国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2009年2月号

2009年2月号
第33巻第4号通巻第379号
2009年2月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
世界のカワグチになった、慧海
高山 龍三
 河口慧海(かわぐちえかい)は前世紀初、仏教の原典を求めて、当時禁断の地であったチベットに入国した。師とわたしとの出会いは、ちょうど半世紀前、ヒマラヤ奥地のとあるチベット人の村から始まる。約三ヵ月住み込み調査をしたこの村は、慧海が二日逗留し、名著『チベット旅行記』に、チベットへ越境する前、ネパール最後の村名として記した村であった。以来わたしは慧海にとりつかれ、慧海に関する資料を国内外に求め、現在国内一三一三点、国外四六九点を数えている。近年急増したのはインターネットの「書籍検索」や「論文検索」によってえた情報で、それをたよりに文献に当たり、収集した。二〇〇一年から「国内の著作にみる河口慧海」として、『黄檗(おうばく)文華』に連載、現在(八)を数えている。
 最近わたしは「過去のニュース記事の検索サービス」で、慧海帰国直後の外国報道があることをいくつか知った。一九〇三~一九〇四年、慧海を報じた新聞雑誌一六のうち、少なくとも八つは一人の女性が書いたか、それを引用した記事であった。
 その女性とは、米国出身のエリザ・ルーアマー・シドモア(一八五六~一九二八年)。彼女は一八八四年来日、『シドモア日本紀行』(一八九一年、改訂版一九〇二年、日本語訳二〇〇二年)を出版、紀行作家として本を書き、のち日本の桜をワシントンに送る事業の実現に尽力した。
 帰国直後、時事、大阪毎日二紙の独占連載のための口述筆記で、京都東山の某別荘にカンヅメになっていた慧海に、彼女は会ってインタビューし、「ラサからの最新ニュース―河口慧海師の個人的冒険談」をまとめ、自ら序文を付し、慧海の名で『センチュリー・マガジン』(六七巻、一九〇四年一月)誌に載せた。また彼女自身『シカゴ・デイリー・トリビューン』紙に「日本僧チベットに一年」(一九〇四年一月二三日)を寄せた。その後、米国、ドイツ、イタリアの紙誌の記事や、ウォッデル(『ラサとその神秘』)やシュレマン(『ダライ・ラマの歴史』)の本にその引用が見られる。
 もう一人の女性アニー・ベザント(一八四七~一九三三年)は、英国の労働運動家であったがインドに渡り、第二代神智学協会会長となった。また彼女は『旅行記』の英訳本『チベットの三年』の出版(一九〇九年)におおきく貢献した。あきらめかけた慧海に出版を勧め、私財を投じて後援した。しかも出版直後数多くの書評の出ているのがネット検索でわかった。
 『旅行記』の編集本、文庫本、新書本、近年になって英訳本の復刻、中国、オランダ、フランス、ネパール、ポーランド語訳が出た。このように慧海の本は一〇〇年の命を保ち、全世界に広がった。
たかやま りゅうぞう/1929年大阪市生まれ。大阪市立大学、同大学院修了。東京工大、東海大、大阪工大、京都文教大教授を歴任。おもにヒマラヤ・チベットの民族誌、アジア文明論、近年は河口慧海研究。主著『環境・人間・文化』『河口慧海』『展望河口慧海論』、共著『河口慧海日記』『チベット旅行記』の校訂、『河口慧海著作集』の監修・編集。

特集 刺繍(ししゅう)がつなぐ世界
 グローバリゼーションというと政治経済の大きな動きに注目しがちだが、その波はわたしたちの日々の暮らしのなかにもおよんでいる。
 それは刺繍でも同様である。例えば南アジアの生活に根ざした刺繍が、NGOやデザイナー・ブランドを介して日本に伝わり、わたしたちの生活を豊かにしている。一方、刺繍が商品となると、作り手側の南アジアの暮らしも変わる。日常的なモノが、グローバルな流通によってふたつの異なる地域をつなぎ、双方の人びとの生活や感受性を変えているのである。
 日本と南アジアをつなぐ刺繍にまつわる事例を手がかりに、グローバリゼーションがもたらす生活の変化にいま一度思いをはせてみたい。
グローバル化する南アジアの刺繍
異なる価値を創る媒体
 現在、民博では企画展「インド刺繍布のきらめきーバシン・コレクションに見る手仕事の世界」が開催されている。インドの刺繍というと、とても遠い世界のように思われるかも知れない。しかし、じつはインドを始めとする南アジアの刺繍製品は、わたしたちの生活にすでに入ってきている。
 グローバル化がいわれるようになって久しい。グローバル化とは、モノや情報が地球規模で移動し、短時間で地球上のあらゆる場所において共有されるようになった現象である。情報が瞬時に共有されるため、価値観や考え方が均質化しているともいわれる。刺繍布という具体的なモノを通して、グローバルなモノや情報の移動を見てみようというのが本特集の趣旨である。
 インドの刺繍布は、一九八〇年代に増えたエスニック・ショップの店頭だけでなく、近年では、ファッションやインテリアの素材として、一般の店舗にも並ぶようになった。また、最近認知度が高まっているのは、フェアトレード商品である。フェアトレードとは、第三世界の生産者を援助しつつ、商品を公平な価格で販売しようとする新しい商業理念のことである。コーヒーやチョコレートなどの食品がよく知られている。日本での海外援助の先駆的なNGOであるシャプラニールは、バングラデシュやネパールなど南アジアで早くからフェアトレードに取り組んできた。そのなかに、女性の生産者による刺繍商品も含まれている。
 もともとインドを始めとする南アジアは、気候的に木綿の生産に適しており、古来より繊維製品の輸出地域である。特にインドは、色鮮やかな模様染めの技術を早くから発展させ、インド更紗(さらさ)は世界中で好まれ、用いられてきた。
 日本にも一七世紀から一八世紀にかけて南蛮交易によって渡来した「南蛮更紗」、つまりインド更紗は、お茶道具として大名や豪商たちのあいだでもてはやされた。インドでは、更紗は、衣服や寝具として現在でも用いられているが、江戸時代の日本では、茶道という全く異なる美意識のなかにとりこまれた。このように、布はずっと以前から商品として世界中を移動し、異なる地域で、本来あった場所とは異なる用途や価値を創造する媒体となってきた。その点で、現在日本でみかける南アジアの刺繍布は、江戸時代の更紗と同じである。

個人とその人生を見る
 しかし、江戸時代の更紗と、現在の南アジアの刺繍布が異なるのは、現在のグローバル化がモノだけでなく作り手や生産地の情報も大量に運んでくれることである。
 例えばインド西部に居住するムトワという民族集団の女性たちは、自らが着用する衣装を繊細で華やかな刺繍で飾ってきた。その民俗刺繍は、愛好家の目に留まり蒐集(しゅうしゅう)の対象となり、海外に流出した。しかし同時に、ムトワの女性たちはNGOからの注文をうけて商品として刺繍を作るようになった。人類学者のハーディによると、商品としての刺繍布を作ることが、変化する社会に向き合うムトワ女性たちに、創造的な展開をうながし、女性のなかには、他の女性を束ね、やり手の企業家として刺繍の仕事を展開する者もあらわれているという。
 このようなムトワ女性の姿に、「南アジアの貧しい女性が作る刺繍布」というステレオタイプを超えた、具体的な個人とその人生を見ることができる。本特集では、普段は遠く感じがちな南アジアを、刺繍布を通して、刺繍布を作る人がいることを想像しつつ、より身近に感じていただきたい。

バンニー地方で未来を刺繍する―ムトワの女性と変化
ミシェル・ハーディ カルガリー大学ニッケル美術館学芸員
人生の段階を示す
 カッチ地域のなかでもムトワの刺繍は特に鮮やかで美しく、またダイナミックに変化してきた。インド独立後の社会や政治、経済、環境の変動は刺繍の担い手や作品に大きく影響している。筆者は一九九一年以来、ムトワの女性がこれらの変化に刺繍を通じ、いかに対応してきたかを調査している。
 ムトワはグジャラート州カッチ県北部の、カッチ湿原に囲まれたバンニー地方に住むムスリム(イスラーム教徒)の一氏族である。湿原は雨季には水面下にあるが、一年の大半は塩の吹きだす乾いた平地になる。旱魃(かんばつ)の多い不毛な大地で、農業には適さない。しかし、ここはかつてアジア有数の豊かな草原だった。だからこそ、過去三〇〇年のあいだ多くのムスリムがここに移住し、ウシの牧畜や乳業に従事してきたのだ。
 ムトワの女性は、少なくとも二〇世紀初め以来、ブラウスとスカート、またはギャザーのあるパンツを着用してきた。ブラウスにはガジ、カンジャル、カンジャリという三つのタイプがある。その色使いやデザイン、モチーフはムトワらしさを示すだけでなく、着用する女性の人生の段階をも示していた。例えばガジには月、孔雀、サソリのモチーフが使われ、房飾りにはタカラガイが用いられた。これらは豊穣の象徴である。ガジは花婿の母から花嫁に贈られ、婚礼のときだけ着用された。花嫁は、夫の家で暮らすまではカンジャルを着た(訳註:インドの他地域と同様、ムトワは幼児婚をし、成長後夫婦が同居する慣習だった)。成熟後はカンジャリが着用され、未亡人はダンニヤル・ジョ・カンジャリを着た。成長するにつれ、より地味で刺繍の少ないブラウスを着る慣習だったのである。

刺繍との新しい関係
 しかし二〇世紀半ば以降、若い世代は新しいスタイルのブラウスやギャザーのあるパンツ、そして全く刺繍のないパンジャビー・スーツ(ギャザーのあるパンツと長衣)を着るようになった。これらは控えめで現代的であり、彼女らの自認する「進歩的な」ムスリムにふさわしいと見なされた。若い世代は刺繍は続けているが、古来の衣装は着なくなった。刺繍は若さと豊穣性を祝うものではなく、後進性を示すものになってしまったのである。
 女性と刺繍との関係の変化は、社会や文化の変化とも関連する。四〇年代以降アフル・アル・ハディースというイスラーム改革派が浸透した。彼らは預言者ムハンマドの言行録であるハディースに反する慣習を厳しく非難し、これがムトワ女性の衣服や刺繍の変化につながった。一九四七年には印パが分離独立した。パキスタン領には親族が住み、古くからの市場があり、旱魃の際の代替となる草原があったが、その絆を断たれたのである。これはバンニーでの過剰な牧畜と草原の荒廃につながった。州政府森林政策局はそれを止めるため六〇年代に外来種の低潅木を植林する。しかしこの潅木は瞬く間に繁殖して牧草を絶滅のふちに追いやり、わずか二〇年で牧畜は不可能になった。さらに六〇年代後半からのひどい旱魃の結果、売れるものならウシも、装身具も刺繍も売り払わざるをえなくなってしまった。
 この時期は、民俗衣装が国際市場で人気となった時期と重なる。「失われゆく文化」を求め多くの収集家、古物商、役人がムトワのもとを訪れるようになった。カッチの染織の主要なコレクションの多くはこの時期になされている。七〇年代後半に道路が整備されると、バンニー地方には優れた刺繍の名声を聞いて多数の旅行客がインド内外から押し寄せるようになる。七〇年代初めにはこの地方のNGOが、ムトワに外の市場で売れる新しい刺繍を求めるようになった。かつても刺繍は売られてはいたが、このような動きはムトワと刺繍との関係が新しい段階に入ったことを意味する。また経済発展のため、州政府は刺繍の巧みなムトワ女性が若い世代に刺繍を教えるよう助成を始める。これは刺繍を教える方法のみならず、その内容まで変えてしまった。かつて女性たちは母や姉の刺繍を見よう見真似で学んでいた。そのとき彼女らは技法だけではなく、刺繍の意味や、他の地域や集団と比べたときの特色なども学んでいた。一方、政府の学校では市場で売るために必要な技術だけが教えられたのである。

主体的存在として刺す
 刺繍と時代の変化との関係は多義的である。若い世代は刺繍を時代遅れと見なす一方、手ごろな収入の手段とも考えている。刺繍は女性の家内職を可能にし、パルダー(訳註:女性を男性の目から隠し家屋内に隔離する慣習。イスラーム改革派も推奨している)を可能にする。また刺繍に対する意識の変化にもかかわらず、刺繍はムトワのアイデンティティーや伝統と密接に関係すると見なされている。年老いた女性だけが日常的に刺繍のある衣装を着る一方、若い女性たちは着るためではなく売るために今も刺繍を続けているのだ。
 様式、技法、色の好み、文様などにおいて、刺繍には過去との連続性が見出せる。しかし、古い刺繍は控えめであり、新しい作品は非常にダイナミックになっている。伝統的な美観やデザインの好み、刺繍の教え継がれ方などの要因から、かつては技法も限定的だった。イスラーム改革の影響から特定のモチーフがすたれ、自分たちのあいだでは日常的には着なくなる一方、刺繍はムトワのものとして外の世界で流通するようになる。さらに才能のあるムトワの人びとのあいだでは技法や文様を自由に再解釈して用いる傾向も見られるようになってきている。新しい刺繍は慣習を破り、従来のモチーフの多くを変えたが、それにもかかわらずどこかにムトワ的な性格は保たれ、見るものを引きつける。新しい刺繍は販売のために、そして民芸品というよりは美術品として見られることを意識して作られる。またそういった作品のできる者は、より高い社会的地位をえるようになっている。
 物質文化や工芸品開発の研究者は、変化に対応した工芸の生産を文化的自立性や本物らしさの喪失として軽視する傾向がある。しかしムトワの刺繍の変容は、この見方に警鐘を鳴らし、ムトワの女性を近代化やグローバリゼーションの受動的な犠牲者ではなく、新しい表現、経済発展、自己実現に積極的に取り組む主体的な存在と見るように促している。(三尾 稔訳)

インドの手ざわりを取り入れたファッション・ブランドHaaT
皆川 魔鬼子(みながわ まきこ) (株)イッセイミヤケ 取締役企画技術ディレクターテキスタイルデザイナー
エコライフの原点
 商品デザイン開発の現場からの視点、というテーマを今回はいただいたのでわたしが感じたインドのことを少し書いてみる。
 わたしが企画しているファッション・ブランドHaaTはインド製と日本製を三対七の割合で構成している。きらびやかでない贅沢さと、オリジナルな素材感のある服、をコンセプトとしたマーチャンダイジング構成だ。後ほど説明を加えるが、ひとつの狙いはインド独特の日本人が忘れてしまった一見質素なようで、じつは時間を費やしたもの作りを伝えたいということである。また、わたしはテキスタイルデザイナーとして、服のデザインよりも素材に重点を置いた服作りを考えていた。そのような発想がこのブランドを始めた背景にある。
 初めてインドを訪れたのは一九八三年の暮れだった。このときグジャラート州アーメダバード市にある、優れた染織のコレクションで有名なキャリコ博物館を所有するサラバイ家の夫人と出会い、インドの職人の最高の手技を世界に見せたいと提案されたのだ。そのときは、以後二〇年以上も継続してインドとのコラボレーションでもの作りをするとは考えてもいなかった。
 わたしがインドに興味をもったきっかけは、広大な国で資源が沢山あるのに最小限のもので生活がまかなえ、時を超えてものを大切にあつかう人びとの国だということに気づいたことである。今でいうエコライフの原点がそこにはあった。これは貧富の差にかかわらずインドの人びとに共通するライフスタイルだと思うが、誰もが、たとえ外国製品を購入できる人でさえ、国産品を使用することを誇りにしていた。そして家では縫製しない布地だけの衣服「サリー」を、日本人が以前していたように畳んで積み上げて美しく保存していた。また「タリ」は一枚の皿で何種類もの料理が済ませられる合理的な食事だと思った。

機能と美的感覚との融合
 「布」に関してはわたしの納得できる生活習慣が沢山あり、その考え方を現在のファッションの服作りに取り入れた。
 着古したサリーは幾重にも重ね、美しく刺子を施して暖かさ、美しさを求め、破れた箇所にはミラーワークを使って宝石のように太陽光を反射するようにし涼感を求める。シルバーをそのまま糸のように使用し刺繍を施すとキラキラと遠くからでも認識できる。特に重ねた生地にミシンステッチを絵筆のように自在に動かし絵を描いてゆく「ビリ」という技法には感動したものだ。「ボリア」とよばれるボタンや「ドリ」という紐も布だけを使っている。さらにシームを浮かしミシンで空間を作り涼感を求める「ジャリ」ワークなど、すべてに生活の必要をみたすための機能の追求と美的感覚とが融合している。このような「布」の魅力が、インドの生活にはまだまだ根づいていると思う。
 最後にわたしが好むインド綿について一言。そのひとつ「スビン」はわたに蝋分が含まれているので身体に巻き付きにくく、かつ着つけたときに優美なひだを作りやすいドレープ性がある。身体とのあいだに空間ができ、そのため涼しく即乾性がある。また二〇〇番、三〇〇番という極細の手紬ぎ糸で手織りした「カディ」は、世界中のどこにもないほどの極軽木綿生地だ。日本はブレンドが得意だが、そろそろ原料にもこだわり、気にいって納得のできる素材を取り入れた布地を使う生活も良いのでは、と思っている。
 今回の「インド刺繍布のきらめき」展では素材を見ることで技法が再認識できる。展示をみて、インドのIT技術とは異なる、人びとの生活を楽しくする技法に関してもっと知りたいと思う人びとが多くいるのでは、と感じた。
 

女性たちを変えた「ノクシカタ」
小松 豊明(こまつ とよあき) 特定非営利活動法人「シャプラニール=市民による海外協力の会」クラフトリンク・チーフ
バングラデシュ復興のために
 「シャプラニール=市民による海外協力の会」は、バングラデシュ独立の直後、一九七二年に活動を開始したNGOである。独立戦争によって疲弊したバングラデシュの、特に農村部における復興支援活動がきっかけとなっている。
 活動を始めて間もない一九七四年、ある農村で結成された女性協同組合の活動として、ジュート製品作りが始まった。ジュートはバングラデシュの特産品で、広く日用品としても使われていた身近な素材である。女性たちはシーカ(吊り飾り)などの製品作りの研修を受け、彼女たちが作った製品をシャプラニールが買い上げて日本で販売するというかたちで、女性たちの収入向上を図ろうとした。現在「クラフトリンク」という名称でおこなっている、フェアトレード活動の始まりである。
 ほどなく、シャプラニールが直接買い上げるスタイルから、現地の人びとによって運営される手工芸品生産NGOを通して商品を仕入れるかたちに切り替わっていく。最初はひとつだけだった取引団体も少しずつ増え、取りあつかい商品のバラエティも多くなっていった。

自らの手で変革を
 そのなかで、ジュート製品と並んでシャプラニールの代表的な取りあつかい商品となっているのが「ノクシカタ」である。
 バングラデシュが位置するベンガル地方では、女性が身につけるサリーや男性の腰巻など、使い古した布を重ね合わせて刺し子を施し、肌掛けやシーツとして再利用する習慣がある。その布は「カタ」とよばれ、ときには色糸でさまざまな文様が刺繍される。日常生活で使われるほか、娘が嫁ぐ際に嫁入り道具のひとつとして母から娘へ贈られるなど、元々は販売目的ではなく自家用に作られていたものである。
 そのカタに装飾的な文様の刺繍を施し商品化することにより、働き手を失った女性たちの収入向上に結びつけたのが開発援助活動をおこなうNGOである。カタに刺繍の模様(ノクシ)が施されたノクシカタの生産には多くのNGOが取り組み、全国へ広まっていった。
 ノクシカタ生産者のひとり、パルルさんは数年前に結核で夫を亡くし、実母と息子を養っている。「夫がずっと病気だったこともあり、収入の無い日が続き、この仕事を始めました。そのころは一日一度の食事さえままならない日もあったけれど、今は毎日三度の食事が食べられるようになったし、魚や肉もときどき食べられるようになりました。仕事をずっと続けてきたおかげで、この土地、家、家具、全て自分の収入で買ったのよ。幼いころに学校に行けなかったので人前で恥ずかしい思いもしたけれど、仕事仲間から文字を教わり名前だけは書けるようになったわ」。
 このように、ノクシカタの生産により継続的に収入をえられることは、女性の就業機会が限られているバングラデシュの農村において、非常に大きな意味をもつ。
 また、経済的な変化だけではなく、女性たちが自分たちの手で現金収入をえることで自信をつけ、あるいは家庭のなかで発言権を増すといった社会的な変化も重要である。この仕事を始めて変わったことは?という質問に対し、多くの生産者が異口同音にこう答えてくれる。「以前は子どもの文房具ひとつ買うにもいちいち夫にお伺いを立てなければならなかった。でも今は、自分の判断でお金を使うことができる。夫が自分の言うことを聞いてくれるようになって、とても嬉しい」。

モノ・グラフ
モンスーンアジアの人びとと竹
吉田 裕彦(よしだ ひろひこ) 天理大学附属天理参考館学芸員
 アジアの東部から南部にかけて、モンスーンアジアとよばれる比較的湿潤な地域が広がっている。モンスーンとは夏は海洋から大陸へ、冬は大陸から海洋へ吹く季節風のことをいう。毎年五月ごろにインド洋の上空に発生した巨大な高気圧から、低気圧が発生して暖められたアジア大陸に向かって吹く大気の流れが夏(雨季)のモンスーン(季節風)である。
 夏のモンスーンは、ヒマラヤ山脈にぶつかると大きく東に進路を変える。水蒸気を多く含んで重くなった空気の一部はヒマラヤ山脈にぶつかって分厚い雲を作り、アジア平野部の各地に大量の雨を降らせ、それまで乾季だったアジアの各地に雨季をもたらせる。
 モンスーンの影響を強く受ける範囲は、インドから東南アジア、中国南部、東アジアの太平洋沿岸まで大きく広がっている。この広い範囲がモンスーンアジアだが、南部は高温多雨な熱帯モンスーンに、ベトナム北部あたりから北は温暖な温帯モンスーンにわかれている。
 モンスーンアジアの各地では古くから稲作が発達し、多くの人口を養ってきた。また、その風景に溶け込むかのようにして、いたるところに竹が植わっていることにも気づかされる。モンスーンアジアに暮らす人びとと竹との関係は稲作文化と同様に深い絆で結ばれているといえるのかもしれない。
 さて、この度、東京都千代田区神田錦町にある天理ギャラリーで第一三六回展「モンスーンアジアの竹文化―素朴な技術(わざ)と造形の美―」(会期:二月一六日~三月二八日)を開催する。天理ギャラリーは、天理大学附属天理図書館および附属天理参考館の両館に収蔵する稀覯書(きこうしょ)や世界の考古美術・生活文化資料からテーマをきめ、年三回の展観をおこなっている。
 今回の展観では、広大なモンスーンアジアの内、比較的竹がたくさん生い茂る東南アジアの島嶼部、大陸部東側、中国東部、台湾、日本をひとつの範囲として、それぞれの地域の気候風土に根ざした人びとのライフスタイルに竹という自然素材がどのように取り入れられているかを考えてみることとした。
 展示コーナーとおもな展示資料は(表1)に掲げる通りである。
 展示資料のバリエーションからも察せられるように、モンスーンアジアの人びとにとって身近に見られる天然素材である竹はじつにさまざまな場面で利用されている。竹作りの器に人間が入って暮らすなど、わたしたちには考えもおよばないところだが、二〇世紀前半の台湾で竹作りの寝台に入って眠るライフスタイルがあった。蒸し暑い夏の夜、涼をとるにはこれにまさる寝台はなかったであろうと思われる。
 竹の容器は物や水、酒などの液体を入れるだけではなく、小鳥や虫、ニワトリ、サカナなどを飼育し、捕らえる器にもなっている。また、人が身につける笠や雨具などにも竹素材のモノが見られる。音色を楽しむ楽器や小鳥を脅したり、おびき寄せる道具、その他、竹を使った日常の用に使う道具はなるほどと感じるモノばかりである。そして、人びとにとって非日常の世界とみなされる神々との交信や精神世界にかかわる道具にも竹は登場する。
 ところが、今回の展観で紹介する竹製品の多くは、設備の整った博物館で保管しない限り、一般の生活空間では数年ももたないで壊れてしまうテンポラリーなモノである。それゆえに短いスパンの再生産が必要となり、編み細工の技術や手細工の技術の継承が逆にスムーズにおこなわれてきたのではないだろうか。
 わたしたちを含むモンスーンアジアの人びとの生活感性を再発見しようとした場合、その気候風土に育まれた竹素材の活用状況や製作技術の継承方法を知ることは、大いに有用であり、これからの快適な暮らしのあり方を模索するヒントのひとつになるかもしれないと感じている。

地球ミュージアム紀行  -鹿児島純心女子大学附属博物館/日本-
小さな大学博物館の大きな可能性
小島 摩文(こじま まぶみ)鹿児島純心女子大学附属博物館副館長
 鹿児島純心女子大学は一九九四年四月に開学し、現在、国際人間学部と看護栄養学部の二学部四学科、それに大学院があり、在学生約八〇〇人の若くて小さな大学である。鹿児島県内でもっとも流域面積の広い川である川内(せんだい)川がながれる薩摩川内(さつませんだい)市に位置し、鹿児島市からは在来線で五〇分、新幹線で一三分の距離にある。
 これまで、「日本郷土玩具館」として図書館の一隅に郷土玩具を約二〇〇〇点展示してきたが、このたび、新校舎サンタマリア館に博物館機能を移転拡充することとなり、二〇〇八年九月に竣工した。展示室は一五五平方メートル、収蔵庫は五九・五平方メートル、このほか館長室、学芸実習室、作業実習室を備えている。
 移転に伴って名称を「鹿児島純心女子大学附属博物館」に変更し、オープニング企画展として「川内川―川と人のくらし―」展を大学祭の一〇月二五日より一ヵ月間の会期で開催した。この展示は、民博とも連携して進められた総合地球環境学研究所の研究プロジェクト(アジア・熱帯モンス―ン地域における地域生態史の統合的研究)の成果発表のひとつ、ル―スアライアンス展示として企画された。ル―スアライアンス展示とは、巡回展のように同じ展示をもち回るのではなく、各博物館の学芸員などの企画担当者が共通のテ―マのなかでそれぞれの博物館独自の企画展を展開していく展示である。二〇〇七年には天理大学附属天理参考館でル―スアライアンス展示として企画展「モチゴメの国ラオス―メコン河流域の暮らし―」を開催した。
 本展示では、この研究プロジェクトに参加していた鹿児島県歴史資料センタ―黎明館の川野和昭学芸課長の協力をえて、個人蔵のメコン川流域の漁具資料や黎明館収蔵の川内川の漁具資料をお借りして、メコン川の漁具と川内川の漁具を比較展示するなどこの研究の成果を生かした。また、地元の薩摩川内市川内歴史資料館の資料も、本学出身の出来久美子学芸員の協力により展示することができた。
 博物館実習Ⅰの履修学生の自主企画による「川内川の生物」「全国のカッパ」などの展示も半年の準備を経て展示することができた。ル―スアライアンスのような協力関係のなかで本館のような小さな大学の附属博物館でもグロ―バルな視野に立った展示が可能となった。二〇一〇年度に予定されている川内歴史資料館と宮之城歴史資料センタ―と本館とのル―スアライアンス展示の企画も準備段階に入った。学生や地域を巻き込みながら外に開かれた大学博物館を目指していきたい。

表紙モノ語り
子ども用帽子
インド・グジャラート州カッチ地方
帽子(子ども用)(標本番号H0238036、高さ/29.0cm 幅/14.0cm 奥行/14.0cm)
 子どもが祭礼時に頭にかぶるもの。帽子には、子どもを美しく装うという目的の他に、頭というもっとも大切な部分を邪悪なものから守るという役割がある。命名式や食い初め式、結婚式など、人生のさまざまな段階でおこなわれる通過儀礼は、晴れの舞台であると同時に、邪視にさらされ、子どもに災難がふりかかることもある。悪い影響から子どもを守り、無事に儀式をおえることができるようにと、母親たちは帽子を用意する。
 この帽子はグジャラ―ト州カッチ地方に住むカンビ―(農民コミュニティ)の女性による制作と推定される。刺繍の技法には、糸目のつまった細かい鎖縫いと、糸目を開いて梯子状の文様を描く鎖縫い(オ―プン・チェ―ン)が用いられている。対のオウムがひとつの花をはさんで向かい合ったかたちで、花とオウムの文様が交互に表現されている。このような図柄は、もともとモチという刺繍職人たちがおこなっていたものだが、村々の女性たちも自分の刺繍に取り入れるようになった。しかし、モチ職人の精巧な文様表現とは異なり、民俗刺繍ならではのおおらかさが感じられる。また、花やトリを抽象的に表現するスタイルには、スィンド地方(現・パキスタン)からの移住者がもち込んだ刺繍の影響なども見られる。
 このように刺繍は、同じ地域の異なるコミュニティや異なる地域からの移住者がもち込んだスタイルの影響をうけながら絶えず変化してきた。コミュニティが継承している技術や文様もあれば、刺し手個人が創造したものもあり、刺繍品から作られた時代や作り手を特定するのはじつはとても困難な作業である。近年は、この地域の女性たちの刺繍技術を生かしながら、都市の中産階級や外国人の好みに合うものを開発する試みのなかで、新しいデザインの刺繍がうまれている。

万国津々浦々
ライオンの肉を食べる
人間にもあわてず
 アフリカのカラハリ砂漠で現地の人と一緒に狩猟に出かけていると、多数のハゲタカが群がって飛びまわっている光景に出あうときがある。そこは三六〇度にわたり地平線の見える見晴らしのよい大地で、そういうときには死んだばかりの獲物がいるにちがいないという。あんのじょう、あるときには何者かによって殺されたキリンが横倒しになっていた。長い首筋には、歯のあとが残っている。
 その犯人は、ライオンである。現地に住んでいるカラハリ先住民は、狩猟や採集を通して世界でもっとも自然を熟知しているといわれてきた。その彼らがもっとも恐れている動物がライオンなのだ。そもそも出あった際のライオンの動きは奇妙である。カラハリ砂漠で四輪駆動の車を使って移動する際に動物に出あうことはたびたびある。ほとんどの動物はすばやく走って逃げてしまうが、ライオンだけは、人間の存在に気がついてもあわてるようすはない。夜になってキャンプする場合にも、現地の人は焚き火のまわりではなく、車の荷台や屋根の上で寝ることを望む。夜中にライオンがやってくることを恐れているからだ。

タブ―のはずが
 わたしは、これまでおよそ二〇年、カラハリ砂漠の先住民の人びとから、狩猟を通して彼らの動物に対する見方や動物とのかかわり方を学んできたが、二〇〇八年六月六日だけは忘れられない日になった。これまで、彼らが絶対に食べることのないと思っていたライオンの肉を口にしているところを見たからだ。
 カラハリ砂漠には動物保護区があり、自由に狩猟をおこなったりはできないのだが、わたしは罠で捕獲されたライオンを解体するところに偶然にも居合わせたことが以前にもあった。だがそのときには、彼らは皮をもち帰って肉を捨てていた。多くの村人からも、ライオンは食べてはいけないものだと聞いていた。
 しかし、今回は、村のある家を訪問した際に、三メ―トル近い紐が張り渡され、細長く切られた生肉が干されているのを見た。これは、何の肉かと聞くと、ライオンと答えが返ってきた。このライオンは村のウシを頻繁に襲うということで、有害駆除のようなかたちで特別に捕獲されたものだという。小屋のなかでは、鉄鍋のなかでライオンの肝臓を煮込んでいた。ライオンの肉はかたくて、調理には数時間かかるという。
 わたしの知り合いが、鍋のなかの肉をもらい、これをうまそうに食べているのを見てわたしは驚いた。今までライオンを食べなかった人たちがなぜ食べるようになったのか。それともわたしがタブ―と信じ込んでいて個人による好みの差を見落としていただけなのか。わたしも、同様に肉片をもらい、これは肝臓といいきかせながらそれを口に入れ軽くかみ砕いてみた。しかし、ライオンを食べるのは変だという考えがよぎり、いたたまれなくなってはきだしてしまったのである。あらたなものを食べる際には、食べ物の実際の味よりも、文化的な先入観に左右されることを思い知らされた一日であった。

時論・新論・理想論
日本発「手学問のすゝめ」、世界へ 
五感を活かす新学問
 二〇〇八年一〇月、企画展用の資料を借用するため米国を訪問した。ここ数年、二月と一〇月前後の二回ペ―スで米国を訪ねるのが僕の恒例行事となっている。今回も各地の大学、博物館で有意義な意見交換をすることができた。僕は最近、さまざまなミュ―ジアム、福祉関係者からの依頼に応じて”さわる“体験型ワ―クショップを実施しているが、このワ―クショップをアメリカで試してみるのが今回の出張の隠れた目的でもあった。
 乱暴な要約をするならば、二〇世紀までの近代的学問は目と耳による情報に力点を置いてきた。その代表が西洋諸国の見聞をベ―スとして『学問のすゝめ』を著し、民主主義的な立国論を展開した福沢諭吉だろう。二一世紀の学問には目や耳以外の感覚、五感の潜在能力を活用したあらたなスタイルが求められているのではないか。こんな熱い思いをもって、僕は触覚による手学問を提唱している。
 手学問ワ―クショップでは三つの「こう」(考・交・耕)をテ―マとし、多様な物に触れる楽しさを味わう。ときには民博の収蔵品を借用し、暗闇のなかで触察してもらうこともある。また、視覚障害者とは「視覚を使えない弱者」ではなく、「視覚を使わない代わりに五感(触覚)の可能性を切り開いた人」だという積極的な障害者像をアピ―ルするために、点字の触読にも挑戦している。これ以上ワ―クショップの具体的内容を紹介したら、手学問の新鮮さがなくなるので、この辺でネタの出し惜しみをすることにしよう(興味をもたれた方は、民博でもワ―クショップをおこなう予定なので、ぜひご参加を!百聞は一触に如かず)。

手探りから手応えへ!
 近年、ドイツ生まれの暗闇体験ワ―クショップ「ダイアログ・イン・ザ・ダ―ク」(DID)が日本でも開催され、静かなブ―ムとなっている。東京では常設化を求める声も高まっているようだ。DIDに対抗するつもりはないが(ちょっとあるかな?)、僕は日本発の「手学問のすゝめ」が世界に通用しうる斬新な障害理解、五感の可能性への気づきを促す体験学習プログラムになると信じている。
 この自信を確信に変えるため、今回の出張中、ニュ―ジャ―ジ―州プリンストンの日本語学校(小・中学生向け)、モンタナ州立大学(大学生向け)でワ―クショップを開いた。触覚を通して考える、自身の触覚(皮膚感覚)で得た情報を視覚や聴覚情報と交流・交換する、自分のなかに眠っていた触覚の潜在力を耕す。こういった手学問の意義が一〇〇パ―セント参加者に伝わったとは思えないが、とりあえずワ―クショップは好評で、子どもも大学生も”さわる“豊かさと奥深さを感じてくれた。僕の怪しい英語力では対話式のワ―クショップをスム―ズに進めることができなかったが、きっと回数を重ねれば手探りが手応えへと変化していくのだろう。
 アメリカでの二回のワ―クショップ経験を通じて、僕は「手学問のすゝめ」が文字どおり誰もが楽しめるユニバ―サルな企画になるきっかけをつかんだような気がしている。これからも手学問の必要性を国内外で大いに宣伝すると同時に、手学問が実践できる貴重な博物館である民博の魅力を発信していきたいものだ。

外国人として生きる
同郷者との絆を大切に今日も走る、インドネシア人の営業マン
スリ・ブディ・レスタリ 東京外国語大学博士後期課程
 二〇〇八年も残すところ一週間。アグンさんにとって多忙な日が続く。福岡県のある鉄工会社に入社して七年目、同社初の外国人営業スタッフに任命されて二年半が経った。妻の雪絵さんが里帰りの支度をするなか、アグンさんは出社し、出張先に向かう。営業マンとして、取引先への年末のあいさつは欠かせないのである。
 アグン・ウィボウォさんは一九九七年六月に初めて来日した。インドネシア労働省と日本のIMM(中小企業国際人材育成事業団)の世話で三年研修の機会をえた。研修が終わって、日本語教室で知り合った雪絵さんと故郷スマトラ島で結婚し、しばらくはインドネシアに住んでいたが、現在は一家四人(子ども二人)で福岡県に暮らしている。日本人にとっても苦労の多い営業に従事する数少ないインドネシア人の一人である。

研修時代の経験
 初来日のころだった。受け入れ先の木材加工会社が倒産したため、アグンさんは佐賀県の家具製造会社に移った。そこには既に七人のインドネシア人がいた。アグンさんは、厳しい職場と社長の荒い態度に驚いた。アグンさんたちが工場でミスをすると、「馬鹿野郎!」「使い物にならないから帰れ!」などと乱暴なことばを浴びせ、近くにある物を手当たり次第投げつけることも度々あった。萎縮したインドネシア人は、さらにミスを犯し、作業効率もあがらなかった。
 そこで仲間をまとめて、事態を改善する大役を果たしたのが最年少のアグンさんだった。社長の態度は常軌を逸してはいたが、イジメではなく、彼なりの教育であるのではないかとも思え、仲間にも前向きに考えるよう説得した。一方で、仲間を代表して社長にこう申し出た。「自分たちも態度や働き方をできるだけ改善するので社長も態度を和らげて欲しい」と。さらに、「三ヵ月経っても僕たちに変化がなかったら帰らせてもよい」と言った。社長の返事はこうだった。「もしうまく行かなかったら、お前の先輩じゃなくてお前だけがクビだぞ」。大きな賭けだったが、アグンさんは仲間のために受け入れた。
 変化が起きた。仲間たちが明るい表情で自信をもって働くようになった。ミスを犯しても、社長を恐れずに正直に報告するようになった。そして社長の態度も大きく変わった。双方の信頼と意志の疎通が十分ではなかったのだ。アグンさんは社長から絶大な信頼を受け、「ずっとここで働いたらどうだ」と勧められたが、帰国を選んだ。
 この社長とのつきあいはそれで終わりではなかった。しばらくインドネシアで新婚生活を送った後、再来日した折も、最初に助けてくれたのはこの社長だった。現在の職場に就職が決まる前、アグンさんに仕事を与えてくれるなど、全面的に支援をしてくれたのだ。研修生のひどい待遇の話はよく知られているが、自分は幸運だったと思っている。

インドネシア人への励みとして
 現在の職場の営業は、日本人でも音をあげて辞めてしまうほどに厳しい。製造部から営業部に移ったのは、もちろん成績が良かったからだが、当時周りの日本人の厳しい視線を浴びた。「外国人に営業は無理ではないか」という不安の声が多かったのだ。会社もじつはアグンさんに営業の仕事を任せるのは大きな賭けだったという。
 だが、アグンさんには強い意志があった。最大の理由は、周りのインドネシア人労働者の励みになりたい、という思いであった。自分がこの分野でやり遂げることができれば、きっと他のインドネシア人ももっと自信をもち、がんばれるようになる、そしてインドネシア人に対する偏見も無くなる、という信念であった。
 営業スタッフの仕事は、会社が設計した機械をただ売りに行くという単純な仕事ではない。アグンさんのおもな取引先は産業廃棄物業者で、彼らに高価な機械を納入している。そのため導入後の助言やサ―ビスまですべて担当する。アグンさん曰く「確かに先方は会社という組織ですが、深く理解し合い信頼関係を築くのは、その会社の責任者とです。人間と人間との関係が非常に大切だと思います」。営業スタッフは会社の顔であり、会社と取引先との架け橋として重要な役割を果たすという。
 初めての飛び込み営業のとき、先方の従業員はアグンさんの「外国人」顔と、名刺のカタカナ書きの名前に戸惑った。今は、多くの顧客から「あなたの熱心さは日本人も見習わないとね」と実力を認められるようになった。そして、日本人がそのような眼で外国人を認められるようになりつつあることが嬉しい。
 二〇〇八年の大晦日。同郷の研修生の支援と教育にもかかわってきたアグンさんは、年越しの晩を家族と一緒に過ごさず、研修生たちとカウントダウンをした。「家族も大切ですが、同郷者の成功と満足も自分の幸せです」と語る。アグンさんの夢は、日本でえた知識を生かし、インドネシアのゴミ処理問題に貢献することだという。

歳時世相篇(11)【バレンタインデ―】
チョコレ―トの正体
チョコレ―ト会社の企み
 二月一四日といえば、バレンタインデ―。バレンタインデ―にチョコレ―トを贈ることを考えついたのは、当然のことながら、チョコレ―ト会社である。愛の告白や贈り物をする日として、聖バレンタインデ―を選び、チョコレ―トを贈る、それも女性から男性に贈ることを思いついた人はなかなかの知恵者に違いない。日本では、一九三六年神戸のモロゾフが英字雑誌にバレンタインチョコレ―トの広告を出し、一九五八年にメリ―チョコレ―トが東京のデパ―トでバレンタインセ―ルのキャンペ―ンをおこなった。それがバレンタインデ―にチョコレ―トを贈るようになった最初といわれる。だが、バレンタインデ―にチョコレ―トを贈るそのもとは、イギリスのチョコレ―ト会社のキャドバリ―のチョコレ―ト・ボックスにさかのぼるというから、一〇〇年以上の歴史がある。
 最初はいくらキャンペ―ンを張っても売れなかったが、一九七〇年ごろになると、バレンタインデ―にチョコレ―トを贈る習慣が広まりだした。バレンタインデ―などなかったわたしのような団塊の世代のものでも、ぼちぼちチョコレ―トを義理チョコという名でもらうようになったのが、一九八〇年代であったので、そのころからバレンタインデ―も二月の風物詩として定着していったのであろう。今では、バレンタインデ―シ―ズンのチョコレ―ト販売額は五〇〇億円あまりで、年間販売額の一一~一二パ―セントも占めるという。

食べ物? 飲み物? 薬?
 チョコレ―トといえば、どうしても男性より、女性のものという感じがする。だからか、年配の男性のなかには、喫茶店でココアなど注文すると男子の沽券(こけん)にかかわる、といった気持ちをもつ人が多いのではなかろうか。とはいえ、最近は男女の区別がなくなってきたのに呼応してか、男性がココアを注文しても、チョコレ―トを食べても、全然恥ずかしくなくなってきた。
 だがチョコレ―トが女性のものである、という意識は、チョコレ―トを西欧の人たちが知りだした一六世紀の後半にはすでにあったようである。一六世紀の末ごろ、メキシコ南部のチアパス州では、か弱き女性たちにとって、長時間のミサに耐えるにはチョコレ―トがなくてはならないものになっていた。教会のミサのときに、召使いにチョコレ―トの飲み物をもってこさせ、砂糖菓子とともに飲んだ。そのためチョコレ―トは食べ物かそれとも飲み物かという論争のもとになった。もしチョコレ―トが食べ物だとすると、断食を破るものとなるのだが、長い論争の末、最終的には、水に溶いただけなら、飲み物にすぎないということになった。
 とはいえチョコレ―トには、バニラや肉桂、砂糖などが入れられたので、単なる飲み物とはいえそうにない。アステカ王モテクソ―マは精力剤として飲んでいたというし、医薬品としても用いられていた。そのせいでもあるまいが、チョコレ―トは長いあいだ、催淫剤とみなされてきた。
 チョコレ―トのもとであるカカオ豆に含まれるポリフェノ―ルには、癌や動脈硬化などさまざまな病気の原因となる活性酸素や細菌の増殖を抑える効果がある。またカカオバタ―は緩やかな便通剤であり、消化器官を保護する。古代からずっと医薬品として利用されてきたのは、そうした効能を十分体験してきたからであろう。

「お金」から皆の好物へ
 チョコレ―トは、現在誰でも食べることができるが、ヨ―ロッパ人が征服する以前のアメリカでは、王や貴族が飲むものであった。普通の人が飲むと命にかかわるほど、貴重なものであった。カカオ豆がお金であったからである。なぜお金として利用されていたのかというと、おそらくカカオの木は高温多湿のところでしか育たなかったからに違いない。そんな場所は、メキシコでいえば、ソコヌスコ地方やタバスコ地方など、ごく限られている。限られた量しかとれず、かつ生産を簡単に支配、調整できたから、お金として使われるようになったのであろう。またカカオ豆が堅くてあつかうのにほどよい大きさであったこともその理由として考えられる。
 そんな貴重であったチョコレ―トを女性たちが飲むようになったのは、チョコレ―トを用意するのが女性であったからではなかろうか。石のこね棒を使い平石臼でカカオ豆を挽くのは女性であり、また挽いて水に溶かしてどろどろになったカカオをいれた容器を頭の上の方にかざして、下に受けた容器に移し替えて混ぜたり、かき混ぜ棒で混ぜるのも女性であったからである。カカオ豆に含まれるテオブロミンは筋肉の緩やかな弛緩剤として機能するためか、チョコレ―トを食べると、なぜか心が落ち着いて穏やかになる。そうした穏やかな作用も女性にうけてきた要因であるのかもしれない。
 チョコレ―トが食べるものになったのは、一九世紀のことで、それまではずっと飲み物であった。チョコレ―トのもとになるカカオ豆には約半分ほど脂肪分が含まれている。そのため、溶かして飲むためにはかき混ぜ棒が必要であった。脂肪分を半分ほど減らしたココアができたことで、容易に飲み物ができた。そして、カカオバタ―とココアを混ぜ合わせることで、食べるチョコレ―トができた。さらにカカオ豆をきめ細やかに粉砕できる機械の発明や、ミルクと混ぜ合わせることができるようになったお蔭で、我々が愛してやまないチョコレ―トができたのである。

生きもの博物誌 【キャベツ】ロシア
長い冬ごもりにそなえて
蓄えの季節
 ロシアの冬は長く厳しい。わたしが滞在していたロシア北西部の村では、零下三〇度を下回る日も少なくない。冬になれば当然、野菜の価格は倍以上に高騰する。そのため、村人たちは春から秋にかけて、せっせと食料生産と備蓄にいそしむ。村人の春のあいさつは「ジャガイモの植え付けは終わった?」であり、秋のあいさつは「ジャガイモは収穫した?」である。ロシアの生活ではジャガイモはパンと並んで毎日の食卓に欠かせない。村ではほとんどどの家庭でも自分たちで食べる分は自分で栽培し、地下貯蔵庫に一年分蓄えておく。ジャガイモさえあれば、仮にパンを買うお金がなかったとしても、とりあえず飢える心配はないのだ。
 村の家々の周囲には菜園があり、ジャガイモの他にも自分の家で食べるトマト、キュウリその他、さまざまな作物が栽培されている。夏のあいだは新鮮な生野菜を楽しみつつも、冬のための保存食作りにも余念がない。良い主婦は山ほどビン詰めを作り、貯蔵庫にずらりと並べる。一方、男は自家用モ―タ―ボ―トで漁に行く。ヨ―ロッパ最大の湖ラドガ湖に面するこの村では、スズキやカマスなどが獲れる。これらはカルパッチョのようにしたり、揚げたり煮たりして食べられ、余剰はやはり蓄えられる。保存のために、冷蔵庫とは別に冷凍専用のフリ―ザ―をもっている家庭も少なくない。湖に氷の張る秋の終わりには、フリ―ザ―は満杯になるのである。
 さらにレジャ―を兼ねて一家総出でおこなわれるのが、森でのベリ―摘みとキノコ狩りだ。ブル―ベリ―、コケモモ、ツルコケモモなどはジャムやジュ―スになる。キノコも干したりマリネにしたりして保存される。春から秋までのあらゆる活動は、冬にお腹一杯で心安らかに暮らすためにある――そういっても良いほど、彼らは季節ごとの自然の恵みを熱心に蓄え続けるのである。

満月の日に一〇〇キログラムのキャベツを漬ける
 ロシアの冬の食卓に欠かせないのが、キャベツの塩漬けである。ホストファミリ―と一緒に漬けた経験をのべよう。まず秋に隣村の農場から一〇〇キログラムのキャベツが購入された。その後に熱心に検討されたのが、塩漬け作業の日取りである。失敗すると春までもたずに腐ってしまい、大量のキャベツが無駄になる。シャキシャキとした歯ごたえの良い塩漬けを作るためには、いつ漬けるべきか。議論の末、何かを作る際にもっともうまくいく日は満月の日であるという理由により、一〇月半ばの満月の日が選ばれた。
 さて、塩漬けの作り方は以下の通りである。キャベツを巨大なスライサ―で千切りにし、薄切りにしたニンジンとまぜ、手で塩をもみこむ。キャベツ一〇キログラムにつき、ニンジン五〇〇グラム、塩二五〇グラムの割合である。この工程を繰り返し、順に樽に入れていく。一〇〇キログラムすべてを樽に詰め終えるまでに、六時間が経過していた。この樽を暖かい部屋のなかに置いておくと、醗酵が始まり、泡のようにガスが出てくる。翌日から毎日数回、長い棒で突付いてガスを放出させる。一週間後、キャベツから大量の水が出たころを見計らって、樽から取り出し、ビンにギュウギュウ詰めにする。その後、地下貯蔵庫に並べて、一二月ごろまでさらに熟成するのを待った。
 こうしてできあがったキャベツの味はすばらしかった。塩気が程よく効いていて、かすかな酸味がある。ひまわり油を少しかけてサラダとして食べるのだが、どんなおかずにもよく合う。冬のあいだ、わたしたちは貯蔵庫のビン詰めをひとつずつ取り出しては開け、取り出しては開けて食べ続けた。薪暖房の効いた暖かい家のなかで、新年のパ―ティ―のときにも、復活祭のお祝いのときにも食べた。そして春が来るころには、一家四人で一〇〇キログラムのキャベツをすっかり食べ尽くしたのである。

キャベツ (学名:Brassica oleracea)
アブラナ科アブラナ属の多年草。野菜として広く利用される。栄養価が高く、ビタミンC、ビタミンUを豊富に含む。古代ギリシャ・ロ―マでは胃腸の調子を整える薬草として用いられていた。ロシアでは塩漬けにする以外に、ボルシチなどのス―プやピロシキの具としても用いられる。写真右は家庭菜園で栽培されているキャベツ。横に突き刺してある棒とその上に幾重にも重ねられた卵の殻は、虫がつかず、葉がぎっしりとつまったキャベツにするためのまじない。

フィールドで考える
ミンダナオ島にゴング音楽を求めて
消えゆくゴングの響き
 二〇〇八年三月にフィリピン・ミンダナオ島を訪れる機会に恵まれた。わたしは長年この島で演奏されるクリンタンとよばれるゴングの音楽を調べてきたが、人目に耐える映像資料がないため、いつか撮影のための取材をおこないたいと考えていた。クリンタンは、ミンダナオ島西部やス―ル―諸島に住むイスラム教徒たちによって伝承されてきたゴング音楽で、村落部を中心に、結婚式、割礼式をはじめさまざまな機会に演奏されている。
 クリンタンが演奏される地域は、一九七〇年代以降イスラム分離主義勢力が政府と対立して戦闘を繰り返してきた歴史をもつ。両者の和解への動きは一進一退であり、現在でも状況は流動的で不安定だ。分離主義勢力と政府軍との戦闘だけでなく、イスラム集団間の小競り合いや身代金目当ての誘拐事件が多発する危険な地域としても知られている。分離主義グル―プの支援のために、リビアやマレ―シアなどから金銭だけでなく大量の武器が流入したことが、この地域全体の危険度を高めている。初めは政府軍に対抗するために用いられた武器が、次第にイスラム社会内の派閥間の争いにも転用され、戦いがいつどこで勃発するかを予測しにくくなった。また、ここ数年は麻薬の栽培をおこなう武装集団が各地に出現して縄張り争いを展開しており、状況はより一層複雑になっている。このために、村人が戦闘に巻き込まれるのを避けるために村を去り、国内難民となって離散した例も多い。クリンタン音楽は、村ごとに演目や演奏スタイルが少しずつ異なるが、これらの村が伝えてきた音楽は、それを支える共同体がなくなったために消滅寸前である。

ゴングの村、タラカへ
 ミンダナオ島を一律に危険だと決めつけるマニラっ子たちに与(くみ)したくはないが、現地で調査をおこなうには注意が必要なのも事実である。今回の取材は、わたしのクリンタン音楽の師匠であり長年の盟友でもあるウソパイ・カダ―さんと共同でおこなった。取材班は、我々二人のほか、カダ―さんの親族数名、日本から同行した撮影班二名で編成されたが、そのほかに護衛の兵士たちが一〇人ほど随行した。彼らはフィリピン国家警察に所属する現役の兵士や特殊部隊の隊員である。迷彩服に身を包んだ臨戦体制の兵士はもちろんのこと、三人の私服警官や同行したカダ―さんの親戚の男性たちも全員が銃を携えていた。警護が多いと目立つので余計に攻撃の的にならないか。このような警護が必要な地域で本当に音楽が演奏されているのだろうか。演奏されているとしても取材が可能だろうか。
 そのような不安が頭をよぎるが、「十分な根回しと警護があれば大丈夫」というカダ―さんたちのことばに後押しされて車三台に分乗して現地に向かった。今回の取材のハイライトは、マラナオ人が多く住む南ラナオ県の中心都市マラウィから車で一時間半ほど南に下ったタラカ村である。タラカはカダ―さんが生まれ育った村で、今でも彼の一〇〇歳になる父親を筆頭に一族が住んでいる。クリンタンが盛んなことで知られ、伝統的な奏法をうけつぐ年配の奏者が多く住んでいるため是非とも取材したい村だった。しかし、タラカ周辺は今回の調査地のなかでもっとも危ない地域らしい。冗談を言い合って明るく振舞っていた兵士たちの目つきが、この村に近づくにつれて次第に険しくなっていくのに気がつく。また村に入る直前のチェックポイントで応援の兵士が五人ほど合流した。

音の洪水
 村に着くとカダ―家の前庭ではすでに演奏が始まっていた。そこにいた大勢の人びとは、わたしたちの取材のためだけでなく、アメリカに住むカダ―さんの久々の帰国を祝うために集まっていた。クリンタンは、もとより演じ手と観客の境がなく、皆が順に演奏できる参加型の音楽なので、カダ―さんも演奏に加わる。わたしも見ているだけでは許されず、少しだけ演奏することになった。実際に演奏を始めると音の力は圧倒的だ。少し離れて聞いているのとは大違いである。力を込めて打たないと、その強い流れに押し流されそうになる。しかし、一度音の流れに入りこめば後は身を任せるだけだ。自分が撥(ばち)をもってゴングを打っているという意識は遠ざかり、体の感覚さえはっきりしない。音の洪水に包まれる快楽に浸っていたため、銃をもった兵士たちに囲まれていることをしばらく忘れていた。
 夜間に移動したり村にとどまることは危険であるため、取材の時間は自ずと短くなる。そのためわたしたちが今回記録した音楽は量的には限られているかもしれないが、この地域における取材の難しさや、近年の若者のクリンタン離れを考えると、資料の価値は時間が経つにつれて高まっていくだろう。しかしそれと同時に、村人と音を共有した経験から、演じ手と聞き手の音の体験には大きな差があることを再認識させられた。音の洪水はどのように記録できるか、されるべきか。今後の課題としたい。
 番組が完成したら、取材に協力してくれた人たちへの感謝の意をこめて、現地で上映会を開くつもりである。そのときには、護衛についてくれた兵士たちが、銃をもたずに番組を観ることができるようになっていることを祈りたい。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう

次号予告・編集後記

 地球温暖化のせいなのだろうか、最近テレビの天気予報を見ていても、平年より気温が高い日が多いような気がしている。大阪の都会では池に氷が張ることもまれであり、子どものころよく踏んで遊んだ霜柱もまったくお目にかからなくなった。近年はどうも「冬将軍」に元気がない。一時的に強い冬型となり、北西の季節風が吹きつけて非常に寒い日もあるのだが、長続きしない。すぐに冬将軍の息が切れて季節風も弱まってしまう。豪雪地帯では、冬型が続けば雪に埋もれ、重労働の雪かきが続くのでたまらないだろうが、他方で、田に雪が積もることで、土が守られ、次のシ―ズンの収穫が約束されるという側面もある。また、冬の寒さによって、夏のあいだに入り込んでくる南方系の害虫も死に絶え、定着しないですむ。やはり冬はきちんと寒くなくてはいけないのである。天気予報などで冬型がゆるむような天気図を見ると思わず、「がんばれ冬将軍!」と声援を送りたくなってしまうのだが、そのようなわたしはよほどの変人なのだろうか。(佐々木 史郎)

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