国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 16.望郷:「石の帷子(かたびら)」をこえて

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

16.望郷:「石の帷子(かたびら)」をこえて
 ソンラー省とライチャウ省の間、つまりムオン・ムオイとムオン・クアイの境界には、ファディン峠という険しい峠があります。ファディンとは、黒タイ語で「石の帷子」のことです。ライチャウ側では、プー・チンとこの峠のことを呼んでいます。急峻な坂道とカーブが32キロも続く、まさに石の帷子なのです。この峠の東と西で気候もかわります。デルタのことしか知らないキンは、山の冬は寒いと思いこんでいますが、ファディン峠の西の方が、気候は冬も温暖でデルタよりはるかに過ごしやすいのです。

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 さてこの峠、上りは上りでいつになったら上りが終わるんだろうとウンザリしますし、下りは下りでいつになったら麓におりられるんだろうとウンザリします。途中、茶店一軒ありません。1990年代半ばまでは山賊も出ました。霧の日などは不安になることがあります。頂上付近にはフモン(苗)の村などが多少あり、空に手の届きそうな高いところまで、陸稲の畑になっています。木材はもうほとんどありません。いつ頃伐られたのでしょうか。
 この道は1933年にフランスの手で完成しました。こうしていい車で順調にいけば、まる2日でハノイからライチャウに行けるようになったのですが、これは当時画期的なことでした。この道を建設するとき、これによって当時シプソンチャウタイといった黒タイ、白タイの地域に対するフランス支配の強化が容易になるのと同時に、キンがシプソンチャウタイにあがって来ることをフランスは懸念したといいます。
 ライチャウに進軍した日本兵もこの道を通りました。当時の日本兵は力持ちで、すさまじい早さで走っていった、と黒タイの老人がまことしやかに語っていましたが、本当かどうかわかりません。ジープの車輪が泥濘にはまると4人で持ち上げて走った、という話にいたっては、ますますマユツバものです。
 
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 ともあれファディン峠の坂道は、道路として欠陥といいたくなるほど険難です。実は、ムオン・ムオイとムオン・クアイを行き来するのに、道路ができるまで黒タイの人々は、ファディン峠を越える以外の道を使っていました。この道を作った当時のフランスの懸念を考えれば、フランスがこんな険しい道を作ったのはわざとなのかもしれません。
 ディエンビエンフーの戦い(1954)のときに、フランスはまさかベトミンがファディン峠よりこっちに大砲を持ってこられないだろうと思っていたそうです。でも、黒タイをはじめとする現地の人々を抱え込むことに成功したベトミンの軍は、大砲を牽いてファディン峠を越えてきました。それでフランスがあわてふためいたそうです。それを記念する碑が、ごく最近峠の頂きに建ちました。
 頂上を越えて坂道を下れば、じきにぼくの大好きな村です。みんなどんな顔して迎えてくれるだろうか、と一人一人の顔を思い出しながら、長い長い坂道を、焦らぬよう、焦らぬよう、と念じながら下るのです。
 
[2002年10月]
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