国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年12月号

2008年12月号
第32巻第12号通巻第375号
2008年12月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
「楽園」を撮る
三好 和義(みよし かずよし)
 僕は今までに六〇ヵ国以上を訪れ楽園をテーマに写真を撮ってきましたが、そのきっかけは大阪万博です。小学六年生の夏休み、大阪の親戚の家に泊まって二週間以上、毎日朝早くから最終まで通って全パビリオンで写真を撮りました。万博で世界各地の自然や文化に惹かれ、カメラマンになれば世界を回れると考えたのです。
 その後、東海大学在学中に練習船で南太平洋を回ったとき、ポナペ島で見た踊りに沖縄文化とのつながりを感じたりして南国が好きになり、在学中から楽園というタイトルで作品を発表してきました。僕にとっての楽園は南国から始まったのです。しかし今では、世界中で楽園を探しています。聖地、極楽浄土、桃源郷などと言い換えられるでしょうが、要するに僕が興味のあるところが楽園なのです。
 最初は風景の美しいところが楽園と思っていましたが、ハワイのビショップ博物館を訪れたときに、ポリネシアへの人の拡散史やフラに興味をもち、精神的な世界も楽園の条件と考えるようになりました。ポリネシアの人びとの文化のつながりを見るにつけ、彼らがカヌーで太平洋に乗り出したのも、楽園を求めたためだろうかと考えたりします。
 また、郷里が徳島でお遍路さんが身近だったこともあり、四国八十八ヵ所の写真も撮ってきました。空海にとっての理想世界、楽園を知りたいからです。中国やチベットのお寺や遺跡を訪れているのも、僕のなかでは空海つながりです。
 こうした精神世界を撮るのに、写真技術の進歩が寄与しています。フィルムだと現像までに時間がかかり気持ちが冷めてしまうが、デジカメだとその場で確認できる。この即時性は精神的な世界を撮るのに不可欠です。ハワイでもフラを撮って、あ、これだと思って自分の気持ちがどんどん高まり、踊り手と自分が一体になれる、参加しているという実感をもちながら撮影できました。
 フィルムやメモリーの感度が高まったことも、写真が精神的なものに追いついてきた理由です。一五年前のこと、新月の夜に、ここだと思う方角に向けて三時間ほどシャッターを開放し、星明かりだけで富士山が写った経験があります。人には見えないものが写る、これは衝撃でした。デジタルだともっと優れていて、松明の光だけでおこなう伊勢神宮のお祭りでも、神饌の伊勢エビと昆布が写りました。まさにスピリチュアルなものが写ると感じたのです。こういう世界に迫っていける写真技術の進歩に、僕は大きな期待をもっています。

みよし かずよし/大学卒業後、株式会社「楽園」設立。タヒチ、モルディブ、サハラ、ヒマラヤ、南極など世界各地で「楽園」をテーマに撮影を続け写真展を多数開催。写真集『RAKUEN』で木村伊兵衛賞を受賞。作品はジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館に永久保存。国際交流基金買上げの作品「日本の世界遺産」は世界各地の写真展で紹介。2004年藤本四八写真文化賞を受賞。四国八十八ヵ所の作品は切手化されている。
 

特集 手塚治虫が遺したもの
今年は手塚治虫の生誕八〇周年であり、民博のお隣にある、児童文学・児童文化に関する研究と情報資料の国内センターである大阪府立国際児童文学館をはじめ、多くの研究機関や博物館で記念展示や記念事業が催されてきた。手塚は、SF、サスペンス、怪奇もの、少女向け、青年向け、などその形式はさまざまであるが、柱となるテーマのひとつとして、さまざまな異者との接触、衝突、共生の可能性、アイデンティティとは何か、を一貫して取り上げてきたと考えられる。民族学・文化人類学の永遠のテーマとも重なるこうした視点で、本誌でも、手塚が描いてきた世界、手塚が遺したものについて考えてみたい。

手塚マンガの世界に見る異文化接触と相対化の視点
戦後が終わった
 一九八九年二月九日に手塚治虫死去の報に接したとき、その前月の昭和天皇崩御と合わせて、これで昭和が終わった、あるいは、戦後が終わった、という感慨を覚えたのはわたしだけではあるまい。団塊世代のわたしのみならずたくさんの人びとが、多くの影響を手塚マンガから受けたはずだ。そのなかには、異文化とのつきあい方に関する、手塚の考え方に何らかの示唆を受けた者も多いのではなかろうか。
 手塚の死を受けて同年四月に発刊された『朝日ジャーナル臨時増刊号 見る・読む・考える手塚治虫の世界』では、ベスト二〇作品を選び、さまざまな識者が解説を加えている。この二〇作品にも、異文化接触と対立、その止揚についての手塚の思いを見ることができる。この背景には、米ソ冷戦の深化と核開発競争、民族運動の高まりといった時代状況もあった。

手塚治虫の問い
 初期の代表三部作を例にとれば、「ロストワールド」に登場する植物人間女性、「メトロポリス」の両性具有ロボット、「来るべき世界」の新人類、などがそれぞれ現世人類の対立項としての異者である。これら作品は、過去・現在・未来と舞台は異なるが、文明の破壊という悲劇的結末を迎え、異者との共生、あるいは分離のどちらかでないと、地球には平和がもたらされないことを人びとは学ぶ、という寓意と読める。
 「ジャングル大帝」もまた、戦争と平和、善と悪、理想と現実、科学と呪術、文明と未開、希望と挫折などさまざまな対立項を含んだ壮大な物語だが、人間と動物という異文化共生もテーマのひとつである。主人公レオはさまざまな対立項を越えた共生の理想郷を作ろうとするが、それらを超越した時の流れにはあらがえない、という諦観で締めくくられる。当時のステレオタイプなアフリカ観、共生とはあくまでも擬人化された動物との共生という夢想形に過ぎない、などの弱点をもつものの、そこには理想主義と虚無主義がないまぜになった手塚の世界観が示されている。
 「鉄腕アトム」でも、人間トビオを模倣すべく作られたアトムのアイデンティティ・クライシスが描かれ、遂には人間とも対立するアトムに読者は驚くとともに、孤児でもあり居場所のないアウトサイダー、単なる正義の味方ではないアトムの弱さに惹かれ、人間たちとロボットたちそれぞれの悲しみに涙するのだ。「ジャングル大帝」と同様にさまざまな対立項が含まれた長い長い物語のなかから、わたしたち読者は、多くの対立項がからみ合った世界の複雑さを思うとともに、対立する二項のどちらかに与することの切なさ、虚しさを読み取り、いわば、相対化の視点の大切さを知ったように思う。
 「ロック冒険記」「0(ゼロ)マン」「キャプテンKen」などでも、多様なエイリアンに仮託しつつ、異文化理解と共生はあり得るのか、というテーマが示され、物語の最後に主人公の死、あるいは文明の破壊という供犠を捧げたとしても、理解と共生はえられないかもしれぬと考えさせられる。
 これら長編作品の多くは、ハッピーな大団円を迎えることなく、読者への問いかけで終わる。マンガの世界でのシミュレーションの姿を借りながら、人間は歴史から学ぶこともなく、一体幾度、欲望と憎悪と戦いと悲劇の連鎖を繰り返すのか、にもかかわらず自然を含む地球そのものは人間の愚かさをあざ笑うように継続していく、という諦観を含んだ問いは、「火の鳥」や「ブッダ」でも示される宇宙観、宗教観にも通じると思う。手塚の問いは、今でも我々に突きつけられている宿題ではないだろうか。


ストーリー・マンガの革新性
竹内 オサム(たけうち おさむ) 同志社大学教授
映画のような画面構成
 手塚治虫が試みた革新的な表現について云々する場合、よく「映画的手法」ということばが使われる。映画から学んだ表現のテクニックといった意味あいにおいてだ。
 実際に手塚は、アニメーションも含め多数の映画を観て自らのマンガ創作に生かした。そのため、紙の上の静止画像であるにもかかわらず、映画のような力動感あふれる画面構成を可能とした。
 はじめ手塚が参考にしたのは、ドイツやフランスの映画が主だったという。同時に、チャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメにも夢中になる。父親が映写機を所有し、家でフィルムを観ていたためだという。また、少年期にはアニメ映画会にもひんぱんに足を運ぶ。こうして手塚マンガには、その初期から映画のテクニックがコマにあふれることとなった。

子ども文化の影響
 映画以外からの刺激も役立つ。さまざまな大衆文化から物語のエッセンスを吸収していった。手塚は一九二八年(昭和三年)の生まれ、その少年期はちょうど子ども文化が多彩に変化していく時期にあたっている。ラジオや映画に加え、マンガが新聞、雑誌にさかんに掲載されるようになる。ナカムラ・マンガ・ライブラリーなど単行本出版もさかんに。海野十三などの少年小説も華やかで、一九三〇年代後半には、マスコミ子ども文化を総称して「大量生産児童文化」なる用語も使われるようになっていく。
 手塚は子どものころこうした文化の刺激を一身に浴びていく。今でいうオタクに似た立場にいたわけだ。その結果、さまざまな分野の素材や表現を自らのマンガにもち込み、これまでのマンガとは異なった世界をかたち作っていくことができたのである。
 スピーディなコマ運び、クローズアップやロングを組み合わせた奥行きのある画面、アニメのように弾力あるキャラクターの動き、長大なスケールの物語展開、多数の入り乱れる登場人物たち、演劇のようなコスチューム・プレイ、同じ人物が異なった作品で違った役柄を演じるスター・システムなどなど。これまでにない物語世界を展開することができた。
 ただし映画的な表現が、戦前のマンガに皆無であったというわけではない。昭和初期の絵物語作家宮尾しげをの作品には、映画を思わせるクローズアップが多用されている。作者が大の映画好きであったためだ。田河水泡も初期の作品では、映画を強く意識。それと比べてみると、手塚の新しさは、視点の工夫やクローズアップを駆使し、よりいっそう映画的な画面を構成したことにあるだろう。その技法を、小説に学んだ大河的な物語の構成にのせて展開したところに特色がある。
 手塚があらわれなかったとしても、遅かれ早かれ誰かが、戦後に実践したのかもしれない。そこに偶然手塚治虫という才能あふれる創作家が立ちあらわれ、革新のピッチが一挙に早まったと理解してよいだろう。
 戦後のマンガは、このようにしてひとつの方向づけがなされていったのだ。
 
マンガ産業の広がりと「鉄腕アトム」
中野 晴行(なかの はるゆき) ライター・編集者
アトムとマーチャンダイジング
 マンガやアニメは日本のコンテンツ・ビジネスの鍵とまで言われているが、マンガ産業全体の市場規模はどれくらいあるだろうか。おおよその数字ではマンガ出版が五〇〇〇億円弱。アニメが二五〇〇億円強。しかし、マンガやアニメから派生したマーチャンダイジングや海外を含めた放映権や版権収入などを加えていくと、約三兆円規模にまでなる、とされている。雑誌連載から単行本化、アニメ化、マーチャンダイジング、海外輸出へと広がっていく日本のマンガ産業は「ワン・コンテンツ・マルチ・ユース型」とよばれる。
 この複雑で大きなシステムのはじまり、それは手塚治虫が生んだアトムという少年ロボットからなのである。
 手塚のマンガ「鉄腕アトム」は、一九五一年から雑誌『少年』に連載され、一九六三年には日本初の国産長編テレビ・アニメになった。マンガからアニメにという流れはこのときに生まれたことになる。当時のテレビ制作費は今よりもずっと低く、「鉄腕アトム」のアニメも低予算での制作を余儀なくされた。手塚は、絵を使いまわす「バンクシステム」や、コマ数を減らす「リミテッドアニメ」などさまざまな低予算化策を導入し、これは日本アニメ独特の表現を生むことに繋がった。しかし、それでも予算内にはおさまらない。そこで、考え出されたのがキャラクター・マーチャンダイジングの導入であった。
 キャラクター版権を有償で提供する代わりに、海賊版を締め出して権利者の利益を守る、という方式は、アメリカのディズニーやハンナ・バーベラなどがすでに導入していた。手塚の経営するアニメ・スタジオ「虫プロダクション」でもこれらを参考にしたのだ。
 アトムのキャラクター商品はテレビ・アニメの人気も手伝って売れに売れた。おもちゃ、文具、食器、衣類、お菓子…、アトムのキャラクターのついた商品は日常のいたるところで見られるようになったのだ。
 後発のアニメ会社もこの方式を見習った。今でもキャラクター版権はマンガ家やアニメ会社の重要な収益源になっている。

マンガは世界語
 一九六三年三月、手塚は渡米した。アメリカのNBCテレビと「鉄腕アトム」の放映に関する契約を交わすためであった。五月には契約が成立。九月からは「ASTRO BOY」と改題されて放映が始まった。日本のアニメが世界に飛び出した瞬間である。「鉄腕アトム」はのちに、イギリス、フランス、ドイツ、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピン、中国などでも放送された。
 生前の手塚は、「マンガは世界語」と何度も言っていた。絵で表現するマンガや絵が動くアニメは、言語の壁を越えて世界中の人びとが理解し、共感できるという意味だ。
 今では、日本のマンガとアニメは世界中に浸透して、世界の多くの人びとの共感を呼ぶようになった。
 手塚治虫の願いは「鉄腕アトム」によって、実現への大きな一歩を踏み出した、と言ってもいいのではあるまいか。


「リボンの騎士」以前・以後
藤本 由香里(ふじもと ゆかり) 明治大学准教授・評論家
少女雑誌の変革
 戦後の、ストーリー少女マンガの歴史は、手塚治虫「リボンの騎士」(『少女クラブ』、一九五三~一九五六年)から始まると言われる。
 これは、「ストーリー少女マンガ」をどう定義するかにもよるが、その人気・影響・主題、どれをとっても「リボンの騎士」がエポック・メーキングな作品であったことは間違いない。
 ちなみに、わたしは当時の三大少女雑誌(『少女クラブ』『少女』『少女ブック』)がこの連載によってどう変わっていったかを調べたことがあるのだが、一九五二年まではたしかに、少女雑誌でマンガといえばいわゆる「生活ユーモアマンガ」ばかりであった。つまり何か愉快な失敗をする登場人物が出てきて、最後が「チャンチャン」で終わる読み切り形式の物語である。後発の『少女ブック』(一九五一~)だけは松下井知夫の作品など、次号に続く物語も見受けられたのだが、それにしてもとくに、「波乱万丈でドラマチックな物語」というわけではなかった。当時の少女誌では、「物語(ストーリー)」は絵物語や小説にまかせておけばいい、「マンガ」はユーモア担当、という暗黙の了解があったのだ。
 ところが「リボンの騎士」の連載が始まってしばらくすると明らかな変化があらわれる。まず掲載誌である『少女クラブ』で同年一一月、うしおそうじ「しか笛の天使」が始まり、『少女』では翌年四月に東浦美津夫「笛吹山ものがたり」、五月に手塚の「ナスビ女王」が始まる。そして、これが一九五五年になると、各誌いっせいに複数のストーリーマンガの連載を始め、それ以降はストーリーマンガが主流になっていくのである。

女性の問題・思春期の問題
 あきらかに「リボンの騎士」の圧倒的な人気が、少女誌の流れを変えたといってよい。
 そして何より「リボンの騎士」が画期的だったのは、男の心と女の心を併せもつサファイアを主人公に据え、「女の子は王子様に愛されるお姫様にもなりたいけど、剣をもって闘うお姫様にもなりたいの!」という願望をすくい上げてみせたことである。
 「リボンの騎士」は単に「物語」であるだけでなく、同時に、女の子の「内なる葛藤」の物語でもあった。最初にこのテーマを刻印されたことが、その後、世界でも稀に見る、日本の「少女マンガ」というジャンルの発展に大きく影響したことは疑いがない。「内面を描く」という少女マンガの特性は、じつに「リボンの騎士」から始まったのだ。
 加えて、〈矛盾と葛藤〉は手塚作品が内包するものであるとともに「思春期」の問題でもある。
 そして今、「思春期の問題」と「少女マンガ」という、他の国がもたなかったテーマや特性を開花させてきた日本マンガは世界で、とくに若者を中心に、熱狂的に受け入れられつつある。そのふたつがどちらも、手塚作品を特徴付けるものであることにわたしは感慨を深くするのだ。
 
科学・SFマンガと手塚治虫
村上 知彦(むらかみ ともひこ) マンガ評論家・編集者
ラララ科学の子
 手塚治虫の「科学・SFマンガ」を代表する作品といえば、なんといっても「鉄腕アトム」だろう。一九五一年生まれのぼくが、たぶん三、四歳のころに最初に出合った手塚マンガも、一九五二年にスタートしたこの作品である可能性が高い。アトムのキャラクター自体は、その前年に別タイトルで描かれた「アトム大使」に初めて登場した。つまりアトムとぼくは”同い年“ということになり、それは長らくぼくの秘かな誇りでもあった。
 「鉄腕アトム」とは、のちに谷川俊太郎作詞のアニメ主題歌にも”ラララ科学の子“と歌われたとおり、その時代の少年たちにとっての「科学」イメージを象徴する存在であり、その作者である手塚治虫もまた、何をさておいてもまず「科学・SF」マンガの描き手として、ぼくらの前に存在していた。もちろん「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」はじめ、多彩なジャンルでの活躍も充分に知ったうえで、それでも男の子たちにとっては「科学」こそが、手塚マンガを魅力的にしている核心であったことは間違いない。

「未来」へ立ち向かう調停者
 あまり読者には意識されないようだが「鉄腕アトム」は捨子物語である。天馬博士の死んだ息子の身代わりとして作られ、いつまでも成長しないためサーカスに売られたアトムは、お茶の水博士に拾われ育てられる。二人の父親=博士に引き裂かれたアトムは、その出生によって、常に対立するふたつの文化のあいだに立つ調停者となる役割を刻印されている。異星人と地球人、ロボットと人間、大人と子ども、そして科学と自然。
 ここでは科学は、子どもたちの夢や希望であると同時に、彼らを安全な母のひざから切り離す、残酷な運命の源でもある。アトムの原点でもある初期作品「メトロポリス」をはじめ、手塚SFでは、科学がその慢心(まんしん)や暴走によって地球と人類と、その未来である子どもたちを脅かす魔物に変身する姿が、繰り返し描かれる。
 手塚治虫の描いた未来は、決してばら色の未来ではなかった。そこには、いまだ文明の対立があり、戦争があり差別があった。ロボットを蔑(さげす)む人間がおり、人間を憎むロボットがいる。ロボットを利用して、欲望を実現しようとする人びとがいる。科学の力を過信して、自然の摂理に逆らう人間がいる。アトムは単なる「正義の味方」ではない。むしろ、そんな「未来の現実」の前で、正義とは何か、悪とは何かと、常に悩み、苦悩している存在なのだ。
 二一世紀を迎えた今日も、アトムのような自律して判断、行動するロボット、心をもったロボットの実現には遠いといわれる。手塚治虫の未来予測ははずれたのか。
 ぼくは、アトムはもう生まれていると思う。手塚マンガは、今現実となった二一世紀を生きる子どもたちに向けて、君たちこそが、矛盾や対立に満ちたこの「未来」に勇気をもって立ち向かい、乗り越えてゆく調停者であり、二一世紀に生まれた科学の子=アトムそのものなのだと、繰り返し告げているのである。
モノ・グラフ
みんなで持ち寄った「おかね」の展示
 今春、三月二〇日(木)から九月三〇日(火)にかけて開催した企画展は、従来とは少し趣が違っていた。「いろんな『おかね』で世界がみえる」というこの企画展のために、民博の教職員とその家族の人たち約四〇名(匿名出品者を含む)が、さまざまな国や地域の通貨をわんさかと持ち寄ってくれた。こんな展覧会ができる博物館は、楽しい。
 みんなが持ち寄ったその数は、硬貨一九〇〇枚と紙幣二〇〇枚(ともに概数)。その大半が、出国前に両替できずに持ち帰った小銭か、あるいは「旅の記念に」との思いを込めて持ち帰った人たちから提供されたものだった。だから、直接手渡しながら「終わったら、お願いだから必ず返してね」と、念を押す人たちもいた。「長期の海外赴任が多かった父が遺したものなの。アフリカのおかねがたくさんあるよ」と言って、それらを一晩かけて国別に選りわけてから届けてくれた人もいた。そんな同僚と家族の方たちに感謝、感謝!
 さて、整理を始めてみると、なかにはニューヨーク市内の公共交通機関を利用したときの専用コインや、ブラジルで使った公衆電話専用コイン(国内用と国際用の二種)も含まれていた。また、若干だが、ユーゴスラヴィア王国の硬貨など、二度の世界大戦のあいだに建国・滅亡した国々の通貨もあった。大日本帝国時代の紙幣と南方戦線に展開していた陸海軍の軍用手票(略して「軍票」とよんでいた)も、かなりの枚数があった。しかし、ユーロ発行を記念して発売されたコインアルバム一冊(オランダ製、一二ヵ国×八種類=九六枚の収納用)以外、コレクション目的の「おかね」は一枚もなかった。それなのに、これだけの枚数が集まった。うれしい悲鳴!
 サポートしてくれた情報企画課のスタッフにも感謝しなければ。
 シンガポールのコインがやたらと多くて驚いた。他の国の通貨でも重複が多く出品しなかった例もあり、申しわけない思いをした。わけても、ベトナムに成立し、一時はラオスとカンボジアを支配した阮王朝(一八〇二~一九四五年)時代の銀の延べ棒と豆銀を、警備上の不安から出品できなかったのはつらかった。ともに完形品で、延べ棒はずっしりと重い。一九世紀末期にフランス領インドシナに組み込まれるころまで通用していた秤量貨幣だったのだが…。残念!
 展示には、民博が所蔵する大小の石貨と陶貨、代表的な貝貨であるハナビラタカラガイなどの標本資料も添えた。むかしは世界各地で貝貨が通用していたことを知っている人は少なくないはずだ。でも、紐で連ねた粒のそろったタカラガイや、ビーズ状に均等成形した無数の小さな貝殻を、これまた数え切れないほど幾重にも連ね束ねて太いドーナツ状にしたものを眼前にして、即座に「銭形平次」の銭緡(ぜにさし)を想起した人は、何人いただろう。また、世界各国の有孔硬貨との共通性に気がついた人は…。
 現代人がイメージしている「おかね」とは、まったく姿かたちが異なる「おかね」があることに興味を惹かれた観覧者は多かったようだ。会場では、タイ王国の賭博場で遣い走りに与えたチップだったという陶貨も人気があった。サカナ、カニ、チョウなどに型抜きした表面に彩色を施したものが「わー、かわいいー!」と、こちらは素直に喜ばれたのだと思う。アンケート結果からは、紙幣のデザインに国情や風土性、また民族社会の伝統が映しだされていることを再認識した人の多かったことが読み取れた。アフリカ諸国の紙幣の多くに、政治家や軍人など偉人の肖像画ではなく、一般人の生活風景が描写されていることに新鮮な感銘を受けたという内容の回答も少なくなかった。
 じつは、民博には、藩札が多数眠っている。世界各地の古銭・古紙幣もあれば、一部の国々の現行通貨が標本として登録されている例もある。民族学博物館だから、祖先祭祀に不可欠な紙銭も当然所蔵している。「銀行ごっこ」用の玩具紙幣や、演劇の小道具である「金塊」なども所蔵している。しかし、これらを展示に使うことは避けた。
 この企画展は、貨幣制度の研究成果でも、体系的・網羅的なコレクションの紹介でもなかった。いや、そのような構成にはしなかった。学校の春休みと夏休みの期間を取り込んでいたのである。館の方針としても、とくに、夏休みの自由課題(宿題)を抱えている子どもたち・保護者たちに対するメッセージの発信が可能な展覧会の企画・実現が期待されていた。そこで、大勢が持ち寄って築きあげる共同制作に思いいたった。それが、この展示のコンセプトだった。
 それともうひとつ、別の動機があった。わたしは、童心にかえって遊ぶ楽しさを、仲間を集めて実践し、確かめてみたくてこの企画展をした。集め、並べてみて、はじめてわかる「発見」がある。そのときの心境を確認したかったのだ。新しい研究が芽生える瞬間を実験的に作りだし、そのときの感動を実感し、リフレッシュしたかった。
 この企画展の実現に協力してくれた同僚たちとサポートしてくれた大勢のスタッフに篤く感謝する。

地球ミュージアム紀行  -国立ヨルダン博物館、カラク考古博物館、死海博物館、サルト歴史資料館/ヨルダン-
ヨルダンで博物館をつくる

 二〇〇五年一月から三年をヨルダンで過ごした。仕事は国際協力機構(JICA)の技術協力プロジェクト「博物館活動を通じた観光振興」付き専門家兼チーフアドバイザーだ。
 ヨルダン政府は外貨獲得のひとつの手段として、二〇〇〇年から日本政府からの円借款で首都アンマン、死海周辺ほか二地域で七つの観光施設整備を進めており、なかに四つの博物館(国立ヨルダン博物館、カラク考古博物館、死海博物館、サルト歴史資料館)が含まれている。既存の施設を全面改装するカラクを除いて、すべて新設である。建築や改修にかかる工事は、借款の窓口である国際協力銀行(JBIC)と業務委託を受けた日本のコンサルタント会社、現地の建設会社の三者が協力して進んでいる(JBICの海外経済協力事業は二〇〇八年一〇月からJICAと統合した)。
 当初計画では、これら四つの博物館はすべて昨年中に完成しているはずだったが、諸事情が重なって国立ヨルダン博物館とサルト歴史資料館は工事が遅れ、今年中の開館は困難そうだ、というのが最近漏れ聞く事情だ。
 施設作りから始まった事業を運営面でも補完しようとJICAの支援事業が始まった。基本的な博物館事業(収集・保存・展示・教育など)、職員の養成、制度の整備がおもな仕事だった。日本側の担当はわたしを含めて三人。ヨルダン側は既存施設であるカラク博物館の二人を除くと全員が博物館の未経験者だった。
 彼の地では、博物館は遺跡の出土物を並べておく場所、というのが一般的理解である。展示の説明までは手が回らないところが多い。
 観客に向かって積極的に働きかける博物館は全く経験がない。何回かのわたしの一時帰任の期間を利用して、ヨルダンの新人たちに同行してもらい日本での見学をおもにした研修にあてた。彼らの知見は確実に博物館の認識を変えた。まず学校と提携して自分たちの歴史や自然を知ることの大切さを知らせるイベントを開館前から始めたのだ。その面白さに気付いた若者たちのなかから学芸員志望者があらわれ始めている。
 建物の基本設計は政府借款の準備段階で日本側が完成し、展示品や構成が未定のままに展示図面もできていた。異例ではあるが必要経費の算出にはそれも仕方がない。
 展示工事が始まると職人が図面どおり大理石の台座を作り、ガラス箱をかぶせて展示ケースを作る。モダンだが位置の変更ができない。ヨルダンでは、構造物は石で作る。博物館のケースは位置固定、が常識なのだ。
 設計図を描いた日本側には、家具としてのケースとベニヤの仮設壁が念頭にあったらしい。双方の思い込みの違いが生んだ結果だった。日本での研修に参加した学芸員たちも可動展示の必要を理解したがすでに遅かった。わたしには国際協力での異文化理解の必要性を再認識するまたとない事件だった。
 今、ヨルダンの博物館は世界に目を向けて新しい一歩を踏み始めている。


表紙モノ語り
鳳凰 
水上操り人形(不死鳥)(標本番号H151620、高さ/51cm 幅/49cm 奥行/84cm)
 幾多の河川や水路と、降りしきる雨の水で潤いあふれるベトナム北部の紅河デルタには、水上人形劇を、数百年以上にわたって伝えている村がある。池のなかに設置された劇場では、すだれの向こう側にいる人形使いたちが、それぞれ二本の長い棒で人形を操る。豊穣祈願とも結びついて上演される。写真の人形は、劇の役者である。
 鳳凰の舞は、ベトナム戦争中に指導層が庶民の娯楽のために建てたハノイの劇場で、よく知られた演目である。二〇世紀初頭まで続いた王朝時代、鳳凰は太平の象徴であった。子宝に恵まれた鳳(オス)と凰(メス)の優雅な舞い姿は、平和を願う人びとの心に響いたに違いない。
 鳳凰の姿は、前は麟(りん)、後はシカ、くびはヘビ、背はカメ、尾はサカナ、あごはツバメ、くちばしはニワトリに似て、五色絢爛(けんらん)という。ちょっと想像しにくいが、中華文化圏各地では古代からさまざまにイメージされてきた。身近なところだと一万円札にもある。
 ベトナムでもこの瑞鳥(ずいちょう)は、古くから陶磁器、屋根飾り、祭壇の装飾などに用いられてきた。中国にならって竜を王権のシンボルとしてきたが、王朝末期には鳳をシンボルとする皇帝もあらわれた。竜と鳳凰は装飾で対になっていることが多い。どうも鳳凰は、竜に対して脇役であることが多いようである。
 インドシナ盆地民の黒タイは、竜を水の精、ツバメを地の精とみなし、くにの安定のために両精をまつっていた。このツバメは鳳凰と同義かもしれない。鳳凰は朱雀(南)の方角を司り火の精とされるが、水の対立項という点では、地と火は同列である。また、男性器のことを竜とよび、女性器をツバメとよぶ。そういえば、手塚マンガの「火の鳥」では母性的側面が強い。鳳凰は、いのちや再生産のシンボルでもある。


万国津々浦々
子連れフィールド・ワーカー奮闘記 ルーマニア篇
トランシルヴァニアで息子と暮らす
大塚 奈美(おおつか なみ) 総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程
フィールドで初育児
 わたしのおもな研究対象はハンガリーの民俗舞踊。都市での娯楽の場や舞踊団の練習場、農村の娯楽の場や通過儀礼に伴う踊りなど、さまざまな場面に出かけては調査をおこなっている。博士課程進学後、子どもに恵まれもうすぐ三年になるが、現在は、ルーマニア・トランシルヴァニア地方を中心に、調査を続けている。ハンガリーの踊りの調査をするのに、なぜルーマニアなのかと思われる方もいらっしゃるかもしれない。トランシルヴァニア地方は第一次世界大戦後にルーマニア領となったため、現在も多くのハンガリー人が暮らし、ハンガリーの古い文化が残っている地域なのである。
 さて、わたしが現在調査の拠点にしているのは、人口四〇〇人程の小さな村だ。住民の大多数はハンガリー人。畑でジャガイモ、トウモロコシ、マメなどの穀類やその他の野菜、果物などを作り、ウシ、ウマ、ブタなどの家畜やニワトリ、シチメンチョウ、ガチョウなどの家禽類を飼育するのがここでの一般的な暮らし。出産前にも調査などで訪れたことはあったが、子どもが五ヵ月のころから、断続的に長期滞在の調査を始めた。農村での短期の調査は何度もしたことがあったが、生活をするのは初めてである。慣れない農村での家事と初めての子育てをしながら、少しずつ調査を続けているが、自分のために使える時間は細切れで、毎日が時間との闘いだ。

息子の財産に
 調査において、重い機材をもって移動することに慣れてはいたし、母乳育児のため、ミルク持参の負担がないのは幸運だったと思う。それでも、おむつや着替え、おもちゃなど、子どものための荷物だけでもかなりの量になるし、抱っこをしたり手をつないだりで両手がふさがってしまう。公共交通機関での移動が困難なときは運転手を雇って移動することもあるが、大学院生にとっては大きな出費。幸い、息子は乗り物が大好きなので、移動は苦にならず大喜びである。もちろん、毎日遠出をするわけではなく、普段は、時間の許す限り家での作業や村内での調査をおこなう。村では一般的に人と人とのかかわりが強く、人口も少ないために村の人同士はほぼ全員が顔見知りで、出会ったときにはあいさつをしたり世間話をしたりするのが普通。子どもといると、お宅に入れていただくこともあり、現地の生活の実態を垣間見る機会ともなっている。
 生まれて間もなく大きな移動を繰り返すことになった息子。調査地の畑や動物は格好の遊び場・遊び相手でもある。子どもは何でもよく見ていて、野菜や果物をとってきたり、卵を集めたり、薪運びをしたり、特に教えなくても自分なりに仕事を見つけては楽しんでお手伝いをしている。会う人は皆話しかけてくれるので、現地語でのコミュニケーションの機会も多い。わたし自身の育った環境とはまったく異なっており、戸惑うことも多いが、子どもはすぐに適応して楽しむ力をもっている。それぞれの地のよい点を吸収し、それが彼の今後の人生においてよき思い出・財産となることを願っている。

人生は決まり文句で
アイヌ アナネ ピ
aynu anakne Pirka  
佐々木 利和(ささき としかず) 本館先端人類科学研究部
アイヌ研究を通して
 アイヌ口承文芸の研究で知られる、萩中美枝さんに『アイヌ文化への招待』という好随筆集がある。萩中さんはアイヌ語学者知里真志保(ちりましほ)氏の奥様であられた。そんな関係もあってか、この随筆集には知里氏とのさまざまな思い出を綴った一節がある。
 標記のアイヌ語はそのなかに見えることばである。
 アイヌ アナクネ ピリカ aynu anakne Pirkaとは「アイヌ・は・うつくしい」という謂である。旧制第一高等学校時代、知里氏はその出自ゆえにさまざまな悩みを抱いていた。そのころの日記に見えるという「アイヌは呪われている…」の一条は強烈である。アイヌの形質的な特徴が大きな負担となってのしかかる。そして自分の意思や思いとは関係なくふりかかる差別と偏見(残念ながら現在もある)。
 萩中さんはいう。シャモ(和人)による「同化はことばをうばい、アイヌがアイヌの神に祈ることを忘れさせた」と。そして「アイヌ アナクネ ピリカ」は知里氏が「自分のアイヌ研究を通して、アイヌ研究のなかでいいたかったのだ」とも。

人間・は・うつくしい
 ひるがえって、昨年九月には国連総会で先住民族の権利に関する国連総会決議が採択され、本年六月には衆・参両院本会議でアイヌ民族を先住民族とすることを求める決議が全会一致で採択されている。そしてその決議の下、内閣官房に「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設けられている。
 その第二回、北海道ウタリ協会理事長の加藤忠委員は報告のなかで、人間文化研究機構に触れ、民博を除いては「アイヌ民族関連の研究スタッフがおらず…人間文化を取りあつかうのであれば、同じ人間のアイヌを仲間はずれに」せず、国家プロジェクトとしてとらえるべきであると述べられた。
 加藤氏のこの指摘は重要である。いうまでもなく日本の人文・社会の学問体系のなかでアイヌは忘れられているといっていい。日本歴史研究においても、日本文学研究においても、日本語研究においてもアイヌの姿を認めることは困難である。学問の世界においてすらアイヌは差別されているのである。
 アイヌの原義は神に対する人間である。
 知里氏が願った「アイヌ アナクネ ピリカ」が本義の「人間・は・うつくしい」と読まれる日が本当に早くおとずれるように願ってやまない。


外国人として生きる
ふたつのことばで落語がもっている笑いのパワー全開!
藤井 幸之助(ふじい こうのすけ) 神戸女学院大学非常勤講師
在日コリアン三世の落語家
 笑福亭銀瓶(しょうふくていぎんぺい)さんの職業は落語家。この一〇月で四一歳になった。大阪を中心に高座、テレビ、ラジオ、で意欲的に活躍している。
 生まれ育ったのは神戸で、民族名は沈鍾一(シムヂョンイル)といった。祖父母の代に日本に渡ってきた在日朝鮮人三世にあたる。ずっと日本の学校に通い、朝鮮語もわからなかった。
 成績優秀だった銀瓶さんの将来の夢は学校の先生だった。しかし、外国籍であることから先生になることは困難だと思い、アボヂ(父)の「エンジニアになれ」というすすめで、工業高等専門学校(高専)へ進学する。
 民族名を名のるようになったのは、高専二年のとき。たまたま参加した朝鮮奨学会のサマースクールで、民族名で生きる同世代の同胞に出会ったのがきっかけだった。
 しかし、学生時代、将来への具体的な夢をもてないままであった。卒業後の進路に悩んだあげく、人を笑わせることを仕事にできればと、一九八八年に笑福亭鶴瓶(つるべ)さんに弟子入りした。
 当初、タレント志望であったが、師匠の芸の深さが落語から来ていることがわかり、同時に落語のおもしろさを感じ、次第に落語家を目指すようになった。

朝鮮語で笑いを伝える
 銀瓶さんは今、日本語だけでなく、じつは朝鮮語=韓国語でも落語をはじめている。日本人の多くにとって落語は日本語で語られるものである。にもかかわらず朝鮮語で落語をしようと思ったのには、落語のおもしろさを朝鮮語でも伝えたかったからだ。自分の特色もそれでこそ出せると思った。
 ラジオのレポーターとして、みんぱく特別展「二〇〇二年ソウルスタイル 李さん一家の素顔のくらし」の取材で韓国に行った。ソウルに李さん一家を訪ねたが、このときはことばがまったくわからず、通訳を介してインタビューすることが非常にもどかしかった。
 二〇〇四年秋、ときあたかも韓流ブームの最中。ビートたけしが主人公の在日朝鮮人を演じる映画「血と骨」の冒頭の部分を観て、自分のなかにある朝鮮の血が騒いだ。
 「やっぱりことばができんとアカン」。
 早速、NHKハングル講座のテキストを買ってきて勉強しはじめた。久々の勉強だったがスラスラ頭に入ってくる。この調子なら、そのうち話せるようになると思った。
 「自分は落語家だから韓国語で落語をすれば、もっと語学の勉強になるし、日本のすばらしい文化である落語で韓国人を楽しませたい」と思った。
 「動物園」というネタを知り合いに翻訳してもらい、一ヵ月半で丸覚えした。それでも、落語のおもしろさが、ことばをこえて朝鮮語でも伝わるのか、不安でもあった。
 二〇〇五年二月、朝鮮語のわかる人に聞いてもらおうと、大阪朝鮮高級学校ではじめて披露した。結果は生徒たちに大ウケだった。なにより自分の朝鮮語が通じたことがうれしかった。そして、落語がことばをこえたことも。
 二〇〇五年秋、銀瓶さんははじめて韓国ソウルで日本語を学ぶ大学生の前で日本語と朝鮮語で落語をやった。そこでも笑いがとれた。それから毎年、韓国で落語会をしている。去年はみんぱく特別展で取材した李さん一家も見に来てくれて、今度は朝鮮語で会話ができた。
 演目も「動物園」「時うどん」や「宿題」(作:桂三枝)と、一年に一作ずつ増やしていっている。今年は四作目の「犬の目」だ。

両方の美しさがわかる存在
 銀瓶さんにとって、今年はまた特別な一年になった。
 四月に東京で、五月にソウルで日韓合同公演の演劇に出演したことだ。一九七〇年前後の、関西のとある焼肉屋を営む在日朝鮮人家族と隣人たちの人間模様を描いた「焼肉ドラゴン」(作:鄭義信(チョンウィシン))だ。劇中では朝鮮語が飛び交う。
 稽古(けいこ)中から、韓国の役者、スタッフたちとのやりとりが銀瓶さんにとっては生きたことばを学ぶ限りなく貴重な時間となった。
 孫が朝鮮語で落語をやることをことのほかよろこんでくれたハルモニ(おばあさん)が東京公演中に亡くなった。通夜も葬式も行けなかったので、ソウル公演にはハルモニの写真をお守りにもって行った。
 銀瓶さんは今も忙しい仕事の合間に時間を作って、朝鮮語の勉強に余念がない。少しずついえることが増えていくのが楽しくて仕方がない。確実にことばが身についてきていることを実感している。
 朝鮮語で落語をやるときの銀瓶さんは生き生きしているといわれるし、自分でもそう思う。朝鮮語でやることで、日本語の落語にも深みが出てきた気がする。
 「ウリマル(私たちのことばの意)で落語をやるようになって、韓国語の美しさがわかるようになりました。そして日本語も美しいと思うようになりました。ぼくたち在日は韓国語と日本語の両方の美しさがわかる存在なんです」と銀瓶さんは言う。
 落語がもっている笑いのパワーを、今日も銀瓶さんはふたつのことばで全開させている。

歳時世相篇(9)【12月の犠牲祭】
動物たちの受難
クリスマスのブタ
 クリスマスを間近に控えた一二月、ルーマニアの多くの村々ではブタの悲しげな鳴声が響き渡る。春の市場で手にいれ、ほぼ一年間、手塩にかけて育てたブタを食用に屠殺(とさつ)する季節がやってきたのだ。
 冬の朝は寒い。しかし、ブタは運命を予感するのか、農家の主人と手伝いの人が近づくと悲しげな声をあげて逃げまどう。数人で大汗をかきながらブタの巨体を押さえつけ足をしばり、そして喉を掻き切る。
 次に毛を焼く作業が始まる。これには二通りの方法がある。藁(わら)で大きな火をおこし、そのなかでいっぺんに毛を焼いてしまう。あるいは、火を噴く手回しのふいごを用いる。これで丹念に毛を焼いていく。
 それが終わると、ブタを頭から尾まで真っ二つに両断する。ここで作業を見守る子どもとネコにご褒美である。尻尾と耳を切り取り、かじるのだ。火であぶられた軟骨は、こりこりとして意外に美味しい。あとは、ブタの巨体をなにひとつ無駄にすることなく丹念に解体していく。皮をはぎ、肉を切り出す。内臓を取り出し、よく洗う。腸はきれいに洗って、ソーセージの皮にする。そして骨や皮から肉をそぎ落としてソーセージのなかにつめるミンチをつくる。できあがったら、農家の屋根裏につるし、台所のかまどから出る煙でスモークする。
 すべての作業が終了するのは、お昼過ぎである。これでクリスマスの御馳走の材料はそろった。あとはケーキを焼き、大掃除をして聖なる救世主の降誕日を迎えるばかりとなる。このブタを冬に屠殺する習慣は、同じ東ヨーロッパの隣国セルビアなどでも盛んである。

犠牲祭とヒツジ
 一方、ムスリム住民の多い諸国では、年によっては冬にヒツジが受難の時を迎える。イスラーム暦(ヒジュラ暦)の一二月一〇日から四日間にわたっておこなわれるイード・アル=アドハー(犠牲祭)である。犠牲祭の日時はイスラーム暦が太陰暦であるために、現代のヨーロッパ暦(グレゴリウス暦)では毎年一〇日ほど日がずれて一定しない。この日は世界中のムスリムによるメッカへの巡礼の最後を締めくくり、アブラハムが息子をアッラーへの犠牲として捧げた事を記念する。おそらく世界中で何万匹ものヒツジが、あえない最期を遂げる。
 トルコのコンヤという都市で、かつて犠牲祭を迎えたことがある。犠牲祭そのものは旅行者がかかわるものではなく知らぬ間に終わっていたが、驚いたのはその翌日である。街角のあちらこちらに、ヒツジの頭と皮の山ができている。殺されたヒツジの数を想像させる膨大な量だ。
 犠牲祭は、当然のことながらムスリムの暮らす地方ならどこでもおこなわれる。イスタンブルの街の片隅に、古都にふさわしくない一群のヒツジを見つけることもある。また、コンヤでの話だが、路上でふっと空を見上げたときに、二階のバルコニーでヒツジを解体しているのを見たこともある。まさに庶民の生活空間に根付いた行事なのだ。

家畜文化と宗教
 ヒツジやブタなどの家畜動物を屠(ほふ)る人びとを見ると、キリスト教もイスラームも動物の屠殺という点で同じ性格をもつことを実感する。日本のような農民社会では想像できない家畜とのつきあい方だ。
 アブラハムによる供犠の物語は、旧約聖書「創世記」の一節に感動的に描かれている。アブラハムが神の命令により、息子を生贄(にえ)に捧げようとする。わが子の首にまさに刃をあてようとしたとき、神はいう。おまえの信仰は証しされた。息子の代わりにヤギを屠るがよい、と。これが身代わりの犠牲(贖罪(しょくざい)の犠牲)の始まりである。
 大切なものを捧げるという点では、ほとんどすべての宗教は共通している。喜捨であれ、お布施であれ、わが身の一部を捧げ信仰をあらわす行為だからである。ただし、動物供犠というのは、さすがに生々しい。
 動物供犠に関する研究は、ヨーロッパの民族学のなかでも古くからある。もともとキリスト教徒の供犠への関心は深い。イエス自体が贖罪の生贄としての性格をもつからであろう。つまり、十字架上の死によって罪深き人間と神との和解を実現したとみなされるということだ。
 いずれのお祭りも、その先行きにEU加盟が暗雲をなげかけている。ルーマニアもトルコもEU加盟を念願し、コペンハーゲン基準といわれる加盟基準の遵守に努めてきた。政治的基準、経済的基準、EU法の総体の受容を骨子とする。さらにアキ・コミュノテール(EU加盟国が基本条約に基づいて積み上げてきた法体系の総体)も遵守しなければならない。これらの基準は、ヨーロッパとは何かという定義ともかかわる。
 そこから生じた、事実上、西ヨーロッパを標準とする圧力のもとでは、あからさまな動物の屠殺ということが、動物愛護の観点からも、血なまぐさく不衛生という点からも好ましくないのだ。すでに加盟している国々でも、手作りチーズすら不衛生だと問題になった。したがって、EU加盟を熱望するトルコでは公共の場で屠殺をしないようにと指導されているらしい。めでたくEUに加盟したルーマニアでも、よき加盟国メンバーとしてふるまうためには配慮が必要とされる。おそらく、西ヨーロッパ標準のもとでは、家畜は動物愛護の精神をもって苦痛なく合理的に屠殺されるべきなのだ。それが神から自然界の管理者としての特権的な立場を与えられたと信じるキリスト教徒の優しさなのだろう。
 キリスト教のミサ(聖餐式)では、パンとワインをイエスの肉と血とみなし、それによってイエスの身体を象徴的に食する。またスペインなどの教会に描かれたイエスは、槍に貫かれた傷と十字架に足を打ち付けた釘による傷から出た血にそまり苦悩に満ちている。動物の屠殺(供犠)を通して、なかなかに複雑な家畜文化と宗教のつながりが見えてくる。


生きもの博物誌 【アジアゾウ】
 武器になった生き物
 人間に調教され、見世物になったり、重機になったり、乗り物になったゾウは、賢く従順に見えるが、いったん暴れると凶器と化す獰猛な動物なのである。人間はゾウのこの破壊力をも利用しようとしてきた。

戦象という武器
 戦車ならぬ「戦象」は、インド、東南アジア、古代地中海世界において、敵を威圧し戦列を破砕するための、強力な生体兵器として用いられた。騎兵や歩兵よりもずっと高い位置から、しかも移動をしながら矢を放つことができる。さらに皮膚が比較的分厚いため、ウマなどに比べ矢や槍に強かった。まさに動く要塞であったわけである。一方、機敏な動きができず、パニック状態になると制御できなくなるという難点もあったらしい。
 戦象が登場する歴史上の有名な合戦といえば、ヒュダスペス河畔(現ジェルム川、パキスタン)におけるアレクサンドロス大王とインド王ポロスとの戦い(紀元前三二六年)がまず挙げられる。インド側には二〇〇頭ほどのゾウがいたとされ、アレクサンドロスの苦戦ぶりはアッリアノスやクルティウスなどの歴史家が詳細に記している。ポロス軍の戦列正面に配された戦象集団に、さすがのアレクサンドロスも初めはたじろぐが、敵の左翼と背後からまわり込み、飛び道具で象使いを狙い、斧や鎌でゾウの足や鼻を攻めた。激戦の末に御者を失い、傷を負ったゾウは暴れ狂い、敵も味方も見境なく蹴散らし始めたために戦列は乱れ、結局インド軍は退陣する。

伝説と化す
 わたしが研究するアレクサンドロスにまつわる伝説のなかで、この戦象の場面はハイライトのひとつである。アレクサンドリアで紀元後三世紀までに成立したとされるギリシア語の「アレクサンドロス物語」では、アレクサンドロスが持ち合わせていた銅像を熱してゾウの前に投げ出し、それを鼻でつかんだゾウが大火傷をして退散したという話になっている。
 また、「アレクサンドロス物語」の影響を受けたであろう九世紀のアラブの歴史家ヤァクービーは次のように書いている。
 アレクサンドロスは不意を討って国に攻め込んだが、 ポロスは反撃した。ポロスは戦象を投入したのである。その大きさはアレクサンドロスをはるかに上回るものであり、対抗の仕様がないように見えた。しかしアレクサンドロスは銅像を作らせた。なかはナフサと硫黄で満たし、火を入れ、速力を高め、外側には武器を施した。軍の先頭を走らせ、敵軍が近づくと、ゾウに向かってけしかけた。ゾウは鼻で襲い掛かり、銅像に巻きつけた。ところが鼻は焼け焦げ、ついにゾウどもは逃げ出した。

焼き豚特攻隊で対抗
 ローマの著述家アエリアノス(一七五年ごろ~二三五年ごろ)の『動物の本性について』にも気になる記述がある。アレクサンドロスの後継者の一人アンティゴノスはメガラ人と戦った際に、戦象を動揺させるために、ブタに液状のタールピッチを塗り、火をつけ放した。火達磨となってキーキーと鳴きながら走り回るブタにゾウが怯えたという。
 こうした古代、中世の戦象のエピソードを読むと、なぜか「スターウォーズ―帝国の逆襲」で帝国軍のAT-AT(全地形装甲トランスポート)を反乱同盟軍の勇士たちが撃退する場面を思い起こすのである。映画製作者の舞台裏話によると、あの四足歩行の巨大な装甲車はゾウの動きをもとにしたストップモーション・アニメーションだというから、あれもやはり武器と化したゾウなのである。

アジアゾウ (学名:Elephas maximus)
哺乳(ほにゅう)綱長鼻目ゾウ科。インド、スリランカ、ミャンマー、スマトラ島、ボルネオ島北部に分布。体長は500~640cm、尾の長さは100~150cm、体の高さは200~300cm。体重はオスは平均4~5トンで、メスは2~3トン。胴体は中央部でもっとも高くなる。アフリカゾウに比べるとやや小型。人間によるゾウの飼育と利用の歴史はかなり古いとされる。モヘンジョ・ダロからは、すでに紀元前2500~前1500年にアジアゾウを家畜として使用していたことを示唆する出土品が見つかっている。



フィールドで考える
呪術から見る民族関係―東マレーシアの華人と先住民
日常での関係を研究
 マレーシアはマレー半島に位置する西マレーシアと、ボルネオ島北西部に位置する東マレーシアというふたつの地域から構成される国家である。わたしは東マレーシア側のサラワク州に居住する華人(中国系移民)を対象としたフィールドワークをおこなっている。調査テーマのひとつは、華人とマレーシアの他の民族、特に先住民との関係についてである。
 マレーシアの華人はこの国の総人口の四分の一を占める。マレーシアにおける華人と他の民族との関係にはこれまでも多くの研究者が注目してきた。だがそうした研究は政治経済的な問題をテーマとすることが多く、日常的なレベルでの華人と他の民族との関係は十分に研究されてこなかった。

先住民の呪術のイメージ
 マレーシアは典型的な多民族国家である。特に東マレーシアには数多くの少数民族が居住している。サラワク州の華人も当然、このような少数民族とさまざまなかたちで交流することになる。だが都市部に居住する華人のなかには、おもにボルネオ島内陸部に居住する先住民と接触する機会がそれほど多くない者も存在する。そのためか、このような華人のなかには、先住民に対しエキゾチックなイメージをもつ者がいる。そしてそのイメージは、しばしば呪術的な色彩を伴うのである。
 これから先住民の住んでいる地域に行く、とわたしが言うと、東マレーシアの華人の友人たちはときどき、冗談半分に以下のようなことを言うのであった。曰く、先住民のなかには呪術を使う人が大勢いる。特に女性には気をつけろ。例えば誰か女性がお前を好きになると、お前に呪術をかけるかもしれない。そうすると、お前は理由もわからずその女性を好きになり、結婚して先住民の村のなかにとどまってしまうだろう…。そしてこのような呪術にまつわる話は、しばしば自分たちの親族や友人の身に起こったこととして語られるのである。
 二〇〇七年、わたしはラジャン川下流の町シブから船に乗り、七時間ほど遡ったところにあるブラガという町を訪問した。ラジャン川はサラワク州内で最大の河川であり、上流域にはイバンやカヤン、クニャーといった先住民が多数居住している。これらの先住民は、現在では都市部に出稼ぎに出たり、林業会社の伐採キャンプで働いたりしているが、もともとは川沿いにロングハウスとよばれる高床式の長屋風の家屋を建てて居住し、山の斜面を切り開き焼き畑を作るという生活を送ってきた。
 シブに住む華人の友人たちに言わせると、このような上流域の先住民が、下流から訪れる華人にしばしば呪術をかけるというのである。特に食べ物に呪薬を混入させることにより相手の理性を麻痺させ、正常な判断をできなくさせるらしい。そのような状態で先住民女性と恋に落ち、ロングハウスのなかにとどまらざるをえなくなる状況に陥ることを友人たちは恐れているようであった。
 例えば以下は二〇〇七年に友人の子どもの友達に起こった話である。一九歳のその華人男性は、林業会社で働くためにブラガを訪れた。あるとき、彼は伐採キャンプの近くのロングハウスに遊びに行き、先住民たちと酒盛りをした。どうやらその酒のなかに呪薬が入っていたらしい。彼はそのロングハウスに住む一六歳の少女と突然恋に落ち、結婚することに決めてしまったそうである。彼の両親はあまりに突然の出来事に動転したが、彼は先住民の少女をロングハウスに置き去りにすると自分は気が狂ってしまうだろう、と述べ、両親の言うことに耳を貸さなかったとのことである。
 呪術をかけられるのは男性ばかりとは限らない。例えば、ある華人女性は教師としてブラガにある小学校に赴任したときに呪術をかけられたと信じられている。彼女はその学校で、一人の先住民の男性教師と知り合った。彼女はその男性教員から言いよられたが、それを断った。だがわたしの友人たちによると、彼はその後、ひそかに彼女の食べ物のなかに呪薬を混入させて彼女の気を引こうとしたらしい。シブに一時的に帰っていたある日、彼女は突然正気を失い、体中に黄疸が出たそうである。彼女の家族は急いで病院に連れて行ったが、病因は不明だった。仕方なく、シブに住む先住民の呪術師に頼んでなんとか呪術を解いてもらったとのことである。それ以後、彼女は呪術を恐れ、ブラガに戻らないことにしたらしい。

未知の土地への不安
 現実には、上流の町やロングハウスは、呪術に満ち溢れた世界ではない。現在、サラワク州の多くの先住民はキリスト教を信仰しており、むかしから伝わる宗教や儀礼も次第に廃れつつある。多くの若者は教育や仕事のために都市に移り住んでいる。林業企業の従業員のなかには、パプアニューギニアやソロモン諸島といった国外の伐採地に赴任する者まで出てきている。アンテナさえあれば衛星放送も観ることができるし、若者たちはみな携帯電話をもっている。
 民族同士の関係は、政治的な対立や経済的な取引、あるいは自分たちが属する民族のアイデンティティといった部分にばかり目がゆきがちである。だがこのような集団としての民族関係だけでなく、華人や他の民族の個人個人が話す内容に注目すると、都市部と農村部、よく知っている土地とよく知らない土地、といったさまざまな要因がお互いの民族イメージをかたち作っていることがうかがえる。 
 東マレーシアの華人から聞いた先住民とその呪術に関する話には、日常的に頻繁に接触するわけではない、よく知らない土地に居住する人びととの民族関係や、お互いがもつイメージを考察するうえでのヒントがあるように思われる。下流に住む華人たちの呪術に関する話は、よく知らない土地に対する不安感が増幅させている部分があるのかもしれない。このような具体的な日常生活の場で見られるエピソードから、民族関係をとらえなおしてゆきたいと考えている。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
 今年もいよいよ年の瀬をむかえる。忘年会のシーズンでもあるが、わすれがたい記憶としては毒入り餃子事件からはじまって、原油価格の高騰、北京オリンピック、金融危機、そしてオバマ氏の大統領当選などがあり、話題に事欠かない一年であった。民博では30周年の記念事業が無事終了し、『月刊みんぱく』では編集長の交代があった。
 その新編集長は手塚ファンと見えて、12月号は手塚治虫の生誕80年を記念する特集になった。わたしは手塚治虫の講演を一度だけ聴いたことがある。20年以上も前のことで、場所はサンパウロの日伯文化協会の講堂だった。その講演のなかで、手塚治虫はアトムの誕生秘話にふれ、もともとは女の子のキャラクターだったことを明かされた。アトムの赤い靴はその名残であろうか。詳細は記憶にないが、その話だけはアトムと聞くと、反射的に思い出される。
 ところで、本号の「歳時世相篇」によると、ルーマニアでは12月になるとブタの悲鳴があちこちから聞こえてくるそうだ。日本では何が聞こえてくるのだろうか。焼芋屋の売り声か、ジングルベルのメロディーか、それとも金融危機のあおりをくった経営者やサラリーマンの悲鳴か。何はともあれ、どうぞよいお年をおむかえください。(中牧弘允)



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