国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

野林厚志『ブリテン島紳士録』

野林厚志『ブリテン島紳士録』

ドネーションな人たち
 10月も半ばになると、日が落ちるのも早い。夏には10時ぐらいにならないと暗くならなかったのが、今では7時にもなると夜らしくなる。
 こんな秋の夕べを訪問者たちはやってくる。「ドネーションな人たち」である。
 「ドネーション」という言葉は、まだ日本では定着していないと思う。私のボキャブラリーが貧困だという人もいるかもしれないが、それは「インテリ」な人。「日本人にとってなじみのある言葉はドナーでしょう」といえば、納得してもらえるだろうか。ドナーはおそらく多くの日本人も耳にした言葉であろう。日本におけるドナーという言葉は、多くの場合、臓器の提供者という脈絡で使われている。ドナーが行なう行為が「ドネーション」である。つまり、提供するとか寄付するとかいうことである。「ドネーション」な人たちと私が呼ぶのは、ドネーションを求めてやってくる人たちのことである。
 この人たちは、4月から5月にかけても多かった。やはり、同じような日の落ち方をする時期である。不思議だ。時間帯も7時から8時過ぎをねらってくる。不思議だ。おなかが少し膨れて、少しのお酒でも飲んでいようものなら・・・心地よくなる時間だ。部屋の中は暖かい。ドアを開けると肌寒い。そこで、一言「スモール・ドネーション」と言われたら・・・皆、たまたまこの時間、この時期にやってくるのだろうか。 この「ドネーションな人たち」に数多く接していると、いくつかのパターンに範疇化できるのに気づいた。

(1)台所グッズ、ガーデニンググッズ販売人
 訪問者は18、9歳から50歳ぐらいまでの男性である。彼らの行動上の特徴はドアをあけるやいなや、目の前によれよれの「ライセンス」と称するよれよれの紙切れをつきだすこと。その主張はものを買え。収益の一部は、恵まれない子供たちやお年寄りに寄付されるのだということである。あなたたち、NOW手の押し売り?そのライセンスは誰が出してるの?「まさか、『うちの会社のボス』とは違うでしょうね。」と言いたい所である。また、このグッズの品質はお世辞にもいいとはいえず、値段も結構はるのである。なんといっても、「ドネーション」が含まれているのだから。この人たちに対しては、今のところ、「戦績」は悪くない。(とは言いながら、ガーデンニング用の手袋を買わされてしまったことは、恥ずかしくて口がさけてもいえない。)

(2)教会関係者
 訪問者はお年をめされた体格のよい男性である。若い男性が数人来たこともあった。行動上の特徴は手ぶらで、ふらっとやってきて、次のように主張する。「教会の方で寄付を集めています。ご協力ください。」
 日曜の礼拝に行って、教会で献金するのはよく知っている。筆者も、台湾や中国の教会で何度も献金をいたしている。英国では教会の方がわざわざ出向いてくださるとは驚いた。私はこちらでは一度も教会へ礼拝に行ったことがないし、そのことを知っていて取りに来ていただいたのでしょうかね(ちょっと嫌味かな)。私はキリスト教の信者ではないが、こんな異教徒が教会に寄付などしていいのだろうかなどと勝手なことを考えてしまう。キリスト教に関する知識のなさが暴露されてしまうなあ(汗)。この方々に対しての戦績はほぼ圧勝です。「すいませんが、私はキリスト教徒ではありませんので。」これで、あっさりと帰っていく。
 ただ、先日訪れたSalvage armyの方には、「志」をお預けした。ドアを開けると軍服を着た男性が立っているのですから、さすがに私もびびってしまった。「救世軍」として日本でも知られているSalvage armyは今ぐらいから年末にかけて時々いらっしゃるとのこと。頼むから軍服着るのはやめてほしい。どこかに連行されるんじゃないかとびくびくしてしまいます。

(3)各種団体関係者
 訪問者の特徴はお年をめされた女性。いらっしゃる前に、封筒をポストに入れてくださるので、ある程度来訪は予測できる。数日後、封筒を回収しにくる。主張は色々な方を援助している(団体によって対象は異なる)とのこと。
 これは結構やっかいなのだ。非常に寄付内容を明確にしているし、この方たちは、自分たちが来るのがわかっていたはずでしょうという態度でくるのである。もし、寄付を断るとどうなるのか。封筒を返せと言われる。おいおいそんなもの捨てちゃってるよと答えると、「寄付もしない、封筒も無駄にする、なんてことかしら」とぶつぶつ言われる。私の戦績はすこぶる悪く、全敗に近い。封筒に1ポンドをいれてお帰りいただくことが多いのである。
写真右:寄付袋のパッケージ。中には大きなビニル袋がはいっている。月曜日回収予定が示されている。
写真左:封筒。中にお金をいれて、数日中にやってくる人に渡す。
寄付袋のパッケージ 封筒
 

(4)おばあさん
 訪問者の特徴は非常に疲れたような、お年をめしているといった印象を与えさせる女性。(1)と同じように、台所グッズなどを売りに来るのだが、その主張は非常に純粋なものである。「私はこれしか生活の糧をかせぐ術がないから、ものを買って。」
 確実に相手の術中に私ははいってしまう。私はお年寄りに弱い。若い輩がドネーションを理由にものを売りつけるのにはあまり好感をもてない。正々堂々と押し売りしろよと言いたくなる(本当に言いたいのだが、英語でこれを表面的には紳士を装ってどう表現すればよいのかわからなくて・・・)。でも、おばあさんが自分の生活に困っていると真正面から言い切ると、何も言えなくなってしまう。完敗。おかげさまで、うちではしばらく台所用スポンジを外で買う必要がなかった。

(5)外国人(イギリス人以外という意味で)
 訪問上の特徴:弱々しい感じの態度。女性。男性はまだ来たことがない。
 主張:生活に困っている。金をくれ。もしくはものを買ってくれ。
 このケースでいらっしゃった方は、いままで2人でした。一人は、ウクライナからの留学生で、自分で作ったというロシアのマトリョーシカ人形を買ってくれという要求であった。私は留学生に弱い。異国で学業を修めるということの尊さは、民博にいる誰もが認めることであろう。学生として調査者として、異国で程度の差はあれ苦労をしてきた者にとっては見過ごすことはできない。「少しでもあなたの学業に役に立てたら嬉しい。その人形を買いましょう。おいくらですか」と尋ねたところ、「15ポンド(約2,700円)」「ええっ?!・・・」私の部屋の片隅で、この人形はいつも私に微笑みかけて(嘲笑って?)くれています。もう一人は、あの米国のテロの1,2週間後にやってきた。ムスリムの女性の格好をして、メモを見せてくれました。そこには、「お金がない。食べ物がない。」とだけ書かれていました。こういうケースも戸惑います。でも、やはりすこしだけ志をお渡した。ムスリムにとって喜捨は重要な義務の一つなのだろう(別に私はムスリムではないが・・・)。それにしても、この時期に大胆ではある。米国のテロをわが国の悲劇のようにとらえ、今もところどころで、ユニオンジャックの半旗を掲げている英国である。あからさまなアラブ系住人へのバッシングはないにしても、全面的に好意的とはとても言えない。米国ならどうなることやら。

 英国において「ドネーション」はきわめて生活に根ざしている。博物館も例外ではない。大英博物館やオックスフォード大学の博物館は、入館料が無料である。かわりに、入り口に寄付箱が設置されていて、例えば2ポンドとか表示されていたりする。箱の中が見えるようになっていて、お金が入っているのが見えたりする。あ、みんな寄付してるのか、と、思わず1ポンドを入れてしまう筆者のような人間もいるのだろう。もちろん、小口の寄付ばかりがドネーションではない。大口の、展示場を一つ作ってしまうようなドネーションは、大々的にそのドナーが紹介される。日本の企業のドネーションが紹介されるのを見ると、ちょっぴりうらやましくなる。日本の企業なんだから、日本にももっと目を向けてほしいなと甘えたくなってしまうこともある。
 イギリス人にとって「ドネーション」とは一体何なのだろうか?
 こちらの(オックスフォード大学)の大学院生の人に、「ドネーション」って何なのさという質問をぶつけてみたことがある。「寄付することですよ」という意味の答えがあっさりと返ってきたとき、こいつはあほかと思ったが、よくよく考えてみると、彼はなんで私がこんな質問をするのか解らなかったのだろう。それほど、ドネーションなどというものはこちらでは当たり前のことなのかもしれない。たまたま、一緒にいた日本生活が長い米国人の研究者は私の意図がすぐわかったみたいで、「ドネーション」談義に華がさいた。

 彼:「日本では最近、「物乞い」もみかけませんしね」
 私:「そうそう、ホームレスの人はいるけど、彼らはお金を要求するとかそういうこともないし」
 彼:「イギリスは、「物乞い」がいっぱいいますよね。しかも、元気な若い人たちばかり」
 私:「スモール・チェインジ、ドネーションを決まり文句にしてる」
 彼の妻:「ドネーションとチャリティって関係あるのよね」

 これはビンゴかもしれない。やっぱり、会話はこうでなくちゃいけない。ロジャー(民博の客員だったグッドマン先生)に感謝しなければならない。この会話は、彼に招待されたパーティで交わされたものだ。
 在籍しているオックスフォード大学に敬意を表して、オックスフォード・ディクショナリーで、donationとcharityを調べてみると
donation noun 1 an act of donating 2 a gift of money etc. to a fund or institution
charity noun 1 leniency or tolerance in judging others; unwillingness to think badly of people or acts 2 generosity in giving to the needy 3 an institution or fund for helping the needy 4 loving kindness towards others
 ついでにgiftはというと
gift noun 1 a thing given or recieved without payment 2 a natural ability 3 (informal)an easy task

OXFAMの写真  これを見たときに筆者がすぐに感じたのが、「情けは人のためならず」ではないんだということである。もちろん、筆者は日本人が人に親切にするときにいつも下心をもっているとは思わない。そんなことをいちいち考えていたら何もできない。この言葉の意味は、「自分が相手と同じ立場になったときのことを考えてみたら、あなたはどうされたいか」という程度にとらえておけばよいのだろう。平たく言えば、相手の身になって考えてみようである。でも、charityには、そのニュアンスはなさそうである。なぜならば、charityは他人に対する寛容さであると同時に、さりげなく書かれているが、他人に親切にすることが好き(愛する)ということである。すなわち、親切にすること自体が目的であり、自己愛につながっているように思われてくる。親切は美徳であり、その手段の一つがドネーションといったところなのだろうか。確かに英国人は親切である。というか、親切のフットワークが軽い。こちらが何かしらまごついていると、にこにこしながら「困っているの」「何かトラブルでも」とすぐ聞いてくれる。親切にするということが生活の中で根づいているのは確かであろう。Oxfamのような世界規模の援助団体が育つのもうなずける様な気がする。
写真:OXFAMは、第一次大戦で被害にあったギリシャの人たちを援助するためにオックスフォードで結成された市民団体です。今や、世界規模のNGO団体になっています。
 こうした精神が英国の中で根づいている一つの背景にあるのはやはり、キリスト教の存在なのだろうか。キリスト教の教えの中でも、善きサマリア人のたとえは、人に親切にする、さらには隣人愛をうたった典型的なものである。追い剥ぎにあった旅人が、動けなくなって倒れていたとき、側を通った祭司やユダヤ貴族は知らぬ顔を決め込み行きすぎる。サマリア人だけは立ち止まり、傷の手当をしてやる。そればかりか、近くの宿まで送り、宿にその費用まで払ってやったというのである。当時、サマリア人は、ユダヤ人とごく近くに住みながら、宗教や習慣が異なり、特に宗教についてはゲリジム山の神殿だけを神の礼拝所とする彼ら独自の信仰を持っていた。それゆえ、ユダヤ人との間には、かなりの軋轢が生じていた。それにも関わらず、サマリア人は困っているユダヤ人を助けたというのである。とても美しい話なのだが、少々違和感を感じるのは、これとは別にサマリア人が登場する話が聖書の中にあって、キリストは、サマリア人の信仰に関する問いかけに対し、ユダヤでもサマリアでもない、本当の教えがあるのだとキリスト教の教えを説くのである。筆者にしてみれば、ユダヤの教えもサマリアの教えも同じように大切であり、おたがいによく理解しあいなさいと説いてほしいのだが。これじゃあ、「某社会の新秩序云々」とのたまうどこかの国の元首と変わらないと考えるのはあまりにもうがった見方であろうか。
 ま、いずれにせよ、子供のころから日曜日に教会に行って、こんな話を聞かされ、自分のおこづかいを献金することを促されていけば、親切心は知らず知らずのうちに身につくのかもしれない。
 施しは多くの宗教にもある行為だろうが、その意味合いが違うのは何故なのだろう。色々な問題が含まれていそうである。

[2001年10月]