国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|関雄二

クントゥル・ワシ村の社会開発

 
クントゥル・ワシ博物館、外観
クントゥル・ワシ博物館

研究というよりも開発の実践として携わっていることがある。私が所属する東京大学古代アンデス文明調査団は、1989年、偶然にもペルー北高地カハマルカ県のクントゥル・ワシ遺跡で黄金の副葬品を含む墓をいくつも発見してしまった。この遺跡がある村は貧しい。遺跡や遺物の発見をニュースとして、また学術発表の形で研究者や一般社会に公開することは当然だが、いつも抜け落ちてしまうのが、当のフィールドの人々である。出土品は、国や大都市が召し上げ、当のフィールドには何一つ残らないのが常である。

 
クントゥル・ワシ博物館、内部
クントゥル・ワシ博物館
クントゥル・ワシ博物館
クントゥル・ワシでミュージアムグッズとして小松製作所からTシャツを寄贈される
クントゥル・ワシ遺跡でサッカーの親善試合
クントゥル・ワシ遺跡でサッカーの親善試合
クントゥル・ワシ発掘現場での食事風景
クントゥル・ワシ発掘現場での食事風景

そこで、われわれは、村の住民との長期にわたって忍耐強い話し合いを行い、この過程で、現地に博物館を建設し、そこに出土遺物を展示することを決めた。日本における展覧会活動を通じて集められた協賛金、寄付金をもとに、1994年10月15日にクントゥル・ワシ博物館をオープンさせ、これを村人有志で構成されるNPO組織「クントゥル・ワシ文化協会」に寄贈している。博物館の内装は、二度にわたっていただいた外務省の草の根無償援助資金のおかげで完成することができた。


以来今日まで、顧問として、さまざまな問題の処理に手を差し伸べてきた。ミュージアム・グッズの寄贈、上下水道、電気の敷設などにも協力し、これに応える形で努力を続けてきた村人達の活動は、国連の社会開発計画によって「クントゥル・ワシ・ケース」として報告され、コロンビア政府が主催する文化保護と社会開発に係わるアンドレス・ベーリョ国際賞の佳作としても表彰された。


また周辺の市町村から住民に対して講演の以来が舞い込み、交代で演説を行う彼らに惜しみない拍手が送られたことも、これまで社会階層の底辺で虐げられ、無視されてきた彼らの心に自信を植え付けることになった。こうして、住民が遺跡保護に対する関心を高めることで、地域社会の成員としてのアイデンティティが高まり、同時に遺跡保護も可能になるという興味深い結果がもたらされたのであう。古代文化を語る村人たちの姿を見ると、「文化」を語る主体がもはや研究者や文化行政担当者だけではなくなってきていることに気づかされる。


ここまで順調に進むことは想像してはいなかった。当初、外務省関係者も、なぜ生活インフラを先に整備しないのかと疑問を投げかけてきた。われわれには一つのもくろみがあった。生活インフラならば、我々が手を出さなくとも可能であるし、実現後は住民が努力する必要も機会もない。いわば一方的に与える形の援助でしかない。しかし、博物館となると問題は別である。維持管理が大変難しいのである。しかも、貧弱な構造の博物館は作らず、村の規模に比して、立派すぎるほどの建物を作り上げたところに意味がある。


というのも、この計画には考古学的データの裏付けがあったのである(領域別研究活動:歴史・文化変容の項参照)。アンデス文明の形成期(前2500~紀元前後)にかけての社会では、経済的基盤が確立する以前から巨大な神殿が築かれ、この建築と更新活動を通じて、社会統合が実現されたことがわかっていたのである。クントゥル・ワシ博物館は、まさによみがえる神殿といってもよい。


2000年より、ユネスコの日本信託基金の援助を得て、遺跡の修復と保存にも乗りだし、観光資源として利用できるように村人らに協力している。これはいわば応用人類学的活動といえるが、法・政治の項で掲げた周辺住民の遺跡観という点でも重要なデータを提供するものである。