国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2007年12月号

2007年12月号
第31巻第12号通巻第363号
2007年12月1日発行
バックナンバー

エッセイ 世界へ≫≫世界から
人はなぜ、武器をもって闘うのか
小倉 清子
 人は、どんな境遇に立たされたときに、武器をもって闘おうと思うのだろうか。ここ数年間、つねにわたしの頭を占めて離れない問いである。
 今年八月、南アフリカ共和国で開かれた紛争解決に関連する小さな会議に出席した。すでに武装解除をして政党として政治の主流に入った勢力から、現在も反政府武装闘争を続けるグループまで、六つの武装紛争のケースに関する研究発表がなされ、元・現武装グループの代表を含めて、政治解決に関するさまざまな問題について話し合った。わたしはネパールの武装勢力であるマオイストこと、ネパール共産党毛沢東主義派のケースを発表したのだが、それぞれのグループにより、武装闘争を始めた動機や目的が異なり興味深かった。
 民族独立のために武器をもったケースや、長年の民族差別から解放されるために武装闘争を開始したケース。都市部を基点にしたグループもあれば、ネパールのマオイストのように農村から都市部を包囲する戦略をとったグループもある。戦略や目的はそれぞれ異なるが、共通している点がひとつある。それは、どのグループも「武器をもつ以外に目的を達成することはできない」という信念が、武装闘争を始める基になっていることである。
 一九九六年二月一三日に、マオイストは王制廃止と共和制の導入、そして平等社会の実現を求めて、人民戦争とよばれる武装闘争を開始した。一九九〇年にネパールが民主化されてから六年、政党による政治の舵取りは決してうまくいってはいなかったものの、人びとは政治の自由を謳歌(おうか)しているように見えた。国王による長い直接統治の時代が続いたネパールの歴史のなかでもっとも自由な時代に、なぜ彼らは武装闘争を始めたのだろうか。この問いの答えを求めて、わたしはマオイストの本拠地であるロルパに通い続けている。
 ネパールの典型的な山岳地帯にあるロルパの村々で会ったのは、自らの歴史さえ知らない国家による犠牲者たちだった。かつて外から来た支配者から身を守るために自らのことばを捨て、アイデンティティである歴史を残すことさえ止めてしまった人たち。首都カトマンズから国を操る歴代の支配者から、一度も顧みられることのなかった人たち。それは貧困と社会差別という結果として残り、状況は民主化後も変わることなく、社会変革のためには「武装革命しか道はない」とするマオイストの支持者を増やす結果となった。
 マオイストは「武装闘争の目的は達成した」と結論づけ、昨年一一月、政府とのあいだで和平協定に調印した。現在、新生ネパール建設のための制憲議会選挙に向けて準備を進めている。彼らが武器をもった目的が正当化されるか否かは、これからの歴史が語ることになるだろう。

おぐら きよこ/1957年栃木県生まれ。ジャーナリスト。東京大学農学部卒業。1993年からネパール在住。現在、トリブバン大学社会学・文化人類学部修士課程に在学中。2001年からマオイストに関する取材・調査を続ける。ロルパの歴史を書くこともライフ・ワークとする。著書『王国を揺るがした60日』(亜紀書房)は3ヵ国語で出版。『ネパール王制解体』(日本放送出版協会)など。


特集 マンガ
世界の人びとに注目されている日本のマンガ。国内ではマンガのミュージアムが登場するなど、あらたに見直されている。今号では、マンガが世界の各地域でどのように受け入れられているのかを紹介し、現代社会とマンガとのかかわりについて考えてみたい。

世界へ広がるジャパンクール
奥野 卓司(おくの たくじ) 関西学院大学教授
ジャパンクールとして
 二〇世紀にはマンガは雑誌のなかだけのものだったが、今ではアニメ、ゲーム、フィギュア、コスプレ、アニソン(アニメの主題歌)、メイド喫茶などとともに、一組のサブカルチャーとして存在している。このようなサブカルチャーは大人からは軽視され、若者の犯罪の原因とされたりさえする。だが知らないうちに、それが海外では「ジャパンクール(かっこいい日本のもの)」とよばれて、好評をはくしていた。たとえば、宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」はアカデミー賞を受賞し、押井守監督の「イノセンス」はカンヌ映画祭で絶賛を浴びた。海洋堂のフィギュアは、ニューヨーク近代美術館に展示され好評だった。
 フランスでは、伝統的なマンガ「バンド・デシネ」の人気は落ち、今では一般書店に日本のmangaコーナーがある。パリの碁ブームは、『ヒカルの碁』の愛読者が自分もしてみようとして広がった。マンガに出てくる畳や鯉のぼりなどの日本の習俗に興味をもち、日本語を習いはじめる人も増えている。

東アジアへの拡散と変容
 欧米では知識層が日本のマンガやアニメを芸術として評価するという傾向が強い。これに対し普通の若者たちに広く浸透しているのは、東アジアの都市部である。ぼくは、数年前からジャパンクールが中国や韓国、台湾の若者たちにどのように受けとめられているのかを調査してきた。
 これらの国々では、日本のマンガが若者に歓迎されていることは共通しているが、国によって状況は微妙に異なる。台湾では、台北の東門街に日系マンガ専門店が軒を連ねているが、若者は北京語のではなく、台湾語の海賊版を愛読する。韓国では、日本のキャラクターが街にはなく、市販されるマンガは舞台を日本から韓国に変えている。このためオタクは、仲間が日本版をハングルにしたものを、PC房(バン)(韓国のネットカフェ)で読む。中国では、ネットからDVDにコピーして、著作権を無視したマンガが氾濫している。コスプレもさかんで、日本のキャラクターが若者によく知られる。
 また、これらの国は日本のマンガを受け入れる一方でなく、自らも制作に乗り出し、輸出品にしようとしている。だが、国策として進められるコンテンツ創造が、成功するかどうかは懐疑的だ。マンガは日本の文化と深くかかわっているからだ。

日本マンガの文化環境
 たとえば、江戸中・後期には、人形浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などが花開いた。とくにマンガに直接つながる黄表紙は、戯作者や版元だけではなく、連、目利きなど、今日のコミケ(マンガ同人誌大会)のような広がりをもっていた。それらは、西洋の芸術のように貴族に育てられたのではなく、江戸、上方の町民が作り、彼ら自身が楽しみ、成長させてきたのだ。
 ここには、日本の美として評価されてきたワビ、サビとは別の美意識がある。それは江戸文化の粋(いき)だ。前者が能や茶道に表象される武士のものであるのに対し、後者は町民の生活から生まれた美意識である。梅棹忠夫の言うチョーミナイゼーションであろう。その意味で、今日のマンガ好きオタクの美意識とされる萌(もえ)に通じている。
 また、古代から日本人は、草木虫魚と会話し、田の神、山の神と交感してきた。このアニミズムが、世界最初のマンガ、『鳥獣人物戯画』にあらわれている。それは、鳥羽絵、大津絵に受けつがれ、江戸時代にも花鳥画として生き続けた。画家が動物と交感し、人間化してデフォルメする伝統が、今日のドラえもん、トトロのような日本マンガのキャラクターを生み出した。
 このような日本の文化環境は、欧米にも東アジアの他地域にも見られないもので、それがジャパンクールの源泉である。これを、デジタルメディアによって発信していくことが、日本の文化を世界に伝えることにつながっていく。

フィールドワークとマンガ描き
都留 泰作(つる だいさく) 富山大学准教授
マンガと人類学の共通点
 わたしはアフリカ・カメルーンの熱帯森林に居住する狩猟採集民バカの人類学的フィールドワークをする傍ら、マンガを描いて雑誌に載せている。
 改めてマンガと人類学の関係を問われると少し困ってしまうが、まったくの無関係というわけでもない。現在講談社の月刊誌『アフタヌーン』で連載中の「ナチュン」というマンガは、沖縄で修士課程研究のためにフィールドワークをした思い出をもとにしている。マンガを描くうえでいつも意識しているのは、自分の慣れ親しんだ世界を一歩出れば、そこは「異文化」の世界であり、不思議な出会いと冒険がある、ということをエンターテインメントのかたちで伝えることである。この考え方は文化人類学や民族学とも相通じる点があると思っている。

儀礼のなかで変身
 文化人類学というのは、フィールドで出会う人びとや社会の見方を虚心に記述しようとする学問であるわけだが、マンガの描き手の端くれとして少々気になるのは、「彼ら」の社会ではマンガというのは一体何なのだろう、ということだ。とくに、わたしが今フィールドとしているアフリカには、マンガ市場が事実上存在しない。だが、マンガとどこかで連続した営み、というものはあるような気がしている。そのとき思い至るのは、やはり「絵」や「視覚メディア」のもつ力である。わたしもよくフィールドではスケッチをした。わたしは子どものころから「絵が上手」と言われてきたが、彼らは「上手・下手」でものを判断しない。わたしは「絵が『強い』人」とよばれていた。この表現は単に「上手い」と言われるより何か嬉しい気がする。

 彼らの文化で、視覚メディアのパワーが発揮されるのは、精霊を表現した種々の儀礼パフォーマンスである。そこでは、彼らは、さまざまな扮装を用いて想像上の不思議な生命に変身して見せる。この変身という考え方は、日本のマンガやアニメにも近しい。小説や映画にはないマンガの魅力は、線であらわされた勇者や美少女、半動物といった「キャラクター」にある。このキャラクターこそ、読者が自己を投影し、異世界に遊ぶことを可能にする鍵である。勢い、マンガ家たちは、キャラクター造形に力を注ぐことになる。わたしが滞在したカメルーンの村でも、ある少年が、毎年のように「新しい精霊」を作り出して、儀礼の場で「発表」していた。そのデザインは、他の伝統的な精霊にはない、独創的な「キャラクター造形」であふれており、マンガ描きとして、彼こそ熱帯森林の同志ではないかと考えたりしている。

マンガミュージアムって、何?
牧野 圭一(まきの けいいち) 京都国際マンガミュージアム・マンガ文化研究センター長
開放的な読書スタイル
 「・・・つまり、大きな、マンガ喫茶ですか?」という質問をよく受ける。メディアが、他者を痛烈に批判し、揶揄する場面も多いところから、マンガミュージアム(以下MMと表示)への風当たりもかなり強い。マンガ出版物収蔵二〇万~三〇万冊というだけなら、この質問に肯くしかない。二〇〇六年一一月二四日、MMが開館してもう一年が経過したが、この間二〇数万人の入場者を数えることができた。
 一見してMMが他の図書館、博物館、美術館などと違うのは、入館者の読書スタイルや参加風景だろう。子どもから大人まで、何冊もの本を傍らに積み上げ、床に立ったり座ったり、人工芝の運動場(龍池小学校跡地を再生活用)には、気候さえよければ三〇~五〇名もの老若男女が、ゴロ寝しながら読んでいる。少し前なら、その読書姿勢そのものが批判の対象になったかもしれない。本が貴重な資料であることは、マンガの場合も変わりないが、万が一の際も補充ができないことはないという安心感が、管理者の側にもある。大量に出版され、古書の業者さんも多いところから、前述のかたちが許されることになる。マンガを読む際の開放感が、そのまま床に座ったり芝に寝転んだりの読書スタイルにあらわれている。
 「閉館後の書架の整理がたいへんでしょう?紛失する本も多いでしょうね?」という質問も数多く受けている。ところが、館員が驚くほど皆さんのお行儀がよく、たくさんもち出された書架のマンガは、きちんともとの位置にもどされ、紛失することもほとんど無いと報告されている。・・・とすれば、京都精華大学マンガ学部の教室に置かれたマンガ書架の方が、うんと成績が悪いことになる。こちらは、図書委員が何度アナウンスしても、貴重な資料が帰ってこないことがあるからだ。マンガを生涯の仕事と考える学生たちにとっては、善悪を超えた《媚薬》のような存在でもある。

未開拓の研究分野
 こうした参加スタイルを観察しても、MMならではの解釈と運営方式が必要と考えている。「マンガ」ということばで漠然ととらえられている広大な表現分野は、研究者の視点で見る限り、まったく未開拓であると言って言い過ぎではない。日本最初の本格的研究施設として誕生した京都国際マンガミュージアムは、アメリカ大陸にやっとたどり着いた、メイフラワー号のような存在と、わたしは位置付けている。

韓国にとっての新しい生き方
伊藤 亜人(いとう あびと) 琉球大学教授
 韓国でも、染み入るようにも日本からもたらされる大衆文化のなかでとりわけマンガの存在は大きいようだ。二〇〇〇年の秋に釜山のマンガ専門の書店で調べたところ、日本作家の翻訳書が九割ほどを占め、ざっと数えても五〇〇点を超えていた。日本のマンガが韓国の思春期および青春期の若者におよぼしている影響は、日本の大衆文化による汚染として否定的にとらえられがちであったが、その実態については年長世代には十分に理解されているとはいえない。
 日本の社会や文化をめぐる討論が、学生の発言をきっかけにマンガに話題が移ることもしばしばあった。女子高生や女子大生のあいだでは、日本のマンガはかならずしも日本にとどまらない、もっと深い魅力があるといい、これまでの韓国には無かった新しい世界、主流となってきたものとは別の生き方を示しているのだという。その主流とは、抽象観念を用いて理念を説き、教訓的で規範性の高いもので、合理的で要するに男性的な生活世界なのだという。それに対して日本のマンガは、論理や理念では割り切れない具体的な出来事や物をめぐる人のかかわりと思い、あるいはこだわりや情念や耽溺(たんでき)の世界、そしてそれを前向きに生きる個性的な生活像を描写しているのであって、それによって一種の美的で新鮮な世界が開かれるのだという。
 確かに、かつて韓国を主導してきた年長世代は、漢字の抽象概念による観念世界をあまりに強調してきたようにも思われる。ハングル使用によって多くの人が文字に親しむようになっても、そうした主流の伝統は日本人が思う以上に根強いのかもしれない。世代間の意識のずれは親の世代にとっては脅威と映るようだが、女子学生はお構いなしにマンガアニメ・ツアーに参加してお目当てのマンガを買い求め、原語で読みたいと日本語をひそかに勉強するという。 
 友人の人類学者は、日本の大衆文化とくにマンガの世界に対して認識不足だったとこぼした。彼によれば、ある日まだ中学生の息子がやって来て、あらたまった表情で「お父さん、僕は大学に行くのをやめる。その分の学費をください。僕はそのお金で日本に行く」と宣言したという。日本で何をするのかと尋ねると、なんと寿司職人になると答えたのだ。そして遅まきながらそれが日本のマンガの影響だと知ったという。主流に留まるための厳しい競争に直面しようとする思春期の若者にとって、日本のマンガはそれを問い直すような新しく魅力的な世界に誘っているようだ。

日本製から「国産品」へ
 タイにおけるマンガの年間売上は三三億円以上とも推定され、市場の規模としては出版業界全体の一〇分の一に当たるほど大きなものになっている。これだけの読み物なら、いわゆる「国産品」がたくさんあってもいいはずだが、驚いたことにその九割以上が外国のマンガによって占められている。輸入マンガには欧米や香港や台湾のものもあるが、なんといっても日本製が圧倒的な人気を誇っている。一九七〇年代に紹介されたおなじみの「ドラえもん」の大ヒット以来、「ガンダム」「ドラゴンボール」「聖闘士星矢」「タッチ」「ベルサイユのばら」「名探偵コナン」など、数え切れないほどの日本マンガが街頭にあふれ、タイ人、特に子どもや若い人たちに愛読されるようになった。一人当たり年間平均七行しか本を読まないといわれるタイ人ではあるが、マンガ専門店の前にはいつも人だかりができるのはなんとも皮肉な光景である。
 そうしたタイのマンガ市場にもここ十数年異変が起こってきている。それまでほとんど完売だった人気のマンガでも、売上げ部数が減り、新しい読者の獲得もしにくい状況になってきた。マンガ離れの重要な原因にはコンピュータゲームの普及がよく指摘されるが、「真新しさ」を追求したいという読者の願望があることも否定できないだろう。そうしたニーズに応えるべく、また自身の生き残りもかけて大手出版各社は競って独自のキャラクターの創造に乗り出している。そこで題材に求められたのが「ラーマーヤナ」「グライトーン」(タイ版クロコダイルハンター)や「プラーブートーン」(金のハゼに生まれ変わった母親と娘の話)など、現代人にほとんど顧みられることがなかった古典文学や昔話類である。またタイの象徴である「象」を主人公としたオリジナル・アニメーション「ガーングルアイ」の人気も、今後タイのマンガ界の姿を変えていくひとつの転機として注目されている。

イヌイトの楽しみの行方
大村 敬一(おおむら けいいち) 大阪大学准教授
 「かめはめ波のやり方を教えてくれ」「新しいポケモンのグッズにはどんなものがあるのか」。カナダ極北圏の先住民、イヌイトの村を訪れると、こんなことを子どもたちから聞かれて、当惑しつつもどこか嬉しい自分がいる。下宿先の家族が皆で「もののけ姫」を観ているときなど、「どうだ、素晴らしいだろう」と自慢したりもする。一家に数台のテレビやDVDが普及しているイヌイトのあいだでは、とくに子どもたちのあいだで、アニメ、なかでも日本のアニメに絶大な人気がある。
 しかし、わたしはマンガを読んでいるイヌイトをあまり見たことがない。たしかに、数十年前にはイヌイトがマンガをよく読んでいたという話を聞いたことはある。また、今日世界的な芸術になったイヌイト・アートが、一九八〇年代以後、マンガのタッチの影響を強く受けはじめ、「イヌイトらしい」表現とは何かという論争がおこったこともある。数年前には、そのイヌイト・アートの作家を支援する団体が、芸術市場の仕組みをイヌイトに教えるために、マンガの冊子を作って配布したという。さらに、イヌイトの先住民団体の機関誌で、一九八〇年代にイヌイトが描いた四コママンガが連載され、イヌイトが事実上の民族自治を獲得したヌナヴト準州の設立に貢献したという。しかし、わたしの観察力が足りないのか、本当にそうなのか、ここ一〇年ほどのあいだ、わたしはマンガを読むイヌイトをほとんど見たことがない。
 あるいは、テレビやビデオ、DVDの普及にともなって、マンガからアニメに好みが変わったのかもしれない。先住民社会は永遠に凍結した社会ではない。もちろん、彼らの楽しみも変わってゆく。社会組織や生業、信仰、芸術のかたちの持続と変化も大事な問題である。しかし、彼らの日々の生活の楽しみ方の持続と変化の様相も重要な問題だろう。いずれ極北の地にも、わたしのようなオタクが生まれるのか。こうした問いは、わたしたちと先住民を地続きに考える出発点になるかもしれない。

モノ・グラフ
鹿児島の竹の文化―民博の収蔵庫が語るアジアとの繋がり
川野 和昭(かわの かずあき) 鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長
 「鹿児島のモノだ」と思って近づいてよく見ると、中国雲南省やラオス、タイ、カンボジア、ミャンマーなど、中国南西部や東南アジアのモノである。こんな強烈な衝撃を受けたのは、一九九四年の夏、翌年二月に開催が迫った鹿児島県歴史資料センター黎明館の企画特別展「鹿児島竹の世界」の資料調査のために訪れた、民博の第二、三収蔵庫でのことであった。
 すでに、黎明館と県内の市町村立の各歴史民俗資料館に収蔵されている竹の生活道具のほとんどを調査し、カード化と分類を済ませていた。その目で民博の竹の資料を見ると、鹿児島の竹の生活道具が、東南アジアの竹の道具と製作技術や機能性の面で、極めて精緻(せいち)な重なりを示すことがはっきりと認識された。そこから、「環シナ海文化の視座から」という展示会のコンセプトが明確化してきたのであった。
 冒頭の衝撃を受けた象徴的なモノが、鹿児島で「カタギイテゴ」とよぶ、方形首括(くびくび)れ広口のかたちをした魚籠(びく)である。この魚籠は、ソコ(底)、ドウ(胴)、カタ(肩)、クビ(首)、クチ(口)、シタ(舌)とよばれる部分からなっている。底部は四つ目編みで方形に編み、胴部をゴザ目編みで方形に編み上げ、肩部は胴部を編み上げてきた経ヘギのうち両端の数本を横に倒して菱四つ目に編み、首の付け根に向けて括(くび)れるように絞って編み上げる。さらに、首の部分は残った経ヘギで再びゴザ目編みでラッパ状の広口に編み上げていく。口部は巻縁仕上げにし、舌はゴザ目で円錐形に編んで口部に差し込んである。名称の「カタギイテゴ」も、肩部で編み方が一旦途切れるところに由来する。用途は川、海を問わず投網漁や筌(うけ)漁などで、腰に着けて用いられる竹製籠の魚籠である。
 このカタギイテゴは、鹿児島では大隅、薩摩、奄美大島、喜界島、徳之島にしか分布しておらず、それ以南の沖永良部島から沖縄諸島の八重山地域まではまったく分布していない。鹿児島以北を見ても、九州山地に染み出すようにしか見られない。例外的に佐賀県東与賀町、岐阜県徳山村、明智村に飛び離れて顔を出す。
 しかし、民博が収蔵するこの魚籠の分布は、台湾(アミ族)、中国広西壮族自治区(ヤオ族・壮族)、フィリピン(タガログ族)、インドネシア(スンダ族)、ラオス(カトウ族)、タイ(タイ族)、ネパール(ボテ族)におよぶ。
 それらと鹿児島のモノを比べてみると、肩の経ヘギの折り、不足する首を編むため経ヘギを割いて本数を増やすこと、編み方が途切れるたびに捩り編みで編み固めることなど、製作技術の細部にわたる緊密な一致が認められるのだ。これは、それぞれの地域で独立的に発生したモノであるとは考えられない。むしろ、「日本」という境界を越えて、「鹿児島」という地域が、東・南中国海を取り囲むアジアに繋がっているということを物語っているという方が妥当であろう。
 この強烈な体験に味をしめ、一九九八年に「海上の道―鹿児島の文化の源流を探る―」、二〇〇一年「太鼓は語る―鹿児島とアジアの響き合い―」、そして本年には「樹と竹―列島の文化・北から南から―」という展示会を開いてきた。
 こうした展示会を企画していくなかで、民博の収蔵庫のモノと鹿児島のモノとの出合いは、際限もなく続いている。トングェ(唐鍬(とうぐわ))とよばれる奄美諸島の畑打ち鍬、竹の背負い籠、脱穀台とそれに打ち付けるために稲束を巻き締める棒、穀物の脱穀調整に用いる片口、円形の箕、竹製の担ぎ棒、網代編み円筒形の竹製蒸し籠、竹製水筒、台付きの弩(ど)、楔締(くさびじ)め太鼓等々である。そのほとんどが、見わけがつかないほどの精密な類似性を示すのである。
 こうした比較の作業によって、これらのモノたちは、南から日本列島に文化が流入するときの道筋をきわめて端的に物語るにもかかわらず、南九州で吹き溜まる様相を見せることが明らかになってきた。さらに、その分布が、連続的ではなく飛び石的である、という大きな特徴も示しているのである。このことは、柳田国男が「海上の道」で説いた島伝いの伝播や、小野重朗が示した南九州および南西諸島の域内に於ける一元的な系譜論にも当てはまらない。むしろ、藤本強がいう「南のボカシの地域」の文化の具体的な検証に繋がっていくと思われる。
 こうして見ると、民博収蔵庫にあるモノの存在は、ひとつではない、多様な「いくつもの日本」を解き明かす、極めて重要な位置を占めていると言ってもよいのである。

地球ミュージアム紀行 エクスプロラトリウム/アメリカ
エクスプロラトリウム―科学博物館のメッカ
 一九〇六年のサンフランシスコ大震災からの復興、および一九一四年のパナマ運河開通を記念して一九一五年に開催されたサンフランシスコ万博(パナマ・太平洋万博)の跡地は、市民に親しまれる海辺の公園、そこをとおり抜けると、教師に引率された小中高校生や子ども連れの家族で常ににぎわう入り口に達する。昨年の入館者数は五三万人を超える。万博当時の美術宮が修復される際に、フランク・オッペンハイマーの提案を受けて一九六九年に開館したのがエクスプロラトリウム、民博と同様、万博跡地と博物館の結びつきがここでも見られる。
 物理学者だったフランク・オッペンハイマーは、一九四五年に「原爆の父」として知られる兄ロバートが指揮する「マンハッタン計画」に参加し、その後も物理学の研究を大学で続けていた。しかし、その後の水爆開発に反対したことや共産党員だったことから、悪名高いマッカーシー旋風によって一九四九年に物理学界からレッド・パージ(追放)され、その後一〇年間はコロラド州で牧場経営を余儀なくされた。しかし、彼の好奇心は決して失せることはなかった。牧場経営でも数々の発明を生み、その結果一九五七年には地元の小さな高校の理科教師に招かれた。そこでは、生徒たちとともに、ゴミ捨て場から集めたさまざまなガラクタを組み合わせて、機械、熱、電気などの原理を理解する教材群を作り出していった。一九五九年にはコロラド大学に招かれて物理学研究に復帰するとともに、実験室教育の改革を進め、学生が自らのペースで物理現象を理解できるように教材を組み合わせる「実験ライブラリー」を考案した。これに基づく彼の提案が採用されてエクスプロラトリウムが開館、一九八五年に亡くなるまで彼が館長を務めた。
 開館以来、この博物館は参加体験型博物館として世界中の科学博物館や子ども博物館に大きな影響を与えてきた。これまでに六五〇を超える展示コーナーが考案され、常時約四〇〇が展示されている。アウトリーチや学校教師たちとの共同開発も盛んであり、開発された展示の一部は世界中の科学博物館や子ども博物館にも導入されている。
 展示場は、エクスプロー(探求する)とアトリウム(大講義室)の合成語である博物館名にぴったりの柱のない大空間、各展示は、抽象的な原理をできるだけ動きと視覚に還元する工夫が素晴らしい。例えば、目に見えない音波を水の動きで可視化する工夫、遺伝子を構成する四種類の塩基からタンパク質が合成される仕組みを、ジグゾーパズル片を組み合わせるベルトコンベアーで理解する工夫などが面白い。聴覚や視覚など感覚器官の錯覚をテーマとする展示の多いのは、何事も相対化する姿勢を養う狙いがあるのだろう。また、実験スタジオを定期的に開き、担当者が応対する。その準備実験室や新しい展示を作る工作室などがガラス越しに入館者にも見える「バックヤード展示」など、世界各地で見られるハンズオン展示のルーツがここにある。
 各展示には、発案・製作者の名前入りで意図と狙いが解説してある。しかし、理に落ちるきらいがあり、大人と一緒でないと子どもには理解しにくいと思う。親子連れの場合には、親にも自然科学の素養が求められるようだ。わたしにも、抽象的な知識が可視化されて腑に落ちる展示が多く、子どもよりむしろ大人の方が楽しめるのではないか。実際、グループで楽しむ大人が多く、公式サイトの入館者統計を見ても、大人の方が子どもを上回る。展示の意図が入館者に伝わっているかどうかの展示評価を大学と共同でおこなうなど、常に企画と実施、評価が循環的におこなわれており、その点でも世界の博物館を主導してきている。
 参加体験型博物館として、またアメリカ現代史の影の部分を振り返り科学教育を垣間見ることのできる場として一見の価値ある博物館、機会があれば訪れては如何だろう。

表紙モノ語り
展示マンガ
「朝鮮半島の文化」展示
 民博の「朝鮮半島の文化」展示の「現代文化」コーナーには、韓国のマンガ文化を展示している。その収集・展示は岡田浩樹さん(現・神戸大学教授)に担当してもらったが、多様化する韓国の大衆文化の状況を示す材料として、次の三つの視点でマンガを収集・展示をしたという。一、日本の影響を受けつつ、韓国的な世界を展開しようとする韓国のアニメの状況、二、「日本」のものだが韓国のアニメと見なされる、あるいはボーダーレスなポップカルチャーとして受け入れている状況、三、日韓のズレをしめすケース、である。
 以下、日本アニメの韓国社会への普及を示す四点をあげてみる。
 『クレヨンしんちゃん』は、『チャングはとめられない』というタイトルで、韓国でも大人気。日本製という理由より、子どもに悪い影響をおよぼすというので教育委員会から批判もある。
 全二七巻(文庫では全一四巻)の単行本としても刊行された『将太の寿司』のタイトルは、『ミスター寿司王』。韓国における日本料理(寿司)の普及とコミックとが結びついたもので、「寿司王」は日本料理のマスターを示すことばとしてテレビなどでも使われるようになっている。
 『三国志』を題材にとった『蒼天航路(そうてんこうろ)』は、一九九四年一〇月から二〇〇五年一一月まで『週刊モーニング』(講談社)で連載されていた歴史マンガ。
 『週刊モーニング』に一九八三年から一九九二年まで掲載された弘兼憲史のマンガ『課長島耕作』は、『島課長』で。青年向けのマンガで、性的描写の部分も多く、韓国ではその部分を白くぼかしたかたちで販売している。オビには、「成人用」と書かれている。

万国津々浦々
ロンドンで生き抜くトルコ人移民
宮澤 栄司(みやざわ えいじ) 上智大学アジア文化研究所客員研究員
ロンドンへ亡命
 ロンドン北部に位置するハックニー区は、ジャマイカ人やパキスタン人など移民が多く、英国でもっとも貧しい地区として知られている。地下鉄駅がなく不便だが、家賃の安さが魅力で、わたしはここに四年間住んだ。冬のある日、その街角に赤い車が停まった。降りてきた若者はアリだった。アリとわたしは以前トルコで自動車の教習所に通った仲である。五年ぶりの突然の再会を喜び合った。それからは、家の近くに彼が経営するバクラワ(トルコの甘いパイ菓子)屋に通うようになった。
 アリはトルコ出身のクルド人で、アレヴィーである。アレヴィーというのは、トルコの少数派ムスリムのことだ。モスクで礼拝しない、ラマダン月に断食しないなどの理由から、多数派であるスンニ派ムスリムから長く迫害されてきた。身を守るために自分の信仰を隠すタキーヤとよばれる態度が身に付いたといわれている。
 中央アナトリアにあるアリの故郷では、英国への移住が相次ぎ、村々が閑散としてしまったという。渡航の理由は、政治的弾圧や貧困、職探しなどである。アリも渡英して難民となった。偽装パスポートを入手し、中東やヨーロッパを九ヵ月も旅した後、ようやく英国に到着した。そのパスポートはヒースロー空港に向かう旅客機のトイレのなかで始末した。二五歳のときだった。
 ロンドンでは、五年先に亡命していた兄と懸命に働いた。友人や親戚には移民協会の活動や政治にかかわる者も多い。だが、アリは商売に専念することにした。英語を学ぶ時間もなかったほどだ。その努力の結晶として、ロンドン北部に家と店を買った。そして、キプロス島で働いていた、もう一人の兄も呼び寄せることができた。

断食にパイを売る
 アリ兄弟にとって、こうした成功はトルコから来た移民のコミュニティーあってのものだ。ハックニーだけでも三万人のトルコ出身者が住んでいる。アレヴィーやクルド人を目の敵にする右寄りトルコ人の店舗が並ぶバス通りに、二人の店もある。店でバクラワを作っているのは、スンニ派トルコ人の職人だ。アリや兄も菓子を焼くけれども、彼のバクラワには適わない。アリはもっぱら配達係だ。ロンドンの外にも毎週二度は出かけている。店の奥にあるオーブンの前では、いつもトルコ国内の政治が話題となるが、誰もが歩み寄りを心がけて話している。トルコからの移住者は、みな大切なお客様なのだ。民族や宗派を気にしてはいられない。
 店の近くにはスンニ派トルコ人が運営する大きなモスクも建っている。ここのイマーム(礼拝の導師)は、以前アレヴィーの葬儀の執りおこないを断ったことで、アレヴィーのあいだでは嫌われている。アリはモスクに行かず、断食もしないが、毎年ラマダン月には、このモスクの前に立ってバクラワを売る。これをアレヴィーのタキーヤといおうか?断食が明ける日没後の食事には、甘いデザートが欠かせない。ラマダン月は、アリにとって一番の書き入れどきなのだ。ここには、競争の激しい移民社会をしぶとく生き抜く術がある。

時論・新論・理想論
小学生、みんぱくを航海する
展示場という大海原
 広島県の私立なぎさ公園小学校の五年生六七人と先生が六月の二日間にわたり民博を訪れてくれた。担当の林原慎先生が、昨年夏に民博で開催された博学連携教員研修ワークショップに参加し、民博を学校教育のなかで活用するヒントをえたことが縁だった。わたしたちは、ワークショップ参加者からの初めての連携の打診であったことに加え、二日間を丸ごと民博での活動に当てるために広島から来てくれることに大いに驚き、喜んだ。
 林原先生との打ち合わせの結果、展示場という大海原を航海するための「みんぱくナビ」作りを活動の中心に、学校と民博とボランティアグループ「みんぱくミュージアムパートナーズ(MMP)」による共同試行プログラムができあがった。ここでは、六七人のみんぱく航海者が誕生するまでをご紹介しよう。

漂流からナビ作り
 来館初日。午後一時に到着した子どもたちが民博やMMPとのあいさつを終えると、早速、民博の情報企画係の岸本菜穂美さんから、オセアニア文化と太平洋の人びとが培ってきた航海術の紹介が始まった。岸本さんは、子どもたちに民博の研究成果をわかりやすく伝える術を心得たエデュケーター的存在だ。航海術の話は、続く展示場漂流につながる。子どもたちは大海原に見立てた展示場を漂流しながら、位置を知る手掛かりや気に入った展示物を見つけていった。
 漂流から戻った子どもたちのなかには、いろいろな展示場のイメージが刻まれていた。美術の松谷夏子先生が担当したナビ作りの時間は約三時間三〇分。そのあいだ、子どもたちは展示場と製作場所の往復をしながら、それぞれのイメージをかたちにしていった。ある子は、展示場の平面図の上に、色画用紙や毛糸などを駆使して目印となる展示物を作っていく。展示物のありかを世界地図でもわかるようにしたり、オセアニア地域の海図そっくりの斬新なナビを生み出す子もいる。できあがったナビは、展示場への彼らのまなざしが反映されていて、どれもとてもおもしろい。最後は、完成したナビでMMPの方々を案内する展示場航海に出発。ナビをきっかけに展示物の話題が次々と飛び出し、日ごろから展示場をよく知るMMPの方々も子どもたちの新鮮な視点に感心しきりだった。
 短くも濃密な二日間。別れのあいさつには、涙ぐむ子どもたちと岸本さんの姿があった。彼らが出合った民博は、本物の資料と向き合い、手を動かし、異なる立場や世代間で語り、経験を共有できる場であったといえる。
 なぎさ小の子どもたちのように、「はじめての民博体験は学校の遠足」という来館者は少なくない。この機会を将来にわたる民博との関係を築く最初の大切なチャンスと考えるなら、わたしたちは今以上にすべきこと、できることがあるにちがいない。今回ご紹介したプログラムを今すぐ民博のメニューに加えることは、制度面や人的面から難しいものの、六七人の航海者たちのきらきらした瞳に出会ったわたしは、そう考えずにはいられないのである。

外国人として生きる
心を引き付けて離さない町
アグネシカ・マジェッツ 総合研究大学院大学文化科学研究科 
京都のスタジオで
 「どうぞお入りください。お待ちしていました」という優しい声にしたがいなかに入ると、部屋は想像していた以上に広く、一部ガラス張りになった天井からは、日が射し込んでいた。その光が真新しい白い壁に反射して、京都の一角にあるスタジオの一室をひときわ明るく照らし出している。童顔で小柄な彼女との挨拶もそこそこに、ふと壁に目をやると、一枚の大きな写真が掛かっている。彼女はおもむろに話し始めた。「これはわたしが作った『紙の鶴』というタイトルの作品です。琵琶湖に群生しているアシのなかで、小魚などを折り紙の鶴が探している光景ですが…」。そして、ウルバンさんは、日本に来たきっかけや自分の芸術家としての仕事などについて語ってくれた。

京都への道
 ウルバン・ジャネタさんはポーランドの出身。ポーランドは音楽家のショパンが生まれた国でもある。最近テレビで女子バレーボールのチームが何回も来日し、スポーツの国としても知られるようになったが、ウルバンさんは、じつは音楽にもスポーツにも幼いころから、興味はあまりなかったという。しかし、子どものころから、何かを創作したい、という強い願望はあった。芸術家になりたかったのである。そのため、芸術の都といわれるパリの芸術大学で勉強することが夢であった。
 中学校のとき、本格的に絵画と彫刻のレッスンを開始した。高校に入ってから、参加した芸術活動の合宿である日、先生に、ウルバンさんの心のなかに日本的センスがある、と言われた。そのときは、特に気にとめなかったが、その後もいろいろな先生から、同じような意見を聞くようになった。それとともに、次第にウルバンさんは、日本芸術とはどんなものか、自分の作品はどこが日本の作品に似ているのか、と考えるようになった。これが、日本芸術に興味をもつようになった理由であったと思っている。
 それを契機に日本に関するアルバムを見たり、本を読んだりするようになった。しかし、フランスの大学の入学試験をひかえていたので、フランス語と入学試験のための準備に専心した。その甲斐もあり、希望の大学に合格した彼女は、念願のパリですばらしい彫刻、絵画、ファッションデザインなどに触れまなぶことができた。暇なときには、モンマルトルの広場によく出かけた。そこには彼女のように、あらたな環境のなかで、さまざまなことに挑もうとする留学生が世界中から集まっていた。そのなかで会ったのが、一人の日本人女学生であった。彼女とは心の通ずる友達になった。異文化の差異を全然感じることはなかったという。
 その友達は、大学入試のため退いていた日本文化への興味を突然引き戻してくれた。ウルバンさんは、彼女をとおし日本の文化をどんどん吸収していった。それが刺激となって実際に日本に行きたいという気持ちはとめどなくわいてきた。そんなウルバンさんに、ある日突然、日本に行くチャンスが訪れた。日本人の友人が結婚することになり、彼女に同行して日本に行くことになったのである。滞在は二週間。とても印象的な滞在だった。京都に初めて来たのに、故郷に戻ってきたような印象を受けた。忘れられないのが、建仁寺の線香の香りで、なんともいえず懐かしく感じた。京都にずっといたいという気持ちをいだきながら、後ろ髪をひかれる思いで、パリの大学に戻った。
 大学を卒業したウルバンさんは、ファッションブランドであるニナ・リッチに勤め、精力的に仕事をこなした。ファッションショー、ファッションデザインなどで、忙しい毎日を過ごしながらも、京都に行きたいという気持ちは消えるどころか、増すばかりであった。そして迷った挙げ句、ヨーロッパでの生活をやめて、日本の芸術の都に行くことを決心した。「日本行きの飛行機に乗ったとき、大変な不安は禁じえませんでした。しかし、それ以上に、鳥かごから解放された鳥の気分でした」とウルバンさんは当時の自分の気持ちをのべる。

外国人芸術家の夢
 ウルバンさん自身は、芸術には人間の価値観を揺さぶる力がある、と思っている。だから、芸術は社会問題や環境問題に、大きな役割を果たすことができる。ウルバンさんが作った「紙の鶴」という作品は環境問題への関心を高めようとしている作品である。自然から減少しつつある鶴の姿を折り紙で表現することで、自然を取り戻す必要性を訴える。人間が水を汚染した結果、自然破壊を招いた。再び人間が自然と共存するためには、積極的にエコロジー運動をすすめなければならない。実物大の折り紙の鶴がこの地球に幸福をもたらすことを確信したという。
 ウルバンさんのもうひとつの信念、それは芸術にはもうひとつの目的がある、ということである。それは芸術が現実から離脱して、純粋な美を追求できることである。聴衆や観衆に”なんと美しいことよ“とため息をつかせる働きをする。美との出合いは人間のこころを清める、とウルバンさんは言う。
 ウルバンさんにとって、京都は芸術作品でもある。「京都は、長い歴史をもつ町で、素晴らしい文化財や芸術品が多いです。散歩したり、仕事をするあいだも、時代と芸術のカリズマにいつも浸っています。京都に住みたい夢を捨てないで、来日できて、本当に良かったと思います」。ウルバンさんは、いろいろな芸術活動にかかわりながら、最近、伝統的な日本の衣装と模様に興味をもつようになった。芸術家として、この伝統衣装の素晴らしさを世界に伝える夢は膨らむばかりである。

地球を集める
ポトラッチで作って貰った トーテムポール
 昭和五一年九月に、トーテムポールを製作依頼し購入する目的でカナダのバンクーバーに出発した。
 わたしはアメリカ展示の担当者になったので、民族の文化を語るうえで誰もが印象に残る標本のひとつとして、巨大なトーテムポールがわが博物館にも欲しいと考えた。
 しかしできあがったトーテムポールは屋外に建てるものであり、風雨にさらされ朽ち果てていくものを購入することは不可能であった。そこであらたに作って貰うことにした。カナダの西海岸民族として代表的なハイダ族、ニスガ族、クワキュートル族の三つの民族のトーテムポールを製作して貰い、それを購入することに決めた。
 今回の製作にはカナダのバンクーバーにあるブリテッシュ・コロンビア大学でトーテムポールの製作に造詣(ぞうけい)が深い考古学研究室のお世話になることになった。
 ここで紹介を受けたトーテムポールの製作者は、カナダではアーチスト(工芸者)とよばれ、トーテムポールだけではなく彼らの氏族に伝承されている動物の文様やレッドシーダーで作られている家屋のシルクスクリーンまで手がける誇り高き芸術家でもあった。
 ハイダ族とニスガ族、クワキュートル族のアーチストたちは名前もカナダの住民のように名乗っているが、実際は民族の伝統的な名前ももっていた。普段はわたしたちと話すときは英語で話すことができる。これはカナダ政府の方針でカナダの先住民にも強制的に学校で学ばせた結果であろう。
 このことが今回のトーテムポール製作の契約に思わぬ落とし穴となったことに後から気付くことになってしまった。

手付かずのトーテムポール
 三つの民族のアーチストと製作についての契約が終わったのはバンクーバーに到着して四日後であった。製作が完了し、わたしが引きとる時期は今回の出張が終わる直前の一一月の二〇日と決めた。それから運送会社の手続きをして日本に送らなくてはならないからだった。
 その日はアーチストも上機嫌でトーテムポールが多数立っているスタンレー公園を皆で案内してくれた。
 わたしがクワキュートル族のトーテムポールを見ていたとき、アーチストのロイ・ビッカースから「トーテムポールは鑑賞するものではなく刻まれた彫刻から祖先の物語を読みとるものです」と言われて、はじめてトーテムポールが祖先の系譜を物語る古事記のような役割を担っていることがわかった。ニスガ族は氏族の歴史がポールの下から上に彫られており、ハイダ族やクワキュートル族は歴史が上から下に描かれていることも初めて知った。
 今まで読んだ民族誌には書かれていないことであった。それならばと、トーテムポールができあがるまでのあいだ、カナダの西海岸民族についてフィールドワークをすることにした。
 しかし二ヵ月後に調査を終え、ブリテッシュ・コロンビア大学を訪れると、工房には巨大なトーテムポール用の木材が皮付きのまま並べてあるだけで、契約したアーチストは誰も手を付けずに置き去りにしたままであった。これを見た瞬間、帰国までに間に合わないかも知れないという驚きでことばも出ない状態だった。 
 早速考古学研究室にいって、アーチストが何故仕事をしないのか訊ねてみると、主任教授は笑顔で答えてくれた。
「トーテムポールを製作するアーチストは確かにカナダ人ではあるが、彼らはカナダの文化のなかに生きているのではなく未だに伝統的な西海岸民族のなかに誇りをもちながら生きているのです。貴方が彼らと交わした契約は納期にしても守るつもりはないのです。こんなことは今までに何回もあったのですから、カナダの法律を盾にして交渉しても無駄に終わります」というビックリするような回答が返ってきた。
 翌年には民博で一般公開される予定で、多額な購入資金も今年の予算から支出されているので、アーチストの都合に合わせて購入することはできない事情がある。どうするか一晩考えることにした。
 そういえば一〇年も前のハイダ族の民族誌を思い出した。彼らは豊富な魚の資源に恵まれた採集狩猟民でありながら、漁業の収穫物を燻製(くんせい)にして保存する技術で富を蓄え、支配者、平民、奴隷の階級をもつ世界でも希な社会を築いていた。
 そして蓄えた食物で冠婚葬祭には氏族を招待し、大判振る舞いをしてから引き出物として銅板紋章なども参加者に配る。このポトラッチとよばれる饗宴をおこなうことが民族誌に記されていた。また、招待された者たちは、自分の家族のときには倍返しで返礼をすることとされている。もしこれが実行できないときは氏族から笑いものにされ階級も下の階級にあつかわれるという習慣になっていたのである。

ポトラッチで催促
 わたしはバンクーバーに戻って三日後に、ハイダ族、ニスガ族、クワキュートル族のアーチストたちに民博公開のためのポトラッチを有名なレストランでおこなうので招待する旨を書いた書状を送った。
 わたしの主催したポトラッチの席上のあいさつで、本日のポトラッチは残り少ない滞在なのでお返しはトーテムポールの製作で結構であるが、もし滞在中にトーテムポールができなかったら、民博の公開の折に、トーテムポールの大きな写真だけを飾り「ただいま、ロイ・ビッカースに注文しているが間に合わなかった」というような掲示を張る考えだと述べた。
 アーチストの面々はどこか緊張して顔も青ざめたようであった。
 その晩のことであった。大学の考古学研究室の教授から電話が掛かり「貴方はアーチストに対しどんな交渉をしたんですか。深夜から大学の工房でアーチスト三名が寝ずにトーテムポールを彫っているよ」と吉報が入った。
 ポトラッチという彼ら民族の伝統的な饗宴をしたことを話すと、教授はさすが人類学者だ、カナダの文化を使わず西海岸民族の文化を使って催促するとは考えもおよばなかったと絶賛してくれた。
 一週間後には素晴らしいトーテムポールが工房でできあがっていた。アーチストはポトラッチをされて、もし製作が間に合わなかったら氏族の恥さらしになると思って頑張ったと言ってくれた。
 この機会に是非素晴らしい開館を見たいから連れて行ってくれないかと言うので、冗談でポールをくりぬいてなかに入っていたら無料で大阪に行けるよと返事したら、みんな大笑いで手を叩いていた。
 このように民族資料の収集は西洋文明では簡単に割り切れない民族の伝統文化を知らないと収集ができないことが起こりがちである。

生きもの博物誌 【エピオルニス】マダガスカル
大きな卵を復元する
一個でウシ数頭分
 アラビアンナイトのシンドバード航海記には、大きな怪鳥ロックがゾウを爪で運びながら、空を飛ぶ場面が登場する。この鳥は、インド洋の島、現在のマダガスカルに生息していたエピオルニスであるという。実際にはダチョウのように空を飛ぶことはできずに、何らかの原因ですでに絶滅をしてしまったものである。ニ〇〇〇年前に絶滅したとの説もあるが、一七世紀のフランス人航海士フラクールの日記には、この鳥の存在をうかがえるような記述が残っている。後者の説が正しいとすると、それ以降に人によって絶滅させられた可能性が高い。しかしながら、現在においても、いつ、どのようにして、この鳥が消えてしまったのかは謎のままである。
 エピオルニスは、日本語では象鳥(ぞうちょう)、マダガスカルのことばではブルンベとよばれ、いずれも「大きな鳥」を意味する。現在でも、その卵の化石は砂浜などで見つけることができるが、破片の場合がほとんどである。まれに完卵といって完全なかたちで発見されることもある。その卵がニワトリのそれの約一五〇個分であるということからも、この鳥の大きさがうかがえる。また、破片を現在もおもに島の南部の海岸で容易に見つけることができることから、この鳥が南部を中心に生息していたと思われる。現在、そこには、トウモロコシ栽培とウシ飼育を生業とする、アンタンドロイの人びとが暮らしている。
 わたしは、この鳥を利用していたころの何らかの痕跡が住民生活のなかに残っていないものか、彼らの村を広くまわって捜し求めた。結果からいうと、鳥そのものの伝承なり言い伝えはまったく残っていなかった。しかし、どのような状況で完卵を発見したことがあるのかを聞くことができた。村人は、嵐の後に砂浜に出かけたときや畑を掘り起こしていたときなど、偶然に完卵に出合うことがあったという。またその際には、災いがないようにニワトリかヤギを必ずいけにえにして、その血を卵にかけてから、卵をもち帰ったというのだ。その後、この卵は仲買人に高価で売れて、一個で数頭のウシを購入することができたという。

卵も消滅!?
 現在、この地域では、数年前から、卵の破片を集めて完卵を作り販売する仕事が生まれている。ある日、わたしはブマシさんらとともに砂浜に行って、そこでの破片の集め方などを学ぶことができた。ブマシさんはまず、砂の表面をじっくりと見て、砂から顔を出した大きな破片を捜し求めていく。そして、周辺のものもいっしょに集めて、組み立てる際の参照として、おのおのの破片の裏側にペンで番号を書いておく。自宅の仕事場では、のりを使って卵殻をつなげていき、最後には別の場所で集めた破片で欠けている部分を補うことになる。
 最近、ブマシさん以外にも多くの人びとが卵殻を採取するようになっており、彼の集落の近くの海岸には完卵を作るための大きな破片がなくなったという。このため、ニ〇キロメートル近く離れた場所に採取に行っているのだ。資源の枯渇を考えると適度な量の仕事にとどめる必要があるが、彼らが生計手段として完卵を製作するのを見ていると、そんなこともいえない。エピオルニスが、どのように消えてしまったのかは謎のまま残されるが、現在の卵作りを見ていると、近い将来、この卵殻もまた消えてしまうのではないかと考えてしまった。

エピオルニス (学名:AEPYORNIS SP)
かつてマダガスカル島のみに生息したが、現在では絶滅をした鳥。骨格化石から体高は約3メートル、体重は約450キログラムであったと推定されており、ダチョウのそれよりもかなり大きい。その卵は、楕円状で長径約30センチメートル、短径約25センチメートルあり、島の南部を中心として化石のように残されている。

フィールドで考える
花嫁を「買う」
深田 淳太郎(ふかだ じゅんたろう) 一橋大学大学院社会学研究科博士課程
 パプアニューギニア、ニューブリテン島東端の町ラバウル。赤道のすぐ南に位置するこの町に、真上から太陽が照りつけてくる一〇月のある日の午後のこと。わたしは隣人の家の庭にある大きなマンゴーの木の下でビンロウをかじりながら、ヴァルククルがはじまるのを待っていた。町の近郊に暮らしているトーライ族のことばでヴァルククルとは「買う儀礼」を意味する。彼らの貝殻のお金(貝貨)の使い方について調べていたわたしは、近所でこの儀礼がおこなわれると聞いて駆けつけたのである。
 ヴァルククルのときに買うのはヴァヴィナ、すなわち女性である。何かいかがわしく聞こえるかもしれないが、そういうことではない。彼らのことばでは、結婚に際してムコ側からヨメ側の親族に結納金を支払うことを「女性を買う」と表現するのだ。
 かつては女性がまだ幼いうちに相手の男性の親が「手付け金」として貝貨を支払い、当人の意志に関係なく将来の結婚を決めてしまうこともあったという。しかし現在では、ほとんどの場合で結婚相手は当人が見つけてくるものであり、個々人の恋愛事情にまかされている。わたしが見に来たこの日のカップルも「ダンスパーティ」が出会いの場であったという。

閉じ込められている主役
 ヴァルククルは午後二時からはじまると聞かされていたが、花嫁のオジであるこの家の主人の親族たちがぽつぽつと集まりはじめたのは午後三時を過ぎてからだった。彼らは各々バナナや冷凍の羊肉、魚やコンビーフの缶詰など、ヨメ側からムコ側に贈るための食料を携えてきていた。必要なモノがそろい、必要な人が集まり、だんだんと会場の準備が整っていく。そんななかで気にかかるのは、本日の主役であるはずの花嫁の居場所だ。彼女は会場に面した小屋のなかにいる。そして小屋の扉には外側から錠がかけられている。見ようによっては小屋のなかに閉じ込められているようでもある。
 ようやくムコ側の親族集団が到着したのは、日もかなり傾いてきてからだった。二台のトラックに総勢二〇人ほどの一団を率いるのは花婿のオジ。結婚する当の花婿の姿は見当たらない。花婿は村で待っているものなのだという。
 早くしないと日も暮れる。パンダヌスの葉で編まれたマットを挟んでヨメ側とムコ側が正対して座り、さっそく「買う儀礼」がはじまった。牧師のお祈り、村長の挨拶、役所への謝礼の支払いとスムーズに手順が進められていき、ついに本日のメインイベントである貝貨の支払いがおこなわれる。
 花婿のオジはバスケットのなかから貝貨を取り出して確認するように周囲に見せ、マットの上に一束ずつ並べていく。一、二、三・・・最終的に一五束の貝貨がマットの上に並べられ、さらにその脇には貝殻がギッシリ詰まった瓶が六本置かれる。貝貨は一〇本で一束にされているので一五束で一五〇本分、また瓶一本の貝殻は貝貨五本分として換算されるので瓶六本で三〇本分。あわせて一八〇本分の貝貨が公衆の面前でヨメ側に支払われた。ムコ側からの支払いが済むと、今度は花嫁のオジが立ち上がって手短な演説をおこない、その後でバスケットから二束ほどの貝貨を取り出してムコ側の親族が座っている前に置いた。

貝貨のレシート
 貝貨の支払いが済むと、すぐに会場に面した小屋の錠が開けられる。オジに促されてなかから出てきた花嫁はハンカチを噛みしめ号泣していた。別れを惜しむ間もなく、花嫁はムコ側のトラックの荷台に載せられる。トラックは大量の食料と花嫁を一緒に積み込んで花婿の待つ山の上の村へと帰っていった。到着から帰っていくまではわずかに二〇分ほど。それまで三時間以上も待っていたのが嘘のように、あっさりと「買う儀礼」は終わった。
 簡素であっただけに、この儀礼で何がおこなわれたのかは明確である。ムコ側が貝貨を支払って、花嫁を手に入れる。まさに「買う儀礼」の名のとおりのことがおこなわれたのだ。貝貨がきちんと数えて支払われ、その対価として小屋のなかに閉じ込められていた花嫁が連れられていく場面が、わたしの目には商品の売買のように見えてしかたがなかった。
 日も暮れて家に帰る途中、ひとつだけ気にかかっていたことを一緒に歩いていた友人にたずねてみた。「最後に花嫁のオジがムコ側に貝貨を渡してたよね。あれはなんだったの?」
「あれは貝貨一八本だ。一八〇本を婚資としてもらったからな。その一〇分の一を支払ったんだよ。まあレシートみたいなもんだな。」
 そうか、あれはレシートだったのか。やっぱり花嫁は「買われた」のだ。

純白のウェディングドレス
 それから二、三ヵ月が過ぎたころ。いつものように村を歩き回っていると、あの日の花嫁が夫を連れて村に戻ってきているところに出くわした。村の教会で牧師の祝福を受けるのだという。純白のウェディングドレスを身に纏(まと)った彼女は、親族や友人に囲まれ、自分が選んだ人生の伴侶と寄り添って、あの日の号泣など無かったかのように幸せそうに笑っていた。
 わたしはその笑顔を見てなんとなく胸をなでおろしたあと、ポケットから取り出したフィールドノートに「買うってなんだ?」と大きく書き付けた。その答えはまだわからない。

編集後記
 駅のホームや電車車内にいると、ケータイメールをしている人の姿がすぐに視界に飛び込んでくる。20年くらい前だと、これがマンガ週刊誌を読んでいる青少年やサラリーマンであった。すでに活字離れが叫ばれていたそのころ、マンガは、青少年の健全な知能と道徳の育成を阻害するとして、受験生を抱える親や教師たちにずいぶん敵視された。いつのまにか、マンガが他の活字媒体よりいちだん低くあつかわれることはなくなっている。「マンガなんかばかり」読んでいた世代がすでに大人になり、日本マンガを世界市場に送り出すのにも成功している現在、マンガはとっくに市民権をえたということか。販売部数は1990年代以降落ちこんで、出版業界は不振がささやかれているが、それでもマンガはかなりの売り上げを維持している。しかし、プレステやゲームボーイにハマッたポスト・マンガ世代の若者たちがもっともっと社会に出ていくころには、活字離れをとおり過ぎて、印刷媒体離れがより進んでいるだろう。そろそろ冷静にマンガと日本人の関係を考えることができる時期が来ている。マンガは、高度経済成長期以降の日本の繁栄と足取りを同じくして爆発的な人気を誇った民衆娯楽として、日本文化史のなかで記憶されていくのではないだろうか。(樫永真佐夫)

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