国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 28.カメよ、どこへ

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

28.カメよ、どこへ
 黒タイの家にかならずあるサウ・ヘとよばれる柱は、象徴的な意味で、ひじょうに重要なものです。かつては建築の際、まずその柱の上にカメの甲をつるしました。今ではこれを行う家は、少なくなっています。
 もしハノイにあるベトナム民族学博物館に行くことがありましたら、博物館2階にあるタイ系民族文化陳列用の黒タイ家屋にはいったとき、天井の方に注意してください。説明書きもないままひっそりと、でも、ちゃんとカメの甲がぶら下がっています。
 サウ・ヘのカメの甲ですが、ヒトとカメが大昔に助け合ったことを記念したものといわれています。ムオン・テンには、以下のような話が伝わっています。
 ある日のこと、ヒト、動物、植物をつくった造物主の死が伝えられた。そこで動物達と植物達が先にテンを弔問しにいった。遅れてヒトが行く途中、亀が倒木に道を阻まれて困っていた。そこでヒトはカメを脇にかかえ、木を越えるのを手伝ってやった。人の脇が臭いのは、そのときに亀の糞の臭いがついたからである(黒タイ語の「腋臭」:ai min khi tau)。一方、亀はその恩返しに、実はテンはまだ死んでいないことをヒトに打ち明けた。
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 テンは雨、日、山、川、四季を地上にもたらしたので、ヒトは大いにその恩恵に預かっていた。しかもテンが本当は生きていることをヒトは亀に教えられて知っていたので、テンの前で哭して見せた。一方、動物や植物達はテンの死を悲しまなかった。こうしてヒトが動物を食べ、動物たちを統べることになった。いっぽう、ヒトはカメのことを記念して、家の建築に際してカメの甲をある柱に儀礼的に吊すようになった。しかもその家の屋根の形はカメの甲型である。
 テンは自分の死を悲しまなかった動物に怒り打擲した。だからフクロウのくちばしは曲がっているのである。
 家の新築のたびに、カメの甲が用意されるとすれば、村には、けっこうな数のカメの甲がなくてはなりません。しかし、ぼくは黒タイの村落に足を運ぶようになって何年にもなりながら、今まで生きた陸ガメを一度も見たことがないのです。カメはどこにいるのでしょうか。ぼく自身のエピソードからお話ししましょう。
 3年も前のことですが、ホアビン省のザオ(瑤)のある山村を訪ね、そこのささやかな売店でこんなことがありました。おもての長椅子に座って、アヒルの卵がゆであがるのを待っていると、ザオの若者たちがぼくのバイクの後方に群がって、なにやら話し合っています。ザオ語なのでぼくにはなにをいっているのかわかりません。そこで、キン語で聞いてみると、逆に、若者がぼくに尋ねました。
「このカメをどこに売りに行くんだ?」
 ぼくは思わず笑って荷台をとき、中のものをとりだし、「ヘルメットだよ」と言って見せると、みんな「なんだ」という顔をしました。キン語でムー・コイという軍用ヘルメットが、袋の上からだとカメに見えたのです。
 もうおわかりでしょうか。西北地方の陸ガメは取り尽くされ、売られてしまったのです。もう絶滅しているかもしれません。どうやら1980年代後半の1,2年のことのようです。インフラの整備と、木材資源の減少などとともに、山地に生息していた陸ガメが、「売れる」ということになって乱獲されたのです。中国にも大量に輸出されたと聞きます。ベトナムの場合、こういう経済活動を先導できるのは、きまってキンです。情報収集力があり、流通に秀でているからです。木材伐採、昆虫輸出などもカメ乱獲とどこかで結びついているかもしれません。
 黒タイの村落生活の現状と将来について考えると、環境の問題にどこかでかかわらざるをえません。環境のことを考えると、自分の、というか、今やヒトの非力を嘆きたくなります。辺境の村落民の日常的な経済活動をも取り込みながら、もはやヒトの制御を越えて、世界と環境を変化させていくような資本主義の圧倒的な力を前に、どう立ち向かっていけるのだろうか、と立ちすくむのです。

参考文献
Cam Trong va Phan Huu Dat, 1995, Van hoa Thai Viet Nam, Ha Noi:Nxb Van hoa Dan toc.
 
[2003年2月]
ハノイの異邦人インデックス
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