国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年7月号

2006年7月号
第30巻第7号通巻第346号
2006年7月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
動物園の本質とは
小菅正夫
 昨年度の入園者数が、二〇六万人を超えた。旭山動物園としては信じられない記録である。わたしが園長に就任した翌年には、過去最低の二六万人を記録したのだが、それはほんの一〇年前のことである。「日本でいちばん北にある小さな動物園が、どうしてこんなに人を集めるのだろう」という疑問がわき上がり、多くの人にさまざまな角度から分析されているようだ。わたしも、同様の質問を受けることがあるが、答えようがない。なぜかというと、われわれは入園者数二〇〇万人達成を目標としてきたのではないからだ。
 動物園という聞き慣れたことばに、皆さんは何をイメージされるだろうか。「めずらしい動物が見られる場所」くらいだろうと思う。われわれ動物園人も、「自分の動物園にしかいない動物」を自慢してきたことも事実である。しかし、二一世紀を迎え、動物園向けのめずらしい動物が発見されるはずがないことは誰もが知っている。それよりも、絶滅が心配される動物種が増加の一途をたどる。動物園人は、「動物園こそが希少動物保護増殖の能力をもっている」「野生動物を絶滅から防ぐため、動物園は彼らの生息環境の保全について教育することができる」「絶滅に備えて、細胞を凍結保存する冷凍動物園も必要だ」など、動物園の使命を教育、研究、自然保護にあると強調し始めた。
 ここで、皆さんの抱く動物園像と、動物園人が描くそれに大きなギャップが生じてきた。前記三つの使命へ突き進む動物園へやってきた普通の観客は、動物園の役割について反対はしないものの、「危うい地球環境について学ぶために動物園へきたのではない」という気持ちを抱いてしまうのではないだろうか。というのは、動物園全体の入園者数が長期的に減少してきてしまっているからだ。
 もしかしたら、動物園って楽しい場所なんだってことを動物園人が忘れてしまったのではないか。楽しいことが悪いことなのか。二一世紀の動物園は野生動物を守るために存在する。どうやって? われわれはそこを考え抜いた。動物園の最大の使命は、多くの人びとに野生動物の素晴らしさを実感してもらい、野生動物の窮状を訴え、自らが野生動物を守ろうという気持ちにさせることなのではないか。
 そこで、われわれは環境エンリッチメントの手法を用いた行動展示を開発し、野生動物が進化の結果獲得した特徴ある行動や能力を展示することで、動物の魅力を伝え、動物園にしかできない自然保護活動を展開しようとした。その結果として前述した入園者数となったのではないかと考えている。ただし、現状はまさにバブルであり、今後は徐々に減少傾向を示しながら落ち着いてくるだろう。それが何万人であるのか、やはり誰にもわからない。


こすげ まさお/1948年、札幌市生まれ。旭山動物園園長。北海道大学獣医学部卒業後、旭川市旭山動物園に入り、1995年園長に就任。水中トンネルでペンギンの遊泳を見せるなど、独特な演出で注目される。著書に『旭山動物園長が語る命のメッセージ』(竹書房)『「旭山動物園」革命-夢を実現した復活プロジェクト』(角川書店)などがある。


特集 ケータイ
二一世紀、世界中に浸透していくケータイ。日本では七割以上がもつという生活必需品になり、その形や機能はますます進化している。だが、世界中の人びとがあらたな技術をまったく同じように受容しているわけではないだろう。世界各地におけるケータイと人びととのつきあい方から、日本のケータイの特殊性や世界の文化について考えてみたい。


ケータイ文化人類学の可能性
藤本 憲一
「縁」と「好き嫌い」
 これまで足掛け一七年にわたって、ポケベル・ケータイ研究に携わってきた(藤本『ポケベル少女革命』エトレ、富田・藤本他『ポケベル・ケータイ主義!』ジャストシステム)。以下、「縁」「好き嫌い」「居場所」の三つのトピックスを紹介しよう。
 ケータイの「縁(ネットワーク)」では、旧来の血縁・地縁と、インターネットの電縁とが交わる。同性・同世代の結束を強める「娘宿/若衆宿」の復活を思わせるし、中東の水パイプや東アフリカのカートに似た「社交のための嗜好品」でもある。
 「ケータイ好き(寛容)文化」と、「嫌い(非寛容)文化」がある。一九九〇年ごろの日本では、経済・地域格差以上に、世代・性差が大きかった。同じ若者でも、高校生と大学生、女と男とのあいだにギャップがあった。現在、当時の女子高生のリードによる「ポケベル少女革命」が普及させた文化に、四〇~五〇歳代の男女が同化しつつある。
 国際的にリードしたのも、シンガポール・日本や北欧など、ユーラシア大陸両端の島・半島エリアだった。今では内陸部を初め、世界中で急速に、ケータイ文化の共有が進んでいる。たとえば、「大哥大」→「小姐小」→「手机」と変わった中国語の呼称は、中華社会がしだいにケータイ好きになった証明だ。「大哥=コワモテ兄貴」像はブルガリアでも報告されているし、「小姐=コギャル」イメージは日本とも呼応する。現在の素っ気ない「手机」は、道具として普及したせいだろう。

テリトリーの生成装置
 「テリトリー・マシン(居場所機械)」としてのケータイについて。通常、ケータイは、つながり、交わる面が強調されるが、じつはパーソナルスペースを確保し、テリトリー(居場所・縄張り)を瞬時に生成する装置でもある。
 ケータイで話し、メールを打つ。そのフリをするだけで、ケータイと人が融合した磁場を発し、結界(精神的テリトリー)が生じる。雑踏、電車、教室、会社といった閉塞・拘束状況でも、ケータイ一本で外界から隔絶できる。
 たとえば、五〇〇年おきに地球を定点観測する宇宙人が、現代の生活を観察したら・・・。集団中の一地球人が、ケータイに着信したとたん雷に打たれたごとく、気分を高揚させる。同じく集団にいながら、一人液晶画面を見つめて忘我境に入る姿を見たら・・・。
 たぶん、前者は「憑依」(ひょうい)、後者は「脱魂」(だっこん)の現代版と解釈するのでは?かねてから筆者は、ケータイを用いた「集団への没入」を「ノリ」、「集団からの離脱」を「キレ」とよんで、「ハレ」「ケ」に代わる民俗語彙として提唱してきた。
 こうした「テリトリー・マシン」という点で、ケータイは、チベット密教の仏具(ドルジ)と等価であり、枕元において悪夢を払うアメリカ先住民の「ドリームキャッチャー」とも等価である。自転車にまたがり、ケータイを覗く若者の姿は、歩きながら読書した二宮金次郎像同様、一種のテリトリー行動と見ることもできよう。
★詳細は“Personal, Portable, Pedestrian” Ito. M. et. alt., 2005 The MIT Press、カッツ他編『絶え間なき交信の時代』NTT出版を参照。


モンゴルの「あんた誰?」
島村 一平
 ここ数年、草原の国モンゴルでもケータイは都市部のみならず草原へも著しいスピードで浸透しつつある。モンゴルの人びとにとってケータイは今や日常生活には欠かせないツールとなっている。そんなモンゴルでケータイを使っていると、時折かかってくる相手の第一声に面食らう。「あんた誰?」自らは名乗らず相手の名を聞く失礼もさることながら、ケータイに相手の名前をたずねるとは妙な話だ。そもそもケータイは個人の「私物」であり、「わたし」以外の誰が電話に出るわけもない。ところが、モンゴルでは「あんた誰?」は、固定電話の時代からの伝統的(?)な電話のかけ方なのである。
 じつはこれには理由がある。なんとモンゴルの人びとはケータイを貸し借りするのだ。だから、かける方も相手の名前を聞かざるをえないのである。もっとも貸し借りの相手はごくごく親しい家族や親友に限られる。ケータイを貸し借りする理由として、第一にケータイも通話料金も非常に高いことが挙げられる。労働者の平均月収が七〇〇〇~八〇〇〇円ほどのこの国で、ケータイはなんと月収ほどの値段がする。また、ケータイの通話料は最近まで一分あたり約一五円であった。最近大幅な値下げがおこなわれ、一分約三・五円となったが、それでも平均収入を考えると非常に高いことに変わりはない。第二に口座引き落としの支払いシステムが確立していないことと関係がある。ケータイの通話料はプリペイドカードによって支払われる。購入したカードに記載された番号を電話機に打ち込むことで一定時間の通話する権利を獲得し、通話が可能になるのである。だから他者に電話機を貸しても自分の口座から通話料が引き落とされる心配はない。
 というわけで、彼らは通話時間を消費し、新しい通話権を買うお金がないときには、家族や友人からひょいとケータイを借りて使い回すのである。したがって、モンゴルでは携帯番号を教えてもらっても、その人が出るとは限らない。「あんた誰?」気づいたころには、わたしもそうやってケータイをかけるようになっていた。
 そもそもモンゴル遊牧民たちのあいだでは、家庭内でモノを個人で所有するという感覚はあまりない。たとえば、衣服も親子兄弟問わず自由に交換して着る。歯ブラシや下着といったごく私的なモノを除けば、天幕のなかにある道具やモノに個人所有の「私物」はほとんどなかったといってよい。この習慣は、遊牧民のもともとの文化なのか、私有財産を否定した社会主義イデオロギーの産物なのかは不明である。だが、少なくともケータイが「私物」ではないのは確かであろう。
 そんなモンゴルでも最近、画期的なケータイのサービスが始まった。なんと自分の買った通話権を携帯メールで他者のケータイへ転送、プレゼントできるというサービスだ。ケータイにかけて「あんた誰?」といわなくてもいい日はそこまできているのかもしれない。


トン族で大流行
兼重 努
 二〇〇五年八月九日、中国広西(クワンシー)のとある山村で、わたしが世話になっている家の四男が二〇数キロメートル離れた町から戻ってきた。手には買い換えたばかりのケータイ。国産品で値段は一三〇〇元(約二万円)。当地の平均月収をはるかに超える。メールのほか、写真、動画撮影もできる多機能ケータイである。彼のお気に入りは写真機能だ。さっそく二歳になる愛娘を撮影した。次男も最近一二〇〇元のケータイに買い換えたばかりだ。次男と四男は、おたがいのケータイの機能を比べ合っていた。
 トン族という少数民族が住んでいるこの村をわたしが初めて訪れたのは一九九〇年だった。約五〇〇戸のこの村で当時電話を引いている家は皆無で、日本と村のあいだの連絡手段は手紙だけだった。一九九〇年代中ごろになって村でいちばんの金持ちが家にプッシュホン電話を引いた。この電話は私設公衆電話として活躍した。近年の中国のめざましい経済発展を受けて、村の若者は沿海部などに出稼ぎに行き、いくばくかの現金を手にするようになった。また電話開設料金の引き下げが始まり、普通の家庭でも無理をすれば手が届く価格になった。村で家庭用電話(すべてプッシュホン)の普及が始まったのは二〇〇〇年ごろだ。間髪いれずに、二〇〇三年前後からケータイが若者のあいだで爆発的に普及し始めた。
 日本と同様、ケータイの機能は日進月歩である。高くても無理して新鋭機を買う若者もいる。この村ではケータイのゲームで遊ぶ姿は目にするものの、メールやインターネットに興じる姿はまず見かけない。一方、二〇〇~三〇〇元の中古機で我慢する若者も少なくない。中古ケータイの売買もきわめてさかんだ。だが、当地の小中高生にとってケータイはまだまだ縁遠い。親は学費を工面するだけで精一杯だし、山村ではバイト先もないからだ。
 野外公衆電話など皆無の山村ではケータイはほんとうに便利だ。羅漢果(ラカンカ)栽培のため、電気もない山の出作り小屋で寝泊りすることが多い四男夫婦。二人とすぐに連絡がとれるのもケータイのおかげだ。


ベトナムの連絡道具
 部屋の電話が鳴ったので、受話器をとって「アロー(もしもし)!」と発声するや、「マサオさんですよね」とだけ断って、相手はすぐに用件を伝え始める。こちらは心の準備がまだできていないから、話を遮ってどちらさんか聞いてみる。すると、「ハーです」と一言。しかし、ハーなんて名前の女性はたくさんいるし、声だけですぐにどのハーさんかわからない。「どちらのハーさんでしたっけ?」とも失礼な気がして聞きにくいので、「今、どこからかけていますか?」など、ヒントをくれそうな質問を投げてみる。
 ハノイで一般家庭にようやく固定電話が普及し始めたばかりの一九九〇年代後半、電話を受ける際には、まだこんな緊張が伴っていた。たとえば「もしもし、どこそこのハーですが、マサオさんいらっしゃいますか?」のような、固定電話での定式化された導入挨拶は、ほとんど外国人用のベトナム語教科書のなかにしかなかったのである。
 二〇〇〇年以降、固定電話の普及はケータイの急速な普及に追い抜かれた。ケータイだと、かけた側の番号が通知されるので、もはやいちいち相手を確認し合う必要がない。固定電話における定型的なやりとりが広く共有される以前に、連絡したい相手に最初から直接つながるような電話コミュニケーションの時代にハノイは突入したのである。
 ケータイはどこでも鳴るし、受けた電話ならどこでもしゃべる。バイクや車を運転しながらケータイをかける姿もめずらしくない。しかし、ケータイで長電話する人は少ない。電話代が高いからである。待ち合わせを決めたり、急用以外は、たいがいメッセージを打つだけで済ませている。とはいっても、バスを待っている人や道端で所在なさげにしている人が、ケータイをいじる訳でもない。ケータイは主として他人と直接会うための連絡道具として用いられているからであろう。


ケニアのケータイ活用術
石田 慎一郎
 とる前に切れる。とった直後に切れる。ケータイのワン切りは、ケニアではよくあることだ。その多くはいたずら電話や間違い電話ではないので、受け手側は、かけ直して確かめる必要を感じる。親戚や友人からの電話という可能性が十分にあるし、寄宿学校にいる息子や娘が誰かのケータイを借りてかけてくることもある。誰であれ、ワン切りするのは、どうしても通話料金を節約しなければならない切実な事情を抱えているためである。
 わたしが調査をしているケニア中央高地のニャンベネ地方では、通信圏の拡大とともに、二〇〇三年ごろからプリペイド式ケータイの利用者が急増した。ミラーという嗜好品作物の産地ならではの事情がその背景にある。ミラーは、摘みとった瑞枝(みずえ)を噛んで楽しむ嗜好品であり、鮮度が命である。地元の人びとがナイロビなど大都市の顧客を相手に取り引きするうえで、迅速かつ確実な連絡手段となるケータイが何より便利なツールなのである。
 だが、最近、利用者の幅がさらに広がっている。ノキアやサムソンといった海外メーカーの最新モデルが地方都市でも販売されるようになり、流行に敏感な青壮年の心をとらえつつある。本体を買うだけでも公務員の給料一ヵ月分相当の出費になる。だが、周囲の人びとが使い始めると、多少無理をしてでももちたいという気持ちがますます強くなっていく。
 地元でケータイをもっている人に電話番号を聞くとふたつ教えてくれることがある。その多くは、固定電話との併用ではなく、ケータイひとつでふたつの通信会社から番号を取得し、併用している人びとだ。サファリコム社とセルテル社のシムカード(電話番号・利用者情報が書き込まれたICチップ)を両方とも購入したうえで、同じ会社どうしの方が割安だからと電話相手に応じて入れ替えるのである。
 とはいえ、ケータイは、コミュニケーションの用途以外でも、人びとを惹きつける魅力をもっているようだ。地元では、ケータイの形をした電卓さえ出回っているのである。


バングラデシュのケータイ婚
南出 和余
 バングラデシュの農村では近年、ケータイと出稼ぎに行く男性が急激に増えている。ケータイは、海外で働く息子や夫の無事を知り、仕送りの催促をするための大切なツールだ。逆に、その高価な購入費や電話代は、出稼ぎ者の仕送りに頼る。こうしてケータイは、農村と海外を結んでいる。
 現地でお世話になっている家には、七人兄弟がいる。一番上の兄はギリシャで働き、ここ数年、週に一度はケータイに電話をかけてきては、家族の近況を知る。母は息子の健康を気に留めながらも、六人の弟妹たちの教育や結婚の資金、家計のための仕送りを「皆あなたのために祈っているから」と言って命ずる。おかげでその家は、周りのどこよりも立派で大きくなった。
 しかし母にはひとつ心配事があった。長男の結婚である。長らく海外にいるため、三〇歳を過ぎても結婚できないでいた。バングラデシュの農村では、大半の場合、男女とも親が決めた相手と結婚する。結婚式当日まで相手の顔を見ない場合もある。息子や娘の結婚を取り計らうのは親の務めだ。母は、親戚や近所の人びとに頼んで、長男の花嫁探しを始めた。兄も、母の選んだ相手ならば文句はないと言う。容姿、家の釣り合い、学歴などから、隣町に住む一人の女性との縁談が整った。彼女の家族にも、ドバイ(アラブ首長国連邦)への出稼ぎ者がいる。すぐに日取りも決まり、ギリシャの兄に知らされた。
 花嫁の家ではすっかり準備も整い、祝いが始まる。ところが、もう一人の主役の花婿である兄が、仕事の都合で帰国できなくなった。当然結婚式は延期されるものと思いきや、予定どおりおこなわれた。主役なしの結婚式。そこで一役買ったのがケータイである。二人の初顔合わせとなる場面で、ケータイが鳴る。花嫁がケータイで花婿と言葉を交わし、結婚は成立した。後から聞いた話によれば、兄は電話で「心配しなくてもいい。うちの家族は皆いい人たちだから。帰るまで、自分の家だと思って暮らしていなさい」と伝えたらしい。その後兄は一時帰国し、三ヵ月の新婚生活を送った。兄が休暇を終え、妻を残してギリシャに戻った後は、ケータイで新婚生活。日々続く夫婦の長電話に、母は電話代で仕送りを食い尽くすのではないかとひそかに心配した。約二年後、兄は妻をギリシャに呼び寄せた。
 「ケータイ婚」「ケータイ夫婦生活」は、出稼ぎ者の増加とケータイの普及により、今ではさほどめずらしいことではない。バングラデシュの電話会社も、そろそろLove割引を考えた方が良さそうだ。


ろう者とメール―カメルーン―
亀井 伸孝
 わたしはアフリカの諸都市で、ろう者のコミュニティの歴史と文化の調査をしている。耳が聞こえないろう者たちの社会関係の基本は、直接会って彼らの言語である手話で話すことだ。わたしがカメルーンで調査を始めた一九九〇年代中ごろは、ろう者たちはおたがいの家を訪れて話し、相手が留守のときはメモを扉の下に残すというような方法で連絡を取り合っていた。
 調査を始めた当初、わたしはろう者E君の家に居候(いそうろう)させてもらっていた。E君は暇さえあればおしゃべりにつきあってくれ、その町の様子、アフリカのろう者の歴史、国連とイラク制裁の問題など、あらゆる話題をわかりやすく手話で語ってくれた。このおしゃべりのおかげでわたしは「手話漬け」の日々を送り、その暮らしのなかでカメルーンの手話を体得した。
 ところが二〇〇五年に再訪すると、E君はケータイを手に入れていた。文字のメッセージで遠方のろう者と直接やりとりができる。E君はすっかり「メール魔」になっていた。居候するわたしをほったらかしにし、のべつ下を向いてフランス語でぽちぽちとメールを打つ人になっていた。やれやれ、彼が暇な時代に手話を仕込んでもらってよかった、と思ったものだ。
 すべてのろう者がケータイを買えるほど裕福ではないが、資源が限られたアフリカの知恵とは「共有」である。家族や仲間のケータイを借りて、相手に近そうな知人あてに「誰々に『…』と伝言よろしく」と送れば、話が伝わっている。また、「公衆携帯屋」も便利だ。道ばたにテーブルひとつ出した小さい店があり、ケータイを借りることができる。ろう者はそういうところに立ち寄ってケータイを借り、一通いくらという料金を払ってメールを出すのである。
 ケータイは、視覚世界を生きるアフリカろう者たちの生活と社会関係を確実に変えつつある。それがろう者のエンパワメントや社会活動のさらなる活性化に向かえばよいが、と願う研究者のわたしをよそに、E君は今日も「Bonjour!(こんにちは!)」と仲間にメッセージを打っているのだろう。

未来へひらくミュージアム
危機の時代の博物館と研究者
 ―身を削ること、人と仲良くすること―
森田 利仁
かつてソ連邦崩壊後のロシアでは経済危機に
直面し、博物館や美術館が窮地に追いやられた。
それほどではなくとも、今、日本の博物館も
廃館などの危機に晒(さら)されて久しい。
生き残るには、贅肉(ぜいにく)を削り、核となる部分を
発展へとつなげていく必要があるのではないか。
社会のための活動の中身を
世の中へ伝えることが重要だろう。

ロシアの博物館の危機
 一九九三年の秋と冬、当時モスクワ大学で働いていた妻をたずね、ソ連邦崩壊直後のモスクワを訪れたことがある。このときすでに千葉県の博物館に勤めていたので、ロシアの博物館事情に少なからず興味があったが、実際に目にしてみると悲惨そのものであった。モスクワ市内のおもな博物館で、まともに開館しているものはほとんどなかったし、大学博物館や図書館は閑散としていた。また科学アカデミーやモスクワ大学では給料が満足に支払われていなかったため、スタッフも学生もアルバイトで必死に生活費を稼いでいた。妻の友人の一人などは、露天商で食べ物を売っていた。大学では、コピーの紙が不足していたため、友人のノートを筆写している学生がいたのも印象的であった。
 この状況下では、博物館キュレーターや研究者の倫理観が崩壊するのも当然であったろう。古生物博物館の標本が、西側の標本業者によって売りに出されるという事件も起きていた。真の危機に遭遇したとき、人間は素に戻ってしまう。
 さて今日、日本の博物館、とくに公立博物館は、その経営の岐路に立たされているといえる。どこそこの博物館は廃館されそうであるとか、指定管理者となるとか、耳にタコができるほど、次々と新しい動き、それもあまり明るいとは思えない動きが起きている。しかしそれでも、当時のモスクワで見た危機的状況に比べれば、まだ素の人間に戻るほどの危機ではない。博物館に勤める人間は、その職業倫理観を麻痺させてはいけないし、博物館本来のあるべき姿を忘れるほど浮き足立つのは早い。あるべき姿とは、資料を守ること、それに基づく研究活動を継続することである。そのことを忘れなければ、現在の危機はかならず乗り越えることができるし、社会が博物館の重要性を真に理解してくれるときがまたくると確信している。
 ロシアにおいても一九九五年以降、まだまだ人びとの暮らしが困窮していたにもかかわらず、博物館や美術館が再建され、リニューアルオープンされ始めたのである。けっして外国人向け観光産業を活性化させるためでないことは、生物の奇形や変種を多数展示している「ダーウィン博物館」を訪問して理解できた。ここもリニューアルオープンしたばかりであったが、奇をてらうことなく、きわめてオーソドックスな標本展示に終始していたのである。来館者もほとんどが地元の人たちであった。気の利いた日本のビジネスマンやエコノミストなら、経済危機下で無駄な事業である、とこのリニューアルを批判するに違いない。しかしロシア人の妻いわく、「だってしょうがないじゃない。世界中から集めた資料をただ眠らせておくわけにはいかないもの」。資料あっての博物館であるというのを、このときほど実感させられたことはなかった。

贅肉を削り、核を残す
 危機の諸相には、物理的で客観的なものだけではなく、心理的な相もある。博物館のような文化施設は、社会にゆとりがあって初めて受け入れられるものであろうが、明日の生活に不安を覚え浮き足立ってしまった心理状態では、文化を冷静に語ることはできない。現在の地方行政は、まさに浮き足立ってしまった感がある。医療はどうするか、学校はどうするか、という切実な問題について一種のパニックに陥ってしまい、博物館ごとき問題を真剣に考えるゆとりをもっているとはとても思えない。だから、博物館は無駄である、非効率的であるという批判に対して正面きって反論すると、逆切れするほど熱くなりすぎているのが、現在の地方行政ではないだろうか。
 ではどうすれば博物館は守れるのだろうか。どうすれば博物館の基礎である資料や研究活動を守れるのだろうか。ひとつの賢明な方法は、かわいらしく一旦縮小してみせることであると考える。博物館もその運営上、削れるものは削ってみせることである。このことにより、博物館も社会の一員として危機意識を共有している姿を示すことができる。ただし縮むといっても、博物館の核の部分は残さなければならない。贅肉を削り、核は残す。そしてその核を、次の時代に大きく発展させる基盤とするのである。
 しかしながら、予算ひとつとっても、どの項目の予算を削るのか、どれを残すのか、博物館組織内で合意をえるのは容易ではない。いざとなると、研究者同士、あるいは研究分野間で内紛が起きてしまう。結局、研究者は大所高所から見る力に乏しく、内部で足の引っ張り合いをしてしまう、生来そのような人種なのかもしれない。しかし、博物館を取り巻く社会が常軌を逸するほどに熱くなっているとき、博物館内部で内紛を起こしていたら、それは潰される格好の理由を与えてしまうことになる。今こそ、資料や研究を大切にする博物館を未来の子孫に残すため、研究者としてではなく、学問と文化に責任を負う博物館人としての良心に問うべきときであろう。

良き理解者とともに
 納税者である市民からの支持がなければ、博物館の存立も発展もありえない。しかし、博物館のなかでおこなわれている資料や研究に関する業務を、市民に理解してもらうのは簡単なことではない。もちろん、一般的な意味において、博物館事業の土台に資料収集や整理保存、それに関する調査研究があることは、理解されていると思うし、博物館に資料も研究者もいらないと叫ぶ人は、現在の日本ではむしろ少数派であると思う。しかしながら、今必要な支持は、そのように一般的なものではない。資料や研究にどれだけのコストがかかり、どれだけの人員が必要であるのか、そのような具体的な数字に対する支持である。
 研究は大変な仕事である。このことは多くの研究者が実感している。しかしそれを市民に理解してもらうのは、困難である。ひとつの方法は、学界の権威を使って強引に理解させてしまう、あるいは理解した気にさせることである。たくさんの論文や本を書いていること、国際的にも評価されていることを、ことあるごとに見せびらかせば、少なくとも周りの人たちは、何らかの反応を示してくれるだろう。しかしそれが、博物館研究者への信頼と尊敬に結びつくのか、ということになると大いに疑問である。博物館という社会教育施設においては、学界内での評価とともに、社会にどれだけ還元したのかが問われるのである。そこの評価が高くなければ、博物館で研究させてもらうことの言い訳が立たない。
 だから地域博物館の研究者は、必死になって展示会や教育普及活動をおこなっている。純粋な教育意識とともに、自らの研究者としての活動も理解してもらいたいからである。しかしそれらはときに自己宣伝臭が強くなりすぎるきらいがある。自らが自らを誉めるというのは、やはり難しい。他人の口から宣伝してもらうのが、より効果的である。
 林原自然史博物館にはミュージアム・エデュケーターというスタッフがいて、研究者とともに、あるいは研究者の長所を引き出しながら展示やイベントを企画しているらしい。林原の研究者は、使われることで苦しいことや、プライドが傷つけられることがあるかもしれない。しかし、自らの研究者としての個性を一般市民にわかりやすく伝えてくれる専属の宣伝マンをもっていると考えれば、むしろエデュケーターに感謝しなければならないだろう。同様に、近年さかんに名前を聞くようになった、インタープリターやサイエンス・コミュニケーターも、研究者と市民とのあいだに立ってくれる力強い味方かもしれない。いずれにしても、これら社会教育の最前線にたつスタッフと、うまくつきあうことができなければ、博物館研究者の未来はないと考える。わが千葉県立中央博物館にも、そのようなスタッフが存在する。展示解説員という嘱託職員である。現在彼女たちの手になるニュースレターにより、博物館研究員の素顔が面白おかしく来館者に紹介されているし、彼女たちが企画するイベントに研究員は動員され、いつの間にか小学生向きにわかりやすく語る訓練を受けている。いずれも研究員自身が企画するよりも、よほど面白く、一般来館者にも好評である。
 今日の危機に際し、博物館における資料と研究活動が生き残ってゆくために何をしなければならないのか、もっと高邁(こうまい)な議論を展開するつもりでいたが、結局のところ下世話な人生訓のようなものに落ち着いてしまった。まず、身を削る努力はすること、そして自分を理解してくれる同僚を大切にすること、である。

表紙モノ語り
コンゴ東部の伝達用太鼓
 太鼓(標本番号H151403、高さ/66.4cm 幅/103.4cm 奥行/37.1cm)
梶 茂樹
 アフリカのコンゴ(旧ザイール)でわたしが見、そして叩いたことのある伝達用太鼓は二種類である。ひとつは、国の北西部森林地帯に住むモンゴ族のもので、一本の木を一メートル弱に切り、中をくりぬいたものである。もうひとつは、東部の森林地帯に住むレガ族のもので、これも一本の木をくりぬいたものであるが、形状は、寸胴型をしたモンゴ族のものとは大きく異なり、女性のハンドバッグを大きくしたような形をしている。いずれも、動物の皮は張らず、バチを用いて叩く。
 写真にあるものは、この後者のものであるが、同じタイプのものをコンゴ東部のいくつかの民族が用いており、これがレガ族のものか、あるいはソンゴーラ族のものか、はたまた近隣のものかは正確にはわからない。しかし原理はまったく同じである。
 伝達の原理というのは、その言語の子音と母音を省略して、音の高さのみをこれでなぞるのである。これは日本語にたとえてみると、たとえば標準語で三音節からなるアタマ「頭」という語は、アクセントパターンが低高高であるから、これを伝達するためには、低高高と叩くのである。
 叩く際は、上部のスリットが自分と直角の位置になるように構え、片手にもったバチでハンドバッグの横腹の部分を叩く(バチの先にはゴムが付いていて、そのゴムの部分が太鼓に当たる)。上の方を叩くと板が薄いので高い音が出るし、下の方を叩くと板が厚いので低い音が出るようになっている。
 レガ族の村で、「お客がきたから皆集まれ」という文を習い、何回も練習で叩いていたら五、六キロメートル先からオジさんたちが集まってきた。「いや、練習なんです」と言ったら、「用もないのに叩くな」と、叱られた。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

万国津々浦々
中国のアフリカ人ビジネスマン
経済都市グアンジョウ
 中国のグアンジョウに行ってきた。香港から特急で二時間。列車は香港の華やかさやビジネスマンの多忙な雰囲気を乗せたまま、途切れることのない街並みを通りすぎて、いつしか大陸側に着いた。
 グアンジョウは広州と書く。秦漢時代から海外貿易の中枢として栄えた街であり、唐代には海のシルクロードの起点となったという。また広東華僑とよばれる人びとが、世界をつなぐネットワークを作り、大きな資本をもっていることも知られている。二〇〇〇年以上を経てなお、グアンジョウは世界中のビジネスマンの関心を集める経済都市である。

中国へチャンスを求めて
 この街にアフリカの商人が集まっている。その数は二、三年前からうなぎのぼりに増え、現在では一〇〇〇人以上が滞在していると見られる。その多くは、ソニンケと自称する民族集団に属する人びとである。千数百年を通じて商人として名高い歴史をもつソニンケの人びとであるから、今日、遠いアフリカ大陸からこのようなアジアの経済都市にやってくるのは決して不思議なことではない。
 彼らは、アフリカの人びとが毎日の生活で使う品々を買いつけに来る。衣類や雑貨などの必需品から、建築資材、電化製品、バイクや自転車に至るまで、さまざまな工業製品をアフリカの国々へ送るのである。中国を初め、東南アジア諸国からアフリカへの輸出は年々増えている。とりわけ中国の伸びは著しく、ソニンケ商人の多くがマリ出身であることから、両国の経済交流は活発化している。
 さてグアンジョウの中心部の一角に、アフリカ人ビジネスマンが集まる場所がある。三〇階建てのあるオフィスビルのほとんどが、彼らの事務所となっている。ここはどこだろうと見間違うほどで、エレベータのなかではソニンケ語が飛び交っている。事務所には中国の工場から取り寄せた製品のサンプルが置いてあり、事務所をもつ長期滞在の商人は、アフリカから買いつけにやってくる同邦の商人に中国の工場や卸問屋との仲介をしたり、輸出代行をおこなったりする。グアンジョウがアフリカの商人の関心を引き始めたのは二、三年前からにすぎないが、彼らは英語や広東語を巧みに操って中国人と交渉するのである。
 アフリカから来る商人は、中国にとって歓迎すべき客である。十分なお金をもってやってきて、中国製品を購入し、短期的なサイクルで出入国を繰り返す。働いて賃金をえることを目的とする一般の外国人出稼ぎ労働者と違って、中国人の雇用を圧迫もしなければ、住民とのトラブルもなく、国家財政の負担にもならない。しかし彼らとて、初めから大陸から大陸へコンテナを動かすような大商人ではない。タバコを一本売り買いすることから出発した人ばかりである。外国に経済チャンスを求めて移動する人びとの個々人の人生には、波乱万丈のストーリーがある。
 同じ人間が、あるときには「困った移民」であったり、あるときには「歓迎すべき移民」であったりする。各国の選択的な移民受け入れ政策に左右されることなく、またそれに依存することなく、彼らは家族や社会のなかでの立身出世を果たすために、それぞれの達成すべき目標に向かって歩んでいるように見えた。


時論 新論 理想論
米山俊直先生を偲んで
さわやかにして軽やか
 さる三月九日、米山俊直先生が逝かれた。風のように去っていかれた。さわやかに旅立たれたに違いない。わたしにはそのように感じられた。
 米山先生の講義を聴いたことはない。講演もあまり記憶にない。しかし、学会や研究会での報告は何度もうかがっている。テンポがいつも軽やかだった。
 米山先生の印象と残像はさわやかにして軽やかだ。権威主義的なところがなく、誰とでもわけ隔てなく接しておられた。知的好奇心のかたまりでありながら、ネチネチ、ドロドロ、ギスギスしたところがなく、いつもサラサラしていた。辛辣(しんらつ)な批判は温顔にふさわしくなく、激情にはしった姿もわたしは知らない。
 米山先生は多くの顔をおもちであった。アメリカ文化人類学の紹介者、「小盆地宇宙論」に代表される日本の農山村研究、祇園祭・天神祭など都市祭礼の研究、「社縁」概念の提唱者、アフリカ研究のパイオニア、そして晩年は「京都学」の中核的推進者であった。

無言の檄(げき)をいただいて
 個人的になって恐縮だが、振り返ってみると、米山先生との接点は三つあった。まずは祭礼研究である。米山先生の祇園祭の研究は京都大学の教え子たちとの共同作業の見事な結晶だった。わたしも東京大学で柳川啓一先生の宗教学ゼミで祭を追いかけていた。かたや京都の祇園祭で、こちらは会津田島の祇園祭や秩父の夜祭、さらには何の変哲もなさそうな北海道常呂町の祭だった。一方は『祇園祭|都市人類学ことはじめ』(中央公論社)で刊行され、他方は『思想』の論文としてまとめられた。接点があったというより、一読者として米山先生から一方的に学恩を受けただけである。
 ふたつ目は社縁研究である。わたしが会社やサラリーマンの研究に乗り出すきっかけとなったのは高野山の会社供養塔だったが、その存在を知ったのは米山先生がどこかの新聞に書かれた記事ではなかったかと思う。一九六〇年代の「社縁」概念は「タテ社会」に比肩しうるが、「社縁との縁」という洒脱な文章をJAWS(ジャパン・アンソロポロジー・ワークショップ)民博大会の刊行物(『日本の組織|社縁文化とインフォーマル活動』、東方出版)に寄せていただいたことは奇しきご縁だった。会社文化に関する民博の共同研究にも積極的に参加され、若輩たちに無言の檄をとばしていただいた。
 三つ目はえびす研究である。大手前女子大学の学長になられたのを機に地元、西宮神社のえびす信仰について研究会を主宰され、わたしにも声をかけてくださった。米山先生の人脈と問題関心で集まる多彩な顔ぶれと多様なトピックがいつも新鮮で魅力的だった。わたし自身は社縁のカミとしてのえびすをヱビスビールの祭祀に求め、恵比寿ガーデンプレイスのサッポロビール本社の一隅にある恵比寿神社を調査し、西宮神社との関係などについて報告した。
 このえびす研究を含む近著を先生に謹呈したところ、二月一八日の消印で病床から絵葉書が届いた。そこには「十二月から緊急再入院、点滴を続けています」とあった。今はただ米山先生の学恩に感謝しつつ、颯爽と発たれた後ろ姿を思いうかべながら、ご冥福をお祈りするばかりである。

外国人として生きる
「フィリピン」と「日本」をつなぐ親子
永田 貴聖
日本へ嫁いで
 毎週日曜日の午後、京都市のあるカトリック教会でおこなわれている、英語の朗読とタガログ語の賛美歌を合わせた国際ミサには、七〇人以上のフィリピン人が集まってくる。
 「Mayroon po kayo ng patis ngayon?(今、魚醤(ぎょしょう)はありますか?)」「Syempre Mayroon!(もちろん、ありますよ!)」というフィリピン人女性たちの威勢の良いタガログ語が教会の駐車場から聞こえてくる。デイシーさんは日本人の夫と結婚し、京都市に住んで九年になる。彼女は二年前から、フィリピン食材をここで販売するようになった。長女(八歳)、長男(六歳)を毎週必ず連れてくる。車の後部を開けた狭いスペースに、フィリピン人たちが故郷の食材を求めて立ち止まる。
 マニラ首都圏の南部、カビテ州出身の彼女は、現地の日系企業に勤務していたころ、友達の知り合いだった夫と出会った。両親は夫が二〇歳も年上のことや戦時中の日本占領による反日感情などのため交際に反対した。それでも、八ヵ月の恋愛を経て結婚した。来日当初、ことばや習慣、信仰がまったく異なる日本で何もわからず、友達もいない状態からの始まりだった。
 二人の子どもが保育園のころから、デイシーさんはホテルでのパート勤務を続けている。今では、人間関係も広がり、勤務先や近所に多くの日本人の友人ができた。夫は掃除や洗濯など家事も手伝ってくれる。また、フィリピンの実家への仕送りや、家で子どもたちにタガログ語を話すことにも理解を示す。

広がる異郷での親交
 現在、日本には約二〇万人のフィリピン人が暮らしている。その大半が彼女のように、日本人男性と結婚したフィリピン人女性である。多くの女性たちがことばや習慣がわからないまま日本で暮らし始める。ほとんどの夫たちは女性たちを十分に手助けするわけでも、タガログ語を話せるわけでもない。他のフィリピン人と知り合う機会もあまりなく、フィリピン人の八〇パーセント以上が信仰しているカトリックの教会もどこにあるかわからない。仕事を見つけるのにも苦労する。こうして多くのフィリピン人女性たちは、日本で孤独感を味わっている。
 そのようなフィリピン人女性たちにとって、異郷での同国人同士の親交は大きな心の支えとなる。デイシーさんは外出先で偶然出会ったフィリピン人と連絡を取り合い、関係を広げてきた。しかし、出会った人たちのなかには繁華街のクラブやスナックで働く人も少なくない。デイシーさんは同じフィリピン人とはいえ、彼女らの服装の派手さ、不安定な生活を、以前はなかなか受け入れられなかった。最近、ようやく彼女らの相談に乗れるようになった。
 クリスチャンである彼女は、来日直後に住んでいた家の真正面にあったカトリック教会で、異郷での自分や家族の生活の無事を毎日祈り続けた。二年前、友人から国際ミサを主催するフィリピン人コミュニティー・PAG-ASA(タガログ語で「希望」の意味)を紹介された。それ以来、コミュニティーの活動には親子で参加している。交友関係は一気に広がった。同じころに始めた教会での食材の販売は、送料などを考えるとあまり儲からない。しかし、心の支えの場である教会で、故郷の食材を提供し、多くの人びとに喜んでもらえる。今のデイシーさんにとって何よりも幸せなことである。

多文化を認める社会へ
 デイシーさんと一緒に教会に来る子どもたちに、わたしがタガログ語で話しかけると、子どもたちは、何を言ったかわかっている様子で照れくさそうにしながらわたしのほうを向く。しかし、返ってくるのは日本語である。残念ながら、現在、日本で育ったフィリピン人女性の子どもの多くがタガログ語を理解しない。日本で母国の文化や言語を継承することは容易ではない。とはいえ、この二人には、日本人の父親とフィリピン人の母親のことばや文化を継承する可能性が十分に残されている。デイシーさんは、いずれ子どもたちがフィリピンの大学で学ぶことを希望している。やがて二人が日本とフィリピン双方の文化、ことばを駆使して、国境を往来しながら生活する日が来るのを夢見ている。
 この子どもたちには、日本、フィリピンという択一的な国民国家や国籍の概念に縛られず、ふたつの国のことば、文化を獲得する機会が与えられている。社会には依然として、一国家一民族の意識は強く存在している。ささやかではあるが、二人の存在は、全ての人びとが国籍の違いにより偏見を受けない新しい時代を切り拓き、自由に国境を越えて往来できるグローバルな社会を実現するための原動力になるだろう。わたしは、近い将来、日本が複数のことばと民族文化を受け継ぐ全ての人びとにとって住みやすい「多文化共生社会」になることを信じ、デイシーさん親子に可能性を託したい。

地球を集める
アボリジニ社会をコレクション
激動するアボリジニ社会
 民博が開館したとき、オーストラリアはオセアニア文化の一部に過ぎず、数点のブーメランや槍が並べられている程度だった。日本ではそれまでオーストラリアとの関係が薄いために、現地調査ができず、研究が進んでいなかったからである。しかし、民族(文化人類)学の世界では、オーストラリアは欠かすことのできない地域である。
 第一にアボリジニ社会は狩猟採集社会であったこと、そして、民族学の主たるテーマ「親族組織」が非常に複雑で、ラドクリフ=ブラウンやレヴィ=ストロースに代表される学者が取り組んできたからである。だから、民博も将来オーストラリアを充実させる必要があった。幸い、創設期なので、資料を集め、研究を進める意気込みと資金的な勢いがあり、その下地は十分整っていた。
 調べてみると、アボリジニ社会は激動の時代を迎えていた。一九六七年の国民投票によってアボリジニは、それまでの「保護民」ではなく、「国民」としての権利を与えられることになった。その結果、その社会整備のために巨大な資金を投入する。政府はアボリジニが経済的に自立できる産業の育成を目指し、美術工芸に力を入れ始めていた。
 アボリジニの作る工芸品はすでに一九七〇年代から、ある程度の市場があった。生活様式を大きく変えることなく作られる製品は、貴重な現金収入源となる。そのためさらに品質を磨き、量産できる体制を整え、市場を拡大するために、アートセンターを建てて、白人アドバイザーを就任させた。資料収集はここから始めるべきだと思った。

美術館資料との差別化
 普通、民族博物館は各民族が現代化する直前の姿をあらわす生活用具や儀礼品をそろえている。そうするためには、まとまったコレクションを買いとる方法がある。手早く、労少なく、それなりの展示ができるからだが、値段が張るのが難点だ(民博にもアメリカからコレクションの売り込みがあった)。ところが、生きた社会を目前に見ると、もうそれはできない。だから、骨董品には手を出さないことに決めた。
 頭を痛めたのは、美術館資料との差である。美術館ならば(値段にかまわず)美しい作品を集めて並べればいい。しかし、そんな恣意的な抜き出しでは、文化の粋を見せることはできても、人びとの日々の生活や精神を伝えることはできない。ところが、美術工芸振興策は経済効果の高いファインアート市場を目指し、そこへ投機的な画商が参加し始めて、年を追って価格が高騰する傾向にあった(今ではもう博物館では手が出ない)。しかし収集者としてはどうしても目はそこに移ってしまう。どうすれば良いのか。

すべてを買いとり
 中央砂漠の真ん中にアーナベラという街がある。ここでは、女たちが砂の上に描く奇妙な落書き文様を(アドバイザーのひらめきと努力で)、ろうけつ染めに置き換えた作品を作り注目を浴びていた。
 工房をたずねると、女性たちは子守りをしたり、歌を歌ったりしながら働いていた。飽きるとふらりと出ていってしまい、その日はもう帰らないそうだ。売店の棚に製品が置いてあった。有名作家が作るジョーゼットやハブタエの大きな布は上段のケースに、次に中級品の木綿、失敗作や見習生が作る端切れやハンカチは山積みにしてあった。
 これをすべて買いとることにした。台帳を見ると、レベル毎の生産量、賃金格差、職人の技術的進歩などの過程をたどることができる。「全部?」とアドバイザーはあわてたようだが、ガラクタが多いので総額はさほどでもない。このやり方は効果的で、他の製品や地域でも使った。オーストラリアの学会で民博方式として話題になったそうだ。

収集から現地調査へ
 資料収集は現地の人に現金をもたらすという実益がある。そこからアボリジニ社会に近づくことができたのは、日本のオーストラリア研究にとって幸いだった。そのころ、何の見返りももたらさない民族学者を拒否しようとする動きがあった。しかし、集めようとするモノの制作過程を撮ったり、意味や技術伝承のやり方を聞くという基礎作業をやっているうちに、しだいに彼らと親密になり、村に招かれ、狩りに行ったり、祭りを見せてもらえるようになった。それが社会の調査にまで自然とつながった。
 もうひとつ特徴をあげれば、展覧会を開いたり、豪日交流イベントを利用して、彼らを日本に招く機会を多く作ったことだ。そのため、民博では、歌や踊りのパフォーマンスや、バティック(ろうけつ染めの布)、樹皮画、岩壁画、彫刻などの物作りをビデオに収めることができた。梅棹忠夫初代館長が、これからの博物館は博情(報)館であるべきだと言っていたことを実践できたと思っている。

生きもの博物誌(キャッサバ/マダガスカル)
キャッサバを長持ちさせる
安高 雄治
乾燥地での主食
 キャッサバは熱帯圏で広く栽培されている、イモ類の作物である。痩せた土壌でも育つので、食糧不足の「救世主」としてあらたに栽培を始めるところも多い。わたしにとっても、雨の多い地域を中心にあちこちで食べてきたなじみの作物である。ところが、どういうわけかこれまで乾燥地ではお目にかかる機会が意外と少なかった。
 わたしは数年前に初めてマダガスカルを訪れ、なかでも乾燥地として知られる南西部で調査を始めた。南西部は確かに雨の少ないところで、沿岸部では年平均降水量は三〇〇ミリメートル前後であり、短い雨季のあいだでもまとまった雨が降るのは月にほんの数回という土地である。
 ここに暮らす人びとはおもに農耕と牧畜を組み合わせて生計を立てている。彼らのおもな食糧はキャッサバ・サツマイモ・トウモロコシ・マメ類などの農作物と、乳などの家畜からの副産物である。食事の支度は女性の仕事で、ほとんどの調理は砂の上に座って済ませる。もっとも調理とはいっても、食材を石で砕くだけのことが多い。食べやすい大きさや状態にすると、後は水を加えて火にかけ、沸騰させれば大抵の料理はできあがる。
 じつをいうと、調査に入る前は、雨の少ない土地だから牧畜にもっと依存しているのではないかと想像していた。もちろん時期にもよるのだろうが、しかし、実際には予想以上に農耕によってえた食糧に依存していた。なかでも、彼らが一年をとおしてもっとも頻繁に食べていたのがキャッサバだった。そして何より意外だったのは、キャッサバがすべて乾燥されていたことである。

生きるための「知恵」
 イモ類は、穀類とは違って長期保存に向いていない作物であり、特にキャッサバは傷みやすい。だから、特別な理由でもない限り、収穫直後に食べるのが普通である。雨の多い地域で通年で食べているのは、一年をとおして栽培可能なので植える時期をずらしたり、食べる分だけ収穫したりしているからである。しかし、その栽培時期が限られるとなると、問題は長期保存に向いていないキャッサバをいかに保存するのか、ということになってくる。
 長期保存の方法として彼らがおこなっているのは、収穫したイモをひとまず「すべて乾燥させる」ことだった。どうりで、調理していたどのイモも乾燥していたわけである。ただし、イモを芯まで乾燥させるのはそんなに簡単なことではない。彼らの場合、収穫直後にイモの薄皮を取り除いて、その後、約二ヵ月間かけて丹念に乾燥させるのである。
 工夫はイモを乾燥することだけではなかった。彼らはキャッサバを収穫するときにイモをひとつ(人によってはふたつ)残して、引き抜かずに栽培を続ける。この方があらたに植えつけるよりも次の年の収量が少し多くなるのだそうだ。こうやって二、三年栽培し、イモのできが悪くなると収穫時に引き抜いて、次の雨季が始まるころにあらたな茎を植えつけるのである。
 このように、収穫後の畑ではイモを乾燥する作業が進んでいる一方で、地下では収穫のときに残したイモの周りに根が伸び、新しいイモが少しずつでき始める。厳しい乾燥環境のなかで生きていく人びとの「知恵」である。

キャッサバ (学名:Manihot esculenta)
トウダイグサ科。マニオク(manioc)、タピオカ(tapioca)などともよばれる。和名はイモノキ。土質を選ばず、乾燥にも強くて栽培しやすいが、連作すると地力が著しく低下する。傷みやすく輸送に耐えない。根や葉などには青酸配糖体が含まれ、その含有量によって苦味種(bittercassava)と甘味種(sweet cassava)とに大別されるのが普通である。皮を剥いだりすることで青酸が発生するため、多量に含む前者は毒抜きが必要である。熱帯アメリカ原産であるが、現在は熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されている。

フィールドで考える
ジンに憑かれたベルベルの助産婦
井家 晴子
ある助産婦の不思議
 モロッコ王国のオートアトラス山中の村に、ヤムナ(仮名)おばさんは住んでいる。彼女は、ベルベル語やアラビア語のモロッコ方言でカブラといわれる助産婦である。彼女が介助して生まれた赤ん坊は、利発ではあるがおしゃべりになるという評判であった。子どもの性格は、へその緒を切ったカブラの性格に似るとされるからである。彼女は、夫と一〇年前に別居していたが、三人の子どもはいずれも立派に成長しすでに独立していた。それに老いた両親の面倒は弟夫婦が見ていたし、ときおり、大都市マラケシュに出ては、知り合いのつてで家政婦をして現金収入をえるなど、その暮らしは気楽なものに見えた。
 彼女は人づきあいが好きだった。また手際よく家事をこなすので、村人からも出産のときだけではなく結婚式、葬式、祝祭などの際には頼りにされていた。行事があるたびに無料のカメラマンとして呼ばれるのが常であったわたしも、しばしば彼女と顔を合わせた。夜はひとつの部屋に女たち同士で川の字のようになって眠る。そんなとき、彼女は夜中に何度も寝言を言い、飛び起きて灯を点し、神に何か祈ることさえあるので、わたしは繰り返し睡眠を妨げられた。
 じつはこれ以外にも、彼女には不思議な点がいくつかあった。まず、話好きでとくに人の昔の話を好んでするのだが、自分の昔についてはほとんど語らない。たいがいの女性たちは自分の辛い過去の思い出も話すものだ。彼女にとっては、子ども二人を病死させたことがどうしても思い出したくない深い傷なのだと、一応わたしは理解していた。
 また、夫婦仲がうまくいかず遠くで別居する夫が一〇年ほど経っても離婚を言い出さないばかりか、再婚も考えていないのも気になっていた。しかも、彼女の老いた母親が自らの苦渋に満ちた人生を語る際、今でも彼女のせいで気が休まらないのだと、なぜか必ず言い添える点も不思議であった。

精霊が起こした不幸な事件
 突然、これらの疑問はすべて明らかになった。ある日、わたしは彼女の伯母に、自分の身体をどのように理解しているのか、質問をしていた。伯母は「人間と動物は何から何まですべて同じ。心臓も肝臓も胆嚢(たんのう)も大きさが違うだけで同じだから、羊を解体したときに見ればよい」と答えた。「動物は解体して実物を見ることができるが、人間の内臓は見たこともないのに、なぜ同じだとわかるの」とたずねると、伯母は、「ヤムナの死んだ子どもとその内臓を実際に全部見たから知っているよ」と答えた。わけがわからず驚いていると、彼女は説明してくれた。
 ある晩、ヤムナおばさんは突然、ジンとよばれる精霊に憑(つ)かれた。そして横に寝ていた長女を鶏と混同してしまった。そこで鶏の下処理をするのとまったく同じように、寝ている長女の内臓を下半身の方からすべて引き出した。その後、彼女はフラフラとモスクへと出て行った。目を覚ました次女は自分の姉が死んでいるのを見て、母に問いただそうと追いかけた。彼女には、追いかけてきた次女も鶏に見えた。そして、鶏が自分を襲ってくるように感じ、押さえつけて息ができないようにして殺してしまったのである。その様子を見ていた近所の人が警察を呼んで、逮捕され、彼女は精神病院に入れられた。退院後は夫と別居し村へと帰ってきたが、彼女には事件の前後の記憶がまったくない。
 夫が現在も離婚せず、再婚もしないのは、そのせいであると伯母は言った。人間は誰でも、ジンに憑かれる可能性がある。自分と再婚した相手が、またジンに憑かれて、自分の子どもを殺してしまうとも限らない。そのため、彼はずっと独身でいるとのことであった。

不運に同情する村人たち
 ヤムナおばさんの過去を聞いて、わたしは彼女と一緒にいることさえ恐ろしくなった。そういえば、行事の際に遠方から来る村の出身でない人たちが、ときおり彼女に好奇な視線を向けるのが、ずっと早くから気になっていたものである。しかし、村人は彼女への非難を口にせず、何事もなかったように扱い、それどころか頼りにさえしながら日常生活をともに送っていた。わたしがそれを不思議に感じ、村人たちにあらためて彼女の事件について聞くと、彼らはむしろジンに憑かれた不運な彼女に同情し、ジンの恐ろしさとそれに抗えない人間の非力さを嘆いていた。
 近代医療では、このような事件は精神疾患によるものとみなされる。そして、何故彼女がそのような事件を起こすに至ったのか、専門家は犯行者の幼少期からの生活環境に焦点を当てて分析する。しかしその分析による動機の説明が第三者を納得させられるとは限らず、事件を起こした当人への怒りがそれで収まるわけではない。村人はこれからも何でもない日常生活のなかで世話好きなおばさんとの関わりを続けていけるだろう。いったい近代医療の知見に基づく精神分析が、彼らにとってどんな意味があったのだろうか。不運にもあの事件時、彼女にうかがい知れない力が外から働いたのだと考える方が、わたしにもしっくりくるのである。

企画展「みんぱく昆虫館」


次号予告・編集後記


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