国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年9月号

2008年9月号
第32巻第9号通巻第372号
2008年9月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ世界から
これからの「進歩と調和」
中島 信也
 四〇年近く前、今は国立民族学博物館の建つ広大な緑地の上に巨大な都市が出現しました。万博です。僕は地元千里ニュータウンに住む小学六年生でした。サルを見るために箕面の山頂近くまで自転車で毎日のように通っていた僕たちにとって、万博会場は目と鼻の先です。ただ、箕面のサルと違って僕たちの前には「入場料」という大きな壁が立ちはだかっていました。たしか子ども四〇〇円です。五〇円のプラモデルに歓喜し、二〇〇円が高額プラモだった時代です。四〇〇円は当時の僕たちにとっては大金でした。
 しかし柵のなかから魅惑光線を浴びせ続けるカラフルな化け物たちを前に指をくわえて見ているわけにはいきません。ほどなくタダで入るルートが地元っ子のあいだに伝播していきました。会場の警備は厳重。ところが本会場から道を挟んだエキスポランド側のある一角は少し手薄だったようです。高い柵の下に通っていた一本の溝。子どもの僕たちはこの溝にぎりぎり入ります。ちょうど体を差し込むように地元っ子たちが次々に会場内に入っていったのでした。
 そんなお祭りも夏の終わりとともに終了し、夢の建造物は次々と壊されていきました。そこに残ったのは広い広い緑地。そんな情景に対して一〇年ほど前までであれば「夢の跡」などとよびつつ、少し感傷的に昭和の高度経済成長時代を懐かしむことでこの文章を結ぶ事ができたでしょう。でもここへきてわたしたちの意識は大きく変わり始めています。わたしたちは今のペースで暮らしていくと必ず限界がやってくるという事実をつきつけられています。「成長」は「破壊」と表裏一体であることも学んでいます。環境問題に対する関心は全地球的に高まっており、新しい道を模索しなければならない、という大きな宿題が課せられている今、高度経済成長とその象徴でもあったあのお祭りを頂点とする道にもう一度帰ることはできません。夢の建造物を緑の森に変えたことが「英知」として評価されるという新しい社会が生まれようとしているのです。
 今回この原稿を依頼されて即座にあのお祭りの思い出がよみがえってきました。と同時にわたしたちは今、あのころ夢見ていた「未来」というものとはまったく異なった観点で「未来」を描こうとしているんだなあ、ということを感じました。そしてこの未来観の変化はむかしを懐かしむ感傷の産物ではなく、これからの「進歩と調和」をめざす希望に基づくものであると僕は信じています。

なかじま しんや/1959年福岡県生まれ。(株)東北新社専務取締役・CMディレクター。多数のCMの演出を手がける一方で東北新社専務取締役を務める。デジタル技術を駆使した娯楽性の高いCMで数々の賞を受賞。代表作は日清カップヌードル「hungry?」(カンヌ広告祭グランプリ)、サントリー「燃焼系アミノ式」「伊右衛門」、資生堂企業「新しい私になって」など


特集 サンゴ
今、地球温暖化による危機に瀕しているサンゴだが、古来、生活用品の素材や生活の場として利用され、人との関係は深い。とくに日本はサンゴ礁の研究を早くから推進した歴史をもつ。今年は国際サンゴ礁年でもあり、特集ではサンゴと人とのかかわりを多面的に紹介したい。

サンゴと人間
 サンゴということばから連想するのは、かんざしやブローチに加工されたものかもしれないし、南太平洋のサンゴ礁かもしれない。どちらもサンゴであるが、装身具などに使われるのは宝石サンゴ(ホンサンゴ)で、サンゴ礁を作る造礁サンゴ(イシサンゴなど)とは、育ち方も育つ水深も大きく異なる。
 宝石サンゴは、地中海や日本近海など世界でも非常に限られた地域の深海(一〇〇~一二〇〇メートル)にしか分布せず、その鮮やかな色や稀少性がむかしから珍重されてきた。これに対して、特集であつかう造礁サンゴは比較的浅くかつ暖かい海で育つ。ひとつのサンゴ礁には数千種もの生き物が生息し、地球上でもっとも生物の多様性が豊かな場所になっている。
 小さなイソギンチャクのような動物が集まって構成されているサンゴは、共生する藻を通して海中の二酸化炭素や窒素から石灰質分の骨格を作ってゆく。そのため、サンゴ礁は炭酸ガスの貯蔵庫ともよばれており、低炭素社会の実現という地球的課題に直結している。 
 人間とサンゴのかかわりは長い。宝石サンゴのもっとも古い利用は数万年前にさかのぼり、紀元前三〇〇〇年にはすでに宝石サンゴの採取を職業とする人が地中海にいたという。オセアニアのサンゴ島は地味(ちみ)が貧しく陸上資源も少ないにもかかわらず、数千年にわたって人間が住み続けてきた島もある。サンゴ礁のもつ豊かな海洋資源の魅力ゆえであろう。
 サンゴに囲まれた砂浜には大量のサンゴのかけらが落ちており、サンゴ島の大地はサンゴ石灰岩そのものである。そのような自然環境において人間はサンゴを資源として認識し、さまざまに活用してきた。小さなものは使い捨てのやすり(カヌーや貝製品の表面の仕上げ用)から、大きなものは巨石建造物までじつに多様である。最近ではサンゴを利用して新しい医薬品の研究も進んでいる。サンゴと人間の長いつきあいはこれからも続いてゆくだろう。


サンゴ礁の今
山野 博哉(やまの ひろや)国立環境研究所主任研究員
 ReefBase(リーフベース)という世界規模のサンゴ礁データベースをご存じだろうか? ここには、世界のサンゴ礁の分布をはじめ、サンゴの白化の状況、危機にあるサンゴ礁の情報など、さまざまなデータが掲載されており、サンゴ礁が陸からの土砂の流入と地球温暖化の両方によって危機にさらされていることがわかる。
 こうした状況を受けて、サンゴ礁を保全する活動が盛んにおこなわれるようになった。今年は「国際サンゴ礁年」で、全世界でサンゴ礁の保全とその持続的な利用を広く一般に広報・啓発する取り組みが始まっている。日本では「知ろう、行こう、守ろう」をキャッチフレーズに活動がおこなわれている。
 日本のサンゴ礁は今どうなっているのだろうか? ReefBaseによって世界のサンゴ礁の概況がわかるが、各国の詳細なデータはまだ不足している。日本では、一九九〇~一九九二年の調査を元に環境庁(現環境省)が発行した分布図が全国規模でサンゴの状況を知る最新のものだ。すでに一六年以上が経過し、その間、白化やオニヒトデの大発生などで日本のサンゴ礁は大きな被害を受けた。一方、地球温暖化による水温上昇で、サンゴの分布域が北に広がっているとの指摘もある。しかし、これらの情報は断片的で、全国規模でサンゴ礁がどうなっているかはまだわかっていない。
 「日本全国みんなでつくるサンゴマップ」は、市民の手によって全国のサンゴ分布図を作成する国際サンゴ礁年活動である。日本のサンゴ分布の最新の状況を明らかにし、一六年前の分布図と比較することによって、サンゴ礁がどんな変化をとげたかがわかると期待されている。こうしてえられたデータは、サンゴの保全活動をおこなううえでの基礎データになるとともに、変化の情報を周辺の環境と対応させることで、その原因を推定することもできる。さらに、こうした活動が社会に根付けば、継続的なサンゴ礁のモニタリングが広域で可能となるだろう。
 国際サンゴ礁年は一年間のみだが、この活動をきっかけに、サンゴ礁に関するデータが蓄積され、サンゴ礁に関心をもつ方が増えることを願っている。


サンゴの白化と地球温暖化
茅根 創(かやね はじめ) 東京大学大学院教授
 南の島々のサンゴ礁を作るサンゴは、個体がいくつにも分裂して群体を作り、その下に石灰質の骨格を形成する。石灰質骨格は、積み重なってサンゴ礁という巨大な地形を作る。また、体内に共生させている共生藻(褐虫藻(かっちゅうそう))は、活発な光合成によって有機物を生産し、そのほとんどをサンゴに渡している。海洋の生態系でもっとも多様性の高いサンゴ礁の生物群集は、サンゴ礁という住み場所と、共生藻がおこなう光合成によって維持されている。
 サンゴの色は、黄緑色や緑色だが、こうした色は体内の共生藻によるものである。しかしサンゴは、さまざまなストレスを受けると体内の共生藻を放出してしまう。共生藻を失ったサンゴは石灰質骨格の白い色が透けて、真っ白に見える。白化したサンゴはまだ生きているが、共生藻からの生産物を受け取ることができなくなって、やがて死んでしまう。サンゴが死ぬと、サンゴ礁生態系もその基盤を失って崩壊する。
 一九九七年から一九九八年の夏にかけて、高水温による白化が、それまで観察されたことがないような規模で、世界中のサンゴ礁で起こった。三〇度以上の水温が一週間ほど続くと、サンゴは白化してしまう。高水温による白化は、一九八〇年代以降しばしば観察されるようになり、最近になってその頻度がさらに増えている。わたしたちはこれを、地球温暖化によって水温が底上げされたためであると考えている。サンゴ礁の白化は、地球温暖化が生態系規模で影響を顕在化させた初めての例とされる。このまま温暖化が進めば、今世紀の半ばには毎年のようにこうした大規模な白化が起こると考える研究者もいる。
 一方で白化は、温暖化に対するサンゴの適応であるという仮説が提起された。遺伝子解析によって共生藻は、高水温に強いもの、光の弱いところに適したものなど、異なる特性をもついくつかの種類にわけられることがわかってきた。いったん白化したサンゴが、共生藻を再度取り込む際に、高水温に強い共生藻を取り込んでいる例が報告されたのである。白化は、新しい環境に適応して共生藻を入れ替える過程だというのだ。しかし、こうした適応が一〇〇年で二~三度という急激な温暖化にも追いついていけるかどうかについては、懐疑的な意見もある。サンゴが適応できるレベルに、温暖化を抑制することができなければ、わたしたちはこの美しく多様なサンゴ礁を、子どもたちに残すことはできないだろう。


サンゴの上に住む
山口 徹(やまぐち とおる) 慶応義塾大学准教授
 オセアニアの大海原には、サンゴ礁の上に砂がたまっただけの陸地がある。そんな海抜数メートルの低い小島が首飾りのようにまるく連なったものを環礁とよぶ。そのひとつ、ポリネシアの真ん中に浮かぶ人の住まないパーマストン環礁(クック諸島)に、ウィリアム・マースターズという英国人が一八六三年に流れ着いた。近隣の島から三人の妻を娶(めと)ったマースターズは一七人の子どもをもうけ、五四人の孫に恵まれた。彼らの食生活は、豊富な魚介類に加えて、他の島からもってきたタロイモ、船が運んでくる小麦粉やお茶によって支えられていたが、それでも環礁の生活は楽ではなく、多くの若者たちが島を離れていった。ハリケーンは特に恐ろしい。一九二六年の嵐では大波が島を洗い流し、家屋はすべて壊れ、ココヤシは根こそぎなぎ倒された。
 環礁の人びとを苦しめたのは嵐だけではない。陸地はせまく、砂地で育つ植物はそれほど多くない。雨はすぐに地面にしみ込むから、地下水だけが動植物の生命をなんとか支えている。ところが、なんと二〇〇〇年も前から人間が住み始めた環礁が見つかった。東ミクロネシアのマジュロ環礁(マーシャル諸島)だ。そのころの陸地は海面の上に顔を出してから一〇〇年ほどしか経っておらず、面積は現在の三分の一ほどだった。人びとが住みついたころ、島の環境はどれだけ整っていたのだろうか。海鳥や海流によって運ばれた種子が根を張り、その潅木(かんぼく)のあい間にココヤシが育ち始めていたようだが、いずれにしてもパーマストン環礁よりずっと暮らしにくい環境だった。
 現在のマジュロでは、深さ二メートルほどの掘り込みがあちこちに口を開けている。地下水を利用した湿地でタロイモを栽培しているのだ。これまでの発掘調査から、遅くとも一八〇〇年前には穴掘りが始まり、それから一〇〇〇年ほどかけて穴の数が増えてきたことがわかった。マジュロ環礁の人びとは、サンゴ礁という厳しい環境に翻弄されるままだったのではなく、自分たちの力で暮らしやすい島を築いてきたのだった。ところで遺跡から出土する木炭を調べたら、時期が新しくなるにしたがって植物の種類が増え、パンノキやタケといった生活に役立つ樹種が加わってきたことがわかった。優れた航海術とカヌーによって他の島々に出かけた人びとがもち帰ったにちがいない。
 サンゴ礁は風と波と太陽が作り出す地形だけれど、人びとの積極的な働きかけと外の世界への飽くなき関心が自然の力と相まって初めて、今見る環礁の景色が生み出されてきたのである。


サンゴを使う
 海の暮らしが特徴的なオセアニア地域では、サンゴはじつに多様に使われている。造礁サンゴは埋立てや盛土、家屋の基礎、かつては大型建造物の柱にも利用された。浜に打ち上げられた枝サンゴは少し砕いて床として敷かれたり、庭にまかれたりもする。パンノキの実などをつぶす杵や、加工用のヤスリなどもサンゴで作る。ヤップ島の石貨はサンゴの成分が結晶化したアラゴナイト(霰石(あられいし))製であるし、模造品の多くもサンゴ製である。白色の絵具としても重宝されている。
 サンゴの意外な利用法といえば、石灰を嗜好品として口にするベテル・チューイングとよばれる慣習だろう。これは東南アジアを中心にオセアニア西部からアフリカ東海岸におよぶ、一般に熱帯地域でむかしから広く親しまれている。ビンロウジ(檳榔子)に石灰をふりかけ、キンマとよばれるコショウ科の常緑蔓性植物の葉で包んで噛むことを基本としている。愛好家は老若男女を問わず、いつでも口いっぱいにしてクチャクチャと噛んでいる。チューインガムと同じである。
 石灰を購入できない人は自分で作る。たとえば枝サンゴを利用する場合、海からサンゴを採集してしばらく天日にさらし、臭みを消す。そしてたき火で熱すると、サンゴはその形のままで生石灰となる。その状態で一晩か一昼夜もおけば、空気中の水分を吸収して消石灰となり、そのとき、微粉化する。前日まで枝サンゴだったものが、一晩たって見ると真っ白な石灰の粉末になっている光景は不思議である。
 できた消石灰は強いアルカリ性で、これをベテル・チューイングに用いる。ビンロウジの渋味、キンマのチリチリした辛みに、石灰の焼けるような刺激があいまって独特な清涼感を醸し出し、赤色に変わった唾液が出てきて、唇のまわりまでも赤く染まる。
 消石灰は空気中の炭酸ガスを吸収して中性化し、いわば気が抜けるので、保存には気を遣う。密封用にかつては竹筒などに入れたが、今はカンやビニール袋が利用される。嗜好品だけに凝った造りの石灰容器も多い。


サンゴを調べる
三田 牧(みた まき) 本館機関研究員
 美しいサンゴ礁に囲まれたパラオで、日本人研究者たちによって世界的な研究がなされていたことがある。熱帯生物研究所(一九三四~一九四三年)におけるサンゴをはじめとする海洋生物の研究がそれだ。
 熱帯生物研究所はパラオが日本の統治下にあった一九三四年、畑井新喜司(しんきし)東北大学教授の働きかけによりパラオのコロール島に設立された。この研究所には常時三名ほどの若い研究員が交代で派遣され、畑井所長の自由な学究方針のもと存分に研究に打ち込んだ。熱帯生物研究所でなされた調査・研究をもとに発表された論文は、単行本を合わせると二八〇におよぶという。 例えば川口四郎研究員は、造礁サンゴが体内に住まわせている褐虫藻(かっちゅうそう)(zooxanthella)の分離培養に世界で初めて成功し、それが渦鞭毛藻(うずべんもうそう)の一種で、プランクトン生活もすることを発見した。この発見は、サンゴが褐虫藻の光合成からも栄養をえていることを示しており、「サンゴは動物を食べることによってのみ栄養を摂取している」という当時の見解を根底から覆すものだった。また研究所が面した湾内三七定点での定期観測データは、世界でもっとも長期にわたるサンゴ礁の変動を伝える貴重なものであるという。
 戦後パラオはアメリカの統治下におかれ、一九九四年に独立を果たした。おりしもサンゴ礁保全への気運が国際的に高まっており、二〇〇一年に日本のODAによってパラオ国際サンゴ礁センターがコロール島に設立された。このセンターの目的は、海洋調査・訓練・教育をとおした海洋環境の管理・利用・保全の促進と、水族館をとおした社会啓蒙にある。設立以来サンゴ礁のモニタリングや研究がなされ、例えば赤土流出のサンゴにおよぼす影響などが解明されてきている。
 コロール島には今も熱帯生物研究所の門柱が残る。当時の研究者は粗末な設備にもかかわらず画期的な研究をおこなった。この精神がサンゴ礁センターにも継承されることを期待したい。


モノ・グラフ
モノに刻まれた出会いの記憶
 「アジアとヨーロッパの肖像」と題した今回の特別展は、アジアとヨーロッパの人びとが、自らをどのようにとらえ、お互いをどのように受けいれてきたのか。その認識のうつりかわりを、広い意味での「肖像」、つまり肖像画や彫刻、生活用具、写真、映像など、人体表現をともなうさまざまな造形のなかにたどろうとするものである。
 「肖像」を取り上げたのは、ほかでもない。それが、わたしたちの人(ひと)に対する認識を、もっとも直接的にあらわすものだからである。巨匠と言われた作家たちの作品のなかに、南蛮屏風やオランダ東インド会社の記録のなかに、マイセンや古伊万里の磁器のなかに、あるいは現代美術の作家たちの挑戦のなかに、アジアとヨーロッパにまたがる、人と人の出会いの記憶と、人が人に投げかけるまなざしのあとが浮かびあがる。「ひと」を描くことは、じつは「自分」を語ることでもあったようだ。
 この展示は、アジア・ヨーロッパ・ミュージアム・ネットワーク(ASEMUS)に参加するアジアとヨーロッパ一八ヵ国の博物館・美術館が共同で練り上げてきた国際共同巡回展である。とくに日本展に関しては、福岡の福岡アジア美術館では一会場での開催となるが、大阪では民博と国立国際美術館、首都圏の神奈川では神奈川県立歴史博物館(横浜)と神奈川県立近代美術館(葉山)という博物館と美術館の二会場で、同時期に同じタイトルのもとで開催することとしている。展示は、その後、さらにアジアとヨーロッパの五ヵ国を巡回する予定である。博物館と美術館、アジアとヨーロッパの垣根を超えた共同によって、これまでとちがった世界が見えてくるにちがいない。
 今回の展示は、五つの「章」から構成される。まず、第一章「それぞれの肖像」で、アジアとヨーロッパの接触以前からのそれぞれの伝統に基づいて、自らの文化に属する人物を描いた「肖像」に目を向け、いわば「自己像」の描き方を確認した後、緩やかな時間軸に沿って、アジアとヨーロッパのあいだでのまなざしのやり取りの軌跡をたどっていく。両者の直接の接触以前、お互いのあいだには、想像的要素の強い他者像が流布していた(第二章「接触以前―想像された他者」)。そうした想像的要素は、接触後も根強く生き続けていく。もちろん、アジアとヨーロッパの直接の出会いは、必ずしも常に対等のものであったわけではない。そうした出会いのあり方の諸相が、遺されたさまざまな造形に刻み込まれている(第三章「接触以降―自己の手法で描く」)。
 「近代の眼―他者の手法を取り入れる」と題した第四章では、アジアとヨーロッパのあいだで、同時並行的に進行していった「近代」のありようが浮かびあがってくる。そして、現代。地球規模で、モノ、人、情報が行きかうこんにち、地域や文化を超えた接触は常態化し、人びとの特定の地域や文化、集団への帰属意識、すなわちアイデンティティは、あるときは大きく揺らぎ、あるときは逆に強化されている。展示の最終章に当たるこの部屋では、そのような現代における人びとのアイデンティティのありかたを問いかける作品を集めることにした。そこには、先鋭的な現代美術の作家たちの、さまざまな挑戦が展開する。それらの作品は、今回の展示全体とともに、「はたしてわたしたちは、他者(ひと)と自己(わたし)を、本当により深く理解できるようになったのか?」という問いを、改めてわたしたちに投げかけている。
 (特別展「アジアとヨーロッパの肖像」の会期は、二〇〇八年九月一一日から一一月二五日。民博特別展示館にて開催)


地球ミュージアム紀行  -ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス-
特別展関連
ミュージアムをめぐる日本とイギリスのつながり
 この秋の特別展「アジアとヨーロッパの肖像」展では、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(以下V&A)から計一四点を借用する。そこにはアジア、ヨーロッパそれぞれの貴重な陶磁器や清朝時代の祖先像などが含まれている。
 V&Aは、ロンドンの西郊、サウス・ケンジントン駅から歩いておよそ一〇分のところに、大英博物館から枝わかれした自然史博物館と踵を接して建っている。皇太子夫妻の居城があるケンジントン・パークからもほど近い。
 一八五一年のロンドン万博の展示品を基に、翌一八五二年に産業博物館としてオープンした同館は、その後、一八五七年に現在の場所に移ってサウス・ケンジントン博物館と名を改め、さらに一八九九年に今の名称になった。ちなみにヴィクトリア&アルバートというのは、当時の女王とその夫君の名前に由来する。世界じゅうから集められた膨大なコレクションは、もっぱらアートとデザインに対象領域を絞っており、絵画、彫刻から陶磁器、写真、家具、ファッション、ガラス細工、宝石、金属細工、織物に至るまで多岐にわたっている。余談だが、近年ではレストラン、カフェ、ショップも充実していて見逃せない。
 日本で最初の博物館は、ご存じのように東京上野の東京国立博物館だが、その淵源は一八七二年に湯島聖堂大成殿で開かれた博覧会だとされ、これが一八七七年上野の寛永寺本坊跡地でおこなわれた第一回内国勧業博覧会などを経て、やがて帝国博物館の誕生(一八八九年)へとつながっていく。ところが、この日本で初の博物館の直接のモデルとなったのがじつはV&Aだったという話はあまり知られていない。鍵を握るのは、日本の博物館草創期の功労者で、東京国立博物館の事実上の初代館長と認定されている町田久成である。
 町田は、薩摩藩の留学生の一人として幕末の一八六五年から一八六七年にかけてロンドンに学んだ。このとき、彼の心をとらえたのがパリ万博とそのころヨーロッパでもっとも新しかったサウス・ケンジントン博物館であった。関秀夫の『博物館の誕生』によれば、実際に町田が見た同館は、博覧会の仮設施設をそのまま常設に変えたものだったというが、帰国後、明治新政府の文教政策に携わることになった町田は博物館の実現に奔走する。
 会場で、V&Aから出品されている作品の前に立ち、ミュージアムをめぐる日本とイギリスのつながりに思いをはせてみるのも、「アジアとヨーロッパの肖像」展の楽しみ方のひとつかもしれない。


表紙モノ語り
ポイ・パウンダー
竪杵(標本番号K867、高さ/18cm 幅/12cm)
 この均整のとれた美しい曲線をもつ道具は、サンゴ製の手杵である。中央の細くなった部分を手で握り、たたきつぶす食材にむけてふりおろす。上端が刀のつばのようになっているので、もちあげるときに手からすっぽ抜けない。
 この種の手杵はポイ・パウンダーとよばれ、ポリネシアからミクロネシア中・東部で広く使われていた。ポリネシアのパウンダーのほとんどは玄武岩などの石で作られたのに対し、ミクロネシアのパウンダーのほとんどはサンゴ石灰岩製である。この写真のパウンダーは、一九一五年に東京帝国大学人類学教室がミクロネシアの人類学調査に派遣した松村瞭と柴田常恵によって、チュークで収集されたものである。上面の装飾突起は一個であるが、他に、二~七個ついているものも収集されている。
 ポイ・パウンダーは、ゆでたタロイモなどをつぶすこともあるが、もっとも特徴のある使い方は、発酵パン果をつき混ぜるときに使う。発酵パン果とは、パンノキの実を地面に掘った貯蔵用の穴に埋めて発酵させたもので、数年にわたって食用可能な保存食である。
 大きな木皿を地面に置き、上にのせた発酵パン果をポイ・パウンダーでつき混ぜるのは男の仕事である。発酵したパン果はかなり強烈な腐敗臭をはなつので、水にさらしたりココナツクリーム、バナナなどと混ぜ合わせる。肩の上までパウンダーをもちあげて勢いよく振り下ろしてついているうちに餅のようになる。これをバナナの葉などに包んで石蒸し焼きにしたものは日持ちがするため、航海に出かけるカヌーにも積み込まれる。
 発酵パン果が作られなくなった現在、ポイ・パウンダーはそのかたちの美しさゆえに土産物として作られ続けている。


追悼
竹村卓二(たけむら たくじ)名誉教授
2008年1月28日死去 77歳
 呼び出されて先生の研究室へ伺うと、「塚田君、ここだけの話なんだが・・・」。ここだけ、といいながら部屋のドアを開放した状態でそこら中に聞こえる大音声・・・。とにかく気宇壮大で豪快である。他方で、他者に対して細やかで行き届いた配慮をされる人だった。研究会に招いた学者に対して礼を尽くして接するのはもちろん、他人のために進んで一肌脱ぐのを好み、ときには結婚の仲立ちまでされたという。このような先生の個性は接する者を魅了し、人びとの結集の中心であり続けた。かつて民博の先生たちのなかには少々変わった人もいたようだが、先生は紛れもなく民博の名物教授の一人であった。
 かつて民博に民族学および関連分野の専攻の大学院生に対して研究指導をおこなう「受託学生制度」があった。歴史学を研究していた筆者は一九八三年、文化人類学の方法論を取り入れて新しい歴史学を構築しようと思い立ち、民博宛に鉄道荷物で布団袋を送り、北海道から駆けつけた。筆者は当時、不遜にも、院生の研究成果の発表は教員とのサシの勝負の場だと思っていたので、先生をつかまえて何度か研究報告をおこなった。そのころ、先生は公務多忙を極めており、さぞかしお疲れであっただろうが、熱心に話を聞いてくれて適切なアドバイスをしていただいた。筆者が民博を去るときには、「ささやかですまんが」と言いながら新任の久保正敏助手の歓迎会を兼ねた送別会までしていただいた。親分肌で義理堅いのである。この一九八三年の記憶は昨日のことのように心奥に留まり続けている。
 竹村先生の数多い業績のうち、日本の文化人類学の研究史上特筆されるのは一九八一年に刊行された『ヤオ族の歴史と文化――華南・東南アジア山地民族の社会人類学的研究』(弘文堂)である。中国の浙江・湖南・広東・広西・雲南、さらには東南アジア大陸部諸国の広大な地域を舞台に、長期にわたり移住・分散していった山地民ヤオ族が、いかにして漢族をはじめとする平地民との「社会的共生」を実現・維持し、民族アイデンティティを保持しえたかという問題を中心的テーマとし、実証的に論じたものである。ヤオ族の適応のメカニズムを、適応に成功した移動性のつよい「過山」型ヤオ族と、適応に成功せずに深山に逼塞(ひっそく)する命運をたどった非過山型のヤオ族との比較検討を通じて、文化や社会組織の諸側面から、文献と実地調査による研究とを併用する歴史民族学的方法を駆使して鮮明に描き出した。この先生の渾身の大作は洛陽の紙価を高めた。現在でも研究者にとって必読の文献となっており、また中国でも翻訳され国際学界で広く知られている。
 先生は研究会の組織者としても活躍された。白鳥芳郎先生・君島久子先生らとともに「中国大陸古文化研究会」の運営をされ、民博でも先生が中心となって、はじめて中国南部の漢族や少数民族を対象とした共同研究が着手された。先生の足跡を追懐するとき、鳥居龍蔵博士から始まった中国南部の諸民族の民族学的研究を大きく発展させて、今日の隆盛の礎を築いた功績がきわめて大きいことをあらためて深く認識させられるのである。
 先生から賜った深い学恩に衷心より深謝し、謹んでご冥福を祈りたい。

  追悼
江口一久(えぐち かずひさ)名誉教授
2008年6月13日死去 66歳
 六月一三日、民博名誉教授の江口一久さんが逝ってしまった。不慮の事故だったが、江口さんが好んでいつも語っていた昔話の主人公のように、ちょっと江口さんらしく、あっけない旅立ちだった。
 江口さんは開館から、数年前の定年退職まで三〇年近く勤めたあとも、しばしば館の行事に参加し、研究や資料整理でも民博を訪れた。必ず友人の研究室や院生室をまわって話し込んだ。彼ほど民博を愛し、人とのコミュニケーションを楽しんだ人はいない。
 おおらかな性格は時折彼のわけ隔てせず遠慮のないことば使いにもあらわれたが、その魅力に惹かれ人が集まった。根っからの人好きであった。
 それをいちばん感じたのは、二〇〇三年開催の特別展「西アフリカ おはなし村」の実行委員長を務めたときである。広い展示場は、彼の調査地、カメルーンのマルア村の家屋をいくつか再現し、食器や衣類など日常生活品があるほかは、空間であふれていた。江口さんはこれを語り部とドラムのパフォーマンス、そして来館者のノリで埋めようとしたのである。彼特有の奇抜な計画に周囲は驚いたが、特別展の一年数ヵ月前に集まった一〇〇名近いボランティアと彼自身の語りのパフォーマンスで、特別展の四ヵ月は余韻を残しながらあっという間に過ぎた。特別展の終了とともに、小さな西アフリカの村は消えたが、展示をささえた語り部のグループは「地球おはなし村 おはなし畑」、ドラムのグループは「音楽畑」として残った。江口さんを村長として頂く「地球おはなし村」は現在も各地でイベントや福祉施設などで活動を続けている。神戸聖ミカエル大聖堂での江口さんの通夜と葬送で「地球おはなし村」の人びとが見せてくれたパワーに江口さんの遺志を感じなかった人はいないだろう。
 江口さんの特別展のベースになったのは、ライフワークでもあったカメルーンのフルベ族の昔話であった。三〇年間彼が毎年数ヵ月すごしたマルア村で収集した数千時間にもおよぶ昔話を文字化し、翻訳し出版するのが、近年の日課であった。一部はすでに分厚い五巻の『北部カメルーン・フルベ族の民間説話集』として刊行されている。しかし、増え続ける収集データに毎日数時間の文字化作業もおいつかず、退職後の多忙をうれしそうに嘆いていたのが思い出される。特に近年は、五〇〇話を語っても、まだ話の尽きそうもないドゥルンガスおばさんが、彼にとって話の宝庫であったようだ。敬(うやま)いを込め親しげに彼女のことを語る江口さんが印象的であった。
 とにかく江口さんはことばがすきで、語学的才能は伝説であった。彼が、幾つことばができるのか周囲では諸説が飛び交っていた。わたしに尋ねられたことも一度や二度ではない。ことばの果てしなさをしる言語学者は、軽々しく幾つの言語ができるとは言わないものだが、じつはわたしも何度か聞きたく思ったほどだ。彼の研究や信仰とかかわる言語はともかく、「え、このことばも?」と驚かされたことはしばしばあった。アラビア語、ベトナム語、中国語・・・、いや、やめておいた方がよさそうだ。とても紙幅が足りそうにない。
 英語に日常接しながら、英語の権威性を批判していた江口さんは、学生時代からのエスペランチストでもあった。同じ立場を共有し、それをネタに酒をのめたことに今も感謝している。 
 研究者としてフルベの昔話の収集に半生をささげ、また語り部としてそれを人びとに語り続けてきた江口さん。そして、亡くなってしまった今、今度は自分が昔話の主人公となって、フルベの村で語り継がれていくだろう。「ターレル、ターレル・・・(さあ、お話をはじめよう)」と。


外国人として生きる
芸術活動からの発信、京香一さん
―日常化したフィリピン、パブリックなフィリピン
鈴木 伸枝(すずき のぶえ) 千葉大学文学部教授
 一九八八年秋、二〇歳を過ぎたばかりの京香一(きょうこういち)は、ニューヨークで「サラフィーナ!」を観劇していた。「サラフィーナ!」とは、南アフリカの人種隔離政策に反対する若者たちを描きトニー賞に輝いたミュージカルのことである。
 一九九〇年に「サラフィーナ!」の日本公演がおこなわれたとき、芸術学部の学生だった京は、ツアーカンパニーに同行する機会をえ、出演者や関係者と交流することで大きな影響を受けた。それから八年後、京は自らのプロジェクトを立ち上げ、多国籍の出演者が日本語と英語で交互に出演する舞台を製作した

日比混在の家庭
 京は、フィリピン人の母と日本人の父のあいだに生まれた。幼児のときにカトリックの洗礼を受け、日曜日には教会のサンデースクールに通っていた。理由はといえば、単純に「お菓子が楽しみだったから」という記憶しかないが、そんなクリスチャン活動でも日曜ごとに教会に通うことで、学校でいじめにあうことはなかった。また、京には「マイケル」というクリスチャン名があったが、母はマイケルとよぶこともあまりなく、「香ちゃん」として育った。そんなわけで、自分が周囲とは異なるということはほとんど感じたことはない。
 父親が仕事でフィリピンに駐在していたこともあり、家庭では多言語が使用され、父と姉二人は英語のほかにフィリピンのセブアノ語とタガログ語が話せる。けれども、京は英語は「耳で習っただけのブロークン」で、フィリピン語は聞いてなんとなくわかるが話すことはできない。家庭では母の作るフィリピン料理で育つが、それを母の国の料理だと意識することは全くなく、「家のごはん」だと思っていた。大学に入り、友達と入った回転寿司の店で初めて「すし」というものを食べたそうだ。この大学生活も、「たまたま受かっちゃったから日本の大学に行った」けれども、「もし受験に失敗していたら姉同様フィリピンの大学に通っていた」そうだ。

衝撃から生まれた多国籍ミュージカル
 京は「フィリピン人」としての明らかなアイデンティティをもっていたわけではないが、それにちょっとした変化をもたらしたのが「サラフィーナ!」だった。ただし、自分がフィリピン人であることに目覚めたという意味ではない。むしろ、日本にいながら他の日本人にフィリピンやその他の民族の存在を意識させたり、多様な文化の良さを伝えてみようとするきっかけになったという意味でである。
 「サラフィーナ!」を観たときの衝撃を京はすぐにことばで表現することができず、二年ぐらいかけて劇のメッセージを理解しようと努めたという。当時所属していた劇団での活動を「生ぬるい!」と感じて去り、自分で何ができるのか模索し始めた。
 一九九六年、京はInternational Cross-Culture Project(ICCP)という企画制作を立ち上げる。最初にてがけたのが、バイリンガル劇『Once on This Island』だった。これは、やはりトニー賞を受賞したリン・アーレンズ原作のカリブ海アンティル諸島における植民地の差別や階級意識が溢れる人間関係を描いたミュージカルである。京は、この作品にスペイン統治下のフィリピンの状況と同様のものを感じ取り、それを原作に重ね合わせるミュージカル製作を試みた。
 配役に選んだのは、大学時代共に演劇を志したものやプロの日本人役者もいたが、多くは非常に高い演技力や歌唱力を有しながら、一般にはあまり知られていない在日フィリピン人たちだった。京は、少しでもアジア系あるいは非白人系タレントが、その力を発揮できる場を作り出し、また、同じキャストによる日本語と英語の公演が交互におこなわれるという、極めて稀なミュージカルを演出してみせた。小さな劇場で二日間だけの公演であったが、京の心のなかではこうした試みを続けていくことの重要さが強まっていった。その後もフィリピン人だけでなく、ブラジル人やガーナ人など多様な役者をそろえ、いくつかのプロジェクトをてがけることになった。

挫折、そして夢
 京はフィリピンを中心とした東南アジア文化を意識しながら、その文化のポジティブな紹介を試みてきたが、それが裏目に出たこともある。あるコンサート・イベントにおいて、協力者だと思っていた女性に、売り上げを着服されるという苦い経験もしている。アジア人の負のステレオタイプを少しでも払拭しようとした試みで裏切られた経験は悔しく、人間不信に陥った。イベントにかかった経費がさらに京の肩に重くのしかかった。
 これに責任を感じた京は、勤めていた会社を辞し、イベント制作会社に移った。舞台のような派手さはないが、地域のイベントで食べ物やクリスマス、多様なエスニックドレスなどの文化紹介をとおし「フィリピンのイメージアップ」をおこなっている。また、今年の四月からは、千葉市の公営ホールで企画広報の仕事に携わる。千葉市はフィリピンのケソン市と姉妹都市だが、ホールでの催しは国内のテーマに集中することが多く、あまり海外の文化に興味がないことが少々物足りない。仕事を始めたばかりの今は与えられた仕事をこなすことを優先し、そのなかで自分なりの考えや経験を反映していければラッキーだと考えている。
 京は、「普段の生活で自分がフィリピン人だということを意識したことは残念ながらない」という。しかしそれは、「自然に母がいつもそこにいて、そういうものだ」というかたちでフィリピン文化に触れ、取り込んできたからでもある。現在は自らがディレクターとして何か企画制作できるチャンスを待っている。彼は、フィリピンや他の国の人とさらに交流し、「世界の色々な優れた舞台や小説なんかを紹介」したり、再びICCPで芸術作品をプロデュースしたいという夢とチャレンジは、今も密かに温め続けている。


歳時世相篇(6)【独立記念日】
ビバ!メヒコ、ビバ!ユカタン
 九月の声を聞くと、メキシコ人はメキシコ人であることを意識せざるをえない。九月一日は大統領教書発表の日。その年のメキシコの情勢と今後の展望を大統領自身が国民に語りかける。一三日は少年義勇兵の日。一八四七年のこの日、首都に進攻したアメリカ軍に対して五人の少年兵が身を挺して祖国を守ったといわれる。そして一五日の夜はグリト(叫び)。一八一〇年にはじまった独立戦争の鬨(とき)の声をまねて、人びとは各地の広場でビバ・メヒコ(メキシコ万歳)と叫ぶ。その興奮は翌一六日の独立記念日へと続き、各地でパレードがおこなわれる。メキシコの九月はナショナリズム高揚の月である。

ビバ・メヒコの興奮
 二〇〇五年と二〇〇六年、わたしはメキシコ南東部、ユカタン州の州都メリダ市で独立記念日を過ごした。ユカタンは、メキシコのなかでも、郷土愛の強い地方として知られている。その理由は独自の歴史過程にある。首都のメキシコ市がアステカの都、テノチティトランの上に築かれたのに対し、メリダ市はマヤ集落、ホッを土台にしている。植民地時代、ユカタンは広大な新スペイン副王領の辺境に留まった。そして独立戦争に関与することなく、無血でスペインからの独立を達成した。そんなユカタンでメキシコのナショナリズムはどのように表現されているのか。興味津々、わたしはメリダの街を歩いた。
 第一印象は意外なものだった。他の地方と同様、ユカタンでもメキシコのナショナリズムが強烈に演出されていたのだ。一五日の夜、午後八時ごろから中央広場に市民が集まりはじめる。音楽や踊り、さまざまなパフォーマンスが人びとを楽しませる。午後一一時、政府庁舎のバルコニーに州知事があらわれる。鐘を鳴らし国旗をふる。独立戦争の英雄を称え、最後にビバ・メヒコと叫ぶ。群衆も呼応して大声でビバと返す。すぐさま花火が上がり、紙ふぶきが舞う。その場に居合わせたわたしは、メリダ市民のナショナリズムの奔流に巻き込まれた。
 グリトは独立戦争をテーマにした公的な演劇といえるだろう。しかもそれはふたつの意味で再上演だ。ひとつは、一八一〇年にイダルゴ神父がスペインの圧制に対してあげた抗議の声を再現するという意味で。もうひとつは、メキシコ市のソカロ(中央広場)で大統領がおこなうグリトを、同時進行でメリダでも再現するという意味で。メキシコ万歳と叫ぶユカタン州知事の後ろに、メキシコ大統領と、独立戦争の立役者の姿が重なる。こうして人びとは、イダルゴ神父によってもたらされた自由が、現在も大統領を頂点とするメキシコ国家によって維持されていることを再学習するのだろう。
 一六日のパレードも人びとにメキシコ国家の存在を印象づける。行進するのはおもに公立学校の生徒達と公務員である。後者には病院、保健所、消防署、警察などの職員や、軍人が含まれる。パレードを見ていれば、国家とは決して抽象概念ではなく、公共サービスを提供する具体的な組織や団体の集合であることに気づかされる。そして人びとは国家を支え、国家も人びとを支えていることが実感される。

ユカタンのたくらみ
 だがこうした考察はやはり表面的といわざるをえない。注意深く情報を集めると、ユカタンならではのナショナリズムの裏舞台が見えてくる。
 例えばユカタンの旗。五つ星に赤白のストライプはどこかアメリカ合衆国の旗に似ている。その起源は、一八四一年、中央集権を強化しようとしたメキシコ政府に対して、連邦制を求める勢力がメリダ市庁舎の上に掲げた旗だといわれている。地元紙によれば、二〇〇〇年ごろにメリダ市民のあいだでユカタン旗のブームがあったという。市民は旗のシールをマイカーに貼り、独立記念日の前にはこの旗が方々で売られていた。ブームの火付け役の一人となった男性は、現在も、日曜ごとに公園でユカタン旗の資料やシール、バッジを売っている。近年の文化のグローバル化に対して、自分たちの価値を守りたいというのがその動機だ。彼にとって、外来文化の流入で脅威にさらされているのは、メキシコではなくユカタンの文化である点が興味深い。
 ブームが去った理由も注目に値する。選挙制度をめぐってメキシコ政府と対立したユカタン州知事が、ユカタン旗をふって抗議したという。これに対し野党政治家は、知事の個人的な野望のために、由緒ある旗が汚されたと非難した。どうやらユカタン旗は、地域主権の象徴というよりも、その混乱の象徴となっていったようである。
 もう一例を示そう。それはパーティのメニューである。メリダ市のホテルやレストランの多くは、独立記念のディナーを企画する。普通は典型的なメキシコ料理を並べるものだが、なかにはユカタン料理をしのばせる場合もある。例えば二〇〇五年のホテル・コンキスタドールのメニューでは、メキシコ各地の地名をつけた一八種の料理のうち、二種がユカタンにちなむものだった。一方はよく知られた牛肉の郷土料理だが、他方はジビルチャルトゥン風サラダという創作料理である。チャヤという地元野菜を使ったサラダに、メリダ市近郊のマヤ遺跡の名前を冠している。こうしたメニューは、メキシコ料理とは虚構の産物であり、実際にはさまざまな郷土料理の寄せ集めであると主張しているように思える。ユカタンにおける祖国愛と郷土愛のあり方の隠喩(いんゆ)と考えることもできるだろう。
 グローバリズム、ナショナリズム、郷土愛。これら三者は相互に影響しながらわたしたちの生き方を揺さぶる。毎年九月、メキシコでは独立記念日を中心に三者関係が更新、再編されていく。まして二〇一〇年は独立戦争開始二〇〇周年にあたり、さまざまなイベントが企画されていると聞く。当分わたしは九月のメキシコから目を離すことができそうもない。


生きもの博物誌 【イガ、コイガ】
博物館のいたずら虫たち(3)
橋本 沙知(はしもと さち) (財)元興寺文化財研究所研究補佐員
衣類を食べる虫
 チョウ目は、いわゆるチョウやガの仲間からなる大きなグループで、世界では一五万種以上がみとめられている。ガの仲間のイガ類は、その名のとおり「衣類を食害するガ」であり、イガとコイガの二種が特に知られている。
 イガ、コイガの幼虫は、タンパク質の一種であるケラチンを消化できる。このため、毛織物や絹織物、皮革、羽毛などを好んで食す。汗や食べこぼしがついている場合には、化学繊維や植物繊維でも食害する。幼虫、成虫ともに、暗いところを好む。また一年中発生するため、衣類ケースのなかに幼虫が侵入していた場合、気づいたころには大きな穴が開いていることになる。家庭では、タンスや衣類ケース内に衣類用防虫剤等をいれる対策が一般的であるように、わたしたちの日常生活において身近な害虫である。

展示場や収蔵庫にも
 博物館でも、イガ、コイガは、資料を食害し、フンや吐糸で資料を汚す害虫として注意されている(写真1)。民博での被害の一例としては、中央・北アジア展示場の移動式住居カザフの天幕(写真2)があげられる。天幕は、木製の骨組みにフェルトをかぶせた仕組みになっている。このフェルトを始め、天幕内部の絨毯(じゅうたん)や帯飾り等の材料のほとんどが羊毛製である。そのため、一年をとおして安定した環境が維持されている展示場において、天幕はイガ類のかっこうの標的となったのである。これらの虫害が確認された資料は展示場から撤去し、二酸化炭素処理による殺虫処理をおこなった。また、簡単には撤去できない骨組みの結束縄は、その場で市販のカイロを用いて高温処理をおこなった。
 収蔵庫においてもイガ、コイガの被害にあいやすい資料がある。絨毯資料は、空調が二四時間制御されている特別収蔵庫に配架されている。しかし、近年、絨毯収蔵庫内でイガ、コイガの古くなった死骸がたて続けに発見されたため、二〇〇八年、収蔵庫改善計画の一環として、絨毯資料約四九〇点の保管方法の見直しと、配架替えを実施することとなった。絨毯収蔵庫改善計画の流れは、資料の取り出し、資料点検、虫害クリーニング作業、写真撮影、絨毯巻き取り作業、殺虫処理、再配架である(写真3)。
 殺虫処理については、資料点数が多いことから、大型バッグを用いた二酸化炭素処理と、二〇〇七年三月に新設したウォークイン高低温処理庫での低温処理を並行してすすめることとした。高低温処理庫の本格的な使用に際しては、これまでにおこなってきた業務用フリーザー(写真4)を用いた予備実験の結果を踏まえて試運転を重ね、イガやコイガを殺虫するために必要な温度環境と処理時間を維持できるかどうか試みた。その結果、八日間で、小型絨毯五〇点を一度に処理できることがわかった(写真5)。このような温度処理は、薬剤を使わないため、資料にも、環境にも、作業者にも優しいのが特長である。
 このように、民博では高低温処理庫の新設によって、さらに殺虫処理の選択の幅が広がった。しかし、イガやコイガだけでなく、虫害を避けるためには、毎朝の展示場点検や定期的な収蔵庫清掃といった、日ごろの地道な努力が何よりも大切なのである。

チョウ目(学名:Lepidoptera ) ヒロズコガ科 (学名:Tineidae) 
イガ(学名:Tinea translucens Meyrick)コイガ(学名:Tineola bissellie(Hummel))
イガの成虫は灰褐色で体長4~7mmである。翅に3つの黒い斑をもつ。英名でCasemaking clothes mothというように、幼虫期に動物性繊維を食害し、食べた繊維を使って筒型の巣を作るのが特徴である。巣の両端は開いていて、そこから身を乗り出し、移動、食害する。巣は、幼虫が食べた繊維の色をしている。羽化した成虫は食害せずに交尾・産卵する。コイガは名前とは逆にイガよりやや大きく、成虫の体長6~8mmで、淡黄灰色である。2種を見わけるのは難しいが、コイガには黒い斑はない。イガと同じく幼虫期のみ食害する。ともに、25~30℃程度の高温での食害が大きく、日本全土、世界各地に分布する。


フィールドで考える
スイスの「頑固者」たちが暮らす町

 ザンクト・ガレンで特急電車から赤い登山電車に乗り換えると、「ヨゥ、ヨゥ」というスイスドイツ語の相槌が牧草地を登る明るい車内から賑やかに聞こえてくる。一九九七年からほぼ毎年、スイス一の「頑固者」たちが住むといわれる町アッペンツェルにわたしはやってくる。一九世紀アメリカの民衆健康運動を構成するハーブや水を使った治療文化を追ってきたわたしにとって、現代西洋医療以外の民俗療法や伝統医療などオルタナティブ・メディスンの宝庫といわれるこの地域は、ずっと訪ねてみたかったところだ

「産婆さん」や「薬草療法」
 九月のフォークフェスティバルでごったがえすお菓子で作ったような町を歩きまわり、初日から新品のスニーカーが牛の糞まみれになってしまったのは辛かったが、「産婆さん」や「薬草療法」の情報をえることができた。父親の代から薬局を営む薬剤師ヴィルト氏は、身体の自然の力に注目し体質改善を目的とするホメオパシー薬とともに、この地方の薬草から作った人気の胃腸薬を見せてくれた。
 「頑固な産婆」として知られる助産師オッティリアは、助産方法に関し産科医と対立してザンクト・ガレンの病院を辞め、自宅で助産を続けてきた経緯を話してくれた。オッティリアの助産の基本は、産婦が十分な体力をつけるよう一緒に野菜畑の世話をして暮らすことや、産後の母親や子どもを頻繁に訪ねることである。助産師の勉強をしながらオッティリアの元へ見習いに通っている若いダヤとわたしは、まずオッティリアの料理を学ぶことになった。キャロット・ジュース、青ネギを散らしたオートムギとポテトのスープ、無漂白スパゲティとトマトソース、ナシのコンポートは、どれも柔らかい甘い味がする。塩分は素材に十分含まれていると主張するオッティリアは塩を加えない。
 オッティリアは新しい治療にも興味をもち、ある日はドイツの電気療法者を招き、足腰の痛みへの効果を試していた。ときには、隣人のモニカとわたしを伴って周辺のさまざまな治療者たちを訪ね歩いた。ドクター・フォーゲルは、彼の薬草療法の基幹植物ヤグルマソウの栽培に適した土地を求めてドイツから移住してきた。
 中世の民衆療法者「パラケルスス」の名を冠したクリニックでは、ホメオパシーと東洋医学による治療を受けることができる。どこへ行ってもめずらしいことがいっぱいでびっくりするわたしを、モニカやオッティリアはおかしそうに見ていた。もっと山奥の治療者のいない村で育ったモニカは、親たちに教えてもらいながら自分で病や傷を治せるようになることが子ども時代の重要課題だったから、今もハーブを育て使うのが当たり前なのだと話した。

出産は助産師に
 一九九九年には、オッティリアに二人の子どもをとりあげてもらったというグラッブスのマルを訪ねた。運転を引き受けてくれたアッペンツェルに住むマルの妹の三〇代のルースは、病院で出産したが、その場合にもとりあげたのは助産師だと説明してくれた。ルースは、オッティリアの助産をめずらしがっているわたしを訝(いぶか)しく思っていたようだ。バート・ラガッツに住む日本から来たヨウコさんにも聞いたが、彼女の場合も同じだという。後に助産師が活躍してきたというオランダを訪ねたわたしはこの地でも同様のシステムであることを確認し、長年、アメリカにおける出産の近代化とその影響が深かった第二次世界大戦後の日本の実践を常識のように思っていたことを改めて実感したのである。

一〇〇パーセント働かず豊かに
 マルの家に到着すると昼時で、帰宅した夫や息子とスパゲッティの昼食をともにした。いちばんの話題は、皆が今年どのくらいの割合で働くことにしているかであった。マルは子どもたちが小さいので一〇パーセントでマッサージ師の仕事をしている。少年の保護観察司の夫ピーターは、昼間息子とともに果樹園の世話をしたいので七〇パーセント。ルースは二人の子どもが小さいので英語教師の仕事を二〇パーセント、準司祭の夫ミシェルは勉強もしたいので八〇パーセントという具合である。家に帰って昼食を摂ることや、一〇〇パーセント働かなくても豊かに暮らせることが皆の関心事だ。事業所のリーダーの采配(さいはい)に任されているというワークシェアリングの実践はゆったりしたこの地域のみかと思っていたわたしは、後に新生殖補助技術の調査で訪れたザンクト・ガレン州立病院やチューリヒ大学病院の医師たちも、毎年開口一番に今年の自分の働き方や、管理職として勤務時間を調整する難しさなどを語るので、驚いたものだ。首都ベルンの大学とアメリカで法律を学んだルースとミシェルが、ルースの故郷アッペンツェルの生活をライフスタイルにあっているから選んだということばを、現代社会の暮らしを考えるときいつもわたしは思い出す。
 その後、身体的弱者の自宅生活を支援するシステム「シュピテックス」、国際養子縁組に関する調査など、テーマは変化しても、わたしは毎年北東部スイスを一巡りして皆の顔を見てから調査に出かける。毎年会ったり一緒に暮らしたりする人びととともに年をとりつつ、その人たちにとって当り前なことや関心事を感じとり、自分の感覚に刺激を与えることがわたしにとっていちばん重要な調査だが、時間がたっぷり必要で、終わることもないのだ。


みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


編集後記
 この夏休み、初めて沖縄に行った。泳ぎはどちらかというと不得意で、ダイビングもシュノーケリングも経験したことがなく、おサカナの世界は水族館か図鑑でしか見る機会がなかった。そんなわたしでも、サンゴ礁が間近にせまる浜で、水中眼鏡をしてちょっとのぞいただけで、色とりどりのサカナが目の前を泳いでゆくのを見ることができ、まるで竜宮城の舞いを見せられた浦島太郎のように感動した。
 サンゴは生きているあいだは多くの海の生物のすみかとなる。竹村先生も江口先生もそんなサンゴ礁のような存在であられたような気がする。わたしは竹村先生には残念ながらお会いする機会がついになかったが、江口先生の「サンゴ礁ぶり」は、特別展やイベントなどの際にたびたび目にしてきた。サンゴに熱帯魚が群がるように、いつも色鮮やかないでたちの江口先生の周りには、同じく多彩な人びとが集まっていた。
 サンゴの残骸は波や風にもまれて砕かれ、やがて美しい白い砂浜になるという。しかし、先生のカラフルな残像はまだ当分消えそうにない。消えるどころか、尾ひれがついて語り継がれ、ますます極彩色な竜宮伝説と化してゆくのではないだろうか。両先生のご冥福を祈る。(山中 由里子)



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