国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|平井京之介

アジアにおける都市の経験

 
1.都市とはなにか

いま、アジアでは急激に都市化が進んでいると言われる。都市化あるいは都市的なものとはいったいなんだろうか。都市という空間で何が起きているのだろうか。


北タイの伝統的な家屋
北タイの伝統的な家屋

一般に都市化といわれる現象は2つの位相によって説明される。ひとつは農村から都市への人口移動であり、いわゆるマイグレーションと呼ばれる現象である。


もうひとつの位相は、周辺地域への都市の拡張あるいは農村の文化変容である。アジアの大都市では、資本活動の郊外化あるいは都市の空間的拡大がとくに顕著である。また、人の流れと逆行するようにして、大量の商品、サービス、情報が都市からその外部へと流れ、これと前後して、都市的なライフスタイルが周辺地域へと拡散していく。


経済的な意味において都市とは、生産、流通、消費といった資本主義活動の結節点である。これはまた都市が近代を体現する最も先進的な場所であることを意味している。言い換えると、都市的なものとは近代的なものであり、これが農村社会の伝統的な生活様式に揺さぶりをかけ、社会全体を変容へと向かわせていく。こうした過程は確かにアジア都市周辺部のいたるところに認められるが、これだけでは政治経済的過程を概観しただけであり、この過程が含む、人々のより微細な経験は視野に入ってこない。


出稼ぎで建てた都市的なスタイルの家屋
出稼ぎで建てた都市的なスタイルの家屋

これまでの都市研究の多くは、俯瞰的にアジアの都市を眺め、統計的データを用いて「貧困問題」や「環境問題」を指数化し、そこに生活する人間の生を規制、経営、管理するシステムを提案してきた。いわば制度に議論を集中させ、都市的なるものがそこで生活する人々にとって有する意味を正面から論じてこなかったのである。

わたしは都市住民により近い位置をとり、政策者の視点からこぼれ落ちてしまう人々の生を丹念に掘り起こすことを試みている。人々が都市において欲望をかき立てられ、現実とのギャップに悩み、何とか折り合いをつけていく、そうした過程を分析することによって、都市の意味を問い直してみようと思う。彼らの望みや悩み、自慢話をゆっくりと聞いてみたい。

 
2.都市の経験
職場仲間が集まってワイワイガヤガヤ
職場仲間が集まってワイワイガヤガヤ

農村から出てきた人びとが都市で最初に当惑するのは、新たなライフスタイルを教え込もうとする近代的制度であろう。もちろん伝統的な農村社会にも慣習的な制度は存在するが、都市にはより無慈悲で冷酷かつ合理的な権力装置が張りめぐらされている。ここでものごとは法律、規則、技術、手順にそって配列される。配列からはみ出すものは逸脱と見なされ、排除されるか、あるいは標準的なタイプに適合するように矯正される。都市計画や保健衛生は上から強制的に人びとを分類し、一定の枠組みのなかに押しこめようとする。学校、工場、軍隊などは多様な関心をもつ人びとを管理し、現代資本制社会に役立つ従順な人間へと教育する。都市の制度は豊かで多彩な生をあらかじめ決められた水路へと流し込もうとするのだ。


他方、農村共同体の外部として存立する都市は、人々が伝統的な抑圧システムから解放される場として見ることもできる。農村共同体という閉鎖的かつ緊密な社会関係のもとで、人々の行動は広範囲にわたって制限されてきた。都市においては各人に集団への参加、不参加についてある程度の選択権が与えられ、部分的、一時的、取り替え可能な関係をもてるようになる。都市のヨソヨソしさというのはこの意味で人々に行動の自由を保障しており、自分で生き方を選び取ることを可能にするのだ。こうなれば、農村共同体を外部から新しい目で眺めることができるようになり、伝統的な抑圧にたいする不満や疑念を強く感じるようにもなっていく。


このように、都市の経験とは近代的な権力装置から受ける抑圧だけでなく、伝統的な地位やその役割からの解放でもある。都市化とはたんなる合理化あるいは疎外の進行ではない。都市とは、人びとが外部から流入するさまざまな表象や象徴、メディアを利用して、ライフスタイルを構築する空間でもあるのだ。

 
3.「近代性」の言説
タイの美人コンテスト
タイの美人コンテスト

こうした都市の経験を考える手がかりとして、わたしは「近代性」の言説に注目する。「近代性」の言説とは、なにが近代性であるか、どんなモノ、活動、雰囲気が近代的なものであるかを定義し、それらを実践しようとする人びとの相互行為である。「近代化」の意味を産業化や資本主義化、官僚主義化、個人主義化、世俗化といったあいまいな抽象的概念のどれかに還元してしまうのではなく、特定の地域あるいは場面に出現する「近代性」の意味を考えるとともに、そうした「近代性」と社会変容との関係、あるいは人々のアイデンティティとの関係を探求していきたい。「近代性」が現れる形態やその性質は前もって決定されているわけではなく多様であり、それぞれの「近代性」は歴史的変化をとげていくものの、世界規模の画一化が起こっているわけではない。


山車に乗ったミスコン入賞者
山車に乗ったミスコン入賞者

わたしがこれまで調査を続けてきた北タイの女性工場労働者のあいだには、「タン・サマイ」という概念をめぐる言説が生まれている。「タン・サマイ」の逐語的意味は「時勢に遅れない」であり、これは「最新の」あるいは「モダンな」といった意味に相当する。彼女たちが「タン・サマイ」と形容するものには、都会風の洗練された服や化粧品などの消費財とともに、それらの消費過程や都市の大型デパートでのショッピング、人気のパブでの飲酒などが含まれる。彼女たちは生活環境の変化のなかで近代的な生活のイメージを強く意識するようになり、自己イメージや理想的な社会関係について語るときに「タン・サマイ」という概念を使用する。


タン・サマイ言説とは特定の人々によってつくられ、特定の活動と絡まりながら工場内で権力を生みだしていく言語的な活動である。どのような場面で、どのような概念や行為と絡まりながら「タン・サマイ」という概念が使用され、発展しているのか。工場においてタン・サマイという概念と絡み合うさまざまな権力関係とはどのようなものか。こうした問いに答えることによって、人びとの都市の経験について、よりいっそう理解を深めることができるにちがいない。

 
【参考文献】

2001年「北タイの女性工場労働者とタン・サマイ言説──「近代性」への民族誌的アプローチ──」『国立民族学博物館研究報告』26巻2号pp.237-257