学博士。著書多数。
子育ての風景は変わってきている。
女性の社会進出、メディアの進出、出稼ぎ、移住などの
社会変容にともない、子どもと大人の結びつきには、
伝統や従来の理想にしばられない柔軟性が求められる時代である。
特別展「みんぱくキッズワールド」の開催を機に、
アジア諸国の最新育児事情を見ながら、
社会のなかでの子育てのあり方について考えてみる。
今回の特集は「育てる」というテーマで、特に子どもを育てるということを考えてみたい。「育てる」という言葉のもつ意味は多様であり、その対象はもちろん子どもだけではない。部下や後輩を育てることもあれば、人間の集合体である組織を育てるといったこともある。犬や豚といったペットや家畜、花や稲のような植物はもちろんのこと、ときには、「愛を育てる」といった具合に、無体物に用いられることもある。対象が異なれば、育てる目的は異なる。共通しているのは、育てる対象になんらかの思いを育てる側が抱いているということだろう。
かつて機能していた社会の伝統のなかには、子どもの健やかな成長を保証するためのさまざまな考え方や理想、それらを実現するための社会的な仕組みとしての通過儀礼などが存在してきた。また、それぞれの地域社会のなかで結ばれる子どもと大人との関係は、子どもが成長していくための大切な条件となってきた。例えば、中国の漢族社会では通常、子どもは父方の家に属することになるが、成長に伴う儀礼活動を盛大におこなう役割は母方の親族にあり、子どもの経済的、社会的な後ろ盾となってきた。また、イヌイット社会では、親以外に「儀礼的助産人」という世話人の存在が、子どもが成長していく過程において物心両面において支えとなってきた。ミクロネシアにしばしば見られる母系社会においては、子どもにとって、母方のオジが大切なことを相談する相手であり、その役割はじつの父親よりもはるかに大きいものとなってきた。こうした現象を見ていくと、子どもを育てるのは親だけではないということがわかる。子どもをとりまく社会のなかに子どもを育てるための仕組みが存在してきたのである。
子どもの影が薄い
近代以降の国民国家の出現や経済活動の国際化は、子どもをとりまく環境を変化させ、子どもを育てるという行為に変化を与えてきた。それ以上に、現代社会における地球規模での情報の流通は、子どもを育てるという行為に影響を与えてきた。とりわけ、日本の社会では、社会のなかでの子育てという意識が薄れ、親自身が少ない数の子どもを育てるという少子化の傾向が強まり、さらには子育てマニュアルなどに子育ての具体例を学ぶ親や教師が増えている。こうした現象は、親と子どもとのあいだに、より親密な関係を築き、密度の濃い子育てを保証するかのように見えなくもない。一方で、社会のなかで、ともに子育てをおこなうという意識が逆に希薄なものとなっていく。子育ての真っ最中の家族が入居するようなマンションを、簡単に倒壊するように設計してしまうような行為や、子どもの安全を守るための特別な措置といったことが国会で議論されること自体が社会のなかでの子どもの不在を浮き彫りにしているといえるだろう。
これから、ますます子どもをとりまく環境は変化していくであろうし、子育ての様子も変わっていくだろう。変わらないのは、子どもを育てるのは大人だということである。子どもが健やかに育ってほしいと願う気持ちを育てる側が抱いていれば、親であっても親以外の人間であっても、子どもにとっては幸せなことであろう。子どもを育てることに対する価値感を社会のなかで共有できればこそ、子どもは健やかに育っていくのである。
各地で開催されている親子教室や子育て講座などには、「パパも妊婦疑似体験」といった催しが組み込まれていることが多い。約一〇キログラムの重さがある妊娠疑似体験グッズを装着して、妊娠している妻の状態を感覚的にも把握しようとするパパの姿は、現代的なほほえましい光景といえる。あるいは、妻の手をにぎって「ヒーヒーフー」の呼吸法を唱和し、出産の一部始終を妻と共有しようとする夫の姿はマスメディアなどでもおなじみのものだ。
男性はそもそも妊娠も出産もしない。雌雄異体の生物のなかで、体験の共有を目的としてオスがメスの生殖活動を疑似体験しようとする種は、唯一人類だけといえるだろう。このような、身体や本能の拘束を乗り越える行動をとるところが、人間という生物の特殊性であり、それこそが人間の文化の源泉である。人間が発展させてきた子産み・子育てにまつわる文化は、多様で豊富だ。それは、「男」とはなにか/「女」とはなにかをめぐる社会的・文化的な約束事(ジェンダー)と深くかかわっている。
歴史学の進展により、子育てを女性(母親)にしかできない営みとする考え方は近代になって構築されたことが明らかにされつつある。子どもを産む性である女性には、先天的に母性愛が備わっており、女性であれば子どもをもちたい、産みたい、いつくしみ育てたいと考えるのは自然の摂理である。母性愛本能をもつ女性が家庭で子育てに専念してこそ、子どもは「健全に」育つ。そういった考え方は、産業化を背景とした近代家族の誕生とともに生まれ、強化されていった。
戦後日本においては、「男は仕事、女は家庭」という性別分業が一般化するとともに、「三歳までは母の手で」といった言説が広がることによって、乳幼児期に子育てに専念する母親は増加していった。高度経済成長期には子どもを中心とした家庭文化が花開く一方で、子育て中の母親の社会的な孤立化という問題が生じた。「密室の子育て」状況が、育児ノイローゼや児童虐待などを引き起こす原因として注目されるようになったのは、一九八〇年代以降のことである。
現在、子育てを女性(母親)だけの責任とする考え方は時代遅れのものとなりつつある。冒頭で挙げたように、子産み・子育てにもっとかかわろうとする父親は増えているし、保育現場では男性保育士の導入が定着しはじめている。
子育ての風景は変わっていく。その変化は、「生物学的運命」に拘束されきることのない、じつに「人間くさい」ものである。
子育て不安が高まりを見せる現在、藤野恵美『ゲームの魔法』(アリス館、二〇〇五年)はマルチメディア時代の子育てを考える上でのヒントを提供してくれる。小学六年生の女の子がアトピーの検査入院中に長期入院患者である同学年の女の子の存在を知るのだが、面会謝絶のため、会うことがままならない。院内学級で教える女性の援助もあり、二人はオンラインゲームを通して交流を深めていくことになる。子どもに寄り添いながら、子どものメディア体験に理解を示している作者の姿勢が印象的な作品である。
ところで、本書はオンラインゲームをミヒャエル・エンデの『はてしない物語』になぞらえている。『はてしない物語』は、本好きで空想癖のある男の子が古本屋で万引きした同名の小説を読み進めていくうちに、書物のなかの物語世界に入り込んで、ファンタージエンという国を救うべく行動する作品だ。虚構世界を生きるという物語体験において小説とオンラインゲームに変わりはないはずだが、『はてしない物語』を読むことを奨励し、オンラインゲームをプレイすることを規制したいと思うのが子育て中の保護者の本音であろう。しかしながら、小説がニューメディアであった一八九〇年代、現在のテレビゲームと同じように、小説が人々の不安を掻き立てていたことが知られている。
蓋(けた)し小説に耽溺(たんでき)するものの常(つね)として、自ら其(その)書の主人公となりて、一喜一憂(いっきいちゆう)、必ず主人公と一致に出(い)づ、主人公の不幸を見ては悲しみ、其(その)幸を見ては之を喜び、平居(へいきょ)自ら主人公に擬(ぎ)するに至る。(略)学校の教師は勿論、家庭に於ける父兄たるものも、宜(よろ)しく注意を茲(ここ)に用ゐて、子弟をして斯(かか)る新聞雑誌書籍等に耽溺せしめざらん事肝要なり。(『教育時論』二八九号、一八九三年)
「小説」・「新聞雑誌書籍」を「テレビゲーム」に置き換えれば、テレビゲーム有害論として流用できそうで興味深い文章である。『ゲームの魔法』を読んで、子どものメディア接触を性急に規制する前に、子どもとともにマルチメディアとの付き合い方を模索できる親子関係を築きたいものだと、二児の父親として思った。
日本では近代化の過程で、企業戦士として働く男と銃後の守りを果たす女という図式によって育児はもっぱら女の仕事とされた。時代はとうに変わっているにもかかわらず、今もなお、保育の世界では慣性の法則が働いているように思われる。公的な保育施設を利用するには「保育に欠ける理由」を届け出なければならない。例えば、共働きの家庭なら、家庭における女性の不在を「欠ける」状況として証明書付で申し出なければならないのである。これに対してモンゴルの場合、近代化は社会主義のもと、男女共同参画の理想とともに推進されたこともあって育児を必ずしも女性だけに託そうとはしてこなかった。
子どもの名前はもはや美辞麗句となり、子どもの命を守るためには医療に頼る時代になっている。ただし、近年の急激な市場経済化によって、病院に行ける人と行けない人の差が未曾有の勢いで拡大すると、ますます育児は女だけに任せられなくなっている。というのも、ビジネスの才覚はそもそも性差に対応しているわけではないから、性にかかわらず、能力や好みの違いに応じて社会進出がさかんであり、一方の育児は、広範囲の親戚や知人らによって人生の喜びの一部として分かち合いにより実行されているからである。
古きよき共同体が昔ながらに存在しているのではなく、未来の育児の姿をここに見出すことができよう。
イスラーム革命後の男女隔離政策によって、小学校から男女別学になるなど社会生活において男性しか入れないところ、女性しか入れないところの区別が厳しくなった。その結果、女性しか入れないところでは女性が働くことになったため、女性の職場が増えることになった。近年では核家族化が進み、離婚率も増えている。学童保育制度などのないイランでは職場で職員の子どもが遊んでいることはめずらしくないし、常に大人の誰かが子どもを見ているように気を配る余裕がある。裁判所のドキュメンタリー映画にも学校が終わって母親の職場に来ている子どもの姿がある。いかめしい裁判官がその子に優しく話しかけるシーンが印象的である。
家庭と職場が全く切り離され、効率最優先の日本の職場ではまず考えられないことであろう。日本の社会にはあまり見られることのなくなった「子どもの居場所」がイランにはまだあるような気がする。
村で「孫育て」が増加するのは、女性の出稼ぎが一般化しはじめた一九八〇年代後半以降。気候条件により収穫が左右される天水稲作を生業とする村では、近隣に労働市場が存在せず、現金収入の機会が極めて限られている。その結果、バンコク周辺都市へ働きに出る者が後を絶たない。
出稼ぎといえば男性の仕事であった時代を経て、一九七〇年代後半から、世帯の維持という役割を付与されていた女性たちが出稼ぎに出はじめた。当初は、規範に反するものとして陰口を叩かれた。しかし、次第に女性が働きに出ることは親を助け、子を養育するひとつの手段として、村人に認識されていったのである。
さて、四月はタイ正月の時期だ。バンコクで働く人びとにとって、長期休暇がとれる数少ないチャンス。両親たちは帰省ラッシュで混み合うバスに乗って、こぞってバンコクから子どもたちに会いにくる。
日本で生活する朝鮮半島の出身者は、歴史的に戦前から住み続けてきた旧植民地出身者やその子孫が構成するオールドカマーと、一九八〇年代後半に韓国の海外旅行自由化によって来日したニューカマーに大別できる。来日事情は異なるが、学校経験のとぼしいオールドカマー一世の母親たちが一番力を入れたのも二世の学校教育であった。今日、在日コリアンが日本社会で同様の能力を発揮できるのはいうまでもなく、貧しい生活費を削って子どもの教育費を惜しまなかった一世の熱心な教育のおかげであろう。学校が終わると、塾通いや習いごとで子どもの一日は長い。子どもへの教育費に生活費を削るのはニューカマーコリアンも変わらない。
一方こうした子育てに対する親の期待は、外国生活のとまどいを解消するための生活戦略でもある。子どもはホスト社会と親の文化との交流を図る、立派な論客となる。とりわけ、ホスト社会から学んだ文化や制度を家庭に持ち運んで伝え、ホスト社会の窓口になるのである。親にとっては立派な日本語の先生にだってなるのだ。
今、世界のミュージアムが大きく変わろうとしている。
一方的な伝授の場から、ともに考え語らう場へ。
スウェーデンとタイにあるふたつの博物館から
新しいミュージアムのあり方を考えてみよう。
ミュージアムの素性が話題になるとき、しばしば引き合いに出される話だが、ミュージアム(museum)という言葉のおおもとはギリシャ語のムセイオン(Mouseîon)であり、その意味するところはミューズ(Muse)、つまり学問と芸術をつかさどる女神たちのおわします神殿であるという。
では、こういうのはどうだろうか。フランス語でミュージアムに当たる言葉はmuséeだが、同じフランス語にはmuserという古語(動詞)があって、こちらは「無為に時間を過ごす」という意味になる。もちろん、辞書によればmuséeの語源もギリシャ語のムセイオンに行きつくとあり、muserという古語との関係を窺(うかが)わせる記述は見当たらない。どうやら言葉の系列としては、muserの方はamuser(楽しませる)を経てamusement(娯楽)へとつながっていくらしい。
けれども、もしかしたら、museumやmuséeという言葉は、muserという古語の記憶とどこかでたがいに響きあっているのではないか・・・。正直にいうと、少し前から、世界各地のさまざまなミュージアムを訪ね歩くうちに、私の中でそのような思いが少しずつ芽生え始めている。
ともに考え語らう場
今年初め、私は、スウェーデン第二の都市イエテボリにある世界文化博物館を訪ねる機会を得た。同博物館は、二一世紀の新しいミュージアム像を提示する博物館として世界の耳目を集めている博物館のひとつである。
二〇〇四年一二月にオープンした同館では、あらたな博物館像を模索した結果、従来の博物館がともすれば過去にばかり目を向けて、必ずしも同時代の世界と向き合ってこなかった経緯を踏まえて、既存の学問領域にとらわれずに今日的問題を採り上げるという方針を掲げた。このため、移民や麻薬、エイズ、犯罪、失業、宗教間の軋轢(あつれき)といった、これまでの博物館では傍流の扱いに留まっていた「カレント・イシュー(現代の問題)」が、ここでは展示などを通して正面きって扱われることになったのである。
いうまでもなく、これらの問題には明確な答えはない。したがって、そうした方針の基本にあるのは、一言でいえば、かつてのミュージアムのように、来館者に対して一方的に何かを教えようとするのではなく、世界が共有する出口のない問題を採り上げて、ともに考えようという姿勢である。
たまさか私が訪ねたときは、「地平線―アフリカの声」というアフリカの現在に焦点を合わせた展示と、南米オリノコ川流域に住む人びとの文化を紹介する展示、それにグローバリゼーションの一側面としてのエイズをテーマとする展示がおこなわれていたが、いずれも、内容の切り口と展示手法の両面において意欲的な取り組みであった。
同館はまた、隣接するイエテボリ大学に、展示空間を実践的な授業の場として積極的に開放し、一方で独自に大学院修士課程にあたる国際博物館学コースを設けるなど、教育面でも前向きな施策を打ち出している。
しかしながら、今回、私がもっとも注目したのは、そんな展示活動や運営面での新しい試みもさることながら、場としての世界文化博物館が、多くの来館者に実際にどのように利用されているのか、ということであった。
担当者から説明を受けた翌日の昼過ぎ、普通の来館者の目線で確かめてみたいと思い、あらためて一般の入り口から同館に足を踏みいれてみた。すると、入り口のフロアからいきなり幅二〇メートル以上もある木の階段が、二階へ向かってまっすぐにのびているのが私の目に飛び込んできた。天井と奥の壁は巨大なガラスで覆われているため、それは溢れかえる外光に包まれて、まるで天国にいたる階段のように見える。階段は通称スペイン階段とよばれているらしい。映画「ローマの休日」に出てきたあの名物階段だ。そのスペイン階段に、老若男女の来館者たちが思い思いに腰を下ろし、あるいは語らいにふけり、あるいは飲食に興じているのである。
階段を上がり切ったフロアはかなり広いオープン・カフェとレストランになっていて、来館者は、そこから食べ物や飲み物を買ってきては飲み食いしているようだ。むろん、カフェやレストランで食事をすることもできるが、階段にゆったりと座りこんで飲み食いするのがファッションなのだろう。人びとの笑いやさんざめきがこだまし、コーヒーや紅茶、スープのかおりが立ちのぼる大空間は、もはや単なる階段というより、ひとつのパブリックな広場として機能しているのである。
このように、世界文化博物館では、そのソフト(活動と運営)とハード(建築)の両面で、来館者一人ひとりとともに考え、ともに語らい、楽しむための場としての博物館のあり方を探ろうとしているのだ。
ふたつの博物館の共通点
帰りがけに、私はつい今しがた目にしたスペイン階段の光景を反芻しながら、昨年夏にタイを訪れた際に、首都バンコックから車で三時間ほど走ったところにある小さな海辺の漁村で見た地域博物館のことを思い起こしていた。
イサンという名の村の一角には小学校の敷地ほどの空き地があって、そこに木造二階建ての寺院風の博物館が建っている。教室ふたつ分ほどの展示室には、ずっと昔、難破した中国船の生き残りがこの村を開いたという言い伝えを裏付ける遺跡の写真や、そこから掘り出された中国製陶磁器の破片、村を取り巻く地勢の特徴を示す写真やグラフ、それに仏塔や仏像の石彫レリーフなどが、整然とガラスケースに収められて展示されている。ただ、欧米や日本の博物館とひとつだけ違うのは、展示室の奥に仏像が置かれていて、地元の人びとが時折りそこにお参りに来るという点である。村の博物館は、地域の人にとってはお寺の代役も務めているのである。
外に出ると、博物館の前の広場には田舎風の食堂があって、地元の海や川の幸を使ったおいしいタイ料理を出してくれる。観光客や村人たちが、家族やグループでやってきてはそこで食事とおしゃべりを楽しんでいくのだという。広場ではまた、時節が来ると祭りも催され、その折には村じゅうの人びとが集ってくるらしい。
タイの地域博物館は、単に知や情報を伝え広める場であるだけでなく、人びとが自分を確かめ、たがいに語らい、ふれあうための共通の場として多彩で豊かな役割を担っているのだ。
スウェーデンの世界文化博物館とタイの小さな漁村の地域博物館。一見なんの脈絡もなく、見た目もまったく異なるふたつの博物館は、しかしある一点で奇妙な一致を示しているように思えた。それは、ただ飲んだり食べたり、談笑したりしている以外に何もせずに、そこにいるだけの人をもやさしく迎え入れて居場所を提供してくれる、少なくともそのように見える、という点である。仮にそうだとしたら、museumの語源の一部がmuser(無為に時間を過ごす)であったとしてもさほどおかしくはないことになる。
いずれにせよ、一方的に知を伝授しようとした近代のミュージアム像の限界を超えようとして、模索し続ける西洋の最先端のミュージアムがたどり着いた地点と、ミュージアムという近代的な装いをこらしながらも、地元の歴史と文化に深く根ざしているタイの地域博物館が佇(たたず)む場は、意外なことにそれほど離れてはいないのかもしれない。
新しい時代のミュージアムの可能性を、ほんの少しだけ垣間見たような気がした。
特別展「みんぱくキッズワールド」出展作品 ゆりかご(標本番号H83428、高さ/25.7cm 幅/36.3cm 奥行/69.5cm)
風が揺らしてる 松の枝のきみの巣を ぼくの腕が揺らしてる 小さなハトさん
君の巣を
くぅー あ くぅー 小さなハトさん よーくお眠り 小さなハトさん
くぅー うっうー 小さなハトさん
これは、アメリカ西部の内陸部に暮らすパイユートの子守歌で、「ゆりかごのうた」とよばれる。パイユートは、大盆地の砂漠地帯で狩猟や採集で生計をたて、移動生活を送ってきたインディアンである。彼らが馬を利用するようになったのは一六世紀にスペイン人がやってきてからである。一九世紀前半には、毛皮交易にきたヨーロッパ人から、ガラスビーズを入手した。一九世紀後半には数多くの軍隊駐屯地などがつくられ、急激な生活変化を経験した。
彼らのゆりかごは、ユニークである。赤ん坊の頭をおおうフードには、細い木で作ったカバーがつけられ、体を皮製のひもでしばるようになっている。しかも、カバーにジグザグに入った赤色の刺繍は女の子用のゆりかごを示し、それがないのが男の子用である。さらに、装飾にはみず色を基調とするビーズ細工がほどこされていて芸術的でもある。一九世紀のゆりかごには、白色を中心としたガラスビーズで板の面をうめつくしたものもあるが、現代ではプラスチック製のビーズを線状に並べて簡略化している。
かつてパイユートの社会に馬が導入されると、移動の方法は大きく変わった。馬の脇腹に二本の丸太がくくりつけられ、そこに荷物のほかに赤ん坊を入れたゆりかごをしばるのである。一九世紀の終わりに移動生活が終わると、子どもを運搬するゆりかごは使われなくなった。しかし、一九八〇年頃になると、かつてのパイユートの暮らしを復元するために、ゆりかごがつくられるようになった。
友の会とミュージアム・ショップからのご案内
未曾有の被害をもたらしたスマトラ島沖地震津波から一年近くが過ぎた。乾季に入ったタイ南部トラン県の漁村M村は、まさに今がかきいれ時。村人は津波などなかったかのようにせわしなく漁に勤しんでいる。津波直後は多くの船や漁具が破損し、果たして漁業を再開できるのか?と危惧したことが嘘のようだ。だが着実に進む復興の裏で、津波が村人のあいだに生んだしこりは未だに残っている。
このしこりは、被災者支援金の不平等な分配から生まれた。タイ政府は津波後、被害を受けた漁家一世帯につき支援金二〇〇〇バーツの支給を決定し、村長が分配役を務めることになった。だが、私がお世話になっているR氏一家や近隣宅にはいつまでたっても届かない。「隣村ではもう支給されたっていうのに」「おかしい」。誰もが不審に思った矢先、M村の村長を兼任する区長(複数の村から構成される区の長)による支援金着服の事実が発覚した。彼は親族を中心とする自分に近い人間にだけ支援金を支払い、残額を着服したのだ。当然、支援金にありつけない村人は区長宅へ大挙、抗議に行くが、肝心の本人は第二妻の住む町へ逃げてしまったあと。その後数ヵ月の間、彼を村で見かけることはなかった。
区長派VS反対派
区長の不正に対してある者は郡役場、ある者は警察へと赴き彼を処罰するよう訴えた。しかし彼らは、曖昧な返事をするだけで一向に聞き入れてくれない。区長は彼らと懇ろな関係にあるため、不正が黙殺されたというわけだ。こうなると、もはや彼らに打つ術は残されていなかった。かくして怒りの矛先は、区長から支援金を得た村人に向けられることになる。それまで仲の良かった者たちが急に口を聞かなくなるなど、村が次第に「区長派」と「反区長派」に分化し始めた。結果私まで「お前はどっち派だ?」と尋ねられる始末。
この対立が最高潮に達したのが七月末におこなわれた村長選挙だった。今まで対抗馬のなかった村長選挙に反対派が対立候補を擁立したのだ。さすがの区長も焦ったのか、六月に入ると村に顔を出し始め、豊富な資金を元に選挙活動と称する宴会を頻繁に開催した。その結果、辛くも再選した。だが一ヵ月後、再び彼らにリベンジの機会が訪れる。それは八月末の区長選挙。区内の村長のなかから一名が区長に選ばれるのだが、この時はM村村長を含む三名が立候補した。そこで反対派は団結し、区内に住む親戚・知人宅を精力的に訪れ、他候補に投票するよう訴えた。区長の不正は既に区内に知れ渡っていたこともあり、最終的に彼はその地位を追われることになった。
両派の勝負は今のところ「おあいこ」。しかし依然として区長の犯した不正は、解決されぬままだ。また彼は、区長ではないが今後四年間、村長であり続ける。反対派はリコールという手段を用いてでも彼に対抗するかもしれない。津波災害支援の前には見られなかった派閥とその対立は、今後も維持されていくことだろう。M村の「完全な」復興は、当分先のことのようだ。
エジプトの首都カイロは、いわゆる「イスラム建築」の宝庫である。私のお気に入りはスルタン・ハサン学院だ。一四世紀、マムルーク朝時代に建てられた豪壮な宗教建造物で、カイロの南東部、サラーフッディーン(サラディン)が礎を築いた城塞の西向いに、それと対峙するようにして威容を誇っている。今から七〇年ほど前にエジプトを訪れた中国史家の宮崎市定氏も「恐らく世界の石造建築の中で、指を第一に屈する傑作ではないかと思う」と述べている。
偉大な建物には、自然と何らかの伝説が生まれてくるらしい。スルタン・ハサンは、このような傑作が二度と造られることがないようにとその建築家の腕を切り落としてしまった、という話がある。史実には反するが、少なくとも一九世紀末頃にはすでに一部で流布していたようだ。野上弥生子など戦前にカイロを訪れた幾人かの日本人旅行者も、この話を紹介している。
アラブの古伝説が元になっているのではないか、という人もいる。イスラム以前の時代、現在のイラク南部にラフム朝というアラブ王朝があった。その国のある王が、首都の郊外にハワルナクという宮殿を建てることになる。ビザンツ出身のスィニンマールという建築家がこれを請け負い、長い年月をかけて壮麗な宮殿を完成させる。しかしその直後、王は彼を宮殿の上から突き落として殺してしまう。理由には三つの説がある。同様の建物を他人に建てられたくなかった、というのがひとつ。もっと素晴らしい、太陽の動きに合わせて回転する建物を造ることができたのに、建築家がそれをしなかったことに対する怒り、というのがふたつ目。最後に、宮殿の崩壊につながる建築上の秘密を守ろうとした、という説。
この伝説は「恩を仇で返される」という意味をもつ「スィニンマールの報酬」という諺ともなり、中東一帯に流布している。しかし、これがスルタン・ハサン学院の伝説の直接的起源かどうかは定かでない。スィニンマール伝説では建築家が殺されるのに対し、スルタン・ハサン学院の伝説では腕を切り落とされるだけだからだ。
じつは、この種の伝説はアラブ特有のものではない。ユーラシア大陸やアフリカ大陸に広く類話が存在する。腕が切り落とされる型も少なくない。スペインの例など、スィニンマール伝説が元になったと思われるものもあるが、そうはいえないものも多い。古代インドで生まれた仏陀の前世物語集『ジャータカ』にもすでに類話が見られ、先に挙げた最初の理由により、建築家の目がえぐりとられることになっている。
エジプトに話を戻すと、より最近の建物に関しても類話が見つかる。二〇世紀初頭のカイロ近郊に、ベルギー人実業家のアンパン男爵がヘリオポリスという街を造り、そこに自分の住居を建てた。「男爵宮殿」とよばれる、この奇怪な建物にも同様の話が流布していることを街の住人から聞いたことがある。面白いことに、太陽の動きに合わせて回転する建物というモチーフのみが見られ、建築家の受難には触れない型もある。
ほとんどの類話で建築家がよそ者になっている点も興味深い。ガストン・ルルーによる有名な『オペラ座の怪人』(一九一〇)の原作でも、エリックの前半生が語られるエピローグに同様の状況を見出すことができる。どうもこれらの伝説には、建築家と権力の関係だけでなく、建築家の異人性についても思考を促すところがあるように思われる。
じつは西山さん自身もベトナム人である。本名はファン・ティ・タン・ツィ。一九八〇年代後半、先にベトナムからインドシナ難民としてやってきた父親の許に家族とともに合流した。来日した当時、すでに中学三年生であった彼女にとって日本語を身につけるのは並大抵のことではなかった。日本の中学一年に編入したが、定住促進センターで三ヵ月学んだ日本語はやっと挨拶ていど、授業はまったく理解できなかった。三年間は日本語の獲得のため全力を費やした。先生や友人の協力も忘れられない。おかげでまったくの自力で京都のカトリック系高校に入学できた。その後、看護学校で准看護婦の資格をとり、関東の病院で日本人とまじって働いてきた。
しかし、すべてのベトナム人が彼女のように日本社会にとけ込み、また十分に能力を発揮できる場を見付けているわけではない。特に成人としてやってきた人にとって、日本語の能力不足が原因で、ベトナムで養った知識や技術を日本で生かすことは何年たっても最大の難関である。また日本の文字がわからないため、役所での手続きや子どもが学校からもち帰る通知の理解に不自由している人も決して少なくない。一方、日本で生まれた子どもたちにとって、次第にベトナム語は外国語になりつつある。そのため日本語の不自由な両親とはコミュニケーションが十分成り立たないケースさえある。
現在日本には約二万六〇〇〇人のベトナム人がいる。そのうち約三分の一が、かつてインドシナ難民として来日した人びとと、その呼び寄せ家族である。彼らの多くは、関東から東海、そして関西のいくつかの都市に数百人の単位で比較的まとまって暮らしている。慣れないことばから来る不自由さと情報不足を補いあい、かぎられた余暇を仲間同士で過ごすため、職場や公営住宅を中心にベトナム人が集まる。小さなベトナム人コミュニティーがそれを支えてきた。
とはいえ、日本での生活も二五年あまり経過し、ベトナム人コミュニティーも少しずつ変化している。若い人びとの多くは日本語になじみ、生活の根を日本社会に下ろしはじめている。ビジネスや学業で活躍している人もめずらしくない。日本で生まれたベトナム人二世も成人して家庭を築きつつある。西山さんのように日本名をもち日本国籍を取得した人がすでに数百人にも達している。日本社会に時折見られる外国人差別ももちろん理由のひとつだが、一方で、グローバル化のなかで本国や故郷との結び付きを保てる安心感が決断を支えた面もある。
しかし国籍を取得し、日本名をもった今も、ことばや習慣、考え方までまったくの日本人になりきろうとは、西山さんは思っていない。人間関係のすさんだ日本でベトナム人家族や友人の絆はかえがたいものだし、今の日本人にはついていけないところも多い。そして、なによりも子どもたちに伝えたいのがベトナム語である。日本語はいうまでもないが、ベトナム語も子どもたちにとって大切だと思っている。故郷や家族との絆を保つうえで不可欠だし、ベトナムとの交流が活発化するなか、ベトナム語は将来きっと役立つだろう。どの国でも「外国人」にとって、ふたつのことばは、ちょっとした運命でもあり、可能性でもある。そして、ことばの大切さはなによりも自分たちが経験してきたことだ。しかし日本には外国人に出身国のことばの教育を保障する制度はない。
西山さんが三年前ベトナム語教室をはじめたのは自分の二人の子供にベトナム語を教えようとしたのがきっかけであった。かつて、ボランティアとしてベトナム語教室や保育活動に参加した経験をもとに、自分で公民館の一室を借り友人に呼びかけてはじめた手作りの教室だった。すべての母親が授業や宿題点検に参加するのは今も変わらないが、あとの懇談会は貴重な情報交換の場となった。
今、日本では多文化共生ということばがはやっている。自分たちのように、ベトナム人としてことばと誇りを保ちながら日本に将来を託そうとする人びとを日本社会は受け入れられるのだろうか。「ベトナム系日本人」と堂々と名乗れる日が来るのだろうか。それに賭けた自分たちに日本社会が出す答えを密かに西山さんは待っている。
私は今から二八年前に、ミクロネシアのサタワル島でフィールドワークをおこなった。そのさいに、幾人かの幼児が激しいひきつけを起こして、高熱をだし、死に至ることがあった。見舞いに行くと、「この病気は何か知っているか」、「何かよい薬をもっていないか」などと問いかけられた。いつも島の人たちにお世話になるばかりだったので、何かお返しがしたいと思ったが、医学の素養のない私は何もしてあげられなかった。
そのときに、民族学者とは一体何者か、とつくづく考えさせられた。死にゆく幼い子どもの命すら救えないような学問に価値があるのだろうかと思い悩んだ。近代文明から隔絶された絶海の孤島という、極限状態のなかで思いつめたとはいえ、島の人びとの世話になるばかりの自分に対して恥ずかしい気持ちでいっぱいであった。さらに、民族学はある社会の知的財産を収奪するだけで、何もお返しができない学問ではないかという、懐疑も生じた。
世話になったサタワル島の人びとに対するせめてものお返しの意味を込めて、共同調査者であった秋道智彌氏(現総合地球環境学研究所教授)と須藤健一氏(現神戸大学教授)らと一緒に『サタワル語・英語辞典』の編纂プロジェクトを立ち上げた。編纂作業は順調に進んだが、言語学者による最終チェックが完了していないために、まだ刊行に至っていない。私自身の言語学の素養が乏しいために長らく悩み続けてきたが、昨年、オセアニア言語学を専門とする菊澤律子さんが民博助教授として着任され、辞典編纂プロジェクトに加わっていただけたので、大きく前進している。平成一八年度内に辞典出版のめどがついたので、嬉しく思っている。
私は二〇年ほど前に、諸般の事情から「観光学」にシフトした。当時の観光学は観光事業論やホテル経営論など供給サイドに立脚した実学志向のために、学界のなかでは不当に軽視されていた。私は観光学に新しい息吹を吹き込むために、「新・観光学」運動を展開するとともに、「観光革命」「観光ビッグバン」「文明の磁力」「自律的観光」「観光文明学」など、新しいコンセプトを提起し続けた。
さらに、二〇〇三年には小泉首相の発議で立ち上げられた観光立国懇談会のメンバーとして首相官邸に何度も出かけて、観光立国政策の基本方向について諸提言をおこなった。日本では長らく、観光は国家的課題とみなされていなかったので、国家政策の大きな転換点に立ちあえたのは幸運であった。
二〇世紀には軍事力や生産力などのハード・パワーが他国に威力を与える源泉であったが、二一世紀には知力や文化力や情報力などのソフト・パワーが他国に影響を与える源泉になる。今後、日本が観光立国を推進し、そのソフト・パワーの強化に力を入れていけば、世界のなかで独自のプレゼンスを示すことが可能になる。また、観光立国は美しい日本の再生や地域の活性化にもつながるものである。
北海道大学は今年四月における「観光学高等研究センター」の新設を決定し、私にセンター長としての就任要請をおこなった。来年四月には観光学の大学院を設置する計画なので、喜んでお引き受けした。「熟年よ、大志を抱け!」の心境で、今年四月から北の新天地で観光学の高等研究・教育拠点の確立をめざして、仕事を進めている。最後に、新しい学問分野へのチャレンジを許容してくれた民博に対して感謝の意を表したい。
ウィル・デ・ヨン
阿部 健一
村上 勇介
帯谷 知可
山本 博之
石井 正子
篠原 拓嗣
小森 宏美
地域研は、一九九四年六月、世界各地を対象とする大規模な地域研究機関の設置をもとめる研究者の長年の努力をもとに、その段階的・暫定的措置として国立民族学博物館に附置する形態で設置されました。定員一〇名の小規模な研究組織ではありましたが、設置以来、民博というまたとないすばらしい研究環境のもとで、「世界研究としての地域研究」という設置理念に沿った研究活動をおこなってまいりました。地域研究のネットワーク構築を目標に、地域研究に関連する諸分野の研究者の協力を得つつ、毎年度一五本程度の連携・共同研究、三件の国際シンポジウム、国際共同研究(ペルー・プロジェクト)、機関誌『地域研究』の刊行などを通じて、幅広い地域研究の内外の交流を実現してきたと自負しています。また、全国の地域研究に関わる多くの組織とともに、地域研究の全国的ネットワーク「地域研究コンソーシアム」を結成し、立ち上げ期の事務局として役割を果たしたことは、地域研教員一同にとって大きな喜びでした。
こうした地域研の活動は、「みんぱく」の豊かな研究基盤と研究者仲間たちとの交流、そして事務部門の支援があってこそ実現されてきたものでした。とりわけ民博の伝統である自由闊達な研究風土や、博物館をもつ研究機関として社会に開かれた活動形態は、私たちが新しい地域研究のあり方や研究システムを考えるうえでかけがえのない糧になりました。しかし、活動が拡大するにつれて、規模の問題、そして学問分野横断的な地域研究組織を、文化人類学の先端的研究機関である国立民族学博物館に置くことの難しさも明らかになり、今回の地域研再編に至りました。
同時に、今回の組織再編は、グローバル化のなかで世界各地がかつてないほど緊密に連関しあう今日的状況に対応し、地域研究を模索してきた地域研研究者の選択でもあります。新設される京大地域研では、地域間の相互関連を重視する地域研究をこれまで以上に強力に推進するほか、多様な形態をとる地域研究情報の即時的共有化や地域情報学の構築など、世界各地への理解を深めるための基盤である地域に関する知の共有化に取り組んでいきます。民博地域研として展開してきた研究活動やコンソーシアム事務局としての機能も、若干の再編をおこなったうえで、京大地域研が継承します。
地域研にとって、組織再編は、新しい出発です。「民博地域研」として蓄積してきた研究と活動経験を土台として、京都大学から加わる新しい同僚とともにあらたな決意をもって、地域研究の推進とネットワークの構築に取り組む所存です。
「民博地域研」から「京大地域研」へと組織は変わりますが、今後とも引き続き、ご支援ご協力を賜りますよう、お願い申しあげます。(押川 文子)
チンパンジーという動物について、どのような印象をおもちだろうか。ゾウやキリンのような圧倒的な存在感をもつわけではなく、パンダやシマウマのような美しさからもほど遠い。しかしながら、チンパンジーは、現生のすべての動物のなかで、進化的にヒトにもっとも近縁であるという、圧倒的にユニークな特徴をもっている。
野生チンパンジーの行動・生態研究によって、道具の使用や狩猟行動、「政治的」な順位争いといった、さまざまな「人間的」な姿が明らかになってきた。昨年、ヒトと数パーセントの違いしかないといわれてきたチンパンジーのゲノム(※1)が解読された。すでに終了しているヒトゲノムとの比較によって、約四〇〇~七〇〇万年前に両種が分岐し、違いを見せることになった進化的要因についての分析が期待されている。チンパンジーが「進化の隣人」ともよばれる所以である。
遺伝的・生理的にヒトに近いチンパンジーは、エイズや肝炎研究のための貴重な医学実験動物として使用されてきた。反面、チンパンジーのような「人間的」な存在を「監禁」し、「虐待」することへの批判も強い。「動物の権利」運動の文脈の中で、高度な知的能力をもつチンパンジーには、「人権」を認めるべきだという主張もある。
このように、現代社会においてチンパンジーは、ヒトと動物の境界に位置する多義的な存在となっている。
祖先が姿を変えたもの
ところで、西アフリカ・ギニア共和国の片隅に、「進化の隣人」であるチンパンジーと人びとが、文字どおり「隣人」関係にある村がある。ギニア南部の森林地域に位置するボッソウ村では、村の裏山にあたる小さな丘に、ひと群れのチンパンジーが生息しており、村人たちによって手厚く保護されてきた。生息地である丘は、村人にとっての神聖な場所であり、日常的な立ち入りや樹木の伐採が固く禁じられている。通過儀礼などのさまざまな儀礼の場であり、精霊の住まう森でもある。このため、丘の中腹より上は直径一メートルを超す巨木が林立し、チンパンジーにとっては格好のすみかとなっている。
進化とも「動物の権利」とも無縁なこの村で、チンパンジーはどのような存在なのだろうか。この村では、チンパンジーは村を創立した氏族のトーテム動物(※2)であるため、殺したり、食べることが禁止されていると村人は言う。また、今は野生動物のように見えるチンパンジーは、かつて村人の先祖にあたる人びとが、姿を変えたものであるとも言う。ここでも、チンパンジーはヒトと動物の境界をさまよう存在であるようだ。
この村では一九六〇年代よりチンパンジーの生物学的研究が盛んにおこなわれてきた。近年ではチンパンジーを見にやってくる観光客の数も急増している。このような動きのなか、人からの感染が疑われる呼吸器系疾患によりチンパンジーの数が激減し、現在その存続が危ぶまれている。村人と私たち研究者は、ボッソウのチンパンジー保全のため、「われわれの祖先を守ろう」というスローガンの下、協力して活動している。チャールズ・ダーウィン博士に聞かせたら、なんと言うだろうか。
(※1)細胞に含まれる染色体の一組
(※2)氏族と象徴的な関係で結びつけられている動物
ヒト科。アフリカ大陸の熱帯林地域を中心に分布する。近年、個体数減少が著しいとされ、IUCN(国際自然保護連合)のレッドリスト(2004年)で絶滅危惧IB類に分類されている。進化史上ヒトにもっとも近縁な現生種であり、約400~700万年前に共通祖先から分岐したと考えられている。かつてはゴリラ・オランウータンなどとともにオランウータン科に分類されていたが、近年の遺伝的距離を重視した分類では、ヒト科とされる。成熟果実を中心とした雑食性で、サル類の狩猟による肉食や、道具を用いた昆虫食が知られている。
「グトゥの夜には、ぜひうちに来てくださいね。」
そう誘われたとき、すでに別の家のグトゥに招待されていたぼくは、せっかくの招待を断るのが惜しくて一瞬言葉につまった。だから、「西暦で二月八日です」と言われ、おかしいなと思いもしたが、嬉しかった。もうひとつの招待の日は、二月七日だったからだ。これならふたつの家のグトゥを体験することができる。
グトゥはチベット暦新年直前の一大イベントといってよい。チベット暦の一二月二九日におこなわれることになっている。チベット暦の一二月は三〇日までなので、正月の二日前にあたる。この日チベットの人たちは家の大掃除をし、夜にはグトゥという特別のうどんを食べ、家から鬼を追い出し、外では爆竹を鳴らして旧年の厄を祓う。
ではなぜ今回はグトゥの日が二回あるのだろう? 答えはチベット暦と関係しているようだった。その年のチベット暦新年は西暦で二月九日だったので、本来なら二月七日がグトゥの日となる。だが、このチベット暦なるもの、西暦とは随分違う独自の暦算のロジックによって算出される。縁起の悪い日はとばしてしまったり、逆に同じ日や同じ月が二度続くこともある。そして偶然にも、ぼくが招待された年のチベット暦一二月は、二八日の翌日が三〇日になっていた。つまりグトゥの日である二九日が存在しなかったのだ。チベットの人たちも大いに迷ったようだが、二八日にやるところもあれば三〇日にやるところもある、という風に各自勝手に日を決めていた。
儀礼途中の携帯電話
チベット暦の二八日、最初に招待してくれた家にまず伺うことにした。夕方着いたときには、家はぴかぴかに掃除されており、新年のための飾りもだいぶ完成しているようだった。招待してくれた家のお父さんが麺粉をこね始める。ぼくも教えてもらって、一緒に麺を作る。ついでお父さんは、同じ生地を使って夜の厄祓いに使う人形を作り始めた。両親に子どもが二人、それからぼくたち客人の六体分だ。できあがった人形を体にこすりつけ、口元にもっていってつばを吐きかける。これで旧年の厄が人形に移された。後は松明をたいて家の鬼を追い出し、人形をグトゥの食べ残しとともに、三叉路に捨てればいいのだ。
ちょうどそのとき、ぼくの携帯電話がなった。チベットといってもラサは大都会。携帯くらいは学生でももっている。電話の内容は、翌日招待してくれていた家から、グトゥを今夜やることに変更したということだった。ぼくはそちらには伺えなくなってしまった。理由を聞いたけど、きちんと教えてはくれなかった。仕方なく最初の家でグトゥを食べ始める。グトゥにはちょっとした仕掛けがあって、ニョッキのような麺のほかに、同じ生地から作った団子が一人一個ずつスープのなかに浮かんでいる。この団子の中身は、唐辛子だったり炭だったり茶碗のかけらだったりする。唐辛子だったらその人は「口が辛い」、つまり「口が悪い」、炭が出てきたらその人は「腹黒い」などなど、いい意味のものと悪い意味のものがあり、家族でお互いに何が出てきたか冷やかしあいながら大笑いする。楽しい演出といった感じだ。食後、鬼祓いの爆竹のなか、表の通りに身代わりの人形を捨てに出る。ぼくも付いていったが、爆竹の直撃を耳に受けてしまって閉口した。そうして騒がしい夜は終わった。でもグトゥの日付が変わった理由はちょっとした疑問として残った。ぼくだけでなく、多くの友人が「明日やるつもりだったのだけど、急に親戚から電話がかかってきて、何が何でもグトゥは今日やらないといけない」と言われたと教えてくれた。彼らにも理由はわからないようだった。
ダライラマの「魂の日」
事情の大半は後日判明した。チベットの暦学と占星学によると、人はすべて「魂の日」をもつのだが、キャンセルされたチベット暦一二月三〇日は、折悪しく、遠くインドに亡命しているチベット仏教の最高指導者、ダライラマの「魂の日」であったというのだ。ダライラマの「魂」を「祓う」ことは不吉なことであるので、今年のグトゥはチベット暦三〇日ではなくその前日の二八日におこなうべし、との見解がインドで表明されたらしい。その見解はさまざまなルートを経てチベットに達した。一方、じつはラサ市の政府はグトゥをチベット暦三〇日におこなうよう指導をしていたらしい。二八日の朝には市内の社区組合がその日のグトゥを禁止する指令をもって各戸を訪問してまわった。だが、その指導は無視され、ラサ市内のグトゥは二八日にほぼ統一されておこなわれた。
年中行事の調査は難しい。聞き書きや文献によって大体の事実関係は把握できるけれども、行事の裏舞台まで知りえるわけではない。にぎやかで平和なグトゥの夜に、当事者であるチベット人たちの大多数にも知られないまま、きな臭い闘いが繰り広げられていたのだ。ダライラマをめぐる政治の暗い影がチベットを覆っていて、年中行事でさえそうした政治経済的情況の知識なしには理解できないということが、研究者にとっての教訓になるのかもしれない。でもそのような理解はどこかぼくの体験と食い違っているように思う。結局のところ、多くのチベット人はそうした政治状況には無頓着であった。むしろ、あの夜の少しばかり特別な雰囲気こそがグトゥの本質であったのかもしれない。グトゥの夜には、中国化以前から、チベット人たちは楽しい団欒の温もりと祭りの夜の高揚とともに、鬼祓いの緊張をも味わってきたのだから。
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