国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2009年1月号

2009年1月号
第33巻第1号通巻第376号
2009年1月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
公共文化施設の役割
田村 孝子
 静岡県は県立劇場に専属の劇団《SPAC》をもつという、日本では先進的な文化政策をとっている県です。ですから演劇については東京でも経験できないような世界の最先端の作品に触れられるばかりでなく、静岡の舞台作品は世界で上演されています。でも、その意義・価値を理解している方は残念ながらほんの一部なのです。そのうえ、美術館はありますが、博物館はなく、音楽・ダンスなど他の上質な芸術に触れるチャンスがほとんどないのも現実です。簡単に東京や名古屋にアクセスできる静岡では、その必要性を感じていない方が多いのかもしれません。子どもたちや年配層、障がい者は何の経験もできない事に気づいてほしい!地域で豊かに暮らすためには、さまざまな上質な文化が身近に存在する事が大切ではないでしょうか。
 二〇〇八年七月、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のブラスクインテットを招聘(しょうへい)したおりに、市内の視覚特別支援学校での出前コンサートをお願いしました。セミの声が聞こえ、開け放たれた窓から風が…。でも体育館は飛びきりのコンサートホールでした。赤いバラ一輪ずつを手渡し、オランダ語、日本語、英語で「ありがとう」とうれしそうにお礼を言う子どもたち、それに答える演奏家たちのやさしい眼差し…。「これが本当の音楽だと思った」「一生に一度の経験だと思う」。子どもたちの感想に、大人の責任を痛感しました。
 二〇〇八年秋、東京と新潟の小学校でニューヨーク・フィルのティーチング・アーティストによる出前コンサートがありました。先ず音楽で子どもたちを引きつけ、六人全員が語りかけながらすすめられました。さまざまな国の音楽を取り上げることにより、多様な文化に自然に触れさせるものでしたが、アーティストたちの変わらぬ笑顔が何よりのメッセージ、まさに音楽を通じての心の交流と実感しました。NYで公教育から芸術がなくなった一九七五年から、危機感をもって始められたこの様な取り組みは、今欧州でも盛んに実践されています。さなざまな分野の芸術団体に限らず、劇場や美術館、図書館などに専門家がいるのです。《芸術文化が社会に果たす役割》。その力を信じて弛まぬ努力が続けられています。
 日本でも、行政、地域住民、芸術家等関係者それぞれが連携を図り公共文化施設が地域の豊かさを育む人びとの集う場になればと心から願っております。

たむらたかこ/東京都出身。1965年慶應義塾大学文学部卒業。同年NHK入局。副会長秘書を経て、1968年から音楽番組ディレクターとして「あなたのメロディー」「N響アワー」「ときめき夢サウンド」「ジュリー・アンドリュース&アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団コンサート」などの人気音楽番組を手掛ける。1997年から芸術・文化担当の解説委員として文化行政への提言や情報発信に努める。2007年より静岡県コンベンションアーツセンターグランシップ館長。


特集 ウシ
 人間とウシとのかかわりは古い。旧石器時代末期に描かれたとされるスペイン北部のアルタミラ洞窟壁画のなかに野牛が多く見られ、地中海一帯には、ギリシア神話のミノタウロスにも見られるように牡牛を豊穣と精力、凶暴な力の象徴とする「牡牛信仰」があり、現在のスペイン闘牛の精神に引き継がれている。牝牛も豊穣と恵みのシンボルであり、ヒンドゥー神話の「乳海撹拌(にゅうかいかくはん)」の場面も牛乳の恵みをあらわすものだろう。聖牛スラビも重要な役割を果たしていて、これは菅原道真につきものであるウシにも関係する。また、古代バビロニアを発祥とする黄道十二星座には牡牛が登場し、中国の十二支にも影響を与えたといわれる。
今年の干支はウシである。乳も含めた食料源や役牛として人とのかかわりの深いウシを、さまざまな角度から考えてみたい。

古代インドのウシの儀礼
永ノ尾 信悟(えいのお しんご) 東京大学東洋文化研究所教授
増殖を願う祭式
 今から三〇〇〇年ほど前のインドでは人びとの生活は牧畜を中心に営まれていた。ウシやヤギがかわれていた。この時代のインドでは人びとはさまざまな願いの実現をめざしていろいろな神まつりや儀礼をおこなっていたが、それらのなかで、ウシやヤギなどの家畜が犠牲獣として捧げられたり、ヨーグルトやバターなどの乳製品も供物として用いられていた。
 ミルクを供給してくれる動物として牝牛は大切にされていた。牡のウシは多くは去勢されて荷車を引くために、また、耕作のために使用されていた。そのように大切な家畜であったために、今から二五〇〇年以上前の、インドでもっとも古いヴェーダ文献ではさまざまな神まつりが記述されていて、家畜を望むためにおこなわれるものも多くあった。一般的に家畜という語が用いられるが、多くの場合ウシを願っていたと考えられる。
 サーラスヴァタ・サットラという祭式があった。現在、インドとパキスタンの国境のあたりを流れるサラスヴァティー川が砂漠に消えてしまうところから出発して、その川の源流をめざして、毎日杭を投げた距離だけ進みながらおこなわれる。ウシを一〇頭か一〇〇頭連れて出発し、そのウシの数が一〇倍になったら終了するというものである。毎年二倍になると単純に計算しても、四、五年はかかるほど、長いあいだにわたっておこなわれる祭式である。一〇倍にするということからウシの略奪行と考える研究者もいるが、わたしは多分、遊牧の生活そのものを儀礼化した、ウシの増殖を願う祭式であったのではないかと考える。
 ウシの群れは基本的に乳を供給する牝のウシからなっていて、去勢されていない牡のウシはわずかしかいなかったと思われる。その種牛が年をとってしまうと、新しい若い牡のウシを群れに放つ儀礼がおこなわれていた。家庭でおこなわれる儀礼を記述する文献に主として記述されていて、秋におこなわれた。家畜たちの安全を守ってくれるプーシャンという神に溶けたバターを捧げ、家畜の主とされるルドラという神に賛歌を捧げるなどしておこなわれた。この文献群より古い時代の記述では、老いた種牛はインドラとよばれる神などに犠牲獣としてささげられていた。

祖先崇拝の儀礼へ
 時代が下がり、ヒンドゥー教の時代になると、この種牛放ちの儀礼はもちろん独立した儀礼としてもおこなわれていたであろうが、葬送儀礼や祖先崇拝の一環としてもおこなわれるようになっていく。祖先の霊は生きている人間が与える水や食べ物によりあの世で生活するという考えがあった。ある人が放った種牛が飲んだ水、食べたものが、その人の祖先の霊の水や食べ物になると説明されたり、種牛放ちの儀礼をおこなった者は、過去一〇代、未来一〇代の親族を救うことになるなどと説明されていた。
 ため池の完成を祝する儀礼で、そのため池を寄進した人は、ウシの尻尾をつかんでため池を渡るとされる。そのご利益は、そうすることで、死後この世とあの世のあいだの川を無事に渡ることができるとされている。
 新年号に死にまつわる話を書いてしまって縁起でもないといわれるかもしれないが、「門松や冥土の旅の一里塚」とかで、お許しを願いたい。


ウシと乳がもたらす富
平田 昌弘(ひらた まさひろ) 帯広畜産大学准教授
利用し尽くされる家畜
 ウシこそ人類の富の源泉である。ウシは、食肉や乳・乳製品を供給するだけでなく、役畜としての動力源、皮革などの衣類、肥料や燃料となる糞をも人類に提供してくれる。かつてエジプトやメソポタミアでは、ウシに牽(ひ)かせた犁(すき)農耕を利用するようになったことで、作業効率が向上し、糞尿が耕作地に還元するなど、ムギなどの生産性が飛躍的に向上し、これによって交易をもたらす余剰生産物を蓄積させ、労働の分業化や支配層の階級化を進展させていった。これらの力の源泉にウシの存在があったのである。肉・乳・使役の目的で飼養されている家畜にはスイギュウ、ウマ、ロバ、トナカイ、ラクダがいるが、農耕と密接に連動し、これほどまでに利用し尽くされる家畜はウシより他にない。

乳と乳加工
 ヒツジ・ヤギの家畜化は西アジアの山麓でBC七〇〇〇年ごろに起こり、ウシはそれよりも一〇〇〇年ほど遅い。当初、ヒツジ・ヤギそしてウシは肉をえるために飼養されていたが、やがて家畜から乳が搾られ始める。ほぼ完全栄養食である乳を、我々の祖先は見逃すはずがなかった。搾乳は、遺跡出土の土器分析により遅くともBC六〇〇〇年代後半には開始されていたと推定されている。搾乳は先ずヒツジ・ヤギから始まり、ウシの搾乳はヒツジ・ヤギからの技術伝播により開始されたと考えられている。搾乳を始めたことにより、家畜を殺して肉を食さなくとも、家畜を生きたまま留め、その副生産物の乳を利用して生活できるようになった。乳を利用することで、家畜に生活の多くを依存できるようになり、生業の一形態としての牧畜が成熟していったのである。まさに、搾乳という技術の発見は人類史における一大発明であったといえよう。
 乳に一年を通して依存するならば、乳が不足しがちとなる冬をのりきらなければならない。だからこそ、乳が豊富にとれる夏に乳を加工するのである。乳加工の本質は保存にある。生乳を乳酸発酵させ、脱水し、天日に曝(さら)すだけで、数年も保存可能なチーズへと変貌する。搾乳の発明以後、約八〇〇〇年のときをかけ、人類は乳加工技術と乳製品とをさまざまに蓄積してきた。現在では、地域に適応した乳加工技術と乳製品がそれぞれに発達し、極めて多様な様態を呈している。乳加工技術を大観すれば、アジア大陸では北方域と南方域とはそれぞれ特徴を異にしている。北方乳文化圏では、乳からクリームを積極的に分離し、酒をも作り出している。南方文化圏では、酸乳を攪拌(かくはん)/振盪(しんとう)することによりバターを加工し、ウシの胃で生成される凝乳酵素(レンネット)を利用してチーズを加工している。乳加工・利用におけるウシの貢献は、より小頭数の家畜で、より多くの乳がえられ、多量の乳製品の製造を可能にした点にある。定住しながら家畜に依存した生活、多様な乳製品を産み出し、人類の生活を豊かにしてくれた存在、それがウシなのである。このように、ウシ、そして乳にまつわる一連の文化事項は、人類の文化遺産といっても過言ではない。


水牛を観る目
高井 康弘(たかい やすひろ) 大谷大学教授
角のかたちと性格
 ラオスの首都ヴィエンチャン郊外の屠場に行ったことがある。しかし、書類が不備で場内に入れてもらえなかった。せっかく来たのにと思いながら、仕方なくあたりを眺めていると、屠場前の草原のあちこちに水牛(アジアスイギュウ)が佇んでいる。各地から大型トラックで連れてこられた水牛である。角には所有者を示す白ペンキが塗られている。最初は気づかなかったが、角のかたちには個性がある。上方に立った角や水平に開いた角や下方に垂れた角。長い角や短い角。さまざまである。同じく所在なげにしていたトラック運転手と話しているうちに、角のかたちをあらわすことばをいくつか知ることができた。
 以来、農村で調査する際、角のことを訊くようにしてきたが、角のかたちと性格や能力を結びつけた説明にしばしば出合った。いわく、たとえば、丸くカーブした角の水牛はおとなしい。逆に、両角が水平気味に開き、角先が上向いた水牛は気が荒い。ラオスでは耕起の際、水牛に犂や耙(まぐわ)を装着し、背後から人が鼻紐をもって方向を指示し曳かせるので、水牛と人はともに水田に入り間近で協働することになる。気の荒い水牛は人を傷つけかねないので、開いた角の水牛は敬遠される。そんな水牛は(御者と水牛のあいだに距離がある)荷車用だったと言う。放し飼いの水牛の場合、牡同士はしばしば争うが、人びとはその様子も見ている。いわく、開いた角の水牛は、その角で相手の脚を折る戦法をとる。角のほか、尻尾も目の付けどころである。尻尾が長い牝は仔の世話をよくするとされる。
 ただし、前述のような形状と性格や能力との相関が、本当にどの程度あるのかについては不明である。また、人が品種改良を意図して、特定のかたちの個体同士の交配を試みるような事例にも出合っていない。

役畜から食材へ
 そうこうするうちに、一九九〇年代以降、ラオスでは水牛肉の流通が活発化し、また農業の機械化が進んだ。人びとが水牛を観る目は変わりつつある。そこでは当然ながら、水牛の役畜としての性格や能力はもはや評価のポイントではない。業者はどれほど肉が採れるかの一点で水牛を品定めする。その際、角のかたちなどは判断材料にならないようである。
 肉の味はどうだろうか。水牛の場合、本来の黒い肌に黒色の体毛の個体のほか、薄ピンクの肌に白毛のアルビノ(白化個体)をかなりの頻度で見かける。黒色水牛における味の偏差の話題は聞いたことがないが、アルビノは肉の色が薄く、味も旨くないという。人びとは市場に並ぶ水牛肉を見て、色の薄いアルビノの肉を、業者が赤く染めて黒色水牛の肉に擬して売っているのではと疑い、もはやどんな水牛の肉か弁別不可能になった状況を嘆く。ともあれ、彼らは買った水牛の生肉を細かく刻み、香草などと和えて、ラオスの代表的料理ラープに仕上げて、蒸したモチゴメとともにほおばるのである。


ウシの目覚ましはツツツツツツツ
縄田 浩志(なわた ひろし) 総合地球環境学研究所准教授
 ウシは、早朝これから放牧に行くというときに、牧夫が発する音「ツツツツツツツ」で起こされる。この音は、歯茎破裂/摩擦音、つまり上の歯茎のところに舌をこすりつけた後に破裂もしくは摩擦させて発する音である。牧夫は寝そべっている数十頭のウシの群れのあいだを歩きまわりながら、ときには放牧用の棒で臀部のあたりを軽くポンとたたきながら、それぞれのすぐ脇まで行って呼びかける。ただ呼びかけるといっても、この音は非常に弱い静かな音にしかならず、数十メートル以上先には達しない。しかしウシにとって「ツツツツツツツ」は、甲高くてはっきりと聴きとりやすい音、いわば「目覚まし」なのである。
 それではなぜ、この「目覚まし」がウシにとって聴きとりやすいといえるのか。音響分析を施した結果、わかってきたことである。

ウシ管理に用いられる音声の音響分析
 スーダン東部紅海沿岸の沙漠に暮らすベジャ族の村で、牧夫にデジタル録音が可能なミニ・ディスクをとりつけてもらい、音声を録音した。そして、サウンドスペクトログラフを用いて音響学的な記述を試みた。
 すると、ウシの群れを起こしてこれから放牧に向かうというときに発せられる音声「ツツツツツツツ」は、四~八キロヘルツの高い音域の音声であることがわかった。じつはウシとヒトの可聴域は異なっている。もっとも弱い音でも聴きとれる最適の周波数は、ヒトでは一~四キロヘルツに対して、ウシは八キロヘルツであるといわれる。したがって、四~八キロヘルツの歯茎破裂/摩擦音は、ウシにとってもっとも弱い音でも聴きとりが可能な周波数であり、寝ているウシに放牧へ向かうことを告げ、群れの移動を促すために非常に適した音だったのである。牧夫がウシに発する音声「目覚まし」を音響的な側面から切り取ってみると、ある種の機能性の存在が浮かび上がってきたといえる。

ヒトとウシの相互関係をかたちづくる「家畜語」
 ほかにも、ウシが草を食んでいるあいだ(採食行動中)に発声される音声として、「プルル」、「ウァー」、「ウォ」などがある。「プルル」は両唇破裂音であり、「ウァー」、「ウォ」は抑揚のある母音である。群れの起動に用いられる音声「ツツツツツツツ」と比べた場合、これらの音声はヒトにとっては声帯を使ってより大きく発声できるため、遠くにまで届く。また抑揚があることが特徴的である。これらの音声はウシたちが安心して草を食めるように発声していると牧夫はいう。抑揚をつけた音声を連続して発声することにより、ある程度離れていても牧夫がどこにいるのかウシにとって定位しやすくなっていると推察される。
 これらの音声は、ヒト同士のコミュニケーションに用いられる言語体系とは明らかに異なっており、ヒトと家畜のコミュニケーションやインターラクションに用いられる「家畜語」とでもよべることばである。
 人びとが世界各地で長い年月をかけて培ってきた伝統的知識の叡智は奥深い。まだまだわかっていないことも多い。その片鱗に少しは近づけたであろうか。


横綱牛は一族のほまれ
野村 雅一(のむら まさいち) 総合研究大学院大学理事・副学長 本館名誉教授
闘牛を映像に残す
 ウシとウシをたたかわせる日本の闘牛は、黒潮の流れに沿うように、今日、石垣島から沖縄本島、四国の宇和島や隠岐諸島、八丈島、新潟県の山間部などの各地でおこなわれている。なかでももっともさかんなのが奄美の徳之島である。
 じつは、わたしはその徳之島の闘牛の映像記録をとるために、一九九〇年秋、民博の映像音響の専門家、田上仁志氏ら撮影スタッフとともに徳之島へ出かけ約二週間かけてほぼ全島を撮影してまわった。そのときのことは、本誌一九九一年七月号「えすのぐらふぃてぃ」に「闘牛の島」というタイトルでかなり詳しく書いている。撮影隊一同、夢中になってとったその記録は民博ビデオテークでも見ることができる(番組名「徳之島の闘牛」)。

闘牛のむつかしさ
 ところで、ウシとウシをたたかわせるといったが、ウシは元来がおとなしい動物で、放っておけば静かに草を食むだけで、「けんか」などめったにしない。しかし、なかには闘争心をもって角と角と突きあわせようとするウシがいる。「闘牛」でむつかしいのは、まずそんなウシを見つけだすことだ。数十年も闘牛を飼ってきた牛主たちも、口をそろえて「ウシのことはわからない」という。競走馬とはまったくちがって、闘牛の血統というものはないのだ。
 闘牛は去勢されていない牡牛だが、生後三ヵ月くらいから売買され、五、六歳まで成長していく。闘牛としては一般に七、八歳から一〇歳までが最盛期といわれる。日本の闘牛は大相撲になぞらえられるが、闘牛大会での初土俵は四歳が目安とされる。
 しかし、闘牛になると思って大事に育てたウシのほとんどは「けんか」などやりたがらない。そんなウシは結局、肉牛として売り払われる(硬い筋肉ばかりなので関西方面でコンビーフなどにされると聞いた)。
 相手に背を向けると負けになるのだが、大会で勝利を重ねて、島の闘牛番付で、関脇、大関とのぼりつめるウシは何千頭に一頭という確率だ。
 闘牛を飼うのにはもちろん金もかかる。大関、横綱クラスになると、売値は当時で一〇〇〇万円以上といわれていた。それでもそんなウシを手放す人はめったにいない。そのクラスのウシは大会にでる出場料(ファイト・マネー)も一五〇万円くらいが相場だそうだ。もっともそのようなウシの値も、いったん負けると(負け方にもよるが)、一挙に数分の一以下に暴落する。恐怖感を知ったウシをなだめ、はげまして再起させるのはきわめてむつかしいからだ。「そこはウシ。ことばは通じませんからね」と島の人は言う。あわれ、名牛も売り払われ、食用に処分される。
 徳之島では横綱牛をもつのは一族、一村のほまれといわれるのだが、寿命をまっとうしたウシはいない。しかし、その晴れの姿の写真は牛主の家の長押(なげし)に、ご先祖の遺影と並べて祀るように飾られている。
 
モノ・グラフ
博物館のモノを透かして見ると
坂本 勇(さかもと いさむ) 駿河台大学非常勤講師
 文書修復家は、素材の特徴や歴史を五感を使って探求し、修復作業に活用していく習性がある。「透かし模様(water-mark)の入った紙」という観点から樹皮紙を追ってきたわたしであるが、民博所蔵の標本資料のなかでも面白い発見をした。それはハワイの樹皮布タパ(Tapa)である(写真1A)。これは、無地の地味な作品と見られてきたものだが、修復家が日常的に使う透過光で「透かして見る」と、何と樹皮布に美しい「透かし模様」が加工されていたのである(写真1B)。
 よく調べて見ると、この一括コレクション二五点のすべてに繊細な透かし模様が見つかった。この樹皮布の標本資料データには「ハワイのMauna Kea 又はMauna Loaの海抜九〇〇〇フィートの埋葬洞窟で発見」という記載があり、更なる探究心を掻き立てる。お宝の再発見だ。
 紙幣に見られるような「透かし模様」は、普段は気づかないが、光にかざしてみて初めて見える特質がある。古代から、人びとはなぜ普段は見えない「透かし模様」という高度な技術と道具を生み出し、使い続けてきたのだろうか? 樹皮布や樹皮紙に「透かし模様」を加工する道具が発見されているのは、今のところ世界でインドネシア・スラウェシ、メソ・アメリカ、そしてハワイの三つの地域だけである。スラウェシでは、「透かし模様」のある樹皮布がシャーマン用の帽子などに使われた記録があるから、特別の階級の人びとや儀式用に生み出されたものかもしれないが、詳細は不明である。三つの地域それぞれに、ナゾの歴史を秘めているのだ。
 世界的に見て、樹皮布文化が新石器時代からの姿でもっともよく残っているのが、インドネシア・スラウェシ島。その地で二〇〇八年八月、筆者がプロジェクト責任者となり実施した日本・インドネシア合同のフィールド調査では、画期的な発見があった。現在も樹皮布に「透かし模様」を加工する石製ビーター(Ike Torahi)を使っている老婆を見つけたのである(写真2)。一〇〇年前にオランダ人民族学者により報告されたビーターにある模様とそっくりだ(写真3)。ビーターとは樹皮を叩いて薄くのばす道具である。この地域では同時に透かし模様を入れるのにも使われている。
 これまでの調査によって、スラウェシの樹皮布製作技術は、今から三五〇〇年以上前にオーストロネシア語族の人びとが携えて来た、と考えられている。その技術は、オーストロネシアンの源流地域と比べ飛躍的に高度となっており、いつの時期かジャワ島を中心とした、ワヤンベベールに代表される美しい樹皮紙(daluwang)文化へ転移したことが考えられる。
 他方、メソ・アメリカ地域では、これまでの先人達の考古学、民族学調査研究でも、「透かし模様」加工用と思われる石製ビーターがたった一件報告されているのみだ(写真4)。しかし、これは研究者の「見落とし」かもしれない。というのは、先日アメリカの友人から紀元六〇〇~一五〇〇年ごろのものとされる石製ビーターを見せてもらったときのこと、これまでの専門家は表面のユニークな顔の彫物だけに注目していたのだが(写真5)、修復家が、そのビーターの裏面に斜光光線を当てた途端、ハワイの樹皮布に伝統的に使われてきた「透かし模様」Upena Pupuに酷似した刻面が浮かび上がったのである(写真6)。
 マヤ、アステカを含むメソ・アメリカにおける樹皮紙についても、高度な「透かし」技術使用の可能性やスペイン征服直後のアマテ文書を見ると、これらが「原始的な紙」であるという先入観の再考を促す。彼の地でのビーターは紀元前四〇〇~三〇〇年ごろかそれ以前の地層から発見されているようなので、ビーターの発展経緯から考え、中国などでの「樹皮紙使用痕跡」の探索が必要であり、それ次第では「紙の発明」場所と時期に関する現在の定説を覆す可能性がある。
 すでに、素材植物カジノキのDNA分析、石器ビーターの比較検証など、あらたな科学的調査・分析技術を駆使して物質を研究することが必要となってきているのではなかろうか?
 二〇〇九年は、そのような新しいチャレンジの年になることを期待している。「樹皮紙(Beaten Bark Paper)の埋もれた歴史」という一文を『百万塔』(東京、紙の博物館発行)第一三〇号に掲載している。知られざる世界を学ぶためにご一読いただければ幸いである。


地球ミュージアム紀行  -国立アメリカ・インディアン博物館/アメリカ-
曲面が描く、居心地のよい博物館
 国立アメリカ・インディアン博物館は、一言でいえば、とても居心地のよい博物館である。文化・教育施設であり、すぐれて政治性を帯びる博物館をこうした情緒的表現でまとめてしまうことが妥当かどうかはわからない。けれど、その内容といい施設といい、その居住まいが気に入っている。
 博物館はワシントン特別区の中心部ナショナル・モールの端、世界人気一番の国立航空宇宙博物館の東隣にある。さらにいえば、国会議事堂のいわば真向かいに位置する。二〇〇四年に開館した、スミソニアン協会・博物館群の最新で一八番目となる博物館である。開館までに一五年の歳月を要した。アメリカ先住民の暮らしや言語、文学や歴史、芸術などに貢献する生きた文化施設として設立され、美術や工芸、生活文化資料を八〇万点ほど所蔵する、世界最大規模の博物館である。
 この博物館は、まずその外観から印象的である。風や水によりかたち作られた自然の地層をイメージした建物は、全体が波状にうねりながら建つ。そして建物の周囲には森や湿地、畑や草地といった先住民の元からの生活の場、いわば原風景が再現されている。西欧的に都市計画されたモールの真ん中にいながら、ここだけはまるで大自然のなかにいるようだ。
 一階からなかに入ると、四階まで吹き抜けの円形ステージが広がる。ここでは歌や舞踏といった催しが日々、開催される。展示は四階の映像シアターから始めるとよい。そして世界観や哲学、伝統的な知識を説明する「宇宙」、一四九二年のコロンブスによるアメリカ大陸発見以降の歴史を展示する「人びと」、三階の現在の生活を表現する「暮らし」とまわれば、ほぼ全体が見渡せる。リソース・センターも充実している。
 展示の表現方法を見ても、ゆったりとして落ち着くことができる。建物から壁、展示台と、ほぼすべてが曲面で構成されているのも大きな理由だろう。
 このところ、博物館の直線や完全円などで構成された空間や展示台には、違和感を覚えていた。対峙する構えが求められているようで、堅苦しいのである。
 ことに人文系の博物館では、四角いガラス製の展示台が直線的に配置されている場合が多いようだ。アメリカの主要な自然史博物館なども、展示品は箱型ショーケースに入れられて展示されている。
 大英博物館の、例えばリニューアルされたアフリカやアメリカ、日本ギャラリーもそうである。規則正しい展示台の配列などは、精密機械工場のようでもある。フランスのケ・ブランリー美術館も、カーブを描くアプローチや革張りの仕切り壁などはあっても、展示場はガラス張りの方形の展示台がところ狭しと並んでいる。
 西欧文化は、直線やら完全円といったきちんとした線を大切にしているのかも知れない。安上がりとなる四角形の展示台が選ばれやすいこともわかる。けれど、やはりわたしは不規則な曲線や曲面によさを感じる。これは、いわばデザインの世界観の違いなのだろうか?


表紙モノ語り
牛鬼
祭礼用練り物(牛鬼)(標本番号H37058、高さ/430cm 幅/240cm 奥行/440cm)
 牛鬼は、愛媛県の南部、宇和島や大洲などの南予地方の祭りではおなじみの存在で、牛鬼が出る祭りは一五〇ヵ所にものぼる。宇和島市の宇和津彦神社のように、一ヵ所でたくさんの牛鬼が出る祭りもあるので、南予全体でどれくらいの数の牛鬼がいるのか見当もつかない。竹の骨組みを赤い布やシュロで覆ったドンガラとよばれる胴体、長い首の先には鬼ともウシともつかない恐ろしげな形相の頭、剣型の尻尾をもった牛鬼は、一〇~三〇人ほどの子どもたちや若者たちによって祭りの際に担ぎまわされる。いつからこの地方の祭りに登場するようになったかは不明であるが、一八世紀の記録には既にその姿を確認できる。
 牛鬼は、加藤清正が朝鮮出兵で敵を脅した、地元の領主が敵の退治に用いた、人びとが獣狩りに用いたのに始まるといったさまざまな起源が伝わっているが、正体は今ひとつはっきりしない。人に悪さをする妖怪としての牛鬼ならば、『枕草子』や『太平記』を初め、西日本各地にも話が伝わっているが、南予の祭りの牛鬼とは大分勝手が違う。祭りでは、牛鬼は御輿(みこし)の先導や露祓いのほか、大きな首を家々に突っ込んで悪魔祓いをおこない、徹頭徹尾、善い奴なのである。もっとも、かつてはつきあいの悪い家や祝儀をけちる家には尻尾を突っ込んでガラスを割ったりしたというから、「徹尾」とはいえないかも知れないが。
 とはいえ、この顔は恐い。じつはこの顔は、戦後宇和島の張り子職人が考案し、瞬く間に広まったものという。それ以前はもっと牛っぽい穏和な表情であったらしい。まぁ、このくらいのほうが、露祓いや悪魔祓いの威力がありそうで、頼もしい気がしないでもない。


万国津々浦々
子連れフィールド・ワーカー奮闘記 アメリカ篇
すべての子どもたちの健康を祈って
玉山 ともよ(たまやま ともよ) 総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程
先住民社会の変化を調査
 アメリカ合州国ニューメキシコ州、ここには広島・長崎へ落とされた原爆の原料となったウランという天然資源が豊富で、とりわけアメリカ先住民の居住している地域で採掘が、一九四〇年代後半から一九八〇年代初頭にかけておこなわれてきた。わたしのフィールドワーク地は、ウラン鉱山によって大きく社会が変化してきたラグナ、アコマ、ナヴァホの三先住民保留地。癌などのウランによる被曝ではないかと疑われる病気が多い。しかし現在に至るまで健康調査はおこなわれておらず、掘り返された場所もすべて修復されてはいない。
 そして今再び、「地球温暖化に抗するのには原子力発電しかない」と、ウラン価格が高騰したために、再開発がブームとなろうとしている。わたしはウラン鉱山開発による先住民社会の変化状況を把握すべく、そこから車で一時間半ほど離れたアルバカーキの街に住みながら調査をしている、しかも子ども三人と!娘「風葉」七才、息子「野原」三才、そして五月に生まれたばかりの娘「椿」。全員を引き連れてやって来た。
 現在は日米教育委員会のフルブライト奨学金を得て一年間の予定で滞在している。学生向けの助成金等には、ほとんどと言っていいほど子どもがいる(家族を伴う)という状況が想定されていない。今回は唯一家族手当があり、応募した時点で既に子どもが二人いたので、受かったときにはとても有難かった。だがしかし、もう一人できてしまった!無事自宅出産した後、八月の渡米までわずか三ヵ月しかなかった。

たくましい子どもたち
 幸いこちらに着いてすぐ家は見つかり、小学校と保育園もすぐ見つかった。子どもたちは英語がまったく話せないので、トイレの場所だけ教えて放り込んだ。平日は学校と園でいきなり一日の大半を過ごすことになった。日本人は周りに誰もいない。メキシコ系が多く、スペイン語は飛び交っているが、日本語は家でだけ。それでも子どもたちはたくましい。元気でいてくれるからこそ、昼間の赤ん坊しかいないときにわたしはやっと勉強する。
 保留地を訪れるときは、子ども連れでなるべく行かないようにしている。保留地内はウラン鉱山とウラン精錬施設によって低レベル被曝地帯と考えられる場所が多いが、広大な面積のすべてがそうであるわけではない。鉱山跡から2キロも離れていないラグナ・プエブロのある村でも、人びとはまったく普通に生活しており、危険であると考えられる場所はフェンスで囲まれ侵入禁止になっている。わたし自身は特別な防御は何もしないし、そもそもすることもできないが、やはり自分の子どもたちを彼らが知らないうちに被曝の危険に晒すことには抵抗がある。
 ネイティブ流にいえば、子どもは母なる大地からの贈りもの。三児の母として、すべての子どもたちが放射能汚染にさらされないよう、その原料たるウラン開発の行方を見守りながらフィールドワークしている。まさに子どもと一緒に!


人生は決まり文句で
的に命中!ポー
小野田 俊蔵(おのだ しゅんぞう) 佛教大学教授
弓矢にまつわる諺
 「苦しまぎれの言い訳」を笑う、こんなチベット語の諺があります。 mda' la rgyag shed yod kyang/ gzhu la bkar shed mi 'dug/「矢を射る力はあるんだけど、弓を引く力がないんだ」。
「射る」という行為は、弓の弦を引っ張って離す(放つ)一連の行為ですから、これは明らかに矛盾です。けれど、こんな風に言われると、正しい理屈であるかのように思えるところが不思議です。おもちゃの鉄砲を使った夜店の射的場で、お父さんにコルクのタマを詰めてもらい、装填してもらって撃っている幸せそうな親子の姿をわたしは想像しました。けれど、弓の場合は無理ですよね。洋式のアーチェリーならできるけど普通の弓では「さあ、射るだけで良いようにしたから射ってみなさい」と子どもに手渡す訳にはいきません。
 必要以上に気張らないチベット人の気質が読み取れるこんな諺もあります。
mda' za phang par bkang yang/ gtad sa mde'u'i nya rtse gang/「弓を力一杯強く引っ張るのはいいけど、せいぜい矢の長さまでしか引けない」。
やり過ぎると元の木阿弥になる、という意味でしょう。モンゴルには「自分の布団の丈に合わせて足を伸ばせ(kOnjile-yin-iyen kiri-ber kOl-iyen jigi)」という諺もあります。自分に見合った規模で活動をすべきだ、という意味です。着実に目が行き届く範囲で問題を処理しているのだと自分では思っていても、実際には思いは適度を越えていて、気が付くと大失敗ということがあります。引っ張り過ぎてつがえた矢が弓からはずれたら、もう一度最初から矢をつがえなければ致し方ありません。チェーン店を拡げ過ぎて倒産した会社を思わず連想してしまいます。身体感覚として掴める範囲、というのが本来は我々人類にもっとも合った生き方なのでしょう。バーチャルな世界だけが拡がっていって、身体感覚では全く掴めていない仮想の世界に操られる、などという事のないようにしたいものです。

美しい放物線のその先
 ところで、チベットやモンゴルの弓は左のほうから矢をつがえて引っ張り、発射する瞬間に弓全体を時計回りに右に少し倒しながら矢を射ます。矢を弓の上に載せるようにして発射するのです。所謂アーチェリー型です。右のほうから矢をつがえる日本の長弓の射方とは全く違うのです。矢は少し上空に向けて発射され、標的までゆるやかな放物線を描いて飛んで行きますが、これが不思議に見事に的に命中するのです。
 ブータンなどでは標的の近くに見物人がいて、的にあたると皆んなが大声で「phog (ポーク)!」と叫んで踊り始めます。そう言えば、那須の与一が扇を射止めたときに敵味方なくほめ讃えた、そんな風景を彷彿とさせます。但し、日本の通し矢のように矢を力任せに勢い良くまっすぐ飛ばしてそれが的にあたっても、それは当たり前過ぎて、彼らには美しくとも何とも見えないのかも知れません。美しい放物線のその先の予想も付かない的中がまさしく命中なのでしょう、わかります。


外国人として生きる
在日南米人のドラマを載せて
古屋 哲(ふるや さとる) 大谷大学講師
「工場」の夢をかなえる
 「日本に来たばかりのころ、自動車部品工場で働いていた。ラインに向かって同じ作業を繰り返していると、いろんなことを考えてしまう。誰もが夢を見る。ぼくには何ができるだろう。この国で何かするのは、難しい。でも、本気でやればできるはずだ」。
 一九九四年にロベルト・アルバさんがはじめたのは、無料配布の広告掲載誌『メルカード・ラティーノ』。そのころ目にした英語誌が、ヒントになった。日本語を知らず、情報がない在日南米人たちには、そうしたメディアが必要だ。
 はじめは街のコピー機や市民団体の簡易印刷機を使い、紙を折ってホッチキスで留めた。今では、A四版変形、一六四ページ上質紙フルカラー印刷、部数二万、毎月第一土曜日発行の堂々たる雑誌。発行主体は、「有限会社メルカードラティーノ」、社長のロベルトさんほか、ペルー人二人と日本人一人の社員をかかえる。フリーランサーの記者やデザイナーは一一人。
 表紙を開けると、全面から八分の一ページまで、大小の広告が並ぶ。が、意外と読み物の記事が多い。英BBCやEFE通信社の記事や、在日南米人、老若男女の人物紹介だ。

在日南米人の世界、日本語の社会
 大阪市北区に事務所があるが、配布先は在日南米人が多い東海地方から北関東にまで広がっている。はじめは、南米食材店やレストランを一軒ずつ訪ねて、雑誌を置いてもらった。「空いた貸店舗や自宅を店にするから、見つけにくいところにある。店構えは小綺麗でもおしゃれでもない。看板が無造作に出ていて、扉を開けるとラテン音楽が大きな音で鳴っている。店員はメニューをもってくるのが遅く、注文すると食べきれないほどの量が出てくる」ような店がねらいどころ。まちがいなく経営者もお客も南米人だ。
 掲載される広告にも、そうしたレストランやディスコ、食材通信販売がある。航空券と本国への宅配便、求人広告や入管手続代行は、いかにも移民らしい。化粧品、服飾、美容室は女性が対象。広告の新しい傾向は、建て売り住宅と、インターネットテレビだという。住宅販売が目立つのは日本の金融会社が外国人にもローンを組むようになったからだ。不安定な彼らの雇用を考えるとすこし心配。
 読み物もだいじ。南米人たちは「どれほど日本的になっても、いつでも自分たちのことばで読みたいんだ」。通信社の記事は、ロベルトさんが選ぶ。文化記事が好みだけど、あきないようにいろいろ混ぜる。人物紹介は、協力記者のアントニオ・カルデナスさんが取材して書く。日本の弱小児童サッカークラブを「優勝ラッシュ」に導いたトレーナー。工場で南米人労働者を人間あつかいしない課長の通訳をした音楽家の体験談。幼くして両親を亡くして畑仕事に明け暮れ、今は毎年いくつものマラソン大会を完走し「運動靴を脱ぐ日はこない。死ぬときは走りながらだ」とうそぶく六四歳。大阪の工場で突然、人には見えないものが見えることに気がついて、幻想画の画家になった男性。
 読者からの便りに、くにの母親に送った、という人もいた。きっと雑誌をめくりながら「息子はこんなのを見てるのねぇ」とつぶやくのだろうな、とロベルトさんを喜ばせる。
 こうした在日南米人の世界を支えるためにも、日本人社会との折衝が必要になる。ロベルトさんは、工場で労災に遭って一ヵ月休み、そのときから日本語の勉強をはじめた。それでできることがぐっと広がった。そのころ住んでいた大阪市東成区には、小さな印刷所がたくさんある。そこで仕事を受けてもらえるか尋ねてまわった。どこでもよい返事をもらったが、結局きめたのは、中堅企業である大阪書籍の印刷部だった。

娘たちに贈りたいもの
 「ペルーのような低開発国にはチャンスがないが、ここにはある。広告を載せる人たちはみんな、"何か違うこと"をしたい。工場労働という運命づけられた境遇から、抜け出したいんだ。美容の宣伝をしている人は、弁当製造工場で働いていたかもしれない。でも本国では美容を勉強していて、あるときわたしも何かやってみよう、と決心したんだ。そういう瞬間が、好きなんだ。小さな広告にも、ひとつひとつにドラマがある。前向きに生きていくっていう物語がね」。
 ロベルトさんには、日本人の奥さんとのあいだに一〇歳、七歳、五歳の三人の娘がいる。父親として娘たちに贈りたいのは教育だ。でも、とくにペルーについて学んでほしいとは、考えないという。
 その代わりに、ロベルトさんは、自分の子どものころのことを話して聞かせることがある。「街のパン屋さんにその日のパンを買いに行くのは子どもの役目だった。で、起きたらすぐに行く。学校の友だち、おばさんたち、ちょっと気になるあの子。みんなが店で列を作っている。毎朝の小さな冒険。そんな話をしてやると、娘たちも喜んで、ペルーに行きたいって言うんだよ」。

歳時世相篇(10)【阪神淡路大震災】
冬の灯り、震災の記憶
 一二月から一月にかけての神戸は、さまざまな光の造形に彩られる。それは繁華街の華やいだ装飾や、クリスマスのちょっと心が躍るようなイルミネーションとも違っている。今、ここにいる自分や家族、そしてかつて共にいた人びとに、改めて思いをはせる時間を与えてくれる。

光の回廊
 一二月、旧居留地内の仲町通り沿いから神戸市役所の南にある東遊園地まで、幾何学模様で構成された光のアーケードが登場する。期間中の夕方には、イルミネーション点灯の瞬間を見ようと、多くの人びとがその時を待ちかまえている。そして、点灯とともに大きな歓声があがる。
 イタリア出身のヴァレリオ・フェスティ氏をアートディレクター、今岡寛和氏をプロデューサーとしたこのイベントは、当初は東京を開催地として企画されたものであった。しかし阪神淡路大震災が発生したため、今岡氏の故郷である神戸に変更し、鎮魂と追悼、街の復興を祈念し、一九九五年一二月に神戸ルミナリエとしておこなわれるようになった。
 第一回の来場者数こそ二五〇万人ほどであったが、第三回以降は四〇〇万人から五〇〇万人を記録している。神戸市や兵庫県以外からも多くの来場者を集めるようになった一方、回を重ねるにしたがって、震災の犠牲者の鎮魂と追悼、街の復興祈念という目的は、来場者の意識からは薄らいできていることは確かである。
 震災体験者の中には、無残な傷跡がまだ多く残る街で開催された、第一回ルミナリエの整然とした灯りの造形に、生活再建への希望の光を見ようとした思いを、会場に足を運ぶことで新たにしようとする人びともいる。他方、眩(まばゆ)いばかりのイルミネーションの光は、未明の暗闇や倒壊した建物に閉じ込められた時の閉塞した闇の記憶と、あまりの対照をなすがゆえ、かえってあの朝の体験を呼び起こされてしまうと、敬遠する人もいる。
 来場者のなかには、ルミナリエをクリスマス・イベントととらえている人もいるかも知れないが、震災体験者にとって、それが意味するところは人それぞれに大きい。

歴史のモニュメント
 光のアーケードを通り抜けると、メイン会場である東遊園地に到着する。そこには、ヨーロッパの古い広場を思わせるように、建物のファサードのようにイルミネーションが並ぶ。
 この東遊園地は、一八六八年に日本で最初の西洋式公園として開園した。当初は旧生田川の堤防敷に、神戸居留地開設後まもなく造られた外国人専用の運動公園であり、「外国人居留遊園」とか「内外人遊園地」とよばれていた。一八九九年、不平等条約の改正により外国人居留地は廃止されたが、この公園は旧居留地の東にあったことから、後に「東遊園地」とよばれるようになった。
 園内には、ポルトガル総領事を務め、日本についての著作も多いヴェンセスラウ・デ・モラエスの胸像や「ボウリング発祥の地の碑」、「近代洋服発祥地の碑」など、明治以来の国際都市・神戸の歴史を垣間見せている。
 阪神淡路大震災の発生により、東遊園地には新たな記念碑が加わることとなった。一つは「一・一七 希望の灯り」という、ガラスケースにおおわれたガス灯である。震災五周年にあたる二〇〇〇年一月一七日に灯りがともされた。その御影石の台座には、次の碑文が記されている。

一・一七 希望の灯り
 一九九五年一月一七日午前五時四六分
 阪神淡路大震災
 震災が奪ったもの
 命 仕事 団欒(だんらん) 街並み 思い出
 ・・・たった一秒先が予知できない
 人間の限界・・・
 震災が残してくれたもの
 やさしさ 思いやり 絆(きずな) 仲間
 この灯りは
 奪われた
 すべてのいのちと
 生き残った
 わたしたちの思いを
 むすびつなぐ

 同じ公園の敷地内、「一・一七 希望の灯り」のすぐ近くにある噴水は、地下に降りてみると、それが「慰霊と復興のモニュメント」であることがわかる。震災で亡くなった人びとの名前を刻んだプレートが内部の壁面に並んでいる。おそらく、身内を亡くした方であろう、プレートの名前をゆっくりと指でなぞっている姿を見かけたことが何度かある。

追悼の時、広がる絆
 毎年一月一七日の早朝、「一・一七 希望の灯り」からロウソクに移された火は、東遊園地内西側の広場に運ばれ、各地から届けられた竹製の灯籠にともされる。真冬の早朝、張りつめた冷気の中、約一万本の柔らかな温かみのある灯りが、「1・17」の日付を浮かび上がらせていく。この日、この時間、阪神淡路大震災の被災地となった多くの場所で、同様の行事が静かに執りおこなわれる。
 二〇〇七年一月一七日、黄色いウィンドブレーカーを着た約二〇名の一団が、東遊園地の灯籠の点灯に参加していた。二〇〇四年一〇月に起きた新潟県中越地震の被災地のひとつ、川口町木沢集落からの一行である。ボランティアとして木沢で活動していた大阪大学の学生たちや、西宮市の復興住宅に暮らす被災者との交流のため、前日に雪の中越を発ち、神戸入りしていた。
 同じ年の一〇月二三日、今度は西宮市の復興住宅に暮らす一七名が、震災四周年を迎えた木沢を訪れた。一行は片道八時間の長旅の疲れも見せず、米の収穫を終え、冬仕度に入った山間の集落での再会を、木沢の人びとと共に喜び合った。
 一九九五年一月一七日午前五時四六分。その時からまもなく一四年が経とうとしている。今年は、どのような新しい出会いがあるのであろう。


生きもの博物誌 【ゲンゴロウ】東アジア
 「水ゴキブリ」を食べてみるかい?
川口 幸大(かわぐち ゆきひろ) 本館機関研究員
生きものと食べもの
 「中国では、四つ足のものはテーブル以外、空を飛ぶものは飛行機以外、何でも食べる」という俗諺(ぞくげん)を聞いたことのある方は多いだろう。さすがにこれは大げさだが、中国で暮らしていると、日本では普通あまり口にしない食材が市場で売られていたり、食卓にあがってくることはたしかに多い。
 特に東南部の広東では、「野味(イエメイ)」つまり野生動物の肉に代表されるように、多種多様なものを食するというイメージが中国国内でも定着している。広州市内の清平市場では、家禽類や魚介類はもちろん、かつてはイヌやネコからサソリやヘビやハクビシンにいたるまで、驚くほどたくさんの生きものが生きたまま売られていた。しかし、SARSが猛威をふるって以来、こうした野生動物の多くは食材として取引することが禁じられ、さらに市街地が整備されたこともあいまって、清平市場の規模はずいぶんと縮小してしまった。現在では漢方薬の材料をあつかう店舗が集積しているくらいで、当時の面影はすっかりなくなっている。

水ゴキブリ?
 このように市場で目にすることのできる食材の数は減りつつある広東ではあるが、それでもときとして未知の食べものに出くわすことがある。あるとき村の知人宅に招かれたさい、主人の妻からこんなふうにたずねられた。「水○○(ソィガッザッ)を食べてみるかい?」「ええっ!」とわたしは正直驚いた。「○○(ガッザッ)」とは広東の方言でゴキブリのことである。ということは、「水○○」は「水ゴキブリ」…。ゴキブリか…。でも水ゴキブリって何のことだろう?と内心はらはらしながら考えていると、わたしのそのようすを見て主人の妻は笑って言った。「いやあ、水ゴキブリって言っても、家のなかにいるゴキブリじゃないよ。あのゴキブリはさすがに食べないけど、これは食べていいんだ。身体にいいんだよ」。皿に盛られて出てきたものは、全身が茶黒く、足にはヒゲのようなものがついていて、一見したところたしかにゴキブリに見えなくもない。しかし、よくよく目をこらすと、胴体には甲羅があってゴキブリより固そうだし、全体的に丸みを帯びたかたちをしている。そうか、これはゲンゴロウだ!そう。「水○○」とはゲンゴロウのことだったのである。

食材としてのゲンゴロウ
 教えられるままに、まず羽の部分を取りはずしてから、その下の白っぽい身を食べる。少し苦みがある程度で、それほどくせのない味である。
 家庭での一般的な調理方法は、生きたものを買ってきて、まず下ゆでしたあと、塩、山椒、八角、桂皮などとともに三分間ほど煮るのだという。腎臓によいとされていて、夜尿症の改善に効果があるということだ。
 市場では、今オスが五〇〇グラム三〇〇円、メスが一二〇〇円ほどで売られている。そのほとんどは食用に養殖されたものである。メスがオスより高いのは、メスの方が栄養価が高いとされているからだという。
 ところで、「水○○」というのは広東での通称で、標準中国語でのゲンゴロウの名称は「龍虱(ロンシー)」という。「龍のシラミ」とはこれまた風流な呼び方だが、知らない者にとっては、「龍のシラミを食べてみるかい?」とたずねられても、やはりとまどってしまうにちがいない。

ゲンゴロウ (学名:Cybister japonicas)
甲虫目に属する昆虫で、中国・日本・韓国など東アジアに広く生息している。亜科であるゲンゴロウ科に属するものを含めると、世界中で3,000から4,000種が知られている。日本でもかつては池や沼などで数多く見られたが、水質汚染や農薬などの影響で激減し、現在では10種あまりが絶滅危惧種あるいは準絶滅危惧種に指定されている。


フィールドで考える
3つの時代の学校経験
金子 正徳(かねこ まさのり) 本館機関研究員
調査の恩人、アリさんについて
 ある男性の経験から、学校について考えてみよう。
 彼は、熱帯に位置するスマトラ島の南端にあるランプン州(インドネシア共和国)に住んでいるランプン人である。ランプン人は、いくつかの民族集団を総称する名称なので、もうすこし正確にいうと、プビアン人である。ランプン人の村落における既婚者は、結婚時につける慣習称号を用いて互いをよび合う。彼の慣習称号は、スンタン・プニンバン・ブミ。最初の「スンタン」の部分は、プビアン人社会における社会階層が上位であることをあらわしている。その後ろの「プニンバン・ブミ」が個々人で異なる部分である。しかしここでは、わたしが普段よぶように、身分証に記されている名前から、アリさんとして記す。
 アリさんは一九二七年の生まれで、今年で八二歳になる。平均寿命が六〇歳代のインドネシアではかなりの高齢である。今や両目の視力を失い、聴力も衰えてしまった。話をするのも一苦労なのだが、ランプンへ行くたびに会いたいと思う人である。会えば、「おー、カネコか。会いたかったぞ」と迎えてくれ、写真を撮れば「わたしの写真が日本へ行くのか」と喜んでくれる人である。
 アリさんにはじめて出会ったのは二〇〇〇年二月だったから、すでに知り合ってから一〇年目に入ろうとしている。二〇〇〇年当時、彼は慣習に関する聞き取りのときにはよく同行してくれたものである。好奇心が強く、わたしをそっちのけで相手にさまざまな質問をしていたことを思い出す。予期しない話題の展開になったことで、調査を始めたばかりでよくわかっていなかったわたしが質問するよりもかえってさまざまな背景や事情がわかり、感謝することが多かった。また、そのような意味では調査の恩人である。

アリさんの学校経験
 アリさんはオランダ植民地時代、日本による占領統治時代、そしてインドネシア共和国時代という三つの時代に少年期をすごした。このため、小学校進学に関してだけでも興味深いエピソードがある。
 まず、一九三七年に三年制の小学校へ入学した。オランダ植民地時代の小学校は義務ではないし、むしろ限られた人しか行けなかった。アリさんが幼児期に病気をし、右目の視力を失っていたことから、将来のために教育を受けさせたのだ。当時は全額個人負担だった教育にかかる費用を両親が捻出可能だったことも背景としてある。
 当時は就学年齢が決まっておらず、腕を頭の上に回して、反対側の耳がつかめるかどうかで判断したという。このような体格を基準とするやり方だったことで、病気がちで小柄な子どもだったアリさんは、一〇歳になってから入学したのだ。そして一九三九年に、小学校を卒業した。進学しなかったのは、もう勉強したくなかったからではなく、当時のオランダ政府が、民族や人種を基準として進学を制限していたからであるという。音楽が好きだった彼は、オランダの王子誕生に際して小学校で教えられたという慶祝歌を今も覚えている。
 ところが、一九四二年に、彼は再び小学校へと入学した。日本が第二次世界大戦において一九四二年から一九四五年にかけてインドネシアへ侵攻し、占領統治をおこなったことがきっかけである。日本はオランダとちがって民族や人種を基準として制限しなかったから勉強する可能性を感じたと、アリさんはいう。彼は今も、そのとき教えられた「君が代」を覚えていて、突然歌ってくれることがある。そして、時代を反映し、兵士に教わったという軍歌も。
 一九四五年に日本は敗戦し、インドネシアから撤退する。一九四五年八月一七日に独立を宣言したインドネシア共和国のもとで、新しい小学校がひらかれた。アリさんは一年間通ったものの、すでに一八歳になったことでそれ以上の就学をあきらめたのだった。彼の学校経験はここで終わる。

学校経験と人びとのかたち
 アリさんの学校経験は、学校というものが国家という制度と強く結びついていること、それゆえ、特定の社会的・政治的状況によって、教育の内容や意図、そして組織を大きく変えるものであることを改めて認識させてくれる。しかし、学校は単にそれぞれの国家における政治社会体制を推し進めるために個人を規範化する装置ではない。
 前述の学校経験は、彼をはじめとする子どもたちが、慣習に基づく暮らしを送っている自分たちの村の外に広がる世界を、学校教育がもつ限界のなかで学び、それぞれの未来を思い計ったことを、改めて認識させてくれる。
 フィールドで考えることは、アリさんをはじめとする多様な人びとの人生に絡み合う出来事と、強いつながりをもつ。彼の学校経験が秘めていたこんな想定外の事実や、個人的な経験を、統計的な数値や公的な記録から推し量ることはできない。こうして学校や国家などについて思考を巡らしたあとに、フィールドという場で縁があったそれぞれの方の人生へ関心はふたたび戻っていく。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
 本号は今年の干支にちなんで「ウシ」がテーマである。民博では今年も年末年始行事としてウシにちなんだ企画をするとかで、民博職員の個人情報防備体制?をくぐって丑年生まれが探索され、わたしも見つかってしまった。ところで、十二支にはウシをはじめ、ウマやヒツジなど家畜が多く登場する。中国に起源があり、若干の動物の交替があるが、隣接する朝鮮やモンゴル、ベトナムなどにも存在する。いっぽう、西洋では十二支に似たものとして、占星術のホロスコープに十二宮があり、家畜の牡羊、牡牛が登場する。ともに性別が限定され、東アジアの十二支のヒツジ、ウシのように家畜種の一般名称ではない。そういえば、欧米や中近東では、日常生活でも家畜の性別や年齢を限定した一次語名称が多く使われ、一般名称に慣れたものにとって、オス~、メス~、仔~などと頭のなかで訳しわけるのが面倒くさい。家畜の繁殖と頭数にことのほか気を配ってきた牧畜文化に起源があるからだろう。ちなみに、遊牧社会として名高いモンゴルでは十二支はおろか、西洋のホロスコープにある牡羊、牡牛までヒツジ、ウシと一般名称を用いる。ジェンダーレスでは一歩進んでいるようだ。(庄司博史)



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