国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 8.五徳とフランス軍

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

8.五徳とフランス軍
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 6月から7月は、調査に行っていました。ハノイから距離でいうと400キロ、しかし山を越え谷を越え、まる2日かかります。高い山に囲まれた盆地に、白タイや黒タイが村を作っていて、山中にはモン(苗)がたくさんいます。ぼくはその地域の黒タイの村を訪ねてきたのです。
 この時期は雨期で、今年は特にハノイなどデルタではぜんぜん雨が降らないのに引き替え、山地では非常に雨が多く、毎日が泥濘との戦いでした。でも雨がやむと、青く澄んだ空が盆地いっぱいに広がります。
 
写真
 町で商売をしているのはキン(いわゆるベトナム人)ですが、町にも村からもたくさん日常の糧を得るためにやってきます。白タイのちっこいお姉ちゃんがちっこい弟と妹を連れて、歩いていました。町は別世界なので、子どもたちだけで歩くときは気が張っています。
 この地域がまだベトナムという国の一部になる前、写真の手前に見える丘には、1940年代くらいまでフランスが基地を作り、飛行場もありました。同じくらいの高さの丘が3つあって、黒タイや白タイが囲炉裏の上に据える五徳石のようなので、「五徳石山」と黒タイや白タイは呼んでいます。それには黒タイの伝承があります。
 むかしむかし、地上は大洪水になって生命は滅んでしまいました。それから天は、アーイ・ラック・コックという大男を地上におろしました。アーイ・ラック・コックは100キロ以上離れたムオン・ロ(ギアロ)でスキをひいて田を耕し、ここの五徳石山で米を蒸し、おこわを一握りつかんで投げると、200キロ以上の離れたムオン・テン(ディエンビエン)にサム・ムンの山ができました。
 でも、この大男も力比べで死んでしまいます。今の人間につながる最初の人間は、もっと後に降臨するタオ・スオン、タ・ガンの2祖です。彼らがギアロを開拓し、ギアロを耕し尽くしたあと、土地なしの末っ子が子分を連れて各地を平定して行きます。それが今の黒タイの子孫です。
 ともあれ、大男がいた時代もこの山には米を蒸す煙が上がっていましたが、20世紀になって、フランス軍、(日本軍もか)、ベトミン、どれに味方すべきか困っている現地の人たちの間で、火気が煙を上げていました。
 
[2002年7月]
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