国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.2 岸上伸啓―先住民の住み分けとヨーロッパ人との接触

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─ ところで、カナダにはイヌイットのほかにも先住民がいるでしょう。だいたいみな同じような状況ですか。
岸上 先住民を大きく分けると、まず「ファーストネーションズ」、いわゆるインディアンがいます。それからイヌイットやインディアンといった先住民とヨーロッパ系の混血で、しかし先住民文化をもっている人たちがいて、メティスといいます。
─ メスティソのことですか。
岸上 ええ、まさにそうです。混血化した集団です。それからイヌイット。これが大きな三つのカテゴリーです。
もともと生態的には非常におもしろいことがありまして、イヌイットという人たちのは原則として木の生えているところには住んでないんです。ツンドラ地帯、森林限界以北にイヌイットが住んでいます。森林以南はインディアンなんです。それには何十もグループがあるんですけどね。生態的な住み分けがかなり長い間あったんですね。だから、イヌイットとほかの先住民の混住というのはものすごく少なかったんです。

─ ツンドラ地帯に住んでるのはイヌイットだけだったんですか?
岸上 ええ、カリブーを追ってツンドラにくる人もあったんですが、そこに住むことはなかったんですね。そういう意味ではイヌイットはちょっと変わってる。
一方インディアンといわれた人たちですが、森林限界以南ですから当然入植者がくるわけです。ヨーロッパ農耕民や牧畜業者が移ってくるんですよ。そうすると、あるところでは追い出されてしまう。またあるところは都市のすぐ近くにリザーブがある。一般にイヌイットにくらべて、ヨーロッパ系の人との接触がある。もっというと1960年代以前からリザーブをでて都市に住む人が多かったんです。
だから現在ではファーストネーションズの人たちの50%はもう自分たちの故郷に住んでないです。都市に住んでます。残りの50%国が指定したいわゆるリザーブもしくはもともとの故郷に住んでいる。
 
 

─ ファーストネーションズの人たちとヨーロッパ系の人たちとの接触はかなり前からあったわけですね。
岸上 もう1500年代からですね。フランス系の人たちが先に入ってきてますからね。ただ、だんだんに西のほうに行くと、白人の入植は遅くなりますけどね。それでもバンクーバー地域でも1700年代にはもう入ってますね。

─ 接触して、混住という状況になったのですか?
岸上 混住ということはなかったですけれども、たとえば毛皮交易を通して関係をするとか。

─ 常時接触があったということですね。なるほど。ところが、ツンドラ以北では毛皮というものを媒介にした交易を通してしか関係がなかったということですね。
岸上 ラブラドールみたいなところだったら1700年代から接触がありますけれども、あとは、遅いところは1920年代までなかったんです。人と人を介して物は入ってきてますよ。だけど直接的な接触はものすごい遅かったですね。第二次大戦後ですね。
─ カナダの先住民にはいわゆるポトラッチ、フランスの民族学者のマルセル・モースの研究で有名になった、競争的な大散財というか消尽というか、そういう風習が伝えられています。あれはヨーロッパ系の人たちとの接触があっておこったという説がありますが、そのへんはどうですか。
岸上 地域がまた違って、それは北アメリカ大陸の北西海岸のほうのファーストネーションズなんです。たとえば1700年代に北西海岸のほうを運航した探検家がいますよね。その人たちは海岸部で北西海岸先住民の人たちにでくわしているんです。絵を残しているんですが、それをみますと、トーテムポールというのが一、二メートルぐらいと低い。ないところもある。ところが、民族学者のフランツ・ボアズが1900年代の初頭前後に記録に残したものをみると、十メートルを越えるようなトーテムポールがいっぱいある。
それから、当時は政府には禁止されていたとしても、裏に隠れてけっこう大規模なポトラッチがおこなわれていた。大規模というのは、小麦粉の袋とか、洗面器とか、やかんとか、ヨーロッパの交易品を主人が買ってきて、それを招待した人たちにプレゼントとして配るということだったんです。ボアズのころには、すでにそうだった。伝統的な魚とか油とかも配られていたんですけれども、ボアズがみたものはそうだった。あまりにも規模が大きいので、それをそのまま過去に投影して、交易によってヨーロッパの製品が入ってくる前にも、そういうふうな儀式があって、同じように祝宴がおこなわれていただろうと考えたわけです。ファーストネーションズの社会は、放蕩社会とか、すごく見栄をはる競争的な社会であるとか、大規模な散財を行う社会であるというふうに描き出したんですね。
 

だけど、それを歴史的にみて行って、はっきりしてくるのは、ヨーロッパ人が最初に接触したときには小さな家だったのが、ボアズが接触した1900年代のちょっと前には大きくなっている。その変化がなぜおこったかというと、もう交易以外に考えられないんですね。交易によって、たとえば鉄器が入ってくる。そうすると当然生産性が増して、木を切るにしても大木を切り落として細工ができるということがおこるだろうし、毛皮を提供することによって、いままでになかったビーズや銅板とかが入ってくるだろう。贈り物も大きくなるし、西洋のものを介した宴会も大規模なものがおこなわれるようになっただろう。
民族誌にみられるような大規模なポトラッチがおこなわれるようになったのは、たぶんはもともとそういう風習はあったんだろうけれども、交易が大きな要因になっているとしか考えられないということですね。

─ では、民博の入り口前に立ってるような大きなトーテムポールはずっと新しいものなんですか。
岸上 はい。あれはつくってもらったものですが、どんなにさかのぼっても、あの規模のものは1800年代です。1700年代にはなかったですね。
 

 
【目次】
海洋民族学への夢祖母の貯金をかてにカナダ留学いよいよイヌイットの村へイヌイットとブリジッド・バルドーの関係命名法の不思議都会のイヌイットイヌイット放送キリスト教徒としてのイヌイット生じている社会問題イヌイット・アート先住民の住み分けとヨーロッパ人との接触「ラッコとガラス玉」展―先住民の交易活動イヌイットのわれわれ意識多様化する生活