国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年10月号

2006年10月号
第30巻第10号通巻第349号
2006年10月1日発行
バックナンバー


エッセイ 世界へ≫≫世界から
ワールドカップと日本人のDNA
佐野 眞一
 特別なサッカーファンというわけではないが、ワールドカップの中継はやはりテレビの前にかじりついてしまった。
 日本代表の成績は周知の通りなので、もう何も言うつもりはない。
 日本人の身体能力が、技術レベルが、決定力が云々と、スポーツ評論家風の利いたようなことを言ったところで、いまさら結果が覆るわけではない。世界レベルとの差を素直に認めればいいだけのことである。
 それよりも強く感じたのは、日本人のDNAは六〇年以上経ってもほとんどかわらないな、ということだった。
 ある民放テレビは、予選リーグのクロアチア戦の中継を前に長時間の特番を組み、日本代表の予選リーグ突破を祈念して女子アナに全国各地の滝行をさせ、お笑いタレントに護摩焚きまでさせた。
 これには呆れて開いた口がふさがらなかった。これでは、愛国婦人会が戦時中出征兵士に送った戦勝祈願の千人針とまったく同じではないか。
 ワールドカップ開催中、昭和一〇年代の満州に関するノンフィクションを執筆していただけに、その思いはなおさらだった。
 日本代表を応援する熱狂的なテレビのアナウンスは、時計の針を満州時代に戻したかのような錯覚すらときどき起こさせた。
 テレビをはじめとするメディアの報道は、ありもしない希望的観測だけを大声で伝えるという意味で、”大本営発表“と何もかわらなかった。
 そこには日本代表の戦力を冷静に分析して批判的にとりあげる者は、”国賊“とでも言わんばかりの不健全で硬直した思考が露骨にあらわれている。
 勝負はやってみなければわからない。もしかすると神風が吹くかも知れない。
 東条内閣を支持し、あの無謀な戦争に突入させていったのも、こうした国民的メンタリティーだった。
 庶民のささやかな幸福を願う滝行や護摩焚きを、ワールドカップ戦勝祈願の”国民的“ツールに使ったメディアは、時代錯誤という以上に不気味な暴走を感じさせる。

さの しんいち/1947年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。著書は『旅する巨人』(文藝春秋)『カリスマ』『東電OL殺人事件』(新潮社)など多数。最新刊に『戦後戦記』(平凡社)がある。


特集 眠る
すべての人間が人生の結構な割合を「眠る」時間に費やす。
目を見開いて、「眠る」ことの社会性に注目してみよう。
人は生まれおちると、どのように「眠る」リズムを身につけるのだろうか。
モノや場が、どのように眠りをコントロールしているのだろうか。
眠っている個人は、社会とどんなふうにつながっているのだろうか。
眠ることを語るのは、寝言なんかではない。
まさしく社会の問題に向き合うことだ。

文化としての眠り
高田 公理
研究対象外の「眠り」
 人も動物も皆、眠る。眠らない動物や人はいない。それは、生理の問題だ。
 では、人の眠りは生理だけの問題か。現代日本人の多くはベッドの上で、布団をかぶって眠る。その寝方は、動物とも、欧米やアフリカの人とも異なっている。
 その点で、眠りは食に似ている。動物も人も食べる。しかし食物生産、料理、共食をする動物は人だけだ。しかも、食べ物、料理法、食事マナーなどが、地域や時代ごとに異なる。だから、文化人類学的研究が進んだのだ。
 文化人類学は主として社会制度や生活慣習、衣食住文化、言語や身振り、宗教や価値観を研究してきた。最近は観光や開発、移民や難民などにも手を伸ばす。しかし「睡眠文化研究」が進んだという話は聞かない。その関心は、人が目覚めているときの活動に集中している。「眠り」などは対象外なのだ。
 それに対して医学や工学や心理学などは、積極的に眠りを研究してきた。不眠症や睡眠時無呼吸症、不眠をもたらす神経症・精神病や時差ぼけなど「睡眠障害」が多発するようになったからだ。それに伴う現代日本の経済的損失は二兆円に上ると推計される。
 なかでも睡眠医学の発展は著しい。そこでは当然、睡眠という行動が純粋に生理学的な視点から考察される。それは食の領域における栄養学とよく似ている。

良い生き方へのつながり
 しかし、睡眠医学の示す知見の多くは、欧米や日本など中緯度地方の都市的環境に暮らす人についてのものだ。それで人の眠りが解明できるわけはあるまい。生活慣習や価値観が地域や時代ごとに異なることを熟知している文化人類学は、こう考えるべきだろう。
 実際、カラハリ砂漠に住むサンの人びとは、地面に浅い穴を掘り、その底に耳をつけて眠る。風をよけ、外敵の接近を知るのに、それが最適だからだ。それに比べると現代の日本人は多様な装置を用いて寝る。家屋のなかの寝室、ベッド、ふとん、枕、眠り衣…。しかし、眠り衣の使用は、木綿が普及した近世以後のことだ。しかもそれは、着古した浴衣に始まり、今ではパジャマやネグリジェ、短パンとTシャツ、ジャージなど、おびただしい多様性を示す。さらに若い人なら、ぬいぐるみや携帯電話、音楽再生装置などを眠りの場の必需品だと思っているかもしれない。
 そこで現代のソウル、ジャカルタ、アジスアベバ、パリなどで人びとの寝方を調べてみた。すると寝室環境、眠り衣、睡眠の価値付けなど、改めて多様な睡眠文化の実在が判明した。しかも、その領域は眠る姿勢、誰と寝るか、子どもの眠らせ方、夢の要因論や夢の意味など、さらなる広がりを予感させる。
 人は眠り、目覚め、活動し、疲れて眠る、そんな日常を繰り返す。では「よく活動するために眠るのか」、それとも「快く眠るために活動するのか」――どちらかが唯一の答えではあるまいが、こんな問題を考えることが、より良い人の生き方につながらないか。睡眠文化研究は、そんな志を秘めてもいる。

 参考文献…吉田集而(編)『眠りの文化論』平凡社、睡眠文化研究所・吉田集而(編)『ねむり衣の文化誌』冬青社、同研究所(編)『寝床術』ポプラ社。


霊長類の眠り、人間の眠り
山極 寿一
寝場所の進化
 霊長類の眠り方には、不思議な進化の歴史がある。まず、もっとも原始的な夜行性の原猿類は、木の洞に巣を作って眠る。親は子どもを巣のなかに置いて餌を探しに出かけ、繰り返し巣へ戻って乳をやる。一方、昼行性の真猿類は巣を作らず、毎日異なる場所で木の上にうずくまって眠る。これらのサルの多くは、長時間固い枝の上に座れるように尻だこをもっているし、南米には尾で枝につかまる能力をもっているサルもいる。真猿類は、子どもを自分の腹や背中につかまらせて運ぶ。体が大きくなり、しかも集団で暮らすようになったために、巣の回りだけでは食物が不足する。だからこうして遊動域を広くしたのである。
 ところが、人類に近縁な類人猿のオランウータン、ゴリラ、チンパンジーはすべて巣を作る共通な習性をもっている。ただ、夜行性原猿類の定点巣とは違い、毎晩違う場所にあらたな巣を作って眠る。子どもは母親が腕で抱いたり腹につかまらせて運び、離乳するまで母親の巣で眠る。霊長類のなかでもっとも大型化した類人猿は、樹上で安全に快適に眠るために巣を作るようになったと考えられるのだ。

仲間とともに眠る
 面白いことに、過去にも現在にも人類には巣を作った形跡がない。数百万年前に類人猿と分かれて樹木の少ないサバンナへと分布域を広げた際、すでに巣を作る習性を失っていたと思われるのだ。言い換えれば、類人猿が森林を出られなかったのは、巣という安全で快適に眠る装置を手放せなかったからに違いない。では、大型の肉食獣が徘徊(はいかい)する草原で、人類はどうやって安全な眠りを確保したのだろうか? それは集団の力である。類人猿のような個体本位の巣ではなく、集団のメンバーが監視の目を光らせ、協力して捕食者を撃退できるような寝場所を設けたのだ。巣を作らないとはいえ、人類は再び原猿類のような定点で眠る習慣をもつようになった。しかも集団で眠る寝場所である。そのためには、食料採集や子育てを分担する分業を特徴とする社会性が発達しなければならなかったはずだ。人類の快適な眠りもそれにともなう問題も、最初から仲間とともに寝ることにあったのである。


社会生活のはじまり
大人の都合にあわせた眠り
 はじめてギリシャに研究に行ったとき、というともう二〇数年も前のことになるが、八月の夜一一時ごろタベルナ(食堂)の戸外のテーブルで遅い夕食をしていると、赤ちゃんをつれた男女が次々に食事に来るのにおどろいた。ベビーカーの赤ちゃんたちはいかにも健康そうで上機嫌だった。暑いギリシャの夏は夜が長い。それにしても、子どもがそんなに小さいうちから大人の生活リズムにあわせることができるということに感心したおぼえがある(この光景はその後もたびたび目にしている。おどろくことはなくなったが)。
 立ったりすわったりすることはおろか、ひとりでは寝返りもできない状態で生まれてくるのが人間の赤ちゃんだ。年長者のケアがどうしても必要である。「年長者の」というのは、かっての日本がそうだったように、「子守り」は子どもの役である社会が少なくないからだが、乳児のケアは、そのように誰がそれをおこなうかをふくめて多様である。

文化による睡眠のちがい
 その多様性は、授乳と睡眠と身体接触の三点から見ていくことができるように思うが、なかでも睡眠のコントロールは乳児を大人の社会生活に組みこんでいくうえで、いちばんのポイントだろう。二四時間の日周サイクルをまだ体内化していない生まれたばかりの赤ちゃんは睡眠と覚醒をこまぎれに繰り返す。数ヵ月経ち、腕を自由に動かし、人の影を目で追うようになると、大人の昼と夜の区別に反応し、何時間も続けて眠るようになる。
 もっとも、乳児の睡眠時間は個人差はもちろん、文化的なちがいも大きいようだ。昼夜をはっきり区別するアメリカの白人の子どもの睡眠時間はアフリカの子どもより一日あたり二時間は長いが、オランダの子どもはそのアメリカ人よりさらに二時間長く眠るという報告もある。オランダでは乳児をはやくから決まった時刻にひとり寝させる厳格な習慣があることとおそらく関係しているのだろうが、はじめにのべたギリシャの赤ちゃんたちのことを思いだしても、人間の子どもが立つこともできないうちから、大人の勝手な都合にあわせて生きる余裕をそなえていることに感嘆させられる。


カレンの夢語り
速水 洋子
 一九八七年から北タイ山地で、カレンとよばれる人びとの調査を始め、近年まで断続的に同じ村を訪れている。しばらく村を離れていて、戻ったとき、ほぼ決まりのように誰かに言われるせりふが「夕べ、あんたが来るって夢で見たよ」というものだ。村には電話など連絡手段もなく、前もって連絡をしないで訪れることが多かった。それでも「夢で見た」という。あまり頻繁に言われるので、これは何か社交辞令のようなものかな、と思うようになった。
 夢は、カレンの日常生活では頻繁に会話に登場する。単なる会話のネタではない。しばしば夢は深刻な事態を示唆する。たとえばあるとき、朝起きると、夫婦が眉根をよせて心配そうに話し合っている。そして、朝食が終わると、家の外からニワトリを一羽とってきて、儀礼の準備が始まった。夫が夢で見知らぬ町をさまよっていたというのだ。「この前、チェンマイに行ったときに、きっと魂が犬の糞につまずいたか、女性のスカートにでもついていってしまって迷い出てしまったのだろう」。トリを供犠してその魂を呼び戻し、手首に白い糸を巻いて、しっかりと魂を身体にとどめるのである。
 あるときわたしは、両親の乗っている飛行機が落ちた、という夢を見た。朝起きて、その話を家の人たちにした。自分ではあまり良い心地ではなかったが、実家に長く連絡も入れていなかったので、自分の親不孝ぶりに対する自責の念がそんな夢を見させたのだと、精神分析型の解釈で、自分を納得させようとしていた。ところが家の夫婦は「それは、あんたの両親があんたを呼びに来たんだろう」という。
 このように彼らにとっては、夢で見ることは何らかの精神的な状態の表現なのではない。より具体的に、魂の移動や交流が眠っているあいだに起こっていると考えているようだ。たとえば、非常に呪力の強い呪術師は、眠っているあいだに、虎を駆ってビルマまで行って帰ってこられるのだ、という。夢は、眠っているあいだの魂の行状の証なのである。
 わたし自身は前触れもなく村を訪れていると思っても、わたしの魂は、眠りのなかですでに村を訪れているのである。


イヌイットの眠りと姿勢
 今から二〇年ほど前の七月の初旬ごろ、わたしははじめてイヌイットの家族とともに、キャンプに行った。キャンバス布製の大型テントのなかでイヌイットに混じって眠っていたわたしは、外から聞こえてくる子どもたちの遊び声で目が覚めた。時間は午前〇時過ぎ。だが、外はまだ明るい。そうだここは極北の地だと思い至った。
 わたしたち日本人は、夜は暗く、昼間は明るいことを当然だと考えている。しかし、イヌイット社会では通用しない。イヌイットが住む北半球の高緯度地域では、夏至前後だと太陽はほとんど沈まないいっぽう、冬至の前後だと太陽はほとんど姿をあらわさない。
 イヌイットは、夏ならば明るい限り狩猟を続けることがあるが、疲れると昼間でも眠っている。冬は、少しでも明るければ、狩猟に行くし、暗くても起きている。季節によって一日の明暗の長さが顕著に変化する 環境に住むイヌイットの眠りのリズムが、われわれと違うのは当然だ。
 寝るときの姿勢もわれわれと違っている。イヌイットにはうつぶして寝る傾向がある。顔を上向きではなく、寝具に向けて寝る姿勢は、寒さから顔の肌を守ることや明るさをさけることと関係があるのではないか。この姿勢は両親や兄や姉から見よう見まねでひき継がれてきた。
 現在の村では、外が明るかろうが暗かろうが、午前九時には役場、生協、看護所、学校がオープンし、午後五時になれば閉まるという欧米時間のなかで生活をせざるをえない。このため朝七時には起床し、夜の一二時前には寝るという生活リズムの人が多くなってきた。また、眠りのリズムが変化したのは、暖房、電気照明、カーテンなどを利用できるようになり、室内の温度や明暗を人工的に調節できるようになったことも一因だろう。顔を上向きにして寝るようにもなっているのだろうか。気になるところである。


夢は、現か幻か―シャーマンの神がかりと睡眠―
末成 道男
 神がかりは擬似睡眠状態で起きることが多い。台湾漢族のタンキーの場合は、祭壇に向かって祈りごとをつぶやくように唱えているうちに、嘔吐するような声を出し、身体を小刻みに震わせはじめる。神霊が身体を借りたしるしである。そのときの表情は目を開いているもののうつろで、眠っているようである。これに比べると、台湾原住民プユマ族の場合は、神がかりとはいっても、あまりさえない見栄えであった。薄暗い室内で手にもった鈴を単調に振り鳴らしご詠歌のように歌っているうちに、あくびを繰り返し、放心状態になり、依頼者の質問に答えるようになる。問答がひと通り済むと、また、単調な歌を歌って睡眠状態になり、周囲のものが、呼び覚ます仕草をすると、平常状態にもどる。ベトナムのレンドンになると、神がかったかどうか、外見から確認しにくい。シャーマンが赤い布をすっぽりかぶった頭をゆっくり回しているうちに神がのり移る。すると、どの神かを示す衣装に着替えて踊り、一服しているあいだに依頼者の問いに答える。そのときの表情は普段とほとんど変わらない。
 このように神がかりになるときの放心状態は、眠っているのにきわめて近いものから平常とほとんど変らないものまでさまざまである。ただし、眠気をさそう歌や音楽、踊りなどの身体動作、覚醒の合図など、睡眠との共通性がないわけではない。研究者の目には神霊との関わりが定かでなくても、地元の人びとの目では、シャーマンが神がかったとして儀礼が進められてゆく。自己催眠なのでは、と疑える状態でも、社会共通の約束にしたがって神霊のお告げが下される。もちろん地元の人びとといっても、疑り深い人はどこにでもいるものである。しかし、そういう人でさえ、いざ自身や身近な人の病気などになると、平常の醒めた言動とは裏腹な行動をとることも少なくない。その社会で共有されている共同幻想の存在自体が文化的現象なのである。

未来へひらくミュージアム
人を集める・人が集まる
―長崎歴史文化博物館の実験―
野間 誠二
2005年11月に開館した、長崎歴史文化博物館。
運営を委託された民間企業の学芸員により、
ユニークな試みがなされている注目の博物館だ。
従来の枠をこえ、多彩な展示イベントを企画する
同館の「人を集める・人が集まる」秘策を
探ってみたい。

劇団員による御白洲の裁き
 「皆のものおもてを上げぇーい」の掛け声で博物館の来館者は奉行の登場に半分笑いながら「はっはぁー」と従う…最後には「一件落着」、と合唱して寸劇は終わる…テレビ映画でおなじみの御白洲の裁きのシーンを演じるのは、地元長崎の市民劇団とボランティアスタッフ、そして一般の来館者。長崎歴史文化博物館の評判の展示演出になっている。アミューズメント色がちょっと強いものの、一種の体験型の歴史展示である。観覧者を巻き込んだ展示演出は、博覧会パビリオンやテーマパークのアトラクションでは常套(じょうとう)手段のひとつとして採用されることはあっても、博物館ではそれほど多く取り入れられることはない。ひとつはリードする人に相当難度の高い話術の技量が要求されるからだ。常に大人数相手とは限らないし、修学旅行生から酔っ払いの高齢者団体客まで観覧者もさまざま。俗に言う「客を乗せる」事の難しさは、学芸員の片手間仕事や話術に達者な職員の座興でごまかせるものではない。長崎の場合は、奉行に扮する劇団座長と劇団員がその任を負っている。
 十数分の寸劇を演じ終えた観覧者は、一様にニコニコとちょんまげのかつらをかぶったり、御白洲の罪人が座るムシロに座って記念撮影に興じて満足げ。土日祝のみ一日六回の公演で、多いときは一回二〇〇人もの観覧者が奉行所の廊下や御白洲の庭にあふれかえる。特に観覧席は設けてはいない。奉行や役人のすぐそばに座って事の成り行きを眺めている観覧者。違和感はない。
 寸劇の内容は犯科帳とよばれる長崎奉行所の裁判記録にある史実の再現で、開館当時は一六六七年の抜け船伊藤小左衛門事件、今は一八四八年の漂流民マクドナルド事件、と数ヵ月ごとに演目を一新させている。お正月や春のゴールデンウイークには史実を離れ、奉行芝居特別編を演じることもある。
「お客に頭を下げさせるとは何ごとだ…」とか「史実に基づいた寸劇と言いながら何だあのせりふは…」とか「御白洲が白くないではないか…」など、面白いとの評判の裏には必ず真面目な苦情が提出される。博物館の展示部分の延長にあるため、その脚本の考証は担当学芸員の仕事である。「そんな忠実にやっていたら劇にならん」「しかし御奉行、ここは博物館でして教育上うんぬん…」と、まるで幕府の役人のような学芸員と奉行とのやりとりが常に続いている。「教育の場に遊びの要素をどれだけ取り入れるか」VS「遊びの場に教育の要素をどれだけ取り入れるか」の対戦、今のところ五分と五分。

民間企業の学芸員が実務
 長崎歴史文化博物館は、江戸時代の長崎奉行所立山役所が位置していた場所に建物を復元して二〇〇五年一一月に開館。以来一〇ヵ月間で五〇万人の入館者を記録した。観光長崎の新しい拠点としての歴史的建造物の出現と、新しい博物館という取り合わせに人が集まり、結果としてそのなかの寸劇演出がたまたま評判になった。
 館のテーマを近世海外交流史に限定した歴史展示のなかでは、観光客や小中学生にもわかりやすく長崎の歴史文化を知ってもらうさまざまな工夫がなされている。立体映像で見る長崎奉行の一年や、見たい部分を拡大して手元のモニターで観察できる南蛮屏風、ナビゲーション装置が誘導する江戸時代の長崎の町や、描かれた人物が踊りだす祭り絵屏風、長崎商人相手に輸入品の値段を競う入札ゲームや各種の検索装置など、現代の先端技術を駆使した展示装置で、歴史をさかのぼる体験ができる。
 所蔵資料は四万八〇〇〇点。従来、県立美術博物館・市立博物館・県立図書館の三ヵ所に別れて収蔵されていた歴史資料を一ヵ所に集めて利用者の便宜を図り、より質の高いサービスを提供する。建築費用や運営費用は、長崎県と長崎市が比率配分で支払う。そして学芸部門もひっくるめて運営が民間企業の展示会社に委ねられた点でも注目されている。博物館の展示工事を数多く手がけてきた企業が、その運営に全責任をもつ。特別展を企画し、開催するのも民間企業に属する学芸員がすべてを決める。常設展示の展示替えや学校団体の案内も、指導的立場で駐在する県市の学芸員が六名いるものの、実務はすべて一三名の民間企業の学芸員に委ねられている。
 観覧料金はすべて民間企業の収入となり、そのなかから常設展・企画展・特別展の開催経費やイベントの事業費、そして売店・レストランの経費がまかなわれる。支出が上まわれば、すべて企業の負担となる。従って入館者を増やすこと、人を集めることが運営の必須の条件となってくる。
 博物館に人を集めるのはそれほど難しい事ではない。話題性のある建築と展示手法、それに見るべき展示物があって、広告宣伝に力を入れさえすれば効果はすぐにあらわれる。おまけに名物館長か有名学芸員が一人いれば完璧だ。新設であればパブリシティ効果も期待できる。マスメディアへの露出頻度や、駅や空港ターミナルでの看板ポスター作戦も効果的で直接数字にあらわれる。コストバランスを考えなければ、どんどん有料広告を打てば良い・・・はずだが、広報宣伝費の予算にも限度がある。いかに投資を少なく効果を最大に得るかで頭を使う。
 開館以来、奉行所の寸劇は好評なものの、意図的に博物館が集客PRに使ったことはない。土日祝日の限定公演なのと、ボランティア活動に依存している部分もあるからだ。日によっては来館したのに見られないこともある。しかし博物館紹介の取材記事の写真に取り上げられる回数が増えるにつれ、寸劇見学を目的に来館というケースが増えている。奉行が自動車販売のCMに登場したり、市内の劇場で別の公演をおこなったりしているので話題が広がる。博物館活動の一環が話題を生み、その報道で一般周知されるのが理想的だと思っている。月に数度、館内の広報営業・管理・研究・教育担当を巻き込んで広報イベント企画を練り、即実行に移している。

自らの手で多彩なイベントを
 これまで一〇〇〇平方メートルの企画展示室では、常に有料の特別展を開催。年間七回すべて博物館主催でおこなってきた。話題づくりで集客を図ろうと試みたイベントは講座も含めて一〇〇回近い。奉行所の畳の間を使ったトークショーはシリーズ化して好評を博す。御白洲に演者が座っておこなった平家琵琶の演奏会も独特の雰囲気が出せた。
 博物館の入口のエントランスホールは二〇〇人近くが集まれる建物内の広場になっている。普段は団体客の集合場所や休憩場所に使われている。閉館後ここを使って有料の音楽会をしたり、開館時間中もコンサートを実験的に開催。五月一八日は国際博物館の日で今年のテーマは「博物館と若者」だった。普段ほとんど博物館に来ないだろう層の若者たちをターゲットにしたダンスイベントもここで実施。DJとヒップホップの大音響、そして二〇〇人の十代の若者の熱気。開館以来味わったことのない雰囲気でエントランスホールが揺れた。同じ場所で六月には赤ん坊が一〇〇人以上集まった。平戸市の伝統神事「子泣き相撲」を企画展の関連イベントとして実施した。授乳室はどうするか、泣き声で観覧者に迷惑がかからないか、などの懸念を乗り越えホールはほのぼのとした雰囲気に包まれた。他にも物産展の販売空間になったり、御茶会の床机が並んだりと利用される。
 イベントの企画・設営・運営までほとんど博物館スタッフが自らおこなう。企画会社や広告代理店のもち込み企画に乗れば、動員も準備も楽ではあるものの経費回収のリスクも大きい。回数を積むにつれて館内ワークショップの機材も整い、チームワークもとれ作業分担も円滑に機能する様になってきた。自分たちの事は自分たちでする事で得られたものは大きい。イベントでは無駄なしつらえや過剰なサービスが減り、効果的な機能が優先される。

客人へのもてなし
 常設展示も、映像やコンピュータ技術に頼る高価で無機質な解説と並行して、生身の人間による展示解説を充実させた。ボランティアガイドによる展示解説や学芸員によるギャラリートークの頻度が高まる。博物館には小学生も来れば元大学教授も来る。近所に住む主婦も来ればオランダから来ましたという老夫婦も来る。それぞれに応じた対応や説明ができる点で生身の人にかなうものはない。解説員に愛着がわいて再び訪れる人はいても、録音された音声ガイドを二度三度聞きたいと戻って来る人は稀である。奉行所の犯科帳の抜け穴事件のアニメーションはおそらく一〇年経っても同じ事を繰り返しているけれど、寸劇での生身の解説や演技は同じ日でも午前と午後で微妙に違えて演じ得る。
 案内スタッフの受け答えが気持ち良かったと喜ぶ観光客。体験工房での指導者との会話が楽しみで何度も来館する人。人との会話の印象が施設の印象につながるという基本的な事だ。「あなたが博物館職員である以上、来館者という名の客人をもてなすのは義務。研究者や教育者であっても例外はない。来館者に気持ち良く接し、また会いに来るよ、とファンを作ってください」と、朝礼で毎朝確認し合う。館長も博士も警備員も笑顔で接客に立つ。照れくさいけれど簡単で、すぐ実行できる効果のある集客術でもある。

表紙モノ語り
イワラピティのハンモック
ハンモック(標本番号H213343、幅/89cm) アメリカ展示
 ハンモックは網目状の寝具で、吊るした状態で使用する。もともとオリノコ川やアマゾン川の流域に住む熱帯低地の人びとがヤシなどの植物繊維の紐を編んで作っていた生活用具である。それをコロンブス以降の西欧人、とくに船乗りたちが船内で使用し、世界各地に伝播させた。語源はカリブ海のアラワク語系住民の単語にあり、スペイン語ではアマカ(hamaca)という。アザラシの腸で作る防水着アノラックが、東エスキモー語に由来するのと似たような経緯をたどって普及した。
 ハンモックは通気性にとみ、地上の虫から身をまもることができる。とりわけ雨季は高温多湿で虫の種類も多い熱帯ならではの寝具といえる。また、それにくるまって寝れば防寒にもなる。揺らすと安眠がうながされ、子どもを寝かしつけるにも便利である。身体をできるだけ水平にたもちたいときには、はすかいに足を伸ばして寝る。ハンモックは家のなかで使われるだけではない。船のデッキに色とりどりのハンモックを吊るして寝る習慣は、アマゾン川流域では見なれた光景である。ただし、川風を受け、夜はけっこう冷えるので、木綿の布製ハンモックがこのまれている。
 アメリカ熱帯低地の先住民がすべてハンモックを使用していたわけではない。床に毛布のようなものにくるまる場合もあれば、焚き火の近くの地面でそのまま寝ることもある。日中熱せられた地面は表面の砂をかきのけると、夜間でもある程度あたたかい。
 本資料はブリチ・ヤシの繊維と綿でできており、簡素でうつくしい装飾がほどこされている。アマゾン川の支流のひとつ、シングー川上流域に住む民族集団イワラピティ(ヤワラピティ)のものである。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

万国津々浦々
巨大な移民村の出現
児玉 香菜子
九年後の変貌
 北京から北西へおよそ一〇〇〇キロメートルの地点で、チベット高原から北上してきた黄河は陰山山脈にぶつかって大きく南へ湾曲する。この山脈の北側はウラト(烏拉特)とよばれ、年平均降雨量が二五〇ミリメートル以下の乾燥地域である。この乾燥地域に暮らす人びとは牧畜を生業とし、おもな家畜はヤギ、ヒツジとラクダである。すでに、多くの牧畜民が定着化し、日干しレンガの固定家屋に暮らしている。おもな交通手段はバイクと四輪駆動車で、ウマはほとんど見られない。
 この山脈の北麓に小さな町がある。わたしが一九九七年にここを訪れたとき、行政機関、テレビ局、映画館、デパートまでひと通り揃っていて、いわばウラトの行政、経済、文化の中心であった。映画館前の広場には露天のビリヤード台が立ち並び、田舎からやって来た牧畜民の若者たちでにぎわっていた。
 それから九年。再びこの町を訪れる機会をえたわたしは、この草原のなかの町がまったく変わっていないこと、むしろ人影もまばらで閑散としているのに大変驚いた。経済発展が著しい中国。なかでも内モンゴル自治区は首府フフホト市の地価がわずか一年で三倍になるなど、中国のなかでもっとも経済発展がめざましい地域である。大都市から小都市まで、高層ビルが建ち並ぶなかで、ここはむしろさびれた感じさえする。古びた映画館がいまだにこの街のいちばん大きい建物だった。聞けば、この地域は、土地荒廃が著しく、生態環境の回復をはかるため、住むことをあきらめざるをえないような状況にあるという。そのため、二年前の二〇〇四年に、行政の中心が五〇キロメートル離れた山脈の南側に移されたのだ。山脈の南側は黄河によって水資源が豊富で、なおかつ今後、基幹産業として発展させたい鉱山業に有利であるという。

生態環境への影響
 山脈を越えて、新しい町にはいると、突如整然と並んだ真新しいマンション群が目に飛び込んでくる。そこは巨大な移民村であった。移民村とは、生態環境の悪化を理由に締めだされた人びとが暮らすために建設された居住地である。わたしはこれまでいろいろな地域の移民村を訪れているが、町ごと移転させてこれほど大規模に建設された移民村をはじめて見た。規模こそ異なるけれども、共通している点がある。それは、どこも人影さびしく、閑散としていることである。現在二万人が暮らすというこの新しい町もいまだ閑散としている。ウラト地域から移住してきた牧畜民はわずか一〇〇〇人にすぎないという。
 すでにこの巨大な移民村の建設に約五二億八〇〇〇万円が投資されたそうだ。今後、この新しい町に誰が住むのであろうか。誰のための町作りなのだろうか。
 新しい都市建設にともなう水消費量の増加や鉱山開発による汚染の増加が懸念される。環境保全と経済発展を両立させるためのこの移住政策は、生態環境への負荷を北から南へ移転させただけ、いなむしろ、増加させているといえよう。


時論 新論 理想論
うすよごれた板きれなんだけど
墨書きされた二枚の板ふだ
 民博に収蔵されている小さな二枚の板ふだ。うすよごれていて、訳のわからない記号と読みにくい漢字がならんでいる。
 一枚目である。目録によると「板標 琉球八重山島(民博標本番号K2769)」とある。木製の板で大きさは縦最大一一・〇センチメートル、横最大一九・七センチメートル、厚さ一・三センチメートルを測る。表面には墨書で

   喜舎場英詳
明治廿四年度諸上納
米高
        百四十九番地平民
                 平田□□
米弐石□□□□□□七勺
   四才             
                   (※□は難読文字)
とあり、そのかたわらにやはり墨書で「○、△、―」を用いた記号文字がある。裏面は墨書の痕跡とまな板に使用したような刃物痕がある。
 二枚目も同じく「板標 琉球八重山島(K2770)」とある木製の板で、大きさは縦最大一三・五センチメートル、横最大二〇・四センチメートル、厚さ最大〇・六センチメートルを測る。表面には
大濱間切頭
      喜舎場英□
明治廿五年度諸上納米高
           弐百三十六番地
                出盛山三郎
米壱石三斗五升四合六勺壹才
と墨書され、そのかたわらにやはり墨書で「○、△、―」を用いた記号文字がある。裏面は
□□□
米八升四勺五才
の墨書と、「△、―」の記号文字がある。
 このような板ふだを「カイダー字の板札(はんさつ)」「カイダー字板」などとよんでいる。この板札は上記墨書の内容から農民への租税負担割り当てのためのものであると推察される。

人頭税(じんとうぜい)研究の指針
 一七~一九世紀に成立していた琉球王国は、その治下にある宮古、八重山の住民たちに年齢別に頭割りした税を課していた。世に名高い人頭税である。この税制は村落の位を上中下(貢布は上下)にわけ、さらに住民の位を年齢によって上(二一~四〇歳)、中(四一~四五歳)、下(四六~五〇歳)、下下(一五~二〇歳)に区分し、村の位と人の位を組み合わせて課税するという方法による。女性には貢布を、男性には貢米を賦する。人頭税は、明治一二年の沖縄県成立後も継続され、ようやく廃止されたのはじつに明治三六(一九〇三)年一月のことである。
 今一度、板ふだにもどろう。難読箇所が多い一枚目よりも二枚目がいいだろう。これは石垣島にある大浜間切(まぎり)(大浜村くらいの意味)の頭(かしら=首長)である喜舎場(きしゃば)某から明治二五年度の上納米として大浜間切弐百三十六番地の出盛山三郎にあてて、壱石三斗五升四合六勺壹才を収めるようにと記したもの。そのかたわらの○、△などがカイダー字で、○が三斗入り一俵、+は一斗、―を一升、□を一合、△を一勺、|を一才とするたぐいである。したがって、このカイダー字は四俵一斗五升四合六勺一才と読める。一石は十斗であり、一俵は三斗相当だから全部で十三斗五升四合六勺一才、すなわち一石三斗五升四合六勺一才となる。墨書の総量を起高といい、カイダー字の総量を先高というが先高と起高とのあいだにはしばしば齟齬(そご)があったという。
 このカイダー字板は現在、二枚の存在が確認されている(東京国立博物館、喜宝院蒐集館)。この資料の出現で一挙に二倍になった。民博にはこのほか「藁算(わらざん)」(藁をむすんで数を記録したもの)が収蔵されている。沖縄研究で知られた田代安定の蒐集によるもので、近年栗田文子氏により復元報告がなされた。これらの資料を活用するとき、民博は人頭税研究にとって大きな存在となるのではなかろうか。

外国人として生きる
日本のなかのブラックボックス
見えざる恩恵
 現代社会は誰のどのような仕事のおかげで、自分は着て、食べて、住んでいるのかが見えづらい。産品やサービスはことごとく貨幣という価値に置き換えられ、価格でしかその有難みをとらえられないでいる。ここ数年、わたしは日本に超過滞在し就労していたネパール人のことを調べているが、彼、彼女らが経験したさまざまな仕事のありようは、わたしたちが日頃気づかない産品やサービスの生産過程を露わにしてくれる。
 たとえばAさんは、六月から一〇月まで農家の離れに一人住み込んでキャベツ栽培に従事した。そこでは、ほとんどの農家がブローカーから斡旋された外国人労働者を一~二人かかえているという。七月の収穫期に入ると、早朝二時半からヘリウムを満たしたバルーンライトの灯りの下、家族とともにキャベツの刈りいれ、箱詰め、出荷の作業がはじまる。四時にはトラックが到着しはじめ、約四五分で積荷を終えたトラックは次々と東京、名古屋、大阪などの市場へと向かう。
 彼の日当は六〇〇〇円だ。食費として週一回の食料買出しのときに五〇〇〇円が支給され、彼は自炊していた。給料は仕事の過酷さに比べると安い。だが、周りにコンビニひとつなく無駄使いせずに貯蓄できること、日本語がわからなくても作業ができること、入国管理局の摘発が少ないことなどが利点だ。そのため、この季節労働は来日して間もない人が、他に仕事が見つけられないときに就く最後のオプションだといわれている。わたしたちの食卓にあがる旬のキャベツは、こうした外国人労働者の汗の賜物なのだ。

報われる努力と隠された事実
 少し古い話だがBさんは、一九九八年まで食肉加工業に従事していた。当時、周辺の同業者には約一五〇人のネパール人が働いていたという。彼の仕事は、解体された牛肉の切り分けと袋詰め、配達助手であったが、注文書が読めるようになってからは多くの仕事を任されたという。日当は一万二五〇〇円。残業の多い月には四〇万円くらいになった。住まいは会社が所有するマンションなので家賃は不要だった。
 会社では、熟練の日本人リーダーの下に二〇人のグループにわかれて作業がすすめられるが、リーダーの給料は一日に牛を何頭ヌケル(解体できる)かで決まる能力給である。Bさんは徒弟制的に学ぶ熟練作業をどんどん身につけてゆき、リーダーや同僚から可愛がられたという。当時の彼は体重が七〇キログラムであったが、一二〇キログラムの肉を運べることが自慢だった。この職場は一所懸命やればやるほど自分を認めてくれ、とても働き甲斐があったという。そんな彼の印象に残っているのは、深夜まで働かなければならないクリスマスと年末前の忙しさだ。他の肉より少し高い牛肉は、今でも日本人にとって祭日に食べるご馳走なのだろうと彼はいう。
 Cさんは家の解体業に就く。外国人労働者は現場で、捨て置かれた家具や家電の撤去、窓や襖の取り外し、天井や壁の取り壊しなどの手作業を担当し、それが終わると日本人が重機を使って柱などを解体する。リサイクルできそうな家具や家電は、前もって「キープ」の指示が出るが、天井などを壊していると旧一万円札が降ってくることもあるらしい。そんな時は、誰にもいわずにポケットにしまいこむ。ヤマとよばれる分別現場ではリサイクルする鉄クズ、アルミニウムなどと、建築廃材、燃えるゴミ、燃えないゴミを選りわける。こうした作業でもらえる時給は一五〇〇円で、一日八時間働くと一万二〇〇〇円になる。
 気になるのはアスベストの取り扱いだ。わたしがアスベストの危険性について話をすると、はじめて耳にしたというCさんは、あの皮膚にチクチク刺さり、洗ってもなかなか取れない綿のようなもののことかという。やはりアスベストも廃棄物として出ているようだ。だが、会社は外国人労働者にアスベストの危険性や中皮腫のことを全く伝えておらず、予防策もいっさい講じていない。最近になって重機の数を増やし、事業を拡大しているというその会社は、ニュースや情報に疎い外国人労働者を雇用して急成長しているようだ。

満たされるべき「人権」
 かつてネパールのじゅうたん工場における児童労働が問題となり、ヨーロッパで不買運動が起きたとき、わたしは解雇された児童のその後をケアしない単なる不買運動はストリートチルドレンを増やすだけだと批判した。満たされる「人権」のレベルは各国ごとに異なり、学校に行かず働くことが人権にかなう場合もありうると考えるからだ。同様にわたしは、ネパールの厳しい就職難と低賃金を知る者として、日本における外国人労働者に対する搾取の問題を「人道的」観点から批判する気になれないできた。
 だが、アスベストは命に関わる重大な問題だ。代わりの仕事が紹介できないだけに、今は「どんなに暑くてもマスクをすることだけは約束して欲しい」としかいえないでいるが、何ができるかを考えている。AさんやBさんのように「外国人として生きる」のならまだしも、外国人ゆえに命を縮めるようなことには、よもや、なってもらいたくない。

地球を集める
ゴング音楽とアラック・ヤーン
ユニークなゴング音楽
 民博では世界各地の音楽・芸能を映像で記録している。わたしもその一部を担当して、東南アジア地域を中心に幾つかの映像作品を作ってきた。カンボジアは、同僚の福岡正太さんと共同で調査を進めている地域であり、現地ではクメール人の音楽学者サムアン・サムさんが率いる研究チームの協力をえてきた。一九九九、二〇〇〇年には、複数の音楽・芸能ジャンルの記録をおこない、特に伝承が危ぶまれていた大型影絵芝居スバエク・トムに焦点をあて、その演目すべてを映像番組として残した。
 しかし、それまでの取材対象はカンボジアで大多数を占めるクメール人であり、国内に住む二一の少数民族についてはまったく手付かずの状態であった。おりしも、サムさんの研究チームが二〇〇三年にトヨタ財団の援助を受け、北東部のラッタナキリ県において少数民族音楽の実態調査をおこなった。わたしたちはサムさんとの話し合いから、この地域における映像記録の必要性を痛感し、共同で取材の計画を立て、昨年三月に撮影隊とともに現地に向かった。
 東南アジア大陸部の山間地域ではゴング音楽が儀礼の一部として演奏されることが知られていたが、信頼できる民族誌・音響資料は少なく、映像資料に関してはほとんど皆無である状態が続いていた。しかし、わたしたちがこの地域に興味をもっているのは、単に映像記録がないからではない。彼らが演奏するゴング音楽が他地域では見られないユニークなものであるからだ。
 東南アジアは、ゴングとその音楽が重要視される地域である。日本でも有名になったジャワ島やバリ島のガムランは氷山の一角にすぎず、各地に存在するゴングを中心とするアンサンブルはじつに多種多様である。楽器としてのゴングは、中央に突起のある「こぶ付きゴング」と表面が平らな「平ゴング」に大別されるが、ほとんどのアンサンブルでどちらかの種類のみが使われている。カンボジア・ベトナム・ラオスの山間部は、この二種類のゴングをいっしょに演奏する数少ない地域のひとつなのである。

霊の怒りに触れて
 ラッタナキリ県には八つの少数民族が住んでいる。今回の調査で訪れたのはクルン、トゥンプアン、プルーの人びとが住む村だった。彼らは、ゴングの音が霊の世界との深いつながりをもち、葬式、動物供犠、結婚式など霊との交流が必要な儀礼においてゴングの演奏は不可欠であると考えている。今回の取材では、ゴングと霊の関係を紹介しうる番組を作ることが大きな目的のひとつだった。
 ラッタナキリでは、クルン人のファン・ダオさんに取材のコーディネートを依頼した。ダオさんは、自身優れた演奏家で、クメール語と複数の少数民族の言語を話すため、この地域の音楽活動のまとめ役的存在である。できるだけ実際の生活のなかでの演奏を記録するために、ゴングの演奏がおこなわれる結婚式や葬式を探してもらったが、記録のために演奏家に集まってもらうこともあった。ダオさんの手配で、ゴング音楽の演目の多くを記録したが、そのなかに動物をアラック・ヤーン(霊)にささげる際に演奏される曲が含まれていたことが予期せぬ事態を生んだ。
 数日後、村の長老数人がこの曲に呼ばれた霊が怒っている夢を見たと言い、村に不幸が訪れないようにダオさんに牛を生け贄(いけにえ)にするよう迫ったのだ。ダオさんは窮地に立たされたことを、わたしたちにすまなさそうに告げた。このような事態を予期しなかったのだろうかという疑いが頭をよぎるが、わたしたちの取材のために無理をしてくれたダオさんの評判を損なうわけにはいかない。
 数回にわたって解決に向けた話し合いがもたれた。現地語を解さないクメール人研究者チーム、クメール語を得意としない少数民族の演奏家たち、ラッタナキリの地方官僚、そしてわたしたち日本から来た取材チームが、渦中のファン・ダオさんとクメール人の現地通訳を介して、それぞれの立場と思惑を理解しようとしながら話を進めた。ここでは詳細を述べることはできないが、そのあいだのやり取りはこの地域における取材の難しさを痛感させるのに十分だった。

現場の緊張を映像に
 結果的には、動物供犠をおこなわなければ体の不調が治らないと霊媒に託宣されながら、牛を買うお金がない村人に、わたしたちが資金援助をすることで一応の決着をみた。わたしたちが代金を払った牛を供犠することで霊も満足し(というふうに長老たちも納得したらしく)、牛を買うところから、儀礼の準備、霊媒の踊り・憑依(ひょうい)、ゴングの演奏、牛の撲殺・解体にいたるプロセスをすべて記録することができた。しかし、この一連の出来事は、それ以来ずっとわたしの頭を離れない。正直に言って、われわれの存在がダオさんをめぐる現地の人間関係、人間と霊の関係に与えた影響については不明な部分が多い。また、現場での緊張は映像にも写しこまれているはずである。現在、編集をおこなっているが、客観的な記録映像を装うのではなく、部分的にせよ取材のいきさつがわかるような番組制作を目指したい。
 そのための補足調査をおこなう準備を進めていた今年七月に、ファン・ダオさんが交通事故で亡くなったという知らせが届いた。アラック・ヤーンの怒りが彼に死をもたらしたのではないことを願いながら冥福を祈りたい。

生きもの博物誌(ヒレナマズ/エチオピア)
森に棲むナマズの力
松田 凡
密接な結びつき
 日本ではナマズというと、むかしはどこの河川や湖、池にも見られたありふれた魚だった。近年では、そのユーモラスな姿がキャラクター・デザインになったり、また地震予知能力が科学的に検討されたりして、親しみを感じている人は多いようにみえる。
 その反面、食用魚としてはあまり一般的ではないようだ。わたしは京都生まれの京都育ちで、現在は滋賀県に住んでいるが、ナマズを家で食べた記憶はない。だが、淡水魚の宝庫といわれるアマゾン川流域はもちろん、わたしの知るアフリカではまったく事情は異なる。食用としてはもちろん、日常生活や信仰のレベルで、わたしたちの想像を超える密接な結びつきが人とナマズとのあいだにはある。

成長ごとのよび名
 わたしがエチオピア西南部を流れるオモ川沿いの、ムグジ人の村に暮らしていたころ、人びとの主食である穀物(モロコシ)が底をつく季節になると、毎日魚しか食べるものがないので閉口した。四〇種以上いるオモ川の魚のなかでもっともポピュラーなのは、コエグ語でクワダと総称されるヒレナマズの一種である。肉が白身で淡泊なのはいいが味は頼りない。また、おき火で焼いて、手でむしって食べるのに最初は抵抗があった。通常は釣り針と糸を使い、また乾季にはモリを使って、簡単にしかも大量に捕れることもあって、一ヵ月あまりこればかり食べていた記憶がある。
 クワダは日本風にいうとブリのような成長魚である。人間の手のひらくらいのもの(実際村人たちはこのように表現する)をカンカチャといい、腕のひじから先くらいの大きさのものをルルントゥという。それがもう少し大きくなって、ふくらはぎくらいの大きさのものをプルンドゥという。さらに大きなもの(体長一メートル近くになるものもいる)はウングナという。また、生殖期に沼にいて細長いタイプを特にシャルグワルとよぶ。ほかの魚種にも体の大小によってよびわけるものはいくつかあるが、さすがに四段階となるとクワダのほかにはなく、その観察の細かさに驚く。

生命力を受け継ぐ
 数年前に、エジプト考古学の研究者から連絡をいただいた。紀元前三〇〇〇年ころ、古代エジプトを最初に統一した王の名をナルメルといい、ナルとは古代エジプト語でナマズの意味なのだそうだ。また紀元前一五〇〇年ころの新王国の時代には、洞窟壁画に頭部がナマズ型をした神の姿が描かれているという。どうやらヒレナマズは人間の力を超えた、神聖な存在であったようだ。どうして古代エジプトの人びとはそう考えたのだろうか。
 西アフリカのニジェール川流域では、ヒレナマズが神話や口頭伝承に登場したり、食物禁忌の対象になったりしているようである。ムグジ社会では、特にクワダを崇めたりはしないが、その強い生命力と生殖力に言及されることはよくある。釣りあげて岸に放っておいても長いあいだ生きていて川に戻ろうと地を這う、乾季には沼地の泥のなかで空腹を堪え忍び、雨が降るのをじっと待っている、などといわれる。
 たしかに、頭骨以外の身体は極限までやせ細り、大きなオタマジャクシのようになったクワダを見たことがある。アフリカの熱帯の日差しを避け、いつ来るかわからない雨を待って川辺林の泥沼で身を寄せ合うヒレナマズたち。モノを食べることは、栄養の観点だけでなく、そのモノがもっている生きる力と意志を受け継ぐことなのだと、あらためて思う。

北アフリカヒレナマズ (学名:Clarias gariepinus Burchell,1822)
ナマズ目(Siluriformes)は、両極を除く世界中に2000種以上いるといわれる硬骨魚類の一大集団である。オモ川にも多くのナマズが生息するが、ヒレナマズ科(Clariidae)はヘテロブランクス属とクラリアス属が確認されており、後者のうちガリエピヌスはアフリカ大陸に広く分布する種で、最大1.5メートルにもなる。クラリアス属はアフリカンクララの名で鑑賞魚として日本でもよく知られている。また、いわゆる和名のヒレナマズ(Clarias fuscus)は東南アジアから中国大陸にかけて分布し、石垣島でも繁殖しているほか、東京で食材として販売されている例もあるという。

フィールドで考える
ブラジルへ渡った「三番叟」
中村 茂生
日系人の芸能祭
 サンパウロ州奥地は、かつて日本人移民の集住地がいくつもあったところで、今でも日本人会が活動している町が少なくない。それらの日本人会は、すでに廃線となった鉄道沿線ごとに連合会を作っており、わたしのいる町の日本人会は汎パウリスタ連合会に属している。列車が走らなくなって久しく、車を使えば隣りの路線の町の方がはるかに近いにもかかわらず、日本人会同士のつきあいは依然として旧パウリスタ線を軸としている。
 連合会の年間主催行事のなかに芸能祭がある。日本人移民一〇〇周年を二〇〇八年に迎えることもあり、ブラジル日系人社会では、日本文化の継承ということが盛んに言われるようになってきた。芸能祭は、日本の踊りを継承しようというイベントで、一一回目になる。今年、会場となったのはわたしのいる町だ。
 沿線九都市の婦人会や踊りの愛好会などによる、合わせて八〇ほどの演目があったなかで、会場となったこの町が芸能祭に用意した踊りが約三〇。これほどの数が可能になった背景には、最近婦人会に勢いがあるのと、もうひとつ、二人いる踊りの先生の存在があった。

移住地の村芝居
 戦前ブラジルにやって来た日本人移民は、十分稼いだら日本に戻るつもりでいた。精神は常に遠い日本とつながったままで、移民生活は労働中心のものになりがちだった。それでも年月を経て、移民の数も増えて日本人集住地が形成されてくるようになるころには、生活を楽しもうという余裕もできてきたらしい。やがて演芸会なども開かれるようになり、日本で身に付け、ブラジルまで運んできた芸を互いに披露する機会ができた。移民を盛んに送りだした当時の日本の農山漁村は、村芝居の全盛期である。地域によっては神社の境内ごとに農村舞台があり、小さな村にも三味線弾きもいれば、浄瑠璃語りもいた。当然のように、移民とともに、芸も、三味線も、丸本(まるほん)もブラジルに渡って来ていた。
 一九二八年、日本政府の肝煎りで開拓されたこの町には、最初から地主として来た人が多い。契約労働者だった初期移民に比べ生活に追われなかったせいか、当初から芸事が盛んであった。外ではまだ原野を伐採して焼き払った煙が立ち上るようなところで、ひょっとするとオンサ(豹)が遠吠えするような晩にも、義経千本桜に聞き入る人びとがいたのだ。
 二人の先生はともに、この町を拠点に戦前から一九八〇年代まで活動した旅芝居の一座にいた人である。その一座を立ち上げたのは、この師匠であった一人の女性であった。女性の出身地である中国地方は地歌舞伎の盛んな地域である。子どものころから芝居は身近にあったはずだ。いつのころからか芝居に魅せられ、複雑な家庭環境もあって、とうとう家を出て少女歌舞伎の一座に身を投じることになった。憎まれ役として人気を博したが、結婚をきっかけにブラジル渡航となり、この町に来た。しかし、耕地に入ったものの、病弱だった夫は十分働くことができなかった。むかしとった杵柄(きねづか)というわけで、ブラジルで一家が生き抜くために選んだのが芝居だった。大当たりだった。
 人気は、戦争をはさんで長く続いた。新年や入植祭の公演は町でおこない、旅に出ないときには踊りを教え、約三年かけて各地の日本人集住地をひとまわりしていた。サンパウロ州奥地に暮らしたお年寄りの多くは、今でもこの一座のことをよく記憶している。子どものころ、青年のころ、一座がやって来ることをどれほど心待ちにしたか、楽しい思い出として語ってくれる人がじつにたくさんいる。
 しかしやがて移民のなかで世代が替わりはじめると、娯楽も多様になり、なにより芝居のことばが通じなくなる。まず、日本時代からこだわりのあった歌舞伎ができなくなり、現代風の芝居やバレエ、映画などを組み合わせて興行したが、とうとう最後を迎え、女性も亡くなった。

「三番叟」復活上演に向けて
 芸能祭の後半、二人の先生もそれぞれ舞台に上がった。するとそれまでと明らかに会場の空気が変わった。一座が解散してずいぶんになるが、子どものころから作り上げてきた、踊りのからだ、人を引き込む力は衰えていない。客席を見ると、ところどころにものに憑かれたような眼差しで舞台を注視する観客の姿があった。異国で寄り添うように暮らす日本人移民たちが待ちわびたという一座の公演は、きっとこんな観客で一杯だったのだろう。
 師匠であった女性のことを二人の先生から聞いたとき、一枚の写真を見せられた。先生方が子どものころ、「三番叟」を踊ったときの記念写真だ。地歌舞伎で、「三番叟」を伝えているところは少なくない。おそらく写真の「三番叟」は、一座を始めた旅芸人の女性が、故郷か少女歌舞伎の舞台で身につけ、弟子たちに仕込んだものだ。いったいどんな「三番叟」なのだろう。ブラジルまで渡ってきた「三番叟」。残念ながら芸能祭の演目は、すべて現代風の踊りだ。わたしはむしょうにその「三番叟」が観たくなり、断られるのを覚悟でぜひとお願いしてみた。
 「まだ憶えています。踊れると思います」と言う返事だった。次の正月には踊ってもらおうと、わたしは準備をはじめている。



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