国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.2 岸上伸啓―いよいよイヌイットの村へ

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─ もちろん調査にも行ったわけですね。
岸上 行きました。北米の大学院には、まず一年間準備勉強があって、それからリサーチ・プロポーザルを書いて、試験を受けて、合格したら調査に行ってよろしいというしくみがあります。そういうことで、83年から準備しまして、84年に予備調査へ行きました。
調査地はケベック州の北にあるアクリビクという村なんですけれども、当時は、モントリオールから飛行機で行ったら、北ケベックまでに中継地で一泊しなくちゃならなかったんです。調査地の状況もぜんぜん知らなくて、村長さんに手紙を書いたんですよ。日本から来た学生で、イヌイット社会の親族関係とか、社会構造を研究したいということで手紙を出したんですけど、ぜんぜん返事がこないんです。で、もうひとつ、イヌイットの研究を監視するイヌイットの研究団体があって、その調査機関にも手紙を書いたんですけれどね。

─ 変な研究者を近寄らせないための団体ですか。
岸上 ええ、そうです。手紙を送って一週間したら返事がきました。おまえは北ケベックのカナダ・イヌイット社会の法律を犯しているという。「violate」という言葉をつかってましてね、イヌイットの調査はイヌイットがやるんだ、ちゃんとした理由があって、ちゃんとしたやり方でやらないと調査なんかさせるわけがないというので、困っちゃったんです、ぼく(笑)。
それで指導教官と話をしまして、まあ失敗してもいいから一回行ってこいといわれました。調査許可をとりにむかったのは、イヌクジュアクという、ぼくの調査地に行く途上にある村なんですけど、そこにアバタック・カルチュラル・インスティテュートというイヌイットの人たちがやっている文化研究所があって、そこの所長に会いに飛行機で行きました。
 

─ どんな飛行機ですか?
岸上 双発機ですけどね。今では考えられないですけど。まず中継地に行く。そこまで四、五時間かかりましたね。そこで一泊して、翌日また三時間ぐらい飛んで、同じ州内ですからそれでもう着いちゃいます。それで調査許可をもらいたいと話をしたら、イヌイットの人たちというのはすごくいい人たちなんですよ。おまえよくきてくれた、勝手に調査に入らずに、ちゃんと挨拶にきて、何をやるかおれたちの前でよくいってくれた。いいから調査に行ってよろしいというんですよ。話が違うじゃないかと思ったんだけど(笑)。そのころ飛行機は週に一本か二本しかないから、次の週に調査地に行ったんですよ。
調査地に入ったのはいいんですけど、まず驚いたのは、村が建設の途上で、家が数軒しかなかったんですね。飛行場といっても、村のすみっこにある滑走路だけ。そこにリュックかついでいって、わかんないんで村役場に行きました。小さなプレハブです。そこに秘書の方と村長さん、二人しかいないんですね。彼らはイヌイット語以外話さないんですが、そこへ行って、手紙を書いた日本人だといったら、そういえば手紙を受け取った、アバタックからもちゃんと電話がきている、わかったといって、家をもっている人で、村のイヌイットの牧師さんの家を紹介してくれて、そこでまずひと月、予備調査のあいだ泊まらせてもらいました。
 
 

ひとつ大きなショックを受けたのはね、ほんとはもっと知っておくべきだったんだろうけど、やっぱりもう伝統的な服とか道具はなくて、スノーモービルが置いてある。ヤマハやスズキの船外機が置いてある。家の中へ入ったらパナソニックのテレビ、ラジオ、しかもジーンズをはいている。ということに、すごくショックを受けたわけです。要するに、ぼくは伝統社会の親族構造を研究したくて行ったんですよ。どうみてもそうではない。しかもよくみると思っていたほどアザラシ猟とかに行ってないんですよ、八月なのにね。これは困ったなと思った。それでもいろんなショッキングな事件があって。それが今の研究につながるんです。
 
 

ひとつは、村長さんが、これが今日からお前が泊まる家だと連れてってくれたんですが、そうしたら、十人ぐらいのおじさんおばさんたちが円座になって、生のホッキョクイワナを食べているわけです。四、五十センチの魚で、味はサケみたいですけどね。こうやって切って、円座になって、おいしいなおいしいなといって食べているんです。昼どきだからお前も食えというわけで、わかりましたといって食べました。食事も終わってそろそろ下宿の人に挨拶しないといけないかなと思ったら、みんなそこから帰っちゃうんですよ。ぼくひとりだけぽつ~んと置いていかれて。困ったなと思っていたら、夕方、おじいちゃんおばあちゃんが帰ってきたんですね。で、聞いてみたら、実はここはその人たちの家でね、近所の人たちが勝手に飯食いにきてるんですよ。食べて帰っちゃったんですけどね(笑)。それがぼくが食物分配というものを研究するはじまりだったんですけれども、要するにそういうふうな制度があったということですね。それでまず、ほうと思ったことと、それからやっぱり部屋に入ってもおもしろいんですね。ベッドは置いてあるんですよ、でもあとはなにもない。マットレスだけ。家財道具なし。

─ 家はどんなのですか?
岸上 政府が提供するプレハブですね。デュプレックスとか、一戸建てとか、いろんなタイプがあるんですけどね。そのうちぼくが行ったのは、四部屋あるデュプレックスで、二階建てです。そこで一部屋いただいて、そこにいました。子沢山でね。同居しているのが、息子が三人、娘が二人、それとお父さんお母さんからなる家族で、近所には、娘たちが何人かと息子たち何人かがそれぞれ夫婦で住んでいますからね。
で、翌日から、生活がはじまるわけですね。二階にいたら、お~い、昼飯だから、降りてこいよっていうわけですよ。で、居間に行ったら、紙を敷いて、その上に魚がまるごとのってるだけ。勝手にみんなナイフもってきて、切って食べるわけですよ。食べようとしたら、ぞろぞろぞろっとまわりからまた人がいっぱいくるわけです。だれかわかんない。息子さんたち夫婦はわかったんですけど、あと何人かきてね。みんな食べちゃうんですね、勝手に切ってね。
 

で、ぼくはそのとき、こんなに人がきたら、おれの食うものがなくなっちゃうじゃないか、おれはちゃんと下宿代はらってるんだぞと思ってたんですね。ところが、これはイヌイットの習慣で、食べ物というのは、ないときは自由にもらいにいけるし、あるときはあげるし、というかたちで、もうひとつはみんな所帯をもっていても、おじいさんおばあさんとか、お父さんお母さんの家に食べにくるんですよ。だから、核家族じゃなくて、拡大家族のつながりが非常につよく残ってたんですね。だから、みてて非常におもしろかったです。やっぱり親族関係は生きていたし、食物分配の風習はあったということで、そういう意味では非常におもしろかったですね。
あとおもしろかったのは、当時村にまだあまりテレビがないんです。みんな何しているかといったら、仕事が終わったり、猟から帰ってくると、どんどんお互いを訪ねていくんですよ。村に家やテントは30軒か40軒くらいあるんですが、それが娯楽なんですね。一日中訪ねて歩いてるんです。村にいるあいだはね。逆に自分が会いたい人がいても、その人の家にいっても、まずいないんです。遊びに行っちゃって。
 

─ 訪ねていって何をする?
岸上 世間話。それともうひとつはテレビをみる。

─ 世間話といってもそんなにありますか(笑)?
岸上 それはもう、今日は魚が何匹とれたとかね、あそこではいっぱいとれてるとかね、あそこのお父ちゃんはあのおばちゃんと不倫してるらしいぞとか、そういう話をするわけですよ(笑)。

─ でも、ちょっと話は戻るけど、もうその時パナソニックのテレビとか入ってたから、都会のイメージとか映画とかみてたわけですよね。
岸上 はい。でも、テレビは何台もあるわけではない。それでテレビのある家に集まっちゃうんですよ。それが84年でした。ちょっと話を飛ばしますけど、85年に行ったら、こんどはビデオが入ってまして、ビデオのある家にみんな集まってました。みんなもうテレビは持っている。でもビデオがなくて。今はもうみんなもってますけどね。で、最初の年は、家をみんなぐるぐるまわってて、二年目に行ったらテレビのある家、三年目はビデオのある家というふうに、偏った集まりかたをしてましたね。今はテレビゲーム………、ニンテンドーをみんなもってるんです。それからビデオもあるでしょ。だからもう他の家にはあまり行かないです。夜になったら、みんな家族でビデオ見てます。15年前は、あってもみんなどんどん訪ねていっていた。
で、夏場はやっぱり長期のキャンプをするんですよね。85年だったら、だいたい三ヶ月か、短い人で三週間ぐらい。村の中で暮らさないで、キャンプへ行って、そこで暮らすんです。

─ それはみんなそろってですか?
岸上 家族単位ですね。ただ、行くのがいやな人は置いていくんですよ。だから村で仕事している人とか、行きたくない子供とかは残るんです。だけど家族はだいたい行くんですね。食べ物とかガソリンの補給のために村とキャンプ地のあいだを行ったりきたりしますね。週に二回ぐらいは家に帰ってまた出ていったりということをやるんですね。そういう生活をしました。
 

─ 車で行くんですか?
岸上 夏ですから、船外機付きのボートで。そう、それで、予備調査でなにをやったかというと、その村に何人ぐらいのイヌイットの人がいて、どんな生活をしているかということでした。そこで九月にまた大学がはじまるからということで帰ったんですね。

─ 言葉はどうしたんですか?
岸上 英語です。これがおもしろいんですね。ぼくの世代よりちょっと上のイヌイットの人たちは英語がすごくできるんですよ。学校教育を60年代に強制的に受けてましてね。だから、英語・フランス語・イヌイット語、三つ話せる人が多いです。逆に今の若い人たちはイヌイット語しか話せない。古い人たちもイヌイット語しか話さない。だけどぼくの同世代前後は英語がものすごくできるんですよ。それでまあ英語が通じました。
村長さんは英語が話せませんので、秘書がいました。調査の許可の話し合いをするために、毎週一回の割合で開催されている村会議へ出席しました。そうしたら役場の小さな部屋に七人ぐらいのイヌイットの人が集まっていました。それだけ集まったらもうこわい。いい人なんだけど、ハンターだから筋肉モリモリで、ぶすっとしてたらこわいんですよ。村長さんがど~んと座ってね、秘書が女性で英語の話せる方で、あとイヌイットの人たちが、おじいさんが三人と若者が二人、村のカウンセラーとしているんですね。「日本からきました。イヌイットの文化を勉強したいんです」ということをいうんです。で、一文一文その女性の方がイヌイット語に直してくれて、それからいろんな質問がくるんです。
それで一回目は難なくクリアして、調査はやってよろしいということになりました。84年ですね。それからいったん大学に帰って、本調査は86年だったんです。だから予備調査を二年やったことになります。

 
【目次】
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