国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―「癒し」の共同研究

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─ ところで、立川さんは一昨年まで民博では「癒しと救い」という共同研究を主宰なさっていたわけですが、これは、宗教的な実践といいますか、宗教的な行為についての研究なんですか。現代社会のことなんですか。
立川 ええ、現代です。この共同研究のポイントはふたつあったとおもうんです。ひとつは、「癒し」ということばそのものを考えようということです。この話は少し前からはやっていることばですが、癒しということばには落とし穴があるとおもうんですよ。非常に心地いいんですけれども、ちょっと危険なものがあるんではないかとおもいます。癒しというのは、たとえば手に切り傷をして、すると菌でも入らないかぎり、日にちがたつと傷が癒えてくるじゃないですか。そこには宗教的な視線とか葛藤というものはあんまり関係ないですね。これは肉体的な、生理的な変化じゃないですか。でも、癒しの音楽ですとか、マンダラ展のなかにも癒しのコーナーとかあるんですけれども(笑)、たとえばある場面に入る、あるものを食べる、あるものを聴くなどすることで、自分には主体的な努力がなくてもなにかいい気持ちになっていく。これは、落とし穴だとおもうんですよ。癒しとは、そういうことではないのではないかとおもうんです。ただ、キリスト教の人のなかには癒しというものを、もうすこし厳しくとらえている人もあります。宗教的な痛みや葛藤をともなったものとして、癒しをいう場合があるんです。
それは別にして、一般にいう「癒し系」とかですね、そういう安易な癒しは、違うとおもうんです。われわれは昼休みに15分でも仮眠をとったら非常に爽快になるような働き方をしているわけですね。非常に忙しくしています。そういった、体を休めるという意味で、癒しという。でもほんとうは、人びとは宗教的な救いに近いようなものを求めているのではないか。癒しを安易に考えるといった状況に対する警鐘というか、そういうことではないんではないかということが、ひとつあったわけです。
─ 仏教やヒンドゥーの世界には癒しの行為は最初からあるんですか。たとえばキリスト教では、人が人を癒すというのは禁じられているけれども、福音書のなかではキリストは傷を癒したりしますよね。キリスト教のなかに癒すという考えはそもそもあるとおもうんです。

五体投地の行。カトマンドゥ。

立川 仏教やヒンドゥーの世界には癒しの行為は最初からあるんですか。たとえばキリスト教では、人が人を癒すというのは禁じられているけれども、福音書の伝えではキリストは傷を癒したりしますよね。キリスト教のなかに癒すという考えはそもそもあるとおもうんです。
立川 仏教とヒンドゥーにも、癒しはあるとおもいます。ただ、わたし自身にはそういう体験がないからはっきりいえませんけど、イエスに出あって癒されたという人には、まさに法然に親鸞があって救われたというような、濃密な、真剣なものがあったとおもうんです。イエスが砂べりで網をかけている人にあったとき、その漁師はイエスをみてぱっとわかったわけでしょう。これは、禅僧と弟子とが運命的な出あいをするようなものだったとおもうんです。ただ、イエスがどのように癒したのか。確かに肉体的にも癒したといわれてますけれどもね。釈迦がどのように癒したのか、わたくしはよく知りませんけれども、こういう話はたくさんありますよね。これが第二のポイントで、いまいったような癒し、そういう力をもった人間が他者を癒すなり、救うなり、治療するといった意味での癒し、これは実際におこなわれているわけですが、これをどう評価するのか。それが第二の問題だったんです。
※写真:五体投地の行。カトマンドゥ。
 

ヒンドゥー教の行者と話す。カトマンドゥ。 たとえばカトマンズでは、もちろん近代的な病院もあるし手術もされるのですが、人びとはそういった超能力をもった人のところに行く。集まりの日には、4,5メートルくらいの狭いところに患者がぎゅうぎゅう詰めになって、超能力者は神がかりになって行をするんです。わたしがいつも頼んでいる運転手は、自分の赤ちゃんはそれで効いたというんです。あれだけ何十年も人びとは通いつづけてきたんだから、実際になおった人も、相当なパーセンテージでいたに違いない。そういうような行為や、人間がもつ能力を、いかに理解するかということが問題だったわけです。ただそれは、やっている人も命がけですよね。いつ命を縮めてしまうかもわからない。また、そこへ行ってる人も、たいていは原因不明の病気だったりしていくわけですから、そこでは、癒すんですけれども、傷が癒えていくような癒しとは違うものがあるとおもうんです。仏教の正統派は確かにそういったものを、それは正統ではないという形で拒んできました。密教はそれを取り入れるわけですけれども、密教でもいわゆる正統派や大寺院の人たちは、あまりそれをいいません。宗教学的に、あるいは民族学的にみて、そこにどういうメカニズムがあるのか。大きな制度の上の方と、在野にいる超能力者とが、どういう形で組み合うのかということは、民族学的におもしろい研究の対象となりうるとおもっています。
※写真:ヒンドゥー教の行者と話す。カトマンドゥ。
 

─ いくら行をしても、仏教では、在家の人は、教団の方から認められるわけではないですよね。たとえば比叡山で千日回峰を二回くらいやった人も、叡山では特別な地位はないわけですね。まわりの人たちは、神様みたいに拝んでいるわけですけど。
立川 高野山の場合には、これは聖と呼ばれている。織田信長のときには、高野山の聖は、千人殺されたというではないですか。比叡山は焼き討ちにあったわけですが、高野山は焼き討ちにあわなかったわけでしょう。ところが織田信長は、高野山の聖という、いわゆる超能力者たちを殺してしまってるんです。比叡山のいわゆる高僧たちと、在野の諸国をめぐって放浪の旅をしている聖たちには、違った特質があったわけでしょう。
─ それだけ大勢いたということは、一般の人には非常に影響力があったんでしょうね。それだけ癒しを求める人がいたということなんでしょう。
立川 そういった確執は、ずっとあるんじゃないでしょうか。
─ 地位の上の方の坊さんたちの役割は、癒しではなくて、鎮護国家なんかになってしまうわけですか。
立川 いまのチベットはどうか知りませんけど、ヒンドゥー王国であるネパールでも、王様のまわりで護持をすることはありますけれど、国家の鎮護というところまではいきません。チベットのお寺で、ダライ・ラマのために祈ったり、ダライ・ラマの誕生日を祝っても、チベットの国のために、というわけにはなかなかいかないでしょう。

 
【目次】
マンダラとはなにかマンダラを観想する武蔵少年、学に志す「中論」研究 ─ 空と色インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い世界が神の姿であるというインド的世界観ヒンドゥー教と図像実践としての宗教近代と日本仏教私有財産をどう考えるか「癒し」の共同研究癒しと救いの違い浄土とマンダラの統合