国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 13.続・拡張するデルタ世界

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

13.続・拡張するデルタ世界
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 最近『民博通信』97号に「拡張するデルタ世界」という原稿を書きました。ベトナム西北地方の近年の変化を、ホン河デルタとの関わりの点から書いたものです。今回、また西北地方を訪ねて感じるところがあったので、書き足してみたくなりました。
 ハノイから100キロも行かないうちに、少数民族の世界に入ります。現在はキンもウジャウジャいますが、キンの入植はこの数十年のことであり、それまでは現地の人たちにとってキンは異人だったのです。でもまったく両者の間に交流がなかったわけではありません。内陸の人にとって、塩はなくてはならないものでしたし、キンにとって山の幸は重要でした。象牙、サイの角、沈香、ラックなど中国への貢納品の多くは山の産物であり、そのほかにも木材や蜂蜜などいろんな物資が山地からデルタに来ていました。
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 1960年代以降、デルタの人口を人口密度の低い内陸部へ計画的に移住させる政策が始まりました。近年になって自由移住が認められ、インフラの整備も進んだせいで、ますますデルタのキンが山地に進出しています。
 白タイが多いマイチャウは織物で有名です。国道6号線からマイチャウへ行く道に分かれる三叉路のところに昔から茶店が数軒ありました。そこにもキンがいて前から売店を出していました。数年前まではどこでもあるふつうの茶店でした。それから多少おみやげ物用にマイチャウの織物を売るようになりました。それが、今年からマイチャウの織物を使って服を仕立てて売るようになりました。注文生産もしています。そういう仕立屋は、ここにしかないのではないでしょうか。
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 マイチャウをすぎると、モクチャウの手前にモンの村落があります。近年果樹栽培でそこそこ潤っていることは「拡張するデルタ世界」に書きましたが、ちょうどその地域をまた通ったときに、今度は養蜂の巣箱が並んでいるのを見ました。モンの家の敷地の中にあるので、行政の指導でモンが養蜂を始めたのかな、と思いつつ、立ち止まっていると、養蜂の仕事をしている人たちがぼくを呼びかけて招いています。モンは知らない人にむやみに呼びかけたりしません。気恥ずかしさと礼儀のためでしょう。やはりキンでした。聞いてみると、ここは花が多くて養蜂には向いているので、土地をかりて養蜂を始めたのだと言います。取れた蜂蜜は蜂蜜会社に売るのだそうです。国道6号線沿いに5,6件も養蜂場があるんだと自慢そうに語り、買っていけ、といいました。
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 モクチャウを発ちイエンチャウを走っていると、少なくと2年前まで田圃だったところが綿花畑になっていました。黒タイの女性が綿を摘んでいたので聞いてみると、国の畑だと言います。通りがかったキンも教えてくれました。綿花畑のところは国の土地で、地元の人たちを使って生産しているんだそうです。よく見ると、その地域はほとんどキンの家でした。
 ソンラーからマー河の方へまっすぐ南下して、ちょうどその道がマー河にぶつかるところはラオスとの国境です。通りにはラオ語の看板もあれば、ラオの女性も歩いています。まだ国境を広く開いてはいないけれど、行き来はあるようです。その道も去年舗装されたばかりだそうですが、国境では建設工事が盛んなので、開くつもりなのだろうと思いました。あとで聞いたところでは、EUの資本でラオス側の病人も収容できる病院をそこに建設中で、やはりもうすぐ国境を開くのだそうです。これもあとで聞いた話ですが、ちょうどその日そこで換金業でお金を貯め込んでいた人が殺されました。経済発展にはそういう面もあります。
 ソンマーはどん詰まりの町ですが、ちょうど建築ラッシュでした。市場や役所がどんどん改築され、町にはものすごいホコリが舞っていました。一方、山の木はもうほとんど伐られています。

 
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 ここがベトナムになる20世紀半ばまでは、マー河沿いに交易しに来たキンが多少いたにすぎないくらいのはずなのに、今はすごい数のキンがいました。もう彼らの二世、三世もたくさん誕生しています。外国からのODAなどもあり、急速にインフラが整備され、こういった地方都市が造り直されていく中で、キンがますますデルタからあがってきているのです。豊かな森、マー河の水と土がもたらす米や山川の幸で潤ってきたこの盆地は、デルタ世界に飲み込まれようとしているようでした。
 
[2002年10月]
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