国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

毛沢東観光

毛沢東観光

 

中国の毛沢東ブームは、彼が亡くなって、10年も経った1980年代の後半からはじまった。彼の肖像がふたたびおおくの家庭、とくに農民の家に飾られ、豊穣祈願・幸運祈願の神さまとして崇拝されるようになっている。また、バスやタクシーの中にまで安全運転のお守りとして飾られるようになっている。毛沢東時代の郵便切手、毛沢東バッジ、ポスター、『毛沢東選集』なども骨董品屋の人気商品となって、各地で売られている。


毛沢東ブームを生みだした背景の一つは中央政府による毛沢東の再評価にある。1981年の共産党の第11期中央委員会第六回全体会議において、毛沢東の建国以来の政策について、業績として評価すべき成果は七割で、誤りは三割という評価がなされた。そこでは、毛沢東が仕掛けた文化大革命は否定されたが、偉大な指導者としての地位と共産党政権にたいする毛沢東思想の有効性が再確認された。


また、1980年代なかばに入ると、価格改革の失敗にともなうインフレと党幹部の腐敗が民衆のあいだで憤慨をまねいた。これが1989年の天安門事件の発端となり、毛沢東時代へのノスタルジアを引き起こしたということも一因にあげられる。


毛沢東の人気の上昇は、毛沢東の生家である湖南省韶山の観光化にも反映されている。1991年から毎年、中国の各地から100万人を超える観光客がここを訪れている。


観光客はさまざまな階層・年齢の人びとからなり、訪れる目的もそれぞれに異なっている。知識人にとっては毛沢東は見習うべき手本、あるいは研究の対象であり、韶山にくることは、毛沢東思想の原点をさぐる旅であるといえる。周辺の都市住民にとっては、山紫水明の韶山は疲れた心身の癒しの場所となる。また、中学校や高校の学生、共産党員にとっては、韶山旅行は愛国主義と共産主義の洗礼を受ける旅である。40代以上の観光客にとっては、毛沢東時代のノスタルジアを体験し、アイデンティティをたしかめる旅となる。中国の人口の七割を占めている農民にとっては、毛沢東は幸運をもたらしてくれる神であり、韶山旅行は巡礼の旅となる。


毎年、毛沢東の誕生日と旧暦のお正月になると、農民たちが集まってきて自分たちの祖先や神をまつるように、韶山村の中央広場にある毛沢東の銅像の前に線香をたて、お供えする。そして爆竹を鳴らし、一家の安全と幸せを祈る。このような毛沢東の神格化は、湖南省にかぎらず、陜西省、福建省、江西省などの農村にもみられる。民衆にとっては毛は政治的象徴というより、関羽など歴史上の英雄と同様、すでに民間信仰のなかの神となっている。故人を神化するのは中国民衆の伝統的記憶の方法である。政治的象徴から民間信仰の対象への転換は、時間と空間を超越する毛沢東の永遠性と無限性を意味してる。


毛沢東のブームはしばらく続くとおもわれる。彼がいまだに政府官僚はもとより、農民、労働者、知識人などあらゆる層の人びとに記憶されているということは、彼の思想と彼の指導した革命がさまざまな形で人びとに影響をおよぼしたことを意味する。現在の毛沢東ブームと毛沢東カルト現象は、彼の思想とその実践によるパワーのあらわれといえる。

韶山にある毛沢東の実家 韶山にある毛沢東の実家
毛沢東は1893年12月26日裕福な農家の長男としてこの建物の中で生まれた。

 

韶山村の中央広場にある毛沢東銅像 韶山村の中央広場にある毛沢東銅像
1993年毛沢東誕生100周年記念のため、南京にある鋳造工場が寄贈されたものである。

 

18世紀に建てられた毛氏一族の祖廟 18世紀に建てられた毛氏一族の祖廟
毛氏一族の家系図、先祖代々の位牌、家訓も展示されている。

 

韶山にある文革時代の毛沢東バッジの展示コーナー 韶山にある文革時代の毛沢東バッジの展示コーナー

 

農家訪問中の毛沢東 農家訪問中の毛沢東
1959年、毛沢東が故郷の韶山に帰って、ある農家を訪れたときに撮った写真である。写真の左側に立って子供を抱いている女性、湯さんは、現在「毛家飯店」というレストランのオーナーとなっている。

 

毛家飯店の前の湯さん 毛家飯店の前の湯さん
彼女は、韶山の村人の中で初めて毛の名前をレストランの名前に使い、毛沢東の商品化を試みた人である。彼女は日常的に食べていた田舎料理を整理し、田舎料理の辛さと味の濃さを生かして、毛沢東の気に入ったメニューも入れて、韶山料理のブランドを開発した。現在、毛家飯店は、韶山以外に、北京、瀋陽などのところで27のチェーン店をもっている。