国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究スタッフ便り ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!

研究スタッフ便り『ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!』

太田心平

第01回 どうしてニューヨークだったのか――自分のことを語りたおす

 長年つきあってきた韓国人のインフォーマント(調査研究に協力して、色々と話してくれる「語り相手」)たちを追って、はるばる米国のニューヨークまで来た。そんな私に会って、彼/彼女らは感動してくれる。「ここでシンペイに会えるなんて!」 韓国で慣れ親しんだ友人たちと、ここで再会できるということは、私にとっても嬉しいことだ。この一言は、韓国語の決まり文句のようなものだが、それでも聞くたびに私の心を温かくしてくれる。

 ところが、この後にしばしば続く質問攻めが、どうも私をゲンナリさせる。

「それで、どうしてニューヨークに来たの?」

 私がニューヨークに来た理由。これを理解してもらうためには、ちょっと長くて面倒な説明をしなければならない。韓国の現代社会や、学界の研究動向など、色々な事情と関わる問題だからだ。

私だからこそ驚かれる?

 かつて私は7年ちかくも韓国に住んでいた。そのほか、日本にいるあいだにも、短期や中期で頻繁に韓国へ出張してきた。合算すると、私の人生の10年ほどは、韓国にいたことになる。その間には、主として、韓国の知識人層の社会文化を調査研究してきた。特に、彼/彼女らが社会情勢をどう見て解釈し、その結果どのような動きをするのかという問題を、幅広く研究してきたつもりである。そして、その研究は韓国の知識人たちと一緒に、その暮らしにドップリと浸かってこそ、はじめて可能になるようなものだった。そんな私に韓国でつきあってくれていたのが、いま目の前にいる友人たちである。みんな、長年のつきあいで、私という人間や、その研究内容を、実によく知っている。だからこそ、「米国に来るなんてシンペイ(=韓国にドップリな人)らしくない」と思うようだ。

 そもそも私は、東アジアからあまり出たことがなかった。韓国には、回数でいっても、ゆうに130回は入国しているし、中国や台湾にも何度か行ったことがある。反面、私の人生で東アジアを出たのは、たった5回だけだった。大学の卒業旅行でやはり米国に来たときと、出張で4回ニューヨークの地を踏んだときだけである。

「どうしてニューヨークか」――この質問に答えるとき、私は順を追って話すことにしている。ニューヨークへ最初に来たのは、2010年の春だった。そのとき、旧知の韓国人Aに会った。Aは、その数年前、米国へ移民していた。彼は大興奮で迎えてくれたものである。「東アジアの「井の中のカワズ」、あのシンペイが、こんなに遠いところまで来るなんて!」

 そのときは1週間ほどの滞在だった。「他に用事があって、たまたま来たんですよ。でも、兄さんには絶対に会わなきゃと思ってね」などといいながら、何年間も会っていないAに会うのに自由時間をすべて使った。

絶望移民を研究する意義

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マンハッタンの韓国商店街「コリア・ウェイ」
(2010年4月撮影)

 このときAがしてくれた話は、たいへん興味ぶかかったし、学問上でも貴重なものだった。

 Aは自分のことを「絶望移民」だといっていた。近年の韓国系移民のなかには、この「絶望移民」という人びとが多いと指摘されている。祖国の社会に愛着がもてなくて、外国に移民する人びとのことだ。

「絶望移民」は、これまで移民研究で定説とされていた二種類の移民動機のどちらにも該当しない。つまり、祖国では食べていけないからとか、移民先で成功したいからといって移民するという「経済移民」でも、祖国での迫害を逃れて国境を越えるというなどの「政治移民」でもない。移民研究の枠組みから外れた「絶望移民」という人びとに、私はたいへん興味をひかれた。この人びとは、なぜ祖国の社会に愛着がもてないのか、移民することによってどうなるのか、そして「絶望移民」といい習わされることをどう思っているのだろうか。そういった、まだあまり知られざる種類の移民と移民先の街で接し、当事者の心のうちに触れられた体験だった。

 これに加えて、もうひとつ、私が「絶望移民」の存在に心をひかれた理由がある。「絶望移民」の存在は、韓国研究という枠のなかで考えても、学問上で示唆するところが大きいのである。韓国人は、ナショナリズムや民族愛の強さが目に付く人びとで、研究者たちからもそう論じられてきた。それなのに、韓国に愛着をもてないという理由で、「絶望移民」になる人びとがこれほどいる。これは、既存の韓国研究の学問上の定説では、十分に説明できないことだ。よって、この地域の研究のプロとしては、「絶望移民」は無視してはいけない現象であり、いちど掘り下げてみる価値があるというわけである。

「他人が研究するのを待つのではなく、まず自分でやってみること」 初めてのニューヨーク滞在を終えた私は、自分の日記にこんな誓いを記していた。

海外コリアンとニューヨーク

 さて、私のインフォーマントのなかで「絶望移民」になった人は、けっしてAだけでない。カナダに移民した人、オーストラリアに移民した人、中国に生活の場を移した人もいる。だが、私のインフォーマントたちの移民先としてもっとも多いのが、ニューヨーク都市圏である。私がAに会った直後から、人びとは続々と移民し、さまざまな理由でニューヨーク周辺に集まりはじめた。先に移民したAを頼ってというのも、理由のひとつである。米国で韓国人移民が多い街として有名なのは、なんといってもロサンジェルスだが、近年に韓国系の増加率が高いのはニューヨークだといわれている。

 海外で暮らす韓国・朝鮮系の人びとはたいへん多く、しかも近年さらに急速に増加している。朝鮮半島以外で暮らしている韓国・朝鮮系の人びとは、全世界に750万人ほどいるとされる。これは、韓国の人口が約4,830万人であり、北朝鮮の人口が約2,390万人だということを考えるならば、たいへんな数である。人口の10分の1が海外にいる計算となる。しかも、近年の韓国では、人口の海外流出が、これまでの何倍にも加速しているとされている。よって、韓国・朝鮮の地域研究は、ますます韓国国内だけでは完結しなくなっていっている。私が韓国で付き合っていたインフォーマントたちは、まさにこの点を体現している。次々に移民していくのである。こうなると、私の仕事も韓国という地理的な枠組みを飛び出さざるをえない。

 私が2度目にニューヨークを訪れたのは、同じ2010年の秋だった。同じく1週間ほどの滞在だったが、このときには、調査できる対象がA以外にも3人いた。3度目は、少し間があいて、2012年の1月。やはり約1週間の滞在だったが、私のインフォーマントのうちニューヨーク在住の人は、すでに7家族にまで増えていた。こうなると、たった1週間の滞在では、全員に会うことすらままならない。ましてや、彼/彼女らの新しい暮らしをじっくりと観察したり、深い話まで聞き出したり、旧知の人びと以外からも話を聞いて歩いたりする時間など、とうてい。目の前にじっくり話を聞きたい人たちがいるのに、調査研究の手が出せなかった。たいへん残念な思いをした。

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アメリカ自然史博物館(通用口側) (2012年3月撮影)

 私が専門とする文化人類学の調査研究には、特徴的な性質がある。我われは、出会った人をいきなり調査したりなどしない。文化人類学の調査研究には、まず、調査者と調査対象者がおしゃべりして、仲良くなり、信頼関係を築くことが大切である。その過程で、調査対象者は調査者に心を開いてくれるようになるし、調査者も調査対象者が話してくれることの深い意味あいが分かってくるものである。しかも、実質的な調査をはじめるにあたっても、「これから30分インタビューをします。では、はじめます」というような、不自然な形で調査をするのではない。インフォーマントと日常をともにし、雑談し、観察することをとおして、ゆっくり自然に調査を進める。だから、私もニューヨークに移民した韓国・朝鮮系の人びとを調査するならば、まとまった時間が必要なのである。

 どうにかしてニューヨークに長くいることは出来ないか。そう思っていたころ、チャンスは突然おとずれた。マンハッタンのアッパー・ウェストサイドにあるアメリカ自然史博物館の人類学部門の研究者に、私が考えている調査研究の学問的意義や社会的価値を熱く語ったところ、「それは大切な研究です。是非やりなさい」と、私を任期3年の研究員に任命してくれたのである。これを受け、私の勤務先である国立民族学博物館と関係が深い総合研究大学院大学が、私の調査研究経費を負担してくれることとなった。国立民族学博物館もこの調査研究に理解を示してくれ、私の米国行きを長期の出張という形で許可してくれた。これらを前提条件として、アメリカ総領事館が1年間のJ-1ビザ(交換訪問者ビザ)を発給してくれた。

 こうやって細かく自分の仕事のことを話して、やっとインフォーマントたちは疑問を解いてくれる。「どうして君がここに来たのか、なんとなくは、わかったような気がする」 Aもいう。この一言を私が彼から聞いたのは、実は二度目である。10年以上も前、韓国でも同じことばを聞いた。「なんとなくは」というのはAの口癖だが、いかにも物事に慎重な彼らしい。そして、今回はこの後に心強い一言が続いた。「君が韓国に何をしに来たのか、本当の意味でわかったのは、君が俺たちについて書いてくれた論文を読ませてもらったときだった。今回だって、きっとそういうものなんだろう? また楽しみにしているよ」

 こうして私はニューヨークでの暮らしをスタートさせた。見慣れぬマンハッタンの人ごみのなかで。だが、懐かしい韓国人たちに囲まれて。