国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

野林厚志『ブリテン島紳士録』

野林厚志『ブリテン島紳士録』

前略 A君お元気ですか。
 貴兄といれかわるように、ここイギリスにやってきて以来、ちょうど5カ月が過ぎました。家族連れできていますが、お陰さまで特に大きなトラブルもなく、元気にやっております。
 日本は連日30度をこす猛暑とか。イギリスは7月半ばにして、もう夏は終わりのようです。
 それにしても、夜の9時を過ぎてようやく暗くなるのはなんとも言えないですね。3歳の娘は、「明るいのに夜ご飯?ご飯の後にお茶しようね。」とのたまう始末。夕飯も午後のお茶もあったもんではないです。
 家族で来ると、もちろん朝から晩まで研究のみというわけにはいかず、貴兄のイギリス滞在時のように一人で自分の時間を堪能するというのはうらやましい限りです。ただ、日常生活も濃厚に味わうことができるのは、家族連れならではのことでもあります。そんななかから、日ごろのちょっとしたエピソードをお伝えするべく、お手紙をさしあげております。

 そもそもイギリスに着いて、最初にけちがついたのが、「現金問題」です。アメリカに本店のある「グローバルスタンダード」な某C銀行の大阪の支店で口座を作り、当面の生活費にと貯金の200万円をはきだして、そこのポンドだてのトラベラーズチェックを購入しました。この銀行は、自行のトラベラーズチェックなら手数料無しで換金してくれる強い味方、のはずだった。
 C銀行のロンドンの支店に行って、約1万ポンドのトラベラーズチェックと購入証明書をだして、換金をお願いしたところ、
「換金できません。」
「はぁ?何で」
「これが、C銀行の口座の預金で買われたものであることを証明してください。」
「え、ちょっと待ってください。どのお金で買おうと、これはあなたの銀行が発行したトラベラーズチェックでしょう。私が買ったことには変わりがないわけだし。サインだって、私のがしてある。購入同意書だってちゃんとありますよ。」
「もう一度、申し上げます。C銀行の口座の預金で買われたものであることを証明してください。」
「いや、だから、トラベラーズチェックは、誰がどのお金で買おうと、その人が買ったトラベラーズチェックであれば、換金できるはずではないですか。」
「C銀行の口座の預金で買われたものであることを証明してください。」
きれました。「お前はあほか。」(これは日本語で言った。紳士の国ではしたない・・・)
隣では別の日本人が、100ポンドくらいのチェックを何の問題もなく交換している。
「隣の窓口ではちゃんと交換してますけど。」
「C銀行の口座の預金で買われたものであることを証明してください。」
(お前は壊れた留守番電話か?)
 C銀行に一旦預金した金でこのトラベラーズチェックを買っていたので、その時の購入証明書を見せ、換金はできた。が論理的にどう考えても、この対応はおかしい。後日、日本のC銀行に問い合わせたところ、丁寧な謝罪の返事を受け取ったことからしても、こちらに非はないらしい。一体、どういうことなんだ。
 さてさて、今度はこの約1万ポンドをこちらで新たに開設したB銀行の口座に入金する時のことである。
「入金お願いします。」といって、懐からごそっと現金をだすと、窓口の男性の顔が曇った。嫌な雰囲気である。
「いくらあります?」
「1万ポンドほど。確認のために数えてください。」
「数えれません。」
きれました。「お前はあほか。」(これは心の中でさけびました。)
「数えるのは銀行員の仕事でしょう。数えてください。」
そこで、出てきたのは、なんと秤。本当です。秤にのせて重さ量って金額を確認するのです。
「セロテープはってるかもよ。」
彼は笑って、他の銀行員を2人よんできて、1枚1枚数え始めました。(「何だよ、笑ってても本当はびびってんじゃん。」)20分後はれて、私の新しい口座に入金が完了しました。

 小生のような人相の悪い、英語の下手な「アジア人」が多額の現金をもってたら警戒するのかもしれない。でもそれって、人種差別と違いますか。小生、英語が不得手なせいか、もしくは、フィールドで土地の雰囲気を汲み取るのに神経をつかってきたせいなのか、こちらのいわゆる「白人」の対応がいちいち気になります。時には意識過剰になることもある。でも5カ月ほどたって、これは人種云々の問題というよりは、こちらの人が「現金」を使い慣れていないというところにあるような気がしてきました。
 口座開設後一週間ほどで、B銀行から小切手帳が送られてきました。小切手などというものは、日本で見たことがない。まして、それを使うなどとは夢にも思っていなかった。かつて、小生が所属していた教室の教授が、飲み屋の代金を小切手で払っていたという逸話を聞いたことがあるくらいです。
 こちらの人は小切手を本当に日常的に使ってますね。中国研究所の先生にお昼ご飯をご馳走になった時も、彼は使い込んだ小切手帳を支払い時に使っていました。さらさらっと相手の名前と金額をアルファベットで書いて、自分のサインをしておしまいです。記入に1分もかかりません。小生が小切手を使おうものなら大変です。どきどきしながら、スペル間違いしないようにと4,5分かかってしまいます。もっとも、大きなスーパーに行けば、小切手自動記入マシーンがあるので便利です。
 小切手を切るたびに、学生時代によく行ったトンカツ屋の「いつも、にこにこ現金払い」というはり紙を思い出します。もし日本で小切手を支払いに使おうとしたら、どれだけの小売店が受け取ってくれるのでしょうか。最近は小切手に変わってデビットカードが普及しているようです。買い物してサインするのはクレジットカードと同じですが、こいつは、すぐに引き落とされるというのが大きな違いです。インターネットで口座照会をすると、買い物をした翌日もしくは翌々日には引き落とされています。
 あるイギリス人から聞いた話では、小切手がこれほど一般に使われるようになったのは、ここ20数年ほどの間であるとか。20数年前というと、ちょうど「鉄の女」ことレディー・サッチャーが首相になって、各種の経済政策を断行したころですよね。1979年5月に登場した保守党サッチャー政権はイギリス資本主義の再生を目指し、こともあろうに、アダム・スミスの言うところの「神の見えざる手」をとりもどそうとしたのは有名な話ですよね。国営企業はほとんどすべてが民営化され(エージェンシー化!?)、住宅や産業への公共投資は大幅に削減されました。唯一といっていいインフレ削減手段が、金利を前例のないほど高く押し上げたということです。小生、経済学者ではないので、こんな複雑な社会状況の中で、経済がどのように動いていくかはよくわかりません。が、金利が高ければ、なるべく現金はもたない方がよいことぐらいは理解できます。つまり、小切手を使ってお互いに口座から口座へお金を動かしあうにこしたことはないというわけです。また、いわゆる「ブルーカラー」といわれる人々もこぞって、このころから銀行口座を活用し始めました。日本でも、今や「給料袋」なんてものはあまり聞きませんよね。イギリスでも賃金を現金ではなく、小切手や銀行への振込みで受け取り始めたのがこのころだそうです。よく、英国の小切手は空き巣ねらいが頻発するので、現金を家においておかない手段として普及しているなんて説明も聞きますが、やっぱり時代の経済的背景も影響してきたのかななどとちょっと考えました。ところで、チェックという言葉は、もともとアラビア語からきたなんて話を聞いたんですが、本当ですか。博識の貴兄にぜひ教えてもらいたいのでよろしく。

 話題変わって、イギリスで面白いテレビ番組を見つけました。タイトルを日本語になおすと、「誰が一番弱いリンクか?」というクイズ番組です。おおまかなルールを説明しますね。解答者は9人。知的な冷たい態度の女性司会者兼出題者の前に、解答者が半円状に並びます。3分間の間に、ランダムに解答者が指名されて出題されます。解答者は(1)正解する、(2)間違う、(3)パスする、という3通りの対応をします。正解が続けば獲得金額が上がっていき、間違うと獲得金額は最初にもどってしまいます。自分がいくら正解を続けても他人が間違えば、全体の獲得金額は振り出しにもどってしまう、いわゆる「連帯責任」クイズです。金額は20ポンドからスタートし、1000ポンドまでひきあげ可能です。ある程度金額が上がれば、自分が指名された時に「バンク」といって、それまでたまっていた賞金を確保します。だいたいは150ポンドくらいで「バンク」するのですが、バンクしわすれたり、欲張って次のレベルの200ポンドをねらおうとして、間違うとまた20ポンドからやりなおしです。
 さて、3分間のラウンドが終わった後、女性司会者が冷たく全員に尋ねます(かなり、演技はいってますが)。「この中で、いない方がいいのは誰?」そして、解答者はそれぞれが手にしているボードに、退場させたい人の名前を書き、女性司会者の合図のもとに次々とボードを掲げます。指名数の最も多かった人が退場となります。次のラウンドは時間が10秒短縮され、残りの8人で解答します。これを最後の1人になるまで続けていきます。
 この番組の中で最もシビアだなと思うのが、退場指名の多かった人を指名した人と指名された本人にインタビューする場面です。
「マルコム、なぜクリスを指名したの?」
「彼は、我々に何の貢献もしていないと思う。彼の正解率は低いだろう。」
「スーザン、なぜクリスが必要ないと思ったの。」
「彼の判断はいつも間違っている。バンクできないんですもの。」
そして、女性司会者は
「クリス、あなたが指名されることについてどう思う。実際、あなたはさっきのラウンドでは全く正解していない。地理の分野が得意とプロフィールには書かれているけど、それすら答えられなかったようね。あなたにとって得意ってどういう意味なの」と。あーなんて厳しい言葉がはかれることでしょう。最後にはき捨てるように「あなたはこのメンバーには必要ないわね。バイバイ。」ととどめが刺されます。次のラウンドの退場勧告などは、「さっきのラウンドで去っていった警察官と同じくらい貧しい知識しか持ち合わせていない人は誰だと思う?投票の時間よ!」といった具合です。僕が退場勧告を受けたら、恥ずかしくて何も言えなくなるでしょう(お前に限って、何も言わないということはありえないという声も聞こえてきそうですが)。
 番組をしばらく見ていると、どんな人間が退場させられるかについて面白いことに気づきました。まず、真っ先に嫌われるのが、パスをする人間です。1度のパスならまだしも、2度続けてパスしようものなら、そのラウンド終了後、確実に指名がはいります。「ビルは、2度もパスをしている。答えようとする勇気がない。」なんてコメントが他の解答者から浴びせられます。これは、納得でしょう。もちろん、出題分野の得手不得手はありますが、短い時間の間に二度もパスをしてしまう消極性に対しては非常に厳しい評価が与えられるというわけです。もちろん、不正解が続く解答者も退場指名を受けますが、パスを続ける解答者よりはその罪は重くないようです。
 イギリス人の積極性を重んじる態度に感心することはよくあります。大学のセミナーでも、みんなよくしゃべる。もっとも、何がそのコメントのポイントなのだろうと思う時も少なくないですが。これも英語のニュアンスがよくわからない私の限界なのでしょう。いずれにせよ、相手の議論を自分の側にひきつけながら自分の意見を述べるということに長けているなとつくづく思います。あと、このクイズ番組で退場された人のコメントを聞いたり、こちらの学生の人たちとはなしていると、自分の能力を劣っているとは決して言わないことです。
 「自己評価」という言葉は、ここ数年、我々もよく耳にしますよね。「自己評価もできないようでは、研究費はやれん」なんてことを言われる日も近いとか近くないとか。この自己評価は日本人にとっては、と言うか、小生にとってはいささか苦手なことであります。と言うのも、自己評価が言い訳になっているのではないかと思ってしまうことがあるからです。小さい時から、「言い訳なんかするな」とよく怒られた記憶があります。もちろん、「自己評価」と「言い訳」は全然違うものですし、学問における自己評価は研究者としてごく普通に行えることでしょう。ただ、私が思うのは、例えば、日本における「自己評価」には純粋に「自己」による評価だけが含まれているのではなく、その「自己評価」を他人が評価するというニュアンスが含まれているのではないかということです。もし、自問自答を明確に意識する習慣がもともとあったら、日常生活から学問にいたるまで、「自己評価」といわれるまでもなく、自分というものを相手にはっきりと説明できるでしょう。自分とは何か、これはいわずもがな、アイデンティティの問題に行きつくわけです。自分を考える時間のすごし方の違いを考えてみるのも面白いことかも知れません。
 話題をもどしまして、退場した解答者は別室でインタビューを再度受けます。このときに、自己評価とも言い訳ともつかないコメントをはじめます。そして、これはおそらく視聴者に番組を楽しませるための演出だとは思うのですが、次に退場する人間を予想しその理由を話しだすのです。そこで、非常によく出てくるコメントは例えば、こんな感じです。
「知識の点から言えば、自分よりもアリスの方がはるかに劣っていると思うよ。得意な歴史の分野以外の彼女の知識はひどいもんだよ。次にはまちがいなく彼女が落ちるね。」おいおい、落ちたあんたが言うセリフではないでしょうに。自己評価と同時に他人を意識して、自分と他人を比較する厳しい目をもつのもこの国の人たちの習慣なのでしょうか。もちろん、自分をよく知っておかないと、他人と自分を比較できないですけど。ちなみに私の住んでいる家は、「近隣監視区域」にあります。隣近所の家に異変がないかをお互いにチェックしあいましょうというものです。留守中は大変ありがたいですが、いつも見られてるんだろうなと意識するこのごろです。
個人主義 隣の芝を 見てにやり

 下手な川柳ではまとめにもなりませんが、このあたりで筆をおきます。季節柄ご自愛ください。

草々  

2001年7月 オックスフォードにて

※『民博通信』第94号(P.135~P.140)より転載