国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司―マイホームの共同研究会

[10/17]
─ 佐藤さんは民博ではマイホームの研究会を主宰していましたね?
佐藤 マイホームの共同研究会で、私が考えていたことは、今まで人類学にしろ建築学にしろ、空間と人間関係はパラレルに結びつくという前提でやってきているわけですよ。空間というと抽象的ですけれど、ある土地に住んでいる人びとを前提に私たちは物事を考えるわけですよね。韓国なら韓国人、日本なら日本に住んでる日本人、そういう前提で議論をつみかさねてきた。家族にしても、ある家に一緒に住んでいる人たちがあくまで家族の原点であって、それをこえた人間関係をあきらかにしようとしてきたわけでしょう。ところが、最近になって人間関係と空間関係は必ずしも一致しないという状況になった。なぜなら、交通手段や情報メディアが発達して、自我の形成に必ずしも自分の生きている場所がかかわらなくなったからです。ネットの世界で自分の生きる価値を見出していく人もある。ネット社会をともに生きている人たちは生活空間を共有してはいないわけです。それはリアルな世界とヴァーチャルな世界の対比というような話ではなくて、生活圏を共有している共同体と自分の実存的な意味をあたえてくれる共同体が必ずしも空間上で一致しなくなったということです。その齟齬(そご)からいろいろな社会問題が引き起こされているのですよ。そして、その原点にあるのがマイホームという家族の空間です。
 今は、同じ家に住んでいるだけで運命共同体とは言えないでしょう。価値観も人生観もまったく異なる人たちがひとつの空間に住んでいる。そうした事態を前提にして、家という空間の中でどういう人間関係が営まれるのかという問題が共同研究会のテーマだった。人類学全般の傾向を見ても、ディアスポラとか故郷喪失とか移民の問題とか、あるいはグローバリズムの問題にしても、すべて空間を離れた人間関係に興味が向かっているでしょう。でも、一方で空間は絶対に残るんですよね。国家は残っているし、住宅も残っている。なぜ残るかといえば、もはや壊すほど大きな意味をもたないからです。革命なんて言葉が意味をもつのは、空間や空間の中の制度を壊すことによって、何か新しい世界が開けると期待するからですよね。でも今は、それほど大きな意味付けが空間にはないだろうと思うんですよ。経済はもうとっくに国家の領域を超えているわけだし、人間関係もそう、既存の制度として国家的なものは残るでしょうけれど、だからといってそれに縛られた人間関係を多くの者が望んでいるわけではない。住宅でも同じことで、住宅という枠組みは多分残っていくでしょうけれど、それに人間関係が引きずられる必要はない。わざわざ住宅を壊さなくても、今は個室の中で勝手なことをやっている人ばかりでしょう。だから一定の境界の中の人間について、どういうルーズな人間関係が可能なのかを考えてみたかった。もともと、B.アンダーソンの「想像の共同体」の議論を住居にそくして考えてみようとしたのです。だけど、国家とか社会とか議論していても、所詮、私たちの手の届かないところのものでしょう。ソウルスタイルの展示を個人や物から組み立てたように、議論のきっかけは自分自身の身の回りにあると私は考えています。そこで、個人がどういう風に自らの家をとらえるかというところから話をはじめようと思っていたのです。
 

【目次】
イントロ住まいの調査手法住まいの原型フィリピン・ルソン島の民家と日本の古代住居調査作業屋根裏の空間水上生活者バジャウと狩猟採集民プナン何のための住居住居に向けられたエネルギーマイホームの共同研究会消費財としての住居巣としての住居空間と人間関係ホームレス住居と記憶四冊の本重みを失う空間