国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|熊倉功夫

日本文化研究―喫茶文化を中心として―

 
1. 日本における伝統文化の形成と近代におけるその変容

研究者としてスタートして以来、一貫して今日に至っているのがお茶の研究です。喫茶文化の研究を歴史的に見るということを縦軸にして、伝統文化の形成と近代におけるその変容ということを研究してきました。


歴史をやっていますと、自分が専門に研究する時代というものが一方であります。その時代を輪切りにした時に、今度は文化だけでなく政治経済、思想とか芸術あるいは風俗、もちろん芸能文学を含めて研究する必要があります。それが私の場合には17世紀前半のいわゆる寛永文化が専門ジャンルになるわけです。17世紀前半の『寛永文化の研究』という本を一冊出しておりますし、『後水尾天皇』という丁度その時代に活躍した天皇の伝記を書いたりしています。


そういうところでは茶の湯だけではなく、その時代の文化全体を見ようとしています。しかしいつも私の軸は、茶の湯を含めた喫茶文化なのです。


近代になりますと、それがまたひとつの広がりを持ってきます。たとえば茶の湯を批判した側の研究、たとえば民芸論です。柳宗悦の民芸研究というのも、茶の湯を新しく改革しようとした運動としてとらえた時に、大変面白い問題を持っているわけです。ですから近代茶道史の研究というのは私の学位論文だったわけですけれども、その中から派生して展開してきたものの一つが、前述の民芸研究ということになります。


もう一つ私のテーマになっているのが料理文化です。これは茶の湯の中の懐石というものを料理文化の方へ展開していったもので、この(2002年)6月の下旬に『日本料理文化史』という本を出します。これは懐石を中心とした日本の料理文化史です。こうして茶の湯を軸とし歴史研究を広げてきました。

 
2. 喫茶習慣に関する比較文化的考察

従来の私の茶の湯研究というのは、まさに芸能的性格の強い茶の湯の研究が中心でした。今から30年くらい前から、茶の文化を、もう少し世界的な視野から植物学的研究に至るまで、生産・流通・消費という喫茶習慣全体をとらえるような研究会をつくろう、というさそいを松下智さんから受けました。そこで「茶の文化研究会」というものを昭和47年につくりました。そこには今までの茶の湯研究とはちょっと毛色の違った人々が集まってきました。たとえばその後『茶の世界史』という本を書いた、堺市博物館館長の角山 栄先生ですとか、10年程前に亡くなられましたが、民博の守屋 毅さんですとか、従来の茶の湯研究家ではない、お茶に興味を持ついろいろな人々がそこに集まりました。


その中から喫茶習慣というものをもう少し文明史的にとらえてはどうか、という問題意識が守屋さんあたりから提案され、茶の文化の総合的研究という共同研究を民博でやりました。その中から守屋さんの『お茶の来た道』というNHKブックスの名著が出たりしました。また守屋さんと一緒に韓国やインドのアッサム、ダージリンへ行ったり、また他のメンバーと一緒に中国に行ったりということで、いわば茶の文化の比較研究の方向へ私も足を踏み入れていくことになりました。これが「喫茶習慣に関する比較文化的考察」ということになります。


どちらかというと、これは現在という視点で各国の喫茶習慣というものを比較してみようということになります。これに関して私はあまり本とか論文は書いていませんが、ほぼ世界中を調査して歩いたということになります。特にイギリスとかモロッコ、トルコといったヨーロッパ・中近東・アフリカの喫茶文化なども調査してきました。これについては研究論文というよりも、埼玉県の入間市にあります郷土博物館(現在入間市博物館)のお茶の展示を監修したり、静岡県金谷町の『お茶の郷』という施設の茶の博物館の監修をするという形で、博物館の創設にそれを生かしてきたということが言えます。


このような民博ならではの喫茶習慣に関する比較文化的考察というのが私の民族学的な研究への展開ということになるわけです。

 
3. 欧米における日本生活文化資料に関する調査及び研究

これは私の今までの研究とは筋が違っていますが、1994年に当時ドイツ日本研究所の所長をしていましたヨーセフ・クライナー先生(現在ボン大学の教授)が民博へ見えまして、1996年がシーボルトの生誕200年になりますが、ついてはシーボルトの展覧会を民博でやりませんかという申し入れをされました。その時に民博側のパートナーとして私がご指名を受けました。クライナー先生と2年程準備をして1996年に、江戸東京博と民博と岡山の林原美術館の3つの館で『シーボルト父子の見た日本』という特別展を開催しました。オランダのライデンにありますシーボルトの資料と、ドイツミュンヘンに残されていますシーボルトの資料、オーストリアのウイーンに残されていましたシーボルトの息子の資料と、この3つの大きなコレクションの中から資料を選びまして、シーボルト父子の集めた日本の資料の代表的なものを里帰りさせたわけです。


この3箇所の資料の中には、日本にはもはや残されていない貴重なものがたくさん含まれていて、ヨーロッパには日本関係資料がまだ大量に眠っているということがよくわかりました。


従来も、海外の日本資料の研究は進んでいました。しかしそれは美術品の研究であって、特に絵画とか浮世絵とか、彫刻も含めてほぼ海外にどのような日本の美術があるかということはかなり美術史の研究者がくわしく研究していました。しかし民族資料のような雑雑たる生活資料は、美術的にはほとんど価値がないということで、目録すらつくられていないということが多かったのです。シーボルトの資料もそうなのですが、資料の美術的な価値のあるものについては日本に再三紹介されていました。しかしシーボルトコレクションの中には『凍て餅』(お餅を凍らせて乾燥させて保存食品にしているもの)があるわけですが、『凍て餅』なんていうのは誰も興味がない。だから今まで一度も日本に来たことがないが、逆に我々の側から見れば、当時の食文化を考える上ではとても面白い資料なわけです。そういう生活資料の調査をしてみると、各美術館・博物館あるいはもっと小さな個人コレクションも含めまして、ヨーロッパの人々が19世紀末、20世紀初頭ぐらいに日本に来て集めたものが非常にたくさんあるということがわかってきました。 これを全部調べるのは難しいとしても、気長に徐々に調査をしていきましょうということで、クライナー先生や民博の近藤雅樹教授と相談し発足させたのが、この『欧米における日本生活文化資料に関する調査及び研究』というテーマです。


手始めはシーボルト資料で、次にパリの人類学博物館収蔵のものを調査しました。次ぎにイタリアのベニスの東洋美術館の資料を調べ、その次にプラハのナプルステックという人類学博物館の資料を去年調査しました。そのパリとベニスの調査についてはすでに民博の研究報告の中に短いものですけど報告を載せております。このような調査を毎年少しずつ続けていこうとしています。これは終わりということがありませんので、どこまでできるかわかりませんが、ある程度手がかりを作っておけば、続けて研究していける人がいると思います。チェコのプラハの資料については近藤雅樹教授が去年から、海外にある日本の科学技術資料を調査する仕事の一環として行っておりますので、むしろ今度は近藤さんを中心に続けていくことになるのではないかと思っています。このような研究は、私のテーマから言うとだんだんと譲っていくべきものかもしれません。そのような訳で、私の日本文化研究は結局お茶ということが軸であって、そこからあまり出ていないというように思います。