国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』 ─ 野球感戦記、ついでに独断的スポーツ論

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』

野球感戦記、ついでに独断的スポーツ論
ある日の電車での車掌と僕の会話から…。
車掌 「今日はヤンキースがデーゲームだったので、ニューヨークからの電車が込んでいたろう?」
僕 「4時過ぎの電車だったから、ノープロブレムだったよ。」
車掌 「俺はヤンキースのファンだけど、今日は勝ったかなあ…。最近、我がチームは強いからな。」
僕 「うん、松井がホームラン打ってるといいんだけど…。」
車掌(この辺りから、急におじさんは興奮してくる) 「オー、イエス、Matsui!!おまえは日本人か?」
僕 「うん、松井は日本でもスーパースターで…」
車掌(まだ僕が話してるんだから、待ってくれよ…) 「オー、Matsui!!あいつはすごい。昨日も打ったし、今日も打ったに違いないぞ。俺も早く球場に応援に行かなくては!」
僕 (興奮したおじさんの早口英語は聞き取れなくなってきたぞ) 「オー、Matsui!」
車掌(すいません、わかりません) 「……!! ……?どうだ、マイ・フレンド!?」
僕 「オー、Matsui!」
車掌(だから、聞き取れないってば…) 「今年こそヤンキースがワールド・チャンピオンだ! ……! ……?そうだろ、マイ・フレンド?」
僕 (半ばやけくそで) 「イエス。オー、Matsui!」
車掌(ますます舌好調で) 「おまえはいいやつだ!Matsuiもいいやつだ! ……! ……?どうだ、マイ・フレンド?」
僕 (なんだかわかんないけど) 「オー、Matsui!」
車掌 「オー、Matsui!サンキュー、マイ・フレンド!」
僕 (お調子者の本領を発揮して) 「オー、Matsui!サンキュー、マイ・フレンド!」
(ちなみに、今回はちゃんと電車料金は支払いました、念のため)。
 このように、ヤンキースの松井選手は僕のささやかな国際交流(?)にもりっぱに貢献してくれている。彼がゲームに出場し活躍する。それがテレビ、新聞などで報道される…。彼の打つ1本のホームランがアメリカ人の「日本」イメージを変化させ、日本国内、そしてアメリカに住む日本人を勇気付けている。僕が「日本文化とは…」などと堅苦しい論文をしこしこ書いても、一般社会に与えるインパクトは松井と比べるべくもない(なんだか、むなしくなりますね)。やはり、何はともあれ「オー、Matsui!」なのだ(写真1・2)。
写真1  写真2
写真1・2:8月10日、対シアトル・マリナーズ戦での松井選手。この日の松井は1安打、ヤンキースは敗れた。
 
 さて、とりあえず今回で「テリヤキ」も最終回なので(「あとがき」はまた別に書くのでよろしく!)、楽しく野球の話題から始めてみたい。僕もマイ・フレンドの車掌さんに刺激されてというわけではないが、今年になって4回ほど球場に足を運びメジャー・リーグ・ベースボールを実際に観戦(感戦?)してきたので、まずはその報告から。

1.全盲者の野球感戦とはうるさいものなり(僕だけかな?)

 日本でもアメリカでも、全盲の僕がちょいちょい球場に野球を「観に」行くと言うと、晴眼者の友達は少し不思議そうな顔をする。「球場に行っても特別の状況説明はないし、家でテレビやラジオの実況放送を『聴いて』いる方が楽しいのでは…」というのが素直な感想らしい。
 それはそうかもしれないし、僕もテレビ、ラジオの中継を「聴く」のは大好きだ。なにせ春の開幕当初は、選手の名前も知らないし、マイ・フレンド調のアナウンサーの興奮した早口英語がほとんど理解できなかった大リーグ中継だが、最近はどちらのチームが勝っていて、打者が三振したかヒットを打ったかくらいはわかるようになってきた。これもMatsui効果か。フィールドワークを行なう前にいろいろ準備をするように、実際に球場に足を運ぶ前に、ある程度応援するチームについての情報を仕入れ、ラジオの実況が多少なりと理解できるようになっておくのは、(とくに全盲者にとっては)重要かもしれない。

 さあ、それではフィールドワークの実践。「全盲者は野球を観ることができなくても、感じることはできる!」というのが僕の持論だ。心の眼で見るなどと陳腐な表現を使う気はないが、たしかに僕の周囲でも球場での野球感戦を楽しむ視覚障害者は意外に多い。ファンの歓声(怒声?)、球場の音響、ホームランの興奮…。生の球場の雰囲気は最高だ。ちょっといいネット裏の席などに座ると、ボールを打つ音も聞こえるし、慣れてくるとキャッチャーが捕球するミットの音で直球と変化球の区別もできる。
 そんなわけで日本にいる時、僕が好んで通っていたのはパリーグの試合(といっても、だいたい年に数回だが)。観客が少ないとリラックスできるし、さまざまな「音」も聞きやすい。僕の知り合いの視覚障害者でオープン戦やファームのゲームを感戦するのを趣味とする人もいる。ただし、少し困るのはマイナーな試合だと、ラジオの放送がないことだ。まあ、どこのスタジアムに行ってもマイ・フレンド風の熱狂的ファンはいるもので、そんな人の反応を観察していると、試合の状況はなんとなくわかるものなのだが…。
 もう一つの(いや、じつは僕にとっては最大の?)野球感戦の魅力は「叫ぶ」こと。もちろん、これは全盲者に限ったことではないが、自分のお目当てのチーム、選手(じゃない場合もあるが)をでかい声で応援するのは、なんとも気持ちいい。その声援が選手本人に届いているかなどはどうでもよく、「とにかく声を出すことに意義がある!」という究極の自己満足の世界なのだ。
写真3  僕は球場に行くと、かならず最初に周囲の観客の様子を冷静に観察する。「あのおじさんは叫びそうだな」「今日は少々お上品な人が多いな。困ったぞ…」などなど。気の弱い(?)僕は、自分から率先して絶叫する勇気はなかなかない。まずは周囲のだれかが叫んだ後に、ドサクサ紛れで叫んでみる。「だいじょうぶ、そんなに僕は注目されてないぞ」ということを確認して、徐々に叫ぶペースを上げていく。そのうちゲームの成り行きは二の次で、いつ叫ぶかタイミングを狙う。これは代打や投手交代の時期を考える監督業と同じくらいやりがいのある仕事だ!?僕がたくさん叫ぶということは、それだけゲームも盛り上がってるわけで、勝敗に関係なく大満足できる。あまり飲めないビールをちびちびやりながら、球場の心地よい風を感じつつ叫ぶ!これぞ野球感戦の醍醐味だろう。
写真3:ゲーム終了後のヤンキー・スタジアムにて。
 
写真4  野球感戦で叫ぶ快感を得るためには、涼しいドーム球場より自然の風があって開放的な屋根なし球場(遮るもののない野原)の方が適している。デーゲームで「あちいなあ」と半ばやけくそ気味に絶叫する。なんだか、こうして原稿を書いていても、球場に行きたくなってくる。叫び続けて30余年の我が人生(そう、子供のころから親に叱られながら叫んでましたね)。時には叫んだおかげで(?)見知らぬおじさんとすっかり仲良くなり、試合終了後がっちり握手するなんていう貴重な(奇妙な?)思い出もある(あれは近鉄×ロッテ戦でのロッテのさよならゲームだったっけ)。
 と、野球の話を書き出すとどんどん横道に逸れていくので、大リーグ感戦の話題に戻ろう。アメリカの球場に4回行ってみての僕の印象は「アメリカの方が日本より叫びやすいぞ!」というものだ。つまり、全盲者がゲームを感戦するのに向いているのかもしれない。まず最近のメジャー・リーグでは屋根なし、天然芝のスタジアムが主流となっている。本来の野原に近い開放的な雰囲気である(写真3)。
写真4:6月3日、対フィラデルフィア・フィリーズ戦でのイチロー選手。
フィリーズの主催ゲームだったこの日、フィラデルフィアのファンからいちばんのブーイングで迎えられたのは、イチローだった。
 
写真5  また、大リーグの場合は「我が町のチーム」の意識がとにかく強く、地元民の応援が熱い。それも日本のようなトランペットなどの楽器を中心に統制された応援とは異なり、手拍子、声が主体の自然発生的な応援だ。敵チームを応援する者はほとんどなく、球場全体が「我らがチーム」の勝利に向かって盛り上がっていくのだ(ちょうど今年の甲子園がこんな感じなのだろうか)。日本の各選手別の応援歌というのも楽しいが、個々人が好き勝手に、それでいてなんとなくみんないっしょに声援を送るのは、いかにもアメリカらしい(写真4・5)。
 まあ、僕が短期間に4回もメジャー・リーグ感戦を「enjoy」することができたのも、日本人選手の活躍があったからであり、その意味でも松井選手にはお礼を言わねばなるまい。何はともあれ「オー、Matsui!」なのだ。(なお、僕のうるさい野球感戦に同行し、大リーグに関する種々の情報を提供してくれた若林勝之氏に感謝したい。球場での写真は彼の撮影によるものである)。
写真5:同日のゲームでの長谷川投手。
敵地での長谷川に対するブーイングも大きかった。それは、今年の彼の実力を示すものだろう。
 

2.野球はアメリカ社会の鏡なり

 さて、球場に行くといかに多くのアメリカ人が野球を「enjoy」しているかがわかるが、その一方プリンストンでの日常生活では、野球に関心のない人にもよく出会う。日本では職場や友人間でも野球の話をするのが当たり前だが、こちらではヤンキースがどこのチームなのか知らないし、「オー、Matsui!」が通じない場合もある。それは一つには、多民族社会アメリカにあっては、野球がポピュラーでない国の出身者もたくさんいるからだろう。プリンストンでもヨーロッパ系の教授の中には野球のルールすら理解していない人もいる。また、日本に比べて観戦するスポーツのチョイスが多いことも考慮せねばなるまい。バスケット、アメリカン・フットボール、ホッケーは野球と共に「4大スポーツ」といわれているし、それら以外でもさまざまなスポーツが楽しまれている。
 そんな多様なるアメリカにあっても、やはり野球はもっとも人気のあるスポーツなのではなかろうか。無論、野球好きの僕の観察は少し偏っているかもしれないが、プリンストン大学の夏休み期間中には各学部の大学院生チームによるソフトボール(草野球)のリーグ戦が行なわれているし、アメリカ天理教の行事に参加しても、レクリエーションの定番は草野球である。「みんな陽気で仲良く」をモットーとする天理教では男女混合チームでゲームが行なわれるが、だれでも気楽に参加できるのは野球の特徴だろう(ちなみに、僕も代打で出場し、「ボールが当たるまでバットを振ってよい」という特別ルールの下、20スウィングほど「させていただいた」。疲れたなあ…。さすがは、やさしい宗教団体である!?)。  アメリカ人、とくに野球好きの間では「older than baseball」という表現がしばしば使われるが、これは野球より古い、つまり非常に古い、年寄りだとの意味らしい。なるほど、19世紀後半から広く親しまれてきた野球は、歴史の浅いアメリカ合衆国にあっては古いものなのだろう。その野球、アメリカでは一般的に「ナショナル・パスタイム」(国民的娯楽)と呼ばれている。何が「国民的」なのだろうか?
 まず第一に、前述したように多数のファンが球場に足を運んでいる事実。大リーグのチーム数は30。年間ゲーム数は1チーム162試合。これは日本のプロ野球より多いし、バスケットやアメフトなどと比べてもダントツだ。春から秋にかけては、ほぼ毎日メジャーの試合をやっている印象である。時差もあり気候も違う各地を転戦するプレーヤーは、まさに体力勝負だ(ご苦労さん、松井選手!)。長いペナントレースを日々の出来事、山あり谷ありの人生に重ねあわせるファンも少なくないだろう。
 大リーグのナイト・ゲームは7時過ぎにプレー・ボールというパターンが大半だが、これは仕事を終えて家族、友人とスタジアムに向かうにはちょうどいい時間だ。平日のデーゲームなどもちょいちょいあり、学校行事として野球を観戦する子供たちもよく見受けられる。試合時間はだいたい日本より短く、ファンを飽きさせることは少ない。そして、そのような「我が町のチーム」の試合が毎日テレビ、ラジオで放送される。さまざまな形で野球を観戦(感戦)する者の延べ人数は、おそらく他のスポーツを圧倒しているだろう。
写真6  第二に野球というスポーツとアメリカ人の国民性の類似も指摘できる。野球には団体競技と個人競技の両要素が含まれており、観る人によっていろいろな楽しみ方がある。まずはチーム作りに欠かせない監督。英語では他のスポーツの監督が「コーチ」と呼ばれているのに対し、野球の監督は「マネージャー」である。先発投手のローテーション、打順の決定はもちろん、長いシーズンを戦い抜くためのチーム作りは、文字どおりマネージメントの世界だ。
 「俺があのチームの監督なら…」「あそこの場面では代打の○○を出すべきだ」などなど、野球ファンが酒を飲みながら気ままな監督論で熱くなる光景は、日本もアメリカも同じようだ。たしかに監督の采配によりゲーム結果が左右されることは多いし、そこに監督が「マネージャー」と称される理由もあるのだろう。チームのマネージメントは当然ビジネスにも通じる面があり、名将、知将といわれる監督は日本以上に尊敬と注目を集めている。
 
写真7  メジャー・リーグの名監督の中で「往年の名選手」だった人は以外に少ない。マネージャー業とプレーヤー業は別の才能に属するのだろう。監督がアメリカ人の「知」を代表するとすれば、選手は「力」を代表しているのかもしれない。日本人選手がメジャー入りを希望する際に、その理由として異口同音に挙げるのが「メジャーで力対力の勝負をしてみたい」ということだ。日本野球においては、ピッチャー(あるいはキャッチャー)とバッターの「駆け引き」が一つの魅力となっているが、アメリカでは「パワー」によるシンプルな真っ向勝負がファンを引き付けている。もちろん、メジャー・リーグでも種々の個性を持った選手が活躍しているが、アメリカ野球の基本は、投手は速い球を投げ、打者はそれを遠くへ打ち返す所にある。
 より速く、より遠くへ、より力強く…とは、(大げさに言うなら)いわゆる近代化を支えてきた発想法である。そのような「力」に対する憧れがアメリカを発展させ、良きにつけ悪しきにつけ超大国・アメリカの「力」が現代世界を支配しているのは間違いない。常人にはまねできない「力」を目の前で見せてくれるのがメジャー・リーガーであり、彼らのパフォーマンスが「力」を求めるアメリカ国民を魅了し続けているのだ(-写真6・7)。
写真6・7:ケンタッキー州ルイヴィルにある「スラッガー・ミュージアム」にて。
隣接するバット工場では、多数のメジャー・リーガーのバットが製造されている。庭に置かれた巨大バットは、アメリカの「力」を象徴する物のように思えた。
 
写真8  野球がアメリカ人の夢、願望を映し出す鏡となっている一例を紹介しよう。1947年、ブルックリン・ドジャースの新人として、ジャッキー・ロビンソン(1919~1972年)が初の黒人メジャー・リーガーとなった。彼は俊足の強打者で、49年にはナショナル・リーグのMVPとなる。そのプレーヤーとしての実力、バット1本でロビンソンは大リーグ、ひいてはアメリカ社会に根強く存在する「カラー・バリア」を打ち破っていった。彼の活躍により、それまでは「ニグロ・リーグ」として白人とは別リーグでプレーすることを強いられてきた多くの「力」ある黒人たちがメジャー入りし、世界、各エスニック・グループから優れた選手が集まる現在のメジャー・リーグの基礎が築かれた。
 ロビンソンは引退後もアフリカン・アメリカンの公民権運動に積極的に関わり、黒人のみならずアメリカ人全体に勇気と希望を与えた。先日、僕が偶然訪れたニューヨーク市内にある「アメリカン・フォーク・アート・ミュージアム」では野球に関する作品を集めた特別展が開かれていた。展示されている絵画、キルトなどにはロビンソンを題材とした物が多数あり、ホームベースを駆け抜ける彼の姿が、民俗芸術の領域にも影響を及ぼしたことを知った。無名で貧しい芸術家がロビンソンのプレーに刺激され、ユニークな芸術作品を残したのである(写真8)。
写真8:「アメリカン・フォーク・アート・ミュージアム」にて。
残念ながら作品の撮影は許可されなかったが、僕がドジャースのTシャツを着てロビンソンに思いをはせてみた。
 さて、最後に「ナショナル・パスタイム」についての僕の感想を一つ付け加えよう。ヘミングウェイの『老人と海』(1952年)でも老人が少年に野球の話をするシーンが印象的に描かれているが、第二次大戦前の野球は圧倒的にラジオで楽しまれていた。じつは、こちらに来てヤンキースの試合中継をラジオで聴くようになってから、改めて僕は「野球はラジオ放送に適したスポーツなんだ」と感じている。日本にいる時、テレビ好きの僕は、ラジオのアナウンサーはけたたましい、テレビの方が解説をゆっくり聴けるとの理由から、もっぱらテレビで野球感戦していた。ラジオを利用するのはテレビ中継終了後か、実際に球場に行く時くらいだった。
 現在アメリカでは、幸か不幸かテレビのない生活をしているので、必然的に大リーグ中継はポケット・ラジオで楽しむことになった。前述したようにアメリカでもラジオ中継は喧しく時に聞き取りにくいが(僕が聞き取れないだけか…)、慣れてくると試合の展開は十分理解できる。これがアメフト、バスケット、ホッケーなどとなると、ゲームの動きが複雑かつスピーディーで、ラジオで試合状況を把握するのは困難だろう。
 日本でもサッカーのJリーグがスタートした時、「野球はスロー・テンポで辛気臭い。サッカーの方がスピード感があっておもしろい」といった意見が若者を中心に流布した。野球は「おじさんくさいスポーツ」と揶揄されたものだ。自他共に認める「おじさん」となった僕は今、「おじさんくさいスポーツのどこが悪い!」と開き直っている。そして、この「おじさんくささ」こそが、アメリカにおいて野球が「ナショナル・パスタイム」としての地位を獲得する大きな要因となったのだと僕は考えている。
 1球ごとの勝負、攻撃側と守備側がルールに従って交代するゲーム形式はラジオの実況に適しているし、聴取者も適当に休憩を取りながら、自分のペースで放送を楽しむことができる。ある人は応援するチームの攻撃に注目するし、ある者はエース・ピッチャーの投球に注目する。自分にとって興味のない場面では、他の用事をしながら、のんびり野球中継を聴く。こんな個人の趣味に応じた方法により、「ナショナル・パスタイム」としての野球は全米に受け入れられていった(このプロセスは、日本の国技・大相撲と類似しているかもしれない)。
 野球の「おじさんくささ」がラジオによる実況を可能とし、ラジオ放送により野球は娯楽として普及していった。さらに言うなら、野球のスロー・テンポ、おじさんくささにより、投手以外の各選手はほぼ毎日プレーすることができるわけで、サッカーやバスケットのような動きの激しいスポーツでは年間162試合など考えられない。また、おじさんくさい野球だからこそ、毎日の実況放送をのんびり「enjoy」することができるわけで、ホッケーやアメフトのめまぐるしい攻防戦を休みなく見聞きしていたら疲れてしまう。
 ヤンキースの試合を毎日ラジオでチェックしながら「野球がおじさんくさいスポーツでよかった!」「僕もおじさんになってよかった!?」と、しみじみ自分に言い聞かせている。ラジオの「音」がファンの想像力を刺激し、おじさん的娯楽を創造していった。ラジオも捨てたもんじゃないぞ!本来、野球は観戦するのでなく「音」により感戦するものだったのだ!?
 さて、おじさんの野球論はいつものごとく暴走してきたので、そろそろ次の話題に移ろう。

3.合気道(the art of peace)の世界-「知」と「力」の次は「芸」なり-

 「俺はどうすればいい気持ちで過ごせるかを66年間考えてきた。いい気持ちってのは、苦行によって得られる悟りなんかとは違う。ぬくぬくしたベッドの中にいつもいる感じ。こんな気持ちで一生過ごせたらいいね。常にいい気持ちだから、俺は強いのさ。」
 これは光気会の創始者・丸山修二師範が7月の合気道の稽古会後、僕に語ってくれた言葉である。丸山師範は今年66歳。1966年、合気会本部の指導員としてオハイオ州クリーブランドに派遣されて以来、アメリカでの合気道普及に尽力している。光気会は丸山師範が海外(とくにアメリカ)の合気道愛好者を指導するために設立した新団体で、合気会とはやや違ったスタイルの「aikido」を掲げている。無論、光気会の「aikido」も基本的には日本の合気道と同じものだし、技の組み立てなどに大差はない。光気会のユニークさは、丸山師範がアメリカでの経験から得たさまざまな工夫、アメリカ人を引き付けるためのパフォーマンスが盛り込まれている所にある。そして、その師範はアメリカ人の弟子たちから「sensei」と呼ばれて、絶大な尊敬と支持を集めている。
写真9  僕と光気会の出会いは昨年の9月。日本で合気会の道場に通っていた僕は、プリンストンでも合気道を続けたいと希望していた。幸い、学内に合気道クラブがあることを知り、「どんなもんやろ…」とさっそく参加してみた。以来1年。振り返ってみると、大学の授業に出席しているより、天理教の調査に行っているより長い時間を道場で過ごしたわけだから、合気道が最良の我が「パスタイム」だったことになる。
 稽古日は月水金の週3回。大学が夏休み中でもクラブ活動は行なわれており、僕も平均週2回は出席している。学期中の稽古参加者はだいたい10人前後。夏休み中は帰省、旅行する者が多く、現在は毎回3、4人で稽古している(これはしんどい!)。(なお、プリンストンの合気道道場の様子は昨年10月の「みんぱくEニュース」のコラムでも紹介しているので、詳しくはそちらをご覧ください)。
 我らが道場には3人のインストラクターがおり、彼らは丸山師範の指導を受けている。最初、アメリカ人のインストラクター、ダンスの練習場と兼用のマット・ルームでの稽古だと知らされて、「だいじょうぶかな。光気会なんて日本では聞いたことないし…。もしかしたら僕の方が…!?」と生意気にも思っていたが、そんな心配(自信?)は稽古初日に吹っ飛んだ。インストラクターは3人とも合気道に真摯に取り組んでおり、実力も確かなものだ。僕も彼らの姿勢に刺激され、「アメリカ人がこれだけやってるんだから、本家たる日本人は…」と、けっこう気合を入れて道場に通った。今回の在外研究の最大の成果は合気道の上達だったなどと言うと、文科省からお叱りを受けるだろうか(写真9)。
写真9:合気道の稽古後、クラブ員のケヴィン君、ヤコブ君と。
こんなでかいやつらと稽古してたら、やはり疲れますよね…。
 
 丸山師範は名古屋の本部道場を中心に活動しているが、毎年の冬(3月)、夏(7月)、秋(10月)には長期間アメリカを訪れ、各地の道場を巡回指導する。光気会の3大イベントは「sensei」をむかえての冬、夏、秋のキャンプ(合同稽古会)であり、僕もウインター・キャンプ、サマー・キャンプに参加することができた。では、両キャンプの中から合気道と「aikido」の相違をいくつか紹介しよう。
写真10  キャンプには全米各地の道場から300人前後の合気道愛好者が集まる。これだけの人数で稽古することはキャンプ以外ではないので、みんなうきうきしている。意外なのは日本人の参加者がほとんど見当たらぬこと。もちろん、僕と丸山師範は「君、なんちゅう名前だっけ?」「はあ、広瀬です」などと日本語で会話しているが(今度は僕の名前、忘れないでくださいね、「sensei」!)、他に日本語を聞くことはない。「こんなにたくさんの人が、遠方から合気道をするためにわざわざ来ている。熱心というか、物好きというか…」。これが僕の率直な第一印象だ。ただ、日本人としては、日本の武道がアメリカで受け入れられているのはやはりうれしい(写真10)。
写真10:サンフランシスコの合気道道場にて。
ここで知り合ったエドワード君も、飛行機で6時間かけてサマー・キャンプに参加していた。
 さあ、準備体操が終わると、皆さんお待ちかねの「sensei」の登場。丸山師範は英語が流暢というわけではないが、長年の経験に裏打ちされた自信は、でかい声と共に伝わってくる。「sensei」の指導の特徴は「百聞は一見に如かず」、あるいは「習うより慣れよ」ということで、とにかく技のデモンストレーションを繰り返し行なう所にある。英語でああだこうだと理屈を並べるより「まずは俺の技を見ろ!」ということか。デモのパートナーとして体の大きなアメリカ人の弟子をどんどん指名し、彼らをいとも簡単に投げ飛ばし押さえ込む。それは若乃花と曙の相撲を想起させる迫力だ(ちょっと古いですね)。
 「sensei」は標準的な日本人の体格で、身長と体重は僕とほぼ同じだ(体脂肪率は大違いだろうが…)。その小さな、しかも「老人」といわれる年齢の「sensei」が大男を相手に、ひらりひらりと身をかわしていく。「かかって来い、思いっきり!」と相手を誘い、弟子たちが「sensei」を突き飛ばそうと精一杯の力を出しているのに、「sensei」は鼻歌を歌いながら(この辺も彼の演出か)、涼しい顔をしている。このデモは、「力」を信仰するアメリカ人にとっては、かなりのインパクトがあるようだ。
 「sensei」は技の説明の中で「enjoy」「relax」「comfortable」などの単語を多用するが、これらは冒頭に挙げた「いい気持ち」を言い換えたものだろう。基本も大切だが、とにかく技を実践して「いい気持ち」を体で理解させる。このプラクティカルな稽古方法は、合理主義を標榜するアメリカ人にマッチするものなのだ。日本の厳粛な道場では、師範が鼻歌を歌いながら指導するなんてことはまずないので、僕は「sensei」の型破りのデモにいささか驚いた(それにしても、あの鼻歌は日本の歌かな、アメリカの歌かな…?)。
 さて、キャンプの後半は昇級、昇段試験が実施される。「sensei」を前に、それぞれが指定、自由型の技を披露する。日本の道場では昇級、昇段テストは静かに見守るものと決まっているが、アメリカでは試験を受けない観客から声援が送られる。そう、叫ぶのだ!まるで大リーグの球場のような雰囲気である。僕も初めは恐る恐る小さな声で「いけ!」「いいぞ!」などと日本語で叫んでみる。その後(予想どおり?)叫ぶペースは上昇し、「オー、ヤー…」と英語とも日本語ともわからぬ奇声を発する。なんだか、ガソリン・スタンドで「いらっしゃい!」とか「オーライ!」と叫んでいるお兄さんになったような気分だ。
 僕の奇声を含めて多くの仲間の応援が、テストを受けている人の緊張感を和らげ「いい気持ち」にさせているのは疑いない。それにしても、アメリカ人の声援は「Come on!」くらいしか聞き取れなかったなあ。まあ、僕の「オー、ヤー…」も、だれにもわからないんだからいいか。とにかく、声を出すことに意義があるのだから!

 さて、では「sensei」の「aikido」は何故にたくさんのアメリカ人に支持されているのだろうか。丸山師範は光気会の「aikido」の特徴を「positive mind」「relax progressively」などの英語で表現しているが、これを日本語で「sensei」流に言うと「いい気持ち」になるのだろう。合気道に親しんでいるアメリカ人は、合気道の原理を日常生活に応用することを強調する。プリンストンの道場に通ってくる大学院生、若手教官などを見ても、日々の生存競争、研究や仕事からのある種の「いやし」を合気道に求めているような気がする。
 アメリカの「知」と「力」を象徴するのが野球だと前節で述べたが、その「知」や「力」の限界、つまり近代化の行き詰まりについては、すでにあちこちで指摘されている。日本の武道は、60年代のカウンターカルチャー・ムーブメント(対抗文化運動)の「反近代」の流れの中で、ヨーガや東洋系の宗教と共にアメリカ社会に根付いてきた歴史を持っている。
 合気道は「the art of peace」と英訳されることがあるが、他の武道と異なる合気道の特徴は、試合、競技をしない点にある。「知」や「力」により敵と争うのでなく、心身一如による和合をめざすのが合気道のアート(「芸」)の世界なのだ。光気会のキャンプでも、初心者から高段者、多様な人種、老若男女が和気藹々と稽古していた。それはアメリカ人にとって、日常的な言葉では言い表せない「芸」の概念を体感する実践的な稽古でもあった。
 アメリカにおける初期の合気道は、いわゆるエキゾチシズムというか、聞き慣れない日本語の技の名、道場における礼儀作法、見慣れない道着や木剣などの「物珍しさ」が大きな魅力となっていた。しかし、丸山師範たちの40年近い努力により合気道は「aikido」となり、技のみならず合気の「心」を理解するアメリカ人が確実に増えている。さまざまな問題を抱えながらも世界をリードし続けるアメリカにあって、「いい気持ち」、「peace」を実現する「芸」の重要性は増している。丸山師範の今後の活躍と「aikido」の更なる発展を期待したい。


 さて、小難しい話は「テリヤキ」に相応しくないので、そろそろお開きとしよう。僕の幼いころの夢は、プロ野球選手になるか、ちゃんばらの専門家(そんなのいるのかな?時代劇の見過ぎですね)になることだった。楽天家の僕だが、さすがにプロ野球選手になることはあきらめた。年齢的にも無理だし、天理教の特別ルールのようなものがなければ、全盲者が野球選手になることは不可能だろう。まあ、せいぜいバッティング・センターにたまに行ってバットを振り回すことで、「オー、Matsui!」の気分を味わうとしようか。
 でも、もう一つの夢、ちゃんばらの専門家(武道家)になることはあきらめていない。丸山師範は僕が生まれる以前に、木剣と稽古着のみを持って単身アメリカ入りしたが、「異国の地に日本文化、武道を普及させる」とは、現在進行形の夢であり、なんとも壮大ではないか。あの長嶋茂雄さんは履歴書の職業欄に「長嶋茂雄」と書いたそうだが、丸山師範は「sensei」とでも書くのだろうか。今回はパソコンと少しの本を携えて「ヴィジティング・フェロー」としてアメリカにやってきた僕だが、次回(それはいつでしょうか…)は「武道家」という肩書きで、この国を訪れたいなどと密かに思っている。
 そんな夢物語(馬鹿話)はともかく、「テリヤキ」の最終回で、個人的な思い入れのある野球、合気道を素材としてアメリカ文化について語ることができたのは、僕としてはうれしい。なんだか球場で自己満足のために叫んでいるような独断的なアメリカ論だったが、長話にお付き合いいただき(だれが!?)感謝している。
 「あとがき」は日本に帰ってから書くことになるが(今度は簡潔にします!)、さて阪神の優勝と我が「あとがき」は、どちらが早いか…。
[2003年8月]