国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.2 岸上伸啓―イヌイットのわれわれ意識

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─ ところで、イヌイットの人たちの総人口どれくらいですか。
岸上 まずロシアのチュクトカ半島にはおよそ2,000人。それからアラスカにユーピックが25,000人、イヌピアットが19,000人、あわせて44,000人。カナダには96年統計では40,000人、それからグリーンランドも40,000人ぐらいです。合計130,000人ぐらい。世界的には150,000人といわれますから、あとの20,000人がわからないのは、都市に住んでいる人たちが統計に出てこないんですね。
 

─ その人たちには、イヌイットとかエスキモーとか、集団としてのアイデンティティはあるんですか。
岸上 イヌイットを民族集団として認定し得るのはたぶん1960年代以降じゃないかと思います。イヌイットという概念はあるんですけど、アイデンティティとしての帰属対象はたぶん地域であるとか親族集団だったんですね。
だけど、それが国家との関係で政治交渉をおこなうようになると、政府が交渉相手を決めなくちゃいけないんですね。で、イヌイットというカテゴリーをつくって、ヌナブトのイヌイット、北ケベックのイヌイット、ラブラドールのイヌイット、北西準州のイヌイットというふうに分けてしまいますね。その過程でどんどん集団意識がでてくるんです。そこで、1973年以降にいわゆるランドクレーム、先住民の諸権益問題請求、まあ土地権の問題といってますが、それが政府対イヌイットという形で生じました。その際にいっきにイヌイット意識が広がってくる。
一方、地元に行くとイヌイット全体としての意識はあまりなかった。1977年にイヌイット・サーカムポラー・コンファランス(ICC)、直訳すると環極北イヌイット会議というのが発足しました。グリーンランドのイヌイット、アラスカのイヌイット、それからカナダのイヌイットが国際問題を話し合うために四年に一回集まるというものです。これによって汎イヌイット意識が芽生えはじめます。90年代からはロシアのイヌイットもそれに加わりました。ICCは環境問題とか資源問題で国連の場でNGOとして大活躍しています。

─ 資源問題で極地は注目されますが、彼ら自身にとってはあまり資源の問題はないのですか?
岸上 昔はまったく心配してなかったのですが、今は心配してます。
理由はいくつかあります。資源にもいろいろありまして、ひとつは地下資源です。イヌイットがあまり使わないもの、石油・天然ガスがありますね。これは掘って大開発しますよね。パイプラインを南の方に走らせたり、イヌイットの生活や環境にもろに影響を与えるような開発しかありえない。しかもとったものを国とか企業とかがもっていって、イヌイットには全く恩恵がない。というわけで、国にとって大事な開発なんだけど、イヌイットにとってありがたい開発ではなかった。
もうひとつは、いわゆる再生可能な資源です。鯨を含めて哺乳動物ですね。80年代ぐらいから、北極海周辺に住む哺乳動物からDDT、PCB、水銀が検出されはじめたんです。イヌイットの人たちはそれを食べ物にしいてます。だから、自分たちの健康に影響がではじめているということです。

─ イヌイットはベーリング海峡をはさんで広大な範囲に住んでいるわけだけど、どの国の植民地だったかというのはかなり影響があるんですか。
岸上 ものすごく違いますね。
ロシアでいきますと、生産組織コルホーズ・ソホーズに組み込まれています。ほかのグループといっしょになってますので、生業形態が、いわゆる伝統的な親族を中心としたものではなくて、コルホーズ・ソホーズというか生産体に組み込まれてやってますので、かなり組織面で変わっています。
それから、グリーンランドに関しては、植民地化がはじまったのが1700年代ですから、300年近い植民地の歴史がありますね。その間に、地元の動植物を金銭で売買することまでおこなわれていますので、貨幣経済がものすごく浸透しているんです。しかも貨幣経済のセクターと生業経済のセクターが共存しています。都市では貨幣経済、村に帰ると両方が存在するんですけど、猟師の間では生業経済、というふうに、二重経済という感じになっています。
それから、共通点というと、ロシア政府・アメリカ政府・カナダ政府・デンマーク政府、だいたいリッチな国で、しかも少数派の国民にたいして比較的理解をしめすというところなんで、温情的な保護政策を展開したのは事実です。それはプラスでもあり、マイナスでもあるわけですね。

 
【目次】
海洋民族学への夢祖母の貯金をかてにカナダ留学いよいよイヌイットの村へイヌイットとブリジッド・バルドーの関係命名法の不思議都会のイヌイットイヌイット放送キリスト教徒としてのイヌイット生じている社会問題イヌイット・アート先住民の住み分けとヨーロッパ人との接触「ラッコとガラス玉」展―先住民の交易活動イヌイットのわれわれ意識多様化する生活