国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年9月号

2006年9月号
第30巻第9号通巻第348号
2006年9月1日発行
バックナンバー
 

エッセイ 世界へ≫≫世界から
リヤカー引いて四万キロ
河合 雅雄
 一九八二年、カメルーン南部の熱帯雨林でわたしたちはマンドリルの調査をしていた。そのとき、突飛なことを敢行している男の噂を聞いた。一人でリヤカーを引き、ケニアのモンバサを出発してアフリカを徒歩横断し、ついでサハラ砂漠を徒歩縦断してパリまで行こうとしている男がいる、というのである。
 聞いてあいた口がふさがらない、というのはこういうことだ。単独徒歩、自転車やバイクならまだわかるが、どうしてリヤカーなのか? 雨季の悪路や砂漠をリヤカーを引いて歩くのはわざわざ困難苦労を買うようなものだ。第一盗まれるに決まっているではないか。無謀というよりも狂気の沙汰に近い。案の定、ナイジェリアのカノで、リヤカーごと持ち物の全てを盗まれたと聞いたときは、同情よりも当然のことが起こったという感じだった。
 この五月三日に、その人に会った。再度リヤカーを引いて挑戦し、一九八九~一九九〇年にかけて三七六日間、ひたすらリヤカーを引いてアフリカ大陸を横断、ついでサハラ砂漠を縦断、パリまでの道程一万一一〇〇キロメートルの踏破を成し遂げた。その壮挙に対して植村直己冒険賞が与えられた。わたしはこの賞の審査員をしているので、授賞式でその人永瀬忠志さん(五〇歳)にお会いしたというわけだ。
 かつてアフリカで、滑稽で馬鹿げてる、無茶苦茶だとそしった人の偉業を称えて会う不思議な縁を感じながら、実際に会ってみてまた驚いた。二児をもつ礼儀正しい紳士で柔和な微笑が魅力的だった。サハラ縦断の苦労話などの受賞講演には一同感銘を受けた。余り苦しくて、「止めたい、なぜ歩くのか」とずっと思い続けていた。しかし、止める理由が見つからない。全部盗まれたとき、ほっとした。止める理由が見つかったからだ。だが、なぜ再度挑戦し、またなぜリヤカーを引くのか。それは身体酷使の極限を通じて一瞬訪れる自然の美しさ、神秘的な感動、人とのふれあいのよろこびにある、という。
 その後も、タクラマカン、ゴビ、カラハリ各砂漠横断、南米縦断など全長四万三〇〇〇キロメートル余りを歩き続けたリヤカーマンの不撓不屈(ふとうふくつ)の冒険心には頭が下がった。全て自己資金というのがすごい。
 植村直己冒険賞は、彼の故郷日高町(現豊岡市)が始めて今年で一〇周年、受賞者は皆永瀬さんに劣らずすばらしい冒険者たちだ。安心と安全の卑小な自己中心の砦にこもる無気力な若者が増えてる現在、このような冒険者の存在は貴重である。もう一度「若者よ大志を抱け」そして「冒険者であれ」と叫びたい。

かわい まさを/1924年兵庫県篠山市生まれ。京都大学理学部動物学科卒。理学博士。京都大学霊長類研究所教授(所長)、兵庫県立人と自然の博物館長など歴任。京都大学名誉教授。著書に『少年動物誌』『小さな博物誌』(産経児童出版文化賞)『人間の由来上下』(毎日出版文化賞)『河合雅雄著作集13巻』など。朝日賞、紫綬褒賞など受賞。

特集 更紗今昔物語─ジャワから世界へ─
 現代のアフリカや東南アジアで、色あざやかなプリント更紗が普及している。そのデザインのルーツは、インドネシアのロウケツ染めの布、ジャワ更紗であった。
 九月七日からはじまる特別展「更紗今昔物語―ジャワから世界へ―」では、グローバル化のうねりのなかでダイナミックに変貌を続けるジャワ更紗のデザインと技術、その拡がりを紹介する。

ジャワ更紗
 大小一万数千の島々からなるインドネシアでは、多くの島々で今なお多種多様な伝統的染織技法が継承されている。それらのうちでおもにジャワ島を中心としてつくられてきたロウケツ染めの布は、インドネシアを代表する染織品として世界的に有名であり、わが国では一般にジャワ更紗の名で知られている。ジャワ更紗のロウケツ染め(ロウ防染)技法は、ジャワ語やインドネシア語ではバティック(batik)とよばれており、今日、その名称は「ロウケツ染め」を意味する国際共通語として、広く世界で使われている。なお、「更紗」の語は、かつてインド、あるいはインドネシアあたりで使われていたと見られる外来語であり、わが国にはポルトガル人による南蛮貿易によってもたらされた。その語義は、当初は「南蛮貿易、あるいはその後の紅毛貿易によって舶載された異国の模様染めの布」であったと見られるが、本稿、並びに今回の特別展では「模様染めの布」という意味で使っている。
 ジャワ更紗は、ジャワ島の宮廷を中心として発展を遂げたと見られる染織品で、腰巻、肩掛け、頭巾などをはじめとする伝統的な衣装として用いられてきた。しかしながら、インドネシアは高温多湿の気候が染織品の保存に適していないことから、古い時代の染織品の実物資料は残されておらず、現存するジャワ更紗についても、その多くは一九世紀以降につくられたものと見られる。したがって、それ以前のジャワ更紗についてはっきりしたことはわかっていない。ただし、文献史料としては、一六三二年ごろにあらわされたジャワ島の年代記『ババッド・スンカラ』があり、この年代記に「バティックの腰布」を意味する語句がしるされていることから、一七世紀前半にはすでにジャワ更紗が存在していたことは間違いないと考えられている。
 ジャワ更紗の布素材としては、おもに木綿が使用されており、ロウケツ染めの工程では、手描き用のチャンティンや型押し用のチャップとよばれる銅板製の道具を使って布面にロウ置きがおこなわれてきた。また、そうしたジャワ更紗のロウ置きは、布の両面からおこなわれており、ロウ置きを終えた布は、染液のなかに布をくぐらせて染められる。したがって、染めあがったジャワ更紗はいわゆる両面染めの布であり、布の表裏はほとんど同じ状態に染めあがる。
 ジャワ更紗にあらわされてきた模様はじつにさまざまで、あたかも万華鏡をのぞき見ているような錯覚さえもおぼえさせるほどのものである。そうした更紗模様のうちには、古代から現代に至るまでの長い年月のあいだにジャワ島にもたらされた多様な異文化の影響が如実に反映している。それらの模様によって構成されているジャワ更紗のデザイン様式は、古典様式、中部ジャワ様式、ジャワ北岸様式に大別することができる。古典様式の更紗は、中部ジャワ様式やジャワ北岸様式の更紗よりも古いと考えられるデザイン様式をともなった「青い更紗」で、それらの藍で染められた更紗は、おもに幾何学的な模様や草花模様によって構成されている。この古典様式の「青い更紗」については、わが国で一七八一(安永一〇)年に刊行された『増補華布便覧』や一七八五年に刊行された『更紗図譜』に白描の図像があらわされている。また、中部ジャワ様式の更紗はジョグジャカルタやソロの宮廷を中心としてつくられてきたもので、ヒンドゥー・ジャワ時代やそれ以前にさかのぼる古くからの伝統的な模様を茶褐色系のソガ染料と藍で染めた「ソガ染めの更紗」、あるいは、合成染料によってその色調を模倣した更紗が大多数を占めている。さらに、ジャワ北岸様式の更紗は、ジャワ島北岸の港町を中心として発展を遂げたもので、藍、茜(あかね)、ソガなどの植物染料や合成染料を使用した多色の更紗には、中部ジャワ様式と共通する模様のほかに、インド、アラブ、中国、ヨーロッパ、日本などからの影響による国際色豊かな模様が氾濫している。
 以上に述べてきた伝統的なジャワ更紗については、本館では一九九三年の特別展「ジャワ更紗―その多様な伝統の世界―」で展示しており、一九八〇年代以降につくられてきた絹のジャワ更紗を当時本館の向かいにあった国立国際美術館で「現代のジャワ更紗―ニュー・ファッションへの展開―」として展示してきた。そして、今回の特別展「更紗今昔物語―ジャワから世界へ―」では、一九世紀から二〇世紀にかけてつくられた伝統的なジャワ更紗を特別展示館一階の冒頭で紹介する。

ジャワ更紗を模倣したプリント更紗
 ヨーロッパでは一七世紀にインド更紗の染色技法が導入され、本格的なプリント産業が勃興(ぼっこう)する。そして、産業革命のなかで木綿布の大量生産がはじまり、一八一一年から一八一五年のあいだには、ジャワ島やマレー半島の染織品をプリント(捺染)技法によって模倣したイギリス産の模様染めの布、すなわちプリント更紗がジャワ島に輸入されている。このことはイギリスの統治下にあったジャワ島に副総督として赴任していたトーマス・ラッフルズが、彼の有名な著作『ジャワ史』(一八一七年刊)にしるしている。同書では、さらにそのときのプリント更紗の染色堅牢度(色落ちや色汚染に対する強さ)が劣悪であったことから、初回の販売は好評であったものの、その後の販売が思わしいものでなかったことも指摘している。
 しかし、そうした染色堅牢度の問題も次第に克服されていったと見られ、おそくとも一八四〇年代以降には、オランダ、イギリス、スイスをはじめとするヨーロッパ諸国からジャワ更紗を模倣したプリント更紗が大量に、ジャワ島、さらには、スマトラ島、シンガポール、ラングーン(現ヤンゴン)、サイゴン(現ホーチミン)、バンコク、セイロンなどに向けても輸出されるようになっていった。
 そして、二〇世紀においては、一九一〇年代から一九五〇年代にかけての第二次世界大戦前後の時期に日本からもジャワ島に向けて同様のプリント更紗の輸出がおこなわれていた。また、一九七〇年代以降には、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイなどでも、ジャワ更紗を模倣したプリント更紗の生産がはじまっている。それらのプリント更紗は、その流通の初期段階から安価であることが庶民にとって最大の魅力であった。したがって、一九世紀初頭にはじまったプリント更紗のジャワ更紗の市場への流入は、ジャワ更紗の業界をしばしば圧迫してきた。そして、一九九〇年代半ばごろからは、プリント更紗がついにジャワ更紗の市場を席巻(せっけん)するほどになっており、伝統的なジャワ更紗の需要は急速に減少し、庶民の多くはロウケツ染めのジャワ更紗にかえてジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗を日常の、あるいは儀礼用の衣装として着用する傾向がいちじるしく増大している。また、そうしたプリント更紗市場の急速な拡大傾向はインドネシア国外においても顕著であり、タイ、マレーシア、シンガポール、ラオス、ミャンマー、カンボジア、さらにはネパールなどの国々の女性たちのあいだでも、それぞれの民族のもとで継承されてきた伝統的な腰布にかえて、ジャワ更紗を模倣したプリント更紗を日常用、あるいはおしゃれ着用の腰布、その他の衣装として着用する傾向が、とりわけ一九七〇年代以降増大の一途をたどっている。
  一方、ヨーロッパのプリント更紗は、一九世紀中頃にはアフリカへも輸出がはじまっている。そうしたなかで、ジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗は、ジャワ島向けのものとは異なるものではあったが、一九世紀末から二〇世紀初頭頃には東アフリカに向けても輸出されていた。また、西アフリカに向けてはジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗がおそくとも二〇世紀初頭から輸出されてきた。それらのデザインもまた、ジャワ島向けや東アフリカ向けのものとは異なるものであったが、西アフリカにおいては、その後もジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗が主要なデザインとしてもてはやされ、現代においても、ジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗が大量に出まわっている。なお、西アフリカ向けのプリント更紗には、二〇世紀初頭からロウケツ染め技法が取り入れられており、ロウケツ染めのプリント更紗は西アフリカのプリント更紗のもっとも主要な商品として現在に至っている。
 東アフリカや西アフリカ向けのプリント更紗市場には、二〇世紀前半にインドや日本も参入している。そして二〇世紀後半には、アフリカの国々においてもプリント更紗の生産がはじまっており、さらにはインドネシア、タイ、中国なども加わって、熾烈な市場獲得競争が繰り広げられてきた。そうしたなかで、ヨーロッパでアフリカ向けのプリント更紗を生産してきた企業の多くは二〇世紀後半に撤退を余儀なくされた。今なおヨーロッパでアフリカ向けのプリント更紗を生産しているのは、一八四六年に創業のオランダのフリスコ社と、一八一二年に創設され、一九〇八年から西アフリカ向けのプリント更紗の生産を開始したABCワックス社の二社のみとなっている。また、日本のアフリカ向けプリント更紗の生産は一九八〇年代に終息している。その一方で、二〇世紀後半からは中国とインドで生産されたプリントが大量にアフリカに向けて輸出されるようになっている。そうしたなかにあって、中国のアフリカ向けのプリント産業は急速に勢力を拡大しており、アフリカのプリント更紗の工場や前記のイギリスの老舗として知られるABCワックス社をも傘下におさめて、今日、その勢いはとどまるところを知らないといったありさまである。
 今回の特別展では、現代アフリカ、および東南アジアで流通しているプリント更紗が展示資料の中核となる。それらのうちにはジャワ更紗のデザインを模倣したプリント更紗をはじめ、携帯電話や扇風機などをはじめとした身近にある生活用品などをデザイン・ソースとした、われわれの意表をつくキッチュなデザインのプリント更紗、アフリカの伝統文化に根ざしたデザインのプリント更紗などがある。それらを特別展示館一階に布のまま、あるいは衣服として仕立てられた状態で大量に展示する。また、そのほかには、一八四〇年から一九三〇年までのあいだにおもにスイスで生産された、ジャワ島をはじめとするアジア向けのプリント更紗、東アフリカ向けのプリント更紗、西アフリカ向けのプリント更紗などの実物資料やサンプル帳も展示する。これらの歴史的なプリント更紗の資料は、昨年末にスイスで発見した、他に類例を見ない貴重なもので、今回の特別展において世界ではじめて公開されるものである。

世界に展開するロウケツ染めの技術
 ジャワ更紗の染色技法であるロウケツ染めは、すでに述べているようにチャンティンやチャップとよばれる銅板製の道具を使って布の両面にロウ置きをおこなってきた防染技法である。今日、ロウを防染材としたロウケツ染めは、世界各地でおこなわれており、その多くが、本来インドネシアのジャワ語でジャワ更紗のロウケツ染めを意味する名称であったバティックの名でよばれている。そうしたバティックとよばれる世界各地のロウケツ染めのすべてが、ジャワ更紗の影響によるものとはいえないものの、マレーシア、タイ、ミャンマー、日本、オーストラリア、カリブ海諸国、アメリカ、ヨーロッパなどでは、二〇世紀にあきらかにジャワ更紗の影響によっておこなわれるようになったロウケツ染めが見い出される。ただし、それらのロウケツ染めは、いずれも布の片面にのみロウ置きをおこなっており、ジャワ更紗のように布の両面にロウ置きをするという例は確認されていない。
 マレーシアのロウケツ染めは、二〇世紀初頭にはじまっており、マレー半島東部のクランタンとトレンガヌが中心的な生産地となっている。ロウケツ染めにはジャワ更紗と同様にチャンティンやチャップを使用している。当初、ロウケツ染めの布は、ジャワ更紗と同様の腰巻や筒型スカートなどの衣装として用いるための布素材として生産され、それらの模様もジャワ更紗を模倣したものであったが、今日においては、観光工芸品として多様な製品が生産されている。
 タイのロウケツ染めは、一九七〇年代にマレーシアを介して導入されており、プーケットやチェンマイを中心として、おもに観光工芸用の衣装や壁飾りなどをはじめとする製品としてつくられている。そして、バンコクの美術大学やチェンマイ近郊の身障者用の職業訓練校などではロウケツ染めの教育実習もおこなわれている。なお、ロウ置きには、ジャワ更紗のロウ置き道具として用いられているチャンティンのほかに、型押し用の木版ブロックやインド更紗のロウ置き道具であるカラム・ペンも一部で使われている。
 ミャンマーのロウケツ染めは、一九九〇年代ごろにはじまっており、首都のヤンゴンとその周辺には、一〇あまりの小規模の工房がある。それらの工房では、木のブロックに銅板を埋め込んだ型押し用の道具を使って、ジャワ更紗のデザインを模倣したロウケツ染めの更紗がつくられている。それらの製品は女性用のロンジーをはじめとする衣装として用いられている。
 日本のロウケツ染めは、明治時代の末ごろにのちの京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)校長となった鶴巻鶴一がジャワ更紗の技法を導入してはじまっており、京友禅の染色技法のひとつとして今に至っている。伝統工芸や現代工芸の分野においては、数多くの作家も輩出している。ただし、今日、日本でおこなわれているロウケツ染めのロウ置きにはおもに筆が使用されており、チャンティンやチャップの使用例は一般的ではない。なお、ジャワ島では日本からの発注によって、第二次世界大戦前から断続的におもにキモノ用のジャワ更紗の生産もおこなわれている。
 オーストラリアでは一九七〇年代ごろから、アボリジニの女性のあいだで、ジャワ更紗の技術を導入したチャンティンによるロウケツ染めがおこなわれている。ただし、点描を主体としたその模様は、アボリジニ独自のもので、その作品は彼らのあらたなアート&クラフトとして展開している。また、最近では陶器の絵付けをするさいに、素焼きの土器にチャンティンを使用してロウ置きをし、その後に釉薬をかけて焼成するという、新機軸の陶器づくりもおこなわれている。
 カリブ海諸国では、一九七〇年代以降に、ほとんどすべての国々で、ロウケツ染めがはじまっている。大半の国々では、欧米人によってジャワ更紗のロウケツ染め技術の導入がはかられ、おもに観光工芸用の衣装や壁飾りなどの製品がつくられている。ロウ置きには、セントルシアでは当初、チャンティンやチャップが使用されていたが、今日ではおもに筆が使われている。また、バハマではスポンジを素材とした独特の型押し用のロウ置き道具が考案されている。なお、スリナムでは産業としてのロウケツ染めはおこなわれていないが、ジャワ島からの移民の三世で洋画家として有名なスキ・イロデクロモによって、チャンティンや刷毛を使用したバティック・ペインティングの作品が創作されている。
 ヨーロッパやアメリカでは、産業としてのロウケツ染めは見い出せないが、チャンティンを使用したロウケツ染めワークショップが各地でしばしば開催されている。そのほかに、バティック・アーティストとして作家活動をしている例が少なからず見い出される。
 今回の特別展では、以上に述べてきたジャワ更紗の影響によるロウケツ染めの技術に関係する資料として、マレーシア、タイ、ミャンマー、オーストラリア、カリブ海諸国、日本などのロウケツ染めの布を、チャンティンを使用して絵付けをおこなったオーストラリアのアボリジニの陶器、チャンティンと型押し道具などとともに特別展示館二階に展示する。また、同階では、これらとともに、チャンティンやチャップをはじめとするジャワ更紗の製作工程や製作用具についても展示する。

未来へひらくミュージアム
自由と秘密を抱きしめて
―魅惑のミュージアム―
塚田 美紀
「広場としてのミュージアム」と
「墓場としてのミュージアム」。
このふたつのイメージを手がかりに、
世田谷美術館の活動を見つめ、
魅惑のミュージアムとは何かを
探っていきたい。

家出先はミュージアム
「あたしの家出は、ただあるところから逃げだすのでなく、あるところへ逃げこむのにするわ」―一二歳の少女クローディアが決めた“逃げこみ先”は、なんとニューヨークのメトロポリタン美術館だった・・・。
 米国の児童文学者、E・L・カニグズバーグの名作『クローディアの秘密』(岩波少年文庫、新版二〇〇〇年、原著一九六七年)。いつでも良い子でいるのにうんざりしたクローディアが、機転の利く弟ジェイミーを連れ、大人たちが「クローディアのねうちをもう少し認める」ようになるまで、美術館でこっそり寝泊まりし続ける話だ。なんとも心惹かれる設定で、大人になりかけの子どもにとって、柔らかくゆれる心を失わない大人にとって、ミュージアムはどういう場でありうるか、その可能性をさりげなく教えてくれる。美術館で日々試行錯誤しながら子どもや大人の教育プログラムをつくるわたしには、大切な一冊だ。
 『クローディアの秘密』の舞台となるメトロポリタン美術館は、いわずとしれた有名ミュージアムのひとつである。
 「美術館はこんでいました。ふつうの水曜日で参観者は二万六千人を超します。それだけの人が八万平方メートルほどの床面積にちらばって、この部屋からあの部屋、あの部屋からこの部屋、とうろつきまわるのです。」
 目も眩む集客数と広さ。が、さしあたり大事なのは、このお話のなかでの美術館はニューヨークという大きな街の象徴で、クローディアが家出先に選んだ理由のひとつもそこにある、ということだ。「優美で、重要で、そのうえ忙しい」ニューヨークが大好きなクローディアは、そんな街の活気をミュージアムにも感じながら、人とモノのあいだを気ままにうろつくのである。
 さて、昼間のにぎわいとはうってかわって、閉館後の夜の美術館は静寂そのもの。警備員をうまくかわしたクローディアたちは、一六世紀の豪奢(ごうしゃ)な(でもカビくさい)ベッドにもぐりこむ。
 「クローディアは美術館の巨大なしずけさのなかで、しずかな弟のぬくもりにくっついて横になりながら、やわらかい静寂がふたりのまわりをとりまくままにしておきました。しずけさのおふとんです。沈黙が頭から足のさきまでしみこんできて、ふたりの心までひたしました。」
 展示品のベッドの寝心地を味わうことが目当てなのではない。誰にも知られず、こんなにも静かな時と場に身を置くこと、「しずけさのおふとん」を手に入れること。街を闊歩するような自由とともに、何かを求めて家出したクローディアには、静寂と沈黙だけが与えてくれる、安らぎが必要だった。夜のミュージアムでかみしめる、こんな静かな安堵感は、よそでは得られないものだったに違いない。

ふたつのイメージをあわせもつ
 『クローディアの秘密』に描かれた、ミュージアムの「昼」と「夜」―自由気ままに過ごせる街、他方では深い安息の寝床。これらの魅惑的なイメージについて、もっと考えてみるのは面白そうだ。
 手がかりは、すでに今年の『月刊みんぱく』に登場している。まず、四月号の「広場としてのミュージアム」。川口幸也氏は、実際には関連のないmusée(仏語で「ミュージアム」)とmuser(仏語の古語で「無為に時間を過ごす」)はどこかで響き合っているのでは、という想像力をエンジンに、「広場」―集まり、語らい、飲み食いする、そこにいるだけの人びとを受け入れる場―としてのミュージアムを描き出す。「無為」をも含む自由な過ごし方を許容する「居場所」としての機能に、目が注がれている。他方、宮下規久朗氏は六月号「墓場としてのミュージアム」で、近年多くのミュージアムがデパートのごとき活況(?)を目指していることに疑問を投げかけ、都市型のミュージアムはそれでやむをえないにしても、荘厳なモノの霊場、「墓場」としてのミュージアムに今いちど目を向けるのも大切では、と問う。ここには、昨今のミュージアムの安易な「親しみやすさ」志向によって失われるものへの視線がある。
 川口氏の言う「広場(あるいは居場所)」と、宮下氏が見る「墓場」。ふたつは対立するものではない。どちらも、ミュージアムと人との関係においてもっとも大切で、デリケートな何かを、鮮やかに浮かび上がらせてくれる。
 ここ十数年のあいだに、来館者の視点からミュージアムのあり方を考えること―ミュージアム・エデュケーションは、日本でもずいぶん注目されるようになった。何かと“敷居が高い”と言われる美術館でも、作品に対する感想を自由に書き残せるコーナーを設けたり、ボランティアと話をしながら展示室を回れるようにするといった試みが増えている。これらの試みのなかには、地道に続けばいつか「広場」へとつながっていきそうなものもある。
 わたしが勤める世田谷美術館には、区内の小中学校から毎年八〇〇〇人の子どもたちがやって来る「鑑賞教室」という事業がある。彼らとおつきあいしてもらう「鑑賞リーダー」というボランティアを導入して、来年で一〇年になる。十数人から始まり、今では数百人にのぼる当館のボランティアには、「今日たまたまヒマになった」、「うちの近所の学校が来るから」と、至ってマイペースに活動する地元の方が多い。子どもたちが、そういう近所の人たちと館内を回る。四六時中アートの話をしているわけでもなく、外に出て落ち葉やどんぐりを拾っていたりすることもある。そうした“ゆるい”光景が何となくサマになってきた昨今、この館もほんの少し、「広場」に近づいてきたかな、と肌で感じる。数年前まではそうではなかった。そう、頭ではなく、皮膚レベルで納得できるほど確かに場が変わるには、時間がかかるのだ。「広場」の寛容性―懐の深さは、たくさんの人が、気楽に、気長に育てて、ようやく息づいてくるものなのだろう。
 こんなふうに、たくさんの子どもや大人が自然体で歩き回れるように美術館が育つのは素敵なことだ。と同時に、個人的にも、またエデュケーションに携わる立場からも、「墓場」としてのミュージアムに、わたしは抗いがたい魅力を覚える。
 家出したクローディアが選んで眠ったのは、某伯爵夫人が殺害されたという、いわくつきのベッドだった。人とミュージアムのひとつの関係を示す、これは見事な比喩だと思う。ミュージアムには、誰にも解き明かせない、巨大な秘密―死がある。わたしたちは、とりわけクローディアのように自分の「ねうち」を探しあぐねている思春期の子どもたちは、家出=日常を脱出してその大きな秘密に近づくことで、自らを確かめようとする。そしてそれは、「墓場」―モノたちの静寂と沈黙が支配するミュージアムでなら、たぶん、不可能ではないことなのだ。

ワークショップ
「誰もいない美術館で」

 二年前から、わたしは中学生・高校生をおもな対象に「誰もいない美術館で」というワークショップ・シリーズを始めた。閉館後、文字どおり誰もいなくなった美術館で、展示されているモノたちから受けたインパクトを、演劇やダンスというパフォーマンスによって表現する、というものだ。「大丈夫、何でもありだよ」と、演出家の柏木陽さん(NPO法人演劇百貨店代表)をはじめ、毎回さまざまなゲスト・アーティストに見守られ励まされながら、中高生たちは週末の二日間、物言わぬ作品に向き合い、ああでもないこうでもないと逡巡(しゅんじゅん)する。そんな彼らが、静まり返った展示室で、まるで作品と一体になったように演じ、踊り始めるとき、(おかしな言い方だが)我らが「墓場」はじつに生き生きと妖しい精彩を帯びてくるのだ。その瞬間に立ち会うたび、わたしの全身にはザワッと鳥肌が立つ。
 常連で参加し続けている、ある中学生によれば、このワークショップは「美術館の怪談」なのだという。また「変人たちの居場所」なのだとも。大人以上に忙しい中高生を集めるのに苦労はするが、ミュージアムと自分の秘密にふれる居場所であるらしいこのワークショップは、ひっそりと続けていくことにこそ価値があると思っている。
 もちろん、こんなお膳立てがなくとも、人がミュージアムで秘密に出会う瞬間はある。数年前のこと、「鑑賞教室」で来館していた子どもたちのなかに、ボランティアを避けてうろついている、目のきつい男の子がいた。この世のあらゆる「大人」の世界に対して闘っている風情の彼に言わせれば、展示室もミュージアムショップもレストランも、何もかも「嘘くさい」のだった。そんな彼の態度が俄かに和らいだのは、人気のない図書室に連れて行ったときだ。入るなり大きな書棚に向かい、あれこれ引っぱり出した末に選んだ画集(藤田嗣治が最晩年に描いた教会壁画集だった)を、ひとり大事そうにめくっていく。しだいに透明な繭に包まれていくような、その小さな後ろ姿が忘れられない。彼は、出会っていたのである。
 どこで何をしていてもいい。ひとりの世界をそっと見守ってもらえる。懐深く、人の自由と秘密を抱きしめる、そんなミュージアムにこそ、子どもも大人も、末永く魅了されるに違いない。

表紙モノ語り
アフリカン・プリント
衣服製作用染布(標本番号H223531、長さ/540cm 幅/120cm)製作年代 現代
 近・現代のアフリカでもっとも一般的なファッション素材として普及している木綿のプリント更紗(プリント布)は、世界的にアフリカン・プリントの名で知られている。それらの布のルーツはインドネシアのロウケツ染めの布、ジャワ更紗である。アフリカの人たちのあいだで、アフリカン・プリントがファッションとして取り込まれるようになったのは一九世紀後半のことで、当時のアフリカン・プリントは、イギリスやオランダをはじめとするヨーロッパの国々で生産されていた。それらの多くは、ジャワ更紗のデザインを模倣したもので、同様の布は一九世紀初頭からインドネシアをはじめとする東南アジアに輸出されていた。
 ジャワ更紗を模倣したアフリカ向けアフリカン・プリントの生産は、ヨーロッパに続いてインドや日本でもおこなわれてきた。今日、アフリカン・プリントは、アフリカの国々でも生産されているが、イギリス、オランダ、中国、タイ、インドネシアからの輸入品も大量に出まわっている。
 現代のアフリカン・プリントには、携帯電話をはじめとするさまざまな生活必需品をデザイン・ソースとして取り込んだ、アフリカン・プリントならではの独特のデザインが数多く見出される。しかし、その一方では伝統的なジャワ更紗を模倣したデザインも、今なおアフリカン・プリントの主要なデザインとしての命脈を保っている。
 表紙写真は、そうしたアフリカン・プリントのひとつである。これは一八四六年創業のオランダのフリスコ社で、ローラーを使って布の両面にロウ置きをして染められたロウケツ染めのプリント更紗で、布の全面にあらわされた模様は、いずれもジャワ更紗の模様をデザイン・ソースとしている。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

人生は決まり文句で
旅すれば見つけものあり、居座れば糧(かて)尽きるのみ
Mandehandeha be raha hita, mipetsapetsake be raha lany.
生活に根ざした教え
 わたしがマダガスカルで世話になっていたヴェズという人たちは、海でなりわいを立ててきた人たちである。村落部に行けば、今でもほとんどの人たちが、網でとったり釣ったりした魚を売って、現金収入をえている。都市部では必ずしもそうではないが、カヌーを使って村から村へ荷を運んだり、外国人観光客をカヌーで別の町に運んだりして生計を立てる人も多い。
 彼らにとって、海は稼ぐ場所なのである。そこは、日常生活の場とは異なる。寝たり食べたり休んだりする場所を離れてはじめて、彼らは日々の糧(かて)をえる。だからこそ、ふだんの生活を離れて動き回ることが美徳とされ、逆にそこに居続けることが悪徳とされるのだろう。表題のマラガシ語のことわざは、そうした道徳観をあらわしている。
 語呂を考えて訳してみたが、原文に忠実になるなら「歩き回ること(は)見つかるもの(を)多(くもたらし)、座ること(は)尽きるもの(を)多(くもたらす)」となろう。簡潔な言葉だけを使いつつ、生活に深く根ざした教えをいいあらわしている。この点こそ、このことわざのすばらしさである。

言い訳として
 しかし、そうしたことわざはえてして、逆手にとって使われることも多いようだ。つまり、たいした用事もなく歩き回ることの言い訳のために、このことわざをもち出すのである。少なくともわたしは、このことわざを使うことで、面倒な訪問目的をいちいち説明せずにすんだ。
 たとえば村に住んで調査しているとき、村のなかでもあまり訪れない方向へ足を向けることがある。目的がないわけではない。小さな村だと、数日顔を合わせないだけでも、長らく会わなかった気になる。だからわたしは、よい人間関係を保つため、そして、調査を進める手がかりになりそうな話を見つけるため、村じゅうを歩き回る。しかし、そんなことを相手に説明するのは無粋ではないか。そんなとき、このことわざをもち出してみる。
 わたしが最初に挨拶を交わすのは、家の外で座っているおとなたちである。このとき、訪問者であるわたしがまず口を開かなければならない。
「こちらの皆さんは、いかがお過ごしですか?」「結構だよ、変わったことはない。そっちのほうはどうかね?」「わたしのほうも、変わりありませんよ」
 こうした儀礼的なやりとりに続いて、ようやく会話らしい会話が始まる。
「しばらく見なかったな。どこにいたのかね?」「村に居ましたよ。○○のところでずっと××の話を聞いていたけど」「またノートに字を書いていたのかね。××についてならわたしも知っているから、話してやろうか?」「いえ、結構。もう書くのには疲れました。あなたには会いに来ただけですよ。『旅すれば見つけものあり』といいますからね」「ははは、本当だな。『居座れば糧尽きるのみ』だな」
 訪問されたほうも、うるさい質問に答えながらインタビューを受けるより、気楽に話をするほうがよいと思っているのだろう。わたしたちは、さしたる訪問目的がないことに感謝しながら、ひとときを過ごす。わたしのほうは、それほど大きな期待をもって訪問したわけではないのだが、しばらく後には、本当に何かを見つけた気になって家路につく。

時論 新論 理想論
「植民地」時代の研究遺産
三尾 裕子
日台の関係
 先日、ある先輩の人類学者から、台湾の有名な在野の研究者Y氏の言葉として次のようなことを教えて頂いた。曰く、最近日本の学者は、「植民地」という用語をよく使うが、以前の台湾は「植民地」ではなく、日台の関係は日本の領土内の関係だった、と。台湾の人びとが親日的なのは有名だが、驚くべきことに、彼は、「植民地」ではなく「日本」を生きてきたと考えていたらしい。
 広辞苑によれば、「植民地」とは「ある国の海外移住者によって、経済的に開発された地域。本国にとって原料供給地、資本輸出地をなし、政治上も主権を有しない完全な属領。」とある。この定義に従えば、日本統治時代の台湾は、「植民地」である。たとえ「内台一如」といった理想が掲げられていたとして、日本は台湾を原料供給地と見なしたし、台湾人は日本人から社会的に差別された。

その時代の資料のもつ意味
 筆者の専門である人類学が、帝国主義国家による「植民地」における異民族支配とともに発展したという認識は、最近では常識になりつつある。人類学は、「植民地権力」という虎の威を借りて他者のことを調査し、統治に役立つ資料を蓄積し、支配者と被支配者の不平等を強化してきたと批判されている。しかし、そうやって我々日本人が、過去の日本人人類学者が台湾について記述した民族誌を「植民地主義的」と自己批判しても、必ずしも今の台湾の人たちの賛同をえるとは限らない。ましてや「植民地」概念によってY氏のような人の経験を理解しようとしても、的外れになりそうだ。
 最近台湾では、多数派の漢人に同化した人びとのなかから、日本統治時代に書かれた論文をもとに失った文化を再現し、先住民意識をもち始める人びとがあらわれ始めている。例えば、一九〇二年に伊能嘉矩が書いた論文に基づいて儀礼を再興し、ホアニヤ族としての意識をとり戻そうとしている人びとがいる。また、一九三〇年代に浅井恵倫(えりん)が残した調査資料から、漢化が進んだシラヤ族に伝わる儀礼的な歌を再構築する試みがなされている。「植民地主義人類学」批判にならえば、これらの記録は当時微かに残っていた文化をすくいあげたものにすぎず、支配者文化が現地の文化を強引に変えていった状況を直視していないと批判されるかもしれない。しかし、今の台湾人は、「植民地」とは別の文脈で過去の記録に利用価値を見出している。
 もちろん、筆者は当時の日本人による研究を擁護しているのではない。しかし、それを今日の研究者の視点で断罪するよりも、今現在そこに生きる人びとの視点に寄り添って、あの時代を如何に記憶し、何と名づけるのか、そしてその時代の資料が今日の彼らにとってどのような意味をもつのか、といったことを地道に理解していくことこそが、必要ではなかろうか。
 なお、民博では、九月二一日から一二月一二日まで、「東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 臺灣(たいわん)資料展 一九三〇年代の小川・浅井コレクションを中心として」が開催される。前述の浅井恵倫などが日本統治時代に収集した言語学・民族学資料が展示されるので、是非ご覧いただきたい。

外国人として生きる
韓国人嫁さんの田舎暮らし奮闘記
金 美善
突然日本の農村へ
 「最初ここに嫁に来たときは、不思議なことばかりでした。初めてみる韓国人をめずらしがる人、不審がる人、面白がる人、村人の反応はさまざま。なかには朝鮮から嫁さんが来たと、ピョンヤンの様子を聞かれたこともありました。先進国日本だと聞いたのに、お手洗いは水洗ではなく汲み取り式。肥料にするため畑に人糞を汲み運ぶ仕事は大変だった。待望の一子の出産のときは、男の子が生まれたのに迎えてくれる姑の顔はきわめて冷静。ショックだったんですよ。韓国では長男が生まれるとものすごく喜ばれる時だったから。
 初めなれるのが難しく、この人たちとどうつきあったらいいのかがわからなくて毎日泣いていました。村人に会うのも怖かったし、不眠症で、もしや精神病ではないかと街の病院に行ったら、お医者さんから、普通、精神病は自分の足で病院まで来ないから、あなたは大丈夫だといわれて、はっはっは!」
と、関西のおばさん丸出しの口調で話す高橋(金)美花さんの経験談はおわらない。今は地域で韓国語や韓国文化の紹介に活躍する立派な民間外交官である。
 美花さんの故郷テグは韓国のプサンの近くにある。一九八八年北海道で開かれた物産展に、当時勤務していた韓国のロッテ百貨店の出展要員として来日した。四ヵ月の滞在の日程だったが、韓国でお客さんとして知り合った日本人の男性が何度も京都から北海道まで足を運んでくれ、その優しさや誠実さに惹かれ日本に残ることにしたのだ。恋に落ちてしまい何も見えなかった、と美花さんは当時をお茶目な表情で回想する。
 京都の日本語学校でしばらく日本語を習い、現在住んでいる福知山市の岩間というところに落ち着いた。人口一四〇名(六一戸)の岩間はむかしから外部との接触があまりなく、町の駅まで出るのに、バスは一日二回の典型的な農村である。村人は、優しいが社交的とはいえず、外部者との接し方がわからずお互い戸惑うことが多かったという。生活習慣や行動様式の差に苦労する日々が続いたが、美花さんが深く悩んだのは、人びとに隣国の韓国に対する知識があまりなく、また理解や興味を示さないことであった。そればかりか、日本のしきたりや文化を教えてくれる以前に、これらが異なることを非とみなす偏見がまだ根強かった。

使命感のめばえ
 悩んだ末、美花さん自身がまず人びとに韓国を紹介しようと決心、村人を対象に韓国料理教室を開いた。ただ一方的に韓国について紹介し語るよりは一緒に作業ができることから、と開いた韓国料理教室だったが、これが意外におおきな反響を呼んだ。最初は好奇心で集まった人びとであったが、徐々に韓国について理解が深まり好意的になっていった。美花さんはそれがうれしく使命感を抱くまでにもなった。今でこそ韓流ブームに押され韓国を知る機会は多いが、当時は少し韓国を知ってもらうことだけでもありがたい時代だった。以降、美花さんは年に何度も韓国を訪れ料理専門家に韓国料理を習い、レパートリーを増やしている。最近は韓国ドラマ「チャングムの誓い」に影響され宮廷料理を習い始めている。また教室だけではなく大手ガス会社のショールームに招聘されるなど、より広範な人びとに韓国料理を紹介する機会が多くなった。
 美花さんはもうひとつ仕事をもっている。通訳案内士である。二〇〇二年通訳案内業の国家試験(朝鮮語)に合格し念願の国家認定資格を手に入れた。語学力が審査の対象である一次試験から日本の歴史、地理、経済や政治情勢などが問われる三次試験まで、勉強をはじめてから一〇年かかった執念の合格であった。三次試験は普通日本人でも難しいとされるレベルの高い試験である。あまりにも勉強の量が多く、何度も失敗した挫折感であきらめようとしたが、家族の応援と協力のおかげで続けて挑戦することができた。会社員の旦那さんは美花さんの考え方や活動について全面的に理解し強力なサポーター役を果たしてくれた。美花さんの現在の日本語の実力は、一生懸命教えてくれた旦那さんのお陰だという。小さいころから母親の頑張る姿を見て育った高一、中二、小五の三兄弟の支援もあった。通訳資格の勉強の際には、学校の教科書の内容を教えてくれたり、役に立ちそうなテレビの番組を教えてくれるなど、特に長男は母親以上に頑張ってくれたという。
 通訳の資格をもつ美花さんの活動は、通訳観光ガイドだけではなく、法廷通訳から日韓文化交流、放送メディアの通訳まで幅広い。いつか同時通訳になるのが目標で、現在は通訳の仕事のかたわら、週一回大阪の通訳養成所で同時通訳の訓練を受けている。このような仕事や通訳訓練のため大阪へ出かけることが多く、家から大阪までは片道三時間もかかるが、ほとんどを日帰りでこなす。また、地域に根ざした草の根運動の活動として七年前から「トラジ文化研究会」を開設し、韓国語や韓国料理そのほか韓国文化を紹介するなど美花さんの多忙な活躍ぶりは家族も驚くほどだ。

まずつきあってみる
 このようなバイタリティの源について、美花さんは初めて嫁として来たときのつらい記憶にあるという。韓国人の母親をもつことで子どもにもつらい思いをさせたこともある。それらのネガティブな要素が地域との交流をはかる機会となり、使命感に燃えるようになったという。
 外国人として生きることは簡単ではない。しかし外国人だからこそ光る発想と行動力は、地域や人間関係を豊かにする資源になると美花さんはいう。最近はやりの多文化共生ということばは意識したことはないが、いつの間にか自分の活動がまわりにそう解釈されるようになった。最近では行政や団体で主催する多文化共生や人権をテーマにした講演会にもしばしば呼ばれる。多文化共生とは、まずつきあってみること、これが彼女の実践の背景にある信念である。とはいえ、姑が健在なうちにもっと農村暮らしを楽しみたい、と美花さんは現在も時間を作っては畑仕事を手伝う。農村は当分、美花さんの生活の原点であり続けるようである。

地球を集める
資料収集から始まった楽器遍歴の旅
ラテンアメリカで出合う
 もし民博に職をえていなかったら、一生縁がなかったかもしれないと思うものがある。それは楽器である。それというのも、わたしは楽譜がきちんと読めず、楽器らしい楽器の演奏は何ひとつできなかったので、民博に就職するまで楽器とは一生縁がないと思っていたからである。
 そんなわたしが楽器に大きな関心をもつようになったのは、初めて民博の資料収集の旅に出たとき、今から三〇年前の一九七七年のことであった。民博では開館を数ヵ月後にひかえ、同僚たちが展示の準備に、案内書作りなどに忙殺されていた。それを横目で見ながら旅に出たのは、ほかでもない、アメリカ展示に使え得る資料が少なく、それを少しでも補うためであった。わたしに与えられた期間は二ヵ月ほどしかなかったので、展示に使えそうなものは片端から集めることにした。そのなかに楽器も含まれていた。
 そんな収集調査の旅をコロンビアから始め、エクアドル、ペルー、ボリビアとアンデスを南下し、最後にブラジルまで行ったとき、面白いことに気づいた。それは、多種多様な楽器の存在である。南米では、打楽器、管楽器、弦楽器のいずれにもさまざまな種類の楽器が見られるのである。なかには、「これも楽器?」と思うような奇妙な楽器さえある。おそらく、世界中を見わたしても、これほど多種多様な楽器が見られるところはラテンアメリカをおいて他にはないかもしれない。そう思ったことが楽器に対する関心の始まりであった。

夢の展覧会実現
 さて、それではラテンアメリカではなぜ変化に富んだ多彩な楽器が見られるのだろうか。こんな疑問をもつようになったわたしは、その後も中南米に出かけるたびに本来の農耕文化に関する調査のかたわら、楽器を見て歩くようになった。また、一九八三年にもボリビアとブラジルで収集調査をおこなったが、このときの収集の中心は楽器となった。こうして、楽器に関心をもち続けているうちにラテンアメリカで多彩な楽器が見られる理由の一因がようやくわかってきた。それは、一言でいえばラテンアメリカにおける征服と融合の歴史が多種多様な楽器を生み出しているということであった。
 もしそうであれば、楽器をとおしてラテンアメリカの歴史や社会、文化を理解することができるのではないか、という期待が生まれてきた。ラテンアメリカは一六世紀以降の比較的短いあいだにヨーロッパやアフリカから大量の人びとを受け入れた結果、この地の音楽や楽器もヨーロッパやアフリカの影響が色濃く刻印されているという見通しをえたからである。この見通しが、やがて民博でラテンアメリカの楽器に関する展覧会がひらけないかという夢を生むことになる。
 この夢は一九九五年の春に実現した。企画展の『ラテンアメリカの音楽と楽器』である。阪神大震災の直後であったにもかかわらず、五万人あまりもの多数の人たちが会場に足を運んでくださった。そのなかにはラテンアメリカの多彩な楽器の背景にある征服や融合の歴史を初めて知ったという声が少なくなく、展覧会の目的が達成されたと嬉しく思ったものである。

楽器遍歴の旅は続く
 この展覧会でわたしの楽器をめぐる旅は終わるはずだったが、そうはならなかった。まだ見たこともない面白い楽器があると聞けば、アマゾンであろうと、アンデスの奥地であると、ついつい足が向かってしまうのである。そして、昨年末には民族音楽の専門家でないわたしが『ラテンアメリカ楽器紀行』(山川出版社)という本まで出すことになってしまった。さらに、この秋には民博で「いま、よみがえる南米のバロック音楽」(仮題)という研究公演を計画し、植民地時代にヨーロッパから南米にもたらされた楽器を紹介するつもりである。こういうのを諺どおり「病膏肓(やまいこうこう)に入る」というのかもしれない。

生きもの博物誌(ムロアジ/インドネシア)
大衆魚のムロアジ
小野 林太郎
食卓を飾る代表選手
 その日も、Dさんの家の食卓に並んだのは焼きムロアジだった。これにトマトとチリ、お酢を混ぜたソースをつければさらに食が進む。わたしは夢中で数匹を一気に食べ終え、そういえば昨日のおかずもムロアジだったことを思い出した。東インドネシアのセレベス海。そのまっただ中に浮かぶタラウド諸島では、ムロアジはまさに食卓を飾る代表選手だった。わたしたちの食後に残ったムロアジの小骨は、他の残飯とともに家の周りで飼育されているブタやイヌたちの餌となる。こうして陸に上がったムロアジは、その全てを食べ尽くされ、跡形もなく消える。それが、この島の遺跡群からムロアジなどの小型の魚たちが一向に出土してこない理由なのかもしれない。
 それにしても、なぜこの島ではムロアジがこれほど多く食べられているのか? ムロアジを獲るには、広い海を泳ぎまわる魚の群れを追いかけなくてはならない。それには多大な労力がかかるし、群れを見つけられずに失敗することもある。ところが、この島ではムロアジが流木に集まる習性を利用し、筏のような浮きをしかけ、ムロアジをおびき出して獲っていた。その漁は、使用される筏のよび名からルンポン漁とよばれる。わたしは、Dさんに頼み、早速そのルンポン漁に参加させてもらうことにした。

伝統的なルンポン漁
 陽も傾きかけた午後四時ごろが出漁のときだった。木造の漁船には、わたしのほかに一三人の漁師たちが乗り込んだ。一方、小さなアウトリガー船に乗り込んだ老夫婦は、翌朝までルンポンの周りでランプを照らすのが役目らしい。こうすることで、より多くの魚が集まるという。一時間ほどで沖に出ると、船長はエンジンを停止させた。ここが今回の漁場となるようだ。早速、船員たちがルンポンを設置してしまうと、わたしたちを乗せた船は、荒い波に揺られながら外洋を一晩中漂うばかりだった。
 午前四時過ぎ。闇がほんの少し薄れだしたときが勝負だった。船はルンポンの周りを旋回し、船員たちは全力で網を海へと投げ入れる。やがて網が完全に魚の群れを包囲すると、一斉に引き揚げられ、無数のムロアジが甲板の上に叩き出された。この日は大漁で、一回の水揚げで船一杯のムロアジが獲れた。網を全て引き揚げると、船はすぐに帰路につく。目指す浜には魚を待つ島民の姿がちらほらと見えてきた。船長は意気揚々とホラ貝を出し、浜に向かって吹き始める。これが大漁を知らせる合図のようだ。
 浜で待っていたのは女性たちだった。水揚げされたムロアジは、彼女らによって購入され、自宅で利用されるほか、村内や町の市場で売られる。こうしてムロアジは島内中に供給され、食卓には毎日のようにムロアジが並ぶのである。とはいえ、動力船による大規模なルンポン漁が開始されたのは、たかだか一九六〇年代以降にすぎない。ただし、ムロアジを狙ったルンポン漁そのものは、昔からある伝統漁撈だとDさんは語る。
 タラウド諸島の先史遺跡からはまだムロアジの骨は出土していない。しかし、ムロアジをめぐる人びとの姿を見ていると、ムロアジがはるか古代よりタラウド諸島の人びとに親しまれ、愛されてきた風景をつい思い浮かべてしまう。

ムロアジ (学名:Decapterus muroadsi)
アジ科ムロアジ属の1種で、全世界の暖海域に分布し、沿岸や島まわりに生息する。タラウド諸島ではマラルギスとよばれ、親しまれている。ムロアジの仲間は、インドネシア語ではラヤンとよばれ、もっとも頻繁に食べられる大衆魚として有名な魚でもある。一般的には鮮魚よりも塩乾魚として利用されることが多かったが、冷凍施設の発達した近年では、日本を含む諸外国にも多く輸出される。

フィールドで考える
鉄条網のなかの中華料理店
市川 哲
ポートモレスビーの悪化する治安
 パプアニューギニアでは、自分たちの食事は自分たちで料理するものという観念が強い。そのためか、首都ポートモレスビーでも土着の人が経営するレストランは意外に少ない。街中にはカイバーとよばれる簡易食堂を兼ねた弁当屋があるが、カイバーには、店のなかで座って落ち着いて食事をするという雰囲気はない。ゆっくりと食事を楽しむ場といえば、高級ホテル内部のレストランか、街中に点在する中華料理店ということになる。
 この国の中華料理店は、他の国のものと一見してちがっている。それは厳重な治安対策である。とりわけポートモレスビーの治安の悪さは有名であり、殺人、強盗、暴行、器物破損などの犯罪が後を絶たない。町中でこうした犯罪をおこなう者たちのことを、人びとはラスカルとよんでいる。ラスカルには単独犯から集団犯まで含まれる。また窃盗から武器を使った強盗まで、犯罪の程度もさまざまである。武器も、ナイフや棍棒から銃まで幅広い。なかでも銃は手製のものだけでなく、インドネシアやオーストラリアからもたらされる高性能のものまであり、ときにはライフル、マシンガンが使われることさえある。犯罪は年々凶悪化傾向にあり、道路わきの樹木を切り倒し、立ち往生した車を取り囲んで襲撃したり、白昼堂々、銃や刃物で武装して店舗へ押し入るという事件も頻発している。
 ポートモレスビーで生活する中国系住民はしばしばラスカルのターゲットになっている。ラスカルは街中を歩いている人びとを襲うだけでなく、中国系住民の住宅や商店、レストランなどにも押し入り、強盗を働くこともある。またポートモレスビーでは夕方五時を過ぎると、とたんに人通りが少なくなる。これは朝九時から夕方五時までという八時間労働のライフスタイルが行き渡っていることもあるが、薄暗くなるとラスカルの活動が活発になるため、それを恐れて人通りが少なくなってしまうのである。つまり夕方から夜にかけては外を出歩くことができない。そのため、あえて夕方や夜間に外出する場合、車で移動せざるをえない。しかも、ラスカルの襲撃を避けるためには治安対策の整ったレストランを選ばねばならない。

ラスカルとの戦い
 当然パプアニューギニアの中華料理店は、車での来店を前提としている。さらにレストランも高いフェンスや鉄条網で周辺を囲い、顧客や従業員以外の者が侵入できないようにしている。いくつかの店はそれだけではなく、出入り口に門番や番犬を配し、明らかに顧客でない者は店の敷地内に立ち入れないようにしている。いずれもラスカルの襲撃を避けるためのものであり、昼夜問わず、セキュリティに気を配っている。門番は、やって来る人がラスカルではなくお客であることを判断してから門を開けたり、番犬を押さえつけたりして店のなかに入れるのである。それでもラスカルはフェンスを乗り越えて侵入してくるかもしれないし、銃器や刃物で武装して正面から襲撃してくるかもしれない。中華料理店を経営する中国系住民にとって、パプアニューギニアでの商売は、まったくもって気が休まらないのである。
 だが中国系住民たちも、一方的にラスカルにやられてばかりいるわけではない。ポートモレスビーのある中国系起業家は、レストラン、スーパーマーケット、酒屋、事務所という四つの建物を、真ん中の空間を囲むようにしてロの字型に建て、出入り口をふたつだけ作り、建物に囲まれた部分を駐車場にしている。そして、もしラスカルに襲撃されそうな場合は、ふたつの入り口を閉じ、建物群の中に立てこもれるようにしている。他にも、治安の悪さから夜間営業するレストランが少ないのを逆手に取り、厳重な警備をすることによって夜遅くまで営業をし、ハイリスク・ハイリターンのビジネスをする中国系住民も存在する。さらにはライセンスを取得して銃を購入し、襲ってきたラスカルに逆に発砲して追い払ったことがあるという強者(つわもの)もいる。
 レストランではないが、ある田舎町で自動車整備工場を経営する中国系住民も、あるとき、工場の外で自動車の整備をしていたところ、ナイフをもった数人のラスカルに襲われた。若いころからカンフーを練習していたその男性は、身近にあった自動車修理道具を手にとってラスカルたちをにらみつけた。あわやラスカルたちと乱闘、となる直前で、見ていた周囲の人びとが大きく騒いで彼を応援し、やっとのことでラスカルを追い払うことに成功したとのことである。

まるで監獄内のビジネス
 ラスカルを追い払った男性は田舎町だったためか、周りの人びとが助けてくれたが、大都市ではとばっちりを恐れる人びとがほとんどであり、他人の手助けを期待することはできない。だからふつう、襲われたら金品を根こそぎ奪われる。最悪の場合には殺害されてしまう。そのためか、せっかくレストランを開業しても、治安の悪さや商売不振のため、他の人に店舗を転売して故郷に戻ったり、オーストラリアやニュージーランドに再移住してしまう人びともいる。鉄条網に囲われた店舗で、番犬とガードマンに護衛されるなかで商売をするある中国系の男性は、「まるで監獄のなかでビジネスをしているようだ」と言っていた。
 しかしここでの商売に賭けている人も存在する。ある上海出身者は、「中国で商売をするのは競争相手が多いので大変だが、ここは治安が悪いけれどもまだまだビジネスチャンスがある。パプアニューギニアの地元の人はまだまだレストラン業に参入していない。娯楽の少ないこの国では、外食産業の需要は意外にあるのだ」と述べた。また、マレーシア出身のある華人は、「ここでの仕事は朝九時から夕方五時までなので、自分の時間がたっぷりとれるし、お金を使う場所もないので、貯金をするにはいい環境だ」と聞かせてくれた。パプアニューギニア生まれの中国系のある男性などは、「いろいろ問題があっても、自分の生まれた国だし愛着もある。だから、これからもここで生活するだろう」と希望を託している。鉄条網のなかの中華料理店は、こうした色々な思いによって、これからも経営されてゆくのだろう。

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