国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 34.国道6号線のさき

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

34.国道6号線のさき
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 今年のテトはムオン・クアイの村に戻りました。テトには、ディエンビエンに建築労働の出稼ぎに行っている18になる義理の甥っ子も、実家の親元に引っ越した義弟も戻ってきます。テトあけには17になる義理の姪っ子は結婚します。ぼくも次はいつムオン・クアイに戻れるかわからないので、テトにムオン・クアイに戻ることは昨年10月には、すでに決心していました。
 たまたまテト前に、ベトナムのテレビ局VTVにテトにかんするインタビューを受けました。ベトナムのテトというのは知らないけれど、ターイのテトというのならいいよ、といやいやながらこたえたのが放映されました。テレビは一局しか映らないライチャウ省では、大晦日と正月に2回も放映されたそうです。ぼくが村に戻ったのは、その放映があった2日後でした。「テレビで見たと思ったら、本物が来た」とみんな笑って迎えてくれて、テレビの効果の大きさを実感しました。会いたい人には何人も会えましたが、出稼ぎ、死去などの理由で会えない人もいました。
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 夜、人民委員会のゲストハウスに行くと、そこには新しい棟が新築されていました。でもぼくが案内されたのは古い棟でした。どうせなら新しい部屋にしてくれればいいのに、と最初は思いましたが、1997年から2000年にかけての何ヶ月間かを過ごした部屋の扉をあけたとたん、なんとも懐かしい気持ちがこみ上げてきました。一人になってそこでお茶を飲んでいると、そこでの出来事、そこであったたくさんの人たちのことが、つぎつぎ思い出されました。
 翌日からも日中は村にずっといました。合計で4日くらい村に通ったことになります。テトで出稼ぎから戻ってきている甥っ子と一緒に布団にくるまって昼寝しているときに、いたずらっ子の末弟が、ぼくのカメラを持ち出して撮ったのが、横の写真です。ダニもシラミもいるような布団でも、家族がいればあたたかいものです。それもこれも、いつか思い出の中だけの話になるかもしれません。それだけ村は急速に変化しています。
 出立の朝、いつものようにモチ米を包んでもらいました。義兄が豚肉の脂ののったおいしい部分をあぶってくれていました。でも別れるときに、来ると行っていたムオンじいさんの姿がありません。その息子が、前日繰り返し言ったものです。
 「明日、出発するときにオヤジが別れを告げに行くけれど、けっして泣いたり、暗い顔するんじゃねえぞ。オヤジはもう歳で涙もろい。体の弱った年寄りを泣かすもんじゃない。ときどきオヤジはマサオが送ってきた手紙を開いては思いだして泣いている。この前マサオがテレビに出ているのをみたときも、泣いていた。明日マサオが発つときにオヤジが行かないとしたら、つらくていけないだけだからな。オヤジのこと、忘れんじゃないぞ」
 結局ムオンじいさんに、ぼくはなにも告げずに発ちました。
 
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 ムオン・クアイにはプー・ブットという標高1700を越える美しい山容の山があります。つづら折りのファディン峠の道をはるか遠いハノイに向かって走るとき、ぼくは何度も振り返ってプー・ブットの姿を確認するものです。プー・ブットが完全に姿を隠し、省境にたつライチャウ省の看板も後ろ目に見えるところにきたとき、「ぼくは、もうムオン・クアイからずいぶん遠いところにきてしまった」としみじみ感じます。
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 ハノイに戻ってから3月の帰国までは、ひたすら本の執筆に追われていました。帰国前にもう一度ムオン・クアイに行きたいと思いつつ、やはりかないませんでした。しかし、帰国の前日、帰国の準備もそっちのけに、ぼくはなぜか国道6号線を雨の中ぶっぱなしていました。友人たちとの約束の時間には戻ってくれる範囲で、少しでも遠く、少しでもムオン・クアイに近く、、、まるで減量苦のボクサーが空の鉢とハシだけ持って、空腹を癒そうとしているかのようだと、自分で自分をあざけりながら。
 つぎ来る時は、どれだけの自由が自分にあるでしょうか。またそのころベトナムがどれだけ外国人に自由放任を許すでしょうか。これだけ自由に自分の足でベトナムの山地を駆け巡ることはもうないかもしれません。 明日には引き払うはずの自分のアパートへの最後の角を曲がるとき、思いました。 「ぼくだけのベトナムが、終わった。」
 
[2003年3月]
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