国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究スタッフ便り ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!

研究スタッフ便り『ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!』

太田心平

第03回 ニューヨーカーはおしゃべり好き?(2)――触れあいについて語りたおす

(前回からの続きです)

 ニューヨーカーは、他人どうしでも街角で気さくにおしゃべりを楽しむということについて。前回は、こうしたおしゃべりについて、北東アジア系ニューヨーカーたちがどうみているのかをお話しした。素敵な習慣だと思う人が多い半面で、馴染めないという人たちもいた。

 今回は、その続編として、おしゃべり以外の他人どうしの触れあいを取り上げてみよう。

それでも素敵な触れあい体験(1)

 後日、Bと話していたときのこと。またニューヨーカーのおしゃべり気質の話が出たので、私はDやEのような人たちの話をしてみた。見知らぬ人とおしゃべりするのを、必ずしも快く思わない人だっているみたいだ、と。すでに紹介したとおり、彼は街角のおしゃべりを積極的に評価する人だ。だが、そんな彼でも「それも正しい」という。彼だって、「面倒だから避けたいときもある」し、「変なことをいってしまって、失敗したなと反省することもある」のだそうだ。また、「変な人につかまってしまった」と当惑することだってある。Bは、馴染める/馴染めない以前に、おしゃべりは無条件で歓迎できるものではないと結論づけた。私も納得した。

 さて、この話をBと一緒に公園のベンチでしていたところ、横の席に座っていた白人の女の子に目がいった。手にもった携帯電話のカメラで、自分自身の写真を撮っている。撮っても、撮っても、うまくいかないようだ。Bは我われ二人の話の流れを遮って、いたずらっぽく笑っていった。「でもね。こういうときは大丈夫。話しかけなきゃ!」 そして、その女の子の方に向きなおって、ことばをかけた。「私が撮ってあげましょうか?」 撮れた写真に女の子は大満足。そんな彼女をみて、Bも嬉しそうだった。

 「ニューヨークには、おしゃべり以外にも、人と人とのこんな交流もあると思う」 私がいった。「そうだね」 彼は微笑んで、ある出来事について話してくれた。

 急に雨が降ってきた夕方の大通りを、Bは傘をさして歩いていた。すると、前方にある古本屋から、大きな紙袋をもった女性が出てきた。Bの前を歩く女性には傘がない。少し歩いたところで、とつぜん事件が起きた。女性の紙袋が濡れて破れ、入っていた何冊もの本が、次々と水たまりに落ちはじめたのである。驚いて破れかけの紙袋を両手で胸に抱え、少しずつ落ちていく本をなんとか食い止めながら、途方にくれる彼女。

 このときだった。横を歩いていた人が、落ちた本を即座に拾いはじめた。女性は「サンキュー」をくり返したが、両手がふさがっていて、本を受け取れない。すると、別の通行人がやってきて、濡れた本を自分のハンカチで拭いてあげた。Bも駆け寄り、その人びとに傘を手向けた。さらに後ろからやってきた通行人が、自分のカバンのなかをガサガサ手さぐりし、ビニールの買い物袋を何枚も取り出した。助けにはいった人たちは誰も何もいわなかったが、これも人と人との触れあいだ。こうして、その女性はハプニングを脱することが出来た。

 「素敵な交流は、おしゃべりだけじゃないよね」 Bは笑った。「そういえば、たまに僕にもこんなことがあるんですよ」 次は私の番だ。

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誰かがガラス窓をノックする気配(2012年6月撮影)

 私は、夕方にひとりカフェに行くことが多い。その日にした調査研究の内容を、調査ノートに記しておくためだ。こういうとき、私はほとんどの場合に窓際に席を陣取る。歩道を行き交う人びとをみるのが好きだからだ。着かざってディナーに向かう人びと、友だちどうしで夕方の散歩を楽しむ人びと、家族連れに観光客……。ひとりで難しい顔をして調査ノートを書いている最中も、マンハッタンの人ごみが目の前を行き来する。

 すると、ふと憂鬱を感じることがある。いま私が研究対象にしているのは、「絶望」という感情についてなので(第01回参照)、その日その日の調査ノートには調査対象者たちが語った「絶望」を主に記録する。これはけっして楽しい気持ちで出来る作業でない。調査対象者たちの気持ちを推し量るにつれ、彼/彼女らの語りに飲まれてしまい、こちらまでメランコリックになることがある。しかも、目の前を行き交う人びととは違い、自分はひとりで仕事中だ。ノートに向かう私と、オフを謳歌する人びととのあいだには、ガラス窓のほかにも、なにか大きな隔たりを感じてしまう。こうして、都市の孤独にひたるとき、憂鬱は頂点に達する。

 コンコン! いきなりノックの音がした。調査ノートからガラス窓へ目線を移すと、外に中年の男性がひとり立っていた。彼は、ニコッと笑顔をみせ、なにかをつぶやいている。「がんばれ!」とエールを送ってくれているようだ。それでも私が首をかしげると、彼は片手の人差し指と中指をクロスさせて十字架を作った。「幸運を祈る」というサインだ。私の顔がほころび、眉間の皺が解けた。それを確認したあと、男性は2~3度うなずいて立ち去った。

 「そういうこと、あるよね」 「だから、交流は、ことばだけじゃないんですよね」Bと私は、手にもったコーヒーの紙コップで乾杯した。

それでも素敵な触れあい体験(2)

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地下鉄のミュージシャン(2012年6月撮影)

 こうした話題について書くとき、私には、日本のみなさんにぜひ伝えたい出来事がある。前回も御紹介した岡田光世さんのエッセイ、「ニューヨークの魔法」シリーズ(※)のなかでも何度か描かれていることなのだが、街でことばを交わす人たちは、東日本大震災を悼んで、日本人である我われに温かいことばを贈ってくれることがあるのだ。

 4度目の出張に来ていた2012年2月のある日、私は地下鉄に乗ろうと、階段を降りていた。すると、とても力強く、伸びやかで、それでいて温かい歌声が聞こえてきた。誰かがプラットホームで歌っている。それに引き寄せられるように、私の足取りは軽くなった。

 ニューヨークの地下鉄では、交通局のオーディションに合格したミュージシャンたちが、駅の要所要所でストリート・ライブを開いている。その他にも、無許可で頑張る人、列車のなかでとつぜん楽器や舞踊を披露する人などがいて、地下鉄はエンターテイメントの場でもある。

 私は、その歌声の主であるアフリカ系女性の前に立ち止まった。周囲には、すでに20人ほどの人だかりが出来ていて、彼女が歌う1980年代のポップスに聴き入っていた。みんなで目を細めている。その光景は、彼女の歌の魅力とも相まって、とても良い雰囲気だった。一曲歌い終わり、水を飲んでいる彼女に、私は近寄った。「すみません。歌っているところのあなたの写真を撮ってもいいですか?」 「いいけど、あなた旅行者?」 「いいえ、僕、日本語でエッセイを書いているんです。この雰囲気が素敵なので、いつか文章に書きたいなと思って」

 すると、彼女の表情がガラッと変わった。「日本? あなた、日本人なの!? 地震の時は、どこにいたの? 大丈夫だったの? 御家族やお友だちは?」 最近では心もち少なくなってきたが、日本人だというと、こう聞かれることは多い。このときも、彼女はたいへん心配気に尋ねてくれた。「気遣ってくださって、ありがとう」 状況からして長々と語るのもはばかられたので、私は精一杯の笑顔で答えた。すると、である。彼女はムクっと立ち上がって、よく通る声で通行人たちに語りかけた。「みなさん、日本の惨事のことは御存知ですよね? 次の歌は、日本の人びとのために歌います」

 彼女が歌ったのは、歌手ホイットニー・ヒューストンの名曲「I Will Always Love You」だった。ちょうどその数日前に急死したヒューストンを想う気持ちもあってのことだろう。さらに多くの人びとが足を止めた。この曲は、ほんらい、愛する恋人との離れ離れになる人の心境を歌った内容だと思う。だが、「それでも私はあなたを愛しつづけます」という歌詞が、東北の人びとへ捧げられたメッセージのように聞こえてくるから不思議だ。「観客」たちは次々に歩み出て、彼女の足元に置かれた箱に1ドル札を投げ込もうとした。

 その時である。彼女は急に歌を中断し、私を指さして叫んだ。「彼に渡して!」 何がはじまったのか分からぬまま、私は両手にドル札を受け取っていった。あっという間に30ドル近くものお金が集まった。私に渡すのだからと、金額を増やした人もいた。歌い終わった彼女は、歩み寄って来て、前かがみになりながらいった。「私に代わって、それを日本の人たちに寄付して。そうしてくれるわよね?」

 思い返すたびに鳥肌がたつほど、たいへん感動した体験だった。この時に預かったお金は、私からの分をいくらか足して、すぐに日本を代表的する某認可法人へ、東日本大震災に関わる義援金として寄付させてもらった。(お読みになれば分かるとおり、この結果、私は撮りたかった彼女の写真を撮り逃してしまったのだが……。)

 このほか、書きはじめたらキリがない。ある日にカフェで出会い、話していた女性から、「私は忘れないわ、あなたの国の災害も、私の国の災害も」といわれたこともあった。「え? どこの方ですか?」と尋ねたら、「ハイチよ」といわれた。東日本大震災の前年に、国民の3%以上が死亡し、30%以上の人びとが被災したといわれるハイチ。そこから来た人が、それでも日本のことを想ってくれる。このことにも、深い感動をおぼえた。

 私には、これをニューヨーカーの気質だと断言するつもりも、礼賛するつもりもない。ただ、ニューヨークには、見知らぬ者どうしのあいだでも、こうした交流が確かにある。おしゃべりに積極的でない人にも、シャイな北東アジア人たちにも、片言の英語でも、触れあいの感動は待っている。そして、そのことが、北東アジア系ニューヨーカーにとって、ここに暮らすということのひとつの特徴だと認識されているのだ。

 見知らぬ人に対してまで気さくになれない昨今の北東アジア人も、私は「悪い」といわない。社交性も、積極性も、英語力も、人それぞれでいいと思う。ただ、別の生き方もあるということを、私も、私のインフォーマントたちも、この街で習った。自分の思いを伝えたいという気持ちが、一歩の踏み出しにつながるか、いなか。それだけの問題だし、踏み出してみたら、人生にはまた別の楽しみが待っているように思えるのだった。

 さて……。他方で、ニューヨークに暮らす北東アジア系の人びとは、ある意味でこれと矛盾したこともよく語る。「ニューヨーカーは冷たい」 このお話は、次回にさせていただこう。


ここで「ニューヨークの魔法」シリーズと呼ばせていただいているのは、具体的には以下の四作品のことです。『ニューヨークのとけない魔法』、『ニューヨークの魔法は続く』、『ニューヨークの魔法のことば』、『ニューヨークの魔法のさんぽ』(いずれも文春文庫)。