国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』 ─ 「なにか」「なんとか」「なんとも」の7年

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』

「なにか」「なんとか」「なんとも」の7年
 1月28日~2月2日、カリフォルニア州のサンフランシスコ、バークレー方面に旅行した。今回の旅の目的は、日系の宗教に関する聞き取り調査をするというのが建前で、本音はなんといっても僕にとって懐かしいバークレーをふらりと再訪することにあった。僕がカリフォルニア大学バークレー校(UCB)に留学していたのは、1995年8月から1996年9月のこと。あれからおよそ7年…。何も変わってないような、それでいて少しは進歩(?)した気もする。
 当時の僕は日本でのマンネリ化した大学院生生活にいささか飽き気味で、「なにか」新しい変化を求めてアメリカにやってきた。バークレーは「なにか」を模索する僕にとってはなんとも刺激的な町で、7年前の楽しい思い出、アメリカに対する好印象が、今回プリンストンでの在外研究を希望する大きな動機ともなった。さて、その「なにか」とは何だったのか。カリフォルニアの温暖な気候の中、昔住んでたアパートやキャンパス、友人を訪ね、「たしかこの辺に…」などと迷いながら、「なにか」についてなんとなく考えてみた。
 プリンストンから飛行機に乗るためにはニューアーク空港に出なければならない。我が家からは電車を乗り継いで1時間少々だろうか。久々にバークレーに行けるぞ!という喜びと、1月に入って「最高気温が氷点下」の日が続くプリンストンを脱出できるうれしさで、僕は早朝から張り切っていた。
 アメリカの東海岸と西海岸の「違い」についてはしばしば指摘されるが、ニューアーク~サンフランシスコは6時間(時差が3時間あるので、行きは3時間、帰りは9時間)のフライト。まあ我が日本でも飛行時間1時間足らずの東京と大阪で種々の相違があるわけだから、広いアメリカに「違い」が生じるのは当たり前だ。そんな「違い」、多様なるアメリカを実体験できる期待も僕の足を軽くした。
 日本でもアメリカでも「全盲のあなたが、どうやって1人で旅行するんですか」とよく尋ねられる。「旅の恥はかき捨てだから、道に迷ったら厚かましく人に助けてもらうんですよ」というのが僕の答えだ。電信柱や看板などさまざまな障害物にぶつかり痛い思いもしながら、文字どおり僕の「面の皮」は厚くなってきた(時には道を歩いている罪もない人に、白杖を持った僕が突っ込んでいって痛い思いをさせることもあるのだから、何が「障害物」なのかはわからない)。
 バークレー留学から帰国して、我ながら悲しいほど英語力に進歩はなかった。ただ京都にもどって1ヶ月くらいの間、道で人をつかまえる時に「すいませーん」の代わりに「Excuse me!」のフレーズが出ていた。僕がアメリカで使ってた英語は「Excuse me!」だけだったかなと1人で苦笑したものだ(今回も帰国後きっと同じ経験をするだろうなあ…)。
 この「Excuse me!」を駆使すれば、まあ「なんとか」なるというのが、アメリカを歩き回っていての実感だ。「なんとか」なる確率は日本より間違いなく高い。今回はアメリカ大陸を横断する大旅行。気温差も20℃以上はある。何が起こるかわからないアメリカのこと、多少の不安はあるが、やはり「なんとか」なるさの気持ちが強い。唯一にして最強の(?)「Excuse me!」作戦を武器に、僕の一人旅は始まった。
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 まずはプリンストンからの電車。少し意外なことだが、障害者に対する駅の設備は日本の方がはるかに進んでいる。日本の鉄道駅のほとんどには点字ブロック(誘導用、警告用に敷設されたボツボツのタイル)があるし、音声による案内も充実している。アメリカではごく一部の大きな駅で点字ブロックを見たことはあるが、そんな設備はないのが一般的。僕が利用するプリンストン、プリンストン・ジャンクションの駅にももちろんない。点字ブロックがあれば100パーセント安全なわけではないが、アメリカに初めて来た時には「福祉は進んでるはずなのに…。こちらに住む視覚障害者はホームが怖いだろうな」と驚いたことを記憶している。
 「線路には落ちたくないぞ」と恐る恐るプリンストンの駅に入っていくと、電車を待ってる人が「ここに立ってたらいいよ」と気楽に声をかけてくる。電車が到着すると車掌が「Good morning!」と座席まで案内してくれる(ちょっと荒っぽいガイドで危なっかしいが…)。「Excuse me!」を使わなくても、「なんとか」我が旅はスタートした。
写真:プリンストン・ジャンクション駅のホーム。人が手助けしてくれるとはいえ、ホームは視覚障害者にとって「崖道」のようなもの。
 
 点字ブロック以外でも視覚障害者に対する設備は少ない。たとえば音の出る信号機。日本では日常的に「カッコー」「ピヨピヨ」の音声式信号に出会えるが、プリンストンはいうまでもなくニューヨークのような都会でも、「カッコー」「ピヨピヨ」を聞くことはできない(ちなみに、バークレーの交差点の一部には設置されている)。
 アメリカの視覚障害者に質問すると「わからない時は人に聞けばいいのさ」と言う。たしかに車の音や周囲の人の動きを観察すれば安全に横断できるが、音声信号に慣れた者としてはやはり不便である。人通りの少ない時などには「『カッコー』の代わりに僕が鳴きたいよ」とも思う(旅の恥はかき捨て、今度ほんとうに鳴いてやろうか…)。
 電車に乗り込んでもまだ安心できない。次はチケットを買わねばならない。一般の乗客は駅の券売機で切符を入手して電車に乗るが、券売機の操作が難しい視覚障害者は(点字による説明や料金表がないので)、電車内でチケットを購入してよいことになっている。この切符を買う「駆け引き」(?)がおもしろいというか、なんともアメリカ的なのだ。
 電車が発車するとすぐに車掌が検札に来るが(アメリカの駅には基本的に改札口というものがない)、僕に対する車掌の態度はさまざまである。何も言わずに通り過ぎていく人、規定どおり割引切符(半額)を発券する人…。初めてニューヨーク行きの電車に乗った時、車掌が他の乗客の切符はチェックするのに、僕の前を素通りするので心配になり、遠慮がちに「Excuse me!」と呼び止めた。彼は明るく「Hello, my friend!」と応じ、「おまえは俺の友達なんだから、ただでいいのさ。ノープロブレム!」と言う。
 なるほど、僕に切符を売ろうが、ただ乗りさせようが、車掌の給料には関係ない。最初のころは「僕はいつから車掌さんと『友達』になったんだっけ…。どうも無賃乗車は日本人の倫理観からすると…」などと考え込んでた僕だが、最近は「マイ・フレンド」車掌を心待ちにするようになった。「友達」はありがたい、ただでいいというなら「友達」に従いましょう…。まったくもって、いいかげんというか好い加減なアメリカ気質だ。
 さて、本日の車掌さんは…。無言で通り過ぎていく。この「通り過ぎ」にも一瞬の「駆け引き」がある。車掌が検札に来るのは「チケット!」という声でわかるし、なんとなく白杖を携えた僕の傍で、こちらに注目するのも雰囲気で感じることができる。この雰囲気とタイミングを逃さず、僕は「100万ドルの笑顔」(?)で車掌さんの方を見る。これがただ乗りの秘訣だ(などと偉そうに言うことではないが…)。我が微笑戦略が通じた時は、なんともうれしいものだ。得した気分とはこういうことだろう。
 無論、10ドル前後の電車賃にけちけちするつもりはないし、要求されればチケットを買う用意はできている。ただ、せっかく車掌さんが「無料でどうぞ」と無言のうちに言ってくれてるのに、その好意を無視して「Excuse me!」とやることもないだろう。これが阿吽の呼吸、男同士の友情(?)ではないか(おっと、女性の車掌さんも意外といるんだっけ…)。
 この「友情」にはまだ続きがある。アメリカの電車やバスに乗って困るのは、車内アナウンスがほとんどないことだ。これは駅の表示などが見えない視覚障害者には辛い。ニューヨークの地下鉄などを利用すると、乗る路線や降りる駅がわからず迷っている晴眼者をよく見かける。視覚障害者の苦労は推して知るべしだ。日本のうるさいほどのアナウンスが、じつに懐かしく思い出される。近頃では少しずつ車内放送が増えているようだが、いかにもやる気のないむにゃむにゃ調が多い。僕の英語力の問題以前に、まったく聞き取れない「ささやき」もけっこうある。「マイ・フレンド」よ、しっかりアナウンスしてくれ…と言いたくもなる。
 車内放送がない(あっても聞こえない)なら、これまた人に頼るしかない。たいていの車掌は僕がどこで降りるのかを確かめ、その駅が近づいたら教えてくれる。プリンストン~ニューヨークを往復する時は、行きは終点なのでゆっくり寝ていられるが、帰りはそうもいかない。乗り過ごしたらたいへんなので、いつも少し緊張気味だ。
 というのもバークレー時代、何度か苦い経験をしたからである。夜遅い時間にバスに乗って、自分の降りる停留所を運転手に告げたのに、みごとに忘れられ隣町までつれていかれたことが2度ほどあった。運転手は「ごめん。もう30分したら終点に着くから、そうしたら引き返すよ」と明るく言うが、引き返しても「ごめん」と忘れられたらたまらない。しかたなく途中で下車するが、夜中の見知らぬ停留所でバスを待つのはいやなものだ。まあ、そんな経験にも懲りず、「なんとか」なるさとまた一人旅をしてるんだから、僕もアメリカナイズ(?)されてきたのだろうか。
 本日の車掌は、ニューアーク空港の駅に近づくときちんと僕の所に来て「俺が空港に行くのを助けてやるから心配するな」と言う。終点駅じゃないし、車掌が途中下車することなんてできないのに…、どうするんだろうと僕が不思議がってると、車掌は「ノープロブレム」と平気だ。さすがは「マイ・フレンド」、なんとも頼もしい。
 ところが、この「マイ・フレンド」、駅が近づくとすうっといなくなってしまった。やはり人任せはこれだから…と僕が嘆息していると、「マイ・フレンド」がトランクを持った青年を従えて帰ってきた。どうも大きな荷物を抱えて「いかにも空港に行くぞ」という乗客をつかまえて、僕の世話を依頼したらしい。どうせ空港に行くんだったら、あいつもいっしょにつれていってくれよといった感じだ。それに応じて青年も気楽に「ノープロブレム」と僕の誘導を引き受けた。リレー方式の手助け、自分ができる範囲でのサポートをして、それをつないでいく。これもアメリカン・スタイルの合理主義だろうか。
 そういえば、UCB時代に何か新しい武道をやろうとテコンドーのクラブに入ったことを思い出す。バークレーのテコンドー部は全米でもかなりレベルの高いクラブで、部員も100名近くいた。恐る恐る「全盲なんだけど、入部させてもらえますか」と事務所に行くと、「ノープロブレム」とたやすく許可された。さすがはアメリカだ!なんだかんだと障害者には「バリア」のある日本とは違うなと感動しつつ稽古に参加してびっくり。
 練習は僕を無視してどんどん進められる。インストラクターは毎回、気の弱そうな学生を選んで「おまえが今日はKojiroのサポートをしろ」と告げて、後は何もなかったように指導を続ける。サポートを依頼(命令?)された学生は、目を白黒させながら僕のヘルプをする。急遽結成された漫才コンビのようなぎこちない動きである。
 「これでは周りに迷惑をかけるし…」と僕が退部を考え出したころ、インストラクターが「今度はこいつがおまえの専属だ」と、ちょっと強そうな学生をつれてきた。彼は黒帯間近ということでテコンドーの動きに精通しており、また僕への指導が昇段の際のポイントに加算されるので、まさに一石二鳥。おかげで安心してテコンドーを続けることができた。テコンドーの技と同時に「なんとか」なるさ精神を身につけた1年だった。けっきょく、バークレーに留学しての最大の成果は、専門の勉強でも英会話の上達でもなく、テコンドーの習得だったのだから、人生とはおもしろい(今回の在外研究では、そんなことありませんよ…、たぶん)。
 さて、心優しい青年のガイドで僕は空港行きのシャトルに乗り込んだ(シャトルの切符はちゃんと購入しましたよ、念のため)。青年は僕と違う会社のフライトなので、僕は1人で空港のターミナル駅に降り立った。ようやく、ここで本日初の「Excuse me!」攻撃である。無線機を持った空港の係員と思しきおばちゃんをつかまえ「○○航空のサンフランシスコ行きに乗りたいんだけど…」と伝える。おばちゃんは「ちょっと待って」とどこかに連絡してくれた。
 僕は経験上、この「ちょっと」が日本よりだいぶ長いことを知っている。「Wait a minute」と言われて、「a minute」で問題が解決することはまずない。まあ国土も広いんだから時間もかかるのさと、最近ではじっくり待つことにしている(時々、前述のバスのように忘れられて置いてきぼりになることもあるのだが…)。
 今日は5分も待たないうちに、どこからともなくおじさんが現れた。これはラッキーかも…と安堵していると、このおじさん、やたらと話しかけてくる。というか、1人で喋っている。「いいか、俺はこの1月から週4日働いて3日休むことにしたんだ。1日8時間で5日働いても、1日10時間で4日働いても、じつは同じなんだ。俺はそこに気づいたんだな。どうだ、すごいだろ。10時間働いても俺はそんなに疲れないし、休みが3日というのはすばらしいぞ。どうだ、いいだろ?」「ふーん…」。
 おじさんが僕の行き先を尋ねるので、サンフランシスコと告げる。すると、いきなりおじさん「サン~フラン~シスコ…」と変な節で歌いだす。それもかなりでかい声で(こんな歌、ほんとうにあるのかな…)。これだけ元気なら、おそらく疲れることもないだろうな。おじさんは「俺はリタイアしたらサンフランシスコに住みたいんだ。気候は最高だし人は親切だし。サン~フラン~シスコ…」と言う。たしかにサンフランシスコ周辺のベイエリアは、全米でもっとも暮らしやすい地域とされている。僕はおじさんの歌に送られながら、これまた「なんとか」なるさ式のリレー・サポートを受けて、航空会社のカウンターからセキュリティ・チェック、ゲートへと颯爽と向かった。
 飛行機に乗り込むとすぐにおばちゃんスチュワーデス(フライト・アテンダント)がやってきて、非常口やトイレの位置を教えてくれる。「何か困ったことがあったらボタンを押せば私が来るから」と去っていく。「おばちゃんが来るのか…、そいつは困ったことだ…」。だいたいアメリカの飛行機にはおばちゃんスチュワーデスが多い。最初からおばちゃんを選んで採用してるわけじゃないだろうに。若いスチュワーデスさんなら「困ったこと」がなくてもお呼びしたいところだが、まあしかたない。寝るしかないやと覚悟したが、あいにくトイレの近くの座席だったので、ゆっくり眠ることもできない。僕の心はまたバークレーに飛んでいく。
 そもそも僕がUCBを留学先に決めたのには2つの理由がある。まず僕が勉強しようと思っていた文化人類学の研究が盛んなこと。理論的な授業はちんぷんかんぷんであまりたいした勉強はできなかったが、ネーティブ・アメリカンに関するフィールドワークなどを経験し、民博に就職するある種の土台作りともなった。7年前に模索していた「なにか」とは、研究の視野を広げることだったのは確かだ。
 僕にとってもう一つのバークレーの魅力は、「障害者に優しい町」というイメージだった。ベトナム反戦運動、カウンターカルチャー・ムーブメントの中心地として著名なバークレーは、リベラルな土地柄、昔ながらの学生街である。新しい物をどんどん取り入れていくバークレーの開放的な雰囲気は、いい意味でも悪い意味でもプリンストンとは正反対といえる。僕が在席していたころのUCBでも、アファーマティブ・アクション(少数民族や女性に対する差別撤廃措置)の存続をめぐって、さまざまな人種の学生によるデモ、集会が繰り返されていた。
 やや俗っぽい言い方だが、バークレーにはほんとうに「変な人」が多かった。有名大学で博士号を取得した後、思う所あってホームレスになったおじさん、何をして食べているのか不明だが、毎日キャンパスに来て演説するおじさん…。僕の周囲でも「こんな人、日本社会では絶対にやっていけないぞ」と思われる奇妙な人が、逞しくというかしぶとく生きていた。何でもあり、だれでも受け入れるというのが、バークレーのある意味の「優しさ」なのかもしれない。
 何でも、だれでもの中には当然ごく自然に障害者も存在しており、街中でも車椅子に乗った重度障害者をよく見かける。1960年代UCBに在席した重度肢体不自由学生の生活権獲得をめざして、障害者のインディペンデント・リビング(自立生活)を求める運動がバークレーからスタートした。その後、自立生活運動は全米から世界各地へ広がり、日本にも少なからぬ影響を与えた。僕自身、バークレーの穏やかな気候の中で1年暮らしてみて、「なんとかなるもんだな」との印象を強くした。それは、自立生活の理論や特別な設備がどうのこうのという以前に、人間の心の「ゆとり」、そしてそこから生まれる「優しさ」のようなものを感じたためだった。

 バークレーで知り合った自称「ヒッピー」の偏屈おやじ、学生なのか何だかわからないが10年以上大学にいる自称「アーティスト」。彼らは今ごろ何してるんだろう…。相変わらずぼろぼろの服を着て、ふらふらしてるのかな…。などとぼんやり考えていると、飛行機はサンフランシスコに到着した。初夏を思わせる快適な天気!なるほど、これならぼろぼろのTシャツでも1年過ごせるなと妙な所で納得する。いつものごとくリレー式の援助を得て、無事にダウンタウンのホテルにチェックイン。
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 夜ご飯は友人と食べる約束をしていたので、待ち合わせ場所をフロントで確認する。当初はタクシーを使うつもりだったが、徒歩でも30分弱というから、散歩がてら歩いてみることにした。アメリカの都市の道路はだいたい碁盤の目状になっているので、全盲者にとっても比較的わかりやすい。
 「この季節にプリンストンで徒歩30分と聞いたら、まずタクシーだよな。あの寒さに耐えるのは修行だ…」などと思いながらゆっくり歩く。プリンストンを出る時に着ていた厚手のコートやマフラーはホテルに置いて、シャツ1枚(ぼろぼろのTシャツではないが)でぶらぶら歩く。温暖な気候は体も心も身軽にしてくれる。この身軽さから自由で柔軟な発想(悪くいえば日本人には我慢できない野放図さ)も生まれてくるのだろう。
 さてさて、サンフランシスコに到着するまでに予想外の字数を費やしてしまった。サンフランシスコでの3日間は、昼は調査、夜は飲み歩きという気ままな滞在だったが、「調査」の内容については別の機会に詳しく報告することにしよう(ほんとかな…?)。
写真:「サンフランシスコ・ファインアーツ・ミュージアム」にて。ここでも「タッチ・ツアー」を提供してくれるが、カリフォルニアの太陽を感じながら、散歩感覚で彫刻作品を楽しめた。
 
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 4日目の昼、地下鉄でバークレー入りした。7年ぶりの駅前は…、そんなに変わってないかな。少し人が増えたような…。相変わらずホームレス、奇声を発しながら歩いてる人など「変な人」は多い。懐かしいなあ…。僕が最初に向かったのは、昔よく通ってた中華レストラン、「マンダリン・ガーデン」。じつは、このレストランのオーナー(おやじ)に再会するのも、今回の旅の大きな目的だった。
 13歳の時から「この道一筋」の中国人オーナー、王さんは、日本で料理の修行をしてたとのことで、日本語ぺらぺら。やはりアメリカに「なにか」を求め移住し、レストラン経営で成功した人だ。この「マンダリン・ガーデン」、とにかく安くてうまい!いつも僕が注文していない料理を「サービス」でたくさん出してくれる。お調子者の僕は慣れてくると「王ちゃんスペシャル、これでどうだ!」でお願いしますと、注文ならぬ注文をしていた。それでも料理がどんどん出てくるのは、ずばり阿吽の呼吸、はたまた男同士の友情だろうか。
 王さんはなぜか僕のことを「裕次郎君」と呼ぶので、しかたなく僕は彼のことを「雄三さん」と呼んでいる。我が母親世代のオールド・ファンが聞いたら、大笑いするに違いない。「お互い太りましたねえ。まあ、貫録がついたということで…」などと冗談を言い合いながら王さんの「これでどうだ!」をもりもり食べる。変わらない味、そして変わらない食欲…。
写真:「マンダリン・ガーデン」にて。裕次郎&雄三のおかしな漫才コンビがここに…。さすがはレストランのオーナー。悠々(裕雄?)たるたたずまい。僕もこうありたいものです。
 
 そうそう、バークレー時代はたしか帰国するまでに5キロ太ったんだった。5キロのうち4キロは王さんの「おかげ」かな(などと「豚」になったのを人のせいにするのはよくないですね…)。振り返ってみると、あの1年で体も一回り大きくなったが、それなりに「人間的な成長」もあったような気がする。「なにか」を探しにやってきた異国の地で、いろいろな人との出会いを経験し、研究の大まかな方向性、自分の人生の漠然たる目標が「なんとなく」つかめた1年だった。その「なにか」はまだきちんと言葉にはできないが、その「なにか」をさらに深めるために、僕は再びアメリカにいるのだ。
 などと言えば少しかっこいいが、つまりは「人生なんとかなるさ」という楽天主義、究極のずうずうしさを7年かけて育ててきただけかもしれない。腹の脂肪と面の皮は厚くなるばかりらしい…。なんともいいかげんな「なにか」である。
 「マンダリン・ガーデン」で食事した後、足は自然と前に住んでいたアパートに向かう。種々の匂い、臭いがあるのもバークレーの特徴で僕には懐かしい。鼻をくんくんさせながら町を徘徊する僕も、紛れもなく「変な人」の一員か…。アパートの「足印」として僕が使っていた道路の「でこぼこ」が舗装されてなくなってたのは少し残念だったが、キャンパスもアパート周辺もほとんど変化はなかった。

 それにしても、バークレーから日本に帰る際に「次はアメリカの東海岸に住んでみたいな。そのころには就職もして、結婚もして…、子供も1人くらいいるかも」などと勝手に思っていたが、まさか7年後にまた単身でふらふらバークレーに来るとは…。しかも待っているのは王さん…。色気のない話だけど、人生ってこれだからおもしろいと1人で感慨に耽る。変わったようで変わらない、変わらないようで変わった。次にバークレーを訪れるのはいつだろうか?
 けっきょくバークレー滞在中、3回も「マンダリン・ガーデン」に通ってしまった。「これでどうだ!」改め「これでおよしよ」という感じだ(ちょっと古いですね)。バークレーでの初日、UCBの教授と食事した後、これまたよく行っていたカラオケ屋を覗いてみた。そういえば、バークレーを去る前日、王さんがカラオケで「また会う日まで」を熱唱してくれたなあ…。僕は「俺は待ってるぜ」を歌ったっけ…などと楽しい思い出を辿る。「また会う日」が実現したことにいささかの自己満足を覚えつつ、カラオケ屋のドアを開けてびっくり…。
 7年前のカラオケ屋は日本人遊学生の溜まり場で、若者が「ここは日本だ!」と言わんばかりに日本の最新曲を歌っていた。その連中に混じって僕もけっこう大きな顔をしてジャパニーズ・エンカを歌ったものだ。ところが今回訪れた店は、アメリカ人のパーティー場となっていた。もちろん店を経営する日本人スタッフは変わっていないが、最近では日本人客はめっきり減ってアメリカ人の団体客が圧倒的になったとのことだ。僕が行った時も、白人学生の団体が2グループ来てて、英語の歌を歌いまくっていた。やはりアメリカ人のパーティーは体もでかいだけあって迫力あるし、みんなで立ち上がって合唱してる(暴れてるやつも数名いた)中にはとても入っていけなかった。我が演歌はおよびじゃないか…と、すごすごと店を後にした。
 カラオケという日本文化(?)が「karaoke」となってアメリカ社会に根付いていくのはうれしいが、「おまえら日本の心、演歌くらい歌ってみろよ」とおやじっぽいお説教をしたくなる複雑な心境だった。しかたなく演歌はホテルのバスルームで1人で歌うことにした僕だが(これも日米友好のため?)、「そうか、あのアメリカ人の若者たちも、ああして歌ったり暴れたりしながら自分なりの『なにか』を見つけ出そうともがいてるんだな」とふと思う。きっとそうだよな…、と僕の「また会う日まで」を歌う声はしだいに大きくなった。
 アメリカン・ドリームというのはやや陳腐な表現だが、今でも世界中のたくさんの人々がアメリカに「なにか」を求めてやってくる。今回の調査でインタビューした日系新宗教の布教師もそうだし、サンフランシスコで寿司をご馳走してくれた僕の友人の板前もそうだ。「福祉の視察」と称して若い障害者たちもアメリカを訪れる。多少なりとアメリカに住んでこの国の自由競争社会の過酷さの一端を知る僕からすると、「日本の方がいいよ」と言いたい部分は多々ある。しかし、それでもなおアメリカは「可能性」を与えてくれる夢の地であり、「なんとか」生きていける国なのだ。
 翻って我が日本はどうだろう。障害者の一人旅の経験から言うなら、残念ながら日本は「なんとか」なる国だと胸を張って主張することはできない。昨今の日本社会の多民族化は著しいが、外国人たちは「日本」にどのような印象を持って日々暮らしているのだろうか。彼らはやはり「なにか」を追って日本に移り住むわけだが、はたしてその「なにか」を我々の国は指し示すことができているのか。外国人たち、あるいはマイノリティ・グループにとって、日本は「なんとか」生きていける国なのか。疑問は次々にわいてくる。
 いささか私的な話に終始した今回の「通信」だったが、とりあえず帰国後の僕の目標がなんとなく見えてきた。それは「なんとか」なるさ精神の普及だ。全盲の視覚障害者でも、まあなんとかなるさ、痩せたソクラテスより太った豚が好きな僕でも、それなりになんとかやってます…。「なんとか」を可能にするためには日本人が忘れかけている心のゆとり、人と人とのつながり(リレー)が必要だろう。7年かけて辿り着いた結論としては、なんともつきなみというか、いいかげんなものだが、これが今の僕にとっての「なにか」なのだ。
 では「また会う日まで」でも口ずさみながら一勉強することにしよう。4月にUCBの日本史教授がささやかなシンポジウムを開いてくれ、そこでスピーチすることになったのだが、まずはそのための英文原稿を「なんとか」しなくては…。
[2003年2月]